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陸:駿河再攻(下)〜今川の終焉〜

今回は第2次駿河侵攻の続き、駿府城を抑える辺りの話になります。(但し、戦は全くして居ませんが…)相変わらずの乱文ですが、読んで頂ければ幸いです。宜しく御願い致します。

 東海道の中央部に位置する駿河国は、南北朝の御世に今川範国が駿河・遠江2国の守護に補任されて以来、10代に渡って今川家が代々守護職を務めていた。

 その後、幾度かの戦乱に見舞われながらも、前代の義元の頃には最盛期を迎えたが、当の義元は桶狭間に於いて戦場の露と消えてしまった。

 その後は10代氏真が後を継ぎ、西側の三河・遠江を徳川家康に侵食されながらも辛うじて駿河で命脈を保って来た。

 だが、北側に隣接する甲斐・信濃の戦国大名である武田家が侵攻して来ると、東海の勇・駿河今川家は枯木が朽ち果てるが如く崩れ去ったのだ。


 その駿河今川家が実質的に滅亡した永禄12年(1569年)、駿河は正に周囲の3大名が覇を争う舞台になった。

 三河・遠江と旧今川領を侵し駿河をもうかがわんとする徳川家康。

 今川との同盟を大義名分に駿河東部の河東地方を収めて、更に西へ進出する北条氏康・氏政。

 そして一度は駿河から叩き出されながらも、再び駿河攻略に動いた武田家の陣代・武田勝頼である。

 更には今川旧臣や駿河の国衆が当主不在のまま挙兵、《二本引き両》そして《赤鳥》の旗を掲げて駿府今川館を占領した。

 この時期の駿河は、各勢力の支配地域がモザイク模様の如く錯綜していた。


 此の状況を打破するべく動き出したのは、陣代の勝頼が率いる武田家であった。

 駿河で次第に武田家の勢力が押されるのを防ぐべく、山県昌景率いる先遣隊を送った上で、11月28日に《第2次駿河遠征》を開始したのだ。

 12月6日には富士川西岸の北条方の要衝・蒲原城を攻略、城主の北条新三郎氏信とその実弟の箱根少将長順を降伏させて甲斐に連行、富士川西岸から北条の勢力を払拭した。

 そして次なる目標に定めるのは、今川旧臣達が未だに占拠を続ける駿府今川館であった。


 その勝頼率いる武田軍本陣は、蒲原城に馬場信春隊を残して、12月9日には駿府の動きを抑えている久能山城に入城した。また小荷駄隊を抱える内藤昌秀隊も江尻城に入城している。


 勝頼は久能山城を守り切った板垣信安・岡部貞綱・伊丹康直を賞すると共に、貞綱・康直に清水湊へ向かうべく命じ、言葉を続ける。

「貞綱と康直には、今川旧臣の中でも舟の扱いに長けた者共を集めて貰う。旧今川の海賊を再編して新たに《武田海賊衆》を立ち上げるのだ。そして、その最初の任務は武田の金堀衆を紀伊国へ運ぶ事と為る」

「な、何と…!」

 勝頼の2人は思わず絶句してしまった。いきなり紀伊へ航海するのは、技術上余りにも危険を伴うからだった。


 俗に言う《大航海時代》に入っていたヨーロッパ諸国に於いて、その進出を支えた物に《天測航法》(天文航法)がある。

 天文学の発達と、羅針盤や六分儀の発明、そして以前より正確な海図の作製によって、正に世界を股にかける航海を実現出来たのだ。

 しかし16世紀の日本には《天測航法》は未だに伝わっておらず、陸地沿いを岬や島、山等を目印に進んでいく《沿岸航法》(地文航法)を利用していた。

 しかも日本の海賊達にはそれぞれ縄張りが存在した。その縄張りに入った商船を安全に航行させる代わりに、通行税を徴収していた。また、他の海賊の縄張りに入る時には、通行証と水先案内人を借り受ける形で航海したのだ。

 それによって、複雑な地形や海流を持った所でも、座礁や沈没といったリスクを減少させてきたのだ。

 そんな当時の海賊にしてみれば、案内人も無しで見知らぬ海域を航海為るなど自殺行為だと言えた。

 そして、それは駿河湾と遠州灘を縄張りに持つ旧今川水軍も例外では無いのだ。


「御陣代様、御待ち下さりませ!我等《今川の海賊》は駿河湾を中心とした東海が縄張りで御座います。紀伊はおろか、伊勢に向かうのも難しゅう御座いまする」

 代表して康直が意見を述べた。その横で貞綱も頷いて続きを補足する。

「他者の縄張りに入る前には案内人を借り受ける必要が御座います。某の知己ちきで志摩の小浜に伊勢北畠氏の被官の小浜民部少輔(後の伊勢守景隆)殿が居るのですが、今は尾張織田氏の後盾を得た九鬼右馬允(嘉隆)殿と戦っております故に手を借りる事が出来ませぬ。案内人無しで見知らぬ海に漕ぎ出すのは、余りにも危険で御座いまする」

「成程、確かに厳しいであろうが心配は要らぬ。惣三、別室に居る伊勢からの使いの者を連れて参れ」

 2人から否定的に意見が出たが、勝頼は動じる事無く金丸惣三にある人物を呼びに行かせた。

 暫くすると、惣三に伴われて1人の武将が大広間に入って来たが、その者は2人が見知った男だったのだ。

「い、伊兵衛殿では御座らぬか!何故に此の駿河に居られるのじゃ?」

「おおっ、岡部殿!それに伊丹殿では御座らぬか!御二方が此の久能山城に既に入城して居るのならば、御二方は武田家に御仕え致されるのか?」

「ふむ、御互いに顔見知りならば話が早い。此の向井殿に紀伊迄の案内を果たして貰う予定じゃ」


 そう勝頼が紹介した武将は、伊勢国司・北畠家の船手大将である向井伊兵衛政勝(本姓は《向》・出自は伊賀向荘の出)。

 伊勢の度会郡わたらいぐん田丸城の近郊に本拠地を置く、《向井船手衆》を率いて北畠家を支えてきた。

 一時、今川義元の要請を受け入れた主君・北畠具教の指示で駿河に出向、今川海賊衆の指導を行っており、その時の縁で貞綱や康直とも面識が有ったのだ。

 しかしながら、此の時点で織田信長によって既に北伊勢は平定され、南伊勢の北畠領にまで圧力を掛けられていた。

 此の年(永禄12年・1569年)8月、信長は自称8万の軍勢を率いて南伊勢に侵攻、北畠家の本拠地・大河内城を一気に包囲した。

 10月4日、北畠具教・具房親子は2ヵ月の籠城の後に和議を結ぶ。その条件として信長は、具房の養嗣子として次男・茶筅丸(元服して具豊、後の信雄)を送り込んで来た。

 また、志摩では織田信長の後盾を得た九鬼嘉隆が攻勢を強めていた。

 その為に政勝は、織田家の影響力が段々と強くなる南伊勢や志摩を避けて、更に南側の紀伊尾鷲に向井船手衆の拠点を遷していた。

 今回、今川家当時の縁故を頼って、織田に圧迫されている北畠家及びその被官達の支援要請の為に清水湊に赴いていたのだ。


「向井殿には尾鷲を経由して紀伊雑賀の加太湊迄、此の2人を大将とする船団を案内して貰いたい。それと北畠中納言(具教)殿と侍従(具房)殿には、此の書状と御支援の為の荷駄(物資)を届けて頂きたい」

 そう言って、勝頼は既に用意していた北畠親子宛ての書状と支援物資の目録を政勝に手渡した。

「承知仕った。必ずや国司様に御渡し致しまする。岡部殿、伊丹殿、某が上乗り(水先案内)を務めるからには大船に乗ったつもりでおられよ!」

「うむ、向井殿が案内してくれれば心強い。宜しく御頼み申す」

 そう言って言葉を交わし合う3人に対して、勝頼は改めて指令を下した。

「良し、お主達3人は直ちに清水湊に於いて、紀伊への出航準備に入れ。紀伊へ戻る使者と共に、甲斐から金堀衆が到着次第、出航致すのだ」

『ははっ!』

 3名は答礼すると、早速自らの家臣達を引き連れて清水湊へと向かった。その後、金堀衆が到着して12月半ばに清水湊を出港し、尾鷲を経由して雑賀荘の北西端・加太湊へと向かう事になる。

 そして、畿内に派遣中の家臣・土屋長安からの使者として、蒲原から久能山城に移動していた加当段蔵と成田の藤兵衛も此の船団に同乗して、長安が待つ紀伊雑賀荘へと戻って行った。


 その翌朝、勝頼は山県昌景の案内で駿府北西郊外の賎機山しずはたやまに向かった。その麓に在る臨済寺で住持を務める鉄山宗鈍に面会する為である。


 大龍山臨済寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、今川義元の兄である氏輝の菩提寺である。

 その前身は、今川氏親が五男・梅岳承芳の為に建てた《善徳院》。その後、還俗して当主に就いた義元が兄・氏輝の法名を取って改名し、天文5年(1536年)に創建された。

 この時、住持として義元の教育係を務めていた太原崇孚(雪斎)が迎えられた。彼はその後弘治元年(1555年)に死去する迄、20年に渡って今川家の執政・軍師として辣腕を揮っている。

 現在の住持を務める鉄山宗鈍和尚は、甲府上条窪田氏の出身。太原崇孚の孫弟子にあたる人物で当年38歳。若くして印可状を授かった、将来の臨済宗を背負って立つ俊英である。

 現在、此の高僧に駿府・今川館に立て籠もりを続ける岡部正綱・岡部元綱ら今川旧臣の説得をして貰う為に、先月初めから昌景が寺院側と折衝を繰り返していた。

 しかしながら、和尚おしょうの身の安全を憂いた寺院側が難色を示し続けていたのだ。

 その為に、勝頼自身が臨済寺におもむき、鉄山宗鈍を直接説得する事にしたのだった。


 臨済寺の大書院に通された勝頼と昌景は、宗鈍に対して説得を続けていた。

「鉄山和尚、是非とも今川方の武士もののふ達に対して、我が武田家に降る様に薦めて頂けませぬか?」

「…つまりは、拙僧に武田側の陣僧の役目を果たして欲しい、と仰有るので御座るな?」

 勝頼の要請に対して、宗鈍が質問の形式で勝頼と武田家の意志を確認する。

「左様に御座いまする。岡部次郎右衛門尉(正綱)殿、岡部五郎兵衛尉(元綱)殿、共に一騎当千、誠に得難き逸材。そんな彼等を無為に虚しゅうしたくは無いので御座る。是非とも、和尚に彼等を説き伏せて頂きたい。此の通りで御座る」

 そう言って、勝頼は宗鈍に向けて頭を下げる。それを見た宗鈍は急に笑い始めた。

「アァッハッハッハァ!」

「て、鉄山和尚!何がそんなにおかしいので御座るか!」

 昌景が思わず問いただしたが、宗鈍は謝りつつも未だに笑いが収まらない様子だった。

「あぁ、此れは申し訳御座らぬ。しかしながら拙僧は今川の軍師だった太原雪斎様の孫弟子、言わばそちらから見たら敵方の者で御座る。そんな相手に簡単に頭を下げるとは、実に面白き御方ですな」

「昔ならば、驕りが邪魔を致して絶対に頭を下げ申さなんだ。されど有為の者達を死なさぬ為ならば、頭なぞ何時でも御下げ致しまする」

 そう言い切った勝頼に対して、宗鈍は改めて勝頼に正対する形に向きを変えて姿勢を正すと、勝頼に向けて深々と頭を下げた。

「武田左京様の御心底、確かにうけたまわりました。此の鉄山宗鈍、誠に微力では御座いますが岡部殿達の説得に御助力させて頂きまする」

 此の宗鈍の言葉で、勝頼と昌景は喜色を浮かべて礼を述べた。

「鉄山和尚、誠にかたじけない。何卒なにとぞ宜しく御願い致し申す」

 勝頼は、宗鈍に駿府の今川旧臣の説得を託して久能山城に帰っていった。


 鉄山宗鈍は、此の会見の翌日から2日間に渡って駿府・今川館に入り、岡部正綱・岡部元綱ら今川旧臣の説得を行った。

 宗鈍は彼等に対して《良将は得難く、万卒は得易し》(優秀な武将を獲得するのは兵士を揃えるより難しい)と言って今川旧臣の自尊心を掻き立てたのだ。


 2日目の深夜、今川館の書院に立て籠もりを続けている4人の武将が集まっていた。

「次郎右衛門(岡部正綱)殿、お主は如何に致されるつもりか?」

 正綱に対して口を開いたのは、大原肥前守資良。三河吉田城代や遠江宇津山城代を歴任し、昨年迄は駿河花沢城代を務めていた。激しい攻めを得意として《猛虎》と渾名あだなされていた。しかしながら反面残虐な性格であり、吉田城代時代には三河松平家からの人質を串刺し刑に処したりしている。

「我等には大まかに言えば、籠城を続けて今川に殉じるか、各々の家名を絶やさぬ為に、何処かの大名に仕官致すかしかない。それが嫌なら浪人と為るより他は有るまい…」

 そうすると岡部元綱が正綱の言葉を継ぐ形で意見を意見を述べる。

「某自身としては、我等の此度の義挙で主家であった今川家への義理は既に果たした物と心得ておる」

「何を申すか!未だ御当主氏真公は、相模北条の後盾を得て駿河を回復せんと頑張って居られるのだぞ!」

 興奮した資良が元綱に食って掛かる勢いで怒鳴りつける。しかし、そこに冷水を浴せる様に冷静な声が響く。

「氏真公はもう駿河の土は踏めぬ。既に蒲原城が落ちてしもうた。相模と駿府は切り離されたのじゃ」

 そう言ったのは安部大蔵尉元真。駿河国安部谷の領主であり、昨年末の武田家の第一次駿河侵攻時に駿府で抵抗の後、息子の信勝と共に三河の徳川家康を頼って亡命した。今回の駿府籠城では徳川方の援軍を率いて参加していたが、裏で今川旧臣を調略していたのだ。

「今の北条には、武田家を駆逐して駿河を回復する余力は無い。精々河東地方が関の山だ。出来得るとしたらそれは徳川三州(三河守家康)殿のみ、と儂は考える」

「だから貴様は信長と手を組んだ三河の恩知らずの元に走ったのか!」

 元真の意見を聞いて資良は益々猛り狂う。しかし元真は冷静に己の意見を述べ続ける。

「そうだ。それに今川刑部(刑部大輔氏真)様、徳川三州殿、武田左京(勝頼)、そして北条相州(相模守氏康)…各国の国主の中でも徳川殿の力量は頭抜けておる。今川旧臣の明日を切り開くのはあの方しか居られん!」

「貴様ぁ!今川の御家を捨てて松平の犬となったか!ならば此の駿河から去ね!三河の片隅で尻尾を振っておれ!…岡部殿、お主等は如何致す気じゃ!」

 資良は徳川の傘下に入った元真を散々に罵倒して、返す刀で元綱と正綱に対して身の処し方を聞いて来た。

「儂は安部殿の様に徳川殿を信用しておらぬ。だからと言って我等は今回の義挙で主家への義理は果たした。取り敢えずは此所に残っている者達の身の振り方を見極める。次郎右衛門(正綱)殿は如何じゃ?」

「うむ、某も五郎兵衛(元綱)殿と同意見だ。誰に家名を預けるにせよ、呼び掛けに応じてくれた者達の行く末を見定め無ければならん…。肥前(資良)殿、お主が落ち延びて更に戦い続ける所存ならば、同様の考えの者達を引き連れて行って欲しい。大蔵(元真)殿も同様に徳川に与する者を逃がして、遠江に連れて行って貰いたいのだ」

 正綱からその様に言われた資良と元真は、多少冷静さを取り戻した。周囲の状況を考えると不承不承ながら了承するしか無かった。

「承知致した。徳川殿を頼りに致す者達は某が遠江迄連れて行こう。そうと決まれば寸刻が惜しい。此れにて御免仕る」

「…えぇぃ!致し方有るまい!儂等は息子の義鎮(三浦右衛門佐義鎮)が守っておる花沢城に移ろう!岡部殿、御互いに武運が有れば何処かの戦場で遭おう!」

 そう言い残し、資良と元真は其々(それぞれ)の同志達に声を掛ける為に書院を後にした。


 書院に2人だけ残った正綱と元綱は、何方どちらからとも無く立ち上がった。暫くして正綱が今回の挙兵について元綱に詫びを入れた。

「五郎兵衛殿、誠に済まなんだ。某が浅慮せんりょだった故にお主迄巻き込んでしまった。しかしながら、参加した者達を助命して貰うには某一人の首だけでは足りぬのだ…」

 そう言ってうなだれる正綱に、元綱は笑顔を覗かせた。その両眼には既に覚悟を決めた男の清々しさが宿っている。

「次郎右衛門殿、お主が気にする事では無い。儂は己の意志で義挙に参じたのだ。それに武田左京殿が我等を《良将》と褒めてくれたのだ。その二人が並んで死を賭して嘆願致さば、きっと兵達の助命の願いを叶えて下されよう」

「うむ、取り敢えずは左京殿の眼前で執成とりなしを嘆願致さねばな。しかし某の恐らく最後の戦を、五郎兵衛殿と共に戦えて良かった」

「応っ、儂こそ最後に此の様な華を持たせて貰って果報者だ。恩に着るぞ!」

 そう言って、勝頼の命令次第で部下達の為に腹を切る事を決めた2人は固い握手を交わし合った。そんなに2人を後3日で満月に為る《十二夜》の月が淡く照らしていた。


 鉄山宗鈍の交渉の結果、抗戦の意志が有る者は西方に離脱し、駿府・今川館は12月13日を以て開城される事に為った。

 勝頼は入城すると、先ず今川旧臣達の鉄砲・武具・鎧・弾薬・食糧等を没収して武田軍の管理下に置いた。

 同時に武田軍の将兵に対して、武装解除以外の乱暴狼藉を禁止すると共に、丸腰に為った今川旧臣の将兵を一ヶ所に集めた。

 その中には、自ら犠牲に為り他の参加者を助ける覚悟を固めた岡部正綱・岡部元綱も居た。

 そこに建物の中から真田幸綱や山県昌景等を連れた勝頼が姿を見せ、縁側に用意された床几に着座した。

 今川旧臣や地侍達は《武田の陣代》を名乗る信玄の小倅が如何なる人物か、と一斉に注視する。

 だが勝頼はそんな目線を歯牙にも掛けずに己の方針を語りかけ始めた。

 そして勝頼が宣言した内容は、その場に集められた今川旧臣や地侍達の予測から遥かにかけ離れたものだった。


「儂が武田勝頼だ。一昨年の今川方からの《塩留め》という形の宣戦布告を受けて戦を続けてきたが、此度駿府に入って駿河を併合致した。それに伴い、今川領だった駿河は今後武田家の領国に為る」

「拠って、お主達今川旧臣や駿河の地侍達も今日からは武田の領民である!今後一切武田家に叛旗を翻さぬと誓えば、今後の生活の足しに碁石金を支給の上で故郷に帰るのを認める!」

「また、武田家に仕官を望むならば、足軽又は徒士武者として再雇用する!もしも今川家の知行が有った者が家臣郎党ごと帰順致した場合、その人数に合わせて知行の安堵、又は武田の領国内に替地を支給致す!」


 勝頼や側近の重臣達にしてみれば、これらの内容は蒲原城の時とほぼ同様で、既に驚くに当たらない。

 しかしながら、言わば敗残兵として斬首等の処刑や人買い(奴隷商人)への引き渡し、良くても駿河からの追放位は覚悟していた今川旧臣や地侍達にしてみれば、勝頼の宣言は予想より遥かに慈悲深く感じたのだ。

 そして、そんな勝頼の宣言に対して最も感動したのは、死を賭して部下達の助命を嘆願をするつもりだった正綱と元綱だった。

 そんな2人を見つけて、勝頼は床几を立ち上がると、縁側から降りて2人に歩み寄った。

「岡部五郎兵衛尉元綱。岡部次郎右衛門尉正綱。旧主・今川刑部大輔(氏真)殿への忠義、誠に見事であった。しかし『良禽りょうきんは木をえらぶ』と言う。その見事な武勇を、儂と武田家の為に使う気は無いか?」

 勝頼にそう言われて、正綱と元綱は見事な所作で平伏した。

「我等をそこ迄評価して頂けるとは。古より『士は己を知る者の為に死す』と申しまする。ならば此よりは武田左京様の御下知に従わせて頂きまする」

「我等岡部一族、家臣郎党、全て武田左京様に采配を御預け致しまする」

 2人の宣言を聞いた勝頼は満足そうに頷く。実際、今川の良将を2人同時に手に入れた結果に十分満足していた。

 そして、2人が帰順した事は予想以上の効果を生んだ。此の光景を見た他の旧臣や地侍達が、

(岡部殿達があの様に言う位だ。我が家の家運も武田家に預けてみるか!)

と考え、今川館に残っていた者の多くが武田家に帰順したのだ。

 彼等は、昨年から既に帰順している者達と同様に《駿河先方衆》として武田軍の一翼を担っていく。

 更に、浪人や地侍の子弟の多くが郎党を持たない《徒士武者》として採用され、彼等は所領では無く扶持米ふちまいや甲州金が、年俸や月俸として給付された。

 実は単に《知行安堵》の者が多くて、新たに給付する土地が確保出来なかった故に、《堪忍分》を恒常的に支給する様にした、言わば苦肉の策であった。

 しかし皮肉な事に、後に此の制度が《武田家の軍制改革の第一歩》と評せられる事に為るのだ。


 勝頼率いる武田軍は駿府を占領後、直ちに西側の丸子城を開城させると共に、今川旧臣だった駿河の国衆・地侍に対して布令を発表した。

 その中で、彼等に対して年末迄の駿府への参集を命じた。

 参集に応じた者には知行を安堵するか替地を宛行あてがう事とした。勿論、参集を拒否したり遅滞して越年した場合は減封や所領没収を行う、と威圧する事も忘れていない。

 此の布告に拠って、駿河の国衆達は所領の大小に関わらず日和見が許されない状況に追い込まれた。


 駿府に赴いて武田家に従うか。

 未だに花沢城で今川家臣を名乗る大原資良の元に参じるか。

 大井川・天龍川を渡り徳川家康の下知を仰ぐか。

 富士川を越えて北条氏と共闘するか。

 若しくは所領を全て捨てて今川浪人として諸国を流浪するか…。

 勝頼は年末迄の半月余りの間に、駿河の国衆達にその選択を強いたのだ。


 駿府占領後、勝頼はそのまま旧今川館に腰を据えた。所領の宛行状の発布・駿河先方衆を加えた武田軍の再編・駿河の武田領国化等を、より陣頭で指揮する為である。

 また、蒲原城での戦後処理が完了した馬場信春・三枝昌貞や、江尻城から駿府に小荷駄を輸送した内藤昌秀・土屋昌続・甘利信康等も駿府で越年する事になった。

 彼等は年明けと同時に駿河の完全な平定を目指していくのだ…。


 武田勝頼による、蒲原城・駿府今川館の攻略という情報は、瞬く間に東国、そして畿内へと伝わっていく。

 或る者は取引中の商人達から、或る者は歩き巫女や白拍子から、そして大名達は派遣していた家臣や密偵・忍者から情報が伝わっていった。


 相模・小田原城。関東に覇を唱える北条氏の居城である。永禄4年(1561年)の上杉政虎(輝虎・後の謙信)に続き、此の年(永禄12年・1569年)10月には武田勝頼の軍勢を退け、東国有数の城の名を誇っていた。

 その小田原城の実質的な主で、家臣団から《御本城様》と尊称されていた北条相模守氏康は、嫡男で現当主の左京大夫氏政と共に、本丸の謁見の間に於いて或る老人と対面していた。


「御本城様、左京様、誠に申し訳御座らぬ!儂の愚息達のせいで、栄えある北条の歴史に泥を塗ってしまい申した!」

 そう言って、上座の氏康と氏政に対して、平蜘蛛の様に平伏して謝っている老人は、幻庵宗哲。北条家初代・伊勢宗瑞(北条早雲)の末子で箱根権現別当を務めている。家臣団最大の所領・動員数を持って本家を支える一方、北条一族随一の文化人でもある。因みにくらあぶみ等の馬具を造る名人としても名を知られていた。

 そして此の老人が、蒲原城で降伏に追い込まれて甲斐に連行された北条氏信・長順兄弟の父親にあたるのだ。


「全くですな。討死致さずに虜囚の身に落ちるとは。囚われる前に腹を召しておけば良かろうものを…」

 氏信達の実父を眼前にしながら、平気で薄情な発言を行う氏政を、氏康は歴戦の傷が付いている顔をしかめながらたしなめた。

「氏政、新三郎達にも止むに止まれぬ事情が有った故に致し方無い仕儀と為ったのであろう。あげつらうのは君子が致す事では無い」

「はぁ…。相済みませなんだ」

 如何にも不満そうな口調の氏政に、内心溜め息を吐きながらも氏康は幻庵に語りかけ始めた。

「叔父上、新三郎達は何時戻るか判らぬ故に、新たに小机衆の旗頭を立てねば為りませぬ。但し2人が戻った暁には新たに別家を立てて迎える所存で御座る」

「承知致しました。御本城様の御厚情、御礼申し上げまする」

 幻庵の発言に首肯した氏康は、代わりに小机衆を率いていく者に我が子を指名した。

「我が子、三郎を叔父上の婿養子に迎えて下さらぬか?三郎も来年で十七、そろそろ一人前の武将を目指さねばならぬ。是非とも叔父上に後見人に就いて頂きたい」

「おおっ、三郎殿は巷では三国一、いや東国一の美丈夫と噂されておりまするぞ!彼の人が婿に入って貰えるとは、正に誉れで御座る。後見人の件、是が非でも御引き受け致しまする」

「うむ、小机衆の再編の為にも婚儀は今年中に行おう。叔父上、何卒宜しく御頼み申す」


 こうして氏康の七男・三郎を婿養子に入れる事が決まり幻庵は退出して行った。

「氏政、此れから当主として北条家を率いていくならば、今少し心の機微が読めねば家臣から慕われぬぞ」

 2人だけになると氏康は氏政に対して苦言を呈した。

「判っておりまする。大体蒲原が落ちたのは、三増峠の戦の後にも上杉が信濃に討入ってでも武田の動きを封じてくれなんだからで御座る」

「…上杉霜台(弾正少弼輝虎)が動かなんだはお前が国増丸(氏政の息子・後の十郎氏房)と柿崎平三郎(柿崎景家の嫡男・後の左衛門大夫晴家)の相質(人質交換)を拒んだからだろうが」

「……」

「氏政、お主の妻や子に対する慈愛の心を、此れからは他の一門や家臣達にも向けねばならぬ。地位や血統を誇るのみでは人は付いては来ぬぞ」

 氏康は氏政の態度や心構えに対して、将来への不安を感じていた。

「御教示有り難う御座いまする。父上からの御指摘を肝に命じ、今後とも精進致しまする」

「ふぅ、そう有れば良いがな…」

 氏政のまるで教書通りの謝罪を聞いて、氏康は溜め息を吐きながらも、

(あの強敵信玄の隠遁という今の状況ならば氏政でも乗り切れよう)

と己に言い聞かせたしたのだった。


 遠江・曳馬城。今川家が遠江を支配下に置いていた頃には、飯尾氏の居城であった。

 しかしながら、永禄8年(1565年)に当時の城主・飯尾豊前守連竜が、今川氏に叛旗を翻して粛清されている。その後は未亡人のお田鶴の方と家臣達が曳馬城を守っていた。

 そして永禄11年(1568年)12月の武田信玄による第1次駿河遠征と示し合わせて徳川家康勢が遠江に侵攻、曳馬城も開城して徳川家の勢力下に入った。

 その後家康は、曳馬城を遠江進出の拠点として遠江の大部分をその勢力下に置く。

 しかし、現在の居城である三河岡崎城は三河・遠江2国を支配するには余りに西側に偏り過ぎていた。

 そこで来年中を目処に、新たな居城を此の曳馬城を内包する形で築城中であった。

 後に《浜松城》と名付けられる新城の築城現場を視察中の徳川三河守家康に駿河今川館へ派遣した安部大蔵尉元真が目通りに来ていた。

 元真は、徳川方に鞍替えする決断を下した今川旧臣や駿河国衆を引き連れて、駿府今川館から曳馬まで退いて来たのだ。


「誠に申し訳御座いませぬ。駿河を三河守様に献上致す事が出来ませなんだ」

「仕方有るまい。万事が全て上手く嵌る訳で有るまい。大蔵殿には引き続き今川旧臣達への調略を御頼み申す」

「はっ、承知致しました。必ずや此の失態の穴を埋めて御覧に入れまする」

 そう言って元真が退出して周りが譜代家臣のみになると、家康の口調は急に厳しい物に変化した。

「ふんっ、期待させた割りには存外に役に立たぬな。今川旧臣では所詮こんな物か」

 家康は今川館から退いて己を頼って亡命してきた今川旧臣と、彼等を連れ帰った元真を扱き下ろした。

「殿、致し方有りませぬ。しかし此れからは《徳川家臣》として一から鍛え直さねば為りませぬな」


 家康にそう相槌したのは、徳川譜代の家臣で新任の西三河衆筆頭の石川与七郎数正。

 家康(当時の松平元康)が今川の人質に為っていた時から、相伴衆筆頭として仕えていた。

 また、三河一向一揆の際、父親の康正は一向一揆に参加したが、数正は叔父の家成と共に家康の家臣として支え続けてきたのだ。

 そして此度、西三河衆筆頭だった家成の掛川城主就任に伴い、数正が新たに西三河衆筆頭に就く事に為ったのだ。


 家康と数正の主従は、簡単な会話の中で次々と方針を固めていく。正に駿府時代から培った間合いである。

「どうせ駿府から逃げ込んで来た連中は他に行き場所が無いだろう。役に立たぬ奴等に安堵や替地は無用だ。捨て扶持を与えておけば十分だ。役に立つと判った時点で初めて安堵致せ」

「御意で御座る」

「それと曳馬城の拡張を早く終わらせろ。完了次第、岡崎城を太郎(後の信康)に譲って居城をこちらに遷す」

「はっ、畏まりました。直ちにその様に指示を下して措きまする」

「それと秋葉山の辺りを荒らしておった武田勢は如何した?」

「はっ、武田方の秋山伯耆(虎繁)が手勢は駿府開城後は北上、信濃に戻っておりまする」

「左様か。後は兎も角、今は遠江を抑える事が先決だ。信濃との国境くにざかいの守りを厳重に致せば良かろう。それと暫くしたら一度岡崎城に戻る。信長殿に年始の言上を述べねば為らぬからな」

 家康がそう告げると、数正は了承しながらも顔をしかめて信長への不満を明らかにした。

「致し方無き事とはいえ、三河・遠江両国を統べる我が殿に対して、顎で使おうという失礼かつ尊大な態度、誠に口惜しゅう御座います」

「あれは信長殿の財力と権威を利用致す為の方便よ。それに徳川独力では今川や武田と織田を両方相手取る事は出来ぬ故な…」

 そう言っている家康の瞳には、天下を目指す者に相応ふさわしい覇気が宿っていた。


 上野・沼田城。関東の北辺に位置し越後から三国峠を越した所に在る此の城は、永禄3年(1560年)以来《越後上杉家の関東進出の拠点》として機能している。

 此の時期、上杉輝虎は越中の討伐から返す刀で関東遠征を敢行。年明けからの下野唐沢山城攻めの為に、11月20日から此の城に在城して関東諸将の集結を待っているのだ。


 その沼田城の本丸に於いて《越後の竜》上杉弾正少弼輝虎は、塩を舐めながら雪見酒を楽しんでいる。そこに1人の若武者が部屋に入って来た。

「実城様、御楽しみの処を申し訳有りませぬ。《軒猿》(上杉家の忍者集団)から報告が御座いました。武田左京(勝頼)が西駿河を平定致しました」


 此の若武者の名は上条(上杉)弥五郎政繁。元の名は畠山義春と言い、元々は能登の国主だった畠山左衛門佐義続の次男である。しかし長尾景虎(上杉輝虎)の姪を娶って、その養子として迎えられた。

 更に上杉家の支族である《上条上杉家》の名跡を継いで、現在は上杉一門衆として活躍していた。

 そして此の関東遠征にも手勢を率いて参加しているのだ。


「ふむ、弥五郎か…。信玄坊主が居らぬ武田家は未だ攻めぬ。息子の勝頼では相手に為るには力不足の上、未だに和議を破るが如き目立った不義を重ねておらぬ故な。ならば不義を極めた佐野昌綱が先だ」

「しかし武田家の後背を攻める様に、北条家の使者から武田領への出兵要請が御座いまするが…。それに代替りした今こそが、武田を滅ぼす好機だと心得まする」

 信玄が居ない武田家など敵では無い、と言わんばかりの輝虎の考えに、政繁は外交上の理由を掲げて翻意を促した。

「北条側からの人質が未だに用意出来て無い故、盟約は動いておらぬも同然だ。それに信玄無き武田家など正直な処、興を削がれた…」

 そう言って雪を見ながら嘆息した輝虎は、大杯を飲み干して政繁の方を向き直した。

「弥五郎、良く覚えておくのだ。この平三輝虎の戦は《関東管領としての責務》であり、《義》の為の戦である。確かにそれが越後の利益に繋がれば申し分無い。が、もしも《義》と《越後の利益》が背反致すなら儂は迷わずに《義》を取る…」

 輝虎のまるで己の信念を表現した様な言葉を、政繁や近習達は尊敬の眼差まなざしで仰ぎ見ている。

 そんな彼等を横目にしながら、輝虎は新たに大杯に注いだ酒を一気に飲み干すのだった。


 美濃・岐阜城。美濃井ノ口の町の側にそびえる金華山(稲葉山)の山域全体を利用して築かれ《井ノ口城》《金華山城》と呼ばれた山城は、かつては美濃の戦国大名・斎藤氏3代の居城であった。

 織田弾正忠信長が此の城の主となり、井ノ口の町の名を古代の名君・周の文王の故地である岐山に因んで《岐阜》と名付けられ、城名も岐阜城と改められたのは2年前(永禄10年・1567年)の事だ。


 此の城の主である織田信長は将軍・足利義昭に伊勢平定を報告した後、政治路線をめぐる確執からか、10月17日に突如京から帰国してしまったのだ。

 その後19日に岐阜城に戻った信長は、2ヵ月以上経った年末になっても岐阜に在城していた。


「弾正忠殿、公方様の御心痛を推し量って頂いて、年始の拝謁を期に京に上洛なさって頂きたい」

 金華山の山麓に建てられた4階建ての御殿《天主》の謁見の間で、信長は義昭からの使者から再び上洛する様に要求されていた。

「《伊勢攻め》の時に負った傷が未だに完治致しておらぬ。此の体調では未だに上洛は致しかねる。公方殿には宜しく御伝え下され」

 そう言うと、信長は上座から立ち上がって、一方的に使者との会見を打ち切ってしまった。

 信長はそのまま天主を出て、金華山をズンズンと登っていく。その様からは明らかに頑強で手傷1つ負って無いのが窺えた。


(ええぃ、忌々しい!義昭の馬鹿が折れたかと天主に降りてやれば、未だに己が立場をわきまえぬとはな!奴には一度煮え湯を飲ませて、己が《分》を判らせねば為らぬ!)

 金華山山頂に建てられ、此の城で最高の高さにあたる《御三階櫓》の3階に於いて、鬼の様な形相で無言のまま、酒杯になみなみと濁酒どぶろくを注いでは飲み干していた。

 近習や小姓達は櫓の1階で待機を命じられ、唯1人のみで瓢箪ひょうたんの中に用意してある濁酒を手酌で次々と飲み干していく。

 しかしその時、階下から此の階に人が登って来る音が響いてきた。

「誰じゃ!」

 鋭い推何の声にも全く臆する事無く、追加の濁酒を入れた瓢箪を近習に持たせて1人の女性が登って来た。

 その近習に瓢箪を交換して下に降りる様に指示を与える様子を信長が見ると、そこには己の苛烈な気性を最も理解している女性が立っていた。

「御屋形様、その様に荒れておっては御判断にも差障りが御座いましょう。なんでしたらわたくしが御酌しながら御拝聴致したく存じまする」

「帰蝶か…」


 帰蝶(濃姫とも言う)は美濃の戦国大名・斎藤道三利政のむすめで、天文17年(1548年)秋に14歳で織田吉法師(信長)の正妻として嫁してきた。

 その後父親の道三は息子義龍と戦って敗死、帰蝶は帰るべき実家を失った。

 しかも帰蝶には子供が出来なかった為に、信長は生駒氏(吉乃)を始めとする多くの妻妾を持つ事に為った。

 しかしながら、信長の帰蝶に対する信頼はいささかも揺るがず、今も岐阜城に居を構えていた。


「…京じゃ」

 信長は酌を受けながら一言だけ応答する。何事も相手に対して理解力を求める信長は、それで伝わるべきと思っているのだ。

「成程、公方様がくびきを逃れたがっているのですね。ならば公方様に逃れられぬ網を掛ければ良いのです」

 帰蝶は信長が言わんとする内容を理解している、と判った信長は無言で顎で指図して帰蝶に発言の続きを促した。

「年明けして暫くしたら軍勢を率いて上洛なさり、二条城(義昭の居城)に御入りになられる時はその軍勢で囲んでしまいます。その上で公方様との間で新たな御取決めを致せば良いかと…」

「で、在るか…」

 信長は将軍の御所を軍勢で包囲し脅迫する策を披露されて、

(普通の女ならば考えまい。流石は《蝮の道三》の愛娘よ)

と、感心してしまった。


 その後、帰蝶が話題を変えて武田家の駿府占領と駿河国衆に発布した出頭指示について信長に語り、こう続けた。

「御屋形様が為さろうとされた事、規模は違えど武田左京(勝頼)に先を越されましたな」

「で、在るか。恐らく父親の信玄坊主かその腹心辺りの入れ知恵だ。特に目新しい物では無い。それに規模が全く違うからな」

 信長は帰蝶の話にも動じる事も無くうそぶきながら、また杯の濁酒に口を付ける。

 実際信長は此の1ヵ月後、敵味方を区別する為に将軍の名を使って、畿内・北陸・中国の諸大名に上洛命令を発するのだ。

(朝倉だろうが、信玄坊主だろうが、そして公方だろうが、此の信長に逆らうならば…)

 信長は虚空を睨み付けながら杯を飲み干して一言だけ自信に満ちた声で言い放った。

「…滅ぼすのみよ!」

 信長は《天下布武》の歩みに絶対の自信を持っていた。そして誰も止められないと考えているのだ。

 

 永禄12年(1569年)の大晦日を、武田法性院信玄は甲斐山中ので過ごしていた。

 既に追儺の儀式も終わり、信玄付きの近習達が新年の準備を始めている。

 そんな中、温泉療養を始めて半年が経過した信玄も、日没後は温泉に隣接して建てられている宿舎の中で過ごしていた。

「ほう、勝頼は駿府を抑えたか。しかも岡部等を家臣に加えるとは中々やるではないか」

 信玄は躑躅ヶ崎館から情報を持って戻った《法性院様申次役》武藤喜兵衛昌幸から報告を受けていた。

 周りには昌幸の同僚の長坂五郎左衛門尉昌国・跡部大炊介勝資・跡部右衛門尉昌忠が共にその報告を聞いている。

「はっ、しかしながら敵に対して寛大過ぎる、と譜代家臣の中に不満を持つ者も居る様ですが…」

「別に勝頼のやり方で構わぬ。甲信の国衆だけでは天下に手を掛けれんからな。有能な家臣は多ければ多い程良い」

 信玄は用意された薬湯を飲みながら、4人の若い家臣に話し掛ける。

「儂は病を完全に治す迄、最低あと2年半は政には携わらぬつもりだ。その為にもお前達が儂からあらゆる物を学び取って、勝頼を支えて貰わねば為らぬ。此れからも精進致せ」

『ははっ!』

 4人同時に平伏するのを見ながら、信玄は心の中で未だに直接会った事の無い仮初かりそめの同盟相手・織田信長の事を考えていた。

(信長、待っておれよ。貴様は此の代替りで武田と組み敷易くなった、と侮っておろう。しかし儂等親子が必ずや貴様を天下から引摺り下ろしてくれる!)

 信玄は近い将来に起こるであろう武田家と織田家の戦いに思いを馳せ、新たな闘志を掻き立てるのだった。


 永禄13年(1570年)の年明けを数刻後に控えた、月が無く星々の輝きが雪里を照らす夜の事だった。


今回の後半に顔見せした北条・徳川・上杉・織田の各大名が、今後武田家の信玄・勝頼親子に障害として立ち塞がっていきます。(まぁ織田の力が圧倒的ですが)その為にも武田家は改革を進めていく予定です。次回は土屋藤十郎の話を進めていきます。宜しければまた読んで頂ければ幸いです。

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