廿捌:元亀狂瀾(壱)~武織の開戦~
今回の話は、史実と違う形での野田城攻めと、武田家と織田家が正式に開戦する話です。相変わらずの長文ですが、最後迄読んで頂ければ幸いです。
早春とは名ばかりの、真冬と変わらぬ厳寒の虚空が、己に欠けた物を満たす様に地表の熱を奪い去る。
山肌は白銀の輝きを放ち、凜とした冷気を帯びた吹き下ろしの寒風が、東三河を貫流為る《吉田川》(豊川)と交わると、周囲を乳白色の霧の中へと沈めていく。
そんな深い霧と数寸程(1寸は約3.03センチメートル)積もった雪化粧の中、吉田川の北岸に山…と言うより小高い丘を利用した堅城…野田城が在る。
野田城は、設楽郡の南端に位置しており、東三河の中心たる吉田と奥三河を抑える要衝である。
此の地に根を張る野田菅沼家の居城で、南東から北西に延びた丘に築かれた、丘の両側を深い淵や泥田に挟まれた形をした堅城だ。
だが野田城は数日来、色取々の旗指物を翻した大軍勢に包囲されていた。
大地に降り積もっていた周囲の雪は、膨大な人数に因って踏み躙られ、十重二十重に包囲された光景は、正に塒を巻いて囲んだ獲物を狙う大蛇の様である。
色鮮やかに翻る無数の旌旗が霧の透き間から垣間見え、まるで大地が震えるかの如き鯨波と大人数が起す地響きが、周囲に其の存在を誇示していた。
此の軍勢は、昨年4月に家督を襲った甲斐武田家第20代当主・武田大膳大夫勝頼が直率為る3万3千の大軍勢である。
彼等は、昨年(元亀3年・1572年)末に新たに支配下に置いた東隣の遠江国から、宇利峠を越えて、野田城に兵を進めて来たのだ。
三河の太守・徳川三河侍従家康の討伐…所謂《徳川征伐》を標榜して、既に遠江を併呑した武田軍は、愈其の舞台を三河へと移したのだった。
元亀4年(1573年)1月10日の事である。
昨年12月22日に行われ、西遠江の帰趨を定めた《三方ヶ原の戦い》に因って、三河・遠江を統べていた徳川家康は、故国三河へと叩き出された。
元の徳川の本城で在った浜松城は、武田家の遠江統治の新たな拠点と位置付けられた。
同時に、武田家に臣従した遠江国衆を《先方衆》として組み込む形で、《徳川征伐》の軍勢の再編が行われている。
武田軍が《三方ヶ原の戦い》に投入した総兵力は、上陸して浜松城攻略に参戦した海賊衆や、徳川勢の後方の遮断に活躍した相模北条家の助勢3千を含めると、総勢4万6千にも及んだ。
武田家は此の他に、甲斐・信濃・西上野に合計1万、駿河及び西伊豆に6千、東遠江に2千、飛騨に2千の兵力を召集・展開させている。
勝頼の陣代就任以来、3年以上に渡る大改革に因って、約6万3千に膨らんだ武田家の最大動員兵力の、正に其の全てを各地へと投入していたのだ。
武田軍は、三方ヶ原や浜松城を中心とした西遠江に於ける一連の戦いの中で、合計4百程の戦死者とほぼ同数の重傷者を出していた。
だが、新たに西遠江の国衆や浪人達が臣従した事で、新たに4千近い新兵力が追加されている。
其処で、戦傷に因って継戦出来ない者達を帰国させた他、浜松を中心とした西遠江を始め、駿河・甲斐・信濃・飛騨・西上野等の、領国各地の守備と予備兵力を兼ねて、約6千を各地へと送り、全体で約4割の兵力を守備に割く事に為った。
其の代りに、一部の兵力を留守居の者と交替させた他、新たに臣従した西遠江の国衆に対しては大規模な動員を掛け、三河での戦いに参陣させている。
此等の措置に因って、武田家の《徳川征伐》の軍勢は、4万の軍勢と北条家の助勢3千の合計4万3千、及び海賊衆へと再編を終えたのだった。
再編された《徳川征伐》の軍勢は、大きく3つに分割されており、夫々(それぞれ)1月3日に浜松城を出立している。
海手を担当為る海賊衆は、旗頭の土屋豊前守貞綱を始めとして、新造した安宅船(大型戦闘艦)1隻を含む、全53隻…武田海賊衆が此の時点で保有している全ての戦闘艦が、出帆為ると舳先を西へと向けた。
彼等は、東三河から西に突き出した渥美半島で、徳川に与する集落に焼討ちを掛け乍ら西進して、突端の伊良湖岬迄の制海権確保を目指す事に為る。
助攻を担当為る浜手勢は、両職(筆頭家老)の1人で勝頼を支える宿老の山県三郎右兵衛昌景が大将に就いた。
浜手勢の中核は、昌景直属の《赤備え》勢を始めとして、共に歴戦を重ねて来た合計5千の手勢である。
更に、北条助五郎氏規を大将と為る北条家の助勢3千と、信濃小諸城主で御親類衆の1人である武田左馬助信豊(勝頼の従弟)率いる軍勢2千が寄騎に付けられた。
総勢1万の浜手勢に課せられた最初の目的は、宇津山城や境目城等の、浜名湖西岸の諸城の攻略である。
遠江の西端部に位置為る此等の城は、一旦は空城に為り乍らも、年明けに東三河から再び徳川勢が進出していた。
其処で、此等の諸城を含めて三河との国境迄の平定を果した後は、逃げる徳川勢に追い討ちを掛けて国境を抜け、東三河南部の渥美半島と其の付け根に位置している、渥美郡全域の平定に着手為る手筈に為っていた。
主攻を担う山手勢は、当主の勝頼直率の3万3千、現時点での最大動員兵力の半分をも投入している。
武田家が誇る多くの武将を麾下に配した此の大軍勢は、宇利峠を越えて奥三河に入ると、往還に扼する宇利城を無血開城に追い込み、やや上流の新城の地や下流の東上の地から、次々と吉田川を渡河したのだ。
吉田川北岸に至った武田軍は、野田城の北東に半里程(1里は約3927メートル)離れた道目記城を占拠為ると、其処に野田城攻めの本陣を据えた。
そして、野田城の包囲網を築く一方、城主の菅沼新八郎定盈に対して、使者を遣わせて開城を迫ったのだ。
其の一方で、更に激しさを増すで在ろう三河での戦いに備えて、信濃から長篠城を経由して野田城に至る補給線の確保に努めている。
そして、昌景の浜手勢が遠江の宇津山に於いて、三河から再侵入した徳川勢を撃退して国境を越える旨の報せを受けると、野田城の包囲網を鎖して、翌11日黎明の攻撃開始を決断した。
だが、攻撃前日である10日夕刻に、陣中に齎された凶報が、此れ迄進められた武田家の戦略にも、大きく軌道修正を迫る事に為ったのである…。
「なっ…!」
「何だとっ!今一度申してみよ!」
明朝の攻撃を前に、軍議を開いていた武田軍の諸将は、報せを聞いた瞬間に我が耳を疑ったのか、矢継ぎ早に聞き返す。
京から織田家の領国を避け乍ら、5日間ほぼ駆け通しだった使番は、意識が落ちそうに為るのを堪え乍ら、先程伝えた内容を復唱した。
「はっ!去る1月5日深更、幕府御相伴衆の無人斎道有様(勝頼祖父の武田陸奥守信虎)が、織田方からの求めに応じた幕府奉公衆の手で、武家御所内に於いて討ち取られた由で御座いまする!…同時に織田勢は、無人斎様の御屋敷と御当家(武田家)の京屋敷を焼き討ちに致し申した!但し…、京留守居役の今福浄閑斎(石見守友清)様は屋敷から無事に脱出され、洛外より紀伊へ向かうとの事で御座いまする…!」
其処迄言い切った使番は、意識を喪って其の場に崩れ落ち、直ちに手当ての為に運び出された。
其の間、誰も声を発しなかったが、使番が陣幕の向こう側に運び出されると、上座に於いて床几に腰掛ける総大将の勝頼が、内心の衝撃を押し殺して漸く話し始める。
「浄閑斎が確と調べた上で、此方へ遣いを寄越したのだ。織田家の変心と先々代様(信虎)の御生害は間違い有るまい…」
「如何様で御座いまする。御当家と織田との盟約は、幾ら仮初の代物と雖も、敵を抱え過ぎた織田に取っても有益だった筈。真逆、織田の方から盟約を破り、剰え幕府方を使嗾して、先々代様を殺害致すとは…」
武田家が昨年新設した《政所》の執事で、両職・奉書奉行・陣場奉行をも一身に兼任為る原隼人允昌胤が、織田側の意図が理解出来ぬとばかりに首を捻る。
事実上武田家の施政を司る昌胤としては、織田家が《相互不可侵》の盟約を破棄して迄、武田家の屋敷を焼き討ちして得る利益が理解出来ないのだ。
「何を悠長なっ!織田が盟約を破り父上を殺めたのは歴然たる事実じゃ!御屋形様も己の祖父を殺められて、如何に致す所存で御座るかっ!」
無人斎…信虎の4男で、信濃深志城主である御親類衆の武田刑部少輔信廉が、父を殺害された怒りを勝頼へ打付けると、信廉の異母弟である甲斐川窪城主の武田兵庫介信実(信虎8男)も、怒りを露に見せる。
「左様!御屋形様、父上を殺めた織田を野放しに致しては武門の名折れじゃ!」
「刑部殿や兵庫殿の申し様もそうで御座るが、此の難局を読み切れなんだ四郎殿は、本当に御屋形の器に相応しいので御座るか?此処は潔く身を退いては如何か?」
父を喪った信廉や信実の尻馬に乗る様に、勝頼の義兄且つ従兄弟に当たり、事実上の御親類衆筆頭で《反勝頼派》の急先鋒である穴山左衛門大夫信君が、勝頼の力量を疑うが如き発言を為る。
すると、信濃福島城主で信君同様に勝頼の義兄に当たる木曾左馬頭義昌が、信君に同調した意見を主張為る。
「左様、左大夫(信君)殿の申す通りだ!…確かに徳川三州(家康)が相手為らば善かろうが、百戦錬磨の織田弾正(信長)を相手取るのは些か心許無いのでは無かろうか?」
「如何様、左馬頭殿の言には一理有る。…為らば此処は我等一同で頭を下げて、浜松城に居られる御隠居様…法性院様に御出馬頂いては如何で在ろうか?」
信君や義昌同様に勝頼の当主就任に否定的で、《郡内衆》と呼ばれる精強な軍勢を率いている小山田左兵衛尉信茂(勝頼の従兄弟)が、隠居し乍らも勝頼を遥かに凌ぐ名声を誇る先代当主・武田権中納言晴信(法性院信玄)の出馬を求めると、軍議の場が一気に騒然と為った。
「左兵衛殿っ!何を戯言を言われるかっ!」
「御屋形様は、既に三方ヶ原に於いて勝利を収められ、諸国に雄名が轟いて居るわ!」
上野国峰城主の小幡上総介信実や、信濃松尾城主の真田源太左衛門尉信綱等の先方衆が、信茂の提案に反発為るが、駿河興国寺城の城代を務める足軽大将衆の曽根右近助昌世が、信茂に同調為る発言を述べる。
「然れど、御隠居様に御出馬頂く方が、織田を相手取る時に勝ちを収め易かろうと心得る。織田弾正は御隠居様を恐れたからこそ、永禄8年以来《仮初の盟約》を続けて参ったのだ。彼方から戦を仕掛けて参ったのは、御屋形様を恐れておらぬ証左では無いか?」
物見(偵察)の的確さや見識の高さから、武藤喜兵衛昌幸と共に《我が両眼》と信玄に言わしめた昌世の発言は、多くの武将達に対して説得力の有る物だった。
併し、其の主張を《両眼の片割れ》が真っ向から否定してみせる。
「曽根殿、其れ為らば寧ろ好都合と言う物ではないか。家康は、無礼にも御屋形様を見縊った挙句に遠江を叩き出された。織田弾正が家康同様に舐めて掛かって参る為らば、御当家は堂々と迎え討てば善い。然れど拙者には、英邁な弾正率いる織田勢が、不用意に攻め寄せるとは考えられぬ…」
「儂も、喜兵衛と同じ事が気掛りだ…。儂が思うに織田弾正は、余程の変事が起きぬ限り、十全に勝ちを収める事が適うと判断致す迄は動かぬ性分の筈…」
勝頼を支える宿老の中でも最年長に当たる馬場美濃守信春が、昌幸の言葉を継ぐ形で自らの懸念を述べるが、途中で信茂が話に割り込む形で、勝頼を猛然と批判為る。
「然れば、御当家の代替りを付け入る好機と捕えたからこそ、公方様を焚き付けて先々代様を殺めたのでは御座らぬかっ!」
「成程…。為らば小山田殿、織田家に取っては、四方のみ為らず京にも敵を抱えて、散った兵を1ヶ所に集められぬ今こそが、御当家と事を構える好機だと、御主は本気で考えて居るのだな?」
「ぐっ…、そっ、其れは…」
信春は、勝頼憎しの余りに感情論に走る信茂達に、半ば憤った感情を覚え乍らも、努めて抑制して信茂の主張の初歩的な欠点を衝く。
信春の的確な指摘に諸将が頷き、発言した信茂が思わず言葉を喪うと、勝頼への反発を持つ者達も黙り込んでしまった。
暫く黙り込んだ侭であった勝頼は、信茂達の沈黙を契機にして、集まった重臣達を見渡し乍ら語り掛けていく。
「…信茂、御主達の懸念も判らぬでも無い。確かに諸国に名声響く父上に御出馬頂ければ、織田弾正相手でも確実に勝ちを収める事が適うだろう。だが、父上には今以上に身体を厭うて頂き、足利家に代わる《新たな天下人》を目指して頂かねば為らぬ。…皆の者にも申しておく。父上に御出馬を願うのは、天下取りの雌雄を決する最後の戦いの刻…、京の手前の瀬田川の辺に《武田菱》の旗を翻す刻だ。其れ迄は、我等が中心と為って弾正や三州を相手取り、父上の教えである《6分の勝ち》を積み重ねていく事が肝要なのだ…」
「如何様、御屋形様の御深慮、誠に見事で御座いまする。御隠居様が聞かれれば、必ずや安堵為さいましょうぞ!…然れど、織田は何故に今の様な極めて不利な時期に、御当家を不意に襲う様な真似を…?」
勝頼の考えに、勝頼を支える宿老の1人で《武田の副将格》と目されている内藤修理亮昌秀が賛意を示し乍らも、織田家奇襲の理由が判らずに首を捻る。
「其れは、儂にも判らぬ。…然れど、彼方側に如何なる事情が有ったとしても、当家の京屋敷を焼き討ち致し、幕府に奉公していた先々代様の御生害を指嗾致した事は、歴然たる事実だ。降り懸かる火の粉は払わねば為るまい。…其れに、屋敷を焼かれ祖父を殺められ乍ら、猶も黙した侭では、諸国や先方衆から弱腰と見られ、決して信は得られまい…」
「…如何様で御座いまする。では、徳川のみ為らず背後で蠢動為る織田家にも、遂に戦を仕掛けるので御座いまするな!」
信春や昌秀と共に勝頼を支える宿老の1人、春日弾正忠虎綱が勝頼の意志を確かめる様に質問為ると、上座の勝頼は力強く首肯した。
「そうだっ!但し織田家とは、仮初とはいえ盟約を結んだ間柄。此れに不意打ちなぞ仕掛けては、後世に《卑怯者》の烙印を捺されるに相違無い。因って、正々堂々と織田家に《盟約の破棄》を突き付け、天下に織田との戦に突入致す事を高らかに宣言致す!然る後に、諸大名を糾合致して織田の動きを縛り、《6分の勝ち》を積み重ね、最後には父上に御出馬頂いて上洛を果すのだ!」
『ははっ!』
勝頼の宣言に、内心快く思わぬ者達も含めて諸将が全員平伏為ると、大きく頷いた勝頼は側に控えている己の軍師に声を掛ける。
「一徳斎、直ちに浜松の父上の元に早馬を遣わせ、織田への《弾劾状》を認めて頂くのだ。父上からの弾劾状と別に儂の分も用意致した上で、2通揃えて織田弾正に突き付け、更には天下に織田の非を明かす!」
「御意で御座いまする。直ちに浜松に使者を遣わしまする。而して、岐阜の織田弾正の元へは、誰を遣わせまするか?」
一徳斎幸隆こと、勝頼の軍師である真田弾正忠幸綱が尋ねると、勝頼は当り前の様に幸綱の息子の1人を指名した。
「勿論、織田弾正や並み居る家臣を前に、当家の大義を示しつつ織田の不義を責め立て、尚且つ無事に帰参を果せ得る様な芸当は、正に《表裏比興》の者でなければ務まらぬ…。当家の家中では、武藤喜兵衛こそが最も相応しかろう。…昌幸、出来ぬなら断っても善いが、如何致す?」
「ふっ、其処迄御期待頂いて居る為らば、否とは申せますまい。…直ちに馬を駆って浜松と岐阜に赴き、織田を相手に喧嘩を吹っ掛けて参りまする!」
指名された自信家の昌幸は、鼻を鳴らし乍らも平伏して、勝頼や居並ぶ重臣達を相手に啖呵を切って見せる。
「…喧嘩では無いのだがな。まぁ善い、次は東美濃の遠山への手当だ。虎繁、御主には《万が一》に備えて、東美濃を衝く軍勢の支度を命じて居った筈だ。如何相成っておるか?」
昌幸の口上に苦笑を漏らした勝頼は、信濃飯田城主で譜代家老衆の秋山伯耆守虎繁に声を掛ける。
勝頼や宿老達は、織田家との戦に突入してしまった場合に備えて、岐阜と信濃の間に位置する東美濃を取り込み、武田家の《西側の壁》と為るべく、以前から秘密裏に東美濃出撃の準備を進めさせて居たのだ。
「はっ!御屋形様から御指示の通り、山手勢より我が《伊奈衆》を中心に5千の軍勢を引き抜く手筈、既に終わらせて御座いますぞ。御屋形様から命が下らば、直ぐにでも奥三河から東美濃に参りましょうぞ!」
『おぉ…』
虎繁の発言を聞いて、盟約決裂に備えていた勝頼の手際に、多くの武将達の口から感嘆の声が上がる中、東美濃に隣接為る木曾谷を所領に持つ義昌が、水を注す様に虎繁を…強いては命じた勝頼を罵倒為る。
「…待たれよ秋山殿っ!御主は去る元亀元年(1570年)の末に東美濃に攻め入ったが、岩村城を陥とす事も出来ぬ侭に、奥三河に退転致した筈!5千程度の軍勢で今一度攻め寄せた処で、岩村を陥とす事は適うまい!」
「左様、其れに岩村城主の遠山和州(大和守景任)は、戦傷が元で昨年の葉月半ば(8月14日)に亡くなっており、以後は織田家臣が専横致して居ると聞く。四郎殿といい秋山殿といい、此の状況にも関わらず、《伊奈衆》のみで岩村城を陥落させようとは…。大言壮語も大概に致すが善い!」
更には信君も、勝頼や虎繁を散々に扱き下ろすが、言われた方の虎繁が冷静に反論為る。
「確かに、和州の死後は名目上の当主として、養嗣子だった織田弾正の息子が継いで居り申す。とはいえ、実質的には和州の後家(未亡人)である《於艶の方》が、岐阜から遣わされた織田三郎五郎(信長庶兄の信広)と川尻与兵衛(秀隆)の支援の元に城を束ねて居り申した」
「何を悠長なっ!為らば、我が木曾谷が危ないでは無いかっ!」
「問題は御座らぬ。織田三郎五郎と川尻与兵衛は、《徳川征伐》が佳境に入った昨年末に、岐阜城の守りを固める為に、軍勢と共に退いて御座る。今の岩村城には、遠山宗家の将兵が恐らく千を越える程度しか籠って居りますまい…」
「ぬ、うぬぅ…」
思わず気色ばんだ義昌に対して、東美濃の織田勢の動静を既に掴んでいる虎繁は、努めて冷静に返答為る。
其の遣り取りを聞いていた諸将が、納得の面持ちを浮かべるのを見て取った勝頼は、力強い口調で今後の方針を決定した。
「うむっ!為らば、虎繁は5千の軍勢を率いて、奥三河から美濃に入って岩村城を攻略致せ!子細は御主に委ねる故に、出来得る限り東美濃の兵力を取り込むのだ!」
「承知仕り申した!」
「昌幸は直ちに浜松に赴いて、父上から書状を受け取って参れ!《伊奈衆》が東美濃に入る前に、岐阜の弾正に書状を突き付けねば為らぬ!万難を排して急げっ!」
「御屋形様、そう焦らずとも善う御座いまする。拙者に御任せ下さいませ!」
虎繁と昌幸、夫々(それぞれ)の返礼を見届けた勝頼は、上座から諸将を見渡し乍ら野田城攻略の件に話を戻す。
「余の者は、儂と共に野田城を攻め寄せる事と致す。然れど、今後も続く戦いを考えると、僅かなりでも将兵の損耗致す訳には参らぬ…。昌盛、半年前迄野田城を守って居った御主為らば、城攻めの糸口が判らぬか?」
声を掛けられた足軽大将衆の小幡又兵衛尉昌盛は、《徳川征伐》直前に退去為る迄、野田城の城将として守備を担っていた当の本人で在ったが、現在は秋山勢の検視(軍監)に就いており、虎繁と共に岩村城攻略に赴く事に成っていた。
「はっ、拙者が城を取り戻す事適わぬのは残念で御座いますが…。野田城は小城乍ら、両側を深い淵に挟まれた、守るに易く攻めるに難い城で御座いまする。力攻めを致さぬ為らば、金山衆を呼び寄せて城を崩すが常道かと心得まするが、如何せん刻を費し過ぎまする…」
「如何様で御座る。金山衆を三河に呼び寄せる迄に半月、城を切り崩すのに更に半月掛かる事を考えれば、此の城に大軍が拘うのは上策とは言えますまい。此の城の周囲では、敵の後詰を迎え撃つのも難いでしょうからな…」
昌盛と共に信濃海津城を守備した経験を持つ虎綱が、昌盛の危惧を具体的に述べると、野田城の退去時に救援に赴いていた信春が、勝頼に向けて1つの提案を行った。
「御屋形様、其れに関して某に考えが在りまする。実は、彼の野田退去の折に、周囲の地侍や百姓に残った八木(米)や粒金を配っておき申した。其の後、其の八木や粒金、年貢のみ為らず、次の年の種籾に至る迄、徳川勢に全て奪われた、と聞き及んで居りまする。某に5日頂ければ、城の内外の徳川に恨み持つ者達に手入れ(調略)を行って見せましょうぞ!」
「ふむ…、試す価値は十分に有りそうだな。…善かろう!城攻めは余裕を持たせて、17日の明け方に変更致す。信春は、入り用な粒金を用意致す故に、其れ迄に必ずや手入れを終わらせよ。昌胤は、秋山勢の出陣後に直ちに陣替えに取り掛かれ。城の連中に、付け入る隙を与えぬ様に計って呉れ…」
「承知致した!」
「御意で御座いまする!」
信春と昌胤が力強く平伏為ると、《反勝頼派》も含めて其処に居る全員が、2人に倣って一斉に平伏を行う。
だが、命を下した当の本人で在る勝頼の脳裏には、満足気の面持ちとは裏腹に、内心では先を見通せぬ泥沼に嵌ったかの如き、暗澹たる想いに捕われて居たのだ。
(…正直、徳川を完全に屈伏させる迄は、織田とは戦いたくは無かったが、此の様な仕儀と為っては致し方有るまい。だが、幕府に仕えていた御祖父様が、よもや幕府の奉公衆から殺されるとは…。父上が上洛を果した後に、将軍職を禅譲させる腹積りだったが、最早今の公方と轡を並べる事は適わぬ。然れど、此の侭では幕府の威光に従う《全ての大名》を敵に回してしまう…)
軍議の終了と同時に、道目記城を発った昌幸は、夜の山道を松明を翳して駆け続け、翌11日の黎明には浜松城へと駆け込んだ。
昌幸は、隠居所の信玄に早速拝謁を願い出て、軍議の経過と勝頼が下した《織田家への宣戦》の方針を報告為る。
「ふむ…。勝頼は、漸く信長と矛を交える決意を固めたか。とはいえ、抜打ちに東美濃に攻め寄せれば、多少為りとも有利な地歩を築けるだろうに、態々(わざわざ)此方側から知らせて遣るとは…」
「御屋形様は《後々に天下を狙う為にも、大義に悖る事を致すべきで無い》との御考えで御座いまする。まぁ、相変わらず甘い御方では御座るが、だからこそ支え甲斐が御座いまする」
信玄は、大義名分を気にし過ぎる勝頼の考えに、些か不満を覚えていたが、昌幸が本人なりに主君を庇い立てる様子に笑みを浮かべる。
「確かに、勝頼も以前に比べれば随分と頼もしく為ったが、此の乱世を切り抜けるには未だ未だ力不足は否めぬ。宿老達だけでは無く、勝頼と同じ世代である御主達が、主君として支えて遣って呉れ…。話は変わるが、信長への弾劾状は直ぐに用意致す。然れど、今一つ届けて貰う物が有る…」
「はっ、宛先は《武家御所》の公方様で御座いまするな?」
「うむ…。肉親を殺されて泣寝入り致した場合、再び《親不孝》の烙印を捺されてしまい、此れから何かと都合が悪い。彼の様な公方は、出来得る為らば信長同様に絶縁致したい位だ。然れど、此れ以上敵を抱えるのは得策では無いからな。まぁ、公方に抗議を致した後は、今以上に幕府と距離を置いて、幕府方の動き次第で是々非々で対応致す事に為ろう…」
「御意で御座いまする。御屋形様も口には為さいませぬが、其の辺りが気掛りの御様子で御座いました。御隠居様の御意向を御伝え致さば、きっと御安堵為さる事と愚考致しまする…」
勝頼の脳裏に宿った苦悩を理解していた昌幸は、幕府への方針を信玄が示した事で、勝頼の心理的負担が減る事に安堵の表情を浮かべる。
(父上…、父上を半ば見殺しに致した此の《親不孝》は、足利家に替わる新たな天下を目指す事で、贖わせて貰いまする…。儂と勝頼、そして当家の行く末を、先に逝った母上や信繁と共に、彼岸より見守って居て下され…)
信玄は、一度は相克劇に至った間柄とはいえ、最後には秘密裏に和解していた亡父信虎の冥福を祈った。
そして、幕臣に因る信虎の殺害を止める事が出来なかった義昭を完全に見限り、新たな《天下》を創る決意を、改めて父に誓ったのだった。
浜松城に於いて、信玄から書状を預かった昌幸は、其の日の深更に城を発つと、馬を乗り継ぎ乍ら昨晩と逆の道筋を辿って、12日の白昼には道目記城の武田軍の本陣に到着している。
既に用意された勝頼の書状も携えると、事態の重要性を認識為る昌幸は、近道である奥三河の間道を突っ切って美濃に赴いた。
そして、取次役を通して信長への謁見を重ねて要求した結果、17日黎明に美濃金華山麓の岐阜城御殿《天主》の謁見の間に於いて、織田信長に対して《武田家からの宣戦》を正式に伝えたのだった。
「…で、あるか。武田の立場に立てば是非も有るまい…。然れば残る途は、互いの十全を尽くして戦うのみよ!」
信長は、年が明けて此の半月余りの間に、将軍義昭の蠢動を防ぐ為に、既に京へ先発の軍勢を送り込んており、自らも軍勢を率いて近日中に上洛為る手筈を調えていた。
だが、京へ先乗りした重臣の佐久間右衛門尉信盛から《無人斎殺害》の報告を受け取り、無人斎の素性が判明した時点で、信長自身の計算に武田家同様の狂いを生じさせた。
だが、此の事態に直面した信長は、先延ばしにしていた《武田との開戦》を既に織り込む形で、直ちに戦略の再構築を始めたのだ。
其の為か、昌幸に因って正式に伝えられた武田家からの《宣戦布告》に熱り立つ家臣達に比べて、極めて抑制が効いた口調で、昌幸に対して返答出来ていた。
信長は、無言で周囲を見渡して居並ぶ家臣達を黙らせると、改めて昌幸の方を向き直して言葉を継いだ。
「…其れと、其方の姫にも詫びを伝えて貰おう。『奇妙との事、此の様な仕儀と為り誠に相済まぬ』とな…」
「…如何様、承知仕り申した。弾正殿の嫡男の勘九郎(信重・後の信忠)殿と、当家の於松(信玄6女)様の間にて取り交わされた婚儀の約束、一旦は白紙とさせて頂きまする。然すれば、弾正殿の御言葉は必ずや於松様にも御伝え致しまする…」
「うむ…。仙千代、持って参れ」
己の息子と勝頼の妹の婚約が破談した事を詫びた信長は、脇に控える小姓の万見仙千代重元に対して、主語を省いて簡略に命じる。
其れだけの命令で、主君の命じた内容を正確に理解した重元は、控えの間から拵えが所々焼け焦げた1振の太刀を持ち込むと、恭しく信長へと差し出した。
「武藤とやら…。此の太刀は、此度に京で死んだ《無人斎道有》とやらの屋敷より焼け出された代物だ。恐らくは、武家御所には太刀を佩びて入れぬ故に、佩刀を屋敷に置いて行ったのだろう…なっ!」
そう言い乍ら信長が焼け焦げた拵えから太刀を抜き放つと、運良く無事だった刀身が艶やかな光沢を帯びる。
そして鞘を床に落とした刹那、薄笑いを浮かべた侭で上座から飛び出した信長は、太刀を上段に振り被って、昌幸に斬撃を加えて来た。
(此れは本気の打込みでは無いっ!試されて居るのだっ!)
己が信長から試されている事を瞬時に理解した昌幸は、其の場に座した侭に後側に摺り下がり、正に紙一重で切先を躱すと、刀身は謁見の間に敷き詰められた畳に突き刺さる。
斬撃を避けられ乍らもニヤリと口角を上げた信長は、畳に刺さった侭の太刀を手放し、床に落とした拵えも太刀の側へと投げ捨てて上座へと戻ると、昌幸に向かって改めて言い放つ。
「善くも見事に避けた!其の《備前兼光》、越後にでも送る積りだったが気が変わった!無人斎の《形見の品》、孫の大膳(勝頼)殿への詫びとして届けるが善い!」
信長なりの意地と誠意を見た昌幸は、信虎の形見の太刀を畳から抜いて焦げた拵えに収めると、所作を正して一礼為る。
「承知仕り申した。必ずや、我が主君たる大膳大夫様に御届け致しまする。では、拙者は此れにて失礼致しまする…」
昌幸は改めて周囲を警戒し乍ら、両側に居並ぶ織田家臣にも隙を与える事無く、《謁見の間》から退出していく。
織田家臣達が無言で見送る中、既に精神的に完全に立ち直った信長は、矢継ぎ早に方針の転換を家臣達に命じ始めた。
「此度の上洛は取り止めだ!今朝に出陣した権六(柴田勝家)と五郎左(丹羽長秀)を呼び戻せ!改めて岐阜にて如何様にも出陣出来得る支度を調えさせよ!」
「はっ…?ははっ!」
「仙千代、京から信盛を呼び戻して、直ちに尾張の守りに回せ!与兵衛は、兄者と共に再び岩村城の後詰に入れっ」
「はっ!」
「御意で御座いまする!」
「美濃尾張の者共にも、直ちに陣触れを致せ!今度の相手は強兵の武田の奴輩、兵も兵糧も鉄砲も幾らでも入り用だ!行けっ!」
『御意っ!』
怠惰を嫌う主君の人となりを承知している家臣達は、一斉に謁見の間から退出為ると、可能な限りの速さで己の為すべき事を果しに向かう。
其の家臣達を無言で見送り乍ら、信長は唯独りで遂に開戦に至った武田との戦いに、思いを馳せるのだった。
(元より武田との盟約は、周りの連中共を屠る迄の時間稼ぎに過ぎぬ…。《天下布武》に立ち塞がる為らば、諸共に打破る迄よ!信玄坊主の後釜を継いだ武田大膳の力量、確と見せて貰おうか!)
同時刻、三河国野田城の本丸では、城主の菅沼新八郎定盈が、床几に腰掛けた侭で苦悶の表情を浮かべている。
最低でも1ヶ月以上に渡って、武田軍主力を遅滞出来得る、と想定していた己の居城が、未明の総攻撃開始から僅か1刻余り(2時間強)で、早くも落城の危機を迎えて居たのだ。
「とっ、殿!返り忠にて陥ちた三の丸に入った武田の軍勢、既に二の丸の城門に取り付いて居りまする!攻め手は、菅沼・奥平の《山家三方衆》が務めて居りまする!」
「うむっ!二の丸を守る小四郎(設楽貞通)殿に、必ずや武田の奴輩を防ぎ切る様に御伝えせよ!」
「はっ!」
本丸の屋敷から、使番が走り去って行くのを見送り乍ら、定盈の横に座する桜井松平家の松平与一郎忠正は、此の状況に憤りを露にしていた。
「併し、三の丸に詰めて居った足軽共は何たる不忠者よ!殿(家康)への忠節を尽くさぬばかりか、自ら城門を開いて武田の奴輩を招き入れるとはな!」
「与一郎殿…、我が所領から召された足軽共の不始末、誠に申し訳御座らぬ。…然れど、昨年の此の城を取り戻した際に、周囲の百姓共は旗本の方々から、明日の糧にも困る程に、一切合切を根刮ぎ奪われ申した。其れ故に…」
「新八郎殿っ、何を申されるかっ!元々徳川家が管理致す年貢を、武田の奴輩が奪った挙句に百姓共に配っただけでは無いか!本来収めるべき年貢や敵が配った金を、徳川の御為に使う事こそが、理に適っておるだろうが!」
「くっ…」
定盈は野田城を奪回した後、半年に渡って領民の慰撫に努めて来た。
だが、徳川家に正に身包み剥がされた野田の百姓達は、再び戻って来た元領主の定盈達を白眼視して、面従腹背の態度に終始していた。
そして、再び領民の信を取り戻す事が適わぬ侭に、野田城は武田の大軍勢に囲まれ、容易く調略を許して落城の憂目に遭って居るのだ。
其の事を全く無視して、徳川を見限ったで在ろう足軽達のみを非難為る忠正に、定盈は悔しさを滲ませる。
とはいえ、此の侭落城して全滅してしまうと、主君・家康からの内命も果せなくなる為、内心の不満を押し殺して忠正に話し掛ける。
「…与一郎殿、此の侭全滅致しては我等3人が与えられた次の《密命》が果せなく為り申す。攻め手が《山家三方衆》なのは好都合。同族相手故に言訳も立ち易かろうと存ずる」
「…成程、承知致した。為らば、儂は二の丸にて小四郎殿を手助け致す故に、新八郎殿は切りの良い処を見計らって手仕舞に持ち込んで下され!」
そう声を細めて言い乍ら、側に置いた兜を被る忠正に対して、定盈は首肯為ると忠正にだけ聞こえる小声で送り出す。
「御任せ下され。此の城が落ちてからが、徳川様の謀の肝で御座る!小四郎殿共々、御武運を御祈り致す!」
「うむっ!桜井の者達よ、設楽殿の助勢に参るぞ!儂に続けぇ!」
『おおっ!』
忠正は本丸に詰めていた桜井松平家の手勢を率いて、二の丸に続く土橋を渡って行く。
彼等を見送り乍ら、定盈は予定より1ヶ月近く早まりそうな《次の一手》を進める為に、武田の諸将に疑心を抱かせない形で交渉に入る頃合を探るのだった…。
「設楽の弓衆っ、武田の奴輩を居竦めよ!放てぇっ!」
「城門を破らせるなっ!鉄砲足軽は敵を塀に張り付かせるな!撃てぇっ!」
未明に内応した三の丸の足軽達が、大手口の城門を内側から開けた事から始まった攻城戦は、朝には早くも二の丸の攻防へと移っていた。
三の丸を占拠した武田軍は、竹束や掻楯を並べて仕寄場(攻城陣地)を築くと、直ちに二の丸へ続く城門へと攻撃を集中させる。
一方の城方も、設楽貞通・松平忠正の采配の元で、土塀越しに弓や鉄砲を打ち掛けて、必死の抵抗を繰り広げた。
大手側の軍勢の大将に就いて、大手口から其の様子を眺めていた馬場信春が、ニヤリと口角を上げて周囲の家臣に指示を飛ばす。
「菅沼や奥平の衆の奮戦で、本丸の菅沼新八(定盈)の手勢以外は二の丸に引き付けた様だな…。頃合や良し!搦手の真田に合図を送れ!」
「はっ!」
信春の指示を受けた若武者が城外へと走り去り、暫くすると馬場勢の後方から1筋の煙が立ち上った。
城方は何事かと警戒したが、狼煙の意味は直ぐに明らかになった。
二の丸から見て本丸の向う側…南東側に当る搦手側に立ち並んだ侍屋敷の方向から、新手の軍勢が攻め掛って来たのだ。
搦手の軍勢を率いるのは、《信濃先方衆》で軍師の真田幸綱の息子である、真田源太左衛門尉信綱と兵部丞昌輝の兄弟である。
武田家とは別に、独自に《真田忍び》を組織している真田勢は、10名程が本丸へ続く切通しを目指して、急坂を攀じ登り城の内側に侵入した。
其の一方、大手側や本丸に兵力を集中させる為に、既に放棄されている屋敷群に、真田勢が身を潜めて突撃の間合を計っていたのだ。
そして、大手口から狼煙が立上った刹那、侵入した《真田忍び》が内側から搦手の城門を守る足軽達を排除為ると、一気に搦手側の城門が押し開けられた。
「よしっ!再び城門を閉ざさせるな!一気に切通しを駆け上がるぞ!懸かれっ!」
『ぅおおぉっ!』
搦手の城門が開けられた事に気付き、本丸から将兵が城門を奪還為るべく駆け降りて来る。
だが其れよりも早く、身を潜めていた真田勢が鯨波を上げ乍ら、一気に搦手の城門へと傾れ込んだ。
本丸の定盈は、切通しへ用意していた岩を転がす様に命じて、一時的に真田勢の足を止めると、手早く兵を纏めて本丸へと退いた。
だが、本丸と二の丸以外を失陥した事で、野田城の早晩の落城は誰の目にも明らかに為ったのである。
「美濃守様、此れ以上の抵抗が無意味で有るのは、城内の者達も既に判っておる筈で御座いまする。若しも御屋形様からの御裁可が頂ければ、拙者が城内に赴いて城を開かせて御覧に入れまする!」
二の丸の攻防戦が小康状態に至った頃、城攻めの陣頭指揮を取る信春の下に、前線で戦っていた《山家三方衆》の1人である奥平美作守貞能が訪れていた。
未だに抵抗を続ける城方に対して降伏を勧める為に、自ら城内への使者に名乗りを上げたのだ。
元々は親徳川派で、未だに家康に未練を残している貞能は、嘗ての同輩達が小城を枕に討死為る事を避けようと思案していた。
其の為、自ら城に投降を呼び掛けるべく、信春に直訴したのだ。
「…ふむ、貴奴等が城を早々に開く為らば、我々には異論は無い。早速、道目記城の本陣に遣いを送り、急いで御屋形様から御許しを頂こう。其処許には、其れ迄に城内の者共と繋ぎを取って貰おう…。奥平殿、宜しいか?」
「はっ!御任せ下さいませ!直ちに矢文を打込んで、城内の者達と繋ぎを取って見せまする!」
信春から了承を受けた貞能は、喜色を浮かべて平伏してから、馬場勢の陣所を退出為ると、三の丸の自らの仕寄場に戻った。
貞能の帰陣後直ちに、交渉を呼び掛けるべく城内に矢文が打ち込まれると、間髪を入れず交渉を承諾為る返事が帰って来た。
此れを、武田軍のほぼ全ての将兵が《相手方の士気の低下》と捉えて歓迎し、本陣に詰める勝頼も報せを受けると交渉の開始を命じた。
だが、次なる策謀を巡らせる徳川勢に取っては、正に《渡りに船》の結果を齎したのだ。
此の日の白昼には、焼け残った侍屋敷の一角に於いて、武田軍と城方の間での談合が行われた。
武田軍からは、勝頼の側近の1人で譜代家老衆の土屋右衛門尉昌続と、実質的な仲介役である奥平貞能が、城方からは菅沼定盈と設楽貞通が夫々(それぞれ)参加している。
此の中で、昌続は此れ以上の抗戦は、徒に犠牲を増やすのみと主張して、定盈と貞通に対して速やかな開城を迫った。
繋ぎの役目を果して交渉の席に漕ぎ着けた貞能も、城方の将兵を救う為に必死の面持で説得を重ねる。
最初は首を縦に振らなかった定盈と貞通だったが、夕刻迄交渉を重ねた結果、日が没する頃に漸く《将兵全員の助命》を条件に開城に同意した。
翌朝に行われる筈だった総攻撃が回避された事で、双方の将兵は安堵の表情を浮かべ、道目記城の勝頼達も早期の決着を歓迎したのだった。
其の日…1月17日の深更の頃、城を開いて野田城を明け渡した定盈達は、篝火に照らされた武田軍の本陣にて、諸将が両側に居並ぶ中、総大将の勝頼との会見を果した。
「…儂が勝頼だ。早速だが、本題に入らせて貰おう。菅沼新八郎、設楽小四郎、そして松平与一郎。野田城を開いた御主達を召し抱えたい。若し、此の場にて当家に帰参致さば、御主達の本領は安堵致す。勿論、今後の働き次第では加増も致す所存だ。如何致す?」
「3人を代表して、野田城を預かって居りました某が御答え致す。我等一同、今は岡崎城に居はす殿…徳川三河侍従(家康)様より、度重なる御厚情を賜り申した。今更乍ら、新たに主君を換える積りは御座いませぬ。帰参の件、何卒御容赦下され…」
「左様か…。御主達の意志が固い為らば致し方有るまい。だが其れ為らば、不本意乍ら御主達には、徳川家と人質交換を致す迄、虜囚の身を託って貰うぞ。先ずは…」
此の後、勝頼が示した方針に従って、3人の城将と彼等に付き従う家臣達は、人質交換が行われる迄の一時的な処置として、奥三河に於ける武田軍の後方の拠点…長篠城に軟禁される事に為った。
一方、徳川勢として動員されて野田城に籠城していた足軽達は、路銀として多少の粒金や銭が配られた上で、放免して夫々の村落へ帰る事を認められている。
此等の方針は、既に平定を完了した駿河や遠江に於いて取られた物を、ほぼ踏襲為る形で決められていた。
「…我等が城を開いた後の温情有る御裁断、誠に有難き幸せで御座いまする。一同に成り代わり、礼を申し上げまする…」
勝頼が、事前の交渉で同意していた《全員助命》の方針を反故に為る事無く、忠実に履行される事に、定盈は代表して礼を述べる。
「此の開城に際して、討死を覚悟していた我等に、手を差し伸べて頂いた土屋右衛門殿と奥平美作殿に、嘗て今川家より拝領致した、我等の家宝たる脇差を差し上げとう御座いまする。どうか、受け取って下さいませ!」
「うむ…、2人に対して功に報いる意味でも、取り立てて問題有るまい。昌続、貞能。御礼の品、受け取るが善かろう」
「はっ…、菅沼殿、有難く頂戴致しまする」
「新八郎殿、誠に相済まぬ…」
交渉を纏めた2人に対して、定盈が感謝の念を込めて家宝の脇差を贈与したのを最後に、此の会見は終了した。
日付が改まる前に城から退出した定盈主従や忠正、貞通等は、着の身着の侭で長篠城へと護送されて行った。
戦後処理を終了させて、野田城に多少の留守居の兵を残した武田軍2万8千は、早くも翌18日には野田城を出立して、東三河の要衝…吉田城を目指して、進撃を再開為る事を決定したのである…。
開城と会見の余韻が未だに残る、18日の未明の奥平勢の陣所の外れ。
野田城を最小限の時間と被害で攻略を果し、早くも次なる戦場に向かう準備に余念が無い武田軍の直中に於いて、今回の殊勲を立てた筈の貞能が、己の陣所から少し離れた切株に腰掛けて、唯独り懊悩していた。
其処に、1人の若武者が近付いて来ると、貞能に声を掛けた。
「父上、此の様な処に座られて、如何致されたので御座るか?父上は、御屋形様からも認めて頂いた此度の殊勲の者、我等に出陣の支度を任せて一眠り致されても、一向に構いますまい…」
「…貞昌か」
「父上、拙者は既に貞昌では在りませぬ。武田家より偏諱を賜り《信昌》と名乗りを改めて居りまするぞ」
「左様で在ったな…。為らば、御前に問いたい事が在る…」
そう言い乍ら、貞能は己の嫡男の方を向き直すと、雑念を払うかの如く眼を瞑って、信昌に問い掛け始めた。
「…此の侭武田家に従った侭で、果して良いので在ろうか?菅沼や遠江の連中と同様に《先方衆》と括られ、仮令徳川様を打破っても、大した恩賞は見込めぬのでは無いか?…為らばいっそ、此の機会に乾坤一擲の大勝負を挑んで…」
「…父上、我等は既に武田家に帰順致す、と奥平家全体で3年も前に決したでは御座らぬか。其れ故に、弟の仙千代と我が妻おふうを質に出したので御座ろう…。…父上は、祝い酒の酔いが回られた様で御座るな。此の話は、拙者の胸にのみ納めておきまする。其れでは…」
貞能の不穏な口振りを諌めた信昌は、其れを酒の所為と己に言い聞かせて、父に一礼して再び陣所へと戻っていく。
立ち去る息子の背中を眺め乍ら、貞能は懐から印籠を取り出すと、中から1通の懐紙を徐に出して、然も大事そうに拡げてみる。
其の懐紙には、細かい文字がびっしりと書かれており、月明りの下では細かい内容の判別は適わない。
だが、其の記された内容は、貞能の脳裏にはっきり刻まれていた。
(…遂に、織田弾正様が、徳川様の苦難を救う為の大軍勢を興される…。此の侭、心無らずも武田に従った挙句、諸共に滅ぼされては堪った物ではない…。此処は、徳川様の策を儂等が成就させて、徳川様や弾正様の為に一役買わなければ…)
此の懐紙は、野田城開城後の会見の際に、定盈が貞能に譲り渡した《家宝の脇差》の中に隠してあった。
武田家の直臣である昌続へは、本物の《今川から賜った脇差》を贈る事で警戒を薄め、貞能には秘密裏に認めた書付を、贋作の脇差の拵えの中に仕込んであったのだ。
其の書付は、嘗ての主君である家康の花押が捺され、《織田家を巻き込んで三河全域を奪還為る秘策》が大まかに記されていた。
そして、貞能には《設楽郡の一円支配》を委ねる用意が有る故、其の刻に向けて秘密裏に準備を命じて居たのだ。
(徳川様は…殿は、態々(わざわざ)儂を名指しで選んで下さったのだ。御期待に御答え致す為にも、必ずや奥平の家中を徳川一色に纏め直す!そして、新八郎殿達と合流して、徳川家に勝利を齎すのだ!)
貞能は、懐紙をまるで所領の安堵状かの如く畳んで、大事そうに懐の中の印籠に仕舞い込んだ。
貞能の脳裏からは、武田家への忠節の念は疾うに消え失せており、既に心中では《徳川家臣》へと立ち戻っていた。
此の貞能の動きに因って、一旦は安定していた奥三河が、数ヶ月後には再び混乱の坩堝へと陥っていくのである。
織田家が幕府に介入して、武田信虎が殺害された事件に起因して、武田・織田両家は遂に全面対決に突入した。
更には、武田家は信虎半ば見捨てた形で殺害を許した将軍・足利義昭からも、今以上に距離を置く政策に転換した為に、幕府を中心とした《織田包囲網》を利用し難い状況に陥ってしまった。
此等の動きは、勝頼が陣代就任以来進めていた外交方針に、大きな軌道修正を強いる事に為った。
而も、信虎殺害を背後から秘密裏に糸を引いていた徳川家康の次なる策謀に、足元を掬われる羽目に陥る事に為る。
だが皮肉な事に、此の時点での幕府権威からの離脱を計る決断を下した事が後々、武田家を織田家と並ぶ《一方の盟主》へと押し上げる契機と為っていくのである…。
今回の話では、前回の番外の話に於いて武田信虎(無人斎道有)が殺害された事を受けて、武田・織田両家が正式に戦端を開く事になりました。史実では、信玄が東美濃に奇襲を仕掛ける形で戦端が開かれて、信長の武田家に対する深い怨恨の一因となりました。しかし此の《仮想戦記》では、織田方の落度(其れを密かに誘発した家康の謀略)を受けて、使者が赴く形での正式な開戦で、御互いが史実とは違うスタンスで、戦に臨む事になります。さて、次回は吉田城の包囲戦と、畿内の戦いの話です。相変わらず遅筆で乱文ですが、次回も読んで頂ければ嬉しく思います。