廿悉:徳川征伐(拾)~嵐前の凪~
今回の話は、三方ヶ原の戦いの後の話です。前回までの話で、勝頼が当主に就いた武田軍は、隠居の父・信玄と協同で徳川勢を打ち破り、西遠江の大半を平定しました。勝頼は新領統治に勤しんで行きます。遅筆な上に、相変わらずの乱文長文ですが、読んで頂ければ嬉しく思います。
長い間天空を支配していた曇天は漸く流れ去り、西遠江の大地に降り積もった数寸(1寸は約3.03センチメートル)の残雪も、淡い日輪の輝きに照されて白く煌めいている。
当時の南蛮の暦である《ユリウス暦》で2月2日に当たり、一年で最も寒い頃とはいえ、注意深く眼を凝らせば早春の胎動を其処彼処に見つける事が出来る。
底冷えしているが久方振りに表れた青天の下、年越しを迎える準備に余念が無い人々の面持ちは、皆が一様に晴れやかだ。
だが、人々から笑みが零れる理由は、単に無事に新年を迎えるからだけでは無かった。
此の年の秋口から遠江国の全体を覆っていた戦雲が、新年を前にして漸く消え去り、3年前から此の地を治めていた隣国三河の大名・徳川三河侍従家康は故国へと退いた。
そして徳川の本城だった浜松城に入った、甲斐武田家の新当主・武田大膳大夫勝頼が直ちに市井の治安に心を配った事で、新たな支配者と為った武田軍の濫暴狼藉も抑えられたのだ。
西遠江の人々は、旧主たる今川家の統治下で起きた争乱…所謂《遠州錯乱》から約10年振りに、平和を享受出来る環境を手中に出来たのだった。
時に元亀3年(1572年)12月30日、此の年の大晦日の事である。
足掛け3年に渡る武田・徳川両家の抗争は、此の年8月から武田家が《徳川征伐》と呼称する攻勢に因って、遠江に其の舞台を移していく。
武田軍は、総勢4万以上の軍勢と4ヶ月以上の刻を費して、漸く天龍川以東の東遠江平定を成し遂げると、12月21日から翌22日黎明に掛けて天龍川を渡河、満を持して西遠江へと歩を進めて来た。
対する徳川家康は、遠江の徳川勢8千に加えて盟主たる織田家の助勢3千を含めた、総勢1万1千の軍勢で出陣、三方ヶ原の北辺…祝田の坂の手前に於いて、坂を下る最中の武田軍に背後から襲い懸かるべく攻撃を試みた。
だが、坂を下る筈の武田軍は三方ヶ原から下らずに、坂の手前に生える《根洗松》の周囲に、実に主力の半分以上を隠蔽していたのだ。
そして、徳川・織田勢が坂の手前迄釣り出されると、背後に迂回させた別働隊と連携して、徳川・織田勢を正に粉々に撃ち砕いた。
更には、隠居している武田権中納言晴信(法性院信玄)が約3年半振りに出陣、駿河・東遠江からなけなしの兵力5千を掻き集めると、徳川の本城たる浜松城を、ほぼ無傷の侭に奪い取ってしまったのだ。
開戦から一部を除いて殆ど戦闘に参加しなかった織田勢は、敗色が濃厚に為ると徳川勢を置き去りに戦場から離脱、一気に三河を突っ切って岐阜迄退いた。
大将の1人の平手甚左衛門尉汎秀を始めとして、戦闘と其の後の追撃に因って約5百人が討死、ほぼ同数の手負いの者を出し乍らも、多くの者達が故国へと帰還を果した。
併し、徳川勢の被害は正に散々たる物で在った。
開戦前の西遠江の徳川勢の兵力は、三方ヶ原で戦闘に参加した8千の軍勢と、浜松城を始めとした西遠江各地の城を守っていた者が合わせて1千足らず、合計で凡そ9千弱を数えていた。
だが、此の一戦のみで、三方ヶ原や浜松城を含めた浜名湖以東の全域を喪ったばかりか、西遠江の国衆の多くが踵を返して、三河へ逃げる徳川勢から離脱して自らの所領へ逃げ帰った。
命辛々に三河へ逃れた者は僅かに3千のみで、其の多くが何処かに手傷を負っていた。
三方ヶ原や其の周辺に屍を晒した者は、主だった者だけでも多くの数に上った。
合戦前に既に失陥していた二俣城の元城主だった中根平左衛門正照と、副将の青木又四郎貞治。
浜松城の留守居役だった夏目次郎左衛門吉信。
旗本先手衆の鳥居四郎左衛門尉忠広と、旗奉行の成瀬藤蔵正義。
本多平八郎忠勝の叔父で、親代りであった肥後守忠真。
《大久保党》当主の七郎右衛門忠世の4弟である新蔵忠寄。
織田家を逐電して徳川勢に陣借りしていた山口飛騨守・長谷川橋介・岩室勘右衛門…。
此等多くの武将を始め、約1千2百人が激戦の最中に討死した。
他にも多くの者達が《落ち武者狩り》の被害に遭い、若しくは三河への退路を絶たれたが為に自害して相果て、全ての合計で2千人以上の死者を出すに至ったのだ。
更には、遠江国衆を中心に1千人程が徳川勢から逃亡し、中には武田軍に寝返りを打って、先程迄の同輩達に刃を向ける者も続出した。
そして、堀江城や浜名湖口の今切口から湖を渡る事適わず、戦意を喪失した約3千人近い将兵、及び浜松から避難し損なった徳川家臣の妻子郎党約1千人が、武田軍の虜囚として身柄を拘束されてしまったのだ。
彼等合わせて4千人近い捕虜は、全員が武具や具足、そして武器に成りそうな品物を全て没収された上で、身分に因って其の処遇が分けられる事に為った。
即ち、足軽や郎党…手明(小刀や手槍のみ持って主君の馬の口取りを行う者)や中間・小者、並びに其等の家族に関しては、成り済ましを防ぐ為に身分を照会した上で、三河や遠江の己の郷へ帰り着く程度の兵糧が配給されて、此の時点に於いて其の殆どが既に帰途に付いていた。
一方、遠江国衆以外で士分以上…足軽組頭以上の身分の者、及び其の妻子を合計して5百人程に関しては、浜松城下の嘗て自らが住いにしていた屋敷群の幾つかに、監視付きで拘禁される事に為った…。
そんな監禁中の徳川家臣達を横目に、浜松城は武田家の遠江支配の中核と成るべく、戦前以上の活況を呈している。
僅か8日前に其の翻る旗の色を変えた浜松城は、前身は曳馬城(引間城)と呼ばれており、今川家臣の飯尾豊前守乗連・善四郎連竜親子の居城だった。
其の後、三河を統一して遠江へと侵攻して来た徳川家康が、乗連・連竜親子の死後に弱体化していた飯尾家を滅ぼして城を奪い取った後に、自らの新たな居城として拡張した城である。
此の時、曳馬の名は《引く馬》に繋がり敗北を連想させる事から、縁起を担ぐ為に嘗て此の地に在った荘園の《浜松荘》から名を取って浜松城と改名したのだ。
其の浜松城には現在、西遠江を領国に組み込んだ武田家の本陣が置かれ、西遠江の国衆が本領安堵を求めて連日詰め掛けていた。
武田家の新当主である勝頼は、23日白昼に浜松城に入城為ると直ちに父・信玄と懇談して、西遠江の統治方針を磨り合せた。
其の結果、24日黎明には浜松城下や《本坂道》沿いの市野・追分・刑部・三ヶ日等の集落に高札が掲げられた。
其の高札では、今後武田に従う為らば《三方ヶ原》で徳川家に従っていた者も不問に付す、とした代わりに、所領安堵に関しては厳しい条件を提示していた。
大晦日…30日を期日と定め、其れ迄に帰順した者のみ本領安堵を認める一方、日和見して越年した場合は、半知(所領の半分を没収して残り半分のみ認める)若しくは所領没収為る、との方針が示されたのだ。
同時に、遠江国内に於いて武田家に従わぬ国衆は、年明けと同時に討伐を開始して、未だに徳川領である三河へ追放に処する旨も発表された。
此の《飴と鞭》を駆使した宣言は、永禄12年(1569年)の末に東隣の駿河国を平定為る際に、既に用いられた政策であり、今回も同様の方針が定められたのだ。
西遠江の国衆達に与えられた猶予は僅か7日間のみであり、其の間に己の仰ぐべき旗を決めなくてはならない。
但し、徳川家に差し出していた人質の大部分は、浜松城奪取と共に武田軍に因って解放されて、勝頼の命を受けて既に夫々(それぞれ)の国衆達の下へと戻されて居た。
其の為、堀江城主の大沢左衛門佐基胤、笠井城主の笠井肥後守満秀を始めとして、多くの遠江国衆は返された人質を再び差し出して、仰ぐ旗を武田家へと翻した。
また、現時点での最前線である佐久城には、元の城主で甲斐に亡命していた浜名肥前守頼広が返り咲き、新田四郎義一を中心とした《堀川一揆》残党と共に、既に入城を果して周囲の調略に寄与していた。
一方、三河から入国していた徳川の譜代家臣は、全員が浜松に於いて拘禁中か、若しくは既に三河へと逃亡していた。
浜松を始めとした徳川家の直轄領、そして彼等三河の徳川譜代が家康の名代として治めて居た空城は、年明けに討伐される城と共に、全て武田家の管理下に置かれて《御料所》(武田家の直轄地)に組み入れる旨も合わせて高札で示されている。
また、去就が定まらぬ遠江の国衆の中には、武田家と徳川家の何方が勝っても家を残す事が適う様に、苦肉の策として一族郎党を態と二分して両陣営に誼を通じる家も存在した。
遠江の国衆達が、自らの家の生き残りを掛けて智慧を絞って決断を下す、其の最後の期限が、此の日…大晦日の12月30日だったのである。
つい10日程前には、徳川家康が寝食を取っていた本丸御殿には、武田家が此の年から新たに設けた政所が臨時に置かれている。
また、本丸内にある屋敷の一角を使って、信玄の仮の隠居所も置かれ、一時的とはいえ武田家の中枢が此の浜松城に集結していた。
政所では、当主の勝頼自身が重臣や奉行衆と共に泊まり込んで、連日政務に励んでいる。
勝頼は、《三方ヶ原の戦い》の顛末を認めた父・信玄と連名の書状を、各地の戦国大名や有力者に送る傍ら、年明けの再出撃迄の短い期間に少しでも遠江の統治を軌道に乗せる為、暇を見つけては政所に詰めていたのだ。
「何?女子がで所領安堵を求めて参っただと?」
右筆が清書した安堵状に目を通して花押を書き加えていた勝頼は、思わず動きを止めて面を上げる。
「御意で御座いまする。三方ヶ原の北側に当たる引佐郡井伊谷の領主が、所領安堵を願い出て参り申した。然れど男の名にも関わらず、参った者が女子なので御座る」
《政所執事》と《両職》(筆頭家老)、そして《奉書奉行》《陣場奉行》迄も一身に兼任している重臣・原隼人允昌胤が、勝頼に対して報告を上げて来た。
昌胤は、今回の戦で次男の宗一郎昌弘を喪っており、息子に先立たれた憂いを断つ為に普段以上に政務に励んでいた。
「而も徳川の安堵状のみ為らず、同じ名義宛の旧主の今川家からの安堵状も携えて居り申した。此れで御座いまする、御改め下され…」
勝頼は、手渡された2通の安堵状を見比べつつ、昌胤に疑問を口に為る。
「昌胤。此方の書付は、誠に今川からの宛行状なのか?所領安堵の期限が近付いて、苦し紛れに偽書を用意致したのでは在るまいか?」
「いえ、つい先日迄徳川に仕えていた小笠原(弾正少輔信興)殿にも確認致し申した。男の名前乍ら、《井伊の女地頭》や《井伊谷の次郎法師》等と呼ばれ、遠江の国衆の間では半ば公然の秘密だそうで御座る。…御屋形様、何の様に取り計らいまするか?」
「ふむ…、確と家督を継いでおる為らば、認めなくては為るまい。然れど、今川の安堵状に比べて、徳川からの分は相当所領が減って居るな…。此れは当人を呼んで、詳しく吟味致した方が善かろう。其の女地頭の話を直に聴く事に致す。一徳斎(軍師の真田弾正忠幸綱)が未だに、徳川方との人質交換の交渉より戻って居らぬ。昌胤、御主が同席致して呉れ!」
「承知仕り申した。直ちに其の様に手配致しまする」
昌胤は勝頼に一礼為ると、繁忙な中で会見の時間を作るべく、政所の配下の者達に矢継ぎ早に指示を出すのだった。
「引佐郡井伊谷の地頭で、井伊家の当主を務めて居りまする、井伊次郎法師直虎と申しまする。大膳大夫様の御尊顔を拝し奉る事が適ったばかりか、申開きの機会迄も賜り、誠に恐悦至極に存じまする…」
日輪が中天に差し掛かった頃、本丸御殿の一角に於いて、勝頼達と件の女地頭…井伊直虎との会見が行われた。
「面を上げよ。儂が勝頼で在る。此度は、所領安堵を願い出る際に添えて出された今川・徳川両家よりの安堵状に付いて、詳しく聞かせて貰う所存だ。左様に心得よ」
「はっ!」
答礼して前を向いた直虎は、既に30歳を過ぎているとは言え、未婚を通した為か実年齢よりも相当に若く見える。
所領安堵を願い出る為に屋敷から纏って来た、冬らしく白と薄い水色を基調とした《小袖姿》には一分の隙も見当たらず、其の凛とした所作は自ら家門を背負っている覚悟を感じさせた。
井伊次郎法師直虎…女で在り乍らも男としての名前を持つ此の人物は、同時代の全ての人と比較しても、劇的と呼ぶに相応しい数奇な半生を送って来た。
直虎は、引佐郡の井伊谷城主である井伊信濃守直盛の1人娘として生まれ、他に兄弟が出来なかった故に、井伊宗家代々の仮名より態と《次郎》という男の名前を命名された。
とはいえ、幼少の頃より父の従兄弟に当たる亀之丞が許婚と定められ、何も無ければ其の侭婿養子を迎え入れ、平穏な人生を送っていただろう。
だが、亀之丞の養子入りを快く思わぬ重臣・小野和泉守道高の讒言に因って、亀之丞の父の彦次郎直満が今川家から自害を命じられた事で、周囲の事態が一変してしまった。
亀之丞は家臣の手引で信濃に亡命して、再び井伊谷に帰還を果す10年余りの間に、別の女性を正妻に迎えてしまっていたのだ。
だが、井伊家には此の時点で他に家督を継ぎ得る男性が居なくなっていた為に、亀之丞は《肥後守直親》と名乗りを改めて直盛の養嗣子とされ、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで戦死した直盛の後を襲って、井伊家の23代当主に就く事に為った。
桶狭間で父を喪い、許婚だった直親を別の女性に奪われて宙に浮いた身の上の次郎法師は、失意の侭に僧籍へと入り《祐圓尼》と名乗ったのだが、再び事態が急変してしまう。
直親が当主に就いて僅か2年後の永禄5年(1562年)12月、井伊家の家老の小野但馬守道好(道高の子)が今川家に対して《直親に叛心有り》と讒訴、直親が弁明の為に駿府へ赴く途上、掛川に於いて上意討ちに遭って落命してしまった。
此の時点で井伊家の血縁の男性は、一族の最長老で祐圓尼の曾祖父に当たる隠居の修理亮直平(井伊家20代当主)、直平の次男で井伊家の菩提寺である《萬松山龍潭寺》の住職・南渓瑞聞、そして直親の忘れ形見で僅か2歳の虎松のみであった。
直平と南渓は今川家から虎松の身を守る為、井伊家の縁戚にあたる新野左馬助親矩に虎松を預け、小野道好や今川家からの追及を躱して匿った。
同時に直平が当主に復帰すると、祐圓尼に《次郎法師》という男性名に名乗らせた上で、直平の《嗣曾孫》として今川家に届け出たのだ。
其の後、翌永禄6年には直平が天野家の八城山攻めで、更に永禄7年には親矩が曳馬城攻めで、夫々(それぞれ)相次いで戦死してしまう。
親矩という庇護者を喪い、母の再嫁先である松下源太郎清景の養子に為っていた虎松に、小野道好や今川家からの追及の手が再び伸びる中、次郎法師と南渓は虎松を一旦出家させた上で、奥三河の古刹である煙厳山鳳来寺に避難させた。
そして次郎法師は還俗為ると《井伊次郎法師直虎》と名乗りを改め、井伊家の当主として擁立された。
彼女は、今川・徳川両家の抗争や武田軍の侵攻の狭間に於いて、家臣達の対立に翻弄され乍らも、井伊家を率いて渡り歩いて来たのである。
「では、御屋形様に代わり此の原隼人允が質疑致す。先ずは、旧主たる今川家から安堵された所領は凡そ2百貫文(約2千石)、然れど、徳川家から安堵されて居ったのは僅か30貫文程だ。此れは如何なる事か?」
昌胤からの質問に、直虎は真直ぐ見返し乍ら澱み無く返答していく。
「其れは、井伊家家臣の小野但馬から、所領の大半を横領された故に御座いまする。幸い、徳川家の御力を借りる形で本貫地たる井伊谷だけは取り戻したものの、残りの所領は一昨年(元亀元年)に小野但馬が徳川家に処刑された折に、其の侭徳川家の所領に組み入れられました」
「成程…、其れと今一つ聞きたい。井伊家と言えば平安の御世より続く《井伊介》の家系と聞く。勿論、今川家臣の頃は多くの寄子を付けられて居った筈だ。其等の者達は、今は何処に居るのだ?」
「…井伊家の寄子だった今川旧臣の内、幾つかは今川・徳川両家に滅ぼされ、残っていた3家も徳川家の直参に取り立てられました」
「…其の旧臣とは、如何なる者達なのだ?」
「はい…、菅沼次郎右衛門尉(忠久)、鈴木平兵衛(重好)、近藤全功(平右衛門康用)・登助(秀用)親子の3家で御座いまする。徳川家では彼等を《井伊谷三人衆》と呼んで居りまする…」
此の後も、直虎が昌胤からの質疑に受け答えしている四半時(此の季節では約25分程)の間、上座の勝頼は黙した侭で、直虎の一挙手一投足を具に観察していた。
直虎の目差し、受け答え、そして仕種等から、彼女の心底を推し量った上で、勝頼自身が考える腹案を実行させるに足る人材かを見極めて居たのだ。
「…成程、相判った。では長く為ったが、此れが最後の問いだ。聞けば井伊殿の血縁の者は、此の十数年の間に尽く亡くなられたと言うが、数百年続く井伊の家を継ぐ者は他に居らぬのか?未だ御屋形様に言上致して居らぬ故に単なる私見だが、幸い井伊家の者の中には、斯波家が遠江を治めていた折に、今川の手から逃れて甲斐に流れて参った者も居る。其の者達の末裔の中から養子を貰っては…」
甲斐には、井伊家の分家で井伊家8代当主泰直の子である上野左衛門次郎直助を祖と為る《渋川井伊家》の者が、遠江守護の斯波家衰亡の際に甲斐に亡命して土着していた。
昌胤は質問に託けて、甲斐に住む井伊の縁者である渋川家の者を送り込む事を提案したのだ。
昌胤としては、甲斐から養子を送り込む事で、井伊家を武田家の支配下に完全に組み入れる腹積りだっだ。
だが、此れに憤った直虎が異議を唱えようと為る前に、其れ迄観察のみで沈黙を保ち続けて居た勝頼が、昌胤に対して突然待ったを掛けて来たのだ。
「待つのだ、昌胤。井伊家を継ぐ者が居らぬと、此方で先に決め付けるのは良くない。先ずは、井伊殿が如何に考えて居るかを聞くのが筋目で在ろう。其の者が後を継ぐに相応しければ、其れに越した事は無いからな」
「はぁ…、確かに其れはそうで御座いまするが…」
困惑の表情を浮かべる昌胤を余所に、勝頼は直虎の方を向き直して淡々と語っていく。
「善いか、井伊殿。若しも其処許に、既に養子が居るならば、其の者が家督を養嗣子と致す事を認めよう。だが、其処許なり其の世継なりが、当家(武田家)に対して仇を成す積り為らば、徳川三州(家康)の下へ走る事を決して邪魔立て致さぬ。徳川の手勢と共に、正々堂々懸かって参るが善い。当家も全力を以て御相手致す所存だ」
勝頼の語り口は、《敵対為れば徳川家諸共に叩き潰す》という明確な意志が込められている中にも、相手を慮って非常に軟らかい。
そして其の目差しは、先の勝利が齎した自信からか、力強い中にも静かさを湛えている。
徳川家の家臣に共通の《先入観》を植え付けられていた直虎は、思わず眼を見開いて勝頼の顔をまじまじと眺めてしまった。
(何と力強い眼をした御方なのだろう…。今迄耳に入っていた風聞と、今見る此の方の印象は随分と違う…。徳川の方々からは『《諏訪の小倅》は父の信玄坊主同様の強欲者だが、其の才は父どころか亡兄義信さえ遠く及ばぬ。謂わば《愚鈍な猪武者》に過ぎぬ』と聞き及んで居たのに…。此の方からは、噂の様な邪気は全く感じられない…)
「…井伊殿、如何致したのだ?具合が悪い為らば、無理を致しては為らぬ…」
思考に没頭していた直虎が、心配した勝頼が呼ぶ声にはっと前を向くと、上座に居る勝頼と真正面から眼が合ってしまった。
年甲斐にも無く、自分の顔が赤く為るのを自覚した虎直は、顔を隠す様に平伏し乍ら勝頼に虎松の事を訴えた。
「も…、申し訳御座いませぬ!決して無理は致しては居りませぬ!…若しも、私の我儘を許して頂ける為らば、井伊家の先代たる肥後守直親の忘れ形見である虎松に、家督を譲る事を御許し下さいませっ!」
「…ふむ、其の虎松の齢は幾つなのだ?」
「はい、当年12歳で御座いまする!」
「為らば、明日には年が明けて齢は13か…。善かろう。虎松を井伊家の養嗣子と致す件は相許す。仕官して参ったら、儂自身が奥近習として取り立てる所存だ。其れと所領の件だが、徳川家が安堵致しておった30貫文を本領として安堵致す」
「はっ、有難き幸せに存じまする。虎松に成り代わり御礼申し上げまする!」
所領は現在の侭とはいえ、許婚だった直親の憤死以来の一族の悲願だった《虎松の仕官と家督襲名》に道筋が見え、直虎は勝頼への感謝を込めて深々と平伏為る。
だが勝頼の発言は其処迄では終わらず、平伏した直虎は再び頭を擡げて勝頼を仰ぎ見る。
「…其れと、井伊殿…いや、直虎に1つ果して貰いたい事が有る。元は井伊の寄子だった菅沼・鈴木・近藤の3家…《井伊谷三人衆》に対して、手入れ(調略)を仕掛けて貰いたい。直虎と井伊主従で、昔の誼を使って3家を徳川から引き剥がして貰う。勿論、相手に握らせる甲州金は、此方で手配致す所存だ。…直虎、出来るか?」
「はっ!井伊家の総力を上げて、3家を武田様の御家に従わせて見せまする!」
即答為る直虎の清々しい迄の所作に、勝頼は満足気の面持で頷く。
「うむ、善い返事だ。…其れと、井伊家が徳川家から召し上げられた旧領170貫文だが、高札に掲げた規定に沿って御料所と致す。但し、御主達が《井伊谷三人衆》の手入れを成し遂げた暁には、徳川から没収した170貫文に加えて《三人衆》の旧領や周辺を含めた御領所の代官職を、井伊家に対して用意致す所存だ。井伊家の再興の為にも、是が非でも励んで呉れよ!」
「…はっ、はいっ!」
勝頼の言葉に一瞬呆然とした直虎だったが、勝頼が代官とはいえ旧領を取り戻す道筋を付けて呉れた、と理解した次の瞬間、まるで花が咲き誇った様な満面の笑みを浮かべる。
「御任せ下さいませ!大膳大夫様の御期待に添うべく、必ずや3家を御当家に…いえ、御屋形様に従わせて見せまする!」
「そうかっ!宜しく頼むぞっ!困った事が有らば、此の昌胤か軍師の一徳斎を尋ねるが善い。昌胤、相済まぬが御料所の代官の手配を頼む。では儂は政所に戻る故に、此れにて失礼致すぞ」
己の考えた腹案に目処が付いた事で、勝頼は後の手筈を昌胤に任せて、溜まった政務を熟すべく政所へと戻っていく。
直虎は、昌胤が部屋に残っている事さえ忘れる程に、勝頼の気配が消え失せる最後の瞬間迄、襖の向こう側を見詰め続けていた。
直虎の心には、許婚の直親が他の女性と結ばれて戻って来た時に封印した筈の感情が、自らも気付かぬ内に目覚め始めていたのだ…。
其の日の深更、激動の元亀3年が過ぎ去ろうと為る頃、浜松城の本丸の一画に設けられた《隠居所》に、10人程の武将が集まっていた。
信玄・勝頼親子と、勝頼を支える宿老や側近達が、行く年を労い来る年を祝うべく、車座に為って細やかな酒宴を開いて居たのだ。
「ほぅ…、其れで勝頼、昌胤、其の井伊の女子は如何なる器量で在ったのだ?儂等にも詳しく聞かせい!」
床の間の水墨画を背にして、ゆっくりと寛ぐ此の部屋の主は、酒の肴にしようと昼の出来事を聞き出そうと為る。
「御隠居様(信玄)の仰有られる通りで御座る!御屋形様、某達にも是非とも御教え下されぃ!」
既に酒が回って明り越しにも赤ら顔が判る秋山伯耆守虎繁が、信玄に追従して勝頼に向かって尋ねて来ると、勝頼は昼間の直虎を思い浮べ乍ら答える。
「ふむ…。気は強そうだが、亡き許婚の忘れ形見を1人で育てておって、女子らしい芯が通った誠実な人となりと見て取った。彼の者為らば、徳川の切り崩しの一角を担わせて善かろうと…」
「御屋形様っ!我等は其の様な事を聞きたいのでは御座らぬ!其の《井伊の女地頭》の事を如何に思し召しか、を聞きたいので御座る!」
勝頼の堅苦しい感想に対して、宿老達の中でも最高齢の馬場美濃守信春が茶々を入れると、隣りに座っている《甲軍の副将》と名高い内藤修理亮昌秀が相槌を打つ。
「左様、美濃殿の申される通りで御座る。其の様な堅い話では《酒の肴》に成りませぬぞ!」
「隼人殿、御主は同席致したので在ろう。《女地頭》殿は如何で御座った?」
もう1人の《両職》で、勝頼を軍政面から支えている山県三郎右兵衛昌景が、同じ職を務める昌胤に対して質問為ると、昌胤は微笑み乍ら答える。
「多少、薹が立っておるとはいえ、実の歳よりは遥かに若く見え、器量も全く申し分無かった。だが、女子の身で家を率いるだけ在って、御屋形様の申される通りに気立ては荒そうだったな…」
「ほう…、其の様な《女地頭》殿を、御屋形様は如何様に従わせて居られたのだ?」
同じく宿老の春日弾正忠虎綱が興味津々に尋ねて来ると、昌胤は口角を上げ乍ら其の様子を説明した。
「取り敢えずは本領安堵のみだが、仕事を成し遂げれば《徳川に奪われた所領の代官に取り立てる》と約束をなされたのだ。其れを聞いてから、井伊殿が御屋形様を見る眼は明らかに変っておった。顔を赤らめて、まるで懸想致しておる様で御座ったぞ」
「ほぅ、其れは其れは羨ましい限りで御座る!儂も是非とも肖りたい物で御座るな!」
「…御屋形様、某に妙案が浮び申したぞ!其の《女地頭》を側室に御迎えに為られては如何で御座ろうか?」
「ぐぶっ…!」
直虎の様子を聞き付けた虎繁が羨ましがる中、勝頼の軍師の真田幸綱が、行き成り勝頼に向かって突拍子も無い提案を為ると、勝頼は口に含んでいた濁酒を思わず吹き出してしまった。
「一徳斎っ!訳の判らぬ事を申すな!儂は、北条との再盟約の際の約定で、北条の姫を娶らねば為らぬのだぞ!其れに、其の様な考えは直虎にも礼を失するでは無いかっ!」
勝頼は吹き出した酒を懐紙で拭き取り乍ら、怒りと呆れを綯い交ぜにした口調で幸綱を咎める。
「焦り過ぎで御座る、父上。余り御屋形様を急かしては為りませぬぞ。今の御屋形様には未だ其の様な余裕は御座いませぬからな!」
宿老達に酌をしていた武藤喜兵衛昌幸も、勝頼を庇う様に父親である幸綱を窘めるが、勝頼には昌幸の発言の裏の意味が判っていた。
「仕方有るまい、昌幸。儂は、今は御屋形の務めを果すので精一杯だ。妻妾を侍らして現を抜かす暇なぞ、未だ作れる訳が無いわ!」
生真面目に勝頼がそう言うと、勝頼を支える立場の者達は無言の侭で、苦笑を浮べ乍ら顔を見合わせるが、上座の信玄の一言で場の雰囲気がまた変ってしまった。
「そうか…。為らば、勝頼の代りに儂が其の《女地頭》を側室に迎えても善いが…って、何じゃ御主等、其の呆れた様な目付きは!」
「父上…」
「御隠居様…、仮にも僧籍に入って御座ろうに…」
療養の為に隠居した後も、新たに侍らせた側室に姫を産ませて未だに意気軒昂な信玄の発言に、居合せた全員が呆れた目付きで見返す。
其の目線は言外に《療養中故に、今少し自重為るべきだろうに…》と語っているのだった。
和やかに進んでいた酒宴も、家督襲名以来自制に努めている勝頼に引っ張られてか、次第に真面目な話題へと話が進んでいく。
話題は何時しか、三方ヶ原の戦いの戦後処理に移っていた。
「一徳斎、徳川との人質交換の交渉は、如何相成って居るのだ?」
「はっ。岡崎の大樹寺の住職である登誉(天室)殿が交渉に訪れ、年を跨いで話を進めて居りまする。今回の戦にて生捕りに致した約4千人の内、殆どは無条件で三河に返しており、足軽組頭以上の者と其の妻子の合わせて5百名程のみを、浜松城下にて蟄居に致して御座る」
「成程…。確かに、4千もの人数を生捕りに致した侭では、食い扶持を考えると勿体無いですからな。御屋形様の命で男女生捕り(人狩り)を禁じた立場上、余計な虜囚は抱えずに解き放つに如くは有りますまい」
勝頼が指示した《足軽以下の捕虜の解放》に虎綱が賛意を示すと、居合わせた宿老達全員が首肯為る。
すると虎繁が、残りの捕虜の扱いについて幸綱に質問して来た。
「一徳斎殿、真逆今残って居る連中迄も、何の代価も無しに解放致す御積りか?其れは余りに勿体無いのでは?」
「いや伯耆(虎繁)殿、無闇矢鱈に解き放つ訳では御座らぬ。先ずは徳川が岡崎に抱えておる人質の内、御当家に従った者達の家族は、全て此方側に引き渡させまする。其の際に、移された人質1人に付き、御当家が預かる虜囚1人を徳川に返す所存で御座る」
「うむぅ…、人質の件は彼方も乗って来よう。然れど、徳川の本城はつい先日迄は此の浜松城だったのだ。遠江や奥三河の国衆からの人質で岡崎に居る者は、此方が抱える5百人より遥かに少なかろう…」
幸綱が示した方針を聞いて、信春が否定的な見解を述べると、昌秀が其の意見に同調為る。
「如何様、美濃殿が申される通りで御座る。真逆残る全員を何の代価も無く返す訳にはいきますまい…」
「勿論で御座る。其れ故に、既に先方から引き渡される人質の名を記した書付を預かった際に、既に残りの虜囚の取扱について、御屋形様から御預り致した三州に宛てた書翰を手渡し申した」
幸綱の返答に諸将が首肯為る中、上座の信玄が顎を擦り乍ら、勝頼に向かって徐に語り掛けて来る。
「勝頼…、此処は残った者共の親族から身の代金を取るか、人買い共に売り払うべきではないか?…御前が生捕りに致した者共を売り払おうと致さぬ事、確かに信義には適うやも知れぬ。だが、其の様な甘い考えのみでは、此の戦国の世を勝ち抜く事は適わぬ。此の乱世を勝ち残るには、時に非情に成る事も肝要なのだ!」
「父上、御待ち下され!再び生捕りを認めてしまっては、身内を売り払われた者共が、武田の領国に組み込まれた時に必ずや抗って参りまするぞ。其の様な事が続き足元を掬われては、武田の天下なぞ望むべくも御座いませぬ!」
信玄の《人身売買の黙認》という提案に対して、勝頼が真っ向から反論為ると、集まった諸将は口を挟めずに困惑してしまう。
「ほう…、言う様に成ったではないか。然すれば、虜囚共を如何に致す所存なのだ?」
信玄の質問に対して、勝頼は言葉を選び乍ら此の場の全員に対して己が考える答えを述べていく。
此の場を使って、宿老達にも改めて自らの方針を徹底為る腹積りなのだ。
「…父上、矢張り虜囚と為った者共を人買いに売ったり、虜囚の身内から金品を巻き上げる様な事は致すべきでは有りませぬ…。堪忍分として碁石金を配って迄も、足軽達の狼藉を戒めている事が無意味に為り、強いては武田家が天下を目指す大義を喪いまする…」
「御主が其処迄申す為らば、其の書付には、交換が適わぬ者達を如何に致す様に認めたのじゃ?」
「はっ、飽く迄も此の虜囚の代価を払わせる積り為らば、親族なぞでは無く主君である徳川家に己が非を認めさせ、詫びと共に《矢銭》(戦時徴収)として贖わせねば意味が有りませぬ。然れど、三州は未だに雪辱復仇の刻を求めており、当家に負けを認める事や矢銭を賄う事を、決して是とは致しますまい。因って、先程一徳斎が申した通りに、先ずは御互いに同人数の人質を交換致しまする。然る後に、残りの虜囚の釈放の条件の1つとして、徳川家に対して或る一団を当方へと引き渡さば、人質同様に同人数の虜囚と交換致す旨を記し申した」
「或る一団とな?勝頼、徳川から誰を引き渡させようというのだ?」
信玄が勿体振る勝頼の物言いに先を急かすと、勝頼は全員を見渡し乍ら力強い口調で或る者の名を発したのだ。
「はっ!現在徳川三州が匿い岡崎に留め置かれている駿遠の旧主、今川上総介(氏真)殿と其の一族郎党で御座る!」
「なっ…!」
「今川殿ですとっ!御屋形様、本気で御座いまするか?」
既に勝頼から書状の内容を知らされていた幸綱を除いて、重臣達は一斉に驚きの声を発したが、信玄は眼で合図を送って勝頼に先を促す。
「はっ。此の今川家の者を引き取る事で、徳川家から駿遠に対する討入の大義を奪う事が適いまする。更には、足利に連なる名家を従える事は、此の武田家が天下を目指す上でも有益に働きまする」
「だが、駿河や遠江の先方衆の中には、旧主である氏真に対して深い遺恨を残した者も居る。其れこそ、先程の井伊の女地頭なぞが善い例では無いか?」
「如何様で御座る。其れに、旧臣の中には今一度今川殿を担いで、挙兵を企む者が出るやも知れませぬぞ!」
勝頼が、今川主従を従えた際の利点を説明為ると、信玄や虎綱が旧敵を懐中に入れる難点を指摘して来た。
其処に、彼等の言う問題点に対して、自らも嘗ての仇敵であった武田家への臣従の道を選んだ幸綱が反論為る。
「確かに其の心配は存在致しまするが、武田家が天下を目指す腹積り為らば、旧敵を従える覚悟と度量が肝要で御座る。其れとも一旦歯向かった者共は、全て一族郎党根絶やしに致す御所存で御座るか?」
「成程…、流浪の身の今川総州を従わせる程度が適わぬ様では、徳川や上杉・織田等の諸候を従わせる事は適わいませぬな…」
「其れに名目のみとは言え、今川殿は北条家の世継で黄梅院様の御嫡男である国王丸(後の氏直)を猶子と致して居り申した。今川殿を御当家が匿う事で、北条家に対してもより有利な立場に成りまするぞ!」
納得の面持ちで首肯為る昌景に、昌胤が同盟相手の北条家への影響も指摘して、他の宿老達が同調為る中、勝頼は信玄に対して今後の方針を説明していく。
「国衆からの人質及び今川主従の引き渡しを条件に、同人数の虜囚を交換致す旨で話を付ける所存で御座る。また、高札の通りに年明けにも遠江の平定を進めて参りまする」
「然れど、徳川は此れを蹴るやも知れぬ。若しも徳川が、人質の交換や氏真の引き渡しを拒んで参ったら如何致すのだ?」
信玄の追及に、勝頼は交渉の成立を自信を込めて断言為る。
「今の侭では、徳川家の足軽達を采配致す者が全く足りませぬ。何より、譜代家臣の家族が多く人質に為った此の状況は、徳川としても一刻でも早く終わらせたい筈で御座る。恐らく三州は早ければ本日、遅くとも2・3日の内に、人質と共に今川殿も引き渡して参りましょう…」
「然らば、徳川から人質や今川殿を受け取って、此度の戦は手仕舞に致すので御座いまするか?」
交渉の成立後の方針について、虎綱が疑問を口に為るが、既に答えに辿り着いた昌幸が勝頼に目配せして補足を始める。
「いえ、何より三州…家康の背中には、織田弾正(信長)の厳しい眼が光って居りまする。恐らくは家康は、虜囚が戻ったと同時に三河の国衆共を召し集いて、間髪を入れずに西遠江…宇津山か井伊谷辺りに攻め寄せて参りましょう。御当家と致しましては、西遠江の平定を急いだ上で、三河より寄せて参った徳川勢を追い払い《大義無く遠江を荒らした徳川の非を鳴らす》と称して其の侭東三河へ付け入る…、といった辺りで御座いまするな、御屋形様?」
「うむ。更に申せば、徳川が再び戦を仕掛けて参らば、天下に対して《徳川征伐》の大義名分を改めて主張出来る。織田家と致しても、四方を敵に囲まれた侭で態々(わざわざ)当家とも戦を仕掛け難い筈。然すれば、5月位迄に徳川家を切り崩して三河を平定致した上で、周囲の大名との《織田包囲網》を完成させ、織田家を出来得る限り疲弊させ、屈伏に追い込む所存だ。…父上、如何で御座いましょう?」
勝頼の話が今後の方針に迄及んで一段落着くと、勝頼は信玄の反応を確かめてみる。
「ふむぅ…、一見善く出来ておる様に感じるが、飽く迄も織田との《仮初の盟約》を御互いに破らぬ事が大前提だ。若しも信長が周囲の大名や公方(足利権大納言義昭)を無視して、此の武田に戦を仕掛けて参らば、如何致す腹積りなのだ?」
信玄が、勝頼の方針の弱点ともいえる部分を指摘すると、勝頼は眉間に皺を寄せ乍ら応える。
「そ…、其れは確かに父上が仰有る通りで御座る。此方側と致しては、飽く迄も鉄砲の増産や包囲網の完成を見定める積りで御座る。然れど、万一戦を仕掛けて参った際には、織田の領国に組み込まれつつある東美濃に対して攻め寄せ、西側の《壁》と成す所存で御座る。そして三河を平定致した後に、本願寺や浅井・朝倉と協調致しつつ美濃や尾張へと攻め寄せる所存で御座る」
「うむ…、為らば織田に余裕を与えぬ為にも、朝倉勢を再び江北(北近江)へ引き摺り出さねば為らぬな。義景の奴には如何に働き掛けるのだ?」
「浅井・朝倉に対しては此方からのみ為らず、京に遣わせておる今福浄閑斎(石見守友清)や浅井の浪人衆に加わっておる右馬助(矢沢綱頼・幸綱の弟)に働き掛けを行わせまする」
「ふむ…、余り刻を費し過ぎては、織田や徳川と盟を交しておる越後の上杉も蠢動致すで在ろうしな。…勝頼、為らば先ずは徳川を捩じ伏せ、然る後に他の大名を従えて織田を打破って、必ずや武田に勝利を齎すのだ!そして御前達には、これからも勝頼を支えて貰わねば為らぬ!宜しく頼むぞ!」
『はっ!』
信玄は、勝頼の方針に一抹の不安を感じ乍らも、己自身を納得させつつ勝頼や宿老達に檄を飛ばして、酒杯に残った濁酒を一気に飲み干す。
勝頼と宿老達は、一斉に頭を下げて答礼し乍ら、此れからも続く武田家の天下取りに向けて、決意を新たに為るのだった。
翌元亀4年(1573年)の最初の黎明を迎え、浜松城には大紋や素襖を纏った武将達が次々と登城して、本丸御殿の評定の間に召集された。
武田に血脈が連なる《御親類衆》や数代に渡って仕える《譜代家老衆》、先代の信玄や先々代の信虎に引き立てられた《足軽大将衆》や外様家臣の《先方衆》等の、錚々たる顔触れが其の序列に従って整然と胡坐で居並ぶ。
更には一昨年(元亀2年・1571年)の末に盟約を復活させた小田原北条家の助勢を率いる大将・北条助五郎氏規(当主氏政の5弟)と、助勢に加わった北条の武将も、武田家の家臣達とは区別され、横の壁際に着座している。
其処に、直垂姿の勝頼と袈裟を羽織った信玄が評定の間に入って来ると、両家の諸将は一斉に平伏為る。
2人は、平伏した侭の武将達を見下ろし乍ら、北条家の武将達の向かい側を通って上座に辿り着くと、正面に安置された武田家伝来の家宝…《天賜の御旗》と《楯無鎧》に一礼してから並んで着座した。
「皆の者、面を上げよ!」
勝頼が徐(おもむろに声を発すると、諸将は一斉に頭を上げて、信玄・勝頼親子を見遣る。
御親類衆や譜代家老衆の中には、穴山左衛門大夫信君・小山田左兵衛尉信茂・木曾左馬頭義昌を中心にして、勝頼が当主として武田家を率いる事に不快の念を抱く者が、少なからず存在していた。
だが、共に居並ぶ信玄の眼を気にして表立っては不満を示してはいない。
勝頼は諸将の顔を見渡し乍ら、慎重な言い回しで語り始めた。
「…皆と共に、新たな年を迎える事を嬉しく思う。当家は、昨年葉月(8月)より遠江を占拠致しておった徳川三州に対して征伐の軍を起し、先月22日に三方ヶ原に於いて徳川勢を打ち破り、浜松城も手中に収めた。当家と致しては、其の際に得た虜囚と先方衆が徳川に捕られた侭の人質を、速やかに交換致す所存だ。…だが、未だに徳川三州は其の矛を収めては居らぬ。其処で、明後日…3日を以て再び征旅の軍を起す!」
『応っ!』
「…善いか、此度は徳川に与した侭の三河の諸城を抜き、強いては徳川三州を屈伏に追い込む所存だ。其の際に万が一、徳川の背後に居る織田弾正が盟を反故に致した場合は、徳川のみ為らず織田の軍勢をも相手取らねば為らぬ。だが武田・北条の両家が手を携えて十全に力を尽くせば、我等の勝利は必定である!」
勝頼は、一旦話を区切ると諸将の面持を見渡して、彼等の反応を確めてみる。
だが、三方ヶ原の大勝に因って《当代最強》と噂される武田軍の実力を見せ付けた為か、多くの者達が勝頼の檄に力強く首肯している。
諸将の士気が未だに高い事に安堵した勝頼は、隣に座る信玄に目礼してから、取敢えずの攻撃目標と軍勢の配置を発表した。
「…だが、徳川のみを各個に捩じ伏せ得る為らば、其れに越した事は無い。其処で、先ずは遠江に残った徳川方の端城を攻略して三河へ雪崩込み、東三河に於ける徳川の要衝…吉田城を攻め落とす!…其の為に、軍勢を3つに分けて夫々(それぞれ)西へと攻め上がる。先ず、土屋豊前には海賊衆を率いて海手側を進んで貰おう!」
「はっ!」
最初に勝頼から命を受けた《武田海賊衆旗頭》土屋豊前守貞綱が、力強い答礼を返す。
「海賊衆は此の数日、御隠居様の命を受けて焼き討ち致して居り申した。改めて西へ駒を進め、渥美郡の西端の岬(伊良湖岬)迄を制して見せまする!」
「うむ、次に浜手側には山県勢を当てる。浜名湖の西側の宇津山城や境目城を抜いて三河へと駒を進め、渥美郡の要である田原城を攻略致せ。昌景、善いな?」
「御意っ!此の昌景率いる《赤備え》、御屋形様の御期待に添うべく、全力を尽くしまする!」
前夜の内に方針を確認済の昌景が、小男乍らも覇気に満ち溢れた答礼を行うと、寄騎に加えられている遠江の先方衆も互いに頷き合う。
「うむ、余の者は山手側だ。儂と共に三ヶ日から宇利峠を越えて設楽郡に入り、徳川方の野田城を先に攻め陥してから、吉田や二連木、牛久保等の諸城を攻略致す所存だ。其れと助勢の北条勢には、父上や奉行衆と共に、浜松の留守居に加わって頂きたい…」
此の発言に、北条勢を弾除け程度にしか考えていない《反勝頼派》は、後方で温存為る積りかと眉を顰めたが、其れ以上に当の北条勢の諸将自身が異議を唱えた。
「大膳殿っ!我等北条家の軍勢は、両家の盟約は勿論で御座るが、大膳殿との友誼に応える為に此処に居るので御座る!」
「左様で御座る!其れに、小田原の黄梅院(氏政の正妻で勝頼の長姉)様より《大膳殿に力添えを致す》様に言われて御座いまする!」
北条家切っての《親勝頼派》である北条新三郎氏信と垪和伊予守氏続が相次いで発言為ると、後を継いで氏規が勝頼に前線への配置を願い出た。
「大膳殿、どうか我等北条勢にも働く場所を与えて下さらぬか。必ずや御役に立って見せまするぞ!」
北条の諸将に懇願されて、勝頼は感謝を口にしつつ配置を転換為る事にした。
「御方々、誠に忝い。其れでは、北条勢には昌景の軍勢と共に浜手側に加わって頂く。宜しく御願い致す」
「承知仕った!」
氏規は満面の笑みを浮かべて答礼し、氏信や氏続も満足の呈で平伏した。
「父上…、我等は明後日の黎明を以て出陣致しまする。我等が奉る《旗印》で遊ばす父上には、是非とも此処に居並ぶ諸将に対して、御言葉を賜りとう御座いまする…」
其れ迄は態と無言の侭に座して、諸将を観察していた信玄は、勝頼から促されて諸将へ向けて話し掛ける。
「うむ…。善いか、此度の戦は単なる徳川との戦では無い!此の戦いが如何に推移致すかを、全国の諸大名達が固唾を飲んで見守って居るのだ!者共、《武田の御屋形》たる勝頼を全霊を以て支えて、必ずや徳川を捩じ伏せよ!そして、天下を安寧に導くべく、上洛への階に足を掛けるのだ!」
長年に渡って諸国に畏れられて来た信玄の口から、明確に《天下への道筋》を示されただけで、聞いた刹那に諸将の興奮は最高潮に達した。
彼等の目差しも、戦場を駆ける刻と同様に、鋭く力強い物に変化為ていく。
『応っ!』
諸将が裂帛の気合が籠った答礼を返す中、勝頼は諸将を自在に操るには、未だ未だ自らが力量不足である事を痛感させられていた。
(何と御見事な檄で在ろう…。只一言、発せられた檄だけで、家臣達の気持を纏め上げて仕舞われるとは…。万が一、父上が御屋形の侭で御隠れに為られ、儂が武王(勝頼の嫡男の太郎信勝)の陣代として後を継いで居れば、殆どの者は儂に従わなかっただろうな…)
自らの天下取りの為とはいえ、己に当主としての力量を磨く機会を与えて呉れた父に、改めて感謝の念を抱きつつ、勝頼は諸将に向けて檄を飛ばした。
「善いかっ!御隠居様(信玄)を旗印に、必ずや徳川三州を叩き伏せる!そして、天下取りへの道筋を我等が切り開くのだ!」
一様に興奮して、更には雄叫びを上げて立ち上がりそうな勢いの諸将の様子に、勝頼は武田家に代々伝わる《誓いの口上》を高らかに唱える。
「御旗、楯無、御照覧在れ!」
『御旗、楯無、御照覧在れ!』
武田家に於いて、此れを唱和した時点からは異議を唱える事が適わぬ口上が唱えられ、集まった諸将は更なる戦いに向けて決意を新たに為ていく。
勝頼は、自らの隣で満足の呈を示す信玄を垣間見乍ら、《武田の天下取り》と《己自身の更なる成長》を誓って、握り拳を固めるのだった。
浜松城での評定の2日後…1月3日の黎明に、遠江に留め置いた留守居を除いた武田軍4万3千は、《徳川征伐》を再開して征旅へと赴いて行く。
軍勢は、一旦本坂道を浜名湖北岸の三ヶ日迄進軍した後に二手に分かれ、先ずは遠江に残った徳川方の諸城の攻略と空城の接収を進める計画であった。
懸案だった徳川家との人質交換も、大急ぎで手筈が調えられて、早くも同じ3日には交換が行われており、同日薄暮には三ヶ日にて引き渡された人質を保護している。
彼等は、浜松城内へと送られた後に、甲斐へと護送されるか浜松の城内に留め置かれる事に為った。
但し、此の後に或る事件が発生した。
浜松への護送中、三ヶ日と気賀の間に跨がる《引佐峠》に於いて、十数人の人質が監視の眼を掻い潜って山中へと逃亡を謀ったのだ。
其の多くは、其の場にて討ち取られたが、猶数人が追討を振り切って逃走に成功していた。
彼等こそは、家康が次なる謀略の為に蒔いた種子だったのだが、今の時点では武田家の諸将の誰もが気にも留めて居なかった。
いや、仮令気付いたとしても、対処為る暇さえ無かった。
此れより前…三方ヶ原の戦いの前に、家康が仕掛けた謀略が漸く実を結ぼうとしており、武田家は戦乱の泥沼に引き摺り込まれようとしていたのだ。
後に《元亀争乱》の最後を飾る事に為る元亀4年(1573年)は、未だに暦の殆どを残している。
血腥い《時代の奔流》は、未だに其の速度を緩める気配さえ見せては居なかった。
今回も、読んで頂いて有り難う御座いました。今回の話で、漸く遠江全域の併合に目処が付き、戦場は西隣の東三河へと移って行くのですが、次回の話で、今まで伏線だった服部保長が動きだして、家康の謀略がいよいよ発動します。此の事で《武田対徳川》の構図に正式に織田家が参戦して、勝頼の計画が齟齬を来たして行く事になります。相変わらずの乱文で更新も遅いのですが、次回も読んで頂ければ幸いです。