廿玖之余:霧城哀花~女城主の泪~
今回の話は、武田家に因って攻められる東美濃の岩村城、そして1組の男女…秋山虎繁と於艶の方の話です。拙い長文ですが、読んで頂ければ嬉しく思います。
暦の上では、既に仲春の頃を迎え乍らも、周囲の山々は未だに雪化粧に覆われ、城の東方に聳える水晶山は、正に其の銘を体現為るかの如く白銀の煌めきを放っている。
僅かに緩んだ寒気と雲の切れ間から差し込む日差し、そして日溜に顔を見せる蕗の薹が、少しづつ迫る春の到来を知らせて呉れる。
だが、そんな蕗の薹も見つけられた途端に次々と摘み採られて、飢えた人々の貴重な食料と為ってしまう。
天下屈指の堅城と名高い此の山城も、城に籠る者の倍近い軍勢に囲まれ、山を越えて西に居る筈の味方も、最早後詰の軍勢を送って来る気配さえ感じられない。
残り少ない糧秣で城に籠る者達の間には、既に見捨てられたかの様な陰鬱な空気が漂っていた。
そんな山城の山頂に構えられた本曲輪の櫓上に、袴姿の1人の女性が佇んでいる。
艶やかな黒髪を後ろで束ね、額には鉢金(金属の板を縫い付けた鉢巻)を締め、白い襷を掛けて袖を捲っている。
右手には薙刀を握り締めた其の姿には、凛々しさの中にも艶やかさが同居している、魅惑的な迄の容姿の美女であった。
美男美女が数多い尾張織田家の出自の所為か、更には未だに子を成していない為なのか、既に三十路半ばの齢にも拘らず、其の艶姿からは全く年齢を感じられない。
其の美女は、城の出入口を押さえる様に築かれた柵の向こう側に陣取る、攻め手の大将が居る筈の敵陣を、時折掛かる霧の透き間から見下ろし乍ら、懊悩を吐き出すかの如き深い溜息を吐いた。
(秋山殿の軍勢に囲まれて、如何程も後巻を催促致したとて、岐阜からの返事は《梨の礫》…。よもや、三郎様が此れ程に澆薄な御人だったとは…。最早、実家と致しても織田家に戻る気さえも起きぬ…)
其の女性は、幾許かの覚悟を帯びた視線を敵陣に投げ掛け乍ら、悲壮な決意を心中に宿す。
(殿が身罷られて、実家に戻される筈の妾に、此の岩村の者達から《後見役》という過分な地位を与えて貰った。此の籠城も、妾を支えて皆が尽くして呉れておる。せめて秋山殿に掛け合い、妾の命と引き換えに致してでも、全ての城兵と逃げ込んだ領民、そして御坊丸の助命を呑ませなければ…)
握った左手を胸に押し当て、己に言い聞かせた美女…岩村城の《女城主》である於艶の方は、踵を返して櫓から降りて行くのだった。
岩村城。
美濃国の南東端…恵那郡の南側に開けた盆地を睥睨為る様に築かれた此の城は、恵那郡の大部分を占めた荘園《遠山荘》を拝領した鎌倉幕府の御家人・加藤景廉の嫡男で、初代の地頭として地を下ろした遠山景朝が築いた城である。
当初は盆地に置かれた居館の《詰の城》として築かれたが、時代が下り争乱に巻き込まれる事が増えるに従って、山の中腹に向かって改築が繰り返された。
特に、周辺諸国に斎藤・今川・武田・織田等の戦国大名が勃興為るに及んで、梯郭式の曲輪を備えた堅固な山城へと進化を果したのだ。
岩村城は、東に聳える水晶山に降った雨水が地下水と為って、十数ヶ所の井戸から枯れる事無く涌き出しており、水の手を絶つ事は事実上不可能であった。
更には、盆地故に周辺には濃霧が発生し易く《霧ヶ城》と異称で呼ばれており、難攻不落の城として諸国に知れ渡って居た。
だが此の時点で、岩村城は敵の軍勢に麓を占拠されて城外と繋がる道を遮断されて、1ヶ月に渡って籠城を続けていた。
甲斐武田家の新当主・武田大膳大夫勝頼の命を受け、伊奈衆の旗頭である秋山伯耆守虎繁が5千の軍勢を率いて、岩村へと侵攻したのである。
城の大手口の正面に位置する小高い丘に構えた岩村城攻めの本陣で、諸国から《甲斐の猛牛》と恐れられる虎繁は、於艶が籠って居る筈の山頂を苦悶の面持ちで眺めていた。
(於艶殿…。幾ら武家の倣いとはいえ、旧知の女子である御主を殺めるのは偲び無い。早く城を明け渡して、岐阜に落ち延びて呉れれば善いが…)
虎繁は、嘗て歓待を受けた際に垣間見た於艶の美貌を思い浮かべ、深い溜息を吐き乍ら武田方の柵の向こう側…城山の山頂の辺りに眼を凝らしたが、山上の景色は流れ込む霧に因って閉ざされていくのだった。
時に、元亀4年(1573年)2月半ばの頃の事である。
岩村に本拠を構えた遠山家は、鎌倉以来3百年以上に渡って勢力を保ち続け、境を接する奥三河や信濃伊奈郡と交流を続けていた。
遠山家は時代が下るに連れて分家が増え、岩村城の岩村遠山家を惣領家として、明照(阿手羅)・明知・飯狭間・串原・安木・苗木の遠山分家が《遠山七頭》と呼ばれる集団を形成していく。
(更に一部の分家は武蔵に流れて小田原北条家に仕えている他、信濃伊奈郡にも江儀遠山家が分かれている)
特に、岩村遠山・苗木遠山・明知遠山の3家は《三遠山》と呼ばれ、遠山家のみ為らず東美濃全体に大きな影響力を誇っていた。
そんな遠山家と、甲斐武田家の交流の歴史は、20年以上前の天文年間後期に溯る。
当時の岩村城主である遠山左衛門尉景前は、美濃の大半を制した斎藤家に対抗する為に、甲斐統一を果して信濃へと矛先を向け始めた武田家と誼を通じた。
其の後、武田家の信濃領国化が進むに連れて、次第に其の影響下に入り、伊奈衆を束ねていた虎繁が遠山家の取次を行っていた。
其の一方、尾張守護代の奉行乍らも確実に勢力を伸ばしていた《織田弾正忠》家の織田三河守信秀(信長の亡父)とも婚姻関係を結び、将来性を見越して友好状態を保っていたのだ。
此の政策は、景前死後も嫡男の大和守景任の主導で進められ、永禄8年(1565年)の武田・織田両家が盟約を結んだ際には、岩村遠山家が媒を行っている。
其の際、織田信秀の娘を娶っていた、苗木遠山家の遠山駿河守直廉(苗木勘太郎)の娘…即ち信長の姪に当たる《をりゑ》を信長の養女とした上で、当時御親類衆の1人だった諏訪四郎勝頼に嫁がせているのだ。
だが、其の後《遠山夫人》と呼ばれたをりゑの方は、嫁いだ2年後に嫡男信勝を産んで産褥死してしまう。
為ると、武田・織田両家の間で、直ちに勝頼の妹(信玄5女)の於松と、信長嫡男の奇妙丸(勘九郎信重・後の信忠)の婚約が決められ、翌永禄11年6月には、伊奈郡代だった虎繁が答礼の為に岐阜城と岩村城へと赴いている。
併し、永禄10年(1567年)に信長が斎藤家を美濃から放逐して岐阜城に入城を果した頃から、東美濃にも織田家の影響力が次第に増大し始めた。
信長は、2度に渡って夫に先立たれ寡婦と為っていた叔母(信長祖父の信定の末娘)の《於艶の方》を、遠山惣領家の当主であった遠山大和守景任に、後添いとして嫁がせていた。
於艶の方の類稀な美貌と、積極的に所領を回って家臣領民を労り、夫である己を支える姿に絆された景任は、於艶の方を正室に据えて、次第に方針を《親武田》から《親織田》へと転換した。
そして、既に親織田派だった苗木遠山・明知遠山の両家と協調し始めたのだ。
足並みを揃えた《三遠山》は、南隣に位置する三河設楽郡の《山家三方衆》との連携を進め、長年に渡って対立していた北隣の飛騨桜洞城の姉小路家(三木家)とも密かに協力関係を結んだ。
そして、織田・徳川両家の後ろ盾を得ると、武田領の信濃木曾地方(筑摩郡)や伊奈郡を参食し始めたのである。
対する武田家では、当主の大膳大夫晴信(法性院信玄)の病気療養を期に、姓を戻して新たに陣代(当主代行)に就いた武田勝頼が、東美濃に於ける急速な影響力低下を憂い、元亀元年(1570年)12月に、伊奈飯田城代で遠山家の取次だった秋山虎繁に対して、東美濃への出兵を命じている。
虎繁は、己の配下である《伊奈衆》と其の相備衆の2千の軍勢のみで飯田城を出撃為ると、恵那郡上村に於いて遠山勢と激突した。
其の際、遠山勢は岩村城の遠山景任を総大将に、《遠山七頭》の手勢のみ為らず、徳川麾下の奥三河や東三河の国衆にも呼び掛け、総勢5千の軍勢を掻き集めたが、秋山勢は2倍以上の兵力差を物ともせずに打破った。
此の戦いで、遠山勢は総大将の景任が重傷を負った上に、数百人の死傷者を出す惨敗を喫したのだ。
其の後、後詰に来た織田勢の対決を避ける様に、秋山勢が奥三河へと転進して、一時的とはいえ戦火が遠ざかった。
於艶の方は、重傷を負って施政にさえ事欠く状態に陥った景任の耳目と為って、所領を廻り家老達を纏めて、懸命に遠山家を支え続けた。
だが、景任が床に伏せたのと軌を一にして、東美濃に対する織田家の圧力が更に増大為ていく。
信長は、未だに子を成せない侭の景任・於艶夫妻の元に、己の5男である御坊丸を養嗣子として送り込むと、尾張日置城主で遠山家の取次を務めていた織田掃部助忠寛を、岩村城へ常駐させる事を認めさせた。
信長は既に伊勢に於いて、北畠家・神戸家・長野家に夫々(それぞれ)息子や弟を養子に入れた後、家督を継がせて其の家の乗っ取りを果しており、遠山家に於いても同様の手段を用いたのだ。
更には、『東美濃の要たる岩村の守りを強固に為る』と称して、信長の庶兄である織田三郎五郎信広、美濃勝山城代の川尻与兵衛秀隆が、軍勢を率いて岩村城に入城した。
《遠山七頭》が治める夫々の城にも、次々と織田家から軍監が派遣され、先の戦傷が原因で景任が亡くなった元亀3年(1572年)8月の時点には、遠山領は織田家の完全な《保護下》に置かれるに至ったのだ。
対する武田家は、織田との盟約が破れて居なかった為に、東美濃での表立った軍事行動は手控えたが、周囲を次々と切り従えていく。
元亀2年(1571年)には南隣の奥三河を平定、翌年秋には北隣の飛騨に侵攻、桜洞城の三木家を滅ぼして飛騨を領国に組み入れた。
更には、徳川三河侍従家康が統べる三河・遠江に《徳川征伐》と呼称して侵攻、遠江を平定して三河へと進撃を続けたのだ。
そして、元亀4年1月に織田・武田両家の盟約が決裂したと同時に、織田の保護下に入った東美濃に、秋山勢が再び侵攻為る事態と為ったのである…。
今回の東美濃討入の大将である秋山伯耆守虎繁は当年47歳、伊奈郡の郡代を務める50騎持ちの《譜代家老衆》である。
信玄の子飼いとして頭角を現した知勇兼備の武将で、其の戦振りから周辺諸国に《武田の猛牛》と畏れられていた。
当初から南信濃攻略と其の統治を第一線で担い続けており、一旦は諏訪家を継いで《南信濃の同輩》であった勝頼とも親しく交わっていた。
其の為、勝頼の陣代就任や家督襲名の際に、積極的な支持を打ち出して、他の宿老達と共に勝頼を守り立てていたのだ。
勝頼から《東美濃討入》の全権を委任された虎繁は、遠征先の三河野田城から1月11日に出陣、麾下の手勢を率いて先ずは奥三河の要衝である長篠城に入った。
其の際、寄騎に入っていた三河先方衆が外されたが、代りに三河足助城から南伊奈の有力な先方衆である下条伊豆守信氏の手勢が呼び寄せられ、一時的に虎繁の寄騎に加えられた。
他にも、遠山家の遠い分家で信濃・遠江の国境に勢力を持っている、江儀遠山家の遠山遠江守景広の手勢も、寄騎として編入されている。
更には、虎繁の養嗣子で居城の飯田城で留守居を務めていた秋山左衛門尉昌詮と、虎繁の弟で信濃大島城の普請に参加していた秋山平十郎信藤も、夫々手勢を率いて長篠城へと呼び寄せられた。
合計で5千の軍勢は《伊奈衆》を基幹とした南信濃勢で固められたのだ。
《徳川征伐》を警戒して、東美濃の織田勢の大半が岐阜に退いた情報を既に入手していた虎繁は、長篠城で寄騎も含めた5千の軍勢を調えた。
そして、己自身が2年前に東美濃から奥三河へ攻め入った道筋を逆に辿って、織田に宣戦したのと同じ17日黎明に国境を突破為ると、脇目を振らずに一気に東美濃の要である岩村城へと攻め寄せたのだ…。
「急げっ!早く岩村に入城致すのだっ!我等が岐阜城の盾と為るのだ!」
「此の小荷駄さえ天嶮たる岩村城に持ち込まば、半年や1年は持ち堪えるに相違無い!武田の奴輩相手に勝ちを拾うも容易いぞ!」
「掃部殿も儂等が入城致すのを待っておるに相違無い!一刻も早く入城を果たさねば為らぬ!」
武田家からの宣戦布告を受けて、織田信広・川尻秀隆の軍勢1千5百は、城に運び込む為の大量の兵糧・弾薬を運ぶ人夫達を叱咤し乍ら、岩村城へ向かう山道を進んでいた。
間違い無く東美濃に侵攻して来る筈の武田軍に先んじて、岩村に籠城用の資材を運ぶ込み、引き抜いた兵力の再増強を計る為である。
其の途上、岩村城から西に1里弱、城山の頂が僅かに垣間見える山岡の地で、突如として太鼓の音色が鳴り響くと、織田勢が登り始めた山道の両側から矢の雨が降り注いだ。
「なっ、何事だっ!近くの山田の砦や和田の砦から攻めて参ったか!」
「三郎五郎様、落ち着かれなさいませっ!砦の兵は岩村に入城致して空城の筈、恐らくは武田の奴輩に因る伏せ撃ちで御座る!皆の者っ!慌てては敵の思う壷ぞっ!落ち着いて迎え撃つのだ!」
突然の奇襲に主将の信広は慌てふためくが、秀隆は信広に呼び掛け乍ら、浮足立った軍勢を落ち着かせて迎撃を試みる。
だが、織田勢の進行方向…岩村へと通じる上り坂を遮る様に、百近い人数の鉄砲足軽の集団が現れると、一斉に筒先を織田勢の方向に向けて来た。
「山腹の弓衆と軌を一にして《両懸かり》に致すのだ!筒衆(鉄砲隊)、撃てぇっ!」
組頭の号令と共に百発近い弾丸が織田勢に襲い掛ると、先頭に居た十数人が朽ち木の様に倒れてしまい、軍勢の混乱に拍車を掛ける。
其の後も、弓矢や鉄砲が放たれ続けると、織田方の足軽や人夫達は、竹束や荷駄を使い己の身を庇うのが精一杯に為ってしまった。
其れでも、信広や秀隆は少しづつ混乱を鎮めようと為るが、其の絶妙な間合いを見計らって、両脇に道を開けた筒衆の後側から、虎繁自ら率いる十数騎の騎馬武者が、織田の足軽達に《乗り崩し》を掛けて来たのだ。
《乗り崩し》は、数騎から十数騎単位で騎馬武者を集め、敵足軽に対して騎乗攻撃を掛ける戦術の1つで、屈強な騎馬武者が敵前衛の足軽を突破して後方に回り込む用法である。
素早く間合いを詰めて、敵勢飛び道具を使用させなければ少数の騎馬武者で攻撃可能だが、攻撃や撤収の見極めを誤ると、弓や鉄砲等の飛び道具、又は長柄足軽が繰り出す槍襖の餌食と為ってしまうのだ。
「いざ《乗り崩し》を掛けるぞ!浮足立った足軽共を崩して、後の陣へ押し込んでしまえ!」
『はっ!』
虎繁は素槍を抱え込んで、一気に織田勢との間合を詰めると、駆け抜け様に怯える足軽の喉首を掻き切った。
「首は打ち捨てよ!一処に止まるな!引際を誤らば、此方が槍襖の餌食に為るぞ!」
《乗り崩し》の弱点を知り尽くしている虎繁は、自らも敵を屠り乍ら次々と的確な指示を与え続け、百を数え切るよりも前にあっさりと引き下がる。
すると、虎繁率いる騎馬武者達と入れ違いに、虎繁の相備衆である座光寺三郎左衛門貞房が、長柄槍を掲げた足軽達を引き連れて走り込んで来た。
「今だっ!尾張の弱兵共を叩き潰せっ!」
下馬して指揮を取る貞房の号令の下、足軽達は《乗り崩し》で混乱した侭の織田勢の先頭に突っ込むと、長柄槍を振り下ろして敵の頭蓋を文字通り叩き潰した。
「うっ、ぅわあぁっ!」
「いっ、命有っての物種だ!逃げろっ!」
「まっ、待て!儂を置いて行かんで呉れ!」
軍勢の先頭が正に《潰滅》したのを間近に見た織田方の足軽達は、矢の雨から身を守り乍ら次々と隊列を離れて逃亡していく。
更には、小荷駄を運搬していた人夫達も、小荷駄を背負った牛馬さえも見捨てて、身軽な侭で西へ向けて駆け去っていく。
「逃げるな!止まって戦えぃっ!おのれっ、武田の奴輩め…」
正に《友崩れ》の状態に陥った織田勢は、已む無く岩村を目前にして入城を断念為ると、退き太鼓を打たせ乍ら元来た山道を算を乱して引き返すのだった。
「深追いは無用!貴奴等が持って参った小荷駄を抑えよ!勝鬨を挙げて、城方に城に籠っても詮無き事だと判らせよ!曵っ、曵っ!」
『応っ!』
虎繁は、逃亡為る織田勢を深追いさせずに、放棄された牛馬と背負っている小荷駄の回収を命じると、岩村城や周囲の山々に態と響き渡る程の勝鬨を挙げさせた。
岩村城では、城の軍勢と後詰の軍勢で秋山勢を挟撃為るべく、出撃の支度を調えつつあった。
だが、其の出撃より早く後詰の軍勢が破れる光景を眼下で見せ付けられ、而も岩村城を見捨てて敗走したという歴然たる事実に、戦意を早々に挫かれるのだった。
織田方の後詰を打破り、牛馬や小荷駄の確保に成功した秋山勢は、直ちに城下を包囲為ると、北西側から城が在る南東方向に向けて、各所に放火して回った。
其の結果、遠山家の菩提寺で多くの伽藍を誇った明覚山大圓寺や、東美濃有数の規模を有した市場等、岩村城下は尽く灰燼に帰した。
だが秋山勢は、僧侶や町民達を態と殺さずに、炎の進行方向を利用して岩村城の方へと追い遣っている。
大圓寺住職である希菴玄密を始めとして、岩村城下に居た殆どの者が炎を避けて城内へと避難出来た。
併し、岩村城下の者達が城内に避難したのを確認した秋山勢は、城門のみ為らず城の全ての出入口に軍勢を配置して、籠城方と城下の者達を纏めて城に押し込めたのだ。
此れ以後、秋山勢は包囲して糧道を断つのみで、無理に城に攻め掛からなかった。
そして、武田家に帰順為る事を決めた周囲の百姓達を、持参した甲州金で大量に動員為ると、城を守っている崖や急坂、防御が弱い場所に掘られた空堀等を逆手に取って、城の出入りが可能な所に次々と柵を築いて、岩村城と外界を完全に切り離してしまったのだ。
此れ以後、籠城方が城から出撃しようとしても、包囲為る秋山勢に因って弾き返され、脱出を試みた者達も密かに成功した数名を除いて、殆どが城へと追い返されるか捕殺されてしまったのだ。
秋山勢…虎繁の狙いは、力攻めに因る兵力の損失を防ぐ為に、城に非戦闘員を大量に押し付けた上で糧道や連絡を断ち切り、《兵糧攻め》に持ち込む事であった。
織田勢の後詰に因る小荷駄の搬入を阻止した事、籠城為る人数を大量に増やした事等が功を奏して、水だけは豊富に確保できても、残された糧秣は確実に、且つ急速に枯渇し始めたのである…。
時は、再び元亀4年2月半ば。
岩村城の本丸に在る城主の居館に、夫々(それぞれ)の曲輪の守備に就く武将達が集まり、連日評定が続けられていた。
織田方の後詰が来ない状況で、想定を遥かに越える人数を抱え込んで籠城戦に入った上に、城外への連絡を断たれて兵糧の調達の目処も立たない。
此れからの展望も描けぬ状況に、幾ら評定を重ねても御互いの話は平行線を辿り続けていたのだ。
「此の侭では飢え死に致すぞ!元々此の籠城は、織田の後詰が来る事が前提だった筈、其の前提が崩れた為らば籠城致す意味なぞ無い!開城致して尾張か西美濃に逃れ、織田の庇護で再起を計るが筋道で在ろう!」
「何を戯けた事を!我等は、代々東美濃を統べて参ったのに、何故に父祖伝来の地を離れねば為らぬのだ!元々、景前院(先々代当主の景前)様の頃には、我が遠山家は武田殿と誼を通じて居ったでは無いか!織田が頼りに為らぬ事が判った為らば、武田に旗を巻き返せば済む事よ!」
「御待ち下されっ!簡単に旗を翻すは末代迄の恥曝しで御座る!此処は、一丸と為って城から打って出て、織田の後詰が来る迄の刻を稼ぐが肝要で御座る!」
「無理に決っておろう!織田家は今現在、四方を敵に囲まれて大軍を東美濃に回す事は適わぬ!織田と諸共に心中致す積りで無ければ、秋山殿に降るより有るまい!」
遠山家の家臣達は、侃々諤々(かんかんがくがく)に意見を戦わせるが、御互いに全く噛み合わず平行線を辿り続けていた。
だが、上座で御坊丸の横に座してじっと評定を聞いていた於艶の方が、上座に近い場所に座している織田忠寛に問い掛けると、一斉に忠寛に耳目が集中為る。
「…掃部殿、妾から1つ御聞き致しまする。織田家は、此の岩村城の危難を判ってい乍ら、未だに武田の軍勢に互する程の後詰を送っては下さりませぬ。…然れど誠の所は、此の城には後詰を送り込まぬ御積りでは御座いませぬか?妾の甥たる三郎様は…いえ、織田弾正(信長)様は、岩村城を《武田を防ぐ楯》としか考えて居らぬのでは御座いませぬか?」
「いっ、いやっ!其の様な事は無いっ!事実、秋山に防がれたとはいえ後詰を送り込んで参ったでは無いか!」
行き成り核心を衝く於艶の方の質問に、同族乍らも所詮は見目麗しいだけの後家に過ぎぬ、と舐めて掛っていた忠寛は、思わず狼狽してしまう。
「幾ら女子の妾でも、朧気乍ら判りまする…。弾正様は、此の岩村城が落城迄の刻を稼ぐ間に、後方の本願寺や浅井・朝倉、そして京の公方様を尽く討ち従えた後に、岩村に兵を分けて数を減らした武田大膳(勝頼)殿が軍勢を、討ち破る御積りで御座いますね?…然れど、養子に出したとはいえ、己の息子である御坊丸さえも見捨てる冷たき御人に、何故に皆が信を置く事が適いましょうや?」
於艶の方の発言に、親織田・親武田に分かれて舌鋒を交わしていた家臣達の多くが、御互いに顔を見合わるが、其の主張に思わず首肯為る。
岩村城に籠る遠山家の家臣達は、於艶の方が入嫁以来、景任や御坊丸を支え続けて、岩村城と所領を懸命に守るのを見続けており、今では家臣団の殆どが心服していた。
そんな於艶の方が、実家の動向を批判した事は非常に重く受け止められ、一気に論争が鎮静化してしまったのだ。
「仮令織田家の出自とはいえ、妾は嫁いだ刻より、岩村の家臣と領民を、そして遠山宗家の社稷を守る者で御座いまする。…掃部殿。妾は、此の遠山の御家と岩村の家臣領民を、そして我が子である御坊丸を守る為に、秋山殿に城を開こうと思いまする。…責を負う者が必要為らば、御坊丸や遠山家に害を及ばせぬ為に、妾の命を引き換えに、城の全員の助命を願い出る所存で御座いまする!」
「なっ…!」
「御方様っ!其れだけは為りませぬっ!」
「亡き殿に続いて、御方様迄もが亡くなっては、御坊丸様は如何相成りましょうや!」
於艶の方が、己の生命と引き換えに将兵の助命を嘆願する積りで在る事を聞いて、遠山家臣達が一斉に諌めに掛るが、於艶の方は心情を吐露し乍ら家臣達を見渡す。
「皆の者が、最優先で心を砕かねば為らぬ事は、社稷を継ぐ御坊丸を如何なる事を致しても守り抜く事で御座いましょう。妾と御坊丸、そして貴方達では、成すべき責務が夫々に違うだけの事で御座いませぬか…」
身を棄てる決意を聞いて、噎び泣き嗚咽を漏らす家臣達の声を聞き乍ら、於艶の方は改めて忠寛に秋山勢との和睦の交渉への同伴を依頼した。
「下手に家中の者が出向くと、武田方から有無を言わさずに討ち取られるやも知れませぬ。妾が談判に直に参らば、行き成りは殺されぬでしょう…。掃部殿、秋山殿の陣所に同道を御願い致して宜しいですか?」
「は…?儂も出向くのか?然れど儂は織田の出自、其れこそ直ぐに討ち取られてしまうでは無いか!」
「いえ、掃部殿は武田大膳(勝頼)殿の婚礼の際には甲斐に赴かれ、秋山殿とも面識が御有りの筈、此度に最も適任で御座いましょう。其れに、此の開城を已む無き事で在ると、弾正様に認めて頂く為にも、織田の連枝に繋がる掃部殿が、妾と共に談判致す事が肝要で御座いまする…」
「…致し方有るまい。為らば、秋山殿に直ちに遣いを送ると致そう…」
明らかに乗り気では無い忠寛の反応に、一抹の不安を覚え乍らも、於艶の方は涙を堪えた様な面持で此方を見る御坊丸の頭を、静かに撫でて遣るのだった。
一方、大圓寺の廃墟より東側、大手口の北西に相対する丘上に築かれた秋山勢の陣所でも、麾下の武将達が招集されて軍議が開かれていた。
城方の粘り強い抵抗に、1ヶ月経過しても落城しない為に、善後策を講じる事に為ったのだ。
「城方も随分としぶといですな。城下を焼き払って民を城に押し込め、岐阜からの小荷駄も押さえておる。糧道も塞ぎ、既に八木(米の事)は尽きておる筈だが…」
松岡城主で、虎繁の有力な相備衆である松岡兵部大輔頼貞が発言為ると、寄騎として加わっている遠山景広が相槌を打つ。
「左様で御座るな…。此の侭粘られては、温和しくしていた苗木や明知の分家の連中が、後巻に入るやも知れませぬぞ」
「其れは拙いな。幾ら我等の方が多くても、城内と示し合わされては一溜まりも無かろう…」
勝頼の義叔父でもある下条信氏が、眉間に皺を寄せ乍ら懸念を示すと、上座の虎繁が懸念を払拭させようと為る。
「其れは、今の所は大事御座らぬ。苗木側で備える大島讃州(讃岐守為元)、明知側の座光寺三郎左(貞房)、共に城に籠った侭で単独で手向う様子は見られぬ。織田の軍勢も、留守居が小里城や神箆城に留まって居るが、大半は岐阜城に退いて…」
虎繁の説明に、諸将が首肯していると、突如として陣幕の向こう側が騒々しく為り、虎繁の養子である昌詮が飛び込んで来た。
「義父上っ!城方より遣いが訪ねて参りましたぞ!而るに、遠山和州の後室と織田掃部助が此方へ参り、談判致したいとの申し入れで御座いまする!」
「何だとっ!於艶殿が自ら参るのかっ!」
養嗣子たる昌詮からの報知に、虎繁は驚きの余りに思わず床几から腰を浮かせるのだった。
其の日の薄暮、灰燼と化した岩村城下の一隅に焼け残った、遠山家臣の放棄された屋敷に於いて、秋山・遠山両勢の交渉が行われた。
遠山方からは予定通り於艶の方と忠寛が、秋山勢からは虎繁自らが、検使役(軍監)の小幡昌盛を伴って現れた。
「秋山様、一別以来で御座いまする。御壮健の様で御座いますね…」
「於艶殿、掃部殿…、姫君御婚約の砌に、岩村に答礼に赴いて以来ですから、彼此5年振りに為るか…。先ずは、壮健で何よりで御座る。…然れど、於艶殿の《天香国色》の如き美しさは、些かも変わっておられませぬな」
「牡丹の花に譬えるなんて御戯れを…、妾は夫に先立たれた姥桜で御座いまする…」
於艶の方は、旧知の虎繁から未だ衰えぬ容色を褒められ、否定し乍らも思わず顔が朱に染まるのを抑えれなかった。
とはいえ、交渉が始めると和やかだった空気は、次第に緊迫の度合を高めていく。
此処に集まった中で唯一知己では無い昌盛が、交渉の口火を切る。
「…遠山殿、掃部助殿、検使役を相務める拙者から、御当家(武田家)側の要求を述べさせて貰いまする。1つ目に、此の岩村城を開城致すべし。其の際に、御当家に帰順致した者にのみ本領を安堵致す事と為る。2つ目に、此の岩村城には開城後は此処に居る秋山伯耆が城代として入り、本領安堵致した者達の《寄親》として差配致す。3つ目には、御当家に帰順致さぬ者の所領を没収致し、鉄砲・刀鑓の類を差し置き、恵那郡から追放致す」
「…承知仕りました。此れ以上の籠城を致しても勝目無く、無闇に犠牲を重ねるのみ。家臣領民を殺めぬ事を約束して頂ければ、岩村の城を開きまする…」
於艶の方がそう返答為ると、昌盛は虎繁に目礼してから最後の条件と成る項目を読み上げる。
「では、最後の項目で御座る。元々は、御当家に与しておった遠山家の道を誤らせた事を鑑み、遠山御坊丸、及び家老の延友佐渡守、そして織田掃部助の3名に切腹申せ付け、和州後室(於艶の方)を実家である織田家に送り返す物と致す。以上で御座るが…」
「お、御待ち下さいませっ!御坊丸は未だ幼子で御座いまする!せめて、我が子の代わりに此の妾に死を賜り下さいませっ!」
昌盛が全てを言い終える前に、於艶の方が直ぐに異議を唱えた一方、其の横の忠寛は顔面を蒼白に変えていた。
(じょっ、冗談では無い!何故に、此の儂が腹を切らねば為らぬのだ!儂は殿(信長)に命ぜられて、手伝い戦をしてるだけだろうが!)
対称的な反応を示す2人に向かって、虎繁が徐に口を開く。
「於艶殿…。幾ら城主だった和州殿が見罷っておるからとはいえ、女子の首を以て城兵の命を贖う事は適わぬ。名目為りとも、御坊丸が当主で在る為らば、《城主の切腹》は武門の倣いで御座る」
「腹を痛めて居らずとも、御坊丸は我が子で御座いまする!どうか、命ばかりは御助け下さいませ!」
眼に涙を滲ませて躙り寄った於艶の方は、必死に虎繁に縋り付いて訴え掛けるが、困惑の表情を浮かべた虎繁は、言葉を選び乍ら諭していく。
「於艶殿…、此れも宿縁と諦めて、尾張に御戻り為られよ。そして、岩村での事は忘れて新たな幸せを見付けるが宜しかろう…」
「実家に戻ったとて、最早新たな幸せなぞ有りませぬ!其れに我が子を殺められて、何故におめおめと生き残れましょうや!…何如に致しても、御坊丸の命を絶つ御積り為らば、せめて其の前に貴方様の御手で、妾の命を御絶ち下さいませ!」
「於艶殿…。幾ら戦と雖も、女子の首を刎ねて悦に浸れる程、恥知らずでは御座らぬ。其れが其方為らば尚更だ。…其方が亡くなれば、是が非でも御坊丸を殺さねば為らぬ。先ずは、和睦が成立致す迄御自愛為されよ…」
虎繁は、縋り付いて己の膝元で号泣為る於艶の方から態と視線を外して、改めて忠寛に向かって話し掛ける。
「掃部殿、急ぎ城に立ち戻りて城内の談合を取り纏めて下され。3人の犠牲で済ますか、落城の憂目を見るが良いか、若しくは何らかの代案を御用意出来るのか…。其れは、御主達が決する事で御座る…」
「おっ、御待ち下されっ!秋山殿っ!」
忠寛は、退席為る虎繁達を呼び止めようとしたが、彼等は未だ部屋で泣き崩れた侭の於艶の方から逃れるかの如く、其の侭自陣へと立ち去った。
(まっ、拙い!此の侭では腹を切らされてしまう!如何に致してでも逃れなければ…)
後に残された忠寛は、行き成り生命の危機に晒されて、激しい動揺の中で己が生き延びる方策を必死で絞り出そうと試みる。
其の結果、追い詰められた忠寛に因って、正に《前代未聞》の提案が為されるに至ったのである。
「かっ、掃部殿っ!佐渡守殿っ!其れは如何なる了見で御座いますかっ!妾に生き恥を晒せとでも仰有るのですかっ!」
1回目の会見の翌朝、岩村城の己の居館に戻っていた於艶の方は、数名の《親織田派》の家老達に呼び出されて、忠寛の居室に赴いた。
併し、其処で聞いた忠寛達からの提案に、思わず絶句してしまったのだ。
「此れより他に、此方側から譲歩出来る物は御座いませぬ。此の侭では、御坊丸様の御命が喪われるばかりか、遠山の家は途絶え家臣離散の憂き目に遭う事に為りまする!仮に尾張に落ち延びたとしても、再び岩村城に遠山の《丸に二本引き両》の旗が翻る事は有りますまい!」
「左様、佐渡殿が申す通りじゃ!然れど此の案為らば、武田に従う者には本領が安堵され、織田に従う者は安全に尾張に向かう事が出来る。御坊丸様も、遠山の家を繋ぐ事が適うのだ!唯一つ…」
其処で言葉を途切れさせ忠寛は、態と上目使いの視線で於艶の方を見てくる。
「…於艶殿が、秋山殿に其の身を差し出して呉れれば、全ては丸く収まるのだ」
「何と身勝手な物言いですかっ!掃部殿と佐渡殿は、人身御供を出して迄も、生き長らえたいのですかっ!」
於艶の方は、忠寛達からの提案…3人の首級の代わりに《於艶の方の身体》を虎繁に差し出す、という案に嫌悪感を覚えて、尚も反論しようと試みる。
だが忠寛達は、於艶の方の亡夫である景任を引き合いに出して、畳み掛ける様に話を進めていく。
「…今は亡き大和守(景任)殿が存命致しておらば、如何に致したで在ろうか。恐らくは、自らの身を捨てて其の首を差し出してでも、我が子や家臣領民の生命を救ったで在ろう…」
「左様。今は亡き殿も此の様な仕儀為らば、きっと御赦し致しましょう…」
亡夫を引き合いに出された於艶の方は、2人の勝手な言種に思わず睨み返す。
だが当の忠寛達は、全く意に介した素振りを見せずに言葉を継ぐ。
「御方様、此処は亡き殿の遺志を継ぐ御積りで、家臣領民を守る為に秋山殿の寝所へ赴いて下され」
「大和守殿が戦疵を負ってから、2年余り託っておった空閨を満たす事が叶うのだ。於艶殿に取っても、悪い話では有るまい」
(何と情け無い事よ…。此の者達に取って、妾は所詮は《男に鬻ぐだけの手駒》でしか無いのか…)
「…評定が始まる迄の間、今少し考えを纏める刻を頂きまする。一先ず失礼仕りまする…」
忠寛達の心底を垣間見た於艶の方は、足下が音を立てて崩れる様な感覚を味わい乍ら、自らの居室へと逃げ戻るのが精一杯だった。
だが僅かな時の間に、事態は更に変転を繰り返していく。
非主流派と為っていた平井宮内少輔光行を中心とした《親武田派》の武将達が、於艶の方を売り渡すが如き忠寛達に反発して、独自の別案を以て敵陣…秋山勢に接触したのである。
報告を受けた虎繁は、遠山家臣側の意見を盛り込む形での新たな和睦案を策定為ると、《親武田派》の内諾を取り付けて、其の日の内に自ら交渉の席に赴いたのだ。
2回目の交渉は、城方の直中である岩村城本曲輪の評定の間に於いて開かれた。
武田方からは虎繁の他に、最大兵力を率いる寄騎の下条信氏、そして検使役の小幡昌盛が城内に乗り込み、遠山方は於艶の方と忠寛を中心とした《親織田派》が対峙為る。
更に、周囲には多くの遠山家臣が詰め掛け、交渉の成り行きを固唾を飲んで見守っていた。
「さて、織田殿。此方側からの要件は、昨日の内に御伝え致して御座る。岩村城の開城と御当家に従わぬ者達の東美濃放逐、そして城主御坊丸と重臣の織田殿と延友殿の首級、以上を以て残った者達の生命を保証為る。御当家に帰順致す者達の本領を安堵致して、寄親として此の虎繁が岩村城を預かる。…前に出した要件は以上で御座ったが、何か代案は纏まり申されたか?」
虎繁の問い掛けに対して、忠寛達が於艶の方に目配せを送ると、彼女は陰鬱な表情を浮かべた侭で少しずつ言葉を紡いでいく。
「…秋山殿、…貴方様に、改めて御嘆願致したき儀が御座いまする。…どうか、我が子御坊丸と此処の両名を含めた、全員を助命して頂きたく存じまする…。聞き入れて頂けた為らば、…此の於艶を婢女にして頂いて、慰み者にされても一向に構いませぬ…」
「なっ…!」
「御方様…」
屈辱と羞恥の余りに、頬を紅く染めて唇を噛み締める於艶の方を見乍ら、事情を知らぬ遠山家臣達が騒然と為る中、忠寛達は内心で胸を撫で下ろす。
(ふぅ…、一時はどう為るかと思うたが、此れで災難は免れたようだな。秋山殿も、於艶を手込めに出来ると在らば、喜んで儂等を見逃すで在ろう…。まぁ、全て事が済んで於艶が自害致しても、御坊丸さえ岐阜に連れ帰れば、儂等に害が及ぶ事は有るまい…)
だが、彼等の安堵も束の間、取り囲む家臣達の中に居た平井光行が、異議を申し立て始めたのだ。
「あいや暫く御待ち下され!秋山殿に御願い致したき儀が御座いまする!我等遠山の家臣の為に身を投げ出そうと致して居られる御方様(於艶の方)を、秋山殿に是非とも御救い頂きとう御座いまする!御方様を娶って頂き、遠山の婿として、御坊丸様の陣代(当主代行)として、我等遠山の家臣を率いて頂きとう御座いまする!」
「おおっ!其れ為らば、秋山殿が我々の寄親に為るのも理に適って居りまするな!」
「成程、秋山殿の配下為らば、武田様に対して《所領の安堵》も願い出易いで御座るな!」
光行の提案を聞いた周囲の遠山家臣達は、御互いに顔を見合わせて口々に賛意を示す。
虎繁は、《親武田派》の光行の主張に対して、遠山家臣達の反応が概ね好感触で在る事を垣間見乍ら、正面で状況の変化に付いていけて居ない於艶の方に優しく語り掛ける。
「於艶殿…、御自身を貶める必要は御座らぬ。若しも御主が尾張に帰らぬ為らば、御主を後添いと致して末永く大事に致したいと思っておる。勿論、無理強いを致す積りも御座らぬ」
「そっ、其れは…」
状況の急な変化に、於艶の方は思わず押し黙ってしまったが、虎繁は畳み掛ける様に言葉を継いでいく。
「御主が不幸に為る事は、此の岩村の家臣領民の誰一人望んで居らぬ…。其れに、於艶殿の嫁いで参ってからの働き振りは、岩村の誰もが認める処で御座る。是非、此の虎繁を隣りで支えて下され。そして、儂の残りの生涯を共に歩いては下さらぬか?」
虎繁は、於艶の方を元々憎からず想っては居たが、此の攻城戦の中で、遠山家臣団の統制と岩村領の統治に《於艶の方の存在》が予想以上に大きな事も読み取っていた。
其れ故に、敢えて《親武田派》の主張に乗る形で、虎繁が於艶を娶り岩村城に入城為る事で、岩村城を中心とした東美濃を早期に安定化させる事を狙っていたのだ。
「御方様、御夫君で在らせられた御先代(景任)様が身罷られて早半年。御方様が新たな幸を求めても、決して罰は当たりますまい…」
「…宮内(光行)殿、御坊丸は如何為さる御積りか?血を分けて居らぬとはいえ、我が子を見殺しに致して妾独りが幸せに為る事なぞ出来ませぬ…」
婚姻を薦める光行に対して於艶の方は反論為るが、直ぐに虎繁が御坊丸の《身分と安全の保障》を宣言為る。
「儂が於艶殿を娶ったと致しても、御坊丸が《遠山宗家の棟梁》で在る事に変わりは御座らぬ!御屋形様に言上致して、御当家が責任を持って一廉の武将に養育致しましょうぞ!」
於艶の方にそう力強く誓った虎繁は、温和な微笑みと共に今一度呼び掛けた。
「於艶殿…、大和守(景任)殿が亡くなって以来、御主が1人で背負い続けて来た重荷を、此の《猛牛》の背中にも御乗せ下さらぬか?」
虎繁からの優しさに、於艶の方の中に大きく横たわっていた後ろめたさが和らぎ、虎繁への思慕の情が溢れ出す。
「…妾は最早、尾張や岐阜に出戻り致す積りは御座いませぬ。此の様な行き場を無くした姥桜の後家でも宜しければ、秋山殿の下に参りまする…」
「そっ、そうか!於艶殿が、儂を婿として迎えて呉れる為らば、此れに優る喜びは無い!其れに、於艶殿の美貌は初めて会うた時から些かも変わって居らぬ!」
虎繁が、まるで年若の如く満面の笑みを浮かべる様を見た於艶の方は、白磁の如く澄んだ肌を羞恥で紅く染め上げる。
「まぁ…、御戯れでも嬉しく思いまする。不束者で御座いまするが、どうか末永く可愛がって下さいませ…」
三つ指を揃えて、深々と礼を施す於艶の方の瞳は潤みを帯び、其の名に相応しく艶然とした微笑みを浮かべた。
「うむっ…、うむっ!」
戦が始まる当初は、望むべくも無かった慮外の結果に、虎繁は於艶の白魚の如き手を取り乍ら、満面の笑みを浮かべて何度も頷き返していたが、隣に坐していた昌盛から窘められる。
「…秋山殿。御喜びの処を申し訳御座らぬが、先ずは如何に致すかを定めねば為らぬ!睦み合うのは、其れからに致して下され!」
「おぅ、左様で在ったな。…では、遠山の御家中の御歴々に申し渡そう!此の虎繁、佳日を選び於艶殿を娶る事に相成った!此れより先は、於艶殿の婿として、そして遠山宗家を継ぐ御坊丸の《陣代》として、此の岩村の采配を取る!善いなっ!」
『ははぁっ!』
虎繁が、周囲に集っていた遠山家の家臣郎党を睥睨し乍ら、力強い口調で岩村城と遠山勢を自らの指揮下に置く事を宣言為ると、光行を始めとした多くの家臣達は一斉に平伏した。
其れを確認した虎繁は、《親織田派》の諸将に向かって、岩村城からの退去を命じる。
「さて…、掃部殿。此度の矢止め(停戦)に従い、掃部殿と延友殿の首級は求めませぬ。織田家に臣従致す者達を率いて、恵那郡から退去為さるが宜しかろう」
「承知致した。御配慮、誠に痛み入り申す。此れより後は、御坊丸様を御連れ致して岐阜城に戻り…」
「おや…、何を心得違いをされて居るのだ?先程、儂は御坊丸の陣代だと申した筈。然すれば、遠山宗家を継ぐべき御坊丸は、御当家が御預かり致すが道理!掃部殿は、身辺を纏めて織田家に与する者達と退去為されよ!」
「まっ、待たれよ!其れでは儂は、岐阜の殿(信長)から御咎めを蒙るでは無いかっ!」
愕然とした忠寛は思わず虎繁に異議を唱えたが、虎繁は忠寛に顔を寄せると、僅かに忠寛と隣の於艶の方にのみ聞こえる程度の小声で囁いた。
「掃部殿、儂は腹に据え兼ねて居るのだ。於艶殿にだけを生贄に致し、己達だけで助かろうと考えた御主等の浅慮と、《女城主》を宛行って抱かせて遣れば、儂が喜ぶと履き違えた読みにな…。儂の考えが変わらぬ内に、疾く此の城を出た方が御主等の身の為だぞ!」
「ひっ…!しょ、承知致した!直ちに退去致そう!其方の申す通りで構わぬ!武田家に従うを是とせぬ者達は、全員連れて参ろう!」
虎繁に凄まれた忠寛達は、己の為した事が正に《虎の尾を踏む》行為だった事を思い知らされ、武田方の条件を丸呑み為ると、早々に大広間から退散したのだった。
此の日の深更、忠寛や延友佐渡守、そして光行の息子で父親と袂を分けた平井頼母光村を中心に、約3百の《親織田派》の手勢が岩村城を退去して、西方へと去って行った。
岩村城内に逃げ込んでいた城下の町人や大圓寺の僧侶達も、城が開かれるに及んで城山を下りると、半ば廃墟と化した城下町や伽藍の再建を、新たな支配者である武田家からの支援の下で進めていく事に為った。
其れと入れ替わりに、秋山勢5千は、武田方の《橋頭堡》と為った岩村城と其の支城群に入り、新たに寄子に加えた遠山勢1千と共に、他の《遠山七頭》の平定に乗り出していく。
虎繁と於艶の方は、正に二人三脚で岩村の城下町再建を進める一方、三河二連木城に在陣中の主君・武田大膳大夫勝頼から正式に婚儀の了承を得た上で、岩村開城から旬日を経た3月15日に婚礼を執り行った。
同時に、御坊丸は甲斐府中の躑躅ヶ崎館へと送られ、勝頼の嫡男である武王丸こと太郎信勝に仕える事に為ったのだった。
「…於艶殿、其方は此れで誠に善かったのか?御当家と織田家の争いに巻き込んだ為に、和睦致さぬ限りは其方を尾張に戻して遣る事も適わぬが…」
婚礼の儀と其れに伴う酒宴も終わり、此れ迄は於艶の方が亡夫や息子と暮らして来た《城主の居室》へ入り、御付きの者達を下がらせると、座した虎繁が不意に於艶の方に問い掛ける。
2人は、所領の安堵や軍勢の再編成、城下の再建を最優先したのに加えて、遠山家中の目に配慮して『婚儀が済んで真の夫婦と為る迄は』と、未だ枕を交わしていなかったのだ。
「貴方様が、何故に気を病む必要が御座いまするか?…宮内殿の口添えが有ったとはいえ、妾は自らの意志で《岩村に残って秋山伯耆守の妻に為る》と決めたのです。最早実家に戻る積りは毛頭有りませぬ…」
白の肌小袖姿の於艶の方が、虎繁に向かって婀娜っぽく微笑み乍ら正面に座すると、自身の覚悟と虎繁への感謝の想いを伝える。
「妾は、夫が不慮に身罷る度に兄上(織田三河守信秀)や三郎様…織田弾正殿の命じる侭に、次の御方の元に嫁いで参りました。然れど、其の度に織田家から目付も参っており、妾は飽く迄も《嫁ぎ先を織田家に従わせる道具》で御座いました。恐らくは、実家の尾張へ戻っても、直ぐに別の家に目付共々送られておったでしょう…」
「於艶殿…」
「其れ為らば、我が子の命乞いの為に妾の命や此の身体を差し出す方が、幾らか役に立つと思っておりました。然れど秋山様が、御坊丸の命と妾の心を御救い下さったので御座いまする…、あっ!」
正面に座する虎繁から手首を掴まれ、於艶の方が軽く声を上げると、虎繁は彼女を己の懐に引き寄せて掻き抱いた。
「…於艶殿、安心召されよ。御坊丸は、此の度《武王丸様の奥近習》に取り立てられた。必ずや、御当家の将来に無くては成らぬ武将へと育つ筈だ。織田家と和議でも結ばれて、東美濃が落ち着いたら、其方を連れて甲斐へと戻ると致そう。御坊丸に会うのみ為らず、御屋形様や御家中の者達にも、其方を自慢したいからな…」
虎繁の胸に抱かれた格好の於艶の方は、夜着越しに虎繁の体温を初めて感じ乍ら、潤みを帯びた瞳で見上げて微笑んだ。
「其の御言葉、嬉しゅう御座いまする。…然れば、御願いが御座いまする。本日より後は、妾は貴方様の後添えで御座いまする。宜しければ、於艶と呼び捨てに致して下さいませ…」
「左様か。為れば、儂は遠山の家中から見れば《女城主の入り婿》だ。然すれば、儂の事は《膳右衛門》と仮名で呼ぶが善かろう…」
「はい、膳右衛門様…」
御互いを瞳に写していた虎繁と於艶の方は、何方からとも無く唇を重ね合わせると、1ヶ月近く身体を重ねる事無く育んだ愛情を確かめる様に、夫婦として新枕を交わすのだった…。
岩村城が開城して、入城した虎繁が正式に於艶の方を娶った事に因って、織田家の本拠地とも言うべき美濃国の東隅に、武田家の橋頭堡が築かれた。
虎繁は、遠山家を中心とした美濃先方衆を束ねる《美濃旗頭》に就き、東美濃に於いて織田家と対峙をしていく事に為った。
此の時期に東美濃に武田軍が進出を果した事は、織田家と対峙為る多くの勢力を勢い付かせる結果を齎した。
更には、三河の国主・徳川三河侍従家康の策謀に因って、此の後直ぐに巻き起る《武田家と織田・徳川両家に因る全面対決》に於いて、此の虎繁と於艶の方が率いる岩村城の軍勢が、味方の危難を救う一助と為るのである。
今回の話の舞台となる岩村城は、史実では武田信玄が織田家との盟約を破棄して、不意打ちの形で攻め落としたとも、遠山家臣が織田家に叛旗を翻して武田の支配下に入ったとも言われています。しかも織田一族である遠山夫人(於艶の方)が秋山虎繁を婿とした事も有り、信長の逆鱗に触れた岩村城と遠山家は、落城の際に騙し討ちの後に鏖殺の憂き目を見る事に成りました。しかし此の仮想戦記では、武田信虎の暗殺という想定外の事態を受けて、盟約破談・宣戦布告を行った上で岩村城へと侵攻しました。此の事が、後に色々な方面に影響を与えていきます。
次回は、信長が命じる上京焼討と、勝頼の吉田城攻略、そして家康の謀略発動の話になります。相変わらず乱文長文の上に、すぐに発熱するスマホにてこずっておりますが、次回も是非読んで頂ければ幸いです。ありがとうございました。