伍:駿河再攻(上)〜蒲原の仁将〜
今回は富士川沿いの北条方の要衝《蒲原城》攻めです。史実では信玄がたった1日で城兵を全滅させます。しかし此の話の勝頼達は、敢えて敵味方の損失を減らすべく四苦八苦します。乱文ですが、呼んで頂ければ幸いです。
一年で一番寒さが厳しい季節とはいえ、東海道駿河国は黒潮(日本海流)に洗われているせいか、真冬でも甲斐や信濃の様に雪深くなる事も無い。
人馬を撫でる風には身を切る様な冷たさも無く、既に来秋の実りを約束しているかの様だ。
そんな駿河の中央部にあたる駿央地方と、東部の河東地方とを隔てる大河・富士川の西岸を通る往還《河内路》を南下する兵馬の一団があった。
武田家陣代・武田左京大夫勝頼率いる武田軍・駿河遠征軍の本隊である。
武田勝頼は永禄12年(1569年)11月28日、直属の馬廻や諏訪衆等の他、御親類衆・足軽大将等合計5千の本隊を率いて甲斐府中の躑躅ヶ崎館を出陣した。
また、今回の《第2次駿河遠征》には、勝頼が軍師・真田幸綱(一徳斎幸隆)と相談して作り上げた策を実行為るべく、勝頼本隊と別に4つの別動隊を編成された。
第1の別動隊は山県三郎兵衛尉昌景を主将として、板垣左京亮信安・岡部忠兵衛貞綱や旧今川家臣によって構成される約2千の軍勢。
彼等は既に10月22日には甲斐を出立しており、穴山左衛門大夫信君が守備していた興津横山城・富士大宮城・江尻城・清水湊・久能山城等への後詰を担当している。
第2の別動隊は秋山伯耆守虎繁を主将としている。寄騎の伊那衆を中心に、小笠原掃部大夫信嶺・下条伊豆守信氏等の南信濃の先方衆を加えた約2千の軍勢。
彼等は虎繁の居城がある伊那飯田と、遠江金指を結ぶ《遠州道》(伊那街道)を南下し、新野峠を越えて遠江北部に侵入した。遠江に進出著しく、駿河をも窺っている三河の徳川家康に対する牽制の役割を果たす事になる。
第3の別動隊は馬場美濃守信春を主将とする3千の軍勢。この軍勢には、芦田下野守信守・右衛門尉信蕃親子や相木市兵衛昌朝・室賀山城守信俊等の、北信濃・東信濃の先方衆が付けられた。
彼等は甲斐九一色から富士五湖の側を通って富士大宮に抜ける《中道往還》を通った後に、富士川を渡河して西岸側に展開する手筈となっている。
第4の別動隊は内藤修理亮昌秀を主将とする。小荷駄奉行兼筒衆頭(鉄砲隊長)の甘利郷左衛門尉信康や土屋右衛門尉昌続、駒井右京亮昌直、小宮山丹後守昌友等の譜代家老衆を中心に編成しており、小荷駄以外に約3千の軍勢を抱える。
先発する勝頼の本隊を追う様に河内路を進軍し、駿河に入ってからは西側の間道を通って迂回する事になっていた。
また輿に乗った僧侶とそれを護衛する5人の騎馬、それに輿のかき手を兼ねた20人程の足軽が、最後に遅れて甲府を出立、小荷駄隊と合流した。
その輿に乗った僧侶も、真田幸綱が依頼して今回の軍旅に加わった調略の要となる人物である…。
そして、勝頼の本陣・馬場隊・内藤隊の合計1万1千の軍勢が最初の攻略目標にしたのは、富士川西岸における北条家の前線拠点《蒲原城》であった。
蒲原城は町の背後に聳える城山を縄張りした山城である。西側から北側を向井川が流れ、東側は谷が入り、南側に駿河湾を望む天然の要害である。
今川家が駿河を支配していた頃から、有力な支城となっていた。更に昨年末、武田家が駿河に侵攻すると、今川家の援軍として駿河に入った北条家が支配下に置いた。
一年後の現在、実質的に今川家は滅んでしまったが、蒲原城は未だに北条側が占拠しており、富士川西岸における北条家の前線拠点として機能していたのだ。
北条家は蒲原城を重要視し、一族の長老を務める北条幻庵の嫡男である小机城主・新三郎氏信を蒲原城代として派遣した。
また、城将には氏信の弟の箱根少将長順や伊豆衆の武将達が就いて氏信を輔佐した。
更には富士大宮城主で7月に武田家に攻められて城を失陥した富士兵部少輔信忠・又八郎信通の親子も、一旦降伏後に、手勢を率いて蒲原城に逃げ込んでいた。
駿河に入った武田本隊は、蒲原と興津の中間付近に布陣し、各備えから足軽大将以上の侍大将・物頭に対して軍議を招集した。
そして、軍議の劈頭一番に勝頼は、真田幸綱に対して今回の蒲原城攻めに対する策の説明を指示した。
「さて、一徳斎。《如何にして蒲原城を無傷に近い形で、尚且つ損害を少なく落とすか》を皆の者に説明してくれ」
「承知致し申した。先ずは被我の戦力で御座るが、我が武田の本陣に5千、甲駿国境の白鳥山砦には内藤修理殿が率いる3千と小荷駄、富士大宮には馬場美濃殿が率いる3千がそれぞれ布陣して御座る。また興津には穴山左衛門大夫殿と葛山等の旧今川の先方衆等の手勢2千、江尻には山県三郎兵衛殿と瀬奈・朝比奈等の旧今川の先方衆を含めた手勢2千がそれぞれ浮備えとして詰めておりまする」
「成程、つまりは武田の軍勢は合計1万5千という訳で御座るな?」
確認のために武田左馬助信豊が幸綱に対して質問する。
「左様で御座る。対して北条・今川方は蒲原城に北条新三郎とその手勢1千、そこには富士兵部が数百の手勢を率いて逃げ込んで居り申す。次にその西側、興津と我等の間を塞いでいるサッタ峠には北条方の砦が有り、守備兵が籠って居り申す。そして、駿府・旧今川館には岡部・大原等の今川旧臣が徒党を組んでおりまする」
「それだけの被我差が有れば、今川旧臣や北条方を殲滅する事も可能であろう」
幸綱の説明を聞いて、この本陣に参加しているもう1人の御親類衆である一条右衛門大夫信龍が景気が良い事を言う。
一条右衛門大夫信龍は、武田信虎の九男として天文8年(1539年)頃に誕生した。武田旧族の一条家の名跡を継いで、西甲斐の上野城を居城とした。現在は200騎持ちの御親類衆となっている。
同僚で気が合う山県昌景曰く『一条右衛門大夫は伊達男にして華麗を好む性質也』と言い、常に新しい軍装を美しく飾り立て、諸国から気概有る浪人を集め、自らの武勇も優れていた。後の《傾き者》の如き気性と言える。
その一方、歌会に出席したり猿楽を披露する等、学問や文芸にも優れ、松永久秀や本願寺顕如との外交交渉もこなしている。正しく《文武両道》の武士であった。
しかし、そんな信龍の楽観的な考え方に幸綱は否定的な意見を述べる。
「しかしながら時を費やし過ぎると、敵の後詰が動きだしかねませぬ。西側の徳川勢・今川旧臣の最大動員は三河・遠江の約1万5千、東側の北条勢に至っては相模を中心に伊豆・武蔵から最大4万5千もの兵力を動かせまする」
「なんと…4万5千とは些か誇張が過ぎよう。そこ迄河東地方に軍勢を送り込むだろうか?」
幸綱の説明に、足軽大将の両角助五郎昌守から反論と質問が飛んだ。
両角助五郎昌守は永禄4年(1561年)の八幡原の戦いで討死した両角豊後守虎光の嫡子である。父の死後に家督を継ぎ、50騎持ちの譜代家老衆を務めていた。
父の虎光は信玄次弟の左馬助信繁(古典厩)の傅役であった為、昌守も信繁の嫡男である信豊の寄騎として動く事が多かった。父親同様の激情家である。
「そう仰有るのは、お主自身が北条輩を恐がっておるからではないかな?」
そんな昌守に別の足軽大将の原甚四郎盛胤が批判染みた意見を述べた。
原甚四郎盛胤は、《鬼美濃》と諸国に恐れられた足軽大将・原美濃守虎胤の次男である。
兄の康景が養子に出た後に永禄7年(1564年)に父の虎胤の死去後に家督を継いだ。現在は騎馬35騎・足軽100人持ちの足軽大将を務めている。やや短慮な部分が有るが、突撃力に定評があった。
「何を言うか!敵の力量を顧みないのは、お主自身が短慮な証じゃ!」
「貴様!言うに事欠いて何を抜かすか!」
昌守と盛胤が床几から腰を浮かせて睨み合う。今にも御互いに掴み掛かる勢いだ。
しかし、そこに制止の声が掛かった。2人がそちらに顔を向けると、そこには同じ足軽大将の1人、横田十郎兵衛尉康景が居た。
「止めぬか、甚四郎!此の件は貴様が悪い!無用に喧嘩を売るな!…両角殿、我が愚弟が申し訳御座らぬ」
「う、うむ。横田殿がそう言われるならば…」
「…すまぬ、兄者」
そう言って2人は仲裁を受け入れ、床几に座り直した。
横田十郎兵衛尉康景は原美濃守虎胤の長男、即ち原盛胤の実兄にあたる。
舅は同じく活躍した足軽大将・横田備中守高松。康景に惚れ込んだ高松が虎胤を説得して、己の娘の婿養子に貰い受けたのだ。
その後、天文19年(1550年)の信玄2度目の敗戦である《砥石崩れ》で高松が殿軍を務めて戦死すると、その跡を継いだ。
現在は騎馬30騎・足軽100人持ちの足軽大将を務める。当年45歳、冷静さと激情さを兼ね備えた武士として、足軽大将衆の中心として活躍している。
「皆の懸念も良う判る。しかし北条は関東討入りの折、三増峠で多くの兵を擂り潰しておる。それに他にも手を打ってある。常陸の佐竹氏及び安房・上総の里見氏に使者を遣わせて、北条の後背を襲う様に依頼致しておる。これで関東の方で手を捕られる故に、北条の駿河へ向かう兵力は、小田原城を中心に最大で2万数千と考えて良かろう」
康景が皆を落ち着かせた処を、勝頼が話を継いでいく。
「それでも我が武田勢よりも遥かに多勢だ。因って此度は蒲原の北条勢を手早く鎮める必要が有るのだ」
「成程、ならば蒲原の敵勢を誘き寄せて、野戦で決着を付ける訳で御座るか?」
信龍の質問に幸綱が同意して説明を続行する。
「左様で御座る。但し、北条とは手切れ致したとはいえ、最終的には説き伏せて再盟約に持ち込まなければならぬ。それ故に此の度の策は、一当てして戦意を挫き降伏に追い込む事で、交渉の材料を増やす事に主眼を置いておりまする」
そう言うと、幸綱は本陣の大将達に今回の蒲原城攻めの策を説明した。意見が出ると、齟齬を来たさない様に丹念に説明を加えていった。
「此度の策は、本陣・馬場隊・内藤隊が《蔭の如く》忍ぶ事、そして《雷霆の如く》動く事が重要になる。その為にも全員が策を頭に叩き込んでおくのだ」
幸綱の説明が終わると、勝頼は床几から立ち上がって本陣の大将や物頭を見渡しながら発破を掛けた。
「では、翌朝の日の出を以て再び行動を開始致す。蒲原の北条方及び今川旧臣からの《夜討ち・朝駆け》に警戒を密に致すのだ。者共、参るぞ!」
勝頼の陣振れに諸将は、
『応っ!』
と一斉に立ち上がって本陣から己の陣所に其々(それぞれ)散って行った。
暫くして、本陣の中が己自身の他に幸綱と奥近習のみとなると、勝頼は溜め息を吐き出しながら呟いた。
「全く、去年迄の儂ならば蒲原の町を焼討ちして、それを灯に城を蒸し攻めにしただろうがな。我ながら面倒な事を考えた物だ」
「全くですな。北条との繋ぎを考えなければ、その手が一番確実に落とせるでしょうに…」
幸綱が軽くぼやくが、内心はそんな勝頼の変化を好ましく感じているのか顔は微笑んでいる。
「惣三、勘蔵、そして五郎。それに他の者も良く見ておくのだ。此の一徳斎の武勇と知謀をこそ己が鏡と致すが良い。儂も陣代に就いてから支えて貰っておるが、正に孫子の兵法を体現しておる。我が父上や勘蔵…お主の父である勘助と同様にな」
『はっ!承知致しました!』
勝頼は、今回の出陣に己の側に置いた弟の仁科五郎盛信や、奥近習の金丸惣三、山本勘蔵(山本勘助晴幸の嫡男、14歳)等に対して、幸綱をこそ手本にする様に諭したのだった。
「儂も一徳斎の武勇と知略に肖りたい物だな」
そう勝頼は幸綱に告げたが、幸綱が、
「勝頼様が某並に調略を使われたら、立つ瀬が有りませぬぞ」
と言うと、本陣に残っていた者達は苦笑いに包まれたのだった。
武田の本陣は翌12月5日から作戦行動を再開した。軍勢を西側のサッタ峠に向けて、北条方の砦に圧力を掛けに行ったのだ。
砦には駿府の今川勢との繋ぎを兼ねて、約2百人程の兵力が守りを固めていた。
しかしながら20倍以上の兵力が迫り来るのが見えると急に怖気付いてしまった。元来、通説として城攻めには最低限籠城側の3倍の兵力が必要とされる。しかしながら、この兵力差では嬲り殺しにされるだけなのだ。
早速、砦を預かる物頭は蒲原城に使番を走らせた。城代の北条氏信に後詰の要請を行う為である。
しかし、その使番が駆け込んだ蒲原城では、軍議の中で《籠城して武田軍を迎撃するべき》との意見と《砦を守る為に出撃するべき》との意見が噴出した。
氏信の寄騎に付けられた城将達は二分して意見を戦わせた。箱根少将長順や富士信忠・信通親子は、
「武田が砦にかまけている間に出撃して後背から攻撃するのだ!」
と主張する。
一方、清水・笠原・狩野等の伊豆衆からの援将達は、
「砦は駆け付けても間に合わない。ならば籠城して小田原や伊豆からの後詰を待つべきだ」
と述べる。
双方が歩み寄る事も無く、軍議は平行線を辿っていた。
城代の氏信は双方の意見をジッと黙って聞いていたが、暫くすると、カッと眼を見開いて命令を下す。
「よし、此れより砦を攻める武田軍の背後に攻め懸かる!長順は留守居を任せる。余の者は全軍で…」
そう言う氏信を遮る様に伊豆衆の清水新七郎(清水上野介康英の長男)が異論を述べる。
「御待ち下さい、新三郎殿!我等伊豆衆が遣わされて居るのは蒲原城の守りの為で御座る!城を開ける訳には参らぬ!そうで御座ろう、笠原殿、狩野殿!」
「うむ、清水殿が言われる通りじゃ!」
「なんでしたら我等伊豆衆が城の留守居を引き受けましょうかな?」
清水新七郎の発言に他の伊豆衆達が合の手を打つ。氏信は伊豆衆の戦意の低さに連れて行くのを諦めざるを得なかった。
「ならば我等兄弟で兵を率いて攻め懸かろう。伊豆衆は戦う気概が無いなら城を守っておるが良い!兵部殿、御貴殿方は如何に致されるか?」
「勿論、御供致す。武田の小倅には、一泡吹かさねば我等親子の気が済みませぬ」
そう言って、富士信忠率いる富士大宮の兵も、新三郎・長順兄弟率いる小机衆と共に出撃する事になった。そして蒲原城の守備は、留守居の伊豆衆が引き受ける事となった。
北条兄弟・富士親子が率いる北条勢合計1千は、5日深更に蒲原城を出撃すると、海岸沿いを迂回する様にサッタ峠に向けて布陣する武田勢の本陣に向かって行った。日の出前に朝駆けする為である。
そして、その出撃を物影から見ていた者が居た。旗差物をしてはいないが、鋭い目付きで城から出ていく軍勢を確認すると、一目散に暗闇の中へ駆け出していった。
一方、留守居となった伊豆衆は仲間の出撃後は見張り以外は眠りについた。暫く経てば後詰が来てくれるし、万が一には繋留している輸送船で伊豆迄逃げ込んでしまえば良いのだ。だからこそ強引に留守居役に就いたのだから…。
そして夜明けが近付いて東側の空が徐々に白んで来る。
不寝番についていた見張りの足軽が、大きな欠伸をしながら東に位置する富士川の河口を遠くに眺める。
ふと下の方…城山の東麓を見ると、そこには数千もの完全武装の兵が並んでいたのだ。
声が出ないまま右側…南麓の大手口に視線を落とすと、そちら側にも同じ位の軍勢が整然と並んでいる。
(もしかしたら伊豆から後詰が来てくれたのかも知れない…)
そんな希望的な事を考えながら2つの軍勢の旗差物を見比べると、その両方の軍勢にあの《武田菱》が翻っているのだ。
「ひゅぅ…て、敵襲だぁ!武田が、武田の軍勢が海側から来たぞぉぉ!!」
見張りの足軽が大声で叫ぶと、周りの者達も蜂の巣を突いた様な騒ぎとなり、直ぐに夜明け前の蒲原城中に広がっていく。
「ふぅ、真田殿から《富士川を渡ってから身を潜めよ》と指示を出されておったが、此処まで上手く嵌るとはな。西廻りの内藤勢も城の南面に予定通りに見事に張り付いておる」
城の東麓、谷を挟んだ向かい側に全軍下馬して布陣し終わった武田軍馬場隊の指揮官・馬場美濃守信春は、同じく城の南麓、大手側に布陣した武田軍内藤隊を眺める。
「今ならば、御陣代様が城兵の大半を外に引きつけておりまする。次は我等が《武田の実力》を見せつける時ですな!」
信春に向かって、横に立った馬場隊の検使(軍監)に就いている三枝勘解由左衛門尉昌貞が声を掛ける。
三枝勘解由左衛門尉昌貞は土佐守虎吉の嫡男。信玄の奥近習の1人として頭角を表し、各地に代官に派遣される他に竜朱印状奏者を務める等、管理・統治能力に優れていた。
また武勇にも優れており、30騎・足軽70人持ちの足軽大将を兼任し、更に同心衆が26騎付けられていた。因みに山県昌景の女を嫁に迎えている。
「頃合や良し!正に《朝駆け》の典型也!南面大手側の内藤勢と息を合わせて城を攻める!谷の切れ目から城山に入り、頂上の本丸迄一気に駈け上がるのだ!者共、懸かれや!」
『うおぉっ!』
信春の号令を合図に、馬場隊に配属された信濃の将兵達は弾除けの竹束で身を守りながら、一斉に攻め掛かった。
「ははっ、流石に《不死身の馬場美濃》殿、攻め方にそつが無い。まぁ此れだけの兵力差なれば、1人も損じさせとうは無い。皆も心して懸かるのだ。では参ろうか。郷左殿!先ずは門の向こうに弾馳走を呉れてやれぃ!」
西廻りに迂回して蒲原城の南側に現れた、武田軍内藤隊を率いる《甲軍の副将》内藤修理亮昌秀は、最前列で筒衆(鉄砲隊)を率いる甘利郷左衛門尉信康に指示を出した。
「承知致した!筒衆は揃って撃ち放つのだ!…放てぇぃ!」
信康の命令に従って、内藤隊に配属された2百挺の鉄砲が一斉に火を噴いた。
それらの喚声と轟音を皮切りに、武田軍6千による蒲原城の攻城戦が始まった。
しかし武田軍による、夜明け前の《朝駆け》の成功が功を奏して、蒲原城を守るべき留守居の伊豆衆達は、抵抗らしい抵抗も出来なかった。
次第にその人数を減らしながら本丸に追い込まれて清水・笠原・狩野の3将も討死、機転が聞いて北側や西側から跳散した足軽達以外は全滅してしまった。
12月6日の日の出の時刻には、武田軍は一兵も損じる事無く、蒲原城で勝鬨を上げたのだった。
一方、武田の本陣を襲うべく出撃した北条氏信勢は、夜明け前に本陣の側に辿り着いたが、そこには峠の麓で《鶴翼の陣》を構えて油断無く待っている本陣が有ったのだ。
「罠か!しかし奴等は砦に背を向けておる。砦から打って出て背後から襲えば…」
箱根少将長順が兄に呼び掛けるが、氏信は首を降りながら答えた。
「いや、砦を良く観るが良い。赤い鎧を着た者が数多く見えるだろう。しかしあの砦の兵はあんなに赤い鎧を着てはおらぬ」
「赤い鎧…、北条殿!まさか!」
赤い鎧と聞いて思う処があった富士信忠が叫びをあげると、氏信は肯定する様に頷いた。
「恐らく10月に江尻に入った《赤備え》…山県三郎兵衛が山を越えて来たのだろう。此処は奴等が合流して、包囲されてしまう前に退くべきか…」
氏信は蒲原城か、更に東側の興国寺城への撤退を考えた。しかしその矢先に蒲原城が有る方角から喚声と轟音が響いてきた。
「何とっ!蒲原城も襲われておるのか!此処迄示し合わせて来るならば、恐らくは富士川を渡河しても大宮の武田勢が伏せ備えを敷いておるに相違有るまい…。されば陣立てを組み替えよ!《魚鱗の陣》を敷いて武田左京(勝頼)の首級を貰い受ける!」
(恐らくは届くまい。ならば一矢報いるのみよ!)
玉砕覚悟の氏信の発言に、顔を青くした信忠が反論する。
「お、御待ち下され!動くならば西の敵陣では無く、艮の方角、大宮に向かうべきかと思案致す!」
(冗談では無い!我等親子が討死しては《富士大宮司》の祭司が途絶えてしまうでは無いか!)
そうやって言い争っていると、足軽達が敵陣に何かしら動きを見つけて騒ぎ出した。
氏信達もそちらを見ると、武田の本陣から10人程の集団が輿を連れて、こちらに歩いて来ている。
そして先頭の足軽は長柄槍の代わりに、柄の長い傘を広げてクルクルと回しながら進んで来るのだ。
「傘を回して…陣僧を送って…矢止め(停戦)でも致す気か?」
氏信は訝しんだが、周りの足軽達や目の前の信忠は安堵の表情を浮かべていた。全滅すると半ば諦めざるを得ない状況だったのが、交渉次第で生き残れる可能性が見えてきたのだ。
(駄目だ…此奴等の眼から気力が失せている!死なずに済む道が示されて、抗戦の意志を挫かれてしもうたのだ…)
氏信が唇を噛んで悔しがる。そこへ長順が武田の使者の来訪を告げた。
「兄者、武田の陣僧がこちらに来たのだが…」
「ん?長順、如何致したのだ?」
長順の何かしら言い出せない態度に気付いた氏信が聞き返すと、意を決して続きを述べた。
「…その盲いておる陣僧は自分の事を《竜芳》と名乗っておる!兄者、奴等は使者に信玄の次男坊を送り込んできおったぞ!」
「な、何ぃぃ!」
長順のその言葉に、氏信ばかりで無く富士親子も驚愕してしまったのだった。
氏信達と武田竜芳との交渉は《方円の陣》に組み替えた北条方の陣所で開かれた。
しかしながらその周りは武田の本陣ばかりで無く、蒲原城を落城させた上で留守居を残して合流した馬場・内藤隊や、江尻から駆け付けて峠の砦を落とした山県隊も包囲に加わった。
1万2千以上の兵力に囲まれ、北条勢は停戦が破談した途端に殲滅させられるのが目に見えていた。
そんな中で、武田竜芳が敵陣のど真ん中でも全く動じる事無く涼しい顔をしている。
(流石は盲いているとはいえ《甲斐の虎》の血脈という訳か…)
氏信が感心していると、微笑みを浮かべながら竜芳が話し掛けて来た。
「甲斐長延寺の修行僧で竜芳と申します。お初にお目にかかりまする。今回は拙僧が武田家陣代・武田左京大夫勝頼の名代として話をさせて頂きたく存じまする」
一方、本陣には勝頼と幸綱の他、合流した信春・昌秀・昌景も姿を見せていた。
「一徳斎、聖道様は…兄上は大丈夫で有ろうか?よもや質に捕られたりは致さぬかな…?」
兄の無事を心配する勝頼に対して、幸綱は理路整然と心配の必要が無い事を説明する。
「大丈夫で御座る。北条方は10倍以上の兵力に囲まれ、しかしながら交渉が上手くいけば生き延びる事が出来まする。万が一その様な事を致さば嬲り殺しに遭うのが眼に見えておりまする。我が軍の者も敵陣に御聖道様が居られるのに自儘に攻撃を致す馬鹿は居りますまい。それを致さば斬首ものですからな」
(それに、万が一の事が有ればそれは勝頼様の対抗馬が1人消える事を意味するからな。どちらに転んでも次の手を打てば問題は有るまい…)
他の者には言わないが、幸綱の中には冷徹な計算が働いていた。だが、それを明かしてしまっては勝頼の気性だと《代わりに儂が交渉に出向く》と言い出しかねないのだ。
幸綱がそんな事を考えていると、江尻から進出して合流してきた昌景が他の者に説明を求めた。
「それで皆の衆、今回の軍略の肝はどうなっておるのだ?此れだけの兵力が有れば、城を蒸し攻めに致さば良かろうに」
「山県殿、今回の策は勝頼様の要請により、某が練り申した。細かい動きは端折りまするが、先ずは峠の砦を威圧して、蒲原の兵を後詰におびき出しまする。その隙に別働隊が手隙になった蒲原城を手早く落として力を見せつけまする。しかる後に、相手に降伏を薦めるのです」
「手順は理解出来たが、最後に降伏を薦めるのは何故なのだ?大体、討死覚悟で突撃する可能性も有るでは無いか?」
幸綱の説明を聞いても、昌景はいまいち納得して居ない。武士たる者は命を惜しまずに戦うと考えているのだ。
「人というのは覚悟を決めた時は凄まじく強くなれまする。それこそ討死をも厭わぬ程に…。しかしながら、その状態で確実に生き残れる望みを見せてやれば、その覚悟は簡単に挫く事が出来まする。信濃での調略の応用で御座る」
「成程、掻い摘まんで理解致し申した。されば勝頼様、あの北条の将兵達が降れば如何致す所存で御座いまするか?人買いにでも売り付けまするか?」
取り敢えずは戦闘の可能性が低いと判断した昌景は、勝頼に捕虜が出た場合の待遇について問い掛ける。当時の東国の習慣としては、捕虜や敵の家族・領民等は奴隷商人に売り付ける事が多かったからだ。
しかしながら、勝頼は明確にそれを否定する。
「いや、兄上の交渉次第だが…北条一族とそれに準じる者は甲斐に連行する。希望者は足軽か浪人衆として雇い入れる。それ以外は返しても良かろう」
此の言葉を聞いて、流石に重臣達も甘いと感じたらしく、勝頼に苦言を呈した。
「勝頼様。何も無く奴等を返しては諸国から甘く見られまするぞ。強く出る処は強く出るべきかと存じまする」
代表して信春が意見を述べるが、勝頼は己の方針を曲げなかった。
「今回の策は北条との再盟約への布石だ。戦場での習いで打ち取るならばいざ知らず、人買いに売ってしまっては関東の民草から恨みを買おう。因って此度は打ち取らぬ者は或る程度は希望を叶える所存だ」
勝頼の言葉を聞いて、ただ甘いだけでは無いと判った重臣達は頭を垂れたのだった。
更に勝頼は当時の東国の戦争では有り得ない命令を下した。
「それと、駿河では高札の有無に関わらず乱暴狼藉を固く禁ずる。配下の者達にも周知徹底せよ。その実入りの不足は碁石金か銀を配って足しにしても良い。但し禁を破った者は士分剥奪の上で放逐致す!良いな!」
『はっ、承知致し申した!』
勝頼の此の命令を下した時の余りの迫力に、思わず本陣中の全員が片膝を付いて、その意向に従ったのだった。
一方、北条方の陣中では、北条・富士の4名と武田竜芳及び御聖道衆による交渉が進んでいた。
「我等兄弟に自害ならばいざ知らず、《虜囚の辱めを受けよ》と言われるか!」
竜芳が《北条兄弟の甲斐への移動》の件を持ち出すと、箱根少将長順は猛烈な反撥を示した。
それに対して、竜芳は涼しい顔で応答する。まるで予想通りと言わんばかりである。
「その通りで御座いまする。御陣代の意向が有ります故に、此の件に関しては御譲り致しかねまする…。此の件さえ飲んで頂ければ、希望者は関東へ帰国が叶いましょう。それとも、御二方は1千の兵の命と自由よりも己自身の《武士の名誉》と言う自己満足を取られまするか?」
(北条のこの兄弟は父である幻庵殿に似て、情に厚く下々を慈しんでおるとの噂じゃ…ならば不本意ながら、兵の生命を質に取らせて貰えば必ずや耳を傾ける筈じゃ)
竜芳は、師に当たり武田家の陣僧も務めている、長延寺の実了師慶から得た兄弟の情報から判断して、説得する方法を色々と考えていたのだ。そして、更に畳み掛ける様に説き伏せていく。
「それに御陣代は武田・北条間の再盟約を考えて居られまする。もしも御二方が甲斐に来て頂いて甲相の懸け橋と為って頂ければ、必ずや北条の御家にとりましても有益に働きましょう」
「……」
氏信は竜芳の説得を微動だにせずに黙って聞いていた。そこに心が揺らぎ始めた長順が氏信に呼び掛ける。
「…兄者、如何致すのだ?」
(此処が攻め時よ!一気にけりを着ける!)
意を決した竜芳が更に畳み掛けて説得する。
「御二方の身柄の安全に関しては、此の竜芳が保障致しましょう。御聖道衆を使って御守り致しまする。それに、甲府にはそちらの御当主に嫁いでおった我が妹が戻って来て居りまする。今は落飾して黄梅院と法名を頂いて居りまする」
「何と…御方様がまだ御存命であられたのか!それは目出度き事、なぁ兄者」
「うむ、長順の言う通り、それは誠に祝着至極で御座る」
黄梅院の無事を知らされると、氏信と長順はまるで我が事の様に喜んだ。
「我が妹も御二方が甲斐に来て頂ければ、殊の外喜びましょう。此所の兵の為、我が妹の為、そして何よりも甲斐と相模の新たなる絆の為…是非とも甲斐迄来て頂けませぬでしょうか?」
竜芳は氏信と長順にもう一度降伏を薦めながらも2人の《気》が変化したのを感じ取った。
「竜芳殿。武田家が約定を違えぬのならば、此の新三郎氏信、弟の長順、共々恥を忍んで武田家の御世話になり申す。但し、くれぐれも約定を守って頂きたい」
「御二方の御英断、誠に嬉しく思いまする。ならば子細を詰める事と致しましょう」
遂に北条兄弟が折れる形で蒲原城での停戦が成立する事と為って、竜芳は陣代として苦労を重ねる弟の勝頼の役に立てた事を嬉しく思いながらも、細かい部分を詰めていった。
こうして永禄12年(1569年)12月6日夕刻、蒲原城の兵力は降伏を正式に受諾した。
その際に約定を取り纏めた内容を記す誓紙には、熊野の牛王宝印の御札が使われた。
当時は《カラス文字》と言う独特のデザインで書かれた、熊野三山の御札の裏面が誓紙として使われていたのだ。
約定の内容は、ほぼ武田側の要求通りの内容になった。
一、北条氏信・長順は甲斐に連行されて再盟約まで抑留する。
二、蒲原城を含めて富士川西岸の北条方の軍勢は全て東岸に撤退する。
三、降伏した者は安全を保障した上で、船で伊豆迄送り届ける。但し希望者は武田家が再雇用する。
四、西岸から撤退の際、鉄砲・弾薬・刀槍・弓矢・金品・兵糧等は全て没収。但し、鎧具足の類及び個人の金品はその限りとしない。
これに因って、富士川の西岸から北条の影響力は払拭される事となった。
また蒲原城の西側で降伏した1千名の内、小机衆の全員と富士親子及びその直臣は伊豆に退く。
しかし駿河で集めた者や富士家を見限った大宮の者等、全体の約半数が武田家に再雇用される事になったのだった。
また、北条兄弟は駒井昌直が護衛に付き、竜芳と御聖道衆と共に甲斐へ移動した。
駒井右京進昌直は、《高白斎記》という日記で後世に名を残した信玄の側近・駒井高白斎の嫡男。55騎持ち・同心衆50騎の譜代家老衆を務める他、父親同様に内政や外交にも明るかった。天文11年(1542年)生の当年28歳。同世代の勝頼を支える有力な家臣の1人である。
因みに昌直は、甲斐に帰国後、年明けと共に甲府から御坂峠・富士吉田・籠坂峠を越えて御殿場に通じる《御坂路》(鎌倉街道)から河東地方北東部の御厨高原に侵攻する。そしてその東端にある深沢城を占拠して改修を始める。
此の深沢城を巡る攻防が、翌元亀元年4月から2年3月にかけて武田・北条間で繰り広げられる事になる。
竜芳達が甲斐に出立するのを見届けた勝頼は、山県隊を駿府の今川旧臣を牽制させる為に先発させ、興津の穴山信君にも駿府出撃を命じた。
そして、蒲原城に入って戦後の処理を行っていたが、その日の深更に珍しい人物が現れた。
金丸惣三に知らされて直ちに面会したのは、加当段蔵と成田の藤兵衛。陣代就任直後に畿内へ派遣した土屋藤十郎長安の配下で働く者だ。
彼等ら長安の命で、紀伊・高野山から勝頼宛ての書状を手渡しに甲斐に戻り、勝頼不在の為にそのまま遠征先の蒲原に現れたのだ。
「成程…。お主達を派遣した理由が理解出来た。一徳斎、読んでみよ」
そう言って、同席した幸綱に対して手渡した書状には、《高野山の辰砂採掘を武田家が援助し、代わりに優先的に購入出来る契約を締結した。そこで優秀な金堀衆を紀伊に派遣して欲しい》との要望が記されていた。
「ふむ、独断で事を進めるのは困った物ですが、確かに土屋殿には裁量を認めて居りました。ある程度の物資確保の為には致し方有りますまい」
勝頼は、幸綱が同意した為にこの契約を了承する事にした。
「うむ、ならば此の件は進めて構わぬ。金堀衆も此処数日の内に手配致そう。それまではお主達も本陣に帯同致せ」
勝頼からその様に指示を受けて、段蔵と藤兵衛は思わず平伏した。半年前に躑躅ヶ崎館で出発前に垣間見た時とは、雰囲気が随分と変わっているのだ。
(ほう…暫く見ぬ間に大分鍛えられたみたいだな。見違える程に当主らしく為っておる)
段蔵は平伏しながらも、武田家の将来が随分楽しみに感じ、
(今回の任務が済んでももう暫く仕えてみても良いか…)
と考え始めていた。
此の3日後の9日には、勝頼率いる武田軍本隊は駿府南方の久能山城に入城する。今川旧臣が占拠してしまった今川館を再び取り戻す為である。
《第2次駿河遠征》戦は未だ端緒を付いたばかりであった。
今回、史実と違って生き延びる事になった氏信兄弟は、甲相同盟が再締結されてから再登場する予定です。(暫く先の話ですが…)次回は、今回収まらなかった駿府今川館の戦いになります。遅筆乱文ですが、次回も宜しく御願い致します。