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廿玖:元亀狂瀾(弐)〜静かなる潮流〜

久し振りの更新になります。今回は《武織開戦》後の勝頼と各大名の話になります。相変わらずの長文ですが宜しく御願い致します。

 峻嶺を越えた冬の寒気に広く覆い尽くされていた東海道にも、穏やかな日差しが降り注ぐと寒さも漸く緩み始め、東風こちかぐわしい梅の芳香を運んで来て呉れる。

 だが、気を抜けば《春疾風》と呼ばれる強風が吹き抜け、再び北側に押しやられていた寒気が舞い戻って来るのだ。

 とはいえ、季節は間違い無く移ろい往き、次第に春の陽気が辺りを包んでいく。

 

 だが、扶桑の中程に位置する三河国の岡崎城では、未だに冬から季節が動かぬかの如く、人々の面持は一様に重く沈んでいた。

 此の城の城主で、源氏新田家の末裔を自称している徳川三河侍従家康の勢力は、一旦は三河国のみ為らず東隣の遠江国迄も飲み込む勢いだった。

 しかし、更に東側に勢威を張る正真正銘の源氏の雄・甲斐武田家が、遠江・三河へと征伐の軍を興すと、徳川家は遠江を叩き出されたばかりか、東三河も蚕食され始めたのだ。

 岡崎の民草は、此処数年遠ざかっていた戦乱の気配を再び感じ取り、陰鬱な空気を醸し出していた。

 

 時に元亀4年(1573年)2月下旬の頃の事である。

 

 龍頭山と呼ばれる小高い丘を本丸に、矢作川と菅生川の流れを外堀に利用して築かれた岡崎城は、家康の祖父に当たる松平二郎三郎清康が進出し、以後は松平家(後の徳川家)の本城と為った。

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの後に、駿河今川家からの独立を果した家康は、西隣の尾張国主・織田上総介信長と、後に《清須同盟》と呼ばれる事に為る盟約を結び、互いの後顧の憂いを無くしている。

 そして、家康の独立と同時期に巻き起った《三河一向一揆》の平定と、未だ今川家にくみする国衆の討滅を進めて勢力を伸ばし続けた。

 其の後、家康は本城を岡崎城から遠江の曳馬城に移すと《浜松城》と名を改め、三遠2国を統べる大名へと成長を遂げたのだ。

 

 其処に立ち塞がったのが、今川家の本領である駿河を併呑した武田家である。

 武田家新当主の大膳大夫勝頼は、織田との盟約は敢えて廃さぬ事で織田の軍勢を足止め為る一方、数年来対立していた徳川家に対しては《徳川征伐》と呼称為る大軍勢を興したのだ。

 

 対する家康も、勿論指を咥えて見ていた訳では無く、遠江や奥三河に於いて戦闘を繰り広げた。

 だが、迎え撃った遠江三方ヶ原に於いて散々に打ち破られ、更には新たな本城だった浜松城も奪われて、独力での抵抗の無意味さを骨の髄迄も味わされた。

 家康は岡崎城に舞い戻った前後から、自らの盟友…と言うより盟主で在りながら、武田家と未だに戦端を開かない織田家を、対武田戦に引き摺り込む為の策を秘密裏に巡らせていく。

 はかりごとが功を奏した結果、踊らされた織田家重臣の佐久間右衛門尉信盛に因って、武田家の京屋敷が襲撃されて焼け落ちるに至った。

 更には、同じく自覚無き侭に使嗾された幕臣の上野中務少輔清信が、御相伴衆の無人斎道有…武田家先々代当主である陸奥守信虎を、武家御所内に於いて暗殺為るという暴挙に出たのだ。

 

 此等を受けた結果、武田・織田両家の間に結ばれていた仮初かりそめの《盟約》は、武田家から遣わされた武藤喜兵衛昌幸が、岐阜城にて織田弾正大弼信長に対して《宣戦布告》を伝えた事で、正式に決裂した。

 加えて武田家は、追放されて隠居の身の上とはいえ、現当主の祖父の殺害に直接手を下した、幕府側との交渉の窓口を閉じてしまった。

 其の結果、征夷大将軍・足利権大納言義昭が画策した《織田包囲網》から、指揮系統としては半ば離脱してしまったのである。

 

 此れに因り、武田家は曲り形にも幕府に従っている各地の大名との間に、関係に支障が生じる可能性が起き、家康の予想以上の成果をもたらした。

 とはいえ、武田軍は此の時点に於いて、織田勢とは東美濃を舞台に既に交戦に及んでいる他、織田家の事実上の与力大名である徳川勢を、東三河に釘付けにしていた。

 此等の点を考慮為ると、武田家は幕府との交流を断ったとはいえ、実質的には未だ《織田包囲網》の一角を担っていると言えた。

 

 岡崎城本丸に築かれている板葺きの屋敷は、今川からの独立以来家康が御殿として使用していた。

 浜松城を喪い、再び此の御殿に居を移した家康は、己の居室に座って右親指の爪をかじり乍ら、側に侍る家老で《西三河衆旗頭》の石川与七郎数正に悪態を吐いた。

 

「糞っ!数正、織田の軍勢は未だに、尾張に張り付いた侭で動く気配を見せぬのかっ!」

「はっ、尾張を守る織田の軍勢のみ為らず、刈屋や池鯉鮒の水野勢も、未だに渡ってはおりませぬ。恐らくは、両勢共に沓掛や刈屋に詰めて居る物かと…」

 数正の返答を聞いて、家康は脇息に身体を休め乍ら口許を歪ませ、尾張の織田勢を率いる武将を口汚く罵った。

 

「ふんっ、確か尾張の守りには、佐久間右衛門(信盛)が回されたのだったな。流石に、我が笛に乗って武田の屋敷を焼いた阿呆だけに、己が動く機微も判らぬと見えるわ!」

「…ですが、織田様自らの大軍勢での後詰で無ければ、佐久間や水野程度の小勢が参っても《焼け石に水》で御座いまするぞ」

「そうよな…、飽く迄も、武田の奴輩と互せるだけの後詰で無ければ意味が無い…。武田の奴輩に攻め込まれた東三河を、根刮ねこそぎ奪い返す為にもな…」

 己に言い聞かせる家康に、数正は僅かに距離を詰めると、声を潜めて話し掛ける。

 

「殿。既にニ連木、牛久保、長沢、上ノ郷等が陥とされ、吉田城や田原城も武田の軍勢に囲まれて居りまする。此の侭では、織田の後詰が間に合わぬのでは…」

「数正が憂えるのも致し方無いが、次の策が順調に推移しておる。既に、半蔵(服部正成)配下の伊賀者だけでは無く、彼奴あやつが家臣の《鳥居強右衛門》とやらにも命じて、密に繋ぎを取っている。彼奴も、一旦寝返った汚点をすすごうと、随分と切り崩しに励んでおるわ…」

「…左様で御座いまするか。しかして、策が成就致した暁には、織田の軍勢を後詰に迎えて、武田の軍勢を雌雄を決する大戦に引き摺り出せまするな!然れど、手入れ(調略)が武田方に露見致しては此の策も水泡に帰しまする。成就致す迄は、慎重に慎重を期さねば為りませぬな…」

「うむ、判っておるわ…」

 

 家康は、数正の諌言に生返事を返し乍ら、手元に巻いた侭の1幅の掛軸を広げる。

 其処には、やつれた表情を繕わぬ侭に片膝で床几に腰掛ける、家康自身の無様な姿が描かれていた。

 三方ヶ原の戦いからの敗走の最中、絵師を呼んで己の姿を写し取らせた《顰像》…正式には《徳川家康三方原戦役画像》として後世に伝えられる絵画である。

 

(忌々しい《諏訪の小倅》め!精々今の内に、甘い夢心地に浸っておるが善い!儂の眼前に引き摺り出して、じわじわとなぶり殺しにして呉れるわっ!)

 顰像を眺める家康の脳裏は、幾度殺しても飽き足らぬ武田勝頼への深い怨恨に、次第に覆い尽くされていくのだった。

 

 三河湾の東側に東西に伸びる渥美半島の付け根に築かれた、東三河の要衝…吉田城。

 家康が居る岡崎から南東に7里程(1里は約3927メートル)離れた此の城は、吉田川(豊川)と支流の朝倉川の合流点近く、東海道や吉田往還(後の伊那街道)を抑える今橋の地に築かれている。

 更には、南の渥美郡・東の八名郡・西の宝飯郡の3郡の境目を扼し、北の設楽郡を含む東三河4郡を統べる《扇の要》とも言える城である。

 

 此の吉田城は、過去には今川家の三河支配の拠点と為り、徳川家の遠江進出への策源地とも為った。

 だが此の時、吉田城には東三河の徳川配下の国衆が立て籠もり、万を遥かに越える軍勢に囲まれて《陸の孤島》と化していた。

 徳川の境目の城だった野田城を攻略した、武田軍山手勢の主力2万を相手取って、籠城戦を繰り広げて居たのだ。

 

 武田軍に因る《徳川征伐》は、年を明けて軍勢を3つ…勝頼直率の山手勢3万3千・宿老の山県三郎右兵衛尉昌景が率いる浜手勢1万(小田原北条家からの助勢3千を含む)・海賊衆53隻の海手勢…に再編して、東三河に雪崩込んだ。

 設楽郡南端の野田城を包囲して7日で攻略した武田軍山手勢は、東美濃攻略に向かう5千の軍勢を送り出すと、吉田往還を南下して一路吉田城を目指した。

 対する徳川勢は、《東三河衆旗頭》の酒井左衛門尉忠次が、己の麾下の東三河衆を吉田城に集結させると、武田軍に対して徹底抗戦の構えを取った。

 対する武田軍は方針を修正して、先ずは八名・宝飯両郡にある徳川方諸城の攻略を進めていく。

 東三河衆の多くが、ほぼ全ての手勢を率いて参集に応じた為に、無人若しくは留守居の兵のみだった両郡の多くの城を、武田軍は燎原の火の如く次々と攻略していった。

 吉田城に籠った侭の東三河衆は、己の居城が落城していくのを、城内から歯噛みし乍ら見守るしか出来なかった。

 

 宝飯郡各地の諸城を攻略した武田軍は、幾つかの主要な城を接収為ると、西の岡崎方面からの後詰を警戒して防備を固めていく。

 

 宝飯郡の北西、東海道の南側にそびえる岩略寺城には、武田家の宿老の1人である馬場美濃守信春率いる3千の軍勢が入っている。

 岩略寺城が築かれた長沢の地は、周囲を山に覆われ、其の谷底を縫う様に東海道が東西を貫く、古くからの交通の要衝である。

 三河国を東西に分かつ接点でもあり、かつては今川家も岩略寺城に在番の兵を置いて、西三河進出への足掛りにしていたのだ。

 

 信春は岩略寺城に入ると、東海道を北東に見下ろす位置と、三河有数の堅城ぶりに着目して、空堀や土塁を増設する等の防備の強化に乗り出した。

 更には、東海道を挟んだ反対側の山麓に位置する《長沢松平家》の居城の長沢城と、岩略寺城より更に西側の、此の時点の境目と為る峠の手前に位置する登屋ヶ根城にも、兵を入れて防御を固めた。

 此の岩略寺城を中心とした防御網は、岡崎から東進して来る敵の後詰を、味方の後詰が駆け付ける迄の間、防ぎ止める事が求められていた。

 謂わば長沢の谷を利用して、4年前に相模で行われた《三増峠の戦い》の如き《山岳戦》へと持ち込む事を企図していた。

 

 一方、三河湾沿いからの東進を防ぐ為に、城主の松平三郎太郎康元(家康の異父弟)以下全員が逃亡して無人だった上ノ郷城を占拠為ると、信濃先方衆で信濃松尾城主の真田源太左衛門尉信綱と兵部丞昌輝の兄弟を入城させた。

 勝頼から寄騎を預けられて、約3千の軍勢に増強された真田勢は、上ノ郷城と周辺の小城群の修復に取り掛かっていた。

 此方側は、敵の後詰が襲来した際に、上ノ郷城を中心とした蒲形・西ノ郡周辺の諸城を使う事で、少勢で多勢を翻弄為る所謂《遊撃戦》を繰り広げる腹積りなのだ。

 

 そして、岩略寺・上ノ郷の両城を抜かれた場合に備えて、吉田城と両城の間に位置する2城にも、《御親類衆》の軍勢が入城していた。

 即ち、牛久保城には木曾福島城主の木曾左馬頭義昌(勝頼の姉婿)の軍勢1千、伊奈城には甲斐上野城主の一条右衛門大夫信龍(勝頼の叔父・信虎9男)の軍勢1千である。

 

 こうして、宝飯郡各地に合計8千の軍勢を配置して、吉田城と西三河の間を遮断した武田軍山手勢は、吉田城の半里東に位置するニ連木城を占領して本陣を置くと、残る2万の軍勢を以て、吉田城の四方に陣城を築いて囲繞したのだった。

 

「…左様か、大儀であった。其れにしても、昌幸には随分と長旅を強いてしまったな」

 二連木城本曲輪の屋敷にしつらえられた己の居室で、勝頼は1人の家臣から報告を受け取っていた。

 岐阜城に於いて織田家に宣戦を伝えた後、1ヶ月以上に渡って諸国を廻って帰還を果した、足軽大将衆の武藤喜兵衛昌幸である。

 

「はっ、随分と扱き使われ申した。浜松から岐阜、更には京に小谷、挙句には一乗谷に至る迄も廻国致す羽目に為るとは…」

 主君を面前にして不満を言い募る昌幸だが、其の面持には僅かばかりの笑みさえも零れている。

 そんな昌幸を前にして、勝頼は可笑しさを噛み殺し乍ら、冗談めかして言葉を返す。

 

「然れど、岐阜城の織田弾正と武家御所の公方様に対しては、此方から確と手切れを伝えておかねば、《不孝だ不義だ》と、諸国の者達から謗りを受け兼ねん。更に昌幸は《浅井家及び朝倉家取次》として、両家を此方側に繋ぎ止めて貰わねば為らなかったからな。矢張り、此の大事を果すのは昌幸こそが適任で在った、という事だな…」

「御屋形様、何を御自分だけで納得されておるのですか…。其れはそうと、岐阜にて織田弾正から太刀を預かって参り申した。何でも、先々代様(信虎)の京の屋敷から焼け出された代物だそうで…」

 内心は満更でも無い昌幸は、岐阜へ赴いた際に信長から手渡された、拵えが所々焼け焦げた侭の太刀を、恭しく勝頼に差し出した。

 信虎が甲斐国主の頃より携えて、重臣達を手討ちに為る時にも用い、駿河追放の折さえも手放す事無く、永きに渡って佩き続けていた、刃渡り3尺3寸(約100センチメートル)の《備前兼光》の太刀である。

 

「ふむ…。銘に《兼光》と刻んで在るな。焼け出されて拵えは焦げておるが、刃身には焼身やきみや刃零れも全く無い…。先々代様の形見の品に相違有るまい。弾正殿も、善くぞ当家に戻して呉れたものよ…」

 勝頼は、太刀を慎重に鞘から抜き、目貫を外して柄や鍔を取り去ると、損傷も見当たらず手入れが行き届いた刀身を見乍ら、しみじみと感嘆為る。

「此の形見の太刀は、弾正殿から御屋形様に対しての《詫びの証》との事で御座いました。…其れと於松様(勝頼の妹)にも、破談に至った事への詫びを伝えよ、と申して居りました…」

 昌幸が居住いを正して、神妙な面持で信長からの伝言を伝えると、勝頼も太刀を捧げ持って思いを語った。

 

「…正直な処、織田家は《をりゑ》(死別した妻の竜勝寺殿)の縁者で在った故に、儂自身は含む処を余り持って無かった…。だが、先々代様がこうして殺められ、戦端を開いたからには迷いは無い。正々堂々と覇を競うのみ。…若しも矛を収めると為れば、何方かの家名がついえるか、若しくは軍門に降って家来と致した刻と相成ろう。まぁ出来得れば、弾正殿が改心して父上に帰順して呉れれば一番善いのだが…」

「…織田殿の気性からして、改心なぞ致しますまい。彼の者の心底に、己の手を汚す事も厭わず《旧き体制》を壊して《新たな秩序》を創ろう、との強い信念を感じ申した。《旧き体制》と断じられておる御当家(武田家)に従う事なぞ、弾正殿の思考の埒外かと心得まする…」

「…左様で在ろうな。然れど儂とて、父上に《天下取り》を果して戴くという野望が在る。弾正殿が立ち塞がる為らば、正々堂々と雌雄を決するのみよ…。昌幸。此の太刀は、拵えを新調致して我が太刀に致す所存だ。孫たる儂が此の《兼光》を佩いて、御祖父様の無念を晴らして差し上げよう…」

 昌幸が、岐阜での謁見や此れ迄の所行から、信長を従わせる事が不可能である事を述べると、勝頼は己の祖父の《遺志》を継ぐ決意を昌幸に告げた。

 

「昌恒、居るか。儂が佩き易い様に、此の太刀の拵えを造り直す故に、職人を手配致して呉れ」

 勝頼が居室の外に声を掛けると、奥近習頭の土屋惣三昌恒が入室して、勝頼から太刀と焦げた拵えを預かった。

「はっ、直ちに手配致しまする。其れと、秋山伯耆守(虎繁)様からの遣いとして、我が兄の左衛門が参って居りまする。如何致しまするか?」

「昌詮が参ったか。為らば評定の間にて話を聞くと致そう。昌恒、共に昌詮の話を聞かせる故に、昌胤と虎綱と昌秀、其れに一徳斎と昌続を、評定の間に集めて呉れ」

「はっ、御意で御座いまする!」

「さて、昌幸が戻って参ったのは好都合だ。御主にも評定に加わって貰おうか!」

「承知致しました。では拙者も、評定に御供仕りましょうか…」

 善後策を決める為の評定を開くべく、宿老達の参集に昌恒が退出為ると、勝頼は廻国から戻って来た昌幸を引き連れて、評定の間に向かうのだった。

 

「おおっ!岩村城が開城致したか!其れは祝着至極で御座るな!」

「1ヶ月程で堅城と名高い岩村城を落とすとは、誠に重畳で御座る!」

「流石は膳右衛門(虎繁の仮名)殿といった処ですな!我等も虚々(うかうか)とはして居れませぬぞ!」

 

 武田家の宿老格の重臣の内、二連木城の本陣に詰めていた原隼人允昌胤・内藤修理亮昌秀・春日弾正忠虎綱、そして昌詮の実兄の土屋右衛門尉昌続と、勝頼の軍師で昌幸の実父である真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)の5人は、屋敷内の一角に在る評定の間に集められた。

 5人と昌幸が座した其の席で、中央で平伏した昌詮から《岩村開城》の報知を聞くと、評定の間に歓喜の声が響き渡る。

 

「源蔵(昌詮の幼名)、東美濃の織田勢と他の遠山の分家の動静は、如何相成っておるか?」

「はっ兄上、織田勢は織田三郎五郎(信長庶兄の信広)と川尻与兵衛(秀隆)が率いる1千強の軍勢が、岩村への後詰に参り申したが、直ちに迎え撃って此れを打破り、再入城を防ぎ申した。此の軍勢は現在は西へと退いて居りまする。義父は岩村城に入城を果し、遠山大和守(景任)の後家である《於艶の方》及び養子の《御坊丸》を保護致して、直ちに周囲の《遠山七頭》の切り崩しに掛かって居りまする!」

 

 広間の中央で平伏している細面の若武者…秋山左衛門尉昌詮は、金丸筑前守虎義の3男で土屋昌続・昌恒とは実の兄弟に当たる。

 勝頼より1歳年若の当年27歳で、未だ男子が無かった虎繁が、彼等兄弟の実父である虎義に請うて、養子として迎え入れていた。

 今回の《徳川征伐》では、当初は飯田城の留守居役に就いていたが、戦傷者等を伊奈に戻したのと交替する形で、伊奈衆の留守居の兵力を率いて虎繁の秋山勢に合流して居たのだ。

 

 義父虎繁の遣いとして勝頼に謁見した昌詮が、平伏した侭で次なる報告を述べた次の刹那、重臣達は正にけ反る様な衝撃を食らった。

なお、此の度の和議開城の折に、我が義父が女城主たる《於艶の方》を娶る事に相成り、結納の儀も恙無く済ませまして御座いまする。御屋形様に御裁可を仰がず、此の場に於いて事後の報告と為った事、義父に成り代わり御詫び申し上げまする…」

「なっ…、何とっ!」

「伯耆守殿は、確か今は独り身の筈故に、可笑しくは無いが…」

「彼処の嫁は、確か織田弾正の叔母に当たるのでは無かったか?」

 行き成り虎繁が敵の女城主と、其れも織田家に所縁の女性と婚儀を結んだと聞き及び、重臣達は御互いに顔を見合わせて、茫然の呈で呟き合う。

 其処に、上座に座る勝頼が笑い声を上げると、重臣達のみ為らず昌詮も主君を仰ぎ見る。

 

「あっはっはっ!そうか!虎繁は、城と嫁の両方を一度に落としたか!正に前代未聞では無いか!」

「御屋形様…、笑い事では御座いませぬぞ!敵方の女子衆を手籠てごめに致しては、聞こえが悪う御座いまする!御屋形様が《人買い》を禁じた事が無意味に為り兼ねませぬ!」

 幸綱は喜ぶ勝頼を戒め、虎繁の行動が《乱取り(略奪)に因って後家を我が物にした》と他国に揶揄される可能性と、其の場合の過去の政策との矛盾を指摘して来た。

 

 当時、東国を含めた全国各地に於いて、《乱取り》と称した乱暴狼藉や、市場を開いての大規模な人身売買が横行していた。

 勝頼は陣代(当主代行)就任後、《御聖道様》と尊称される次兄の武田竜芳(海野二郎信親)からの忠告に従って、武田領内に於いて人身売買を禁じる政策に舵を切っていた。

 其の為に、若しも秋山勢が乱取りを行って、美貌名高い《於艶の方》を手籠めにしたと為れば重大な背反行為に当たる。

 更には勝頼自身が、反勝頼派から《当主として指導力不足》と烙印を捺され、内外が混乱為る要因に為り兼ねなかった。

 だが、幸綱の危惧を昌詮は即座に否定して、勝頼や宿老達に婚儀が決った事情を説明為る。

 

「一徳斎様、実は此度の婚儀を提案して参ったのは、遠山方の家老達で御座いまする。仮令たとえ、敵の所縁の《女城主》が降った処で、所領の安堵は難しゅう御座いまする。更には、義父自身が女子供を討ち取る事に躊躇ためらいが御座いました。其処で、遠山家と和議を致す条件として、義父が《女城主》を娶った上で、身内として遠山家の所領安堵を、御当家に介する事に為り申した」

「…成程、相判った。昌詮、虎繁を遠山の寄親と致す旨は了承致そう。岩村の遠山家は勿論、家臣の内で当家に従う者の所領に関しては此れを安堵致す。…但し、於艶とやらを虎繁の側妻では無く正式な後添いと致し、おおやけに周知致す事が必定だ。まぁ、如何なる手を用いても構わぬと、儂自身が虎繁に言ったのだからな…」

 勝頼は、虎繁が於艶の方を正妻として迎える事を条件に、岩村遠山家の所領安堵と、虎繁の《寄子》として指揮下に組み込む事を了承した。

 為ると、虎綱が感慨深い面持ちで話を切り出した。

 

「併し乍ら、今は独り身だったとはいえ、相手方の奇策を飲むとは、膳右衛門殿も随分と思い切った物ですな!」

「いやいや、案外秋山殿も乗り気だったのやも知れんぞ!何せ、永禄10年(1567年)の於松様の御婚約のみぎり、翌年に御当家の使者として岐阜へ赴いた際には、岩村城にて遠山夫妻の歓待を受けて、見知っておったらしいからな!」

「そう言えば秋山殿は、昨年の年の瀬に浜松城の御隠居様(信玄)を囲んで宴を催した際、井伊谷の女領主(井伊次郎法師直虎)から秋波を送られた御屋形様の事を、偉く羨んで居りましたな!」

 虎綱の感想に、昌秀や昌胤が合の手を入れると、幸綱が勝頼の方を向き直して、妻妾を側に置こうとしない勝頼に苦言を呈する。

 

「御屋形様、ですから某共それがしどもが、北条家から御正室を迎える迄に側室を御作り下さいと、彼れ程申して居ったので御座る!伯州殿に先を越されたでは御座いませぬか!」

「一徳斎、また其の事か…。ただの一武将だった頃為らばいざ知らず、未だに戦況も定まらぬのに、女子にうつつを抜かす暇は無いと言うたでは無いか…」

「親父殿、其の様な瑣末な事よりも、直ちに決めねば為らぬ事柄が御座いまするぞ!」

「こらっ!昌幸っ!御当家の御為に申しておる事を、瑣末な事とは何たる言い草だっ!」

 

 昌幸が、困り果てた主君に助け船を出したが、息子の半ば礼を失したかの如き言葉遣いに幸綱が猛り立つ。

 だが父の憤りを意に介さない昌幸は、其の侭勝頼や重臣達を見渡し乍ら、解決しなければいけない問題を提示為る。

 

「御歴々の皆様は、遠山和州の養子だった御坊丸は如何致す御所存か?此の侭岩村城に留置いては、織田に与する者達の神輿と成り兼ねませぬぞ」

「…如何様で御座るな。妥当な案は、織田や徳川に捕われた質との交換で御座ろうが…。源五郎殿の存念は、如何なのだ?」

 信玄の奥近習時代からの同僚である昌続が、昌幸自身の考えを質す。

 すると、昌幸は重臣達を見渡し乍ら、然も芝居掛かった面持で結論を述べ、ちらりと主君の顔色を伺った。

 

「拙者為らば直ちに殺しまする。将来の禍根は絶たねば為らぬと心得まする」

「うむ…、確かに戦端を開いたばかりで質を返しては、敵に弱腰を見せる事に為る…」

「致し方在りますまいな…。左衛門、直ちに秋山殿に復命致して…」

 重臣達は、昌幸の提案を順当な案だと考え、昌詮に対して《虎繁への指示》を伝えようとしたが、上座に座する勝頼が其の意見を否定した。

 

「殺める事は罷り為らぬ。確かに織田家とは断交致したが、幼子に手を掛けたと在っては極めて聞こえが悪い。其れに儂自身、所縁がある織田家の幼子を磔台に架けるのは偲びないしな…」

「…確かに、風聞が悪う御座いまするな。然れど、いささか甘くは御座いませぬか?仮令たとえ幼子とて、戦国の倣いから逃れ得ぬ事は、織田弾正も覚悟致して居りましょう」

 勝頼の判断に対して、虎綱が甘さを指摘してやんわりと苦言を呈したが、勝頼は違う視点からも幼子を生かそうとしていた。

 

「何も、殺めたくないだけで申して居るのでは無い。其の御坊丸とやらは、養子で血が繋がらぬとはいえ、遠山宗家の跡目には相違有るまい。其の身柄を抑えておく事は、当家に取っては益と為るに相違無い。更に申さば、織田弾正の息子を殺めては、御互いに更なる怨恨を残す事に相成ろう…」

「然すれば、敵に回った織田弾正に態々(わざわざ)子供を無傷で返すので御座いまするか?」

「いや、昌続。其の幼子の身柄は織田には引き渡さず、在府を命じる所存だ。昌幸、此れ為らば無闇に殺める必要は有るまい?」

 

 《在府》とは、家臣や敵方から差し出された人質を、甲斐府中の躑躅ヶ崎館に留め置く事を意味する。

 此れに因って、御坊丸の処刑も返還もせずに、人質として甲斐に連行為るという勝頼の判断に、昌幸は苦笑し乍ら応じる。

 

「…相変わらず、御甘う御座いまするな。然れど、甲斐に質として囲うので在れば、織田弾正から恨まれる事に代りは御座いますまい。…御屋形様は、如何にして織田と手仕舞に持ち込む御所存で御座る?」

「うむ…、儂としては手仕舞の時の為にも、其の幼子を《敵方からの質》としてではなく《当家に従った遠山家からの質》として、他の者と分け隔て無く扱いたいのだが…。そう言えば昌幸、御主の処に確か息子が2人居ったな?」

「御屋形様、拙者の問い掛けに対する解に為って居りませぬぞ。確かに拙者には、源三郎と弁丸が居りまする。確かに今は、府中の屋敷に住まわせて居りまするが、未だ未だ幼少にて…」

「…そうじゃっ!為らば、源三郎と弁丸を躑躅ヶ崎館に出府させよ!先に在府致しておる小笠原鶴寿丸(弾正少輔信興の弟)や其の御坊丸と共に、信勝の奥近習衆を作ると致そう!信勝の傅役である常州(温井常陸介)にも言い含め、一廉の武士もののふに育てて進ぜよう!」

「何ですとっ?御屋形様っ!行き成り話が飛び過ぎで御座いまするぞ!」

 勝頼の突拍子も無い提案を幸綱が窘めるが、他の宿老達は思わず唸ってしまった。

「然れど、一徳斎殿、御屋形様の御考えも一考に値致すのでは?」

「如何様、確かに一理御座いまするな…」

 

 確かに御坊丸を、単なる人質として不遇を託つよりも、織田家の血筋に連なる信勝と共に成長させた方が、両家の《鎹》として育ち得る公算が大きいのだ。

「左様で御座いまするな…。確かに温井殿に御任せ致せば、悪しき様には致さぬでしょうし、愚息達もいずれは武王(信勝)様に御仕え致す為らば、早くても構わぬと心得まする。御屋形様の思し召し、此の昌幸も感服仕り申した…」

 昌幸が、改めて勝頼の方に向き直して仰々しく平伏したが、昌幸の真意を悟っていた勝頼は、軽い口調で言い返す。

 

「何を申すか昌幸。どうせ御主の事だ、わざと先に極論を述べて、反発致した儂が何の様な考えを纏めるか、試しておったのだろうが。…而して、儂の《器》は御主の及第には未だ程遠いか?」

「なっ…!」

 其の場に居合わせた者達が、実父の幸綱も含めて全員絶句してしまう中、当の昌幸は涼しい顔で面を挙げると、ふてぶてしい迄の口調で主君の提案を論評し始めた。

 

「ははは、流石は御屋形様。拙者の心底を見抜いて居られましたか。…然れど、先程申した拙者の言葉に、嘘偽りは御座いませぬ。確かに、直近には弾正の恨みを買う《悪手》で御座ろうが、時を掛けて十二分に磨けば《妙手》に化けるに相違御座いませぬ!…但し、其の御坊丸が成長致す迄の間、御当家が織田家を相手取って、少なくとも互角の戦いを致すのが、最低限の条件で御座りまするぞ!」

「無論だ!父上を天下人へと押し上げる為には、相手が織田家だとて譲る積りは無い!有りとあらゆる手を打ち、当家の力が織田に伍して凌駕致す迄、当家一丸と為って戦わねば為らぬ!」

 昌幸だけでは無く、其の場の全員を見渡し乍ら自らの決意を述べた勝頼は、改めて中央で平伏している昌詮に向かって語り掛ける。

 

「…其の為にも、当家の《西側の防壁の要》と為る東美濃での虎繁の働きが、今以上に入り用に為る。昌詮、御主は岩村に戻って虎繁に儂の意を伝えよ!そして、遠山家から御坊丸を預かった上で躑躅ヶ崎館へと連れて参れ!常州には、儂から遣いを送って申し伝える事に致す」

「はっ、承知仕りました!此の侭直ちに城を出立して、義父へ復命致しまする!」

 兄の昌続や弟の昌恒に比べると多少線が細い昌詮がかしこまって平伏為ると、勝頼は視線を和らげて言葉を掛ける。

 

「いや…、岩村に戻るのは明朝で構わぬぞ。儂の方からも、虎繁への書付を用意致す故に、今宵は土屋の陣所に泊まり、兄弟水入らずでゆるりと過ごすが善い。昌続、昌恒、御主等も昌詮と下がるが善かろう」

「ははぁっ!誠に有難き幸せに御座いまする!」

「御屋形様の御言葉に甘えて、拙者達も下がらせて頂きまする。では皆様方、御先に失礼仕りまする…」

 勝頼からの申出に、《金丸家の3兄弟》は感激の呈で謝意を延べ乍ら、評定の間を退出していく。

 彼等の気配が失せると、勝頼は視線を居残る宿老達に向けて話し掛ける。

 

「さて…、此処からが当家の正念場だ。我等は、徳川や織田の軍勢を隘路である《長沢の谷》に誘い込みたいが、彼方あちらも岡崎側の谷の出口で我等と事を構えたい筈だ…」

「如何様で御座いまする。隘路の出口に当たる山中郷には、徳川方の山中城の他にも、徳川とも所縁の深い《二村山法蔵寺》なる大刹が御座いまする。恐らくは、地の利に優れた山中の地にて迎え撃つ腹積りかと…」

「左様で御座るな。吉田城を餌に致して、長沢の岩略寺城の辺りを戦場に…と、御当家が考えて居るのと同じく、其の辺りが順当で御座ろう」

 勝頼や昌胤の見立てに対して昌秀が話の穂を継ぐと、虎綱も首肯して賛意を示す。

 

「確かに、此の侭で吉田城を見殺しに致したと在らば、東三河の国衆の心が徳川から離反致すは必定で御座る。其れを防ぐには、織田の後詰を得た上で、不利を承知で吉田表に押し出すより他に御座いますまい…」

「まぁ、三州(家康)が吉田城を見殺しに致した上で、岡崎へ軍勢を掻き集める為らば、話はおのずから変って参りますが、其れでは東三河を手放す事に為りましょう。織田の後詰が期待出来る此度ばかりは、埒外かと心得まする。…これ、昌幸!先程といい御屋形様の御前で、其の様な面構えは失礼で在ろうが!如何致したというのだ?」

 

 勝頼の軍師である幸綱も、東三河への影響力消滅の観点から、徳川勢の不出馬に否定的だったが、下座の昌幸だけが唯独り、眉間に皺を寄せて渋い面持を漂わせている。

 思わず幸綱が息子を見咎めると、上座の勝頼も昌幸の変化に疑問を覚えて問い掛ける。

 

「昌幸、如何した?織田・徳川勢を東三河に引き摺り出す計略に、何処か気に為る処が有るのか?」

「…いえ、真っ当に考えれば何も問題は有りませぬ。後方を扼し兼ねない越後の上杉勢も、越中の一向一揆が動きを抑えて居りまする。恐らく雪解け迄は動きは御座いますまい。…然れど、京の公方が軽挙妄動致した挙句に、愚かにも織田勢と一時為りとも矢止め(停戦)でも致さば、織田の四方を囲む《織田包囲網》は瞬く間に討ち崩され、御当家が織田徳川の軍勢を一手に引き受ける羽目に相成りましょう。其れに…」

「其れに何だ、如何致した?」

 一旦言葉を切った昌幸に対して、勝頼が続きを急き立てると、昌幸は主君や宿老達を見渡し乍ら、己の懸念要素を披露為る。

 

「其れに、杞憂為らば善いので御座るが、御当家の《徳川征伐》に因って、遠江はおろか東三河をも喪いつつある家康…徳川三州が、此の侭引き下がるとは到底思えませぬ。…若しも、織田の大軍勢が後詰に入って、三河一円なりを再び奪ったと致しても、貴奴に残るは大名では無く《織田家の外様家臣》という立場で御座る。其の様な代物は、腹に一物を抱える家康に取りましては、決して相容れる事は適いますまい…」

「こらっ!昌幸っ!己が才をひけらかしたがるのも大概に致せっ!其う迄もうそぶくからには、御屋形様や御歴々に《徳川三州の計略》とやらを説明出来得るのだろうなっ!」

 幸綱が、息子の《傲岸不遜》振りを身咎め、正鵠を得る様な説明を求めたが、当の昌幸は軽く鼻を鳴らして拒絶した。

 

「ふっ…、家康の隠した積りの心底は読めても、貴奴が繰り出す策の子細は、此れから探るより他は御座らぬ。親父殿も、随分と無茶な相談を為さりまするなぁ」

「何とっ!父に対して何たる物言いかっ!」

 息子の口答えに、幸綱は激昂して腰を浮かせるが、上座の勝頼が真田親子の仲裁に入る。

 

「一徳斎、少しは落ち着くのだ。昌幸が此の様な性分だと言う事は、御主自身が一番良く判って居るだろうに…。昌幸も、目上の重臣達の前ではもう少し己を抑える事を心掛けよ。然も無くば、陣代に就くより以前の儂の如く、過信に足元を掬われる事に為るぞ!」

「はっ…!親子共々、御見苦しい処を御見せ致して、誠に申し訳御座いませぬ…」

「御屋形様にも、御歴々の皆様にも、失礼仕りました。以後留意致しまする」

 真田親子の陳謝を受けて、勝頼は改めて此の場に残った5人を見渡すと、今後の方針をおもむろに語り始める。

 

「うむ…。為らば、暫くは京や畿内の状勢を眺め乍ら、吉田城を餌に織田・徳川の軍勢をおびき寄せる。但し畿内に急変が有らば、昌景が率いて渥美郡を平定中の浜手勢1万を呼び寄せ、吉田城を一気に開城へ追い込むぞ!昌景には遅くとも3月末迄には渥美郡の平定を完了させて、何時でも北上出来る様に伝えよ!」

『ははっ!』

「其の際に、少しでも多く織田方の兵を引き付けておいて貰う為にも、そして万が一にも公方が織田と和睦致しても堪え得る様に、江北(北近江)の浅井勢に対して、一兵でも多くの後詰の軍勢を送る事が肝要だ。昌幸、如何相成っておるか?」

「はっ、此の度一乗谷へ参った際に、小谷城の浅井勢に後詰の軍勢を送る様に、朝倉家に既に申し入れて居りまする。然れど、朝倉左衛門(義景)は其の席にさえ参らなかった故に、大将自らの出陣は望み薄でしょう。江北へは全く兵を出さぬか、申し訳程度の軍勢…恐らくは一乗谷から遠ざけられている《敦賀郡司》勢と外様の国衆辺りを、小谷に入れる位が精一杯で御座ろう…」

 3年前、秘密裏に朝倉勢浪人衆に加わって《姉川の戦い》に参戦した縁で、浅井・朝倉両家の取次に就いている昌幸から、報告を聞いた勝頼は即断を下した。

 

「其の様な仕儀為らば、朝倉勢の全てが出陣致すのを、悠長に待って居る暇は有るまい。差し当たり、敦賀と外様の軍勢だけでも出陣させねば為らぬ。小谷に詰めて居る矢沢右馬助(綱頼)にも繋ぎを入れて、直ちに朝倉勢を小谷に入城させよ!浅井のみでは江北を抑える事は絶対に適わぬ!」

「はっ!若しも宜しければ、三河の戦況が動かぬ内に、今一度拙者が一乗谷と敦賀、其れに小谷城へ赴き、江北の防備を固めさせまする!此方の戦況が動く春には、善き報せを持って帰参致しましょうぞ!」

 勝頼からの命を受けた昌幸が、自ら越前と北近江を再訪して、朝倉勢を小谷城に出陣させる決意を延べると、勝頼から即座に了承された。

 

「うむっ!織田の後詰が三河に入る迄に、小谷を固めて戻って参るのだ。…然すれば後は、織田・徳川と雌雄を決するに相応しい戦場だが、此方側の思惑通りに事が進むとは限るまい…。其処で昌胤は、万が一でも敵の懐に飛び込まねば為らぬ際に備えて、額田・幡豆の両郡の地勢を調べ上げるのだ。特に岡崎迄の街道沿いは細かく調べ上げよ!」

「御意で御座いまする!」

「次に一徳斎は、其の両郡を含めた西三河の国衆達に、手入れ(調略)を仕掛けるのだ。本領安堵は勿論、徳川家討滅の後には相応の加増を約して構わぬ。」

「承知致し申した!」

「そして虎綱は、吉田城を囲む軍勢の統制を行って呉れ。乱暴狼藉は勿論の事、無闇に攻め掛って《釣り餌》たる吉田城を落とさぬ様に、手綱をしかと握っておくのだ」

「ははっ!」

「最後に昌秀は、東三河での今後の戦いでも小荷駄が途切れる事の無き様、雪解けと同時に信濃と東三河を結ぶ長篠城に、出来得る限りの物資を運び入れさせよ!最終的に上洛迄も見据える為らば、是が非でも重要だ!」

「承知致し申した!」

 勝頼は、己が下した命に全員が首肯したのを確認為ると、改めて5人を見渡して檄を飛ばす。

 

「此処から先は、当家に取って全くの未知の領域に足を踏み入れる事に為る。織田・徳川の抵抗は、此れ迄以上に激しさを増すで在ろう。当家の家中の力を束ねて、必ずや織田・徳川を屈伏に追い込むのだ。善いなっ!」

『応っ!』

 

 勝頼の檄に応えて5人が平伏為ると、深く頷いた勝頼が残った決裁を済ませるべく、評定の間から退出していく。

 其れを見送った諸将も、夫々(それぞれ)が勝頼から与えられた新たな命を果すべく、評定の間を後に為るのだった。

 

 此の後、武田軍は吉田城の孤立化を更に進め乍ら、渥美郡を平定中の山県勢の参陣を待つと共に、宝飯郡西部での城の改修を行って、織田・徳川両勢の迎撃態勢を調えていく。

 一方の徳川勢も、参戦した筈の織田家からの大規模な後詰が未だに駆け付けぬ為に、勝算が低い単独での軍事行動を控えて居たのだ。

 此等双方の思惑も相俟って、2月から3月に掛けての東三河の戦線は膠着状態に陥った。

 猶、東三河と信濃・遠江、そして東美濃を結ぶ結節点である長篠城が、武田軍の兵站線の重要拠点と位置付けられて、城代として勝頼の叔父(信虎8男)である御親類衆の河窪兵庫介信実に預けられる事に為った。

 

 長篠城の北側に位置する東美濃でも、岩村城に入城を果した秋山虎繁が、他の《遠山七頭》の切り崩しと親織田派の討伐を開始、織田勢の後詰が未だ来襲しない間に、次々と織田方の諸城を攻略し始めていた。

 

 一方、再び越前に赴いた武藤昌幸の要請に応える形で、朝倉家の《敦賀郡司》勢と国衆(越前国内の外様家臣)の合計3千が、浅井家支援の為に小谷城に入城した。

 助勢の大将には、名将・朝倉宗滴が嘗て率いた《敦賀郡司》家の末裔である朝倉彦四郎道景が就けられた。

 若干17歳の道景は、後継者に恵まれなかった義景の養子と成り、一時は家督を継ぐと見られていた。

 だが、義景に実子の愛王丸が誕生為ると次第に疎まれ、此の助勢を期に生家である敦賀郡司家に戻されたのだ。

 しかし、傷心の侭に小谷に赴いた道景には、敦賀郡司勢の他、真柄十郎左衛門尉直隆・印牧弥六左衛門能信を中心とした国衆達が志願して、郎党を率いて麾下に加わっていた。

 彼等は、朝倉家では《三田村合戦》と呼ばれる姉川の戦いの折に、素性を偽って参陣していた昌幸と肩を並べて戦った戦友であり、昌幸の《浅井家支援》の要請に応える形で、道景の軍勢に加わったのだ。

 昌幸も、道景の軍勢と共に小谷城の入城為ると、旧知である浅井備前守長政に助言を行い、織田方の木下藤吉郎秀吉の軍勢に対して防備を固めていく。

 

 けれども、肝心の織田勢は後詰の軍勢を三河や東美濃、そして北近江にも送らなかった。…否、岐阜城から動く事が出来なかった。

 此の数年来、各地の大名を御内書で操り、自らは水面下での暗躍に終始していた征夷大将軍・足利義昭が、遂に《打倒信長》を目指して旗幟を明らかにした為である。

 

 義昭の《打倒信長》の最初の狼煙は、京と岐阜の間を分断為るべく、近江国に於いて巻き起った。

 2月初め、山城国愛宕郡岩倉の山本対馬守実尚と妹婿の渡辺宮内少輔昌は、近江志賀郡山中の磯谷新右衛門久次と共に兵を挙げると、比良の山並みを越えて近江国に侵攻した。

 彼等は3人共、足利幕府と織田家に《両属》の形で仕えており、同じく両属の立場である坂本城主の明智十兵衛光秀の麾下に入って、畿内や近江で転戦を重ねていた。

 だが、彼等はもう一方の主君である義昭からの内命を受けると、寄親である光秀に反旗を翻して琵琶湖に面する今堅田城跡を占拠、直ちに城の修復と籠城の準備に入ったのだ。

 

 また、義昭の寵臣で山城半国守護に任ぜられていた山岡八右衛門景友も、瀬田川の西岸に位置する石山の地を占拠した。

 景友は、六角家旧臣で勢田城主だった山岡家の出自で、所縁が深い長等山園城寺(三井寺)にて出家、其の子院である光浄院の住持を務めていた。

 其の後、将軍に就く前は自らも僧侶の身であった義昭の目に止まった事で幕臣に取り立てられており、義昭の命を受けて還俗し挙兵を果したのだ。

 景友は、六角旧臣や南近江・伊賀の国衆、更には一向宗徒をも糾合為ると、石山の地に織田勢迎撃の為の砦を築き始めた。

 

 更に、義昭は吉田神道家当主の吉田兼和を始めとした、昵懇じっこんに交わる公家衆に対して、武家御所の堀の拡張や火薬の材料である《木灰》の献上を命じて、にわかに臨戦態勢を調えていく。

 

 一方の織田勢は、東方の武田勢や北近江の浅井勢に対する備えを、此の時点で出来得る最小限に削って、幕府方と戦う兵力を無理矢理捻出した。

 そして、明智光秀と柴田権六勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・蜂屋兵庫助頼隆の4将に兵を預けると、義昭に与する反徒の討伐を命じたのだ。

 

 彼等は、長秀の居城で琵琶湖東岸に位置する佐和山城から、光秀の居城で西岸の坂本城迄の間を、予め用意していた大船に分乗して、一気に琵琶湖を横断した。

 此の《渡海》に因って、挙兵した幕府方の背後に回り込んで虚を衝いた織田勢は、2月の暦が尽きる前には、激戦の末に石山砦や今堅田城を攻め落とす事に成功した。

 

 京と岐阜を結ぶ《織田家の生命線》を確保した信長は、既に幕府を見限った細川兵部大輔藤孝からの書状に因り、武家御所の正確な内部情報を入手した上で、島田但馬守秀満を武家御所への使者に送り込んでいる。

 ところが、武家御所に於いて3月6日から始まった和睦交渉は、全くと言って良い程に進展しなかった。

 織田家側から『信長の子息を人質に入れても構わない』との大幅な譲歩案を提示しても、幕府方は義昭の意向に沿って強硬な態度に終始していたのだ。

 

 義昭は、信長の後援で上洛を果して将軍に就いたが、御相伴衆だった無人斎道有(信虎)を自らの影として、《信長からのくびき》から抜け出すべく暗躍していた。

 だが、徳川家康の謀略に嵌った織田方からの脅迫に屈する形で、已む無く信虎の粛清を許してしまった。

 とはいえ、無人斎の遺作とも言うべき《織田包囲網》は既に発動して、織田家伸張の勢いを確実に減衰させていた。

 此処で妥協せずに諸大名を糾合すれば、被我の力関係の逆転を成し得る、と踏んだ義昭と幕府の奉公衆は、秀満の説得にも全く耳を貸そうとしなかったのである。

 

 一方、敢えて自らは岐阜城に籠った侭の信長は、そんな義昭の強硬な態度を尻目に、情報を掻き集めて四方を囲んだ敵の動向を注視していた。

 其の為に、直ぐにでも三河の後巻に入ると想定された織田勢も、2ヶ月以上刈屋や池鯉鮒から動かぬ侭だったのだ。

 業を煮やした家康は、岐阜城の信長の元へ家臣の小栗大六重国を遣わせた。

 重国は、3月25日に岐阜に到着して謁見の間に通されると、現状の報告と共に早急な助勢の派遣を重ねて要請した。

 

「弾正様っ!此の侭では、我等が父祖伝来の三河一円が武田の奴輩に踏みにじられてしまいまする!何卒、弾正様御自らの後詰の大軍勢を率いて頂き、徳川家を御救い下さいませ!」

「…小栗、吉田の兵は如何程残って居るか?」

「はっ!酒井左衛門(忠次)を始め、東三河衆3千が未だに健在!弾正様の御出陣を一日千秋の思いで待って居りまする!」

 平伏した侭で、質問に応える重国を上座から見下ろし乍ら、信長の口から発せられた答は、重国の望む回答とは正反対の代物だったのだ。

 

「…今は未だ戦機に非ず。吉田を開いて兵を岡崎表に集めよ。2ヶ月で四方の有象無象を蹴散らし、武田の軍勢を我が眼前に引き摺り出して呉れよう!」

「なっ…!そ、其れは、直ぐには後詰致しては下されぬとの思し召しで御座るか!」

 信長の返答に驚き、食い下がろうと為る重国に対して、既に上座を立ち上がった信長が言い放つ。

「…三河(家康)殿に伝えよ!京や横山表(北近江)への参陣は無用也。5月にくつわを並べる迄は、武田に対して軽挙を慎むべし、とな!仙千代っ!陣触れを放てっ!」

「はっ!馬廻衆及び美濃・近江の衆1万に、上洛の陣触れを出しまする!既に佐和山には兵を運ぶ船を戻し、《御渡海》の支度は相調えまして御座る!」

 小姓の万見仙千代重元の的確な返答に口角を上げ乍ら、信長は重国を最早一瞥も呉れる事無く、謁見の間から退出していく。

 信長の決断に打ちひしがれた重国は、同輩達に岡崎への書状を託して帰国させると、自らは信長の軍勢に帯同して上洛の途に着いた。

 だが、此の謁見の9日の後に、重国のみ為らず扶桑の民草全てが、信長の覚悟を見せ付けられる事に為る。

 

 武田・織田両家の盟約が破れた後も、京畿や東国には奇妙な沈黙に覆われていたが、他者の目が届かぬ処で計略は進んでいた。

 そして、織田信長が行う計算し尽くされた暴挙…《上京焼討》に因って、戦国の世は一段と混迷の度合を深めていく。

 其れは、徳川家康が仕掛ける謀略と相俟って、勝頼の陣代就任以来最大の危難を武田家にもたらす事に為るのである。

前話の投稿後、4年半に渡って愛用していた携帯電話が、とうとう壊れてしまいました。SDカードに移していた物以外は、電話帳から何から全滅してしまい、新たにアンドロイドのスマートフォンを購入しました。しかし、いきなり初期不良で20日程修理に出すわ、直ぐに熱を保つわ、文字を打ちにくいわ

、保存がしにくいわ、電池が保たないわ…と、毎日が悪戦苦闘しております。普通に使われる他の皆さんを素直に尊敬する位です。早く此のスマートフォンにも慣れたいものです。

更に自分自身の引越も重なり、てんてこ舞いの状態ですが、ぼちぼちと続きを投稿出来たらと思います。

さて、次回は東美濃に攻め込んだ秋山虎繁の番外編になります。相変わらずの乱文ですが、次回も読んで頂ければ嬉しく思います。

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