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廿陸:徳川征伐(玖)~三方ヶ原の徒花~

今回は、勝頼率いる武田家と家康率いる徳川家の《三方ヶ原の戦い》の後編になります。織田家の助勢が退却して、漸く戦の流れが武田軍に傾いていきます。相変わらず長文ですが、是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。

 天空を一面に覆った曇天の下、北の峻嶺を越えた強烈な北風が吹き付け、舞い上げられた粉雪が叩き付けて来る。

 全体を数寸(1寸は約3.03センチメートル)の積雪で雪化粧された原野は、普段為らば獲物を狙う猟師や、周辺に居住為る百姓達しか立ち入らない不毛の地である。

 白と黒、灰色と褐色に染め上げられた筈の冬の原野に於いて、色鮮やかな旌旗が北風に打たれてはためき、温かな鮮血が地面や残雪に深紅の彩りを与えていく。

 此の《三方ヶ原》を舞台に、被我合計して4万以上の大軍勢が、血で血を洗う激戦を繰り広げて居るのだ。

 そして、其の戦いは1つの大きな転換点を迎えようとしていた。

 

 時に元亀3年(1572年)12月22日の日没前(此の季節では午後4時30分頃)の事である。

 

 数年来の戦争状態にあった三河徳川家と甲斐武田家は、徳川三河侍従家康の本城たる遠江浜松城の北側に広がる原野《三方ヶ原》に於いて遂に激突した。

 当初、家康は籠城か出撃かの判断を迷っていたが、度重なる敗北に因る東遠江の失陥、今以上の遠江国衆の離反防止、そして盟主たる織田家からの増援3千を得た事等に因り、《一当てして緒戦を制した後に籠城戦に突入為る》方針を固めていた。

 

 対する武田家の新当主・武田大膳大夫勝頼は、己の麾下の総勢4万1千の軍勢の内、8千の別働隊を編成為ると、三方ヶ原を下りた北側に流れる都田川沿いの金指の地に布陣させた。

 そして自ら主力3万3千の軍勢を率いて天龍川の渡河を果すと、浜松城の家康を挑発為るが如く、一気に城との間合いを詰めた後に突如として軍勢を反転、三方ヶ原を縦断為る形で金指へと北上を開始させた。

 此の敵前に於いて反転した武田軍の動きに因って、家康が万一怯えて出陣を取り止めた場合は、愛想を尽かした家臣団の大量離反が発生し兼ねない状況に追い込まれた。

 更には、此の侭三河や尾張へと侵攻されて領国を一旦でも喪った場合は、仮令たとえ織田の後押しで所領の奪還を果したとしても、名実共に《織田家の被官》化せざるを得なく為って仕舞うのだ。

 足元を見透かした武田軍の動きに激昂した家康は、留守居役の夏目次郎左衛門吉信に浜松城を託すと、助勢を含めた1万1千の軍勢のほぼ全軍を率いて、武田軍主力の追撃を開始した。 

 

 勿論、追撃を決断した家康にも勝算は存在した。

 三方ヶ原から金指へと下る隘路である祝田ほうだの坂に於いて、武田軍が坂を下る最中に坂上に残った殿軍のみを相手取って、撃破の後は素早く浜松城に退いて籠城戦に持ち込む考えだったのだ。

 此の策が成功して暫くの間でも武田軍を引き付ければ、織田弾正大弼信長が直接率いる大軍勢に因る《後詰決戦》に持ち込んで、勝ちを拾う事が十分に可能に成るのだ。

 勿論、相手の総大将が己より若輩で日頃より《諏訪の小倅》と嘲っている武田勝頼であり、失態や過誤に付け込んで勝機を得るのは容易い、と見下していた事も否めない。

 家康の《勝頼に対する侮り》は、度重なる敗北にも関わらず徳川勢全体に蔓延しており、酒井左衛門尉忠次や石川与七郎数正といった一部の重臣達も危惧していた。

 だが、武田家を此れ迄率いて来た、恐るべき《甲斐の虎》武田信玄は公式に家督を譲り渡して第一線を退いており、元々後継者では無かった《諏訪の小倅》が率いても武田の軍勢を十全には動かせない、とまことしやかに信じられて居たのだ。

 

 浜松城を出撃した徳川勢は、武田軍の背後を襲うべく三方ヶ原の原野を北上した。

 家康と諍いを起こした織田の援将・平手甚左衛門尉汎秀の暴発や、武田軍の殿軍である小山田左兵衛尉信茂の印地打ち(投石)等も使った巧みな挑発も相俟って、三方ヶ原を一気に走破した徳川勢は、祝田の坂の手前で往生している武田軍を捕捉した。

 家康は《鶴翼の陣形》に陣替えを行うと、武田軍を祝田の坂に追い落とすべく一斉に攻め懸かったのだ。

 

 しかし、武田軍の一見して無様な動きは、全てが計算された罠だったのだ。

 武田軍は小山田勢以外の3万の軍勢の内、勝頼の直属として仕える《堪忍分(甲州金)支給の常備兵》の軍勢5千を北上中に分離、10個の小勢に分割して夫々(それぞれ)を三方ヶ原の原野に身を潜めさせた。

 更に残り2万5千の半分以上を、徳川勢から死角と為る窪地や丘陵等の北側の陰に《野伏せ》させて、まるで坂を下る最中の様に擬態させていたのだ。

 そして徳川勢が十分に近付いたのを見計らって《野伏せ》を解き、突然の大軍勢の出現に唖然と為る徳川勢の眼前で、重厚な《魚鱗の陣形》に組み替えて見せた。

 同時に、徳川勢が未だに気付いていない、分離していた10組の小勢も、密かに徳川勢の側面や背後に移動を開始為る。

 更には昨日の内に別行動に入っていた8千の軍勢も、三方ヶ原の外周部を丸一日掛けて左回りに進撃為ると、徳川勢と浜松城の間を遮断為るべく動きだす。

 正に幾重にも重ねた罠で、浜松城から誘い出した徳川勢を包囲して居たのだ。

 

 武田軍は此等の軍勢とは別に、指揮系統を異に為る5千の軍勢を浜松城の南側に展開させていた。

 此の軍勢は、駿府城で東方に睨みを効かせていた隠居・武田権中納言晴信…法性院信玄自らが率いて、勝頼の軍勢が徳川勢の大部分を引き付ける間に、裳抜けの殼と成った浜松城を奪取為るべく動いて居たのだ。

 

 眼前での武田軍の《出現》に動きが止まった徳川勢であったが、又しても軽々しく挑発に乗った平手汎秀の猪突に誘発される形で開戦した。

 だが、3百の手勢を率いて暴走する汎秀の動きを奇貨として、武田の魚鱗陣の先端に位置為る小山田信茂勢へ向けて、半分以上の軍勢が攻撃を集中させると、小山田勢はズルズルと1町(約109.1メートル)以上退却してしまう。

 対する武田軍も、小山田勢を支援為るべく、左先備えの宿老・馬場美濃守信春の軍勢、右先備えの両職(筆頭家老)・山県三郎右兵衛尉昌景の《赤備え》勢を投入、両軍勢は正に一進一退の攻防を繰り広げた。

 

 武田軍は、野伏せの影響で身体を過度に冷やした為に、多くの者が初期の《低体温症》を発症して実力通りの力が発揮されて居なかったが、戦いの経過に従い次第に身体が温まり快方へ向かい始めた。

 逆に、倍近い前線の戦力差にも関わらず善戦していた徳川勢には、時間が経つに従ってジワジワと疲労感が押し寄せる。

 此の侭では、手詰りに為って武田軍に蹂躙されると危惧した家康は、未だに参戦して居ない織田の助勢…佐久間右衛門尉信盛と水野下野守信元の軍勢を動かす為に使番を遣わしたのだ。

 

 織田の有力武将である信盛と、家康の母方の伯父である信元は、手勢の大半を本国の尾張や織田の主戦場である摂津・近江に残して来たとはいえ、寄騎の手勢を含めるとなおも2千7百の軍勢を有していた。

 家康は此の軍勢を投入為る事で戦局の打開を謀ると共に、万が一敗北が確定的に為った場合は、織田勢を犠牲にしてでも浜松城へ退却為る腹積りだったのだ。

 だが、織田勢を利用し尽くそうという家康の考えは、逆に徳川勢を利用し尽くそうと考えていた信盛に、既に読まれて居たのだ。

 信盛は、未だに前線で戦闘に参加している平手勢を見捨てて、徳川勢の背後から武田軍の右翼を横切る形で、三方ヶ原の北西側の出口に当たる大谷坂へ向けて退却を始めてしまったのだ…。

 

「佐久間と水野は何を致して居るかっ!儂は武田の両脇…馬場と山県の背後を衝けと申した筈だぞ!其れを…!」

 佐久間・水野勢の不穏な動きに逸早く気付いたのは、攻撃の命を伝えた家康自身であったが、瞬時に己の命令が裏目に出て、徳川勢が見捨てられた事を悟ったのだ。

「守綱っ!政綱っ!直ちに忠次と数正に遣いを致せっ!戦は手仕舞に致して浜松城へ繰り退きの支度に入る様に伝えるのだっ!急げっ!」

「はっ?…ははっ!」

 前線から報告を兼ねて一旦戻っていた、旗本足軽頭の渡辺半蔵守綱と弟の半十郎政綱は、家康の行き成りの方針転換に顔を見合わせたが、青褪めた主君の鬼気迫る面持ちに徒事ただごと為らぬ気配を感じ取って、急いで夫々の乗馬へと駆け出す。

 だが、2人が前線に再び出向いて、忠次と数正に退却命令を伝える迄の僅かな間に、事態は急速に悪化の一途を辿っていたのだ。

 

「申し上げまする!徳川勢の後備えに入っていた織田の助勢、乾(戌亥・北西)の方角へと動き出して居りまする!」

 後に《根洗松》と呼ばれる事に成る松の大木の東側に本陣を構えた武田軍の本備えに、《百足衆》の初鹿野伝右衛門尉昌久が駆け付けて報告をもたらした。

 

 初鹿野昌久は、加藤駿河守信邦の6男で幼名を弥五郎といい、先代の初鹿源五郎忠次が永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死した後に、名跡を継いで姓を《初鹿野》と改めた。

 信玄からの信任も篤く、若くして使番である《百足衆》に抜擢された。

 だが、反骨精神が旺盛な昌久は、自らの活躍を映えさせる目的で、使番の目印である背指物の百足むかでを旗の隅にわざと小さく描いていて、信玄から咎められても規定通りの旗を差さなかった。

 更には『向きを変えるのは手柄を立てた時』という心意気を表す為に、表地には将棋の《香車駒》を、裏地には《成金駒》を意匠にした陣羽織を羽織っていたのだ。

 

 昌久からの報告に因って、本備えに感嘆の声が上がる中、総大将の武田大膳大夫勝頼が深く頷いた。

「大儀であった。…郷左と孫一は、どうやら貴奴等の尻を焚き付けて西側へ退ける事を成し得た様だな」

如何様いかさまで御座る。下手に貴奴が南側へ退いては、再び浜松辺りに敵が集まるのを許す事に成りまする。此れで幾分か浜松へ退く数を減らせたか、と思われまする」

 勝頼の軍師を務める真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)が、勝頼の見立てに同意を示す。

 勝頼は、佐久間・水野勢を大谷坂から三方ヶ原を下る北西方向に誘導させる為に、甘利郷左衛門尉信康・鈴木孫一重秀が率いる《10匁筒》の筒衆(鉄砲隊)を佐久間勢の東側に送り込み、大谷坂へ退却させる事に成功していたのだ。

 

「御屋形様、此処は織田勢を三河へ追い落として、浜松への後顧の憂いを断つが肝要かと心得まする」

 幸綱の進言に首肯した勝頼は、両職(筆頭家老)・政所執事・陣馬奉行を一身に兼任為る重臣である原隼人允昌胤に指示を送る。

「昌胤、本備えの後方に控える信綱と昌輝に命じて、織田の背後から追い討ちを懸けさせよ!但し、三河との国境にあたる本坂峠は決して越えては為らぬ!」

「御意で御座いまする!其れと真田勢と別に待機させておる、小幡親子の5百騎には如何に御命じに為られまするか?」

 

 勝頼は《野伏せ》の際に、其の後の追撃戦に備える為に、小幡尾張守憲重(信竜斎全賢)・上総介信実親子の配下の騎馬5百騎と、真田源太左衛門尉信綱・兵部丞昌輝兄弟の指揮下に編入した5百騎を、夫々(それぞれ)本備えの後方に予め布陣させていたのだ。

 

「うむ…、街道や大谷坂の幅を考えれば、小幡勢も本坂道に投入致すのは拙かろう。此処は今暫く様子を見る。其れとは別に、昌秀と虎綱、其れに信君にも総懸りの下知を伝えよ!本備えも前に動かすぞ!」

『はっ!』

 勝頼からの総攻撃の命令に、本備えの全員が一斉に返礼為る。

 当代最強とも噂される甲斐武田の大軍勢が、いよいよ徳川勢相手に獰猛な迄の実力を見せ付ける刻が訪れたのだ。

 

 開戦から暫くの間、武田軍は魚鱗陣の前方…東側から馬場勢3千・小山田勢3千5百・山県勢5千…の3つの備えのみが戦闘に参加していた。

 しかし、魚鱗陣の後方に布陣して篝火を焚いて暖を取っていた軍勢が命を受けて、満を持して攻撃に加わったのだ。

 馬場勢の更に東側からは内藤修理亮昌秀の軍勢3千5百、山県勢の更に西側からは春日弾正忠虎綱の軍勢3千5百が、両側から徳川勢を押し潰す勢いで攻撃を集中させて来た。

 背後に控えていた織田勢の退却を目の当たりにしていた徳川勢の間に、にわかに動揺が走って浮足立ち始める。

 其の中でも、特に動揺を示したのは、地元の遠江から集められた国衆達であった。

 

 今川旧臣である遠江国衆は、徳川家に鞍替えしてから未だに日が浅かったが、当初は其れなりに優遇されていた。

 だが、2年前(元亀元年・1570年)の所謂《姉川の戦い》に於いて、朝倉家浪人衆の策に嵌って同士討の失態を演じてしまった。

(因に実際に策を遂行して徳川勢を嵌めたのは、当時武田家から派遣されていた武藤喜兵衛昌幸であった)

 其れ以来、遠江国衆は独自の備えを解体させられ、三河譜代の徳川家臣の寄子に組み込まれる形で、各地で徒労の如き戦に駆り出され続けている。

 特に武田軍が遠江に侵攻して、遠江国衆の中から武田家に旗を翻す者が増えるに及んで、其の扱いは益々過酷な物になっていたのだ。

 武田軍の総攻撃、そして織田勢の無断退却という事態を受けて、寄子に組み込まれていた遠江国衆の多くは、己の生命を守る為に徳川勢を見捨てて戦場を離脱し始めた。

 遠江国衆は、寄子としてほぼ全ての三河譜代の家臣に預けられていた為に、離叛の動きは一気に全ての備えへと波及していく。

 其れは《裏崩れ》と呼ばれる最悪の壊走状態を引き起こしたのである…。

 

「なっ、何が起きたのだっ!何故に佐久間と水野は退き陣を始めて居るのだ!」

 徳川勢の最前線に於いて、良い意味でも悪い意味でも軍勢の勢いを創っていた、織田家助勢の大将の1人である平手汎秀は、友軍の突然の退却と武田軍の反転攻勢に付いていけずに慌てふためく。

 一時は全滅を覚悟していた周囲の足軽達も、理不尽な主君に愛想を尽かしたのか、汎秀を見捨てて遠江の国衆と共に逃亡を始めていた。

「貴様等っ!何を勝手に逃げ出そうと致して居るのだ!戻って戦え!戦って華々しく討死致すのだ!俺に続けぇぃ!」

 汎秀は周囲の家臣に喚き散らすと、自らの槍を手に正面の敵陣に突撃を開始為る。

 だが、最早汎秀に付き従う者は殆ど居らず、正面に位置為る小山田左兵衛尉信茂の備えからは、最早用無しとばかりに馬上の汎秀目掛けて一斉射撃が放たれる。

 此処迄徳川勢を釣り出し、結果として危機に陥れた平手汎秀は、全身を鉛玉に貫かれて落馬為る前に生命を絶たれた。

 正に、其れは猪武者然とした汎秀が望んだ人生の終幕であり、織田家譜代たる平手家の嫡流が絶えた瞬間でもあったのだ…。

 

「ええぃ!織田の奴等も、遠州の新参共も、存外役に立たぬわ!」

「堪えろっ!此の切所は三河武士の意地の見せ処ぞ!」

「武田の奴輩に付け込まれるな!連携を保った侭で丘の上迄繰り退き致すのだ!」

 つい先程迄は、武田軍と互角の戦いを続けていた徳川勢だったが、織田勢の退去を契機として、前線の全ての備えに分散して配置されていた遠江の国衆達が櫛歯が欠ける様に逃げ出すと、一気に防戦一方に追い込まれてしまった。

 そんな彼等の動揺を見計らったかの様に、平手勢の壊滅を端緒として武田軍による総攻撃が始まったのだ。

 徳川勢は中核と言える三河譜代の家臣達が御互いに支援しながら、攻め寄せる為に踏み越えた低い丘陵を必死に登って退いていく。

 

 丘の稜線に辿り着くと、合流した忠次と数正は高所から素早く周囲を垣間見て戦況を確認為る。

 北側では、武田軍の本備えや後方からも追加兵力が続々と投入され、丘陵の徳川勢へ追い討ちを掛けて来る。

 南側では、家康の本備えが無事に退却に入ったのを確認して、一先ず胸を撫で下ろした。

 だが、開戦前から徳川勢の後方で《野伏せ》を続けていた武田軍の《常備兵》の小勢が動き出し、家康や自分達の退路を塞ぎ始めていた。

 退き戦の至難さを鑑みていた忠次と数正に、忠次の指揮下で隣りの備えを率いていた中根平左衛門正照と青木又四郎貞治が歩み寄り、自ら殿軍を申し出て来た。

「酒井殿!石川殿!此の侭では武田の奴輩に退路を塞がれ、我等が全滅致すのみ為らず、殿(家康)迄もが討死され兼ねませぬ!此処は我等に殿軍を御命じ下され!」

「腑甲斐無く二俣城を奪われた我等に、汚名返上の機会を御与え下され!」

 彼等は、3日前に天龍川東岸最後の要衝である二俣城を失陥しており、家康に散々に罵倒されていた。

 此れ以上の恥辱を晒さぬ為に、死地を求めるが如く悲壮な覚悟で殿軍を志願為る2人を見て、数正は忠次に無言の侭に首肯為る。

「うむっ!平左衛門、又四郎、御主等の心根、必ずや殿に御伝え為る。此処は任せるぞ!」

「はっ!御任せ在れ!又四郎殿と共に、必ずや武田の足を止めて、御味方が退く刻を稼いでみせまする!」

「酒井殿、石川殿!刹那の刻さえも千鈞よりも重う御座る!是非とも疾く御退き下され!」

「…相判った!武運を祈る!余の者は儂等と共に繰り退き致すぞ!一刻も早く殿を御助けして、浜松城に籠城致すのだっ!」

『ぅおおぉっ!』

 丘陵の尾根付近に集まっていた徳川勢から、己や同輩達を鼓舞為るかの様に気勢が上がる。

 其の様は、武田の大軍勢を眼前に見て前途を憂いて、戦意どころか逃げ続ける気力迄も掻き消えそうな中で、心の埋れ火を強引に焚き付けてる様であった。

 彼等は正照や貞治、そして彼等と共に殿軍を申し出た者達に対して、内心で後ろ暗い感情を抱きながらも、再び浜松城が目指して駆け去って行く。

 

(矢張り儂の見立ては間違うては居らなんだのだ!言わぬ事では有るまい!…とは言え既に《死児の齢を数える》が如し、今更我が方の負けは覆らぬわ!)

 戦の中盤に本備えから助勢に入っていた旗本先手衆の鳥居四郎左衛門忠広は、武田方の猛攻に因って兄の彦右衛門尉元忠とも逸れ、騎馬も喪って手勢と共に逃げ遅れた形に為っていた。

 忠広は、前日に天龍川東岸に布陣していた武田軍の陣所へ物見を行い、彼我の兵力差を考慮して直ちに籠城戦に持ち込むべく進言していたが、同輩達から臆病呼ばわりされた挙句に、家康に因って却下されてしまった。

 謂わば恥を掻かされた忠広は、此の戦いで必要以上に気負い立ってしまい、引き際を逃してしまって居たのだ。

 そんな最前線で徒士の侭で戦う忠広の視界に、2ヶ月余り前の戦場で見掛けた敵将の顔が飛び込んで来た。

 忠広は、既に柄の途中から折れて使い物に為らなくなった己の大身槍を、騎乗して指揮を取る武将に向かって渾身の力で投げ付けるが、気付いた敵将は巧みに馬を操って容易く躱してしまう。

 だが、己に意識を向ける事に成功した忠広は、敵将に堂々たる名乗りを上げた。

 

「徒士の侭で失礼致す!拙者は、三遠の太守たる徳川三河侍従(家康)が家臣、旗本先手衆の鳥居四郎左衛門と申す!先の見附の西(一言坂)の戦に於いても御見掛けして、一廉の御方と御見受け致した!是非とも一騎討ちを所望致す!」

「応っ!それがしは武田大膳(勝頼)が家臣、土屋右衛門!鳥居殿、其の申出はしかと承った!武田武者の一槍を馳走致して呉れようぞ!」

 忠広と正対した譜代家老衆の土屋右衛門尉昌続は、騎馬から降りて愛用の大身槍を受け取ると、忠広に向かって走り出した。

 対する忠広も、足元に転がる既に討死した同輩の屍から、握っていた柄物の菊池槍を拾い上げると、気力を振り絞って突撃為る。

「ぅおりゃぁっ!」

「何のっ!」

 忠広が上段から振り下ろした鋭い薙ぎを愛槍で弾くと、昌続も透かさず攻撃に転じて素早い突きを矢継ぎ早にを放つ。

 だが、忠広も菊池槍で全ての突きを払い除けると、其の勢いを殺さぬ侭に斬り付ける。

 御互いの技量は拮抗しており、周囲の戦闘さえも意識の埒外に置き去って、数十合にも渡って槍を交し続ける。

 だが、何時果てるとも知れない戦いは、突如として終局が訪れた。

 昌続の脛当の部分を薙ごうと、下段に斬り付けた忠広の菊池槍の柄を、昌続が避けた其の足で踏み付けて動きを封じたのだ。

 片刃である菊池槍である故に、刃の部分を避けられては踏み付けた昌続を傷付ける事は出来ない。

「ちぃっ!」

 忠広は使い慣れない菊池槍を手放すと、腰に差した太刀に手を掛ける。

 其の一瞬の間隙を衝いて、昌続は忠広の喉元に向けて、裂帛の気合を込めて渾身の突きを放った。

「哈っ!」

「ぐぁはっ!」

 昌続の穂先は、忠広の襟回と面頬の隙間を押し破り、忠広の喉元に深々と突き刺さった。

 傷口から喉奥に溢れる鮮血は気道を塞ぎ、激痛と共に忠広の意識を漆黒の闇へと落とそうと為る。

「がぁっ!」

 激痛にさいなまれて膝から崩れ落ちながらも、強引に鮮血を吐き出して辛うじて意識を繋いだ忠広であったが、明らかな致命傷を負っていて、武器を手に取るどころか身体に全く力が入らない。

「鳥居殿…、誠に見事な業前で御座った。とは言え、勝敗は時の運故に御覚悟召されよ!」

 そう言いながら近付いて来る昌続に対して、座り込んだ侭で己の徒手を首筋に当てて、声が出ない中でも介錯を望む意志を示す。

 了承した昌続が白刃を抜き放つ音を聞きながら、忠広の脳裏には此の戦場から退いた筈の兄・元忠の事が浮かび上がる。

(…済まぬ、兄者…。…儂の分迄、鳥居の家を栄えさせて呉れ…。そして、殿を…!)

 忠広の意識は、其の刹那に突如として断ち切られ、苦悩と激痛から解き放たれた。

 忠広の首が崩れ落ちる胴体から離れて、雪の上に新たな鮮血を撒き散らす中、二度と用を為す事が無くなった忠広の鼓膜には、昌続の勝名乗りと武田軍の勝鬨が響くのだった。

「武田大膳が家臣、土屋右衛門!鳥居四郎左衛門殿を討ち取ったり!次は三州の首だ!者共、追い討ちじゃぁ!」

『ぅおおぉっ!』

 

 土屋勢の勝鬨から僅かに西側では、徳川勢の最左翼に位置していた本多平八郎忠勝の軍勢と、大須賀五郎左衛門尉康高の軍勢が退却中であった。

 本多勢と大須賀勢は、御互いに支援しながら退却戦を繰り広げていたが、周囲の徳川勢が次々と討ち取られる事で、次第に武田の大軍勢に飲み込まれそうに為っていた。

 

「平八郎!此処は儂が殿軍に入って敵を防ぐ故に、其の間に浜松城迄退くが善い!小平太!御主も大須賀殿の元に走って、平八郎と共に退く様に伝えて呉れっ!」

 本多勢の副将で忠勝の叔父に当たる本多肥後守忠真が、忠勝と大須賀勢から加勢に加わる榊原小平太康政に退却を促す。

 だが、徳川家の若手武将の中でも切っての闘将である2人は、直ちに忠真の意見を退けて自ら殿軍を買って出た。

「嫌で御座るっ!仮令、叔父上の頼みといえども、其の申出は御引き受け出来ませぬ!」

「肥後殿っ!若造扱いは御免蒙りまする!此処は儂と平八が残る故に、肥後殿と舅殿(康高)は疾く殿の御元に駆け付けられませぃ!」

 明らかに血気にはやった忠勝と康政の言動に、忠真は熟柿の如く顔を真っ赤にして怒鳴り付ける。

「此の馬鹿者共がっ!御主等は其の歳に為って、未だに物の順序も判らぬのか!此の侭全員討死致しては、本多家の血筋が絶えてしまうのみ為らず、徳川家も敗亡の危機に陥るのだぞ!其の様な事で、冥府で兄上に何と申開き致す所存だ!」

 忠真から兄…忠勝の父で戦傷が元で若くして亡くなった平八郎忠高の名前が出ると、たちまち忠勝は黙り込んでしまった。

 

「善いか…。此の戦いに敗れたのは、武田勝頼を《諏訪の小倅》と侮って不用意に戦を仕掛けた故、謂わば儂等の浅慮の報いに過ぎぬ。とは言え、御主等の力は必ずや此れからの徳川家に入り用となる。此処は一時の恥を忍んででも生き延びる事を第一に考えよ!」

「…承知仕った!儂は平八を連れて舅殿と合流致しまする!肥後殿、此処は御任せ致し申した!」

「…小平太!貴様、何を申すかっ!」

 忠真の悔悟の念を聞いた康政は、忠勝と撤退為る事に同意為ると、すっかり激昂している忠勝の頬を殴って怒鳴り付けた。

「善いか平八っ!此処で儂等が駄々を捏ねておる間に討ち取られては、肥後殿の思いも全て無駄に為るのだ!貴様は其れでも良いのかっ!」

「小平太…、叔父上…」

 まるで冷水を浴びせられたように眼を見開いて黙り込む忠勝に、忠真は早急な撤退を促し、忠勝の与力で同僚の都築惣左衛門秀綱に忠勝の事を委ねる。

「平八郎、少しの刻さえも惜しい。直ぐに此処を発つのだ!惣左殿、平八郎の事を宜しく御頼み申した!」

「肥後殿、承知致した!者共っ、大須賀勢に合流致すのだ!儂に続けぇ!」

「叔父上っ!浜松城にて御帰りを御待ち致して居りまするぞっ!」

 秀綱の指揮で本多勢は後方へと退却を始め、忠勝も康政に促されて後ろ髪を引かれる思いで退いていく。

 

(此れで善い…、平八郎の寄騎として戦う事が出来て、儂は十分に報われた。後は兄上に冥府で自慢出来る様に、三河の武者振りを武田に見せ付けて呉れるわ!)

 忠勝達を見送りながら感慨に耽った忠真は、気持ちを切り替えて前方に迫った赤一色に揃えた武田の軍勢を睨み据える。

 共に残ったのは、忠真と配下の者数十人のみであり、忠真は自らの左右に旗指物を突き立てると、赤い敵勢を見据えて号令を下す。

「善いかっ!此の旗指物から後ろには絶対に退かぬぞ!目の前に迫るは山県三郎右の《赤備え》!貴奴等を蹴散らして、三河武士の意地を武田大膳に見せ付けるのだ!儂に続けぇぃ!」

『ぅおおぉっ!』

 忠真と運命を共に為る覚悟を固めた配下の者達は、気勢を上げて忠真と共に《赤い津波》の如き山県勢へと駆け出していった。

 

 三河譜代の家臣達が犠牲と為って、逸早く戦場から逃げおおせた家康直率の本備えは、残雪が積もる薄暮の三方ヶ原を浜松城へとひた走っていた。

 既に合戦の最中に、本備えから割く形で多くの助勢を前線に送っていた為に、此の時点での手元に残った兵力は千を割り込む程に減っている。

 併しながら、本備えは他の備えとは違って、武将のみ為らず足軽から中間・小者に至る迄、全員を三河出身者のみで構成していた。

 其の為に、此処迄は叛旗を翻す者を出す事無く、順調に三方ヶ原を南下していた。

 だが前方に於いて、徳川勢とおぼしき5百程の軍勢が、家康達の進路を塞ぐ様に布陣しているのを発見した。

 

「正義、前の方に居るのは何処の手勢ぞ?我が行く手を遮る事罷り為らぬ!直ちに道を開けて戦場に戻る様に伝えて参れっ!」

「御意っ!」

 家康は、旗奉行で使番の1人でもある成瀬藤蔵正義に対して、前方の軍勢を退かすべく使いを命じる。

 正義は主君に一礼して愛馬に跨がると、背中に《伍》と記した旗指物をはためかせて前方の軍勢に近付いて行く。

 

 正義が前方の小勢の前に馬を進めながら垣間見ると、確かに徳川家の旗指物を背負った足軽達が目に入った。

 纏まった人数の味方と出会えた事に安堵した正義は、彼等の前に馬を停止させると、馬上から家康から預かった口上を述べる。

其処許そこもと等は何処の家中の者ぞっ!我等は只今、浜松城に帰還致すべく先を急いでおる!直ちに道を開けるが善い!」

 正義の口上を聞いて、軍勢の侍大将らしい騎馬武者が進み出て来たが、面頬を付けている為に何者かは判らない。

 だが其の騎馬武者の声を聞いた瞬間、正義の背筋には百雷に撃たれた様な衝撃が走り抜けた。

 

「此れは此れは、旗奉行を務めて居られる成瀬藤蔵殿では御座らぬか!御主が使番を務めておる為らば、後ろの軍勢の大将は徳川三河侍従殿で間違い御座らぬな!」

「そ、其の声は…!」

「儂は、徳川三州…家康奴に、つい先月迄誑かされておった、高天神の小笠原与八郎じゃ!今こそ家康に受けた恥辱を雪ぐ刻!邪魔立て致す為らば容赦はせぬぞ!」

 

 面頬の騎馬武者…高天神城主の小笠原与八郎氏助改め弾正少輔信興は、此の9月から武田軍と3ヶ月に渡る籠城戦を繰り広げていたが、家康から後詰を送られる事無く、完全に見捨てられていた。

 其の原因が、家康が小笠原家の祖先が《甲斐源氏》の武田家に連なる事を理由に、氏助(信興の旧名)が裏切ると勝手に疑った為だと聞き及んで、嚇怒した氏助は徳川家との断絶と武田家への帰順を決断していた。

 そして、武田家の新当主である勝頼に目通りした氏助は、武田家の偏諱を受けて《弾正少輔信興》と名を改めると共に、此の戦いに於いて勝頼直属の《常備兵》を率いる10人の侍大将の1人に抜擢され、一時的にとはいえ5百の軍勢の侍大将と成った。

 信興は預けられた徒士武者達に、高天神に残されていた《徳川の旗指物》を背負わせて徳川勢に擬態すると、家康の退路を絶つべく背後に潜み続けて居たのだ。

 

「はぁっ!」

 信興は大身槍を腰溜めに構えると、馬を駆けさせて正義との間合いを一気に詰めて来る。

 正義は太刀を抜き放って騎乗の侭で身構えたが、信興は擦れ違い様に大身槍を己の身体を支点に振り回して、槍の柄で正義の左脇腹の辺りを殴り付けると、正義は肋骨が折れたのか苦痛に顔を歪ませて馬から崩れ落ちる。

「ぐうっ…、まっ、待てっ!」

「藤蔵殿っ!御主は元の同輩のよしみ故に、邪魔立て致さねば命迄は取りはせぬ!儂等が望むは、遠江の者達を誑かした家康の素っ首のみよ!」

 信興は落馬した正義に言い放つと、更に前方に在る徳川の本備えを目指して駆け始め、5百人の配下の軍勢も背負っていた徳川の旗指物を棄てて、信興の後に続いて行く。

(ま、拙いっ!此の侭では殿が討たれてしまう!早く戻って御救い致さねば…)

 乗馬も逃げて1人残された正義が、痛みを堪えながら立ち上がると、周囲には打ち捨てられた数多くの《三葉葵》の旗指物が泥に塗れている。

(何と不吉な…。若しも、儂が四郎左(鳥居忠広)を愚弄致さず籠城に賛意を示しておれば、此の様な様には為らなかったのか…)

 《徳川の没落》を想起させる其の光景が、まるで己が招いた様に感じた正義は、脳裏から打ち消すべく頭を振りかぶると、主君を無事に逃がす為に信興達の後を追って走り出すのだった。

 

 薄暮に始まった徳川勢本備えと小笠原勢の激突は、兵力は若干劣る小笠原勢が、大将の信興の執念に後押しされる形で互角の戦いを演じた。

 だが徳川勢本備えの左翼から、主戦場を東側へ迂回して来た馬場信春の軍勢が襲い懸かると、一気に形勢は武田方へと傾いた。

 戦場に戻った成瀬正義を始めとして、多くの者達が主君を逃がす為に討死した代償に、家康は島田重次・日下部定好・畔柳武重を含めた数名の家臣のみに守られ、夜陰に紛れて戦場から脱出したのだった…。

 

 曇天ながらも急速に闇を深くしていく空は、既に薄暮を過ぎて夜を迎えようとしている事を、全ての人々に判らせて呉れる。

 武田軍は、全軍に予め用意させていた松明たいまつを焚かせて、皓々と辺り一帯を照らし出した。

 既に戦況は追撃戦へと移っており、後備えとして布陣していた穴山左衛門大夫信君の軍勢や、小幡親子率いる騎馬のみの備え、そして徳川勢の背後を遮断していた《常備兵》達も、逃げる徳川勢の追撃や三方ヶ原周辺に残る徳川方の城砦の攻略に参加していた。

 織田勢の撤退・追撃に因って、後顧の憂いが無くなった勝頼直率の本備えからも多くの兵力が抽出され、開戦前の1万の兵力は既に2千を僅かに越す程度に減じていた。

 勝頼は、父・信玄が同時進行で進めている浜松城攻略を支援為るべく、浜松への街道が走る追分へと南下を開始した。

 既に生き延びた徳川勢の殆どは、浜松城や浜名湖の海への出口である今切を目指して逃走中であり、燈火さえ有れば夜間行軍も問題無い、と勝頼が判断したのだ。

 だが其の油断を掻い潜って、決死の覚悟で勝頼の生命を狙う者達が存在していた。

 

「来たぞっ!白黒の大文字が2旒…、間違え無い!勝頼じゃ!」

 残雪と徳川勢の屍の陰に隠れて様子を探っていた岩室勘右衛門(加藤弥三郎)が、素早く潜んで居る窪地に移動して同輩達に声を掛ける。

 すると、此の集団の事実上の頭目である山口飛騨守が、僅かに震えながら改めて全員を見渡す。

「遂に動き始めたかっ!御主等っ、覚悟は出来てるだろうなっ!」

「応っ!我等は桶狭間の折に最初に殿(信長)に従って、最後には今川義元の首を取ったのだ!此度も其の再現と行こうでは無いか!」

 飛騨守に長谷川橋介が不安を打ち消す様に威勢善く応える中、唯1人達観していた佐脇藤八郎良之は、自らの素槍を握り締めながら、静かに最後の瞬間を待ち構えていた。

 

 佐脇良之・山口飛騨守・長谷川橋介・岩室勘右衛門の4名は、かつては織田家の家臣であった。

 永禄3年(1560年)、信長の小姓を務めていた際には、同輩の岩室長門守重休と共に信長に従い熱田宮へ出陣、桶狭間の勝利を齎す切っ掛けと成った。

 其の後は、揃って《赤母衣衆》や《尺限廻番衆》等を歴任していたが、信長の勘気を蒙り逐電の後、浜松に逃れて家康から捨て扶持を貰いながら、雌伏の刻を耐えて居たのだ。

 

 彼等は今回の武田軍の来襲に際して、偶々(たまたま)浜松に来て巻き込まれた具足匠の玉越三十郎と共に、大須賀康高の軍勢に陣借り為る形で、三方ヶ原へ出陣していた。

 だが徳川勢は敗北を喫してしまうと、大須賀勢は彼等を半ば見捨てる形で退却してしまった。

 とはいえ、一度信長の勘気を蒙った彼等が織田家に帰参を果すには、最早敵の総大将である勝頼の首を討ち取る事で、徳川勢に逆転勝利を齎す以外には有り得ない。

 其処で、既に雪の原野に屍を晒す徳川勢に紛れて、武田軍の本備えの動きを探って、側を通るのを待ち構えて居たのだ…。

 

「では参るぞ。一度でも動きを止めれば、数にまさる武田の奴輩に討ち取られる。《諏訪の小倅》を討ち取る迄、決して動きを止めるな!」

 飛騨守が小声で檄を飛ばすと、橋介と勘右衛門、そして三十郎は無言の侭に首肯為る。

「…藤八、如何致したのだ?御主の槍の業前が頼りなのだぞ。行けるか?」

 唯1人瞑黙して首肯しなかった良之を見て、飛騨守は心配して話し掛けて来る。

 《槍の又左》こと前田又左衛門利家を実兄に持ち、自らも槍の手練てだれである良之が居なければ、彼等の只でさえ極小さい勝算が無に等しく為るのだ。

「…大事無い。何時でも行ける」

「…よし!為らば、此れより無言の侭で今少し近付いてから、一気に斬り込むぞ!」

 良之の反応に頷いた飛騨守は、そう言うと他の4人を促して、不用心に側を通過した武田軍の本備えを追い掛けるのだった。

 

 其の瞬間、決死の覚悟の良之達に運気が味方したのか、逃げ遅れた徳川勢の残徒が正反対の方向…南側から襲い懸かったのだ。

「うっ、討ち入りで御座いまする!数は不明為れど、正面から攻め懸かって参り申した!御屋形様っ、危のう御座いまする!」

 本備えが襲撃を受けると、経験が浅い奥近習達の間に一気に緊張が走ったが、愛馬に跨がって采配を揮う勝頼は冷静に受け止める。

「此処は戦場で今は戦の最中、危ないのは当り前だ。先ずは敵を包み込んで、動きを封じるのだ!」

『はっ!』

 勝頼に応じて、数多くの武将が迎撃に向かう為に前方へと移動を始める。

「御屋形様の御手を煩わせるな!槍襖を組んで賊を奥に通すな!」

 陣馬奉行の昌胤を始め、多くの武将が前方での指揮の為に移動してしまい、勝頼の周囲には軍師の幸綱と《御旗奉行》の岩手右衛門尉信景、そして奥近習頭の土屋惣三昌恒を始めとした十数名の奥近習と手明や中間・小者のみとなったしまった。

 其の一瞬の間隙を衝き、良之達は本備えの足軽達の間を縫って、何の抵抗も無く勝頼達の背後に辿り着いたのだ。

 

「むっ!皆の者っ、後ろからも来たぞっ!気を付けよ!」

 5人の襲撃者に逸早く気付いたのは、標的たる勝頼自身であった。

「此は正に天からの采配也!武田勝頼っ、御命頂戴仕る!」

「御屋形様を御守り致せっ!身命を賭しても此処を防ぐのじゃ!」

 5人は一斉に勝頼目掛けて駆け寄ろうと為るが、幸綱や信景、奥近習達が勝頼との間に割り込んで、僅かな間では在るが防ぎ止めた。

 其処に、開戦直前に本備えに合流していた武藤喜兵衛昌幸(幸綱3男)と、《御槍奉行》の加津野市右衛門尉信昌(幸綱4男)・今福新左衛門尉昌常(今福浄閑斎3男)の両名が配下の長柄足軽達を引き連れて駆け付ける。

「御屋形様っ!父上っ!無事で御座るかっ!」

「此の推参者共がっ!其の無礼な振る舞い、命を以て償って貰おうか!」

 昌幸達が穂先を揃えて襲い懸かり、俄かに乱戦に突入した瞬間、良之は奥で下馬している最中の勝頼へ目掛けて一直線に走り込んだ。

 

「武田大膳っ!貴殿には恨みは無いが、ともがらの為に御命を頂戴仕る!」

 勝頼は、自らの柄物である大身槍を未だに受け取って居らず、素槍の良之相手に対して、腰に佩いた太刀を抜き放って応戦為る。

「おっ、御屋形様っ!」

「惣三!儂は大事無い!御主こそ儂に気を取られて不覚を取るで無いぞ!」

 自らも勘右衛門を相手取っている最中の昌恒が、思わず駆け寄ろうと為るが、勝頼は逆に昌恒に眼前の敵に集中為る様に諭した。

「吐かせっ!はあぁっ!」

 2人の遣り取りを聞いていた良之は、裂帛の気合を込めると、常人為らば躱す事が難しい程の鋭い突きを連続して繰り出した。

 だが、勝頼は太刀を捌く様に使って全て受け流し、心中で自らの腕が鈍っていない事を確信為る。

(よしっ!此の者の槍捌きが上手く見切れた!暇を作っては《槍弾正》(保科弾正忠正俊)に教えを請うた甲斐が在ったな!)

「おのれ猪口才なっ!為らば此れでどうだっ!」

 良之は、素槍を振るって様々な角度から斬り付けるが、突きの時同様に太刀を使って受け流される。

 更には、逆に勝頼の方から太刀で連続突きを繰り出して、良之に防戦を強いて来た。

「ちぃっ!」

 業を煮やした良之が、突きを入れて来る勝頼の太刀の練革鐔ねりかわつばの辺りを目掛けて、素槍を下から跳ね上げると、太刀は勝頼の右手から弾かれて高く舞い上がった。

(よしっ!貰った!)

 勝利を確信した良之は、立った侭の勝頼の喉元目掛けて素槍を突き入れる。

 だが、勝頼は良之の穂先を紙一重で左側に躱すと、何と空いた右手で良之の素槍の柄を握って、自らの方へ向けて右腕1本で引っ張ったのだ。

「なっ…!」

 元々体格に恵まれた勝頼の肉体から生まれた強靱な膂力は、槍を突き入れた直後に動きが一瞬停止した、良之の身体の均衡を崩すに十分足る物であった。

 更に勝頼は、引っ張られて前のめりに傾いた良之の股間に、自らの左腕を差し込むと、素槍を手放した右腕で良之の肩を担ぎ上げ、良之の身体に残った勢いを利用しながら一気に持ち上げてしまった。

「ぬうぅっ!」

 勝頼の膂力に因って宙に浮かされた良之は、身を捩って逃れようと試みる。

 しかし勝頼は、持ち上げる勢いを止めずに高跳びの要領で自らも飛び上がると、良之を両腕と右膝で仰向けに固定して、地面に積もる残雪の上に背中から叩き付けたのだ。

「ぐぁはっ!」

 肩と腰を両腕で抱え込まれて受け身が取れぬ侭、腹の上に入れられた右膝から《紅糸威最上胴丸》を纏った勝頼の全体重を叩き込まれて、腹巻(鎧の一種)越しに胃の辺りへと衝撃が突き抜ける。

 腹巻が蜘蛛の巣状にひび割れ、大きくへこむ程の衝撃を食らい、何をされたのか判らぬ侭の良之の意識は、込み上げた胃の中身を口から垂れ流しながら、激痛に苛まれて急速に暗闇へと落ちて行く。

(なっ…、何が起きたのだ…?一瞬前迄は勝って居った筈だ…!其れが何故に…)

 気絶した良之の横では、勝頼が全身から冷汗が噴き出すのを感じていた。

(…誠に危なかった…。咄嗟に身体が動いたから良かったが、一歩間違えてれば、儂の方が屍を晒しておる処であったわ…)

 気を取り直した勝頼は再び立ち上がると、周囲の奥近習達に気絶した良之を手当てさせる旨を命じた。

「此の者は未だ息が有る故、金瘡医を呼んで手当てを致せ。回復致してから、此の者の処遇は考える」

「はっ!」

 勝頼は平静を装いながら、良之と共に襲って来た者達を垣間見るが、短い死闘は既に終幕を迎えていた。

 

 長谷川橋介は、今福昌常率いる足軽達からの槍襖に因って、既に討ち取られていた。

 同じく岩室勘右衛門は土屋昌恒と一騎討ちを演じ、弱年ながらも勝頼に勝るとも劣らない昌恒の膂力に捩じ伏せられて首を落とされた。

 山口飛騨守は、2人の同輩が斃れた様子を見ると、最初の威勢は彼方へと消え失せて、未だに生きている良之と玉越三十郎を見捨てて逃走を謀ったが、追い付いた加津野信昌に因って討ち取られた。

 そして玉越三十郎は、武藤昌幸からあしらわれた後、飛騨守の討死を知らされて、昌幸からの降伏の勧告を漸く受け入れたのだった。

 

「御屋形様っ!御自ら太刀を取って戦われるとは、如何なる御料簡で御座るかっ!万が一、御身に何かしら有ってからでは遅いのですぞ!」

 襲撃後、生き残った良之と三十郎に治療を施した上で捕縛し、再行軍の準備に入った武田軍本備えでは、勝頼が直接戦闘に参加した事を、軍師として勝頼を支える幸綱が諫めていた。

「心配を掛けた事は相済まぬが、の場合は致し方有るまい。向こうの方から襲って参ったのだからな」

「そうで御座いまするぞ、父上。仮令、御屋形様が近頃槍働きが出来ない事が不満で、此度の賊の襲撃が半ば望む処だったとしても、此方が呼んだ訳では有りますまい」

 勝頼は幸綱に弁解為るが、横に立つ昌幸が助け船の振りをして混ぜっ返す。

「昌幸、御主は一体何方の味方だ。主君の危難を助けぬとは…」

「此れは御屋形様、申し訳御座いませぬ。然れど父上。《川中島の戦》の如く本陣に斬り込まれたのは、拙者も含めた本備えの者が怠慢だった故。此の点は一同、反省致さねば為りますまい。特に《真田忍び》を采配して居った、我等親子の責任は重大で御座る」

「うむっ…、其れは其の通りだが…」

 昌幸の発言を聞いて、幸綱の舌鋒は急に鋭さを失い、前方の徳川の兵にのみ気を取られていた他の者達も押しべて沈黙してしまった。

「…皆の者、心労を掛けて相済まぬ。既に勝ちを収めたという驕りが、儂を含めた全員に有ったのだな。…此度の件は儂の責任故に、此処に居る全員を不問に付す。改めて周囲への警戒を密に致せ。其れと小荷駄奉行の(甘利)信康に対して、小荷駄を狙って襲われぬ様に本備えとの合流致せ、と申し伝えよ」

『ははっ!』

 勝頼が自ら反省して諸将に責任を取らせなかった事で、本備えのほぼ全員が一斉に答礼した後、己の任務に赴きながら勝頼の《主君としての成長》を喜んでいた。

 

 そんな中、勝頼は自ら昌幸に近付くと、隣りの幸綱にしか聞こえぬ位の声で耳打ち為る。

「其れと昌幸、余りあるじを試す真似は止せ。御主の事だから、儂が家臣を責めたら罵倒致す腹積りだったのだろう?」

「なっ…!昌幸、其れは真かっ!」

「…流石さすがは御屋形様、拙者の考えが善く判りましたな。では、先程の言は詭弁を弄したので御座るか?」

 思考を読まれた昌幸は悪びれる事無く、まるで主君を値踏み為る様な視線を投げて来る。

「…いや、彼の言は儂の本心だ。攻め寄せられたは儂の責に相違有るまい。とはいえ、逃げ出す事無く此処に斬り込んで参った者共も誠に見事。命を取り留めた為らば、当家(武田家)に仕える様に薦めたい位よ!」

 襲撃者を家臣に加えたいという勝頼の希望を聞いた昌幸と幸綱は、御互いに顔を見合わせながら、今一つ甘さが残る主君に肩を竦めるのだった。

 

 三方ヶ原を舞台に繰り広げられた戦いは、徳川・織田勢は一矢報いたとはいえ、全体としては武田軍の完勝で終結した。

 だが三方ヶ原を含めた西遠江全体に眼を向ければ、武田軍や遠江国衆に因る《落ち武者狩り》が始まっており、浜松城周辺では未だに両軍勢の戦闘が継続している。

 何より、徳川家の当主で一方の大将である徳川家康は、三方ヶ原の原野に於いて必死の逃亡を続けていた。

 此の戦いに関わった多くの者達に取って、長い一日は未だに終わる気配を見せてはいないのだ。


此の話で、一応《三方ヶ原》での戦いに幕が降りました。史実の三方ヶ原の戦いでは、数多くの徳川方の武将が討死しました。仮想戦記である此の話でも、史実同様に多くの武将が討死するのですが、ついつい負ける側の徳川勢が話の中心に来てしまいました。ですが、家康の危機は未だに去ってはいませんし、奥の手として蠢動する信玄も未だに出て来ていません。次回は、三方ヶ原の余談…信玄による浜松城攻略戦と、三方ヶ原から逃れた家康の逃亡の話になります。長くて乱文な上に相変わらず次話更新が遅いですが、是非次回も読んで頂ければ幸いです。有難う御座いました。

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