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廿陸之余:家康逃走譜~浜松の屈辱~

今回は三方ヶ原に於いて、新当主の武田勝頼が率いる武田軍本隊に惨敗した、徳川家康の三河への逃亡を書いて行きます。相変わらず長文ですが、是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。


 天空は一面が手が届かんばかりに低く垂れ籠めた雪雲の群れに覆われ、僅かに大洋に面した南側のみに有る雲の切れ間から、星空を仰ぎ見る事が出来る。

 鈍色にびいろだった曇天は、東の空では既に闇の暗さを帯び、日輪が既に沈んだ西の雪雲も次第に黒さを増していく。

 其の光景を眺めながら、人々は冬の一日の終わりを感じて、自らの側を暖かな灯火ともしびで照らしていく。

 古来より人は闇を恐れて、炎を灯す事で安全な環境と心の安らぎを獲得して来たのだ。

 

 だが一事が万事、あらゆる物に例外は存在為る。

 戦いに負けて、命冥加に逃げおおせる為に戦場を流離さすらう者に取っては、炎は自らの首を狙う追跡者の証であり、闇こそが自らの生命を守る命綱だった。

 彼等は時折小雪が吹き付ける中、残雪に因って僅かに照らされた原野を、追手に追い着かれぬ様に必死の形相で駆け続ける。

 自ら犠牲と為って主君や仲間を逃がそうと試みる者、己だけでも戦場から逃げ出そうと足掻く者、そしてかつての同輩を売り渡そうと為る者…其の姿勢は様々だ。

 そんな彼等の共通点は、此の日の日中迄は、己が逃げ惑う此の原野を治めていた側の人間であり、此の一戦を以て《支配者》から《敗残の逃亡者》に身を落した、と言う事である。

 足利将軍家に並び称される源氏の名家…新田家の後裔と自称し、自ら源氏の象徴たる総白の幟を掲げる三河遠江の太守・徳川三河侍従家康が率いる軍勢は、此の《三方ヶ原》の原野で春の淡雪の如く散り散りに消え失せた。

 そして、今や対戦相手だった甲斐武田家の大軍勢からの追い討ちや、今日迄支配していた国衆や百姓達が行う落ち武者狩りの眼を逃れて、浜松城が在る南や、徳川の本貫地たる三河国が在る西へ向けて逃げ続けて居たのだ。

 

 時に元亀3年(1572年)12月22日の宵闇の頃の事である。

 

(おのれぇ!勝頼めっ!《諏訪の小倅》の分際が付け上がりよって!…必ずや奴にも恥辱を与えてから、儂自ら手討ちに致して呉れるわ!)

 胸中に渦巻く憤怒に身を焼きながらも、騎乗した家康は周囲に気を払いつつ、己の本城たる浜松城を目指して、残雪の原野を逃げ続けている。

 彼に付き従う家臣は、供回りの島田次郎兵衛重次・日下部兵右衛門定好や、口取りの畔柳助九郎武重を始めとした、常時側に仕える数人の者のみである。

 他の者達とは逃げ続ける中ではぐれてしまっていたのだ。

(兎に角、先ずは浜松城に入らねば元も子も無いわ!追い討ちを懸けられる前に入城致さねば…。其れに致しても、忌々しきは役立たずの助勢の者共よ!必ずや貴奴等の日和見振りを問い質して、織田殿から粛清して貰わねばな!)

 家康は、騎乗の侭に先程の戦いに思いを馳せて、役に立つ処か足を引っ張った織田家からの助勢に、心中で毒突くのだった…。

 

 3年前…永禄12年(1569年)の今川家滅亡時の領地分割の諍いに端を発した、三河徳川家と甲斐武田家の抗争は、此の年7月から遠江に於ける両家間の全面戦争に突入した。

 前年来、武田家が占拠していた三河野田城を徳川勢が奪還したのを契機に、武田軍は翌8月から東遠江に侵攻を開始している。

 10月には武田家新当主・武田大膳大夫勝頼直率の主力が東遠江に、別働隊が奥三河になだれ込み、更には相模小田原の北条家からも助勢3千が東海道を西上して来た。

 家康率いる徳川勢も迎撃を試みるが敗退を重ね、12月19日の二俣城失陥を以て東遠江の全てを喪った。

 

 防戦一方の徳川家は、事実上の盟主である織田弾正大弼信長に対して、《後詰決戦》を挑む為に後巻を幾度も要請している。

 だが、武田家との全面戦争を先延ばしにしたい信長は、督戦を兼ねて佐久間右衛門尉信盛・平手甚左衛門尉汎秀・水野下野守信元を大将と為る3千の助勢のみを送り込んだ。

 家康は信長の対応に激昂したが、表立っては其の決定に従って助勢を受け入れている。

 但し、元《伊賀忍者の上忍》で既に隠居していた服部半三保長(浄閑入道)を三河から召し出し、武田家との戦いに織田家が全面参戦せざるを得ない状況へと追い込む謀略を命じている。

 しかし、其の策略が効を奏する前に、武田軍は二俣城周辺に全軍を集結させて、天龍川を渉って西遠江へ進撃を再開したのだ。

 

 21日夜には秋山伯耆守虎繁・北条助五郎氏規が率いる先発隊8千が渡河して、三方ヶ原の北側の金指の地で夜営、翌22日黎明には主力3万3千が西遠江に乱入した。

 だが、武田軍主力は浜松城を威嚇為る様に接近した後、三方ヶ原を縦断して一路金指へ下る祝田ほうだの坂に向かったのだ。

 普段より《諏訪の小倅》と呼び侮蔑の対象にしていた勝頼からの挑発に嚇怒した家康は、織田の助勢3千を含めた総勢1万1千…浜松城のほぼ全兵力での追撃を決断した。

 祝田坂を下る最中を薄暮を狙って背後から急襲して、激昂した武田軍を浜松城に張り付ける事で、織田の大軍勢の出撃を呼び込もうと企図したのだ。

 だが、武田軍の小山田左兵衛尉信茂の軍勢が徳川勢を無秩序に釣り出し、家康の予定よりも遥かに早い申の上刻(此の季節では午後3時頃)に開戦を迎えてしまった。

 武田軍主力は、坂を下る事無く軍勢の大半を徳川勢から見えない様に隠蔽した上で、油断した徳川勢の眼前に突如として現れると、2万8千の軍勢による《魚鱗陣》へと陣替えして見せた。

 又、勝頼の施策で《堪忍分》と呼ばれる給金で仕官を認められた、今川旧臣や諸国から集った浪人に因って編成された《常備兵》5千が、徳川勢の側面や後方に展開した。

 更には、別働隊8千が戦場と浜松城の中間に位置為る追分の地に布陣、徳川勢の退路を塞いでしまったのだ。 

 対する徳川・織田勢は《鶴翼陣》に組み替え、総懸りで武田軍を祝田坂へ追い落とそうと試みた。

 だが肝心の織田の助勢は、平手勢3百は猪突の末に擂り潰れ、佐久間・水野勢2千7百に至っては激戦の最中に退却を始めてしまったのだ。

 拍車を掛ける様に、徳川家に見切りを付けた遠江の国衆や浪人達が、夫々(それぞれ)の備えから櫛歯が欠けるが如く逃亡してしまい、正に《裏崩れ》の様相を呈し始めた。

 家康は、全軍に浜松迄の《繰り退き》を命じたが、攻め時と見て総攻撃に転じた武田軍の前に目論見は崩れ去り、半ば家臣の大半を置き去りにして戦場を離脱した。

 更には追撃に入った武田軍に追い付かれ、家康は数人の供回りと共に、夜陰に紛れて浜松城を目指す羽目に陥ったのだ…。

 

 身体を刺す様な小雪混じりの北風が吹き付ける宵闇の三方ヶ原の原野を、家康主従は浜松城を目指して遁走を続けている。

 月も東の空から未だに昇っていない為に、既に周囲は闇に包まれて、遠くに垣間見える追い討ちの松明の炎から逃れる様に歩を進めていた。

「重次…、此処は何処の辺りだ?浜松城迄は未だ遠いのか?」

 騎乗している家康が島田重次に質問為ると、重次は朧気ながら把握出来た現在地を伝える。

「はっ!敵勢を避けながら進んで居りまする故、多少遠回りを致しましたが、先程遠くに浜松城の篝火が垣間見え申した。恐らくは城からは1里も離れては居りませぬ…」

「左様か…、先ずは浜松城に入って籠城の支度を整える。籠城さえ致さば未だに十分に勝機は有る。此処は一刻も早く入城せねば…」

 自らに言い聞かせる様に家康がそう呟いていると、浜松城と此の三方ヶ原を隔てている《犀ヶ崖》の方角…南側からも、喚声と鉄砲の銃撃音が小さく聞こえて来た。

「恐らくは、先回りした武田の奴輩と御家中の方々が、戦って居られるので御座いましょう。暫し身を潜めて遣り過ごせる岩陰が此方に御座いまする…」

 そう言った口取りの畔柳武重の案内で、家康主従が僅かな岩場の陰に身を隠して周囲を警戒していると、南側から満身創痍で移動為る一団が近付いて来た。

 本来は使番を務めている重次が名乗り出て、密かに集団に近付いて様子を探ると、次第に夜目が効いてきたのか徳川家の旗指物が垣間見えた。

 其ればかりか、視界の中に浜松城の留守居役を務めて居る筈の、夏目次郎左衛門吉信と己の父親…島田右京亮利秀が入って来たのだ。

 

「…親父殿!重次で御座る!夏目様も態々(わざわざ)の御出馬痛み入りまする!殿(家康)は御無事で御座いまするぞ!」

 安堵した重次が2人に近付いて家康の無事を伝えると、利秀を始め周囲の者達から小さな感嘆の声が上がるが、未だに其の面持ちは暗く沈んでいる。

「おおっ、其れは誠に重畳じゃ…!」

「善くぞ御無事で…!然れど、儂は取り返しの付かぬ失態を致してしまった…!次郎兵衛、相済まぬが儂等を殿の御前に案内して呉れまいか…」

 意気消沈した吉信の様子に言い知れぬ不安を膨らませながらも、重次は家康の元に吉信と利秀を案内したのだった。

 

「何だとっ!御主等、何と申したっ!」

「殿っ!誠に申し訳御座いませぬ!」

「此の吉信、一生の不覚で御座いました!某が預けられし浜松城を、武田の軍勢に奪われ申した!」

「浜松城を奪われただと!吉信っ!利秀っ!御主等は何を致して居ったのだっ!」

 逃げ込むべき浜松城を武田軍に奪われたと聞いて、家康は激昂して平伏為る吉信と利秀、そして留守居の者達を激しくなじると、吉信が家康に対して事情を説明為る。

 

「はっ、留守を守る我等に対して、武田は5千近い軍勢で攻め寄せて参り申した。しかも、武田の軍勢は孫子の旗印を掲げており申した…」

「孫子…《風林火山》の旗だと?」

 吉信が孫子の旗の事を告げた瞬間、家康は思わず顔を引きつらせた。

 孫子の大旗…世に《風林火山》の旗として畏怖を込めて呼ばれる代物で、武田家の新当主の勝頼は本備えに掲げて居なかった旗で在る。

「はっ!某も右京亮(利秀)殿も、互いに大手口迄出向いて確かめ申した。孫子の旗の下には《諏訪法性》の兜を被った恰幅良い武将が采配を揮って居り申した!」

如何様いかさまで御座いまする!彼の見事な采配、此度の寄手の大将は隠居した信玄坊主に間違い御座いませぬ!」

「し…信玄だとっ!併し間者からの報せでは、貴奴は未だに駿河にて北条に睨みを効かせて居る筈だぞ!」

 眼前に突き付けられた現実を必死に否定しようとする家康に対して、吉信が浜松城が奪われる迄の経緯を説明し始めた…。

 

 時を溯る事此の日の夕刻、吉信が三方ヶ原の北側で始まった戦いの行方に気を揉んでいると、大手口に1人の武将が現れた旨の報せを受けた。

 其の武将は、かつて今川家に於いて勇名を馳せた岡部五郎兵衛尉元信だった。

 元信は百人程の己の手勢を残して1人だけ前に進み出ると、弓や鉄砲を警戒しながら城内に呼び掛けて来たのだ。

「浜松城にて籠城しておる方々に物申す!儂は今川旧臣にして今は武田大膳大夫(勝頼)様の禄を頂戴致して居る岡部五郎兵衛也!」

 己の呼び掛けに呼応為るかの様に、門の内側に籠城方が集まったのを見計らって、元信は言葉を選んで相手を挑発し始める。

 

「畏れ多くも、源氏の名門たる新田家の流れを僭称して居る、松平蔵人佐元康…徳川次郎三郎家康の所業、断じて赦し難し!因って、甲斐源氏の嫡流たる武田大膳様が、先程三方ヶ原に於いて家康を成敗致した!」

「黙れっ!此の無礼者がっ!御味方は未だに戦って居られるわっ!」

巫山戯ふざけるな!駿河や遠江を掠め取った貴様等武田の奴輩が言えた義理かっ!」

 激昂した浜松城兵達は口々に元信を罵るが、言われる当人は涼しい顔で挑発を重ねていく。

「武田家と今川家は盟約を交しておったが、同じ大名同士覇を競った結果に過ぎぬ!だが家康は、育てて頂いた大恩在る今川家を裏切り、亡き治部大輔(義元)様の仇敵たる織田家の手先に成り下がったではないか!」

 元信が挑発を重ねるに従って、浜松城の留守居として各所に散っていた武将や足軽達も、報せを聞いて嚇怒しながら集まって来た。

「己を棚に上げて何をかすかっ!没義道ぼぎどうを極めた武田の奴輩に其処迄言われては勘弁為らぬ!」

「殺せ!城内から弓鉄砲を放って、貴奴を討ち取れぃ!」

 激昂した浜松城兵は、大手口の一番外側に当たる木戸の内側から弓や鉄砲を撃ち掛けるが、絶妙な間合いを取った元信には全く当たらない。

 

 日が落ちる薄暮の頃には、吉信や利秀を含む城兵の過半が大手口に集結し、元信の居る場所にも手勢の他にも後方の備えが前進して、合わせて2百程が布陣していた。

 此の騒ぎを聞き付けた多くの城兵達は、城内の本来の配置から大きく動いてしまい、大手口付近に偏在してしまった。

 更には大手口周辺の足軽達の間から『岡部の言う通りに徳川勢は惨敗したらしい』との噂が巻き起こった。

 此の噂は城内に密かに紛れた武田配下の《真田忍び》が流した虚報であったが、元信の自信に溢れた姿は此の報を実しやかに感じさせたのだ。

 城内からの喚声に因って相手方の動揺を確信した元信は、陣の後方から恰幅良い武将…此の軍勢の総大将を案内して、己の脇にしつらえた床几に招き入れる。

 そして、其の武将に黙礼を施してから、改めて、そして最後の呼び掛けを行った。

 

「成程、相判った!家康を盲信致す輩には、何を申しても詮無き事!最早、力を以て判らせる他は無い!此れより此の浜松城は、此処に居はす《従三位権中納言・右近衛権中将》にして武田家御隠居であられる、武田法性院信玄様が貰い受けられる!三方ヶ原に散った者共の後を追いたく無ければ、城の者共は直ちに城を明け渡すが善い!」

 元信の宣言は、只でさえ動揺している大手口周辺の城兵達を、一瞬にして恐慌に陥れる効果が有った。

 其れ程迄に《武田信玄》の武威は諸国に恐れられて居たのだ。

 

「なっ、何だとぉっ!」

「信玄坊主が出張って来ただとっ!そんな馬鹿なっ!」

「岡部の横の座った奴が信玄坊主なのか?」

「隠居した老耄おいぼれが何故に態々(わざわざ)出て来るのだ!」

「皆の者、落ち着けぃ!良く確めよ!彼処あそこの信玄坊主は影武者に相違無い!万が一にも貴奴が本物の信玄坊主為らば、此処で討ち取れば善いだけの事よ!」

 吉信は周囲を鎮静させる為に的確な指示を送ったが、次の瞬間に床几に座した武将が右手に握った軍配を振り上げると、紺色の大旗が薄暮の中で掲げられた。

 同時に篝火が一斉に焚かれ、紺地に金泥で大書された《疾如風徐如林侵掠如火不動如山》の14文字…《孫子の大旗》が鮮やかに照らされる。

 更には信玄の旗印である《赤地に黒の唐花菱三つ》の旗が翻ると、其れを合図として、浜松城の東・南・西の3方向から城を取り囲む様に次々と篝火が焚かれたのだ。

 篝火の下には板垣左京亮信安・長坂筑後守昌国・跡部右衛門尉昌忠・土屋豊前守貞綱等の武将に率いられた軍勢が現れて、大手口の軍勢を合わせると総勢5千程に上ったのだ。

「も、元の持場に戻れっ!大手口以外は殆ど裳抜けの殼じゃ!」

 元信の挑発の意図が《大手口以外の無力化》に在った事に漸く気付いた吉信が、周囲の者達に直ちに移動を命じるが、武田軍が其の様な余裕を与える筈は無かった。

「懸かれっ!」

 床几に座した武将…武田法性院信玄が短く気合を込めて軍配を振り下ろすと、武田軍は鯨波を揚げながら3方向から一斉に攻め懸かる。

 彼等は、勝頼が4万以上の兵力で徳川勢を引き付け、其の動きを封じた間隙を衝いて、信玄が同時に浜松城を奪取為るべく、己の手勢や駿河・東遠江の守備の兵力、そして海賊衆所属の徒士武者や足軽等を抽出して創り出した、謂わば《虚を衝く為の軍勢》であった。

 元々、全軍出撃後の留守居の兵しか残って居なかった上に、其の過半が大手口に集中している状況で、場所に因っては数十倍の武田軍が攻め懸かるのだ。

 武田家に逸早く与した遠江国衆達の先導も相俟って、城門や木戸は瞬く間に突き破られ、城内に侵入した武田軍は怒涛の勢いで城の各所を占領していく。

 吉信や利秀を始めとして、留守居の者達は抵抗らしい抵抗をさせて貰えず、浜松城は《砂上の楼閣》の如く僅か半時(此の季節の夜間の半時は約1時間10分位)足らずで陥落してしまった。

 吉信達は、武田軍が包囲網をわざと開けた北側…犀ヶ崖から、身一つで逃げ出すのが精一杯だったのだ…。

 

「本当に信玄坊主が浜松城を掠め取ったのか?確かに影武者だった為らば、此処迄の駆引きを行う事は出来ぬだろうが、話を聞いても未だに信じられぬ…」

 吉信の発言を否定しようと為る家康だったが、突然脳裏に閃いた考えが武田軍の真の《策略》を手繰り寄せていく。

(…真逆まさか《信玄坊主の隠居》自体が貴奴等の計略の範疇なのか?若しも信玄の出陣が最初から組み込まれた事だった為らば、《諏訪の小倅》が軍勢を率いて此見これみよがしに浜松城の前を進んだ事も、我が軍勢の後背に伏兵を置いて浜松城との繋ぎを断った事も説明が付く…)

 次第に考えが纏まるに連れて、己が信玄と勝頼に嵌められた事を悟ると、家康の心中に激しい憎悪の念が沸々と湧き上がった。

(おのれ巫山戯た真似を…、信玄めっ!勝頼めっ!貴奴等を捕えて打首に致しても飽き足りぬ!必ずや儂自らの手で2人を並べて膾斬りに致して呉れるわ!)

 信玄と勝頼に対して瞋恚しんいを燃やす家康だったが、北側…三方ヶ原から此方に向かって近付いて来る地響きに因って、意識を現実に引き摺り戻された。

 

「と、殿っ!北側から武田の軍勢が迫って参り申した!旗指物は《白地に黒の立花》と《三つ鱗》!戦場と浜松の間を塞いで居った秋山(伯耆守虎繁)の伊奈衆と北条の助勢と思われまする!此の侭では危のう御座いまする!疾く御退き下さいませ!」

 供回りの日下部定好が、焦った面持ちで家康に報告為るが、苛立ちを隠せない家康から怒鳴り返された。

「既に浜松城を喪って、何処に退けと言うのだっ!此の様な仕儀に相成ったのも、留守居の役目を果せなんだ御主等の所為だぞ!」

「御願いが御座いまする!此処は此の吉信に御任せ下されっ!僅か也とも武田の追い討ちを遅らせてみせまする!しからば御免仕りまする!」

 吉信は家康への贖罪の為に、身代りとして此の場所に残る旨を伝えると、家康の返事も聞かずに己の手勢のみを率いて突撃を開始した。

 

 三方ヶ原の北辺の金指に於いて夜を明かした秋山勢5千と北条勢3千は、三方ヶ原を左回りに大きく迂回して、三方ヶ原に展開した徳川勢主力と浜松城を封鎖為る任務を帯びていた。

 そして、信玄率いる軍勢から《浜松城奪取》の報知を受けて、入城為るべく南下して来たのだ。

 そんな秋山・北条勢を食い止めるべく、吉信と夏目勢は小勢ながら果敢にも吶喚する。

「武田の田舎武者共っ!我こそは徳川三河侍従也!腕に覚えが在る者は懸かって参れっ!」

『ぅおおぉっ!』

 だが、身代りを買って出た吉信と徳川勢に取って不幸な事に、北条家からの助勢を率いる大将は、今川家の人質時代には家康と旧知の仲だった人物…北条助五郎氏規だったのだ。

「者共、慌てるな!竹千代殿…徳川三州は其の様な老耄では無い!其奴は単なる身代りよ!手早く槍襖で討ち取って、未だ側に居るで在ろう三州を討ち取るのだ!」

 身代りである事を簡単に見破られた吉信は、北条勢の足軽達が繰り出す槍襖の餌食と為って、全身を長柄鑓に貫かれて絶命した。

 主を喪った夏目勢も、必死の抵抗もむなしく秋山・北条勢に次々と討ち取られていく。

 

(何とっ!彼の声は助五郎殿では無いか!武田家に人質に出されたとは聞いておったが、よもや北条の助勢を率いて参るとは…。だが、儂の顔を存じておる助五郎殿が敵勢に加わって居っては、身代りなぞ全く通用せぬ…!)

「殿っ!夏目殿が僅かでも刻を稼いでおる間に、疾く此処より御退き下されっ!」

 重次から声を掛けられて我に返った家康は、素早く馬に飛び乗ると周囲に集まった家臣達に檄を飛ばす。

「よ、吉信の働きを無駄に致すな!取敢えずは今切へ急いで浜名の西へ移動致す!然る後に、三河から兵を呼び寄せた上で、今一度浜松城を奪い返すぞ!」

『はっ!』

 家康を囲んだ家臣達は一斉に答礼したが、既に気が急いている家康は早くも乗馬に鞭を入れると、西へ向けて駆け出し始めた。

 

(此の様な場所で殺されて堪るかっ!兎に角、三河迄駆け戻って武田の奴輩を再び迎え討つのだ!半三(服部保長)の計略が上手くいけば、此度の助勢共の非を鳴らして、織田殿を後詰に引き摺り出せる!)

 家康が必死に手綱を操りながら、深更の原野を騎馬で駆ける内に、周囲を守る家臣達の数は次々と減っていく。

 口取りの畔柳武重を始めとした徒士の者達は、既に馬の速度に付いていけずに脱落しており、周囲は同じく騎馬で従う数名の供回りのみになっていた。

 浜松城の西側に在る佐鳴湖の北畔へと到着して、湖水で漸く人心地が付いた家康一行だったが、突如として地響きが鳴り響き、翼を休める水鳥達が一斉に飛び立った。

 ビクリとした家康達が背後…北側を垣間見ると、松明に照らされた数千の赤い軍勢が、此方を目指して一斉に駆けて来ていたのだ。

 

「《赤備え》…、山県の軍勢で御座いまする!恐らくは水鳥の羽撃はばたきで気付かれたのでは…」

「いや、恩知らずの百姓共が報せを入れたに違いない…」

 周囲の家臣達が、繋げた己の馬に駆け寄りながら言い争うのを尻目に、家康は《赤い津波》から己だけでも逃れようと単騎の侭で駆け出したのだ。

「とっ、殿っ!御待ち下されっ!」

「御一人では危のう御座いまするぞっ!」

 供回り達の制止を振り切り、家康は必死の形相で鞭を入れて馬を駆り続けた。

(あ…、彼の山県に襲われては殺される!儂は未だ死にとう無い!死にとう無い!死にとう無い…!)

 死への恐怖から、周囲の状況さえも頭から掻き消えてしまい、唯1人と為っても家康は必死に逃げ続ける…。

 

 何時しか、右手には漸く上った下弦の月に水面を照らされた浜名湖が広がり、天空を覆っていた曇天も千切れて、雲の切れ間から星空が見えていた。

 其れでも脇目も振らず、必死に手綱を握って逃げていた家康だったが、また暫く駆け続けて《今切口》の東岸に当たる舞坂(後の舞阪)の地に到着為ると、其処に休止中の一団を発見した。

 武田の軍勢に先を越されたのか、と更なる恐怖に襲われたが、《上り藤に大文字》の旗指物、そして《金の揚羽蝶》の背指物を背負った武将と《浅葱に石餅》の旗指物を見つけて漸く安堵したのだった。

 三方ヶ原から敗走して来た此の集団は、三河の有力氏族で譜代の家臣である《大久保党》の備えであった。

 因に、金の揚羽蝶は《大久保党》の棟梁である七郎右衛門忠世の馬印、浅葱に石餅(薄い水色の地に黒い大きな丸餅)は忠世の次弟である治右衛門忠佐の旗印である。

(因に黒の餅は《こくもち=石持ち》の意味に通じる事から、縁起を担いで石餅と書いた)

 

「おおっ!殿っ!御無事で御座ったか!誠に祝着至極で御座る!」

「彼の戦の中を善くぞ御無事で…、此れで討死致した新蔵(2人の弟の新蔵忠寄)も浮かばれまするっ!ささっ、先ずは此方で暖を御取り下されぃ!」

 主君の無事の到着に喜色満面の大久保兄弟が近付くと、家康は漸く乗り続けていた馬から下りるが、緊張が解けた為に上手く立てず、忠佐に肩を貸して貰いながら歩き始める。

 すると、長時間の酷使に耐えて駆け続けた家康の馬は、家康が下馬した途端に口から泡を吹きながらドォと崩れ倒れてしまった。

「善くぞ此処迄、殿を運んで呉れた。必ずや供養致して進ぜよう…」

 忠世は、力尽きて息絶えた馬に片手拝みをした後に、家康が跨がっていた鞍を外そうと為るが、丁度家康が跨がった箇所から強烈な異臭が漂って来た。

「ややっ、此れは何とした事じゃ!殿の鞍壺に糞が付いて居りまするぞっ!殿は此方へ来る時に糞を垂らされ申したか!」

 忠世がそう驚きの声を発すると、家康ははっとして己の下半身を顧みる。

 逃走の最中の度重なる恐怖、何より武勇に名高い《赤備え》から襲われる恐怖の為に、騎乗した侭で小便はおろか大便迄も漏らして居た。

 しかも余りの緊張と恐怖で、忠世から指摘される迄の間、全く気が付いて居なかったのだ。

 意識したと同時に急に襲って来る強烈な不快感、そして家臣に粗相を指摘された羞恥に、顔を熟柿の如く真っ赤にしながらも、咄嗟に強弁を口に為る。

「なっ…、何を申すかっ!其れは…味噌じゃ!戦に持って行った焼き味噌が間違えて鞍に付いたのじゃ!」

「ふっ…」

 主君と兄の遣り取りを聞いていた忠佐が、余りの可笑しさに蓄えた髭を揺らしながら笑みをこぼす。

「忠佐っ!何が可笑しいのだっ!」

「いえ、申し訳御座いませぬ。然れど兄者、此れだけ元気が残って居られる為らば、一安心で御座いまするな」

「左様!真の恐れを覚えてこそ、一廉の武将で御座るぞ!そして、殿が無事に三河に戻られてこそ、次の戦にも挑めるので御座る!暫し御待ち下され、直ちに厠と新たな下帯(褌)と着物を用意致しまする!」

 大久保兄弟は、家康が元気を取り戻した事を喜びつつも非礼を詫びると、近くの庄屋の屋敷を暫時借り受けて、家康に着替え用に急いで調達した鎧直垂よろいひたたれと下帯を手渡した。

「先ずは御召物を全て捨てられて、此等に御着替えを済まされませ。其れと、殿の鞍や具足は一先ず水で洗ってからひつに入れて持ち帰り、岡崎にて手直し致しましょう。もう使えぬ品は今切を渡る前に捨て、荒井(今の新居)にて替馬を御用意致しまする。其れ迄の間は此処にて暫し御休み下され」

 家康は無言の侭で首肯して、屋敷の中の厠へ向かうと、先ずは汚れてしまった直垂や下帯を脱いでから、改めて用を足し直した。

 そして、既に囲炉裏で沸かした湯を使って、汗や泥、そして糞尿で汚れていた身体を拭き上げると、渡された下帯を身に着けてから、小者を呼び入れて新しい鎧直垂を着直した。

 其等が終わると、家康は屋敷の外で陣頭指揮を取る忠世を呼んで、此の屋敷に絵師を呼ぶ様に告げたのだ。

 

「絵師…で御座るか?浜松から逃れて参った者達の中に、其の様な者が居るか探させまするが、一体何故に…?」

 此の様な負け戦の、其れも逃亡の最中に絵師を呼ぼうと考える家康に対して、忠世は首を捻って疑問を口に為ると、家康は其の理由を掻い摘まんで説明した。

「此の様な…、無様な負け戦を二度と致さぬ様に、自戒の意味を込めて手元に置いて置くのよ。有りの侭の姿を描くには、三河に戻ってからでは遅過ぎるからな。…少しの間、1人にして呉れぬか?」

「成程…、此度を糧と致す為で御座るか…、得心が行き申した。早速捜させて手配致しまする。おいっ!御主等も絵師を捜すのを手伝って呉れ!」

 そう言って忠世は、現在舞坂の地に絵師が居ないか捜す手配を行う為に、再び仮の本陣たる屋敷から出て行く。

 人払いを兼ねて全員が忠世に従って出払うと、緊張が僅かに緩んだ家康に強烈な睡魔が襲い懸かる。

 前日、戦の前の緊張で全く眠れなかった為に、丸2日間起きた侭だった家康は、囲炉裏の横で突っ伏すといびきを掻きながら熟睡してしまった…。

 

 半時余り後に家康が眼を覚ますと、既に忠世が舞坂へ逃れて来た絵師を見つけて、屋敷の外で待機させて居た。

 家康は、直ぐに湯漬けを作らせて急いで掻き込み、絵師を中に呼び入れると、囲炉裏の横にしつらえられた床几に腰掛け、まるで弥勒菩薩像の様な《半跏思惟》に構えて話し掛ける。

「善いか…、見栄え良く描こうと致すな!今の醜い有体ありていの侭に描くのだ。《諏訪の小倅》の挑発に乗り、信玄坊主の策謀に引っ掛かった事を戒める為にな…」

「承知仕りました。子細は大久保様から伺って居りまする故に、御任せ下さいませ」

 絵師は家康に答礼為ると、今切口の横断用の小船が調達出来る迄の時間を使って、一心不乱に筆を進めていく。

 描かれている間、家康の脳裏には昨日の両軍勢の戦振りと、追い討ちを懸けられ続ける恐怖、そして未だ顔を合わせた事が無い筈の勝頼と信玄の高笑いが響き渡っていた。

 

(おのれっ!此の度重なる屈辱、必ずや忘れはせぬぞ!然れど、武田の軍勢の精強成る事は紛れも無い事実。必ずや織田殿の軍勢を引き摺り出して、信玄と勝頼、そして貴奴等に与する者共を根絶やしに致して呉れるわ…)

 家康の瞳には、武田の親子に対する憎悪の念が宿り、焦燥して痩せこけた面持と相俟って、まるで幽鬼の如き鬼気迫る雰囲気を醸し出す。

 そんな家康の全てを、僅かの刻の間に少しでも正確に残そうと、絵師も全身全霊で捧げて描き進めるのだった。

 

 やがて東の雲の切れ間から、紫立った暁の空が垣間見える頃、浜名湖の南東岸…雄踏郷以南の湖畔から徴発した数十艘の漁船いさりぶねの集団が、舞坂と荒井の間に横たわる今切口へと出帆した。

 

 元々、海と浜名湖を隔てていた砂洲さすが、明応7年(1498年)の大地震と其れに伴う津波に因って決壊して開口部が形成され、浜名湖が外海と繋がって潮流が発生、湖口部分は今切いまきれの名で呼ばれる様に成った。

 更に永正7年(1510年)の地震と津波の被害に因って今切の湖口が広がり、潮の干満に因って激しい潮流が起きる様に変化した。

 特に引潮の際には、浜名湖から外海への離岸流が発生しており、水練(水泳)の巧者も流される事がまま有ったのだ。

 してや、冷たい真冬の海で其の様な潮流に逆らって、今切口を泳いで渡るのは事実上不可能であり、縦しんば可能でも大量の溺死者が発生為るのは容易に想像出来た。

 

 其処で、今切口を泳いで渡る事は最初から排除され、出来得る限り船で対岸へ渡す策が実行された。

 今切口の最も狭い部分は僅か数町(1町は約109.1メートル)だが、湖口部の急な潮流を避ける為に、敢えて舞坂から狐島(今の弁天島)の北側を迂回して荒井迄至る27町(約2946メートル)を航路としている。

 更には船の不足分を補う為に、先乗りとして荒井に上陸を果した者達が、直ちに周辺の漁船を徴発為ると、先乗りを降ろして漕ぎ手のみと為った船団の後に続いて行った。

 家康や舞坂迄逃れて来た徳川家の重臣達は、黎明の頃に出帆した第2便で荒井へと渡り、用意された馬に飛び乗ると、確実に安全な東三河の要衝である吉田城を目指して次々と出発していく。

 

 だが、何事も無く対岸へと渡れたのは其の一団迄であった。

 浜名湖の辺りで漁師が使用していた漁船は、一部を除いて多くが《一梃艪》(1梃の艪に漕ぎ手1人)の小型の船であり、具足を全て身に纏った武将だと、精々4~5人しか乗れなく為ってしまう。

 而も《一梃櫓》漁船の速度では、精々舞坂から荒井迄が半時弱、往復の時間に乗降の時間を加えると、短く見積もっても1時は掛かってしまうのだ。

(此の季節では昼の1時は約1時間40分程。因に《一梃櫓》の漁船の平均速度は2~3ノット位…時速4~5キロメートル程である)

 だが、浜松城を占拠して集結を果しつつ在る武田軍が、此の舞坂に到るのは時間の問題であり、次の船団を待って居ては間に合わないかも知れない。

 舞坂に集った徳川勢の間に張り詰めた緊張感が流れる中、遠くの方から百挺以上の一斉射撃の銃声が聞こえた。

 実は、此の砲音は湖を隔てた北側に有る徳川方の堀江城へと、攻め寄せる軍勢が発砲した物だった。

 冷静に聴けば、音の鳴った方角や状況も理解が可能だった筈だ。

 だが、前日の敗北の衝撃と其の後の逃避行の恐怖は、彼等から冷静な判断能力を奪ってしまった。

 彼等は、少しでも早く漁船に乗り込もうと、邪魔に成る刀槍や鉄砲等の武具、逃げる際に持ち込んだ小荷駄や家財道具、挙句の果てには纏った具足迄も全て捨て去り、正に着の身着の侭で岸に近付いて来た船へと群がって行く。

 船の上からは、既に船に乗る事がかなった者が喚きながら、船のへりにしがみつく同輩達を蹴り付け、時には懐の鎧通しで指を斬って強引に引き剥がす。

 船上に居ながら湖面へと引き摺り落とされる者、一縷の望みに賭けて対岸迄泳いで渡ろうとして潮流に飲み込まれる者、均衡が崩れて転覆為る船から投げ出される者…。

 他者を貶めても自らの生命を繋ごうと、多くの者達が必死にもがき続けたのだ。

 

 そして、運良く船に乗り込んだ者達が荒井に向けて去った後には、虚脱感に襲われて抜殻の様に成った無力な群衆が残された。

 彼等は、暫く経過して進軍して来た武田軍に、抵抗らしい抵抗も出来ぬ侭に、虜囚として捕われたのだった。

 後に、彼等は堀江城や三方ヶ原で捕われた者達と共に、徳川・武田両家の間での人質交換の交渉材料とされる事に成る…。

 

 荒井を出立して、東海道を駆け抜けて吉田城に飛び込んだ家康は、東三河に残っている徳川勢に総動員を掛ける命令を出すと、改めて大の字に為ると鼾を掻きながら眠りに着いた。

 荒井からは次々と逃れて来た家臣が到着為るが、矢張り家康同様に城に着いた処で力尽き、昨日の朝以来の緊張の連続から漸く解放されて、次々と泥の様に眠りに落ちていく。

 更には、浜名湖北岸の落ち武者狩りを逃れて、本坂峠を越えて吉田城に至った者達も次々と入城為ると、其処彼処そこかしこで座り込んだ侭で眠りに落ちた。

 だが、吉田城に入城して来る者は2千を越えた頃から段々と減り始め、合わせて3千程到着した処で、帰還を果す人の流れが完全に止まってしまった。

 一晩熟睡して漸く人心地が付いた家康は、吉田城を始め遠江との国境に近い野田城や二連木城、牛久保城等の防備を固める指示を出した。

 そして、此の時点で辿り着いた重臣や旗本達を引き連れて吉田城から出発為ると、24日の薄暮に漸く本貫地である岡崎城へと入城を果したのだった。

 

「一昨日に8千が出陣致して、生きて三河に帰り着いたのは僅か3千か…。他の連中は如何相成って居るのだ?」

 翌25日の深更、岡崎城の本丸に築かれている御殿の、人払いをした居室に於いて、家康は呼び寄せた2人の重臣に質問を打付けていた。

 家康の背後には、一昨日の未明から描き始めて漸く完成したやつれた家康の肖像画が掛軸に付けて飾られていた。

 後世に《徳川家康三方原戦役画像》…通称《しかみ像》と呼ばれる事に成る画像である。

 

「確かに、三方ヶ原や落ち武者狩りで命を落とした者は、恐らく1千は下りますまい。ですが三河に帰還適わぬ者達も、大半は舞坂や堀江にて逃げ遅れて、武田に捕われた物と心得まする」

 《西三河衆旗頭》を務める腹心、石川与七郎数正がそう応じると、もう1人の重臣…家康の義叔父で《東三河衆旗頭》の酒井左衛門尉忠次も、数正の考えに同調為る。

「左様で御座いますな。先ずは、其等の者達を無事に三河に連れ戻す事が肝要。其の為には此方側も抱えて居る《返り忠》の者共の人質を交換の糧にせざるを得ないでしょうな…」

「…口惜しいな。此の期に及んで、背信の者共をはりつけに出来ず、武田の奴輩にむざむざ渡してやらねば為らぬとはな!だが、先ずは虜囚の身をかこつ者達を救い出して、再び麾下に加えなければな!…忠次、数正。誰を行かすが善いか?」

 己自身に不承不承言い聞かせて漸く決断した家康は、忠次と数正に武田家との交渉人を推薦させる。

 奇しくも、2人は全く同じ人物を考えており、代表して数正が進言して来た。

「はっ!此処は、大樹寺の住職の登誉上人に御願いを致すべきかと考えまする」

「如何様で御座る。拙者も与七郎(数正)殿の案が最善かと心得まする」

「ふむ…、登誉上人か…」

 

 成道山松安院大樹寺は、文明7年(1475年)に松平家第4代当主の松平左京亮親忠が戦死者供養の為に、真蓮社勢誉愚底上人を開基として開いた浄土宗の寺院で、三河での浄土宗の中心寺院の1つである。

 後に松平家の菩提寺として、歴代当主の尊崇と後援を受けて大きく発展して来た。

(因に、勢誉愚底は後に浄土宗の総本山・知恩院の第23世住持に就いている)

 

 相模国小田原の出身で、大樹寺の第13世住持に当たる登誉天室上人には、特に家康との深い因縁が存在した。

 永禄3年(1560年)5月19日の《桶狭間の戦い》の折、今川方として戦っていた松平蔵人佐元康は、織田勢から逃れる様に故郷の岡崎へと逃げ戻った。

 そして菩提寺である大樹寺に入ると、松平8代の墓前で自害して果ようとしたのだ。

 其処に登誉天室が現れ、元康を諭して自害を思いとどまらせた。

 更には、織田方の追手から元康の引き渡しを要求されると拒否、僧衆を率いて此れを追い払い、元康主従の生命を救ったのだ。

 其の後、元康は今川家の城代が逃亡して空城と為った岡崎城へと帰還を果し、家康と名を改めて戦国大名としての第一歩を印す事に成った。

 此の時、登誉天室が家康を諭す際に語ったのが《厭離穢土欣求浄土》という言葉であり、深く帰依した家康は登誉に願い出て、白地の旗に此の言葉を墨書して貰い、其れ以来自らの旗印にして居たのだ。

 

「…善かろう。早速大樹寺に遣いを送り、上人には遠江へと出向いて貰おう。其れと、織田の助勢共は昨日の朝には岡崎を出立致して、尾張へ逃げ帰ったらしい…。大六(小栗重国)を再び岐阜に遣わせて、佐久間と水野の怠惰振りを咎める様に申し伝えよっ!」

「はっ!承知致し申した!」

「直ちに遣いを出す支度に取り掛かりまする。では、一先ず失礼仕りまする」

 家康に一礼して、忠次と数正が居室から退出為ると、静かな室内に家康が唯1人のみが残された。

 静寂の中で、家康の脳裏に再び三方ヶ原で武田軍に追い討ちを懸けられた恐怖が蘇る。

 家康は幻影を払い消す様にかぶりを振ると、背後に飾った《顰像》に描かれた己の哀れな姿を仰ぎ見る。

(…此れが、儂の《臥薪嘗胆》だ。此の恥ずべき姿を常に手元に置いて眺める度に、儂を辱めた武田の親子への恨みを新たに為るのだ…。如何なる手を使ってでも、貴奴等を《族滅》に追い込んで呉れる…!)

 其の絵を見ている内に、苛立ちを抑える為に自らの右親指の爪を噛み続けて居た家康は、縁側に控える小姓を呼び寄せると、1人の武将を召し出す様に命じた。

 

「失礼仕りまする。服部半蔵、御召により参上致し申した」

「うむ、大儀であった。…ところで御主の父…半三から報せは届いて居るか?」

 家康からの召集で参上した服部半蔵正成は、主君の密命で動いている父の浄閑入道(半三保長)の消息を聞かれ、申し訳無さそうに平伏為る。

「我が父が、未だに殿の御期待に添えず、誠に申開きも御座いませぬ…。然れど繋ぎの者の報せでは、現在は京と岐阜に於いて噂を広げておる最中で御座る。既に、京や岐阜の町雀の間では噂は確実に拡がりを見せており、大樹様や織田様にも間も無く耳に入る物と心得まする…」

 

 《大樹》とは元々は将軍の唐名であり、大樹寺の寺名も其処から名付けられた。

 此れは、漢の光武帝に仕えた将軍・馮異(字は公孫)が、諸将が勲功と褒賞を論じる際に1人だけ大樹の下に離れて、議論に加わらなかったという故事に因んていた。

 正成が言う《大樹》とは、京の武家御所の主である将軍…征夷大将軍・足利権大納言義昭の事を指し示していたのだ。

 

「左様か…。武田が、再び三河へ攻め寄せる前迄に、策を成就させねばな…」

(…気掛りは《大樹》が其奴を庇うか否か…。元来、性根が座って居らぬ御方だから、自らに危害が及ぶと為れば、後先を顧みる事無く平気で切り捨てるに相違有るまい。後は、織田と武田の軍勢を引き摺り出す手筈を調えねばな…)

 家康は此れから起こるで在ろう事態を冷静に分析して、直ちに次の謀略を推し進める決断を下した。

 

「半蔵、御主の父に命じた策が成就致さば、武田と織田の間でも必ずや戦が始まる。…然すれば、次は、徳川が武田の奴輩を打破る舞台を用意致さねば為らぬ」

 家康は、平伏為る正成に向かって、配下の伊賀者の増員をちらつかせながら《新たな謀略》の為の準備を命じた。

「正成、御主には此れより密かに支度を致して、或る者と繋ぎを取って貰う。此の策は、武田のみ為らず織田からも東三河を掠め取られぬ為に、是が非でも重要だ。但し此れが成就致さば、今以上に伊賀の者達の仕官を認めた上で、御主に采配を委ねる事に致す故に、十二分に励むが善い!」

「ははっ!有難き幸せに存じまする!」

 主君からの配下増員の口上に、喜色満面で平伏した正成の背中を眺めながら、家康は心の中で己自身に言い聞かせる。

(此の戦の屈辱の報いを、必ずや晴らして呉れる!織田の大軍勢を操り《諏訪の小倅》と信玄坊主に連なる者を根絶やしにして呉れようぞ!)

 家康は、脳裏に《風林火山》の大旗が引き倒される様子を鮮やかに写し出しながら、握り拳を固めるのだった。

 

 徳川・織田勢が武田軍に攻め懸かる形と為った此の《三方ヶ原の戦い》は、武田軍の完勝…徳川勢の惨敗という結果で幕を閉じた。

 武田軍は、徳川家首脳部が想定していた数のほぼ倍…信玄が率いた別勢を含めて4万6千という大軍勢を以て、三方ヶ原や浜松城に於いて攻勢を懸けた。

 其の結果、織田勢は敵前逃亡の果てに三河との国境迄追い討ちを食らい、徳川勢は遠江に居た軍勢の大半を喪い、新領国たる遠江国から叩き出されたのだ。

 だが家康に因って蒔かれた新たなる戦いの萌芽は、遠江から遥かに離れた地で人知らず成長して、此の刹那にも人の悪意を糧に蕾を膨らませていた。

 此の蕾が鮮血の華を咲かせる刻こそが、東海道を鉄血の暴風が襲う烽火と成るのだ。

 

 家康が待望為る《其の刻》は、直ぐ其処に迫っていた。


此の家康側から見た逃亡劇を以て、漸く《三方ヶ原の戦い》と附属する《浜松城攻防戦》の全てが終了致しました。勝頼が武田家を4年早く率いて(陣代期間を含む)数多くの改革を行った上で挑んだ徳川との初の全面対決は、武田軍の完勝で終わりました。ですが家康も、己の盟友たる織田信長の大軍勢を参戦させるべく暗躍していきます。次回は三方ヶ原戦後の勝頼達の話になります。相変わらず更新が遅い上に長い文章ですが、次回も読んで頂ければ幸いです。

最後になりましたが、今回の震災に遭われた方々に謹んでお見舞い申し上げます。


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