表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/41

肆:出撃前夜〜平穏なる日々〜

今回は《三増峠の戦い》から《蒲原城攻め》の間の話になります。相変わらずの乱文ですが、宜しくお願い致します。

 日一日と寒さと北風が強さを増していく。また八ヶ岳颪が初冬の甲斐の地に吹く季節がやって来たのだ。

 この年の10月下旬は、現代の暦では12月上旬にあたる。更には当時は現代よりも世界的に寒冷だった。暦の上では初冬でもジッとしていると身体が芯から冷えきってしまうのだ。

 ただ初雪は既に降ったとはいえ、根雪が積もりだす迄には後10日程掛かりそうな気候ではある。

 また、この時期はもう1ヵ月もしない内に冬至を迎える為に、太陽が東の稜線から顔を覗かせるのも随分と遅いのだ。

 そんな夜明け間近の甲斐府中の中心に位置する躑躅ヶ崎館、その御主殿にある看経所かんきんじょ(元々信玄の執務室で御閑所とも言う)の側に有る庭先で、武田家の陣代(当主代行)・武田左京大夫勝頼が一人で大身槍を振っていた。

 縁側には奥近習の金丸惣三が控える中、起きてから既に四半時(30分)以上に渡ってあらゆる構えから振り続け、立てた丸太に槍を打ち込んでいる。

 陣代になって5ヵ月近く、槍捌きを鍛える暇も無い位に働いて来た。

 しかしながら先月迄の関東遠征の折に《槍の腕が落ちた》様に感じて、勘を取り戻す為に毎日の政務前に槍を振って己を鍛えていたのだ。

「勝頼様、何故に御裏方に御入りに為られぬのですか?何時までも看経所を仮の住家に致されるのも如何なものかと思いますが…」

 未だ《仮屋暮らし》の勝頼に惣三が苦言を呈する。

「別に全く構わぬよ。儂はまだ陣代ゆえ、御方様(三条夫人、信玄の正室)や戻られた姉上(長姉の黄梅院)、それに弟妹達を余所に追い出して迄して『御裏方に入りたい』とは思わぬしな。武王丸(信勝、勝頼の嫡男)を御裏方に入れて居るから、今はそれで良い。それにをりゑも一昨年亡くなってしもうたから、御裏方を仕切る者が居らぬしな。惣三、槍を片付けてくれぬか?」

 《をりゑ》とは勝頼の正室だった遠山夫人(龍勝院殿)の事である。織田信長の姪にあたり、武田・織田間の《甲尾同盟》締結に伴い永禄8年(1565年)11月に勝頼に輿入れした。

 夫婦仲は良かったのだが、2年後の武王丸出産後の肥立ちが悪かった為に間も無く亡くなってしまったのだ。

「そうで御座いましたな。では暫くはその様に致して良いかと…。しかし私は勝頼様に早く躑躅ヶ崎館の主として動いて頂きたいのです」

 そう言って年若ながらも主君を懸命に励まそうとする惣三を見て嬉しく感じた勝頼は、縁側に上がりながら、己が振っていた槍を受け取り、穂先に鞘を付けている惣三に微笑みながら話し掛けた。

「まぁ時々城下の屋敷に戻れば特に問題は有るまい。それよりも惣三、そろそろお主にも嫁を取らせんといかんな。兄の昌続(土屋昌続)も随分と心配致しておったぞ」

 勝頼の発言を聞いて思わず預かって片付けていた勝頼の大身槍を取り落としそうになった。惣三は明らかに動揺してしまった。

「お、御待ち下さいませ、勝頼様!私よりは勝頼様が後添いを貰われる方が御順序が先で御座いましょう!主君を差し置いて嫁取りをするなど私には出来ませぬ!」

「儂は既に嫁を一度貰ったのだ。順序など深く考えないで良い。それに儂が独り身だというのは他国との交渉の種になるからな」

 勝頼はそう言って惣三を諭す。その頃には惣三も幾分落ち着きを取り戻していた。

「畏まりました。勝頼様がそこ迄仰有おっしゃられるならば、私には否やは御座いません。それで相手の話とかは有るので御座いますか?」

「うむ、実は今川旧臣の娘を嫁にどうかと思っておるのだ。甲駿の融和を計る必要も有るからな」

 汗を拭き取り着替えながら、そう提案する勝頼に惣三は同意する。

「成程、私の婚儀が武田の御家に役立てるならば是非お願い致しまする」

「よし、この件は儂に任せてくれ。必ず良縁を組んで進ぜよう。後、此を期に元服をさせようと思うておる。お主も来年で十五だからな。如何じゃ?」

 勝頼が元服の事を言うと、惣三は顔を紅潮させて興奮して答える。

「本当に御座いますか!有り難う御座いまする!この金丸惣三、これ迄以上に働かせて頂きまする!」

 まるで子犬が尻尾を振る様に喜びを全面に表現する惣三を見て勝頼も嬉しくなった。

「そうか、頼もしいな!期待しておるぞ。さて、朝餉を食べて政に勤しむとするか。惣三、用意させる故、共に朝餉を食べるが良い」

 そう言って着替え終わった勝頼は朝食を食べる為に惣三を連れて移動をするのだった。


 時は永禄12年(1569年)10月21日早朝。関東遠征から帰国して10日程が経過していた。


 此の年6月初めに武田家当主で有る法性院信玄が、自らの静養を理由にして突如隠居を表明した。

 その為に信玄の四男である武田勝頼が、陣代として武田家を率いる事になったのだ。

 勝頼は己の未熟な処を補う為に、宿老の馬場美濃守信春、内藤修理亮昌秀、山県三郎兵衛尉昌景、春日弾正忠虎綱、真田一徳斎幸隆(幸綱)の5名を赴任先から甲府に戻した。

 御親類衆や大身の家臣達の反発の中、幾つかの人事移動や政策を実施していくと同時に、4月以来停滞していた南隣の駿河・旧今川領の攻略を6月から再開する。

 それを妨害する相模の北条家に対しては1ヵ月半に及ぶ関東遠征を敢行、三増峠に於いて北条勢2万と激突し、味方に3千程の死傷者を出しつつも4倍もの損害を与えて甲斐に帰国した。

 

 帰国後、勝頼は戦後処理と平行して幾つかの政策を実行している。

 先ずは異母姉の黄梅院の事である。

 彼女は北条との断交によって夫である北条氏政と離縁させられて甲斐に帰国した。その後、尼になったが気落ちして身体を壊し、病の床に伏せってしまっていた。

 そこで勝頼は陣代就任直後に黄梅院を温泉療養に送り出した。

 その上で、関東遠征の折に別れた夫・氏政に黄梅院への励ましの手紙を用意して貰ったのだ。勝頼は三増峠の戦いの前にその手紙を預かっていた。

 療養先に届けられた氏政からの手紙を読んだ黄梅院は、医者が驚く程に見る間に元気を恢復した。

 現在は体調を崩した母親の三条夫人の看護の為に躑躅ヶ崎館に戻って来ているのだ。


 次に三増峠に於いて戦死した浅利式部少輔信種の後任に関してであった。

 本来ならば嫡男である式部丞昌種(彦次郎)が継ぐべきなのだが、三増峠での信種の戦死直後に、経験不足を露呈してしまった。

 そこで勝頼は信種が持っていた《120騎持ち譜代家老衆+同心衆100騎、上野箕輪城代》の地位の内、昌種を《60騎持ち譜代家老衆+同心衆60騎》を相続させた上で甲府に戻した。

 そして浮いた計100騎の内、同心衆40騎を土屋昌続に預けて《100騎持ち譜代家老衆》に格上げした。

 一方、信種直属の内の半分にあたる60騎を勝頼直属に異動したのだった。

 そして、新たな箕輪城代に何と西上野先方衆筆頭で既に隠居していた小幡信竜斎全賢(憲重)を任命したのだ。

 本来、信玄が当主のままだったならば、恐らくは内藤昌秀辺りが任命されていただろう。

 だが譜代並の待遇とは言え、いわば外様である信竜斎の任命には御親類衆等から激しい反発が起きた。

 しかし、勝頼は本国・甲斐と領国の一体化を目指して敢えて断行したのだった。


 それらの指示を行いながら一方では内政・外交・軍事での政策を実行に移して行くのだ。

 信玄が創った《甲州法度》が有り、未熟ながらも官僚制度(奉行制)も存在する武田家のシステムが無ければ、勝頼がまつりごとを司る事は難しかっただろう。

 しかしながら法度、官僚制度、そして宿老や支持する家臣達の協力によって、勝頼体制は順調な滑り出しを見せていた。


 そしてこの日勝頼が喜ぶ出来事が有った。京にいた使僧で長延寺の住職の実了師慶が東山道経由で帰国したのだ。

 そして彼と共に大量の荷物が届けられた。堺に派遣していた土屋藤十郎長安が買い求めた鉄砲50挺と火薬の材料である大量の硝石、そして多くの水銀と辰砂が甲斐に到着したのだ。


 その夜、看経所に勝頼と5人の宿老が集まり、車座に座っていた。勝頼も上座では無く輪の中に入っているのだ。彼の手には長安が荷物と共に届けた書状が握られていた。

「藤十郎も、なかなか無茶を言ってくれるな」

 苦笑しながらも勝頼は5人にその書状を回し読みさせた。

 そこには勝頼に対して入荷する追加物資を荷揚げする為にも、比較的早い時期に駿河を平定した上で、大規模な港湾を整備する事を要求していた。

「確かに駿河は北条や徳川が横槍を入れて来る前に、完全に平定しておく必要はあるでしょうな」

 最後に読み終わって勝頼に書状を戻しながら、幸綱が意見を述べる。

「左様、此の度の相州討入り(関東遠征)も元は駿河への北条方の後詰を防ぐ為で御座った。北条が立ち直る前に駿河を切り取る必要が御座いましょう」

 幸綱に続けて昌景が早期の出兵の必要性を強調する。

 しかしそんな昌景に対して虎綱が慎重な意見を披露した。昌景と虎綱は信玄の奥近習時代からの同輩なのだ。

「しかし源四郎殿(昌景の仮名)、今川旧臣への調略は余り順調とは言い難い状況。穴山左衛門殿(信君)の統制も上手く機能して居らぬしな」

「だからこそだ、源五郎殿(虎綱の仮名)。北条や徳川に駿河の地侍や今川旧臣を切り崩される前に、一気にけりを着ける事が肝要なのだ」

「取り敢えずは土屋藤十郎が送って来た硝石が有る故、暫くは玉薬の心配を致さずとも構いませぬ」

 関東遠征に於いて、小荷駄奉行を務めた昌秀が長安が買い求めた大量の硝石の事に言及する。

「その藤十郎じゃ!武田の御家の方針に口を出すとは…。しかも、書状の最後の《楽市創設の要請》とは一体何の事なのだ?」

 信春は武田家の経済政策に口を挟もうとする長安に対して苦言を呈した。それに根本的に《楽市》の意味が掴めていないのだ。

 但し《楽市》の意味は他の宿老達も判らない為、皆で首を捻ってしまうのだ。

 しかし、勝頼が判る範囲内で他の5名に説明を施す。

「楽市とは畿内で流行っておる《指定した町限定の自由取引市場》の事だ。その町でのみ座や株仲間を廃して、どの商人も税金さえ払えばその町での取引が可能になるのだ」

「成程、それは勉強不足で御座った。勝頼様も良く御存じでしたな」

 楽市を判らなかった5名は、勝頼の説明に素直に感心した。

「実は既に今川家が3年前(永禄9年)に富士大宮で楽市令を出しておるのだ。それと府中(甲府)の《三日市・八日市》との違いを調べた故に覚えが有ったに過ぎぬ」

 勝頼は謹慎中の間に、富士大宮の楽市と甲府で御用商人の座が仕切っている三日市・八日市(月6回開かれるので《六斎市》とも言う)との違いを調べたのだ。

 しかし勝頼には座を廃する事はデメリットが多い気がした為に、此の年7月に富士大宮城を攻略後、未だに楽市を復活させて無かったのだ。

 しかし長安からの書状には、楽市を開いた時の有益性について細かく説明されていたのだ。

 また富士大宮の町は、大宮城の城下町で有ると共に富士浅間神社の門前町でも有る。その為、制度さえ調えれば大きく発展する要素を秘めているのだ。

 その事を朧気にではあるが理解出来た勝頼は、一つの重要な判断を下した。

「では、富士大宮の町に於いて今川家によって行われていた《楽市令》を、駿河平定前だが現時点で武田家で保障して実施する」

 勝頼の判断を聞いた5名の宿老達は、『ハハッ!』とその場に平伏した。


「それで駿河への3度目の出兵についてだが、冬を越して来春辺りを想定しておる。そして、春の出兵を期して水軍の創設に着手したい」

「おおっ、武田家もいよいよ水軍を持つ事が出来るのですな!」

 そう声を上げた信春を含めて、5名共が目を輝かせた。山国である甲斐信濃の大名・武田家にとって、水軍を持つ事は正しく悲願で有ったのだ。

 また、駿河を平定した時点できちんとした水軍が無ければ、駿河湾の制海権を北条水軍によって奪われてしまう。

 そうなっては海に面した領土を持つメリットが存在しなくなるのだ。

「では、如何して水軍を創るのですかな?やはり先ずは、今川旧臣から海賊衆を召し抱える方が宜しいかと…」

 虎綱の助言を聞いた勝頼が説明を加えていく。

「うむ、実は信君(穴山信君)が既に一人帰順させておる。昨日甲府に入って目通りを許した。名は岡部忠兵衛貞綱という元《今川十八人衆》の海賊衆だ」

「成程、ならばその岡部忠兵衛に、他の海賊衆を勧誘させていけば良い訳ですな」

「その通りだ、虎綱。現在、貞綱には外様ながら今川の海賊奉行だった、伊丹康直を調略致す様に命じておる。しかる後に清水湊を母港として水軍を立ち上げるつもりだ」

 勝頼が駿河を平定した時点で、或る程度の水準の水軍を手に入れる考えなのだ。

 そんな水軍立ち上げの計画を詰めようと話し出した時、看経所の外をドタドタと、けたたましい足音を立てながら、金丸惣三が走り込んで来た。

「惣三、五月蠅いぞ!少しは静かに廊下を歩かぬか!火急の要件でも有るまい」

と、昌景が廊下の外に注意する。しかし、その返答の内容は部屋の全員の予想を越えたものだった。

「申し訳御座いません!狼煙台のろしだいを通して駿河の左衛門大夫様(穴山信君)から連絡が御座いまする!今川方の残党が興津の横山城に攻め寄せて参りました!なお、蒲原城の北条勢にも、これに呼応する気配が御座います!」

「なんと!今川の奴等が未だに戦を仕掛けて来る余力が残っておったとは…」

 全く予想していなかった信春が絶句する。しかしそこに勝頼が自分なりの分析を行った。

「恐らくは父上が武田を率いておれば、奴等は動こうともしなかったろうよ。儂は父上程には恐れられて居らぬからな。それに奴等の背後には恐らく徳川三河(家康)が居る筈だ。このまま放っておく訳にもいくまい」

 そう言うと、目の前の昌景を見て命令を発した。

「昌景!お主は手勢を率いて先発致して先ずは江尻城を確保しろ!しかる後、横山城の信君と連携して今川旧臣を切り崩すのだ!」

「承知致した!早速用意を始め、翌朝には甲府を出立致し申そう!」

「うむ、頼んだぞ昌景!儂も本隊を率いて、出来得る限り早く…遅くとも今年中には駿河に駒を進める所存じゃ!」

「畏まりました!駿河に先乗りして御待ちしておりますぞ!」

 そう言って、昌景は立ち上がって看経所から出ていった。直ちに出陣の指示を出す為だ。

 勝頼は惣三に命じて御親類衆の一人の板垣左京亮信安と、極秘に甲府へ目通りに来ていた岡部忠兵衛貞綱を看経所に召し出す事にした。


 板垣左京亮信安は本姓は於曾おぞ氏。元々、信玄の傅役として活躍した板垣駿河守信方が天文17年(1548年)の《上田原の戦い》で戦死。相続した弥二郎信憲も、信玄の勘気にふれ粛清された為に板垣家は断絶した。

 その後、信安が信玄の命により板垣家の名跡を継承して再興している。現在は120騎持ちの御親類衆として活躍している。

 この4月の武田軍の甲斐撤退の際には、穴山信君の寄騎として久能山城に残された。しかし関東遠征時に本国の兵力不足を補う為に甲斐に帰国していたのだ。


 勝頼は二人が目の前に着座すると、彼等に対して昌景と共に駿河に出陣する事を命じた。

「信安、お主は山県三郎兵衛と共に、翌朝には甲府を出立して駿河に向かえ。駿河に到着次第、穴山左衛門の手勢が守る久能山城に再び入り、駿府の旧今川勢を牽制するのだ」

「ははっ、承知致しまする」

 信安は此所に呼び出しを受けた時点で出陣は予想の範囲内だった故に、平伏した後は直ぐに返答した。

「貞綱は清水湊に戻り、お主の持ち船を使って、信安の手勢を久能山沿いの岸に上げてくれ」

 しかし、貞綱の方は思う処が有るのか幾許いくばくか押し黙っていた。

 それに気付いて、勝頼は沈黙する貞綱に問い質す。

「貞綱、如何致したのじゃ?この様な年若の陣代ではいささか頼りにならぬか?」

「いえ、そうでは御座いませぬ!勝頼様に二つ程御頼み申したい事が御座いまする!」

 貞綱は顔を上げて勝頼に訴え掛けてきた。勝頼は目線でその先を促す。

「はっ!先ずは板垣様と共に清水湊の我が手勢も、久能山城の守備に入れて頂きとう御座いまする!」

 勝頼は貞綱の話を聴きながら、まだ部屋に残っていた信春達宿老4人に眼で確認を取ってみた。万が一、砦で裏切る可能性を考えたのだ。

 4人は御互いを見渡して、信春が代表で承諾の合図を送る。それを見た勝頼は、安心して貞綱の申出を受け入れた。

「うむ、良く言った!では貞綱にも久能山城に入って貰うぞ!それで、もう一つの望みとは何じゃ?」

「はっ、実は駿府の今川残党を率いる岡部正綱と岡部元綱の事で御座います。何とぞ彼らを誘降して頂きたいのです。我が同族ながら、彼らならばきっと武田の御家の役に立つと心得まする!」


 岡部次郎右衛門尉正綱は、今川家の重臣だった美濃守久綱の嫡男。

 16歳での初陣の折、兜首2つを獲って早くから武名を馳せた。《桶狭間の戦い》後の今川家を支えていた家臣である。

 また、岡部五郎兵衛尉元綱は同じく今川家重臣の左京進親綱(玄忠)の嫡男。

 《桶狭間の戦い》の際に鳴海城代として活躍。戦後、主君・今川義元の首級を取り戻した事で知られている。

 この《今川十八人衆》に数えられる旧臣達は、武田の間隙をついて駿府・今川館を奪回、当主不在ながらも今川の家紋《二本引き両》をひるがしていた。


 そんな2人を説得して家臣に出来れば言う事は無い。勝頼は貞綱の意見を検討する為に質問を加えた。

「貞綱、ならばその2人を説得するに、最も相応しい人物は誰だと考えておるか?」

 貞綱は少し考えた後に、勝頼に対して一人の高名な僧侶を推薦する。

「それでしたら駿府の大滝山臨済寺の鉄山宗鈍和尚が宜しいかと。あの御人ならば甲斐の窪田氏の出ですし、何と言っても太原崇孚(雪斎)殿の孫弟子に当たられまする。きっと駿府の者達も話を聞くと思いまする」

「成程、良く判った。駿府に兵を進めた際には是非参考にさせて貰うぞ。必ずや久能山を守り切れ!」

 『ははっ!』と2人は答礼すると看経所を出ていった。既に準備を始めた昌景と共に出陣出来る様にする為だ。

「よし、儂等も今宵は散会しよう。本隊の出陣は予定を繰り上げて1ヵ月後の11月下旬とする。だが、不測の事態に陥った場合は更に繰り上げるつもりだ。4人とも宜しく頼むぞ」

「畏まりました。しかしあの岡部忠兵衛とやらは、是非とも家中の誰かしらと血縁を結んで、早い内に武田家中に溶け込ませた方が宜しいですな」

 虎綱の意見に他の3人も同意し、補足する様に昌秀が発言する。

「そうですな。跡取り息子に武田家臣の娘を嫁がせるか、家中の若武者を婿養子に入れるか…。武田水軍立ち上げの為にも良い案ですな」

「そうだな、どちらかを考えておくか…」


 後に、この4ヵ月後の永禄13年(1570年)2月、金丸惣三が岡部貞綱の娘を娶る形で婿養子に入った。

 それに伴い、貞綱には惣三の兄・土屋昌続の名字と新たな受領名を与えられ《土屋豊前守貞綱》と名を改め、舟12艘・騎馬50騎持ちの海賊衆頭(水軍司令官)に就く。

 また、惣三も元服して《土屋惣三昌恒》と名乗りを改め、勝頼の副官として活躍していく。


 翌朝、山県昌景を主将とする武田軍の駿河先発部隊2千弱は、躑躅ヶ崎館を出立した。

 甲斐から駿河に向かうには幾つかの往還(街道)が存在する。その内、昌景達は整備された街道で一番西側を通る河内路(駿州往還)を使って駿河に向かった。

 この往還は富士川沿いに穴山領である河内郡を縦断して駿河に出る。昌景は駿河に入国すると、直ちに興津横山城に後詰に向かう事とし、己の手勢を先陣にして進軍した。

 興津横山城は旧今川軍によって包囲されていたが、下馬した武田軍はそのど真ん中に向けて、喚声を上げながら突撃していく。

「所詮残党じゃ!一兵たりとも損じさせてやる必要は無い!雄叫びをあげて怖じ気づかせてやれ!」

 興津横山城の周囲に、昌景の雷鳴にも似た号令が鳴り響く。

 流石に今川旧臣の中でも気骨有る者達とはいえ、武田軍最強の《赤備え》を率いる山県昌景の怒号に、思わず怯んでしまった。

「まさか、《山県の赤備え》がこんなに早く現れるとは!このままでは城兵と挟み撃ちにされてしまうぞ!」

 山県勢の余りの勢いと喚声に、旧今川勢は駿府の今川館に退いていった。


 興津横山城の城門を潜ると、穴山信君が後詰の武将達を出迎えた。

「山県殿、板垣殿、良く来て下された!お陰で城を落とされずに済み申した!」

「穴山殿、よくぞ守り切ってくれた。あと1ヵ月で本隊を率いて勝頼様が駿河に到着される。それまでは割振りを変更して橋頭堡を守るのだ」

「…成程、勝頼殿はまだまだ駿河表には顔を見せぬ訳ですな」

 信君の顔は笑いながらも口調には僅かにとげが有り、眼には勝頼に対する嘲りの色が宿る。

 昌景にも、信君が『勝頼を次期当主として未だに認めていない』事がありありと理解出来た。

 しかし、(まだ陣代就任からでも半年足らず、信君も時機に心変わりするだろう)と深く追求しない事にした。

「取り敢えず、この横山城と興津の地は、穴山殿が河内衆を率いて守って貰いたい。儂は手勢を率いて江尻城に入って清水湊を守りに掛かる。板垣殿と岡部殿は久能山裏の海岸から城に入り、今川館の連中を牽制に回るのだ。余の者は、寄親の指揮に従え!」

 昌景の指示に、信君・信安・貞綱と寄騎武将達は一斉に『おおっ!』と答礼すると解散して、それぞれの目的地に移動していった。


 穴山信君と河内衆は、他の城を後詰の軍勢に引き継いで、興津横山城と富士大宮城に再集結した。

 既に占領済みの地を防衛すると共に、駿河に展開中の北条勢を牽制する為だ。

 山県昌景と《赤備え》隊、及び既に武田家に帰順した朝比奈信置・瀬名信輝等の今川旧臣は江尻城に入城した。

 江尻城の改修を行うと同時に、清水湊の防衛と穴山・板垣両勢への後詰を担当する。

 板垣信安と岡部貞綱及びその手勢は、先ずは旧今川水軍の海賊大将である伊丹康直を説得して協力を取り付けた。その上で岡部・伊丹の指揮下の船に分乗して、夜明け前の清水湊から出航した。

 三保の松原を迂回し、湊から一刻(約2時間)程の航海で日の出前に久能山の裏手の海岸に再上陸した。

 彼等は久能山南斜面の崖の下をグルリと西側に回り込む。そして興津や江尻が有る東側のみを警戒していた今川旧臣を後ろ側から追い散らした上で、北の大手門から久能山城に入城した。


 久能山は、駿府の南側を抑える形でそびえる独立山岳で、周囲を断崖が覆っている。

 久能山には、推古天皇の御世に創建された《補陀洛山久能寺》という寺院が有る。かつては行基や西行法師も訪れた事がある天台宗の名刹であった。

 また、平安末期の末法思想が盛んだった頃は、崖下の海岸から多くの僧侶が《補陀洛渡海》(信仰に殉じる形での舟に乗って沖合に流されての入水自殺)を行った事でも知られている。

 今川家も南北朝時代の駿河守護就任の頃から手厚く保護していた。また、創建者の子孫にあたる久能氏(久野氏)も今川家の家臣として仕えていたのだった。

 そんな久能山に目を付けたのが武田信玄だった。信玄は第一次駿河侵攻の際に駿府の抑えとして寺域を占拠して、久能寺を清水船越の地に移転させた。

 馬場信春・山県昌景の縄張りで築城を始めたが、4ヵ月で武田本隊が甲斐に撤退してしまい工事が中断した。

 また他の部署と兼任で初代城代を務めた今福浄閑斎も、勝頼の陣代就任の折に京に全権代表として転出した。更には寄騎として残っていた板垣信安も甲斐に戻ってしまった。

 この時点では、城というより《砦》といった規模で、穴山家臣が預かる形で河内衆の一部が守備についていたのだ。

 そんな久能山城に入った信安達は守備につくと共に、久能山城の守りを強固なものにする為、信春が1月に行った縄張りに従って拡張工事を再開した。


 これらの処置により、武田軍は駿河の支配領域を失わずに済んだ。

 今川旧臣だけで無く、北条家・徳川家が武田の隙を虎視眈々と狙おうとした。

 しかしながら山県昌景の指揮によって、他の3勢力の合計に比べれば圧倒的に少数の兵力を効率的に動かし、本隊の駿河再侵攻まで守り通したのだった。


 一方、甲斐府中の躑躅ヶ崎館にいた武田勝頼も、内政と平行して駿河再侵攻に向けての準備を始めていた。

 11月9日には、諏訪大社上社に祈願文を捧げ、神々に武田家の勝利と駿河国の併合を祈願している。

 そして11月下旬には甲斐・信濃から兵力が次々と、府中に向けて集結を始めたのだ。


 駿河への出陣の前日に勝頼は御裏方を訪れて、対面の間で己の兄弟・身内に対して駿河出陣の挨拶を行った。

 そこには嫡男である我が子武王丸の他、妹である松姫(信玄の五女)、菊姫(同六女)と母の介護をしていた長姉・黄梅院がいる。

 そしてその部屋にもう一人、盲目らしき僧侶が座っていた。黄梅院の同母兄にあたる信玄の次男・武田竜芳である。彼は母の三条夫人の見舞に躑躅ヶ崎館に来ていたのだ。


 武田竜芳は、幼い時分に失明してしまった為に、武将としての道を断たれてしまった。

 その後は現在は陣僧として活躍している長延寺実了に預けられてその弟子となった他、信濃の名門である海野幸義の婿養子に入り、海野二郎信親と名乗っていた。

 現在は半俗半僧の修行僧として《御聖道様》と称されている。更には秋山越前守虎泰ほか5名が《聖道衆》の名で附属衆として付けられていた。


「四郎殿、相州討入りの際の活躍を秋山越前達から聞きましたぞ。めしいておる故に四郎殿の役には立ちませぬが、とても楽しみにしておりまする」

 もしも目が盲いていなければ、長兄・義信の死後に後継者に指名されていた筈の人物である。もしかしたら対立さえしたかも知れない。

 勝頼はそう考えると、常に無い程に緊張してしまった。

「…御聖道様に喜んで頂ければ、私としても嬉しゅう御座いまする。この勝頼、非才の身ながらも全力を挙げて…」

「あっはっはっ、同じ父親を持つ兄弟なのですから、そんなに緊張して肩肘張らずとも構いませぬよ」

「はぁ、そう仰有って頂けるならば…失礼致しまするぞ」

 勝頼は足を崩して胡座あぐらで座り直す。それを見ていたかの様な間で竜芳が語り掛けてきた。

「勝頼殿。此の度は駿河に於いて、かつての盟友たる北条・今川両家と相まみえると聞いておりますぞ。彼等に対して如何して対処致す御積もりかな?」

 勝頼は暫く考えてから、竜芳にゆっくりと返答した。

「そうですな…。先ずは武田家の力を今川旧臣や北条・徳川等の近隣諸国に対して見せつけなければいけませぬ。その上で駿河の国衆に帰順を呼び掛けまする。駿河さえ安定すれば、北条も矛先を武田に向けなくなりましょう。さすれば北条との同盟も再び結び直す事も出来まする」

 勝頼の話を静かに聞いていた竜芳は熟考の後、徐に口を開き質問を加える。

「勝頼殿が力を見せつけようと考えておる地は、状勢からかんがみて恐らく蒲原城でしょう。しかしながら、余りやり過ぎると北条に恨みをもたらしましょう。暫くは良くても、後々に手を返して裏切る要因とも為り兼ねませぬ」

 勝頼は、その竜芳の発言を聞いた瞬間に疑問を感じた。

(此の方は、《武士の習い》という物を理解しておられぬのか?僧としての時間を長く過ごされたからか…)

「勝頼殿、貴方はもしや私が武士の心を判っておらぬ、とお思いかな?目を盲いた代わりに《心眼》は常人以上に開いておりますぞ」

 勝頼は心底を見透かされて、竜芳に思わず詫びを入れてしまった。

「申し訳御座いませぬ。つい僧侶として物事を見ておられると思ってしまいました」

「確かに私は僧体故に、そういう見方を致すとはいえ、人の心の本質は余り変わりませぬ。それは僧侶も武士も同様で御座るよ」

 竜芳はそう前置きすると、勝頼に向けて己の考えを延べ始めた。

「勝頼殿。かつて、我等が父上たる法性院信玄公は、元服の頃より右腕と恃んでいた板垣駿州(駿河守信方)殿の献策に従って信濃に兵を進め申した。そして諏訪では、勝頼殿の祖父である諏訪刑部大輔(頼重)殿の腹を召させて惣領家を一旦潰しておる。」

「……」

「佐久では小田井原に於いて、山内上杉方の討ち取った将士3千の首を晒して志賀城の籠城兵への脅しにし、その志賀城の落城の後、投降した城の女子供や領民達を妾にしたり、捕虜にして人買いに売り飛ばして女郎や奴婢(奴隷)と致し申した。まぁ人取りはどの大名もしておる事ではあるが…」


 武田家に限らず、多くの大名の間で戦争時の《男女生捕り》即ち人狩りが横行していた。

 確かな親類の有る者は、1〜10貫文という多額の身代金を払って買い戻された。その為に身代金目当ての人取りも習慣化していた。

 しかしながら、身代金が出せない者は奴隷市場に於いて20〜32銭という安値で取引された。

 有る者は妾や女郎に身を落とされ、有る者は奴隷として過酷な労働を強いられた。

 そして何よりも、多くの日本人が世界的な《奴隷市場》を通して世界の各地に売られていた。

 数年後(天正年間〜)長崎は世界有数の大奴隷市場に成長し、売られた日本人が世界の各地に奴隷として連れていかれたのだ。

 勿論、村人達も自力で生命を守る為に、集落の者が避難する山城を作り、攻めてきた大名から制札(軍勢の狼藉を禁じる木札)を確保し、その地域の領主の城や寺社に保護を要求していた。

 逆に言うと、その領民を敵勢から保護出来ない領主は失格の烙印を捺され、たちまち民心を失ったのだ。


「……」

 勝頼は竜芳の言葉の真意を読み取ろうと、ただ黙って話を聞き続けた。黄梅院や妹達も次兄の話を真剣に聞き入っている。

「信濃には武田への怨嗟の声が満ち溢れ、上杉不識庵殿(謙信)の進出を容易にした。それが全ての原因では無いとはいえ、上杉との戦が信濃の統一を12年遅らせた…とも言える」

 竜芳は武田家が、厳密には板垣信方が指導して信濃平定の際に行った策を、否定的に見ているのだ。しかし既に20年以上経過している《信濃での所業》の話を持ち出す意図が判らない。

「我等が祖父たる信虎公も然り。甲斐統一を果たしてもその治政は敵勢と家臣・領民の血でまみれておった。甲斐が落ち着く迄に父上が甲斐の国主と為られてからも尚、10年程の時間を必要としたのだ」

「……」

 竜芳は、流石に僧侶として説法慣れしている為に、勝頼も思わず考え込まされてしまう。

「甲斐や信濃と同じ所業を駿河でまた致せば、駿河の人心を掌握する迄にまた一世代必要となりましょうな。その子、武王丸が武田家の当主に就く位の時間が…」

「…確かに、言われる通りかも知れませぬが、しかし」

 勝頼は反論しようとしたが、竜芳は勝頼の反論にかぶせる様に発言を重ねた。勝頼もその迫力に思わず口をつぐんでしまった

「しかしですと?勝頼殿は何か此の戦を悠長に考えておるのではないか!駿河だけを見ていては足元を掬われますぞ!越後の上杉謙信(輝虎)殿、相模の北条左京大夫(氏康)殿、三河の徳川三州(家康)殿、越前の朝倉左衛門督(義景)殿、土佐の長曾我部宮内少輔(元親)殿、豊後の大友宗麟(義鎮)殿、薩摩の島津伯囿(貴久)殿、中国10ヶ国を統べる毛利奥州(元就)殿、そして何よりも畿内から尾張を支配下に置く織田弾正(信長)殿…。此の日の本はこれから彼等を中心として、激流の如く激しく動いていく筈ですぞ。その様な時に民草から怨みを買い、足を捕られる様な事は厳に慎むべきで御座ろう!」

 盲目にも関わらず、余りに他国の状勢に精通している竜芳に、勝頼はすっかり脱帽し、再び黙って話を聞き続けた。

「悪政を行うならばいざ知らず、為政者が己の理想を適えつつ、尚且つ敵地だった民草を繋ぎ止める方法は、極論すると2つしか有り得ませぬ。一つは政の王道を歩む事。良政を敷き、優れた人材を登用し、全ての民草達にも喜びを享受させる事。そしてもう一つは《非常の覇道》を歩む事」

「非常の覇道?兄上様、それは一体如何なる代物で御座いましょう?」

 勝頼には、覇道とやらがどの様な策か思い到っていた。が、判らない黄梅院が兄に向かって質問する。

「己の目指す理想の為ならば、逆らう敵は《根切り》…即ち皆殺しに致す。それは敵対する領主に統治する力がない事の証明にもなる。その鏖殺おうさつして空いた土地には、己が領国の者達に土地を渡せば良いのだから…。そして邪魔や口出しをする敵を全て排除して滅ぼし、己の決めた方針に従う者のみを生き残らせていく…その様な事で御座るよ」

 妹達は予想外の凄まじい内容に息を飲んでしまった。幼い松姫や菊姫は思わず涙ぐんでしまう。竜芳は声を落とし、落ち着かせる口調で先を続ける。

「しかし、その様な非常な策を用いる者は必ずや怨みを買い、天罰がもたらされるでしょう。秦の始皇等、過去の本朝や唐土もろこしの歴史を見ても明らかです。だが、それを理解した上で、それでも敢えて己が理想の為に《覇道》を実行する気性の為政者は、現在生きておる者には唯一人しかおりますまい」

「…織田弾正忠信長、で御座いますな?」

 勝頼にはようやく竜芳の言わんとする内容と真意が理解出来た。

「…勝頼殿が判っておる様で、安心致した。ならば、その織田家に正対する迄に如何なる手を打つべきか、自ら判るで御座ろう」

 竜芳は勝頼が若い時分に会った時よりも、精神的に随分と成長しているのを、盲いた目越しに感じて微笑みを浮かべていた。

「…東国で足元を掬われぬ手を打つ訳ですな。それこそ蒲原城で見せしめに《根切り》でも致さば、今は良くても織田と正対した時にしっぺ返しが来る、という訳ですか」

 勝頼は竜芳との説法の様な会話の中に、駿河侵攻でのヒントになりそうな内容を見つけた。更には、関東遠征に於いて打った布石とも相俟って、それは次第に勝頼の中で一つの策として纏まりつつあった。

「ならば此の度は、随分昔に父上が教えて下さった言葉を策に用いたいと思いまする」

 勝頼は一度目を閉じ瞑黙してから、昔、母・諏訪御寮人の横で信玄から直接教えて貰った言葉を徐に唱え出した。

「…《人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵也》で御座る」

「ほう、その言葉は甲斐や信濃の国衆を大事に思う、父上の心底が込められた短歌で有った。つまりは何らかの手段で誘降する訳か…」

 竜芳は勝頼が《蒲原城の将の誰かを調略する》と考えたのだ。しかし勝頼は、あっさりとそれを否定してしまった。

「いえ、一武将に対しての調略ではその周りの武将達、しいては主君である北条家に仇を残す事に為りましょう。先ずは一当て致した後に、誘降なり降伏なりに追い込むつもりで御座る。細かい策は一徳斎に相談致してからですが…」

 勝頼の発言に竜芳は納得したが、それ以上に黄梅院が安心の表情を浮かべていた。勝頼がまだ甲相間の再同盟を模索している事が判ったからだ。

「それでは武王丸の事を宜しくお願い致しまする。それと、此の戦で五郎を戦場に連れて行くつもりで御座る。五郎も来年で十四、そろそろ初陣に相応しい時期でしょうからな」

「おお、五郎殿ももうすぐ信濃の仁科家の名跡を継がれる身、さぞかし喜ぶ事でしょう。御二人の武運を我等一同お祈り致しまするぞ」

 竜芳のその言葉と共に、4人の兄妹は勝頼に対して礼を施し、対面は終了したのだった。


 その夜、勝頼は出陣前の最後の打ち合わせに、馬場・内藤・春日・真田の4宿老を看経所に集めた。

「…という事で駿府や蒲原城の敵の城将達をどうにかしたいのだ。一徳斎、どの様な策を打てば良いかな?」

 勝頼の質問を聞いて、幸綱は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべながら、思わず溜め息を吐き出してしまった。

「勝頼様…また無茶な事を考えなさって…。敵将を城ごと降すなぞは、城を蒸し攻めにして撫斬りを行うよりも余程難しゅう御座いまするぞ!」

「だからこそ、こうして《鬼弾正》の智慧を拝借しようと思っておるのだ。槍働きならいざ知らず、この様な事は苦手だからな。まぁ《餅は餅屋》じゃな。それで、何も手は浮かばぬのか?」

 勝頼の質問に、幸綱は鼻を鳴らしながら否定してみせた。

「ふんっ!勝頼様!此の《鬼弾正》の知謀はいささかも曇っておりませぬぞ!しかしながら、謀略だけでは降す事は出来ませぬ。先ずは力を見せて反抗の意志を挫くが肝要で御座る。調略にて降すのはしかる後の事ですな」

「ならば我等にも出番が有りそうですな、馬場殿」

 幸綱の言葉を受けて、昌秀が信春に期待を込めて語りかけた。

「左様、何時までも三郎兵衛(山県昌景)殿ばかりに旨い処を持っていかれては適わぬからな」

「馬場殿達は良いでは無いですか!それがしはまた府中の留守居で御座るぞ!なんでしたら留守居役を代わって進ぜましょうか?」

 この遠征においても、虎綱は留守居役とされた。彼は東海方面以外の全ての防衛を統轄する事になっているのだ。

「虎綱、お主が府中に居てしっかりとにらみを効かせているからこそ、安心して出兵が出来るのだ。各城代達としっかりと繋ぎを取り、甲信の留守を宜しく頼むぞ!」

 勝頼から改めて頼むと言われて、虎綱も半ば諦め口調で引き下がった。

「やれやれ、致し方有りませぬな。此の度も某が甲信の抑えに残る事に致しましょうか」

 虎綱の言葉を聞いて、勝頼は己を支えてくれる宿老達に向けて指示を発した。

「うむ、では明朝卯の刻をもって駿河に出陣致す!今宵の内に全ての準備を手抜かり無く行うのだ!皆の者頼むぞ!」

『御意!』

 4人は一斉に立ち上がって看経所から出て行った。各々の持ち場の最終確認に入る為だ。

 勝頼も外征中の内政に少しでも独自色を加える為に、各奉行に指示を与えるべく看経所を出て行ったのだった。


 此の翌日、永禄12年(1569年)11月28日、太陽が東側の山の稜線から顔を出すと同時に、躑躅ヶ崎館の大手門前の丸馬出まるうまだしから一人の武将が歩いて来る。

 父・信玄が所用した《諏訪法性の兜》を譲り受け、己が長年使い込んだ《紅糸威最上胴丸》の鎧を纏った武田勝頼が将兵達の前に姿を現した。

 足軽達は、所属を表す色とりどりの旗指物をはためかせ、それを率いる将達も意匠を凝らした鎧兜を纏っている。

「これより駿河に出陣する!全軍、陣場奉行が定めし序列に従って行軍するのだ!者ども、出陣じゃ!」

 勝頼が号令と共に手に握った軍配を降り下ろすと、『おおぉ!』と地鳴りの様な雄叫びが夜が明けた府中の町を震わせた。

 そして、次々と南へ…次なる戦場である駿河の地へ出撃していく。

 

 この勝頼主導の駿河再侵攻は、《三増峠の戦い》に続き、周囲の大名達に対して『陣代・武田勝頼』の名を知れ渡らせていく。

 既に戦争状態に入っている北条家や徳川家を始め、《甲越一和》で休戦中の上杉家、《甲尾同盟》を締結中の織田家等、各地の大名達は新たな対応を迫られる事になっていくのである。

この話の中の《戦国時代の人身売買》のくだりは、当時の資料等にも記述が有る事実です。一見華々しく見える戦国時代も一皮剥くとこんな暗い一面が有るんだ、と思って貰えば幸いです。乱文ですが、次回も宜しくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ