廿伍:徳川征伐(捌)~激闘の三方ヶ原~
今回の話は前話で始まった三方ヶ原の戦いの話の中編に当たります。自ら中心になって4年間改革を続けた勝頼と、隠居で自由な采配を手に入れた信玄に因って、徳川勢を翻弄していきます。今回も長文ですが、最後まで読んで頂ければ嬉しく思います。
空一面に広がる曇天の僅かな切れ間から、冬の午後特有の低く淡い陽光が差し込んで、普段より穏やかな海面を照らしている。
波打ち際には、灰白色の冬羽を纏った数千羽の浜鷸の群れが旅立つ時に備えて羽根を休めていた。
そんな冬の物静かな海岸に、突如として喧騒が走り、驚いた浜鷸達が一斉に飛び立って行く。
西の方から、大小色とりどりの船の一団が沖合へと現れ、其の中の多くの小船が砂浜へと押し寄せた。
波打ち際に飛び降りた男達が次々と浜へと駆け上って、海辺と北に聳える砂の山との間に集まると、誇らしげに《赤地に黒の唐花菱三つ》の旗印、そして《紺地に金箔押し》で孫子の一節を記した大旗を翻した。
《疾如風徐如林侵掠如火不動如山》
其の14文字の漢語こそは、諸国に畏れと敬意を以て語られる《風林火山》の大旗…甲斐源氏の棟梁たる武田家の旗だったのだ。
時に元亀3年(1572年)12月22日の申の正刻(此の季節では午後3時頃)の事である。
《神が住まう湖》と讃えられる諏訪湖に源を発し、其の奔流故に《暴れ天龍》と恐れられる扶桑有数の大河・天龍川は、南信濃・遠江と駆け抜けて大海原と交わる河口付近に於いても、有史以来氾濫を繰り返し、幾度も其の川筋を変化させて来た。
そんな天龍川河口の右岸…西側には、天平の御世に《麁玉川》と呼ばれた頃迄の川筋であった《小天龍》(現在の馬込川)を中心にして、太古より上流から運ばれて積み重なった砂に因って、巨大な砂州と広大な砂丘が形成されていた。
合わせて東西1里(約3927メートル)以上に渡って続く《中田島砂丘》である。
自然の力に因って、人の背丈の十数倍もの高さの砂の山が築かれ、冬の強風に晒された砂の表面には、細かな風紋が刻み付けられている。
天龍川と小天龍の両河口に挟まれた、中田島砂丘に聳える砂山の南側…遠州灘へと続く海岸に、多くの男達が規則正しく整列していた。
多くの者達は御貸具足を身に纏っており、長柄槍・弓・鉄砲等の定められた武器を携えて、物頭と思しき者の指示を聞いている。
更に沖合には《安宅船》と呼ばれる1隻の巨大な軍船が停泊しており、其の指示に従って50隻以上の小型の軍船が、天龍左岸の欠塚(掛塚)湊から砂丘の麓迄軍勢を輸送していたのだ。
軍勢の旗指物や軍船の帆には、武田家の家紋である《武田菱》があしらわれている。
此の軍勢の中央、《風林火山》の旗印の翻る袂には、床几に座した1人の恰幅豊かな武将が鋭い眼を光らせていた。
3年前、息子の勝頼を陣代(当主代行)に就けて以来、久々に鎧兜を纏って戦塵に身を晒している、従三位右近衛権中将の武田権中納言晴信…法性院信玄である。
「昌国、軍勢の陸揚げは如何相成っておるか?」
信玄は、己の側近として《法性院様申次役》を務める長坂筑後守昌国に、現在の状況を簡潔に質問為る。
「はっ、既に某と跡部右衛門(昌忠)殿、岡部五郎兵衛(元信)殿の手勢と、駿府より預かって参った十郎(葛山信貞・信玄の6男)様と新十郎(松尾信俊・信玄の甥)様の軍勢は布陣を終えて居りまする。最後尾の板垣(左京亮信安)様の軍勢も間も無く陸揚げが終わりまする。後は土屋豊前(貞綱)殿が海賊衆を連れて参るのみ。残り四半時(此の季節で約25分)も有れば、総勢5千の軍勢も調いましょう」
「左様か…。此処から浜松迄の道は、既に抑えておるのか?」
「はっ、道案内も務める岡部殿が、既に大物見(威力偵察)に出向いて居りまする。徳川勢は御屋形様の動きに惑わされ、北の《三方ヶ原》へと出陣致して居りまする」
「ふむ…。浜松城には如何程の軍勢が残っておるのだ?」
「繋ぎの者からの報知では《三方ヶ原》へと出陣致した者は万を越えるとの事、恐らくは留守居は千を切る程かと…」
昌国の報告を聞き終えた信玄は軽く瞑黙した後、威厳に満ちた面持ちで命を下す。
「…事は順調に進んでおるな。為らば軍勢が調い次第に直ちに《長蛇》の陣形にて出立致す!先陣は道案内を兼ねて岡部勢、二の備えは板垣勢を配する。豊前率いる海賊衆は後備えだ。松尾・葛山の両軍勢は、本備えに加えて儂が率いる。昌国と昌忠は浮備えとして本陣を固めよ!其れと、大隅(伊丹大隅守康直)に命じて、安宅船を始めとして陸揚げを終えた海賊衆の軍船で、今切から渥美に至る辺りに焼討ちを掛けよ!」
「御意っ!」
信玄の命を受けた昌国は、直ちに各将へと指示を伝えるべく、砂浜を駆け出していく。
其の後ろ姿を見送りながら、信玄は北の台地で戦端を開こうと為る己の息子に思いを馳せるのだった。
(勝頼…。先ずは御主の番だ!儂が御主の為に練り上げた《十面埋伏の計》で、見事武田の銘を諸国に轟かせてみせい!)
中田島砂丘の北側には、東西2里半、南北3里半の規模を持った大な《三方ヶ原台地》が広がっている。
天龍川左岸(東側)の《牧之原台地》と同様に、古の天龍川(小天龍は其の名残である)に因って、悠久の太古に形成された巨大な扇状地が、地殻変動に因って隆起して出来た台地である。
其の後は天龍川の川筋が変わり、浸食が進行した事で深い谷を有する原野へと変化したのだ。
三方ヶ原は、全体としては北から南へと緩やかな傾斜を帯びているが、実際には多少の起伏を有した地形であり、北側には大谷坂・祝田坂を始めとした隘路で都田川の川沿いへと下っていた。
其の隘路の1つである祝田坂の手前、三方ヶ原から眺めるとなだらかな丘陵に因って視界を遮られる地…後に生えている松の大木の銘に因んで《根洗》と呼ばれる事に成る場所に於いて、甲斐武田・三河徳川両家の主力同士による決戦の幕が、遂に切って落とされようとしていた。
武田大膳大夫勝頼は此の日の黎明、合計4万1千の大軍勢の内、主力3万3千を従えて天龍川を渡ると、一旦浜松城を目指して一気に南下した。
だが、浜松を指呼の間合に収めた追分の地に於いて突如として北に転進、別勢8千が昨晩夜営した金指へと続く祝田の坂へと向かったのだ。
対する徳川三河侍従家康は、老臣の夏目次郎左衛門吉信に浜松城の留守を委ねると、自ら徳川勢8千と盟主・織田家からの助勢3千の、合わせて1万1千を率いて浜松城を出撃した。
馬2頭並ぶのがやっとの祝田の下り坂で難渋している筈の武田軍に対して、後背を攻撃して坂下に追い落とす事で、激昂した武田軍を浜松城で釘付けに為る腹積りだったのだ。
武田軍の殿軍を務める小山田左兵衛尉信茂の巧みな采配と度重なる挑発、更には家康と諍いを起こした援将・平手甚左衛門尉汎秀の暴走に因って、徳川勢は本人達の想定以上の速度で、三方ヶ原を南北に突っ切った。
祝田の坂から僅かな比高の丘陵と膝丈程の小川を跨いだ南側の地で、漸く徳川勢の再集結を果たすと、家康は全体を9つの備えに再編した上で《鶴翼》の陣形に組み替えたのだ。
最右翼には、徳川家の譜代筆頭であり一方の家老を務める《東三河衆旗頭》酒井左衛門尉忠次と配下の東三河衆を配した。
鶴翼の陣形は基本的に左右の翼の先…陣形の両端に、開戦直後の攻撃が集中する為、家康の叔父で信任厚い忠次を事実上の先鋒に任じたのだ。
酒井勢の内側に当たる2つの備えには、此の戦いに於いて雪辱を期する者達が配された。
酒井勢の直ぐ左隣りには、3日前の19日に二俣城を失陥して退いてきた中根平左衛門正照の軍勢が配された。
二俣の副将だった青木又四郎貞治、更には同じく失陥した高天神城から逃れて来た小笠原右京進義頼を始めとした高天神の小笠原一族と徳川家に従って浜松迄逃れた小笠原家臣団…所謂《西退組》、高天神城の助勢に入りながら同族の援護に失敗した小笠原摂津守安元を始めとした三河幡豆の小笠原一族等が与力として加えられている。
彼等には暗に《死物狂い》で戦う事が求められており、此の戦いで戦功を挙げなければ全てを失い兼ねなかったのだ。
中根・小笠原勢の左隣りには、家康の異母弟である内藤三左衛門信成が小勢ながら一手を率いる大将に抜擢された。
信成も武田軍の遠江侵攻直後の三箇野川の夜戦に於いて、夜討ちに失敗して痛撃を食らっており、雪辱に燃える心情は変わり無かった。
右翼と本備えを繋ぐ要となる右脇備えには、織田の助勢の事実上の大将である佐久間右衛門尉信盛の軍勢が配された。
織田家からの助勢は、徳川勢の監視を主たる目的としていた為に、一部の例外を除いて当事者である徳川勢に比べて戦意が低かった。
其の為に、佐久間勢を家康自身の眼の届く場所に配する事で、途中勝手に退陣させる事無く、確実に参戦させる積りだったのだ。
一方、最左翼と其の内側に位置する2つの備えは、主に三河譜代の家臣や陣借りの浪人を中心に軍勢が組まれていた。
此の軍勢の中には、8月に織田家を追放された元《黒母衣衆》の織田駿河守(後の中川八郎右衛門重政)・織田左馬允(後の津田四郎左衛門盛月)の兄弟や、3年前に織田家を逐電した元《赤母衣衆》の佐脇藤八郎良之・長谷川橋介・山口飛騨守・岩室勘右衛門(加藤弥三郎)、良之達を訪ねて来て戦に巻き込まれた具足匠の玉越三十郎…等が軍勢に加わっている。
そして其等を率いる大将として、家康の馬廻りを率いる《旗本先手衆》の中でも成長著しい若手武将である本多平八郎忠勝が最左翼の将に抜擢され、其の内側の備えには同じく《旗本先手衆》から大須賀五郎左衛門尉康高が任じられた。
此等2つの備えは、夫々(それぞれ)の手勢に与力が加えられる形で、一手を編成為る事に成っていた。
大須賀勢の右側には、徳川家でも有力な譜代家臣である大久保七郎右衛門忠世率いる《大久保党》が布陣した。
忠世は、次弟の治右衛門忠佐始めとした一族郎党の殆どを引き連れて参陣しており、其の動員兵力を買われて《大久保党》のみで一手を編成したのだ。
《大久保党》の右側…本陣の左隣りに当たる左脇備えには、家康のもう1人の家老である《西三河衆旗頭》石川与七郎数正が配された。
問題の平手汎秀の手勢も数正の指揮下に加えられている他、数正には左隣りの《大久保党》の指揮権も与えられ、本備えの前方の守りも担っていたのだ。
そして佐久間勢と石川勢の間…鶴翼の中央には家康直率の本備えが布陣し、織田家助勢で家康の伯父にあたる水野下野守信元の軍勢も本備えに加えられた。
合計兵力は約1万1千。遠江国内に居る徳川・織田勢の内、浜松城の守備を固める夏目勢以外の殆ど全ての将兵が、此の三方ヶ原の戦場に出陣していた。
そして、祝田の坂を下ろうとしている筈の武田軍を、後背から一気呵成に追い落とす為に、鶴の翼を広げた侭に全ての軍勢が小川を渡り、丘陵を越えて攻め掛かったのだ。
信玄が中田島砂丘に布陣したのと同時刻…申の正刻の事である。
「殿軍を相務めた小山田勢、眼前の丘を下りて此方側へと退いて居りまする。其れを追う徳川勢は鶴翼の構えを崩さぬ侭、一斉に丘の頂を越えて参り申した!」
《百足衆》と呼ばれる使番の1人で、《将棋の香車》の陣羽織を羽織っている初鹿野伝右衛門尉昌久から報知が齎され、松の大木を目印に布陣為る武田軍の本備えでは、詰めている将兵達に一気に緊張感が漲った。
だが、武田軍の総大将である武田大膳大夫勝頼は、床几に腰掛けた侭で、静かだが良く通る声で制止為る。
「未だだ!…三州(家康)の馬印である金扇が見える迄は今暫く引き付けよ。此処で貴奴等に浜松に引き返されては、海手から浜松を窺う父上(信玄)に危害が及ぶからな…」
「御屋形様、御安心為さいませ。最初から姿を見せている軍勢以外は、未だに《野伏せ》を解いては御座いませぬ。武田の軍勢の隅々に、此度の軍略は行き届いて居りまするぞ!」
勝頼に応える形で、陣場奉行として今回の策を実行面で支える《両職(筆頭家老)兼政所執事》の原隼人允昌胤が現在の状況を報告為ると、勝頼は僅かに顔を強張らせながらも無言で首肯為る。
そして、緊張が漲っている為か右手に持った軍配を握り締め、徳川勢が鶴翼の陣形の侭に低い丘陵を越えて迫って来る迄の僅かな時間、息を潜めてジッと前方を見詰め続ける…。
幾時にも感じる程の刹那の後、鶴翼の中心に僅かに煌めく光が垣間見えた。
薄暮に向けて次第に西に傾く陽光が僅かに開いた雲の切れ間を貫き、家康の《金扇》の馬印が黄金色の輝きを放ったのだ。
「御屋形様!徳川三州の金扇の馬印、丘の尾根を越えて此方に向かって参りました!其の側には白地に《厭離穢土欣求浄土》の旗印も見受けられまする!」
奥近習頭の土屋惣三昌恒が勝頼に報せを齎すと、勝頼の後ろに控えていた軍師の真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)が話し掛ける。
「御屋形様!徳川三州、此方側の策に嵌り申した!そろそろ《野伏せ》を解いて宜しいかと心得まする!」
「うむっ!直ちに法螺貝を鳴らして、陣太鼓を打ち鳴らせ!《野伏せ》を解いて《魚鱗》の陣形に陣替え致すのだ!《十面埋伏》を致して居る者共にも、当初の手筈通りに徳川勢に気付かれぬ様に側面へと回り込む様に申し伝えよ!…其れと行村っ!御主に5百の兵を預ける故に、小山田勢に加わり御主の従兄弟たる信茂の助勢に入れ!」
「は、はっ!御意で御座いまする!直ちに左兵衛(信茂)殿の助勢に参りまする!」
《百足衆》の1人で《白地に黒い百足》の旗指物を背負った小山田八左衛門尉行村は、喜色を浮かべて一礼為ると、己の手勢と預かった兵を率いる為に走り去って行く。
同時に、周囲にけたたましい法螺貝と陣太鼓の音が鳴り響き、周囲の視界にも大きな変化が生じ始めた。
徳川勢が迫る北側から視界の陰と為っていた僅かな起伏や極低い丘陵、そして祝田の下り坂の途中等には、武田軍の主力の多くが《野伏せ》を行っていた。
彼等は、旗指物を一旦畳んだ上で昨晩迄に降り積もった残雪を払い除けると、剥き出しと成った地面の上に予め用意していた筵を敷いて、徳川勢の来襲をジッと座した侭で待ち続けて居たのだ。
半時(此の季節では約50分)以上にも及ぶ《野伏せ》は、彼等の体温を容赦無く奪い去っていったが、法螺貝と陣太鼓が聞こえて漸く立ち上がる事を許された。
『ぅおおぉっ!』
彼等は冷たい地面から解放されて、雄叫びを上げながら喜び勇んで立ち上がると、仕舞い込んだ旗指物を再び翻して、組頭の下知に従って陣替えに向けて動き始める。
其の姿は宛ら、永い冬眠から目覚めて活動を再開為る獣の様であった。
徳川勢が踏み越えた小川は西へと流れ、《花川》と合流して和地村に於いて庄内湖(浜名湖の枝湾)に注いでいる。
周囲を山林と細々とした畑に囲まれた花川の河口に、徳川勢の目が主力に向かっている隙を衝いて、武田軍の総勢8千の軍勢が進出して来ていた。
秋山伯耆守虎繁率いる武田軍の別働隊5千と、北条助五郎氏規が率いる小田原北条家からの助勢3千である。
秋山・北条勢は、昨21日の日中に天龍川左岸に置かれた下神増の武田軍本陣を出撃為ると、天龍川を渡って三方ヶ原の更に北側を流れる都田川の川沿いに進出、祝田の下り坂を降りた金指の地で半ば公然と夜営した。
勿論、勝頼率いる主力の北上を徳川方から疑われぬ為の擬態を兼ねていたのだ。
そして22日の黎明を待たずに金指を出立、都田川沿いに気賀に進出為ると、武田家の調略に応じていた浪人の新田四郎義一率いる土豪・百姓の一団と合流した。
彼等は、4年前の永禄11年(1568年)の徳川家の遠江侵攻に抵抗した《堀川一揆》の生き残りであった。
義一を始めとした気賀7ヶ村及び隣りの刑部村の者達は、寄親に当たる堀江城主・大沢左衛門佐基胤に従って今川方に与する事を選び、気賀に築かれた堀川城に籠城、佐久城主・浜名肥前守頼広と協調して徳川家に抵抗を試みた。
だが、翌永禄12年2月には佐久城が陥ちて浜名頼広は甲斐武田家に亡命、堀川城も3月27日に徳川勢の総攻撃を受けた。
堀川城は僅か1日で落城、立て籠もっていた男女2千人程の内、逃げ遅れた約1千人が《撫で斬り》にされてしまった。
(堀江城の大沢基胤も4月12日迄に開城して家康に降伏している)
更に落城後も徳川方の厳しい詮索が続き、9月9日には落城時の捕虜を含めて7百余人が処刑され、都田川の堤上に首が晒されている。
徳川侵攻直前の気賀・刑部の人口は3千余人と言われており、実に半数以上が徳川勢に殺されたのだ。
彼等生き残りは、以来3年以上に渡って山中等に身を潜め隠棲していたが、武田家から派遣された頼広の調略を受けて、僅かの人数ながらも再び挙兵し、秋山・北条勢の道案内を買って出たのだった。
秋山・北条勢は、三方ヶ原の台地へと上がる大谷坂には入らず、頼広と義一等を先導役に浜名湖東岸に広がる山林を南へと突き進んだ。
小山田勢に釣り上げられ、北側にのみ目を向けている徳川勢を掻い潜って和地郷に到ると、情報封鎖の為に郷内の徳川家の支持者達を村の納屋の中に一時拘禁した。
そして、藁で出来た《馬沓》の交換等を行いながら、三方ヶ原の趨勢を見守って居たのだ。
「秋山殿、助五郎(氏規)殿。今し方に艮(北東)の方角から陣太鼓と法螺貝の音が聞こえ申した。どうやら大膳(勝頼)殿の軍勢が《野伏せ》を解いた様で御座いますな…」
一時的に接収して陣所にした庄屋の屋敷で軍議を開いていた虎繁と氏規に、北条勢の副将を務める北条新三郎氏信が到着為るなり話し掛ける。
氏信は弟の箱根少将長順と共に、3年前の駿河蒲原城の戦いで武田家の捕虜となり甲斐に連行されたが、勝頼は彼等を客将同然に扱い親交を重ねた為、帰国後は北条家中切っての《親勝頼派》と成っていた。
今回の助勢も、長順や同じく《親勝頼派》の垪和伊予守氏続と共に自ら志願して参陣為ると共に、甲斐に派遣されていた氏規を助勢の大将に奉じていたのだ。
「そうか、新三郎殿!秋山殿、大膳殿の仰有っていた《三州釣り出し》の策、どうやら上手く嵌った様で御座るな!」
「うむ。然すれば次は我等の番で御座る!御屋形様(勝頼)が徳川勢を引き付けて下さっておる隙に、徳川勢の南側…追分の地へと回り込み、浜松城と徳川勢を分断致す!御隠居様(信玄)が背後から浜松城を落とす迄は、決して貴奴等を浜松に通す訳には参らぬ!」
「承知仕った!我等北条の軍勢、御期待を裏切る事は御座らぬ!必ずや御役に立って見せましょうぞ!」
虎繁に対して氏規が力強く応じると、氏信も首肯して同意の意志を示す。
「御2人共、忝い。宜しく御頼み申す。其れと、浜名肥前(頼広)殿と新田四郎(義一)殿には、我等の道案内が済み次第、気賀の辺りを中心に《落ち武者狩り》の支度を調えて貰おう。宜しいか?」
「はっ!御任せ下さいませ!既に浜名の旧臣達が気賀に於いて支度を進めて居りまする!」
「堀川城と彼の畷で死んでいった者達の無念、死に後れた某が奴等の血肉を以て償わせて呉れまする!」
堀川城から逃亡後、喜斎と名を変えて僧に身を窶していた義一は、徳川家への復讐を期して参陣していた。
頼広からの来訪を受けた時から、此の戦いに並々為らぬ決意で望んで居るのだ。
2人の高い戦意を確認した虎繁は、屋敷に詰めていた諸将に向けて号令を下す。
「よし…、為らば此れより陣払い致して、追分にて徳川勢追い討ちの支度に入るぞ。御屋形様と刃を交えた後の徳川勢は正に《手負いの獣》。方々、努々(ゆめゆめ)御油断召されるな!」
『応っ!』
虎繁の発破に諸将が力強く応じると、新たな戦場へと赴く為に、一斉に屋敷から駆け出すのだった。
「…こ、此れは一体何事が起こっておるのだ?」
全軍に総攻撃を命じて自らも丘陵を越えて、武田軍を見渡していた徳川三河侍従家康は、まるで悪夢を見ているかの如く呆然と呟いた。
いや、家康の周囲を固める馬廻や武将はおろか、徳川勢と織田家の助勢のほぼ全員が、目の前の光景を理解出来なかったのだ。
祝田の坂の手前迄逃げていた小山田勢3千の背後には、坂を下り損ねた武田軍の残り1万程が居る筈であった。
だが、武田軍の一角…松の大木の辺りから陣太鼓と法螺貝が鳴り響くと、窪地や丘陵の背後等の《南側からの死角》から次々と旗指物が林立して、瞬く間に視界一杯に広がる大軍勢が現れたのだ。
そして、最初から段取りが決っていたかの様に、3万近くから成る大軍勢が重厚な《魚鱗の陣形》へと陣替えを進めていく。
其の光景を目の当たりにした徳川・織田勢は、正に凍り付いた様に進撃の脚が止まってしまったのだった。
「と…、殿…。真逆武田の奴輩は物陰に潜んで全く坂を下っておらなんだのでは…」
《旗本先手役》として本備えに組み込まれた鳥居彦右衛門尉元忠が、呆然としている所為か至極当り前な事を指摘すると、家康は我に返って沸き起こる怒りの侭に怒鳴り付ける。
「其の様な事、言われずとも判っておるわっ!」
(おのれぇっ!勝頼奴がっ!《諏訪の小倅》の分際で、善くも此の儂を謀って呉れおったな!だが丘の上を我が軍勢が占め、貴奴等は祝田の坂を背に致して居るのだ!此の侭、鶴翼の陣形で押し込んで、坂落しを懸けて呉れるわっ!)
抑え切れない怒りの奔流に支配された家康は、僅かに存在する高低差を利用して、武田軍へ攻め懸かる決断を下した。
「使番は居るかっ!直ちに夫々(それぞれ)の備えに走って、我が命を伝えよ!此れより鶴翼の陣形の侭で疾く陣を前に進めて、総懸りにて攻め寄せる!敵が押し出て参る前に痛撃を食らわせて、貴奴等が怯んだ隙を見計らって浜松城に繰り退き致すのだっ!確と申し伝えよ!善いなっ!」
『御意っ!』
背中に《伍》の旗指物を付けた使番達は、家康の指示を受けると一斉に騎乗して、鶴翼の夫々の備に向けて駆け去って行く。
「鶴翼に合せて、本備えも今少し前方に進めるぞ!数正や佐久間殿の軍勢との間に隙間を作らぬ事が肝要ぞ!」
「はっ!」
「承知仕り申した!」
本備えに詰める武将達が家康の指示に首肯為る様子に頷きながら、同じく側に控えていた助勢の大将の1人…水野下野守信元の方に向き直ると、総攻撃に向けた新たな指示を与えた。
「伯父上の手勢も、共に前に進めて頂きたい。然る後に、浮備えとして敵の隙間に討ち入って頂く所存で御座る!所詮、相手を率いるは《諏訪の小倅》、貴奴如きには後れは取りませぬ!」
「し、承知致した。御任せ在れ!」
(何を馬鹿なっ!竹千代(家康の幼名)は己が手勢はおろか、儂の水野勢迄も遣い潰す心積りかっ!迚もでは無いが、其処迄は付合い切れぬわ!時を見計らって、本坂道を一気呵成に尾張へと戻らねばならぬな…)
心中で徳川勢に見切りを付け、既に戦線離脱さえも視野に置き始めた信元を余所に、徳川勢は再び歩を進めて間合を詰め始めた…。
「…動きを忘れておった徳川勢に動きが見えまする。どうやら家康…、徳川三州は総懸りに攻め寄せる考えと見て取り申した」
祝田坂南側の松の大木に置かれた武田軍の本陣に於いて、物見に出向いていた武藤喜兵衛昌幸が、勝頼達に報告を齎す。
「左様か…。昌胤、魚鱗の陣形への陣替えを急がせて呉れ。陣替えの最中に討ち入られては、元も子も無いからな」
「はっ、直ちに戦支度を調え終わる様に伝えまする」
陣場奉行として《野伏せ》からの陣替えを管理している昌胤が首肯して、夫々の備えを率いる大将達に使番を走らせていく。
祝田坂の南側に展開中の武田軍主力3万3千は、全体を再編した8つの備えに因る《魚鱗陣》に陣替えを進めていた。
徳川勢に一番近い魚鱗の先端…前衛中央には、徳川勢を此処迄釣り出す事に成功した小山田信茂の軍勢に、助勢に加わった小山田行村の小勢を含めた合計3千5百の軍勢が、南向きに反転して徳川の攻勢に備えている。
小山田勢の左右、少し下がった位置には、同じく前衛を担当為る2つの備えが陣替えを進めている。
小山田勢の左後方…北東側には、宿老の中でも最年長である馬場美濃守信春が率いる3千の軍勢が、右後方…北西側には宿老の1人で尚且つ、昌胤と共に《両職》(筆頭家老)を務める山県三郎右兵衛尉昌景が率いる《赤備え》を含めた5千の軍勢が、夫々(それぞれ)布陣を進める。
馬場勢・山県勢の後方には、魚鱗の両脇を固める形で二の備えが布陣を急いでいる。
馬場勢の後方…左備えに位置しているのは、宿老の1人の内藤修理亮昌秀率いる西上野勢3千5百。
但し、昌秀は武田軍最大の騎馬集団である小幡尾張守憲重(信竜斎全賢)・上総介信実親子が率いる騎馬5百騎を、追い討ちに備えて態と軍勢から分離させて後方に待機させている。
山県勢の後方…右備えには、同じく宿老の春日弾正忠虎綱率いる信濃衆3千5百が配置を進めている。
虎綱も、追撃戦に備える為に真田源太左衛門尉信綱・兵部丞昌輝兄弟に選抜した騎馬5百騎を預けて、更に後方に待機していた。
内藤勢と春日勢の間…魚鱗の中央部分には、勝頼直率の本備え4千5百が既に布陣を終えている。
黎明時の天龍川渡河の時点では、本備えの軍勢は浮備え(遊軍)や勝頼直属として編成された《常備兵》達を含めて総勢1万に及んでいた。
其等の内、勝頼の施策で採用された浪人・雑兵上がりの《堪忍分(給金)払いに因る常備兵》の軍勢5千は、足軽大将衆より《横田十郎兵衛尉康景・小幡又兵衛尉昌盛・多田淡路守常昌・大熊備前守長秀》の4人、及び勝頼の側近より《秋山紀伊守光継・安部五郎左衛門尉宗貞・小原丹後守継忠・小田切孫右衛門昌吉・小原下総守忠国》の5人、そして遠江高天神城主として20日前に武田家に帰順した小笠原弾正少輔信興…以上計10人の武将に夫々(それぞれ)5百づつ預けられ、既に別行動を開始していた。
彼等は、追分から祝田の各地において、徳川勢の通過を遣り過ごして《野伏せ》に入っていた。 そして本陣からの合図を聞き付けて、戦場の外側を大きく回り込む形で、徳川勢の側面や背後、そして敗走時の予想経路へと移動を進める手筈になっていたのだ。
一方の本備えは、小山田勢の助勢5百を送り出した後は、残余の軍勢を以て松の大木から少し東側に移動した本陣を固めていた。
武田菱を染め上げた陣幕に囲われた本陣では、総大将の勝頼の存在を知らしめるかの如く、色鮮やかな幾流もの大旗が曇天の下に翻る。
朱地に金泥で夫々に《諏方南宮上下大明神》《南無諏方南宮法性上下大明神》と大書された諏訪明神旗、そして《白の四半に黒字の大の一字》と《黒の四半に白抜きの大の一字》…勝頼が元服以来使用し続ける2流の旗印である。
本備えの後方には、御親類衆筆頭の穴山左衛門大夫信君の軍勢4千が布陣を済ませている。
そして軍勢の最後尾…穴山勢の右後方には遠征用の小荷駄が置かれ、小荷駄奉行を兼任為る甘利郷左衛門尉信康の軍勢6百と配下の筒衆(鉄砲隊)4百が配置に付いていた。
更に小荷駄衆の両脇には、内藤勢・春日勢から分離した小幡・真田の騎馬合計1千騎が追撃に備えて待機中であった。
実に3万以上の軍勢が、多少の遅滞は有りながらも陣替えを進める様子を横目に見ながら、物見の報告を済ませた昌幸は、勝頼の隣りに近付いて、今回の策を話題に語り掛け始めた。
「御屋形様…。其れに致しても、総勢3万以上の軍勢の半ばを以て待ち伏せ致して、油断した敵勢を誘き寄せるとは、随分と大胆な策を実行致した物で御座いますな」
「昌幸から其の様に言われても、此の策は儂の力のみで成し得た物では無いからな。策の大綱は父上が考えた物を使わせて頂き、細かな部分は一徳斎との問答で練り上げた代物だからな。更に言えば此の地を《埋伏の舞台》に仕立て上げた昌胤の苦労は並大抵では有るまい…」
「ふむ…、恐らく御隠居様が使われた策の根本は《三国志演義》の倉亭の戦いに於いて、魏の武帝(曹操)が袁本初(袁紹)を破る際に用いた《十面埋伏の計》で御座いましょう。更に申せば、曹軍が黄河を背に《背水の陣》を用いたのに倣って、祝田の下り坂を背に布陣致した訳ですな…。然れど、態とらしく軍勢を動かしてしまっては、其れこそ家康が警戒して食い付いては来ませぬが…」
「そういう事だ。だからこそ、三州を油断させ激昂させる《諏訪の小倅》の風聞が入り用だったのだ。そして、祝田の坂を降りた様に欺く為に、丘や岩場の影や窪地に潜ませた訳だ…」
「成程…、此処迄は上手く嵌って呉れた様で御座るな。然すれば此れで不覚にも負けてしもうては、御屋形様は桶狭間山の今川殿以上の愚将呼ばわりされる事でしょうなぁ…」
『なっ…』
昌幸は顎を擦りながら、勝頼を挑発為るかの様に悪態を吐くと、居合わせた全員が唖然として昌幸を見遣ってしまう。
だが勝頼1人のみは声を上げて笑い飛ばすと、逆に昌幸に対して軽口を叩く。
「あぁっはっはっ…、確かに『策が上手く嵌って居った処に、昌幸が帰って参った故に負けた』なぞ言われては、御主に取っても一大事よな。其の様に悪し様に言われぬべく、武田の勝利の為に励んで呉れよ!」
「何とっ!…此れは見事に返されましたなぁ。ですが其れでこそ拙者の主君に相応しい御方で御座る!此の戦、必ずや御屋形様に勝鬨を挙げて頂くべく、拙者も励ませて頂きますぞ!」
冗談とも悪態とも付かぬ事を言い合いながら凄味が籠った笑みを交し合う2人を見遣りながら、幸綱は己の《弟子》達でもある若き主君と不肖の息子が、心底で通じ合っている事に深い安堵と充足を感じて、睚を下げて喜ぶのだった。
「隠れた振りを致しても、所詮は甲斐の山猿共の猿知恵に過ぎぬわ!陣形を厚く致した分だけ、我等と槍を交える奴輩の数は、十全たる我等と互角じゃ!平押にて一気呵成に突き崩し、貴奴等を友崩れに追い込むのだ!」
鶴翼の最右翼の備えを采配する酒井忠次は、家康の下知が届くと、愛槍の《甕通鑓》を軍配代りに振り回し、配下の東三河衆に指示を下していく。
併し、ふと左側を見遣ると、鶴翼全体での攻撃を企図しているにも関らず、中央付近の石川勢の一部分が周りと協調せずに行き成り突撃を開始しているのだ。
「何だとっ…、与七郎(数正)の奴め、何を致して居るのだ!…いや、彼の旗指物は織田家の平手甚左(汎秀)かっ!与七郎の下知に逆らって抜駆け致したのか…」
昨日薄暮の頃、家康からの浜松着到の御礼を、格下武将より後回しにされた事に激怒した汎秀は、当て付けに此の戦いで討死して呉れる、と公言して憚らなかった。
此の戦いの序盤に於いても、北に釣り出す為に行われた小山田勢の挑発に、幾度も軽々しく乗ってしまい、徳川勢全体が三方ヶ原を縦断する羽目に陥っている。
其の問題の平手勢が、又しても小山田勢の《飛礫衆》が打ち込んで来る印地(石礫)に激昂して、周りの軍勢との歩調をまるで無視した形で突撃を開始したのだ。
「者共っ!織田家譜代たる此の儂を蔑ろに致した徳川家の奴輩に、我等が最後の戦振りを見せ付けよ!者共っ、儂と共に此処で死ねぃ!」
『うわぁぁっ!』
馬上から絶叫為る汎秀の手勢は、3間半(約6.36メートル)の長柄槍を翳して、狂気と絶望を孕んだ叫び声を上げながら、小山田勢の最前列で待ち構える鉄砲足軽達の前に走り込んで行く。
「構えっ!…放てぇぃ!」
小山田勢の鉄砲足軽が《6匁玉》の火縄銃を一斉に撃ち放つと、3百足らずの平手勢の内の十数人が其の場に崩れ折れる。
だが、平手勢は突撃の速度を落とす事無く、次第に小山田勢との距離を縮めていく。
(此の侭では、平手勢が潰されて出来た隙間に《山道》の馬場か《白桔梗》の山県に横槍を入れ込まれるか…。此処は中央の与七郎や、左翼の平八(忠勝)達と共に、一気に小山田を押し込めるに如かず!)
決断を下した忠次は、直ちに己の指揮下に入っている軍勢に、矢継ぎ早に指示を下していく。
「善いかっ!《東三河衆》の内、半分の者は弓鉄砲で、前方の馬場美濃(信春)の軍勢を居竦めよ!其の隙に、残りの者は儂に続けぃ!平左(中根正照)と三左(内藤信成)の軍勢と共に、与七郎の石川勢と示し合せて小山田勢に攻め懸かるのだ!」
忠次は、平手勢の暴走を寧ろ利用して、武田の魚鱗陣の先端である小山田勢を討ち崩して、機先を制する事を企図したのだ。
一方、己の麾下である筈の平手勢に因る暴走を受けて、石川数正も忠次と時を同じくして、小山田勢への攻勢を決断していた。
「此れより、我等も前に居座る敵勢に攻め懸かる!《西三河衆》は儂と共に平手の奴等の右側から、《大久保党》は左側へ回り込んで攻め寄せよ!」
数正の指示を受けた《西三河衆》と、左隣りの《大久保党》は、直ちに速度を上げて小山田勢との距離を詰め始めた。
更に《大久保党》よりも左側の大須賀勢、そして最左翼の本多勢も、忠次や数正の動きに触発されて、魚鱗の中央部分の小山田勢に向けて軍勢を動かし始めた。
「懸かれぇぃ!此の5ヶ月の間に受け続けた恥辱を、今こそ倍返しに致して呉れようぞ!奴輩に奪われた遠江を、我等の手で取り戻すのだ!」
「儂に続けぃ!儂の前に立ちはだかる輩は、此の《蜻蛉切》の餌食に致して呉れるわ!」
康高や忠勝の檄に触れた大須賀勢と本多勢は、未だに前方への進出を終えていない山県勢を横切る形で《大久保党》の更に左側から小山田勢に攻勢を掛けて来たのだ。
「ぐわっ!」
「ぎゃあぁっ!」
小山田勢の最前列に整列した長柄足軽達が、弓鉄砲を潜り抜けた徳川勢と互いの長柄槍で殴り合う。
だが、織田家と同規格の3間半の長柄鑓を翳し、全軍の過半を投入して前方のみ為らず左右からも攻め寄せる徳川勢の猛攻に対して、小山田勢は質・量共に不利は否めない。
「堪えろっ!此処が切所ぞ!此の場に踏み止まるのだ!」
小山田信茂率いる軍勢は徳川勢の集中攻撃を受けて、必死の叱咤も虚しく少しづつ押し込まれていく。
「ええぃ!退くで無いわ!今暫く持ち堪えるのだ!返せっ!返せぇぃ!」
局地的に倍近い徳川勢の猛攻に晒された小山田勢は、忽ち1町(約109.08メートル)以上後退させられてしまった。
其処に、小山田勢が退いた事で前線との距離が狭まった馬場勢が、《東三河衆》の攻撃を往なしながら漸く酒井勢に襲い懸かった。
馬場勢の足軽達が、長柄鑓を振り下ろして酒井勢の槍衾に叩き付けると、酒井勢も馬場勢に対抗為るべく《東三河衆》を再び合流させる。
此の後、酒井勢は倍近い馬場勢相手に、暫時一進一退の攻防を繰り広げていく。
一方の西側でも、山県昌景率いる《赤備え》の軍勢が、小山田勢を援護為るべく前進を開始した。
「小山田殿に加勢致すのだ!懸かれぇぃ!」
山県勢は、己から一番近い最左翼の本多勢に狙いを定めて、一斉に襲い懸かる。
「《赤備え》が出張って参ったか!此処は抜かせるな!儂に続けぇぃ!」
忠勝は己の手勢を素早く纏めると、愛槍《蜻蛉切》を手にして自ら先頭に立って山県勢を迎え撃つ。
刃渡り1尺4寸2分(約43センチメートル)の笹穂型の刃と、長さ2丈(約606センチ)余りの青貝螺鈿を飾った柄を備えた大身槍を、正に身体の一部分の如く操っていく。
電光の速さで繰り出す《蜻蛉切》の攻撃は、其の一振り毎に寒さで動きが鈍った山県勢の足軽達を屠り、血飛沫を巻き上げていく。
「慌てるな!所詮は多勢に無勢に過ぎぬ!落ち着いて兵の多寡を生かして、本多平八を討ち取るのだ!」
昌景からの檄を受けて、山県勢は次々と攻撃を仕掛けていくが、本多勢は10倍の山県勢を相手に、一歩も退かずに奮戦為る。
「其の様な鈍い動きで、此の本多平八を討ち取れると思ってかっ!纏めて冥府に送り込んで呉れるわ!」
忠勝が気を吐いて、次々と山県勢を討ち倒すが、次第に数に勝る山県勢に押され、本多勢の者達が乱戦の中で討ち取られていく。
「平八を見捨てるな!本多勢を助勢致す!婿殿、参るぞ!」
「承知致し申した!者共、懸かれぇぃ!」
本多勢の危機を見て取った大須賀康高が、娘婿の榊原小平太康政と共に山県勢の左脇に攻撃を仕掛けると、今度は本多勢を押し込み始めていた山県勢がズルズルと後退を始める。
「ええぃ、怯むな!此の程度の小勢に臆したか!此処が切所ぞ!若しも退かば、其奴を儂が斬り捨てるぞ!」
雷霆が間近に落ちるが如き昌景の怒号に、闘志を焚き付けられた山県勢の後退は止まり、本多・大須賀勢を再び押し返す。
中央の小山田勢も、左側(徳川右翼)の酒井勢と右側(同左翼)の本多・大須賀勢が抜けて、攻撃の圧力が弱まったのを見計らって、攻め寄せる徳川勢に反転攻勢を仕掛け、忽ちに開戦当初の位置迄盛り返す。
だが、石川数正が残りの軍勢を巧みに操って、小山田勢の其れ以上の攻勢を押し止めると、本備えから鳥居彦右衛門尉元忠・四郎左衛門忠広兄弟の手勢が加勢に回されて、小山田勢の脇腹に攻め懸かると、再び旌旗は北へと流れ始めてしまう。
両軍御互いが、一歩も退かずに一進一退の攻防を繰り広げ、剣戟と絶叫、そして血腥い臭気が辺り一帯を支配していく…。
開戦から凡そ半時後(約50分後)、何時果てるとも知れない戦いが続く中、次第に徳川勢の攻撃の勢いが衰えて防戦の時間が少しづつ長く成り始めた。
地勢的には、僅かながら坂上から攻め寄せているとはいえ、強弱は有れども常時吹き付ける北風は、北へ攻める徳川勢には向い風として襲い懸かる。
体力面でも、徳川勢は疲労が蓄積していくのに比べて、武田軍は戦が進むに連れて《野伏せ》中に冷えきって鈍かった動きが、体温の上昇に従って次第に回復していく。
更には、前線に参戦している兵力は徳川勢7千程に比べて、武田軍は1万1千以上に及ぶ事が均衡の揺らぎに拍車を掛けていく。
「御屋形様、次第に我が方の攻める刻が長く為って参りました。日も傾いて来た故、そろそろ総懸りの頃合かと心得まする」
陣幕で囲った武田軍の本陣では、戦況を見計らっていた真田幸綱が全面攻撃を進言為るが、総大将の勝頼は首を縦には振ろうとしなかった。
「…一徳斎、敵を今少し引き付けておく方が良いのではないか?若しも、貴奴等が浜松に戻った時点で父上が浜松城を落としてなければ、逆に父上達が危うくは為らぬだろうか?」
「…確かに其の危惧は有りまする。然れど、暫く致さば日が落ちて此の《三方ヶ原》は闇に包まれましょう。夜の敵地に追い討ちを懸ければ、下手を打てば待ち伏せを食らって、手痛い目に遭うやも知れませぬ。此処は明るい内に戦意を砕いて、西側へと追い立てるが肝要で御座いまする」
「…左様か。一徳斎の言為らば間違い有るまい。では、此れより総懸りに攻め寄せると致そう。昌胤、当初の手筈通りに支度を進めて呉れ。其れと一徳斎、小荷駄奉行の(甘利)信康に命じて、《10匁筒》衆を徳川の右翼後方に回り込ませてはどうか?未だに後方にて戦って居らぬ佐久間勢に撃ち掛ければ、上手く行けば《裏崩れ》に持ち込めよう…」
「成程、既に腰が退けた《手伝い戦》の織田勢為らば、恐らくは上手く退きましょう。直ちに手筈を調えまする!」
勝頼が家臣の意見を聞く度量を持ちつつある事に満足の体を示した幸綱と昌胤は、直ちに攻撃の支度を伝えるべく本陣から出て行った。
2人と《百足衆》達が退出した後、勝頼は側に残った侭の武藤昌幸に小声で話し掛ける。
「昌幸。父上達の浜松城の乗っ取り、間に合うと思うか?」
「…親父殿達は、御隠居様(信玄)がしくじる筈が無い、と闇雲に信じて居りますからな。然れど、浜松城は要害で御座る故に、此度は中々に難しいでしょうな。何より刻が短過ぎまする」
「そうか、儂だけで無く昌幸もそう見るか…。だが昌幸為らば、其れを補う策…父上が浜松を落とす一助と成る策が有るのではないか?」
勝頼から質問された昌幸は、不敵な迄に自信に満ちた面持ちで返答為る。
「勿論で御座る。浜松城に於いて『徳川勢惨敗、家康は敗走致して助勢を求めておる』との噂を流すので御座る」
「成程…、其の流言で浜松城に籠る将兵に動揺を来せば、十分に父上の一助と成り得るな!後は、何れ程の刻の内に支度が調うか…」
「御安心召されませ。浜松城や其の周囲には、既に遠江に討ち入った直後より《真田の忍び》を潜ませて居りまする。此の策を含めた幾つかの策の手筈を既に仕込んで居りまする。繋ぎの者を通して合図を送らば、遅くても四半時の後には噂を浜松城に流せましょう…」
「そうか…!為らば早速、事を進めて呉れ!」
「承知仕った!」
漸く喜色を浮かべた勝頼に礼を施すと、昌幸も配下の《真田忍び》を動かすべく本陣を出て行くのだった。
一進一退の攻防を続ける戦いに変化を齎そうと最初に動いたのは徳川勢であった。
周りの軍勢が攻勢を懸けても未だに動こうとせず、半ば遊兵と化している佐久間信盛・水野信元の両軍勢を、攻撃に投入為るべく改めて使番を走らせたのだ。
(さて…、此の戦は恐らくは徳川の負けで決りで在ろう。如何にして此の戦場を退くが善いか思案の為所だが…)
既に三方ヶ原での交戦を放棄し、尾張への撤収さえ視野に入れ始めていた信盛の処に、家康からの使番が到着為ると、預かった口上を騎乗の侭に叫ぶ。
「佐久間右衛門(信盛)殿に馬上より失礼仕る!我が殿よりの命を御伝え致す!佐久間殿と水野野州(信元)殿には、直ちに夫々(それぞれ)の軍勢を率いて、馬場・山県両勢を側面から討ち崩して頂きたい、との事で御座る!」
「側面からか…、為らば我等は酒井勢の右側から馬場勢に懸かる故に、水野殿には《赤備え》の左側から懸かる様に申し伝えて下され!」
「承知仕った!直ちに水野殿にも御伝え致す!」
徳川の使番が馬首を翻して駆け去って行くと、信盛の側に織田勢の軍監として参陣した滝川彦右衛門一益が声を掛けて来た。
「佐久間殿!徳川殿から攻め懸かる要請が参ったので御座るか?然れど、此方側には我等を含めて浮備えが4千程、対して武田は未だに2万近くが動いて居らぬ!此の侭深入り為過ぎると余りに拙う御座る!此処は徳川殿を説いた上で、浜松城に繰り退き致すべきでは御座らぬか?」
「成程、彦右衛門(一益)の申し様は至極尤も、徳川三州(家康)も本来為らば、共に繰り退きを手伝う様に頼んで参る筈。だが、我等に外側からの攻撃を頼んで参った…。此れは詰る処、攻めが集まる《鶴翼の先》を我等に変えた上で、我等を囮に徳川勢のみが浜松へ逃げ帰る算段と見たわっ!」
「何ですとっ!」
驚きを隠せない一益とは対照的に、信盛は憤りに満ちた面持ちで遠江からの撤退を告げる。
「我等織田家の軍勢を遣い潰す腹積りとは、三州も喰えぬ輩だが、我等は其の考えを逆手に取って、大谷坂から本坂峠を抜けて一気に岡崎迄退き陣致す。徳川方にばれぬ様に支度に入って呉れ!」
「成程…、其れ故に、水野殿が打ち合わせ致さずとも退き陣が適う様に、本坂道に近い西側に動かされたので御座るな。然れど、平手甚左(汎秀)殿が未だに先陣にて戦って御座る。此方には、如何にして退き陣を知らせる御考えで御座るか?其れに、成す処無く尾張や岐阜に退いては、殿(信長)に何と申開き致さば善いか…」
一益は、戦場のほぼ中心…石川勢の前衛で戦う平手汎秀への連絡や、信長への弁解を心配したが、信盛は其等の危惧を一蹴した。
「平手勢には、織田家の助勢を代表して引き続き戦って貰おう。3百程が討死致して居れば、徳川への義理を果した事に為ろう。勿論、三州の不手際故に我等が退かざるを得ぬ事を、殿に申開く必要が有るがな…」
「甚左殿を見捨てるので御座るかっ!其れは余りに惨いのでは…」
信盛の余りの言い様に愕然とした一益で有ったが、其の刹那に軍勢の右前方から2人の鼓膜を劈く様な轟音が響く。
自らも鉄砲の遣い手である一益には、其の音が火縄銃…其れも標準的な《6匁筒》よりも口径が大きな鉄砲の一斉射撃の発射音である事を即座に理解した。
「武田の鉄砲…?其れにしては普通の奴より重い玉を放った音が為るとは、何故貴奴等が彼の様な代物を…」
「恐らくは、東遠江…掛川や高天神、其れに二俣に於いて、徳川から取り上げたのだろう。だが、此れで一刻の猶予も無うなった事は判るで有ろう!手を拱いて居っては、我等自身が此の地に屍を晒す事に為るぞ!」
一益は、同輩を見捨てて遠江から無為の侭に退却しようという信盛の考えには、大いに不満を感じていた。
だが、平手勢を最前線から引き剥がして共に無事撤退するのは事実上不可能である事、そして武田軍の反転攻勢が間も無く始まる事を考慮為ると、信盛の案が一番現実的だと認めざるを得なかった。
「…こう為っては致し方有りますまい。直ちに此の備のみにて退く手筈を調えまする」
「うむっ!直ぐに兵を纏めて大谷坂を抜かねば、武田に塞がれては手遅れに為ろう!急いで呉れっ!」
「承知っ!」
他の武将への連絡の為に駆け去る一益を横目に見ながら、信盛は此れから始まる《退却戦》に向けて、己の心を鼓舞為る。
(さぁ、此の遠江から三河を抜けて岐阜迄の退き陣、《退き佐久間》の異名に掛けて、何と致しても成し遂げて呉れようぞ!)
信盛や織田勢に取って、己の生き残りを掛けた新たな戦いが始まろうとしていた。
併し其の行動は、危うく保っていた戦場の均衡を崩壊させる発端と為って仕舞うのである…。
三方ヶ原を中心とした西遠江一帯を舞台に繰り広げられた、武田・徳川両家の全面対決は、落日が近付いた日輪の如く次第に終局に向けて動き始めていた。
そして此の戦いは、三河から東進して来た徳川家の遠江支配の終止符を打つ端緒として、後世知られていく事に成るのである。
史実では日没直後から始まり、夜戦の様相を呈した三方ヶ原の戦いは、信玄の生涯でも有数の名采配とされています。しかしながら、この仮想戦記では武田軍を率いるのが勝頼なので、色々と策を巡らせてハンディキャップを埋めています。其の1つとして、わざと挑発を重ねる事で、開戦時間を史実よりも2時間以上早めました。とはいえ、徳川勢を一撃で叩き伏せた信玄率いる史実よりも、此の話の勝頼の方が兵力が多いのに時間が掛かってますが。(笑)これは親子の実力差と次の戦い(信玄の浜松攻略)への布石と考えて下さい。さて、次回は三方ヶ原の戦いの後編で追撃戦へと移行していきます。乱文の上に遅筆で申し訳ありませんが、次回も是非読んで頂ければ嬉しく思います。