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参:関東遠征(下)〜三増峠の戦〜

今回の話は武田軍の関東遠征の後編になります。相変わらずの乱文ですが、読んで頂ければ幸いです。

 野分(台風)の季節も終わり、晩秋を迎えた坂東の大地は少しづつ北風と肌寒さを増していく。そんな関東の地に住む人々の間に激震が走った。

 永禄12年(1569年)9月初め、この年6月に甲斐の国主・武田法性院信玄の陣代(当主代行)に就任した信玄の四男・武田左京大夫勝頼が、2万の兵を率いて西上野から北条氏の領国である武蔵に乱入したのだ。

 彼等は藤田氏邦(北条氏康の四男)の鉢形城、大石氏照(氏康の三男)の滝山城でそれぞれ軽く城攻めを行いながら武蔵・相模を縦断、月が変わった10月1日、相模の北条氏の本拠地である小田原城に侵攻した。

 小田原城で城下に焼き働きを行った上で城攻めを開始した武田軍は、周囲の状況を考慮して4日夜には甲斐に向けて撤退を始めた。

 北条家の実質的な当主である北条氏康は、直ちに嫡男の氏政と筆頭家老の松田憲秀に兵1万を預けて武田軍追撃を指示する。

 また、大石氏照と藤田氏邦は、義叔父で玉縄城主の北条綱成を始めとする相模・武蔵・下総の諸将を召集し、2万の軍勢を集めた。

 そして武田軍の動きを知るとその退路を断つべく、津久井城の南方に有る三増峠に布陣したのだ。

 武田軍は小田原城の軍勢に追い付かれる前に三増峠の陣地を突破しなければ包囲殲滅される、という一見すると危険な状況に陥ってしまったのだ…。


「勝頼殿は如何致す所存じゃ!そなたの城攻めがぬるかったから北条の奴輩が城から出てきたのじゃ!」

 小山田信茂の怒号にも似た勝頼に対する非難が武田軍の本陣に響き渡る。

 しかし、勝頼や真田幸綱ら首脳陣は冷静に対処した。元々はこの状況が織り込み済みなのだ。

「判っておる。だが小田原からの連中には、《この後武田軍は源氏の鎮守たる鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮に向かう》と偽の情報を透波(武田家に仕える忍者)を使って流しておいた。この小田原の加勢が我等の動きに気付いて追い付く前に前方の三増峠を突破する!」

「しかしながら危険な状況に代わりは有るまい。如何致す所存で御座るか?」

 幸綱の説明にも納得しない信茂に勝頼が更に指示を送った。

「そこでこれから軍勢を小荷駄隊以外に更に4つに分ける。本隊はこの勝頼が直接率いて街道をそのまま北上して峠の突破を目指す。次に馬場美濃(信春)、山県三郎兵衛(昌景)をそれぞれ将として、別動の軍勢を率いて敵の横に周りこむのだ。最後に津久井城への抑えとして小幡上総介(信実)を将とする軍勢を配する。小荷駄隊は内藤修理(昌秀)に率いて貰う」

 勝頼と幸綱が考えた作戦案だったが、本隊から小荷駄隊に異動する事になる昌秀が噛み付いてきた。

「勝頼様、御待ち下され!小荷駄隊は引き続き甘利郷左(信康)殿が率いれば宜しかろう。それに殿軍は本来敵地に近い城の者が就く作法で御座る!是非とも儂に殿軍を申し付けて下され!」

 そう言って異動に反対する昌秀に対して、勝頼は苦笑しながら語り掛けた。

「去る永禄4年、上杉謙信が率いる10万の大軍勢が今と同じ様に小田原城を攻めたが、兵站を軽んじた為に小荷駄隊を切り崩され敗北を喫したのだ。同じ轍を踏まぬ為にも遠征先での小荷駄には万全を期さねばならん。小荷駄奉行が昌秀ならば安心して任せる事が出来よう」

 勝頼からそこ迄言われて昌秀も満更では無い表情を浮かべた。

「ふむ、そこまで言われれば断る訳には参りませぬな。ならば拙者が小荷駄奉行を引き継ぎましょうかな」

「そうか、任せたぞ!そして甘利源左、お前には筒衆を率いて貰うぞ!」

「ははっ、畏まりました」

 勝頼の命に信康が叩頭する。信康が日頃から鉄砲隊の鍛練を行っている事を知っていた事に感謝したのだ。

「ならば此より北条の軍勢を迎え撃つ!そして甲斐に帰還を果たすのだ!」


 この軍議が済むと、武田軍は大きく4隊に分かれて移動を開始した。

 先ず小幡上野介信実が上野原城主の加藤丹後守景忠等の寄騎を合わせた兵1千2百を率いて先行して、津久井城の牽制の為に城の南の長竹の地に布陣、焼働きを行って津久井城将・内藤大和守景豊の動きを封じた。

 次に山県昌景が将として、真田源太左衛門尉信綱(幸綱の長男)や真田兵部丞昌輝(幸綱の次男)等の寄騎を含めて合計5千の軍勢を率いて西側の志田峠を抜け、小幡隊の居る長竹に向かって徐々に移動していく。

 そして馬場信春が将として、保科弾正左衛門尉正直(正俊の嫡男)等を寄騎とする軍勢1千を率いて三増峠の東側の高地に布陣した。

 本隊は勝頼自身が率いる。小山田信茂・浅利信種・原昌胤・武田信豊・武田信廉等を寄騎とした約1万の軍勢が三増峠を突破していくのだ。

また武藤喜兵衛昌幸・三枝勘解由左衛門尉昌貞・曽根右近助昌世・小宮山内膳佑友晴等の旗本を検使(軍監)として各軍勢に派遣した。

 最後に内藤昌秀率いる小荷駄隊1千と甘利信康率いる筒衆(鉄砲隊)5百が本隊の後ろに続いて行く。


 大石氏照・藤田氏邦・北条綱成等が指揮する北条勢の武蔵・相模・下総等の各地からの軍勢2万は、ようやく三増峠に布陣した処で物見から新しい報告を受けた。

「武田勢は山県三郎兵衛の手勢を先陣として志田峠を目指して行軍中!但し主力は未だに三増峠を下った辺りで難渋しておりまする!」

「兄者!叔父御!此処は峠を下って攻め掛かるべきじゃ!みすみす武田の奴輩に逃げられてしまうぞ!」

 床几から立ち上がらんばかりに血気に逸った氏邦が他の者達に出陣を促す。

 最初は峠の高低差を利用しながら迎撃する予定だった為に出撃を躊躇していた他の者達も、このまま手をこまねいては武田勢を見逃す可能性さえ有ると考え始めたのだ。

「うむ、武田の本隊は1万を少し越える程度じゃ。我等は全部で2万、更には小田原に後詰を頼んでおるし、上杉も武田の留守を突いてくれようぞ。但し途中の道では狭過ぎて兵力を活かせぬ。一気に山際まで下る必要があろうな」

 そう言う氏照も坂道を下っての出撃の方に意見が傾いていた。

 若い甥達に押される形でこの軍勢一番の戦巧者である《地黄八幡》北条綱成は決断を下した。

「よし、ならば此より峠から坂落としに攻め掛かる!源三(氏照の仮名)の手勢は敵の本陣、あの《大の一文字》の旗印を攻め立てろ!新太郎(氏邦の仮名)の手勢は儂と共に敵の前衛を崩すのじゃ!駿河殿(大道寺政繁)の手勢は敵の後詰に備えて下され!」

 綱成の指示に北条の諸将達は『応っ!』と気合を入れながら一斉に床几から立ち上がって、それぞれの手勢の陣所に戻っていく。

 暫くすると三増の山中に法螺貝や陣太鼓が鳴り響き、北条家の軍勢が《地黄八幡》の旗印を先頭に峠の坂道を雄叫びをあげて駆け降りて来た。

「去年の富士川だけではまだ足りぬらしい。玉縄衆の槍の鋭さ、今一度武田勝頼に判らせてやれ!」

 綱成が率いる玉縄衆(『衆』は北条氏の部隊単位で主要な城毎に置かれている)は武田本隊の先頭を行軍していた浅利信種の《赤備え》の軍勢に槍を付ける。

 それに続いて藤田氏邦率いる鉢形衆が二番手を進む武田信豊勢に突っ込んだ。後続の軍勢もそれぞれの目標に攻撃を仕掛ける。

 そして少し迂回した大石氏照率いる滝山衆が喚声を挙げながら《大のー文字》の旗印、武田勝頼の本陣に突撃を行った。

「勝頼ぃ!滝山城に於いて貴様に貰った屈辱、今こそ此の地で雪がせて貰うぞ!早う出て来て尋常に勝負せい!」

 氏照の怒号を聞いた勝頼は隣に居る真田幸綱に命じた。

「うむ、此処までは予定通りだ。此よりは正に切所、一つの失態で全滅しかねん。一徳斎、先ずは天に向けて鉄砲と鏑矢を放て!」

「承知致し申した!旗本の筒衆と弓衆はうち揃って御味方に合図を送れ!放てぇぃ!」

 幸綱の指示に従って旗本の筒衆(鉄砲隊)と弓衆が一斉に上に向かって撃ち放った。

 弓から放たれたのは平安時代から伝わる音が鳴る矢《鏑矢》であった。鉄砲の発射音と共に鏑矢が甲高い音を遠く迄響かせたのだった。


 この鉄砲と鏑矢の音を、5千の別動隊を率いる山県昌景は志田峠を越えて津久井城の手前である長竹の地で聞いた。

 その音を聞いて昌景の側には真田信綱・真田昌輝や、同地で津久井城の牽制中の小幡信実や加藤景忠が集まった。

「三増峠の方から合図の鉄砲と鏑矢が鳴った。真田殿、北に先行させた物見は如何した?」

 昌景に質問をされた真田信綱が即座に反応する。

「はい、昌輝が先程まで大物見(威力偵察)に出向いて居りました。徳次郎(昌輝の仮名)、北条の後詰は如何で有った?」

「うむ、兄者。敵の後詰は全く見当たらなんだ。少なくともこの戦では考慮する必要は無かろうと思う。山県様、御味方の危急を救う為に直ちに反転すべきで御座る」

 すぐ下の弟で、己の副将でもある昌輝の発言に信綱も頷いて同意した。それを見て昌景は即決した。昌輝の物見の能力を信用しているのだ。

「よし、直ちに戻って北条勢に攻め掛かろう。小幡殿、加藤殿、津久井城の抑え込み宜しく御頼み申す」

「承知致した。此所は拙者と加藤殿に御任せあれ。武運をお祈り致す!」

 そう言って頭を下げた2人を見ながら、昌景は軍勢に大声で命じた。

「よし、志田峠を戻って北条勢の側面に攻め掛かる!御味方を我等が救うのだ。急げ!」


「馬場殿、御味方に北条勢が攻め掛かりましたぞ!直ちに坂を下りましょうぞ!」

 三増峠の東側の高台に布陣した別動隊1千を率いる馬場信春に対して、検使として派遣された武藤昌幸が詰め寄っていく。

「判っておる、喜兵衛、保科殿、此より峠を登り敵の背後に出た上で坂落としに攻撃を加えるぞ。宜しいか?」

 信春の質問に昌幸と保科正直が同時に応じた。

「応っ!」

「承知仕った!」

 馬場隊は直ちに敵の背後に回るべく三増峠に出て、北条勢が下った道を駆け降りていく。しかし、味方を襲う北条勢に辿り着く前に別の軍勢が行く手を遮る様に近付いて来た。後詰に備えていた大道寺政繁率いる川越衆を中心とした軍勢約5千である。

「約5倍の軍勢を相手にするのか…これはなかなかに骨が折れそうだな」

 信春が呟いていると、その横を昌幸が自らの手勢を率いて突っ込んで行く。

「大道寺の兵達よ、良く味わうが良い!足軽大将・武藤喜兵衛昌幸、この軍勢の一番槍じゃ!」

 昌幸は槍を繰り出してたちまち数人の兵を血祭りに挙げていく。そんな昌幸の動きを見て信春は苦笑した。

「検使役が一番槍とは何を考えておるのか。しかし我等が遮二無二攻め立てる必要があるのは間違い無い。保科殿、我等も参ろうか!」

「そうですな!あの軍勢は士気が高くない様子、先ずはあれから蹴散らしましょうぞ!」


 一方武田の本隊の方では、一発の銃弾が戦局を変えようとしていた。

「うぐっ…!」

 北条綱成配下の玉縄衆の鉄砲隊が放った弾丸が、《赤備え》の軍勢を指揮していた浅利信種の胸板を貫いたのだ。

 高い視界を確保する為に敢えて騎馬に乗って指揮を取っていた信種は、ゆっくりと馬上から地面へと崩れ落ちた。

「ち…父上ぇ!」

 信種が撃たれたのを見た嫡男の式部丞昌種は急いで落馬した信種の元へと駆け寄っていく。

 そんな昌種が側に来た時、信種は最後の力を振り絞ってその行動を叱り付けた。

「ひ…彦次郎(昌種の仮名)、この馬鹿者が…お前が采を取らずして如何するのじゃ…!」

「は、はい!承知しました!申し訳御座いませぬ!」

 その息子の言葉を聞いて安心したのか、信種はそのまま事切れた。

 しかし浅利勢を相手どる《地黄八幡》北条綱成はその指揮の空白を見逃す程に甘い武将では無かった。

「よし、敵の動きが鈍くなった様じゃ!玉縄衆は儂に続いてあの隙間に楔を打ち込んでしまえ!」

 綱成の号令に従って北条家の誇る精鋭である玉縄衆が、指揮系統が止まって動きが鈍くなった《赤備え》を次々と血祭りに挙げる。

 昌種も必死で立て直そうとするが経験不足の為に配下全員に目が届かずに押され捲っていた。

「式部殿、先ず敵勢と間合いを開けられよ!筒衆はそれがしの下知に従って敵に向かって撃ち放て!」

「曽根殿?し…承知致し申した」

 突如、浅利勢の検使に就いていた曽根昌世が昌種に指示を送った。このままでは切り崩されると考えた為に代わりに采配を揮うつもりなのだ。

 昌種の方も、自分の采配では手勢が全滅するだけで無く、周りの味方を混乱に巻き込みかねないと昌世の指示に従い行動することにした。

 この処置により、取り敢えずは浅利勢の所から武田軍が崩れる事は回避された。

 しかしながら未だに武田軍は局地的には押されており、三増峠の方に軍勢を突破させる事に成功していない。

(このままでは山県勢が引き返す前に本隊の方が崩れかねん。此処は押し返す為に全ての力を出さねば勝てないぞ…)

 大石氏照率いる滝山衆の攻撃を旗本と己の元々の配下である諏訪勢を使って防ぎながら、勝頼は反撃するタイミングを測っていた。

 しかし浅利勢から《信種討死》の伝令が伝わるとそうも言っていられなくなっていた。

 浅利勢は曽根昌世が立て直しているとはいえ、局地的には北条勢の方が多い為に原昌胤や武田信廉等の後備えも既に戦闘を開始している状況なのだ。

(このままでは袋小路に入ってしまう。何処かに突破する攻め口は無いか…。ん?この本陣を攻めておる軍勢(滝山衆)とその隣に隙間が出来ておるぞ!どうやら隣は千葉勢か…士気はそれ程高くないな…よし!あの隙間を突破口に北条を崩しに懸かろうか!)

 勝頼は旗本や諏訪勢に攻撃を仕掛ける滝山衆と、左翼で戦う千葉胤富率いる佐倉衆との間の温度差を感じ取った。

 下総本佐倉城を本拠地とする千葉介胤富率いる千葉氏は、北条氏の勢力下に入る事によって南房総に領地を持つ里見氏や北に隣接して抗争する結城氏等に対抗していた。

 その関係から今回の出兵になっていたが、いわば《手伝い戦》の為にどうしても士気が上がらないのだ。

 勝頼はそんな千葉勢の旗差物を見て確認した上で、彼等に向けて大声で呼び掛けた。

「おお、その旗差物は下総の千葉殿ではないか!千葉殿と言えばかつては房総の勇として、北条家を向こうに回して互角に渡り合った衆では御座らぬか!それが時が経てば北条のしもべが如くの扱われ様とは随分と情けなき事よ!各々方には何の不満も御座らぬのか!ハッハッハッ…!」

 この勝頼の千葉勢に対する挑発は或る意味的を得ていた。

 当主の胤富はともかく、佐倉衆の家臣・郎党の中には北条の風下に立つ事を快く思わない者が数多く居るのだ。勝頼の挑発によって気を殺がれた佐倉衆は見る間に勢いを無くして後退していく。

 それによって佐倉衆からの圧力が無くなった勝頼の旗本と諏訪勢が大石氏照の滝山衆をジリジリと押し返し始める。

「此所で堪えろ!名こそ惜しめ!命を捨てる覚悟で戦えぇぃ!」

 氏照や大石の家老達の怒号が聞こえる中、勝頼は此処が勝負所と考えた。隣で防戦の指示を出している真田幸綱に対して己の考えを伝えて戦力の集中を試みた。

「一徳斎!小荷駄隊の内藤修理(昌秀)に後詰に入る様に伝えよ!甘利源左(信康)には旗本の前の敵勢に筒先を向けさせろ!しかる後に旗本と諏訪勢が鋒矢の陣形で敵勢を刳り貫き背後に回り込む!」

「承知仕った!」

 幸綱は直ぐに使番を走らせて各々の武将に作戦内容を伝える。

 先ず使番からの伝令を受け取った甘利信康は、己の同心で《竹束の弾除け》を考え出した米倉丹後守重継を呼び寄せる。

「丹後、此より俺が筒衆を率いて勝頼様の所に駆け付ける。お主は徒士武者と足軽を率いてくれ。暫くの間、此の場を任せてしもうて良いか?」

「信康様、此所は某に御任せ下され!安心為さって功名を立てられよ!」

「うむ、頼んだぞ!甘利の筒衆はこれより本陣の援護に向かう!我に続けぇぃ!」

 重継に後を託した信康は、配下の筒衆(鉄砲隊)を率いて勝頼がいる武田軍の本陣に走っていく。

 一方、小荷駄奉行の内藤昌秀も使番から伝令を受け取ると、己の実兄の工藤長門守昌祐に兵2百を預けて後を託し、残りの兵8百を率いて本陣に駆け付けた。

 2人への使番が本陣を出発したと同時に勝頼は新たな命令を下す。

「一徳斎!旗本に一度集まらせて陣形を組み替えるぞ!継忠!お主は諏訪勢を束ねよ。旗本を先鋒にして鋒矢の陣形に組み替えるのだ!」

と、幸綱と高遠城主時代からの側近の小原宮内丞継忠に命令を下す。すると瞬く間に兵力約2千人の鋒矢の陣が形作られた。

 勝頼は愛用の大身槍を準備した後、一旦従者である小者に預けると、鋼入りの軍配の柄を握りしめた。そして駆け付けた昌秀や信康、そして陣替えを行って再び集合した幸綱や継忠を前にして新たに作戦内容を伝えていった。

「……という策でいく。本陣が動く故に抜けた隙間を直ぐに塞ぐ事も肝要じゃ。では参ろうか!」

『応っ!』と言う掛け声と共に、それぞれの武将が各々の持場に戻っていく。そして軍配を天高く掲げると、裂帛の叫びと共に振り下ろした。

「奴等は滝山城だけでは全く足りぬらしいぞ!覚えの悪い北条勢に骨の髄迄恐怖を刻み付けるのだ!者共、掛かれぇ!」

 勝頼の呼び掛けに武田軍の武者や足軽郎党が『オオォーゥ!』と地鳴りの様な雄叫びを挙げて動き始めた。

「ええい、武田の若造はこちらに突っ込んで参るぞ!鉄砲玉を馳走して返り討ちにしてやれい!」

 武田軍旗本の動きを察知した北条勢の足軽大将は配下の鉄砲隊に指示を与えようとしたが、それよりも武田の筒衆の展開が数段速かった。

 甘利信康率いる筒衆(鉄砲隊)5百が鋒矢の陣形の侵攻方向に筒先を揃えて火蓋を切る。

「撃て!」との信康の号令で発射された5百発の弾丸は北条勢の足軽大将とその周りの鉄砲足軽達を襲い、彼等を生ける屍と本当の屍に変えてしまう。

 またそのすぐ後方に居た足軽達にも流れ弾が当たって多少怪我人が出たが、そこに向かって武田勝頼自らが率いる鋒矢の陣形の軍勢2千が突撃してきた。

 勝頼は敢えて大石氏照率いる滝山衆と、その右翼にあたる成田左馬助氏長率いるおし衆の間に突撃して隙間を作り出した。

 成田氏長は越相同盟締結でこの5月に北条家に帰参したばかりである。

 当然この戦でも《帰り新参》として扱われ、忠誠心を試す為に最前線である滝山衆の横に布陣していた。

 これ迄の戦闘で既に相当の損害を受けていた上に.更に勝頼達の突撃の圧力を受けたのだ。忍衆はたちまち圧力を躱す為に全体的に右側に押され武田軍に道を開ける格好になった。

「ええい!情け無き奴輩よ!此所は我が滝山衆で食い止めるしか有るまい。遠州、お主に手勢の半分を預ける故、それを率いてあの《鋒矢陣》の動きを鈍らせろ!儂は奴等が抜けた隙間に逆に楔を打ち込む!」

「承知致した!」

 氏照は滝山衆とその寄騎を二分し、配下の大石遠江守道俊に片方の軍勢を預けて武田本陣の抑えとして、自らはもう一方の手勢を率いて《鋒矢の陣》が抜けた隙間を逆に分断する策に出たのだ。

 しかしながら、氏照の手勢が攻撃を仕掛けるとそこには既に別の軍勢が隙間を塞いでいた。内藤昌秀が小荷駄隊から抽出した軍勢8百に甘利信康の筒衆(鉄砲隊)の一部が組み込まれて反撃を行ってきたのだ。

「所詮はまだまだ修羅場を潜り抜けては無い様だな。奴等に《経験の差》というものを判らせてやろうか…。鉄砲を一頻り打ち込んだら長柄衆を前に押し出せ!奴等を逆に押し込んでやれ!」

 昌秀が命じると鉄砲を撃ち終わった足軽がサッと後に下がり、代わって長柄槍を持った足軽隊が隊列を整えて前方に進んできた。

 武田軍の動きを見た氏照も長柄槍を持った足軽達を前に出して対抗する。

 双方の足軽達はある程度の間合いを開けた状態で渾身の力を込めて長柄槍を降り下ろす。長柄槍で頭を陣笠の上から殴って脳振盪で気絶させたり、肩を骨折させたりして相手の隊列に穴を作るのだ。

「イチッ、ニッ!イチッ、ニッ!」

「上げろ、叩け!上げろ、叩け!」

 掛け声を掛けながら足軽同士で懸命に殴り合ってる間でも、組頭や足軽大将達から次々と指示や怒号が飛び交っている。

「気を失っておるぞ!隙間が空かぬ様に直ぐに塞ぐのじゃ!」

「隣の者と動きを合わせろ!長柄同士が絡んで隙が出来るぞ!」

 だが、東国でも有数の強さを誇る武田軍の中でも《甲軍の副将》とまで言われている昌秀が鍛えた手勢は遺憾無く実力を発揮し、ジワジワと、だが確実に滝山衆とその寄騎を押し込んでいった。

 一方、大石正俊に預けられた軍勢は坂道を迂回しながら、騎馬から降りて徒歩で移動中の勝頼率いる《鋒矢の陣》の横合い、ちょうど先陣の旗本勢と後陣の諏訪勢の繋ぎ目の辺りに向かって進行方向の右側から突撃していった。

「武田勝頼殿ぉ!コソコソ隠れてないで尋常に勝負致せぃ!」

 そう言いながら正俊は次第に手勢を削られながらも勝頼の馬印である《大のー文字》の旗に近付いていく。

「馬廻はあの徒士武者を止めろ!勝頼様に近付けるな!」

『御意!』

 幸綱から指示を受けた勝頼の馬廻達が次々と阻止に向かい、最後には4人掛かりで正俊個人を抑え込もうとするが、正俊の武勇と執念がそれを優った。

「武田四郎勝頼殿と御見受け致す。我は滝山城主・大石氏照様が配下、大石遠江守正俊と申す。是非その大将首を所望致したい。いざ覚悟なされよ」

 勝頼の目前に辿り着いた正俊はそう言い放つと、槍を構え直して勝頼に切り掛かった。

「ほう、此所迄来れた事、誠に見事也!私が…いや、儂が武田左京大夫勝頼じゃ!大石殿、いざ参られよ!」

 勝頼は既に軍配を腰に差して大身槍を受け取っていた。二人は一気に間合いを詰めると槍を交える。

 勝頼が突きを繰り出せば正俊は身を捩って躱し、正俊が上段から振り下ろせば勝頼はむしろ一歩踏み込んで己の槍で弾く。

 御互いに切る・突く・払う・弾く・躱す・絡める等あらゆる技で20合以上槍を交えた。

 すると酷使に耐え兼ねたのか、2人が槍を絡めて渾身の力を込めた時に槍の柄が同時にバキィッと音を立てて折れてしまったのだ。

 柄物が無くなった正俊が、

「チイィッ!」

と舌をしながら太刀を抜き放とうと柄を握る。それを見た勝頼は(此処だ!)と敢えて折れた槍の柄を持ち替え、石突の方で正俊の右の小手を殴った。

「グアッ!」

と悲鳴を上げて正俊が太刀を取り落とす。

 すると、勝頼は

「ウォリャァ!」

と気勢を上げながら、そのまま石突で兜の上から正俊の頭を殴り付けた。

 大柄で力自慢の勝頼が思い切り殴った為に、兜の前立ては弾け飛び、正俊は脳振盪を起こして気絶してしまった。

「この者を生捕りに致せい!見事な武勇、このまま殺すには余りに惜しい!」

(北条との再同盟の際にはこの様な者が数多く居れば必ずや役に立とうからな)

と、考えた勝頼の指示に従って正俊は生捕りにされ、手勢も同じく捕虜となった者達を除いて全て逃散してしまった。

「勝頼様!くれぐれも御自愛下されと言ったでは在りませぬか!」

と、幸綱が諫めながら勝頼に近付いて来る。

「すまぬ。しかし此で戦が済んだ訳では無い。早よう周り込んで北条勢を蒸し攻めにするのじゃ!急ぎ隊列を再編するのじゃ!」


 一方、山県昌景率いる別動隊もようやく志田峠を越えて三増峠の麓に乗り込んで来た。

「よし、間に合うた様だな!行くぞ真田殿、先ずはあの《地黄八幡》から蹴散らすぞ!」

 更には馬場信春率いる別動隊が、北条の後備えである川越衆をジリジリと押し込んで峠の中腹近く迄降りてきていた。

 その川越衆の後方右側に勝頼率いる《鋒矢の陣》が突っ込んで来たのだ。

「行くぞ!上からの馬場勢の攻めに辛うじて耐えておる北条方に裏崩れを起こさせい!」

「ええい、堪えろ!堪えろと言うておろうが!」

 必死で手勢に呼び掛ける大道寺政繁の努力も空しく、たちまちの内に川越衆とその寄騎は闘志を失って後方から崩れ始めた。

「勝頼様が突っ込んで来たのか!ならば我等も追い討ちを掛けて、北条の主力に裏崩れを起こさせるのじゃ!保科殿、喜兵衛、参るぞ!」

 そう言って崩れつつある北条勢の後備えを武田軍主力と戦っている玉縄衆・鉢形衆・滝山衆やその寄騎勢の居る方に押し込んでいく。

「流石は《不死身の馬場美濃》、攻め時を心得ておる!我等本陣も逆落としを掛けろ!馬場勢と進退を一にして北条方の軍勢を峠の麓に押し込んでやれ!」

 勝頼や信春の采配により、武田軍は峠の麓へと北条の後備えを駆逐していく。

 その内に崩れた後備えが逃亡するに従い、千葉胤富の佐倉衆や成田氏長の忍衆等の戦意が低い寄騎勢が三増峠南麓の主戦場から離脱しだしたのだ。

「おのれ意気地が無い奴輩めが!だが此処は兄者や叔父御と何かしら策を講じなければいかんな」

と、藤田氏邦は大石氏照と北条綱成に使番を出して善後策をどうするか聞きに行かせた。

 しかしながら大石氏照は半数となった滝山衆と共に内藤勢・甘利筒衆と激戦を繰り広げていたし、北条綱成は志田峠から駆け降りてきた山県昌景率いる別動隊を、玉縄衆と寄騎のみで必死で支えている。とても軍議など開ける状況では無いのだ。

 暫くすると抵抗していた北条方の武将や足軽達も、自分達だけが敵中に取り残される恐怖に捕われて段々と浮足立ち始めた。

「う、うわあぁ!」

「逃げろぉ!此所に残って居っては殺されるぞ!」

 足軽の何人かがそう叫んで逃げ始めると、周りの者達も堰を切った様に、武器や胴丸を捨てて身軽な状態で逃げ出した。

 滝山衆も鉢形衆も相当の損害や逃亡者を出し、2人が合流出来た頃には開戦前の半分以下の兵しか残っていなかった。

「兄者、儂は信じられん。信玄坊主ならばともかく、武田の小僧如きがよもや此処までやるとは…」

「最早これ迄か…新太郎、こうなったら共に敵陣に切り込んで華々しく討ち死にしてやろうではないか!」

 そう会話していた氏照や氏邦の所に、北条綱成から使番が走り込んで来た。

「申上げまする!我が主君、北条左衛門大夫様(綱成)からの伝令で御座る!《大石様、藤田様は直ちに兵を纏めて小田原からの後詰に合流あれ、殿軍しんがりは我等玉縄衆が引き受ける》との事で御座る!」

「何と…叔父御が殿軍だと!此処まで勢いを付けた相手では討ち死にしてしまうだけだ!叔父御こそがこれからの北条に入り用だというのに…。新太郎、此処は斬り死にするのは辞めじゃ!叔父御と進退を一にして繰り引きするのじゃ!」

「うむ、兄者がその考えならば儂に否やは無い。《善は急げ》だ。早く叔父御と合流しようではないか!」

 一度決すると2人の行動は速かった。直ちに軍勢を取り纏め、武田軍の攻撃を相互援護しながら躱し続け、玉縄衆を率いる北条綱成の元に辿り着いた。

 3人は手短に段取りを決めると、殿軍を交代しながら他の2隊がそれを支援する形を取って南方に撤退して行った。

 その後は追撃が止んでから半原山に再集結後、小田原からの後詰が到達している荻野の地に移動する事になる。


 一方武田軍は北条勢を完全に南側に追いやった後、騎乗して追い討ちを掛け始めた。しかし半刻後(約1時間後)に勝頼から攻撃中止命令が伝えられる。

「深追いは危険を伴う為、追い討ちを現時点で中止。手傷を負った者は金瘡医に治療を受けて小荷駄隊と共に先行して志田峠から三ヶ木を経由して反畠に集結。余の者は死者を弔った上で武器・玉薬・兵糧等を鹵獲し三増峠から三ヶ木に集結すべし」

 この指示に従って武田軍は移動を再開、主力は7日の夜までに三ヶ木に移動、翌8日には反畠に全ての兵を集結させた。

 勝頼はこの反畠の地で戦勝の儀式と首実験を行い、改めて武田・北条両軍の戦死者を弔った。

 また大石正俊を始めとした北条方の捕虜は、一括して郡内上野原城の加藤景忠に預けられた。景忠には駿河出兵を免ずる代わりに武田と北条の間の捕虜交換交渉を行う事を命じた。

 因みに、後に景忠と津久井城で武田方の捕虜を預かっていた内藤景豊の間で交渉が行われ、11月半ばに捕虜の交換を実施した。奇しくも11月の内に駿河に於いて再び甲相間での戦火の火蓋が切られる事になる…。


 一方、8日に荻野の地に於いて小田原からの後詰と合流した北条方の軍勢だが、その場で行われた軍議で意見が対立していた。

「何故、もう追撃を諦めるのじゃ!氏政兄者は武田相手に臆病風に吹かれたか!」

 後詰1万を率いながらも間に合わなかった北条氏政に対して、三弟の藤田氏邦が大声で罵倒する。

「確かに間に合わなんだ事は謝ろう。だがそれは血気に逸ったお主達が儂らを待たなんだ故じゃ。それに…」

「何をぉ!己の失態を棚に上げて儂らに責を押し付ける所存かぁ!」

 氏政の反論に対して、興奮した氏邦は掴み掛からんばかりに立ち上がる。しかし、先に綱成が氏政に質問を加える。

「落ち着け新太郎、此所は軍議の場だ。新九郎殿(氏政の仮名)、何かしら危惧して居るみたいだが何を考えておるのだ?」

「ふむ、叔父上。この1ヵ月の間、我が北条は武田勝頼によって散々に攻められておった。ではその間、越後上杉は動いてくれたのか?謙信の事だ。我等が潰し合いをする事を良しとするのでは無いか?」

 この氏政の意見に大道寺政繁や成田氏長、千葉胤富らが同意する。上杉が参戦していれば、せめて武田領に攻め込んでいれば武田の遠征軍は浮足立って戦いも違った結果になった可能性も有るのだ。

「越後の上杉謙信か…。確かに半年前迄は正に仇敵だったからな。しかし兄上、今は我等と盟約を結び武田と戦うておるだろう?何の懸念が有るのだ?」

 大石氏照が長兄の氏政に確認する。だがその答は予想と正反対な物だった。

「今回、上杉は後詰の出兵も武田領への侵攻も全く行っていない。風魔党の者が確認を行った。小太郎、間違い無いな?」

「はっ、我が配下が調べた処、上杉は一向一揆勢と戦う為に西の越中富山城に出兵して居ります」

 北条家に従い相模足柄郡に拠点を持つ《風魔党》の若き頭目、5代目風魔小太郎が氏政の意見を補足する。

「越中だと!相模とは全く反対では無いか!謙信は盟約を守る気が有るのか!」

「無いとは言わない迄も優先させる気は無いんでしょうな。更には我が軍勢は鬼籍に入った者や手負いの者が数多く御座る。此処は武田が甲斐に退くならば手仕舞いに致すに如かずと心得まするぞ」

 興奮する氏邦に対して、後詰勢の副将で筆頭家老の松田憲秀が自分の意見を披露する。そこに綱成が賛意を示した。

「確かに被害が大きい。此の辺りが潮時であろうな…」

 重鎮2人の意見を聞いて、氏邦は落ち着きを取り戻し床几に座り直した。弟の変化を見て取った氏政は諸将を前に宣言した。

 それは士気を鼓舞する為に3日前小田原城で父である北条氏康が使った手であった。

「武田追撃は中止する。お主等はこの関東の地を武田から守り抜いた。これは勝ち戦に等しいのだ。よって勝鬨を挙げて小田原城に帰還する!」


 この氏政の宣言と共に北条勢は荻野から撤退を開始、武田軍の関東遠征に端を発した《三増峠の戦》は此処に終結した。

北条方は3千2百人以上の戦死者と9千人以上の戦傷者を出しながらも、取り敢えずは小田原城・滝山城等の領国の中枢部を防衛した。

 武田方も1千人近い戦死者と2千人以上の戦傷者を出し、家老の浅利信種を失ったものの、北条に武威を示し上杉との不和を誘うという当初の目的を達する事に成功している。

 何よりもこの関東遠征が、偉大な父《武田信玄》の七光でしか無かった勝頼に対しての周囲からの評価が少しづつ変わる端緒となっていく。


 …勝頼率いる武田軍は甲相間の難所・小仏峠を難渋しながらも踏破し、郡内から笹子峠を越えて甲斐に帰還した。

 本拠地である躑躅ヶ崎館への帰還直後の10月19日、勝頼は宿老の馬場信春・山県昌景・内藤昌秀・春日虎綱・真田幸綱、及び己の馬廻と近習のみを伴い、或る寺院を参拝していた。

 寺院の名は法蓋山東光興国禅寺、即ち武田家の《政治犯収容所》として使われていた甲斐の府中五山の一つ・東光寺である。

 この寺では例えば天文11年(1542年)7月には勝頼の祖父に当たる諏訪頼重とその弟の頼高が切腹しているし、切腹しない者に対しても蟄居・幽閉場所として使われていた。

 初冬の晴天の中、訪れた一行は山門の手前で下馬した。馬廻や近習に乗馬を預けて山門の前で待たせ、勝頼ら6人で山門を潜る。

 そして東光寺の住職を務める藍田恵青の案内で寺裏の墓地を奥の方へ進んでいく。

 やがて勝頼達は或る墓の前に到着した。その墓の主は武田太郎義信。2年前に此の寺に於いて果てた勝頼の異母兄である。19日が丁度《三回忌》に当たるのだが、父である信玄に対する謀反の罪故に参拝者は他に居ない。

 6人は墓前で手を合わせて義信の冥福を祈った。すると勝頼は墓に向かって語り掛け始めた。

「…兄上、此度は未熟ながらも此の者達に支えて貰い、どうにか北条に勝ち戦を得る事が出来申した。儂は兄上から見れば役者不足やも知れませぬが、必ずや武田を強国に伸し上げ、父上を公方の座に就けてみせまする。どうか兄上も冥府から見ていて下され」

 それは義信を通して己自身にも言い聞かせている言葉で有った。そんな勝頼の言葉を5人の重臣は眼を瞑りそれぞれの思いに耽りつつ聞いている。

 やがて勝頼は立ち上がって後の重臣達を振り返りつつ宣言した。

「そうは言うても、まだまだこの儂は当主として明らかに力不足だ。此の《武田の御家》自身も世の動きに則して変わっていかねば天下取りなど夢のまた夢だろう。儂は皆の力も借りて少しづつ、だが確実に儂自身を、此の武田を、甲斐の国を変えていきたい。父上を征夷大将軍に伸し上げて、鎌倉殿、室町御所に続く新たな政権を打ち立てる為に…。その時こそ兄上も安らかに眠られるだろう。この儂にこれからも力を貸してくれ!」

 勝頼の言葉を聴きながら宿老達5人は共に或る感慨を抱いていた。

(勝頼様はこれから益々変わられるだろう。我等を勝頼様に付けて下さった御屋形様の御期待に答える為にも、必ずや此の方を支えてみせようぞ!)

 そして5人は誰からとも無く跪いた。代表して信春が勝頼に答える。

「元より我等一同は勝頼様を支える覚悟!御屋形様を公方様と致し、武田菱を天下に轟かせる為に力を合わせる所存で御座る!」

「そうか、これからも宜しく頼むぞ!」

『ははぁっ!』

 5人は一斉に頭を下げて答礼する。そして勝頼と宿老達は冬晴れの空の下、馬廻が待つ山門へと歩いていった。

 

 勝頼率いる武田軍が駿河に再侵攻する1ヵ月前の、戦の合間に僅かに訪れた平穏な一日の出来事であった。

読んで頂いて有り難う御座います。武田家がこのシステムのままでは天下取りは出来ないでしょうから(少なくとも信長には勝てないと思います)次回は少し話をずらして土屋藤十郎(長安)の任務の話を進めていく予定です。宜しければ次回も読んで頂ければ幸いです。

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