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参之余:藤十郎京畿を行く(上)〜堺での日々〜

今回はいわば番外編です。新しい武田家の近世化の鍵を握る、土屋藤十郎(正史での後の大久保長安)達を中心に話が進んでいきます。相変わらずの乱文ですが、読んで頂ければ幸いです。

 遠国では、今まで全く見た事が無かった様な小綺麗な格好の町人達、山の如き大きさながらも港に浮かぶ南蛮の帆船、そこに集い商いを行う人々の活気と喧騒…。

 ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラや、ヴィレラの後任の宣教師ルイス・フロイスなどが《東洋のヴェニス》《黄金の都》と讃え最大級の賛辞を送った自由都市・堺は全てが新しく、人々の目線と心を奪っていく。此所は正しく日之本で最も文明が進んだ地なのだ。

 時は永禄12年(1569年)9月中旬。織田弾正忠信長の上洛から1年が経過していた。


 そんな堺の町の喧騒を避ける様に2人の男が歩いている。

 前を歩く男はひたいが常人より巨きな異相だ。それに伴って頭身が他の人よりも小さく、言わばズングリムックリである。しかし20歳代前半の容貌ながらも、その瞳は知性と野望の光を湛えていた。

 男の名は土屋藤十郎長安。父は甲信の国主・武田信玄に猿楽(後に『能』や『狂言』に発展する)衆として仕える、猿楽師の大蔵太夫十郎信安。

 兄の新之丞共々、信玄によって士分に取り立てられ、土屋昌続の寄騎に付けられた。

 だが、長安の才は槍働きよりも経理や領国管理等の《文官の業務》の方が向いており、それを武田家陣代(当主代行)の左京大夫勝頼に売り込んだのだ。

 勝頼は陣代就任直後に長安を召し出し、任務を授けて堺の町に派遣した。その任務とは大きく二つ。

 一つは現在甲斐の金山でも行われている《灰吹法》と呼ばれる鉛を使った金属精錬法に代わる、新しく尚且つ大量に金銀を採取可能な《南蛮渡来の金属精錬法》の会得と必要な技術の確保。

 もう一つは大量の鉄砲の確保と鉄砲や玉薬の入手ルートの構築である。

 どちらも難問では有るが元来自信家故に即答で引き受けたのだ。


(それにしてもこの堺に着いて10日程経つが、織田家の連中が随分と幅を聞かせておる。やはり昨年の織田弾正(信長)上洛の折に矢銭(軍資金)を2万貫払わされて腰が砕けたか…)

 そんな事を考えながら歩く長安に対して、後に控えている初老に見える男が小声で語り掛けてきた。

「余り織田の奴等をジロジロ見るな、藤十郎殿。こんな処で一悶着が起きては儂でもお主を守り切れん。何より主命とやらを果たせず終いになるぞ」

「すまなんだ、段蔵殿。これでも目立たぬ様にしておるつもりだがな」

 長安は歩調を緩めてその男に語り掛ける。

「しかし、良く勝頼様はお主の様な手だれの者を儂に付けてくれたものだな」

と長安が語り掛けると、《段蔵》と呼ばれた初老の男が軽く微笑みながら事情を語り出した。

「いや、此の夏の代替わりが無ければ、儂はあの信玄入道殿から殺されておったろうよ。されど、陣代に就いた勝頼殿が儂を殺さずにお主の護衛に回してくれたお陰で、今もこうして生き長らえておる。まぁ向こうにすれば甲斐で動かれるよりも外に出しておいた方が安心するのだろうさ」

 此の初老に見える男の名は加当段蔵。通称《鳶加当》とも《飛び加藤》とも呼ばれる凄腕の忍者である。半ば一匹狼の様に活動し諸大名に恐れられていた。

 上杉謙信に仕官してその力を試された時に、直江大和守景綱の娘を誘拐して謙信の元に届けた。しかし、逆にその実力を警戒した謙信から殺害されそうになり逃亡した。

 その後、跡部尾張守勝秋(号は攀桂斎祖慶・勝資の父)の仲介で武田家に仕えるのだが、信玄でさえも段蔵の実力を警戒し始末する事も考えていたのだ。

 その実力は跳躍力はまるで空を翔ぶが如く、一人前の忍者を遥かに凌駕する。身体を極限まで鍛えた為にまだ初老に見えるが当年で67歳という正しく《伝説の忍者》である。

「だがその為に京でとんでもない苦労をする羽目になったんだがな」

 その様に段蔵が言うと長安はもう懲り懲りと言わんばかりに首を竦めた。

「あの京の事はもう思い出したく無いな。大体《首斬り浄閑斎》は人遣いが荒過ぎる!」

 そんな会話を交わしながらも2人は堺の町の喧騒の中を歩いていた。


 長安と段蔵、それに仕える小者達が甲斐府中に有る躑躅ヶ崎館を出たのは永禄12年(1569年)の6月初めの事である。

 彼等は東山道を東に上洛してその月の内に京の都に入った。京に2月から入って越後との和議の仲介を依頼するべく、幕府と交渉している市川十郎右衛門尉や長延寺実了(師慶)に甲州金を届ける為である。

 しかしそこには勝頼から対幕府・朝廷外交の全権代表に任命された今福石見守友清(浄閑斎)が馬を乗り継いで先に上洛していた。

 浄閑斎は甲州金を届けに来た彼等を一瞥してこの様に言い放った。

「此の京に寄ったからには、儂の下知に従って貰うぞ!市川や実了同様に京でみっちり働いて貰おうか!」

 …その後約1ヵ月半の間に、長安は幕府の取次役・一色式部少輔藤長や織田の取次役・明智十兵衛光秀や細川兵部大輔藤孝、それに公家の窓口である神祇大副・吉田兼右等と頻繁に会い、交渉の補助を行った。

 幸い長安には父親から幼少の頃より叩き込まれた《金春流猿楽師》としての業が有る。他にも色々と教えて貰っていた事が、この《文化知識人》的な相手との交渉に非常に役に立った。

 一方段蔵は連日連夜何処かの邸宅に忍び込み諜報活動を繰り返した。

 その甲斐もあってか、8月中旬には《武田・上杉間の和睦成立(甲越一和)》《北条宛の和平を薦める御内書入手》《勝頼の正五位上左京大夫叙任》の3件を全て行って見せたのだ。

 確かに浄閑斎の交渉能力が優秀な事は事実だったが、この人遣いの荒さで元々京で働いていた小者の何人かは跳散した。中には自害した者さえ居たのだ。

 しかし浄閑斎は頑固なまでに己の方針を全く変えずにやり通したのだった。

 因みにその後、実了は暫く後に長安から荷物を預かって甲斐に帰国、東国での交渉を担当する。浄閑斎と市川などが京に留まり対幕府・朝廷の交渉を取り仕切る事になる。

 そしてこの交渉の成果を早馬で届けられた武田勝頼は関東遠征を開始するのである…。


 その後浄閑斎の居る京を離れた長安一行は伏見から淀川を下り、石山本願寺を横に見ながら堺の町に入った。

 長安達は堺の町に入ると、先ずは知己を作る為に何処かの商人に近付く事にした。幸い《金春流猿楽師》という肩書きは文化人が数多く居る堺でも充分に役に立った。

 その伝てで初めて体験した茶会の席で、長安達は薩摩屋という豪商と知己となった。その若き主人は、長安と同世代で新鋭の茶人でも有る山上宗二である。初対面から歯に物着せぬ物言いだか、長安と意気投合し堺での宿舎に自宅の屋敷を提供してくれる事になったのだ。

 そんな薩摩屋に長安と段蔵は帰り着いた。

「ただいま帰ったよ。宗二殿は茶会にお出かけかい?」

と手代に聞くと、

「いえ、御主人様は今日は奥の座敷に居られます。何でも千宗易(後の千利休)様も今井宗久様も天王寺屋(津田宗及)様も織田様に呼ばれて上洛されたらしく…」

との返事を返した。

 長安は段蔵に武田方の小者の取り纏めを頼み、一人で奥の座敷に歩を進めた。

「宗二殿。ただいま帰った。お主師匠達に振られたのか?」

 奥座敷に上がった長安は中に居る薩摩屋主人・山上宗二に話掛ける。既に御互いに気を使わない仲になっていた。

「五月蠅い、藤十郎殿。ならばお主が茶に付き合え。作法は改めて一通り教えただろう?前のままなら話にならんがな」

「宗二殿、その口の悪さ故に三匠(宗易・宗久・宗及)に置いていかれたのだろう?織田弾正の逆鱗に触れては後の商売にも差障りがあるからな」

「五月蠅い、お主に言われんでも判っておるわい」

 そう言い合いながら、2人は薩摩屋の中庭に建てられた茶室に上がり込んだ。密談をするにも便利な為だ。


「で、藤十郎殿。日比谷了珪殿とは如何になっておるのだ?南蛮人と引き合わせて貰えたか?」

 庵主である宗二が茶を点てながら長安に質問する。

 日比谷了珪とは同じ堺の豪商だが、キリシタンとしても知られていた。宣教師のカスパル・ヴィレラを自宅に招き、堺初の南蛮寺(カトリック教会)を建てた人物でもある。

「宗二殿のお陰で日比谷殿に紹介して貰って、南蛮の山師(鉱山技術者)に会う事が出来た。そこで儂が求めていた精錬法が朧気ながらも判ってきた…うむ、結構な御点前、いつもながら見事な所作だな」

 長安は宗二が点てた茶を味わいながら質問に応じる。

「ふんっ、お主に褒められても何も出ぬわ。新たな精錬法とやらは今の《灰吹法》と如何に違うのだ?」

「ふむ…、《灰吹法》と南蛮の精錬法の違いだがな…」

 長安は鉱山技術の素人である宗二に精錬法の違いを説明していく。


 《灰吹法》とは、金鉱石や銀鉱石と鉛を炉で溶かして《金鉛(銀鉛)ぐさり》(貴鉛とも言う)と言われる化合物を作り、それを灰皿や灰吹炉で熱して鉛を灰に吸収させる。それを何度も吹き直して金銀の純度を高めていく。

 但し高含有の鉱石しか使えない為に無駄に捨てる部分が多く、また純度を高めるのには何度も吹き直す為に予想外に費用対効果が少ないのだ。(それでも灰吹法さえ無い頃から比べれば雲泥の差ではある)

 それに比べて《水銀みずがね流し》と言う新精錬法は正式には《アマルガム精錬法》と呼ばれる。(または混汞こう法とも言う)

 鉱石を細くて砕くのは同じだが、溶かした鉛の代わりに液状の水銀の中に入れる。

 すると水銀特有の他の物とくっつき易い特性(親和性と言う)によって金銀と水銀が《アマルガム》と呼ばれる水銀化合物に変化する。そしてそれを加熱すると水銀が蒸発して高純度の金銀が取り出せるのだ。

 この方法だと低含有の鉱石や含有率が低い故に廃棄された鏈も再使用可能だが、蒸発した水銀による水銀中毒の危険が大きかった。(但し当時の人々にとって、水銀中毒は《不可思議な病気》と言う認識しか無い。その事が判るのは数百年後の事だ)

 また、鉛に比べて水銀の確保が難しい事も問題であった。

 余談だが、1545年に発見された南米のイスパニア・ペルー副王領に有るポトシ銀山では、これより3年後の1572年にアマルガム精錬法を導入、イスパニアに莫大な銀をもたらし、ヨーロッパの銀の価値を暴落させたとまで言われている。


 長安から新しい精錬法の説明を聞いて宗二は、ふと思い付いた疑問を口にした。

「藤十郎殿、南蛮の山師にしてみればこの事は秘中の秘であろう。高々10日ばかりで何故そこ迄聞き出せたのだ?」

「なに、供の者と2人で相手を酒で酔わせた上で、掻い摘まんで聞き出したのよ。微に入り細に入りは聞いておらんよ」

(まぁ段蔵殿の事だから薬くらいは盛ったやも知れんがな)

 後半の言葉を長安は宗二に聞こえない様に呟いた。

「ならば、酒の席程度の話で何故その様に細く判ったのだ?」

「それはな、我が日の本でもそれと同じ理屈の事を既に行っておったからよ…即ち《鍍金(金メッキ)》じゃ!」

「何とっ!鍍金か…確かに鍍金の溶剤には水銀みずがねが使って有った。ならば同じ理屈で金銀を選り分けれる訳か!」

「その通り!他の金物に金の膜を付ける代わりに金銀だけ取り出せば良いのだ」

「うむ、成程な。実際、一昨年の《南都焼討》の折、松永弾正(久秀)が燃やした南都(奈良)東大寺の大仏にも鍍金が施しておったしな」


 宗二が言う《南都焼討》とは、第13代将軍の足利義輝(義昭の兄)の殺害後の勢力争いの中で、永禄10年(1567年)三好三人衆方と松永弾正少弼久秀の間の戦いが奈良(南都)の東大寺の寺域のど真ん中で繰り広げられたのだ。

 そして10月10日に松永方の兵から大仏殿が放火されて全焼し、この時点では大仏は兵火で金メッキが剥れて野晒し状態になっていた。


「但し、鍍金以上に水銀みずがねを大量に調達しなければならんのだ。宗二殿、なんか良い方策は無いものかな?但し、《朱座》は余り通したく無い。足元を見て、値を吊り上げられるからな」

 突然、長安から難問を振られて、宗二は思わず声が上擦ってしまった。

「ち、一寸待ってくれ!藤十郎殿も知っておるだろう?堺に入る水銀みずがね辰砂しんしゃは全て《朱座》に押さえられておるのだ。堺では《朱座》を通さねば水銀は手に入らんぞ!」


 辰砂(丹・朱砂とも言う)は赤色の硫化水銀の事で、明国の辰州が有名な産出地で有る事からそう呼ばれている。因みに黒色の硫化水銀は黒辰砂と呼ばれる。

 共に古来から朱色や黒色の顔料や化粧の原材料として使われていた。

 そして、辰砂を加熱・脱硫すると水銀蒸気が発生、それを冷却すると液体金属である水銀を取り出す事が出来る。

 その水銀や材料の辰砂を堺や博多に於いて取引する商人達の集まりが《朱座》である。

 朱座では水銀を鍍金用に製造・出荷したり、辰砂を明国から輸入・加工して朱墨・朱肉や漆に混ぜる顔料・化粧・丸薬等を製造して販売していた。

 そして朱座はその町に於いて、水銀と辰砂の独占的な流通・販売権を握っているのだ。

 また堺や博多の他に水銀鉱山が有る伊勢和気の丹生鉱山には《水銀座》が存在していたが、この時期は既に織田家の手が伸びて武田家が注文しにくくなっていた。


「お主がもしも長い間堺で動く必要があるならば、余り無理を言い過ぎない事だ。《損して得取れ》と言うではないか」

 宗二は長安に向かってそう言って諭した。

「そうだな。他にも欲しい物が有るからな。宗二殿、お主の薩摩屋では《種子島》は扱うておらんのか?出来るだけ…数百挺単位で欲しいのだがな」

「だから余り無茶を言うな。鉄砲ならば最大手は宗久殿の《納屋》(今井家の屋号)だが、他には鉄砲又殿の《橘屋》か鍛冶師の芝辻清右衛門の処辺りか…」


 《鉄砲又》とは堺に於いて初めて鉄砲の製造を成功した橘屋又三郎の事である。

 天文12年(1543年)に種子島に鉄砲が伝来すると、又三郎と紀伊根来寺・杉之坊の津田監物算長の2人が種子島を訪れた。

 2人は種子島で鉄砲の製造・発射の技術を学び取り、鉄砲を持って各々の土地へと戻っていく。

 津田監物は当時根来坂本に居た堺出身の鍛冶師・芝辻清右衛門に鉄砲を複製させた。それと共に自らその発射法を研究して《津田流火術》を創り上げる。それにより根来と隣の雑賀は鉄砲の生産とそれを操る傭兵の実力でその名を轟かせていった。

 一方、又三郎は堺に戻ると、既に堺で発達していた鋳物鍛冶師と刀鍛冶を集めて鉄砲鍛冶場を立ち上げて鉄砲の量産を開始、他国にも販路を広げていった。その勢力的な活動によりいつしか《鉄砲又》の異名で呼ばれる様になったのだ。

 更に大和今井の出で堺の老舗である《納屋》の店主に収まった今井宗久は、鉄砲の威力に着目して製造・販売を開始した。更には火薬に必要なインド産の硝石の輸入を手掛ける事により最大手に登りつめたのだ。

 現時点(永禄12年)では、堺はこれらの商人を中心として日本一の鉄砲の生産拠点に成長していた。


 堺の鉄砲商人について宗二から説明を受けた長安は暫く思案して答えた。

「ふむ…。宗二殿にちと尋ねるが、もしも織田弾正殿に禁制を出されたら、今井殿は鉄砲や玉薬を他の大名に売らなくなるのでは無いか?」

「うむ、宗久殿は随分と織田殿に入れ込んでおるからな。有り得る事ではあるが…。ふと考えたが、長安殿に一つ言っておきたい事が有る」

 宗二は姿勢を改めて正すと、厳しい表情で長安を問い質した。

「お主は初めての茶席の折、『東国のとある領主に仕えておる』と言っておっただろう。それ故に今まで細く聞かなかったが、お主の仕える主君は一体何者なのだ?儂は織田殿は余り好きではないが、今の三好や松永のような輩は虫酸が走る程嫌いだ。もしもこいつらが主ならば儂は一切手を引くぞ!」

 長安は狭い茶室の中眼光鋭く睨み付ける宗二を見て、

(この人物に誤魔化しは効かぬ、むしろ全てを明かすべきだ)

と心を決めて打ち明けた。

「宗二殿。儂は嘘はついておらん。儂が仕えておる主君は東国の甲斐・信濃を治める武田家、その陣代の武田左京大夫勝頼様じゃ!」

 長安の発言に宗二は半ば驚きながらも疑問を口にする。

「武田勝頼とは…《甲斐の虎》との名が轟いておる武田信玄殿は如何したのだ?」

「信玄公は隠居なさる予定だ。そして陣代の勝頼様がじきに新当主になる。今川から駿河を切り取った時点でな。…儂が考えるに、武田家と織田弾正殿は今でこそ盟約を結んではおるが《両雄並び立たず》、いつか対立して戦をする日が来ると思っておる。その時に堺を締め出されて鉄砲や玉薬を封じられたら万事休すだ。だからこそ織田家と関わりが薄い処を選んだ上で商いをせねばならん。出来得るならば、儂はそれを宗二殿に担って欲しいのだ」

 宗二は長安が喋り終わる迄黙って聞いていた。そして暫く瞑目したままで思案する。

 2人の間に長い沈黙が続いていたが、宗二は目を開けると無言のままで、おもむろに茶を点て始めた。狭い茶室に爽やかな抹茶の薫りが広がり、2人の心を落ち着かせてくれる。

「……」

 手渡された茶碗を受け取り茶を味わいながら、長安は宗二の次の言葉を待った。

「…宗久殿達が織田に肩入れをするのならば、儂が敢えて別の勢力に力を貸すのも悪くないか。この堺が商人自治の町の矜持を守る為にも天秤が片側に偏らぬ方が良かろうしな」

 その様に語る宗二の話を聞いて、長安は感激で顔を上気させながら宗二の両手を取り握った。

「有り難き事この上なし!宗二殿、本当にかたじけない!」

「勿論、こちらも商売だから儲けさせて貰うぞ。但し儂は、飽くまでも藤十郎殿を信用して投資するのだ。お主の主君・武田勝頼殿がつまらない者ならば儂は直ぐにでも手を引かせて貰うからな!」

「うむ、儂が任務を果たして甲斐に帰国したら勝頼様に目通りできる様に致すつもりだ」

 そう言って喜びで興奮気味の長安に対して、宗二は冷静に話を進めていく。

「ならば藤十郎殿、お主は主君の勝頼殿を如何なる人物だと考えておるのだ?」

「ふむ…良く言えば《勇敢で情緒豊かな理想家肌》と言う処だ。まぁ逆に言えば《猪突する癖が有って感情的で坊っちゃん育ち》なんだがな…」

 長安は自分が思っている勝頼像について端的に述べる。更にはこの夏までの半年間、敵の挑発に乗ったせいで戦に負け、信玄から謹慎命令を受けた事まで宗二に公表した。

「…随分と身も蓋も無い言い草だな。そこだけ聞くと、何故藤十郎殿が仕える気になったのか判らんな」

 宗二は長安に対して率直な感想を述べる。一瞬、武田との取引を再考した程だ。

「宗二殿。だが勝頼様は謹慎されてから随分と変わられた。他人の意見に耳を傾け少しでも己を磨こうと必死で足掻いておられる。そんな御方だからこそ、儂や若手の家臣、そして重臣達も支えていこうと思えるのだ」

「……」

「そして信玄公もそんな勝頼様を見て、近頃は認めておられるのだ。恐らく駿河を完全に支配下に収めた時点で正式に家督を譲られる筈だ。武田は変わるぞ!いや、勝頼様を中心に儂等が変えて行くのだ!」

 長安の話を聞いていて、宗二は己の心の中に沸々と熱く湧き上がる物を感じた。元来激情家で良く茶道の師匠である千宗易からも良くたしなめられる位なのだ。

「藤十郎殿がそれ程迄に考えておるならば、儂もその勝頼様に目通り迄に、或る程度の実績を作っておくとするか」

 そう言うと、使い終わった茶器等を丁寧に片付けながら長安に話し掛ける。

「よし、そうとなれば話が変わってくるぞ!先ずは堺の他の商人から…宗久殿や鉄砲又殿から鉄砲と玉薬を、それに朱座から水銀みずがねを、全部で予算の半分位迄買っておけ!それと丹生の《梅屋》にも注文して水銀を取り寄せてやろう!」

 《梅屋》とは丹生鉱山を支配し、水銀座を管理している商人である。宗二は敢えて武田・織田間が断交する迄の期間は丹生の水銀を利用する事を提案した。

「うむ、承知したが…残りの半分は如何致すのだ?買い付けの予算を半分も余らせても仕方が有るまい」

 長安には宗二の行おうとしている事がいまいち理解出来ずに思わず聞き返す。しかし宗二の返答は長安の想像を遥かに越えた内容だったのだ。

「うむ、お主が持ち込んだ甲州金で明国や南蛮の者に売れそうな品々を買い付ける。それをこの店の商品共々琉球まで売りに行くのだ!そして琉球で堺より安値で水銀と硝石を仕入れてやる!」

 当時、琉球王国は明国や日本・朝鮮、更には南方の国々や南蛮との中継貿易で莫大な利益をあげていた。しかも堺などよりも税金(上納金)を安く押さえられるのだ。その事がまた琉球王国に寄る船を増やして更なる富をもたらしていたのだ。

「何と…琉球とは考えが及びもつかなんだ。しかし遠くに取引に行くと逆に経費が掛かるのではないか?」

「いや、この堺では《会合衆》(豪商による自治組織)が居るし、それぞれの品物に《座》が有るから、或る程度の銭を何ヶ所にも納めねばならぬし、関所を通過するにも金が掛かるのだ。それ故にわざと琉球まで足を伸ばして直接買い付けて来る方が安くつくのだ。だが船便は危険もある上に風によっては時間も掛かるので、わざと半分だけ先に堺で買っておくのよ」

 宗二は《中間マージンの件数を減らす》事で低価格化を狙っているのだ。更に半分だけ堺で仕入れるのは《リスク回避の為の保険》に繋がる。

 これは商人ならではの発想と言える。門外漢の長安には全く解りにくい内容だった為、宗二に頭を下げて全面的に頼るしか無かった。

 因みに、後日薩摩屋が琉球から駿河に直接届けた輸送船の第1便に詰まれた大量の硝石が、元亀2〜3年(1571〜72年)の勝頼による遠江・三河等への侵攻作戦を支えていく事になる。


 薩摩屋茶室での密談から数日間、長安は持参した甲州金の半分を宗二に預け、残り半分を使って堺の豪商達の店を訪ねて水銀、辰砂、鉄砲、硝石等を買い付けに回った。

 水銀と辰砂は《朱座》や《丹生の梅屋》への注文を通してほぼ予定量を確保出来たが、鉄砲と硝石は予定を大きく割り込んでいた。

 商人達は日に日に増していく織田家からの圧力を恐れて、鉄砲や硝石を大量には売ってくれないのだ。

 それでも硝石は宗二が今井宗久や千宗易に口利きしてくれてようやく確保する事が出来た。

 しかしながら、鉄砲は堺に居るどの鉄砲鍛冶場も織田家や三好家、本願寺等の注文が増え、それに対応するのが精一杯だった。

 とても武田家が新たに大量発注など出しても受け入れる状態では無いのだ。

 結局各店舗の在庫と宗二が種子島産の鉄砲を調達してくれた分も含めて50挺を僅かに越えた程度しか確保出来なかった。

 因みに織田信長はこの翌年である永禄13年(1570年)、松井夕閑を召し出して堺政所(後の堺奉行所)を設置する。堺に対して更に織田からの圧力が増して、他の大名は堺に於いて益々鉄砲が確保しにくくなっていく。


 夜、その日ようやく確保した鉄砲を荷物に梱包して薩摩屋の客間に戻って来た長安は、一人畳の上で転がって思案していた。

(取り敢えずは新たな精錬法は目処が就きそうだ。水銀や硝石も宗二殿が琉球まで足を伸ばして頑張ってくれる。しかし大量の鉄砲を確保するには如何すれば良いか…)

 長安は鉄砲などは甲州金を積めば幾らでも手に入ると考えていたが、この数日で認識を完全に改めていた。

(これ程手に入れ難い中、武田は千挺近い鉄砲を保有しておる。正しく御屋形様(信玄)の手腕か…。しかし勝頼様の謹慎先で甘利郷左殿(信康)が『古い鉄砲が多く相当老朽化した』と嘆いておったな…)

 長安には鉄砲確保の重要性が益々判って来ている。他の大名の家臣が血眼で鉄砲を求めるのも、ここ数日何度も目撃した。

 しかし、かつて武田家や上杉家が注文していた近江国友村は既に織田家が浅井家と共にその影響下に置いていた。

 更にこの堺にまで織田家の圧力が加わりつつあるのだ。長安は暗澹たる気分を味わっていた。

(今後如何にすれば良いか…いっそ自ら種子島迄足を伸ばして…いや、余りに遠過ぎる!と、すれば後は紀伊の根来寺か雑賀荘辺りか。明日の朝に宗二殿に相談致してみるか…)

 そんな事を考えながら長安は遅い眠りに着いたのだった。


 翌日、長安は宗二に対して鉄砲確保の為に紀伊に向かう事を相談してみた。

 宗二は長安の提案を聞いて同意してくれた。

「うむ、堺でさえこの程度しか手に入らなかったのだ。鉄砲のみは仕入れ先を変えるのも良いかも知れんな。それならば雑賀荘の領主の鈴木左太夫殿(重意)が良かろう。あの御人ならば取引の折に何度か顔を合わせておるぞ。書状を用意する故に持って行くが良い」

 そう言って左太夫宛に紹介状まで用意してくれたのだ。

「宗二殿、何から何まで本当にすまない。今の儂には感謝を言葉でしか表す事が出来ぬ。だから、儂が出世をしたら必ずや薩摩屋に武田の中で《座》の席を用意させて…」

「あぁ、いらんいらん、そんな物は必要無い」

 長安は宗二の心遣いに感謝して、武田領内での《座》の加入を約束しようとしたが、宗二の方からあっさりと拒否されてしまった。逆に長安の方が新たな提案を持ち込まれてしまった。

「長安殿、もしも儂の願い事を叶えてくれるならば、武田領内に…本国の甲斐・信濃では反発が有って拙かろうから、駿河の何処かの町に《楽市》を作って貰いたいのだ」

「宗二殿の望みならば是が非でも叶えてやりたいが、恥ずかしながら《楽市》と言う物を知らんのだ。一体全体何の事なのだ?」

「成程、知らねば叶え様も無かろうて。儂が掻い摘まんで教えてやろうではないか…」


 《楽市》の《楽》の文字には規制が緩くなって自由に活動する、という意味が有る。

 つまり、城下町や門前町(寺院の前に整備された町)に於いて、座や株仲間を作り《独占販売権・非課税権・不入権(他者を排除する権限)》等の特権を持っていた一部の商工業者や問屋を排除、座を解散させて、《自由取引市場》を作り出す経済政策で、楽市楽座・破座とも言われる。

 そして全ての業者にその町での事業を認める代わりに薄く広く課税する事で、新興業者を育て経済を活性化しながら町での支配力を高めるのだ。

 この政策は天文18年(1549年)、近江の六角定頼が本拠地の観音寺城下に《楽市令》を布告したのが最初で、その後20年程の間に近畿・東海地方を中心に広がっていった。

 武田家はまだ導入していないが、今川氏真が既に永禄9年(1566年)に駿河大宮の地で楽市令の布告を行っている。

 また織田信長も強い関心を持っており、美濃加納で既に有った楽市を美濃併合後も認めていた。

 逆に言うと、堺の豪商達は信長が堺に楽市令を布告する事を恐れている。ある意味人質を取られて言いなりになっているのだ。


「…成程。宗二殿のお陰で楽市が如何なるものか理解出来た。しかし楽市が何故、宗二殿の利益になるのかがさっぱり判らんのだが…」

 長安の発想では、楽市によって商売敵が増えるだけで、宗二の利益にならない様な気がしたのだ。

「いやいや、そうでは無い。規制を無くして新たな商人が集まる事で町に他の人々も集まり活気が出来る。その活気が更に人を引き寄せて活気が増す。その人々が客となり、品物が売れて商売も上手く回りだすのだ。その中には他国から来る者も外国から来る者も居る。楽市には珍しい品物や新しい情報も集まって来るのだ。儂自身も高い値段で在庫が売れ残るよりも薄利多売で売り捌いた方が良いからな」

「うむ、成程。凄く面白い発想だな。儂がある程度の役職に就いたら必ずや勝頼様に楽市の件を認めて頂く!宗二殿、暫く待っていてくれまいか?」

「ああ、これは藤十郎殿への《信用貸し》だ。出世したら必ずこの貸しは返して貰うぞ!」

 そう言い合うと2人はがっちりと固い握手を交わし合った。

 この時、長安にはまだまだ朧気にしか判らなかったが、商人の発想の一端に触れる事が出来た。

 この事が数年後に駿河・甲斐を中心とした地域が畿内・西国に次ぐ新たな経済圏として成長していく端緒となるのである。

 

 約1ヵ月の堺での活動に目処を付けた長安は、先ずは堺で買い集めた鉄砲・硝石・水銀・辰砂等を梱包して荷車に載せ、薩摩屋の店の者と甲斐から連れて来た小者達が甲斐まで運ぶ様に手配した。

 彼等は先ず京に移動し、同じく帰国する予定の長延寺実了と合流後、共に甲斐に帰国していった。

 そして彼等を送り出した長安自身は、加当段蔵と飛脚出身の小者・成田の藤兵衛の2人だけを連れて、河内・大和に迂回して紀ノ川を下り雑賀荘に向かうのだ。 

「宗二殿、本当に御世話になった。いや、これからも商売を通して世話を掛けるんだがな」

 薩摩屋の店先で旅支度を済ませた長安が宗二に対して語り掛ける。

「ああ、前金を貰ったからには必ず琉球で品物を揃えてやる。安心して雑賀の男達を口説き落としてこい!」

 そう言って宗二は長安に手を伸ばした。長安と宗二は別れ際に固い握手を交わした。

「では、また会おう、宗二殿!」

「うむ、藤十郎殿、次は駿河の何処かの港でな!」

 そう言い合うと長安達3人は河内に向かう町の門に向けて歩を進めて行くのだった。


 時に永禄12年10月初旬、堺の町に冬の寒さが少しづつ迫る頃の事であった。

読んで頂いてありがとうごさいました。この藤十郎達の動きが、勝頼率いる武田家をまた一つ別の方向に動かしていきます。取り敢えず次回は甲斐に話を戻す予定です。是非次回も宜しくお願い致します。

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