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廿肆:徳川征伐(悉)~三方ヶ原の陥穽~

今回から武田家と徳川家の決戦である《三方ヶ原の戦い》に突入します。とはいえ、今迄の話の流れによって史実と多少違う展開へと進んでいきます。相変わらずの長文ですが、是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。

 夜が明けた筈の空は一面の曇天に覆われ、粉雪混じりの強烈な寒風が時折吹き付けると、身体の芯から熱気の全てを奪われる様な感覚に襲われる。

 此の日は南蛮の暦(ユリウス暦)に直すと1月25日に当たり、一年の中でも最も寒さが厳しい時期である。

 しかも此の時代は、現代に比べても平均気温が低い《小氷期》の真っ直中に当たっていた。

 北の峻嶺が雪雲から殆どの雪を奪い尽くしたとはいえ、昨夜迄に降り積もった数寸(1寸は約3.03センチメートル)の残雪が、周囲の視界を白く染め上げていた。

 

 残雪に刻み付けられた幾筋ものわだちを踏み締めて、色とりどり鮮やかな旌旗を掲げた大軍勢が南へと歩を進めている。

 大小合わせて万を遥かに越える旗は北風を受けてはためき、軍勢の士気は天を衝かんばかりに高まっていた。

 甲斐を中心に信濃・駿河・西上野・飛騨、更には西伊豆の一部を版図に収めた甲斐武田家の軍勢である。

 彼等は南隣の三河・遠江の徳川三河侍従家康と交戦状態に入っていたが、10月に《徳川征伐》と呼称して遠江に侵攻、天龍川以東の東遠江を切り取っていた。

 そして此の日、家康の本城の浜松城へ攻め寄せるべく、遂に天龍川を渡河して西遠江へと攻め入ったのだった。

 

 時に元亀3年(1572年)12月22日黎明の事である。

 

 今回、武田家第20代当主の武田大膳大夫勝頼が自ら率いる軍勢は、盟を結ぶ小田原北条家の助勢3千を含めて、合計4万1千余名に及ぶ。

 此程の大軍勢が、一度に川船や船橋を使って渡河して5里以上(1里は約3927メートル)離れた浜松城へ、無秩序に行軍出来得る筈が無い。

 其の為に、先ずは3日前に東遠江の徳川方最後の牙城である二俣城を開城に追い込み、城主の中根平左衛門正照率いる城兵を無傷で帰す代わりに、わざと川船を与えずに徒歩の侭で天龍川を渡らせ、《瀬踏み》をさせる事で渡河時の安全を確保していた。

 そして、下神増しもかんぞうの地に於いて、夜も明け切らぬ内から次々と渡河を果たし、北の秋葉山から二俣を抜けて浜松城へ向かう《秋葉街道》を、正に埋め尽くす勢いで進撃を開始したのだ。

 

 大軍勢の先頭を進むのは、甲斐河内の領主で御親類衆の1人である、穴山左衛門大夫信君が率いる4千の軍勢である。

 穴山勢に引き続いて、様々な具足を纏った5千の軍勢が整然と行軍している。

 彼等は、陣代の頃に勝頼が採用した施策に因って仕官を許された、旧今川領を中心に東国各地から集まった浪人や雑兵達である。

 勝頼は所領の代わりに《堪忍分》と呼ばれる甲州金を支給する事で、言わば俸給に拠る武田宗家直属の軍勢を作り上げた。

 彼等は背いた場合は斬殺に処される厳しい規律を課せられると同時に、大量の脱落者を出す程の激しい教練を重ねて来た。

 そして、遂に今回の《徳川征伐》で軍勢として初めて実戦に投入されたのだ。

 

 《勝頼直属の軍勢》の直ぐ後ろには、本来為らば最後尾に来るべき小荷駄衆が進んでいる。

 小荷駄奉行と筒衆(鉄砲隊)旗頭を兼任する譜代家老衆の甘利郷左衛門尉信康が、己の手勢6百と同じく勝頼直属として秘匿されていた《10匁筒の筒衆》4百を束ねて、此の大軍勢を支える小荷駄をがっちりと守っていた。

 

 小荷駄衆の後ろには、武田勝頼が直率する本備えと、同じく勝頼が自ら指揮下に置く《諏訪衆》、更には御親類衆や譜代家老衆による浮備え(遊軍)を含めて計5千余の軍勢が控えている。

 本備えの後ろには、譜代家老衆の中でも勝頼の後見役と言える4人の宿老が、己の相備衆や与力として付き従う先方衆を加えて、夫々(それぞれ)が一手の旗頭として軍勢を率いていた。

 春日弾正忠虎綱は、己の相備衆に加えて信濃先方衆を与力に加えた4千の軍勢。

 内藤修理亮昌秀は、相備衆・与力共に西上野先方衆を主力とした3千の軍勢。

 馬場美濃守信春は、己の相備衆に武川衆と信濃先方衆を加えた3千の軍勢。

 但し、3人の相備衆は信濃・飛騨・上野に所領を持っており、越後上杉家や美濃以西に勢力圏を持つ織田家との《境目の城》にも兵を入れている為に、本来の定数を下回っていた。

 其処で兵力の不足分を補う為に、今回の《徳川征伐》に因って帰順した、東遠江の国衆達が与力として加えられていた。

 そしてもう1人の宿老で、両職(筆頭家老)を兼任している山県三郎右兵衛尉昌景は、《赤備え》を纏った直属の手勢と、共に歴戦を重ねた相備衆を合わせた5千の軍勢を率いている。

 行軍の最後尾は、甲斐郡内を統べる譜代家老衆の小山田左兵衛尉信茂が、郡内勢3千を率いて殿軍を固める。

 合わせて3万3千の大軍勢(小荷駄を運ぶ人足は除く)だが、此れとは別に幾つかの別働隊が組まれていた。

 譜代家老衆の秋山伯耆守虎繁が率いて、当初から別行動を取っていた5千の軍勢と、相模北条家からの助勢として参陣する北条助五郎氏規の軍勢3千である。

 彼等は前日薄暮の内に下神増を出立、天竜川の上流方向へと進軍して、二俣の上流から渡河を果たしている。

 其の後は都田川沿いに、三方ヶ原台地の北端を迂回しており、金指付近に於いて夜営を行っていたのだ。

 

 そしてもう1つ、勝頼の指揮下にも加わらない武田家の軍勢が、未だに天龍川東岸の東遠江各地から、そして東遠江の沖合を、集合地点に定められた天龍河口の欠塚湊に向かって秘密裏に進んでいる。

 水陸全て合わせても5千程の軍勢にしかならないが、此の軍勢こそが武田が徳川の裏を衝く為に用意された切り札、と言っても過言では無かった。

 自ら3年振りに実戦の舞台に立つ此の軍勢の大将は、当主の勝頼と同型の《諏訪法性の兜》を被り、力強い目線で遥か前方を見詰めていた。

 《甲斐の虎》と諸国に恐れられ、己の兜と同じ法名を戴いた、武田家前当主の武田権中納言晴信…法性院信玄である。

 

 浜松城。

 武田軍が《秋葉街道》を通って迫りつつある徳川の本城は、異様な迄の喧騒と緊張感に包まれていた。

 奥三河や東遠江を切り取った武田の大軍勢が、遂に東側の最後の防衛線である天龍川を渡って、浜松城へと侵攻して来るのだ。

 今川家臣だった飯尾家の居城の《曳馬城》(引間城)を拡張して築かれた浜松城は、三方ヶ原台地の南側斜面に沿った丘陵に、詰めの曲輪(後の天守曲輪)・本丸・二の丸が一直線に築かれている。

 拡張工事を始めて3年余り、詰めの曲輪には盟主・織田信長の居城である岐阜城を模した《天守台》の土台を積み上げ始めた他、己の家臣を城下に集める屋敷群として《三の丸》の縄張りも行われていたが、武田軍の遠江侵攻を受けて工事は中断を余儀無くされていた。

 浜松城の本丸御殿には、城主である徳川三河侍従家康が、放った細作(斥候)や物見からの報告を聞きながら床几しょうぎに座している。

 昨夜一睡も出来なかったのか、眼の下にはどす黒い隈を作り、右親指は余りに力を込めて噛む為に、爪の先が千切れて血が滲んでしまっている。

 昨夜の家臣を集めた評定に於いて、自ら《武田軍に一当てして浜松城に引き付ける》と宣言して方針を決したのだが、いざ朝を迎えても、改めて襲われた不安の余りに、朝餉も殆ど手を付けずに早々に具足を纏っていた。

 

「武田の軍勢、下神増から天龍川を渡り終え、秋葉街道を此方へ向かって居りまする!」

 物見から戻って来た使番からの報知を受けて、家康は軽く眼を瞑って大きく深呼吸をする。

「ふぅ…、どうやら三河へと向かわずに、此の浜松に攻めて参る所存の様だな!此れで城を出て、一当て致す手間が省けたわ!直ちに籠城の支度に入るぞ!退き太鼓を鳴らして城の外に居る軍勢に、城に入る様に合図致せ!万が一にも、武田の奴輩に付け入りを許すなよ!」

『はっ!』

(馬鹿正直に城攻め致すとは、矢張り《諏訪の小倅》は信玄坊主に遥かに劣る能無しらしいな!此れで、浜松城に籠ってから武田の奴輩を蹴散らさば、逆上致した貴奴等を此の城に縛り付けれよう。しかる後に、弾正(織田信長)殿自らの後詰が参らば、我等の勝ちは揺るがぬわ!)

 使番や小姓達が、家康の命令を伝える為に一斉に駆け去る中、家康は心中で《勝頼の愚かさ》を嘲笑して北叟笑む。

 しかし、籠城の支度に入って城門を閉ざした直後、新たな使番が物見の結果を知らせると、家康や側近達は顔を見合わせてしまった。

 

「何だとっ?敵が道を逸れたと申すのかっ!」

「御意で御座いまする!武田の軍勢は《三つ花菱》の穴山勢を先頭に《秋葉街道》を有玉迄南下致し申したが、其の有玉にて西に進路を変えて欠下に到って居りまする!」

 有玉は浜松から1里程離れた《秋葉街道》沿いの集落だが、其処から西へ折れると欠下の先で三方ヶ原台地へと登る坂道へと続いている。

 

「…解せませぬな。此の浜松城を指呼の間合に収めながら、急に向きを変えるとは…」

「欠下から西へ進めば、大菩薩の坂を登って三方ヶ原に到りまする。貴奴等は数に利する故に、浜松を東のみ為らず北側や西側からも囲み、総懸かりにて攻め寄せる腹積りでは御座らぬか?」

 家康を支える2人の家老…《東三河衆旗頭》の酒井左衛門尉忠次と《西三河衆旗頭》の石川与七郎数正が、首を捻りながらも考え得る武田の策を述べ合う。

 織田家からの助勢として浜松城の籠城に加わっている、佐久間右衛門尉信盛と水野下野守信元の両名も、忠次や数正の考えに首肯している。

 其処に、使番が新たな物見の報告に訪れ、武田軍の更なる動向を知らせた。

 

「武田の軍勢、全兵力を三方ヶ原に上げた後、大菩薩に於いて其の足を止めて居りまする!現在は休息を取っておる様子、既に半時(1時間弱)近く止まった侭で御座いまする!」

「…矢張り、浜松を囲んで平押しに致す所存で御座るな。三河(家康)殿、此れからが正念場で御座るぞ!」

「承知致しておる申す!右衛門(信盛)殿と伯父上も御頼み申しますぞ!」

 信盛からの言葉に返事を返しながら、家康は浜松城での籠城戦の目処が立ちつつある事で、喪失しかけた自信を回復させる。

 だが、其の次に受けた報せが、家康や徳川の武将達に混乱をもたらしたのだ。

 

「武田の軍勢、大菩薩から西に進んだ後、追分から《本坂道》を北へ曲がり申した!」

「何だと!追分から此の浜松に攻め寄せて参るのでは無いのか!」

 追分の地は、天龍川東岸の見付から三河へと続く《本坂道》と、浜松へと抜ける脇街道が交差する交通の要衝である。

 使番からの報知を受けて、《追分から南進する》と踏んでいた家康は、思わず声を荒げて床几から立ち上がった。

真逆まさか浜松を放った侭で三方ヶ原を下って、三河へと向かう腹積りでは…」

「其れ為らば、二俣から直接西進して、気賀へと向かえば良いで御座ろう。何故に態々(わざわざ)此の様な遠回りを…」

「いや、都田川沿いには、昨日の内に武田の別勢を確認致しておる。貴奴等は気賀か堀江辺りで合流致す腹積りでは御座らぬか?」

 武田軍の予想外の動きに、面食らって顔を見合わせる徳川方の家臣達を横目に、信盛は家康に微かに上擦った声色で詰問して来た。

「三河殿、此の侭では武田大膳(勝頼)が三河を通って尾張に攻め寄せるやも知れぬ!如何致される御所存で御座るか?」

 

 信盛等の織田の助勢は、内々の任務として《徳川家の監視》も命じられていた。

 万一、家康が武田家と内通して不戦を貫く事態と為れば、直ちに《徳川の怠惰》の非を鳴らして、兵権の剥奪等の強硬手段を取る用意を秘密裏に進めていた程である。

 正に遠江で武田軍を食い止めるのは、信盛達…織田家側にも最優先事項であり、此処で武田軍を見す見す三河・尾張に通過させた場合は、彼等の責任を追求され兼ねなかったのだ。

 だが家康は、焦った信盛の声が全く耳に入らない程の、凄まじい怒りに震えていたのだった。

(おのれ勝頼っ!我が城の鼻先を通り過ぎて、国衆共に《儂の戦わぬ姿》を見せる事で、更に手入れ(調略)を進める腹積りかっ!《諏訪の小倅》の分際で舐め腐りおって!貴奴の身を八つ裂きにしても飽き足らぬわっ!)

「…殿っ、如何致されまするか?此の侭浜松に籠城致しても、三河に向かわれては埒が開かぬのでは…」

 右親指の爪を全て剥がし兼ねない程に力を込めて噛む家康を心配して、側に控える異母弟・内藤三左衛門信成が話し掛けると、家康は苛立ちを抑え込んで指示を下していく。

 

「無論だ!武田の奴輩には、此の浜松に背中を向けた報いを呉れて遣る!信成、《本坂道》を追分から北に進めば、先に何が有った?」

「三方ヶ原から都田川畔の気賀へ向かう途上には大谷坂、金指へ抜ける東の脇道には祝田ほうだの下り坂が御座いまするが…、成程っ!其等の坂を下る最中に攻め立てて《逆落し》を掛ける訳で御座いますな!」

 信成は異母兄の真意に考えが及ぶと、膝を叩いて喜色を浮かべる。

「うむっ!坂を下る途中に背後から攻め掛かれば、半数以下の我等にも十二分に勝機は有る!但し、武田の奴輩の半ば迄が坂を下って、進退窮まった処を攻撃致さねば為らぬ!其れ故に、三方ヶ原を下り始める迄は間合を開けて遠巻きに致し、一気呵成に襲い懸かるのだ!」

『応っ!』

 信盛と信元を含めて、諸将が家康の檄に力強く応じる中、忠次と数正のみが眉間に皺を寄せている。

 彼等には、余りにも不自然な武田軍の動きに、罠めいた物を感じていたが、国衆の離反を防ぐ為には不利でも出撃せざるを得ない事、そして其れさえも武田の術中に在る事を悟っていたのだ。

 

 籠城の支度の最中、突如として出撃命令が下され、城内に散っていた軍勢は再び集合して城門を潜っていく。

 其の中には、此の戦いに雪辱を期する者達も存在していた。

 開城した高天神城から退転して来た小笠原右京進義頼や、高天神の援護が叶わなかった小笠原摂津守安元を中心とした幡豆小笠原一族、つい3日前に二俣城を失陥した中根平左衛門正照と青木又四郎貞治、そして所領の諍いを起して此の8月に織田家から追放された織田駿河守(後の中川八郎右衛門重政)・織田左馬允(後の津田四郎左衛門盛月)の兄弟…といった者達が、夫々(それぞれ)に決意を宿して、浜松城から北へと進んで行く。

 其等の中で、煌びやかな具足を纏った年若の武将が、馬上から槍を振り回して自らの手勢に向けて喚き散らしている。

「善いか!此の俺を端武者同然に扱った徳川三州に、目に物を見せて呉れるわ!一手全員で武田相手に華々しく討死致して、見事死花を咲かせて呉れようぞ!」

 己の家臣に向かって、理不尽な事を言い放つ此の武将は、織田家譜代家臣の御曹司で助勢の大将の1人、平手甚左衛門尉汎秀である。

 汎秀は、昨日の入城後に行われるべき家康の挨拶に於いて、自分が後回しにされた事に腹を立て、当て付けにわざと討死為ると宣言していた。

 家臣達は迷惑此の上無い主人の発言に顔をしかめていた。

 だが汎秀率いる平手勢は、大将の戦意の侭に次第に徳川勢の先頭近くに進み出ていく…。

 

 武田軍の主力に当たる3万3千の軍勢は、追分の地から《本坂道》を東側に逸れると、地元の民のみしか使わない脇道を北に向けて歩を進めていた。

 後に整備されて《金指街道》と呼ばれる事になる脇道を、三方ヶ原の北端迄突っ切り、祝田の下り坂へと向かって行く。

 既に大菩薩に於いて大休止を取った際に、組頭以上の者達が集められて、此れから取るべき手順や配置を全て説明し終えていた。

 行軍の序列を一部変更して、先頭を進んでいた小荷駄衆と甘利信康配下の筒衆が、祝田の坂の入口付近に辿り着くと、当初から調べを付けていた低い丘陵の影に在る窪地に、其の姿を隠蔽為る様に布陣する。

 更に後続の軍勢は、祝田の坂の手前の辺りに到着為ると、まるで前方が突っ掛かって進めないかの様に、脇道の左右に広がる三方ヶ原の原野へと展開していった。

 そして、遠くから目立ってしまう旗指物を一旦仕舞い込んでから、窪地の中や低い丘陵の北側等の、僅かな起伏差に因って南側から視覚の陰になった場所に移動為ると、足元の雪を退かした上に予め用意しておいたむしろに座り込んで、姿勢を低く保った状態で待機に入った。

 北側の遥か遠い高所から視認した徳川方の物見の者達には、あたかも武田軍が祝田の下り坂を難渋しつつも徐々に降りているかの様に錯覚為るのだ。

 但し、必要以上に近付いて来た物見や細作はことごとく捕殺され、完全な機密の保持が行われている。

 そして殿軍を受け持つ小山田勢3千のみが、まるで坂を下る友軍を逃がすかの様に南向きに布陣して、浜松から追撃して来るで在ろう徳川勢の動きに備えつつ後退していた。

 

「…昌胤、他の軍勢の動きは如何相成っておるか?」

 二俣城攻略中から調べを付けていた、祝田坂の手前に生える松の大木(後に《根洗松》と呼ばれる事になる)の根元に漸く到着して、用意された床几に座した勝頼が、側に控える《両職(筆頭家老)兼政所執事》で陣場奉行をも兼任する原隼人允昌胤に問い掛ける。

 

「はっ、既に小荷駄は祝田の坂の入口付近の窪地に《野伏せ》致し、甘利勢と筒衆が守りを固めて居りまする。また、先発致した穴山勢も《本陣の後背》に位置する坂の手前に布陣を終え申した。別行動の秋山勢と北条勢も、既に三方ヶ原を回り込み所定の場所に到着致した後、《野伏せ》の支度に入って居りまする。後は、未だに脇道を此方へ向かっておる内藤・春日・馬場・山県の各軍勢の布陣が済めば、戦支度が大方は調ととのいましょう」

 昌胤からの澱み無い報告を聞いて、勝頼は首肯して静かに前方…南側からの視界を遮る丘を見詰める。

「為らば、後は左兵衛(信茂)率いる小山田勢の《釣り出し》次第か…。是が非でも徳川勢を此処迄引き摺り出さねば成らぬが…」

 勝頼は周りの家臣達に見せる様に、努めて悠然と振る舞っていたが、内心では此れ迄に無い程の焦燥に駆られていた。

(策を実行致すのに適当な窪地や丘が此の地に多く在った故とはいえ、《本坂道》を外れて隙を見せるのは、余りにわざとらし過ぎたか…。だが何と致しても、浜松城の将兵を全て引き摺り出して搦め取らねば…。然も無くば、搦手の父上の軍勢が危うく為ってしまう…)

「…御屋形様、今少し落ち着かれられませ。主人あるじが焦りを見せては、家臣共が浮足立ちまするぞ!」

 勝頼の焦りを読み取った軍師・真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)が、本人にしか聞こえぬ程の小声で若き主君をたしなめる。

「…一徳斎、儂も判っておるが、万が一にもしくじる訳にはいかぬ。徳川の物見共の動きは封じておるのか?」

「勿論で御座る。《三つ者》を始め諏訪や我が真田の忍者を使って、物見は全てほふって徳川の耳目を完全に封じ込めて御座る。何故か判りませぬが、徳川に仕える《伊賀忍び》が少なかったのが幸いで御座った」

 此の戦いに於いて、徳川方に対する防諜活動を統轄している幸綱が、自信を込めて断言為ると、勝頼は軽く安堵の表情を浮かべた。

「左様か…。一徳斎が其処迄申す為らば、先ず間違い有るまい。だが油断は禁物、戦支度が調う迄は努々(ゆめゆめ)警戒を怠らぬ様に致せ!」

『はっ!』

 勝頼の指揮に2人の重臣が応諾した直後、奥近習頭の土屋惣三昌恒が、3人に聞こえる程度の小声で話し掛けて来た。

「誠に失礼致しまする。今し方、武藤喜兵衛殿が戻って参られたよしで御座いまする。直ぐに本陣に御通し致しまするか?」

「何っ!昌幸が漸く戻って参ったか!戦の間際に駆け付けるとは、流石は昌幸じゃ!今は我が手元に1人でも多くの良将が入り用故、暫時本陣にて働いて貰うぞ!直ちに呼んで参れ!」

「御意っ!」

 昌恒は力強い答礼を施すと、祝田の坂の方向へと駆け出していく。

「御屋形様、我が愚息の遅参、誠に申し訳御座いませぬ。愚息に成り代わり御詫び申し上げまする…」

 駆け去る昌恒を横目に見ながら、幸綱は己の息子である昌幸の事を謝罪するが、勝頼は手を振りつつ意識的に軽口を叩いた。

「何を申すか。此の厳冬の中を、遠江から越前迄を往復して我が命の通り半月余りで帰参したのだ。昌幸を誉めこそすれ詫びる必要は無い。…とはいえ彼奴あやつに此の様な褒め言葉を言っても全く悪びれぬからなぁ…」

「ははっ!全く御恥ずかしい。汗顔の至りで御座る…」

 勝頼の言に益々小さくなる幸綱を見て、勝頼や昌胤は苦笑を浮かべるのだった。

 

 勝頼率いる本備えが、漸く祝田の坂の手前に到着した頃、追分から北に約10町程(1町は約109.1メートル)移動した初生の地に於いて、2つの軍勢が睨み合いを始めていた。

 北側に布陣するのは小山田信茂率いる郡内勢3千、対して南側には浜松から駆け付けた徳川・織田両家の軍勢4千程が布陣している。

 徳川・織田勢は総兵力は1万1千に及ぶが、最後尾は未だに浜松城から出撃したばかりであり、三々五々軍勢に合流して其の数を増やしている。

 恐らく1刻(此の季節では約1時間40分程)も経てば、全ての軍勢が集結して布陣も終わるだろう。

 だが信茂には、敵の動きに合わせてやる積りは毛頭無かった。

 

「さて、漸く出張って参ったか…。では此れより徳川の犬共の鼻先を、1里程も引き摺り回して呉れようか!《飛礫衆》を前に出せっ!」

 信茂の号令が下ると、軍勢の中から百人程の集団が前に進み出る。

 中間や小者の中でも、石礫いしつぶてを投げる事…印地打ちを得手とする者のみを集めた《飛礫衆》である。

 普段は足軽や手明(短い槍や脇差を持って騎馬の轡を曳く者)等として働く一方、開戦時の石合戦(飛礫飛ばし)の際に、用意した石礫を相手に投げ付けて、次の展開を有利に進めるのだ。

 彼等は一様に、革を編んで作った《雁殺し》とも呼ばれた投石器と、印地として投げるに最適な石礫を用意しており、組頭の指示を受けて片側を手首に固定した投石器に石礫を挟むと、勢い良く振り回し始める。

 遠心力が加わって風を切る音が唸るのを聞きながら、信茂は静かに右腕を掲げ、裂帛の気合を込めた号令と共に振り下ろす。

「打てぇ!」

 信茂の号令一下、石礫は《雁殺し》より放たれて、素手で投擲為るよりも数倍の距離に低い放物線を描いて、徳川勢の前方の足軽達に襲い掛かった。

 3寸程(1寸は約3.03センチメートル)の石礫が高速で当たると、具足や陣笠の上からでも打撲傷や骨折を受ける。

 打ち所が悪ければ、脳挫傷や内臓破裂等の致命傷を負い兼ねないのだ。

「ぎゃっ!」

「ぐぁっ!」

 最初の1投目は十数人の足軽達が負傷したのみだったが、《飛礫衆》が徳川方の射程のぎりぎり外側迄進み出て、次々と石礫を打ち込んだ為に、瞬く間に負傷者が続出した。

 中には、運悪く即死に追い込まれる足軽さえも出始めたのだ。

 

「ええぃっ!高々《石合戦》で怖じ気付くとは、徳川の輩は何と情け無い事よ!我等が主たる弾正大弼(織田信長)様は、若き時に《石合戦》で印地打ち共相手に華々しく戦われた!徳川の者共、我等、織田家譜代たる平手の軍勢が手本を見せて呉れようぞ!」

 高速で飛来する石礫を恐れて逃げ惑う徳川勢に向かって、騎乗の侭で最前列に躍り出た平手汎秀が、挑発するかの如き口調で檄を飛ばす。

「者共っ、命を惜しむな!仕居場(間合い)を詰めてしまえば、印地なぞ恐るるに足らぬわ!一気に奴等を突き崩し、奥の下り坂で難渋致しておる武田の奴等を坂から転げ落とすのだ!…者共っ、俺に続けぃ!」

『ぅわぁぁっ!』

 主人である汎秀が号令と共に一騎駆けで駆け出すと、半ば自暴自棄気味の平手勢も追い掛ける様に後に続く。

「織田家からの助勢に一番槍を取られるな!此の戦いこそが我等二俣の者達の雪辱の刻、武田の山猿共に一泡吹かせて呉れようぞ!」

 平手勢の突撃に感化されて、3日前迄は二俣城の籠城の指揮を取っていた中根正照が、周りに集まった者達に発破を掛ける。

 正照や二俣の副将だった青木貞治は、二俣落城の際に主君の家康からなじられており、自責の念から此の戦いで名誉の討死を為る覚悟だった。

『ぅおおぉっ!』

 正照の発破に、其の場に居合わせた徳川方の将兵達は、一気に興奮状態に達して気勢を上げる。

 現在此処に居る者達は、正照達同様に家康の不興を買って雪辱を望む者や、徳川家の此れ迄の戦振りを腑甲斐無く感じていた者等で、当初予定された《浜松城の籠城戦》に於いて、城の大手や城外に持場が与えられていた。

 其れだけに、未だに追分に到着していない者達に比べても戦闘意欲が高かった上に、小山田勢からの《印地打ち》や汎秀率いる平手勢の突撃、そして正照の檄に触発されたのだ。

 此れに因って、居合わせた多くの者達が雪崩を打って、小山田勢へ向かって動き始めたのだ。

 

「おいっ!藤八!何を呆けておるのだ!儂等も平手様や徳川の衆と共に、武田の奴等に斬り込むぞ!」

 徳川勢の先手に加わって追分に到着した若い徒士武者…元織田家臣で徳川家に寄寓している佐脇藤八郎良之は、同輩達を束ねる山口飛騨守から急かす様に声を掛けられると、出奔以来脳裏に有る疑問を口にした。

「飛騨殿…、我等は飽く迄も徳川殿に陣借りを致しておる身。武田の軍勢に攻め懸かるのに異論は無いが、本当に織田の殿(信長)が、此れで我等の帰参を御認め下さると考えておるのか?」

「何を申すか!御主の兄者と同様に、此の戦いで戦功を挙げる以外に、織田家に帰参致す手段が有ると思うか!橋介と勘右衛門も、一日千秋の思いで此の機会を待って居ったのだ!具足匠の三十郎迄もが共に参って居るのだぞ!今更、後になぞ引けるか!」

「……」

 

 良之は、尾張海東郡の荒子郷の領主だった前田縫殿助利昌の5男として生を受け、養子に入って佐脇家の家督を継いだ。

 直ぐ上の実兄・前田又左衛門利家よりも先に、若くして主君である織田信長に小姓として出仕、側近として戦歴を重ねて《赤母衣衆》や《尺限さくぎわ廻番衆》にも名を連ねている。

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、岩室長門守・長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎と共に、信長と清須城を発して熱田宮へ赴き、織田勢集結の魁と成った。

 だが永禄12年(1569年)の末、加藤弥三郎(岩室長門守が戦死した後に家督を継いで《岩室勘右衛門》と改名していた)が老臣の赤川三郎右衛門景弘との間に諍いを起した。

 其処で、勘右衛門は同輩の長谷川橋介・山口飛騨守と共謀して、3人で景弘を斬殺の上で逐電してしまったのだ。

 其の後、良之は信長に対して3人の弁護をしたのだが、信長からの不興を買ってしまい、己自身も出奔せざるを得なく為ってしまった。

 

 但し良之には、赤川景弘の一件の他にも出奔を後押しした個人的な理由も存在していた。

 事件の同年、長兄・蔵人利久が継いでいた前田家の家督を、主君である信長の介入に因って、小姓上がりで若い頃には信長と肉体関係を持っていた4兄の利家が、強引に奪い取ってしまったのだ。

 利久と養子の慶次郎利益(後妻の連れ子で利久の姪が嫁いでいた)の親子は、荒子城から放逐されて行方知れずと成った。

 利久には《信長の家督襲名の際に反対していた》という過去が存在していたとはいえ、利益と同様に養子として佐脇家を継いでいた良之には、信長の裁定と利久親子に対する仕打ちは、余りにも贔屓が過ぎる上に酷薄に思えた。

 其の直後の同輩の事件だった為に、3人の弁護をして信長の不興を買った時点で、信長に対する《忠誠心》は磨滅してしまったのだ。

 良之は、妻子を連れて荒子から出奔為ると、先の3人に合流して三河・遠江の太守である徳川家康の元に寄寓した。

 彼等は家康から捨て扶持を与えられ、浜松の城下に於いて3年余りの雌伏の刻を過ごし続けていた。

 そして、今回の出陣の折に、尾張から訪ねて来ていた旧知の具足匠の玉越三十郎が同行を申し出た。

 彼等5人は、徳川勢の先陣に陣借り為る形で三方ヶ原へ出撃して来たのだった。

 

「飛騨殿…。儂の兄者の件の時は、相手は茶坊主だった故に、2年間の浪人の間に戦功を挙げて帰参が叶ったのだ。だが、赤川は先代(織田信秀)から2代に仕えた重臣、茶坊主如きとは訳が違う。若し帰参を願い出る為らば、其れこそ只の武将首では無く、大将首でも挙げなければ…」

「為らば、諏訪の小倅…勝頼の首を狙う迄よ!儂も橋介も勘右衛門も、必ずや殿(信長)に御赦しを頂いて帰参を果たしてみせる!藤八っ!武田の奴等が怖い為らば、浜松の屋敷に帰っておれ!」

 3人の行く末を心配した忠告に逆上して、先を行く同輩達の後を追う飛騨守の背中を見詰めながら、良之は自嘲気味に独り呟いた。

「…勿論戦うさ。天下に名高い武田相手の大戦、我が最後を飾るのに此れ以上の場所は有り得ぬからな…。そして儂の死に様に因って、3人の内の1人でも織田家に帰参が叶えば、儂も報われるというものよ!」

 良之は、利家が家督を強奪した前田家に戻る事や、半ば切り捨てられた織田家への帰参の望みは疾うに消え失せ、此の武田との戦いに《死に場所》を求めて参加していた。

 最後に己の死花を咲かせて、帰参を望む同輩達の役に立ってやりたかったのだ。

 良之は再び北へと駆け出して、己の死地と定めた三方ヶ原へと足を踏み入れて行った。

 だが運命は、良之達に皮肉な結果を提示する事に成るのである…。

 

 初生での小山田勢と徳川勢先備えの小競り合いが始まって、およそ1時弱(此の季節では1時は約1時間40分)が経過した。

 小山田勢は《飛礫衆》だけで無く弓衆・筒衆(鉄砲隊)等も巧みに投入して、互いの間合いを守った侭で後方…祝田の坂が在る北の方角へと退いていく。

 そして、間合いが《印地打ち》の射程を超えて広がりそうに為ると、飛礫衆が前進して《印地打ち》を行い徳川勢を挑発為る事で、彼等を北へ北へと引き寄せて行ったのだ。

 対する徳川勢先備えは、激昂して猪武者然として追撃している平手汎秀の手勢に引き摺られる形で、殆ど並足程度の速さで小山田勢に追い縋って行く。

 家康の命を受けた重臣の石川数正が、先備えに追い付いて軍勢を掌握為る頃には、両軍勢の小競り合いの場所は、最初の激突地である初生から1里近く北側に移動していた。

 

 徳川勢先備えの四半里(約1キロメートル弱)後方には、浜松から出陣して先備えに後続為る形で北上中の、徳川勢と織田家助勢の主力が進軍していた。

 激発して遥か前方で暴走する先備えを抑える為に、思慮深い数正を先行させたとはいえ、一刻も早く全軍を集結させるべく、徒士武者や足軽達には早足で進む様に命じている。

 そして、ごく低い丘陵の尾根と其の南側に流れる小川を利用して布陣する小山田勢を視認為ると、漸く休止の命令を下して未だに後方から合流する将兵全員の集結を待った。

 自称する《源氏》を象徴する白旗と、白地に《厭離穢土欣求浄土》と大書された旗印、そして金色の扇を象った馬印を掲げ、馬上で軍配を揮っていた家康は、使番から新たなる報告を聞いて内心で北叟笑む。

「前方の丘上に小山田勢3千程が布陣致して居りますが、其の向こう側の武田の軍勢は数を大きく減じて居りまする!」

「左様か…、恐らくは其の多くが祝田の坂を下っておるか、若しくは下り坂の最中の様だな…」

(確か《諏訪の小倅》は3年前に北条の《地黄八幡》の挑発に乗り、半渡(渡河中)を攻められ大敗した挙句、半年程謹慎させられたと聞いておったが…。全く成長の欠片も無いとは…!空頭の勝頼如きに家督を譲るとは、信玄坊主の知謀も遂に曇りを生じた様だな!)

 

 永禄11年(1568年)12月から行われた《武田家の第1次駿河侵攻》に於いて、当時《御親類衆200騎持ち》だった勝頼は、信玄に自ら志願して参陣、富士川の守りを任されていた。

 だが翌1月に、今川家救援に参戦した北条家の勇将・北条左衛門大夫(後の上総介)綱成からの挑発に乗り、渡河中を攻撃されて大敗北を喫した。

 其の結果、兵站線を絶たれた武田軍は4ヶ月で全面撤退の憂目を見る事と為った。

 此の時、同じく今川家の所領で在った遠江は、三河を統一したばかりの徳川家が、漁夫の利を得る形で併呑していた。

 其れ以来、陣代(当主代行)を経て若き当主として武田家を率いる勝頼と、三遠2国の国主に登り詰めた家康は、幾度と無く戦いを繰り広げて来たのだ。

 

「…此れは武田を坂下に追い落とす好機よ!丘上の小山田勢を抜けば、祝田の坂迄は多少の起伏は有れども緩やかに下っておる!先備えも含めた全ての軍勢を、9つの備えに再編致して、坂の手前に残る奴輩を《鶴翼の陣》にて蒸し攻めにして呉れようぞ!」

『はっ!』

 背中に《伍》の旗指物を差した使番達が、命令を各武将に伝える為に一斉に駆け出すのを眺めながら、家康は自信に満ちた面持ちを浮かべる。

(さぁ、丘上の小山田勢のみ為らず、坂の手前に残る連中を破った為らば、早速『徳川勢は3倍の武田の軍勢を打ち破った』と諸国に喧伝致して呉れよう…。国衆共だけでは無く、織田家の家臣も、そして弾正殿自身も、我等を見る目を必ずや変えるに相違有るまい…)

 己の命を受けた軍勢が、次第に小山田勢を半包囲為る《鶴翼の陣》に陣替えを進める様子を見ながら、家康は脳裏に《風林火山》の旗印が引き倒される様子を浮かべて、口角を引き上げるのだった。

 

「御屋形様!徳川勢は、前方の丘に陣取る小山田殿の手勢の正面に5町程の仕居場を開け、《鶴翼》の陣形に陣替え致して居りまする!右翼は酒井左衛門(忠次)と佐久間右衛門(信盛)等の4つの備え、左翼にも大久保七郎右(忠世)と石川与七郎(数正)等の4つの備えを配し、中央には三州(家康)自ら布陣致して居りまする!徳川の兵力は少なく見積もっても1万以上で御座いまする!」

 物見に遣わしていた百足衆(使番)の小山田八左衛門行村(信茂の従兄弟)からの報告を受けて、勝頼を始めとした武田軍の首脳部は、一斉に安堵の嘆息を付く。

「ふぅ…、1万以上為らば浜松の総兵力である1万1千の内、殆どは出陣致したに相違無い…。どうやら、左兵衛の小山田勢が三州達を上手く釣り出す事、首尾良くいったらしいな…」

「御屋形様、まだまだ油断は禁物で御座る!徳川が我等の《十面埋伏の計》に掛かったとはいえ、単に浜松城から引き剥がしたのみ!未だに戦は始まってもおりませぬぞ!」

 安堵の表情を浮かべる勝頼に対して、軍師の幸綱が気を引き締める様に窘める。

 其処に、幸綱の息子で先程漸く今回の策の全容を伝え聞いた昌幸が、勝頼に身も蓋も無い事を口にする。

「…親父殿の申す事、もっともで御座る。ですが、此の策が此処迄上手くはまったのは、家康が御屋形様を《諏訪の小倅》と嘲って居った故。謂わば御屋形様の汚名有ったればこそ、此の策は日の目を見たので御座る。もっと胸を御張り為されよ!…とは言え、御隠居様が軍勢を率いた為らば、此の様な迂遠な手を使わずとも、其れこそ《敵前にて反転》なぞ致して、もっと楽に勝ちを収めたでしょうがな…」

「なっ…!」

「武藤様っ!其の様に申す事は余りにも無礼で御座いまするぞ!」

 昌幸の余りの言い様に、重臣達は唖然としてしまい、奥近習頭の昌恒だけが信じられぬとばかりに憤る。

 だが、信玄からの書状に従って策を練り上げた勝頼と幸綱には、昌幸の言いたい事は十二分に理解していた。

 

「…判っておる。恐らく此の戦に勝てば、諸国の儂を見る目が全く変わり、厳しい舵取りを強いられよう。此の様な挑発を致すのは此れが最初で最後だ…。だからこそ、此の一戦で儂の恥辱を雪いで呉れよう!」

 勝頼の決意の発露を聞いた幸綱や昌胤等の重臣達、そして勝頼に付き従う近習達は、一様に力強く頷いた。

 但し昌幸だけは、勝頼が昌幸の挑発に激昂せずに静かに闘志を漲らせる様子に、満足の体を示して口元に笑みを浮かべる。

 其の様な家臣達を一通り眺めると、勝頼は床几からやおら立ち上がって軍配を握り締めた。

 

「では、そろそろ始めると致そうか!小山田勢を丘の上から《繰り退き》させよ!徳川勢の過半が丘を越えて下りに入ったのを見計らって、《野伏せ》を解いて《魚鱗の陣》に陣替え致す!其れと昌胤、秋山勢と北条勢は既に徳川の後方に達して居るのか?」

「はっ、秋山伯州(伯耆守虎繁)と北条助五郎(氏規)殿からは、『気賀から浜名湖沿いを回って、追分の西の和地村に於いて《野伏せ》に入った』旨、繋ぎの報せが入って居りまする。戦が始まったと同時に、徳川勢と浜松城を切り離す手筈、抜かりは有りますまい」

「そうか。為らば後は父上の軍勢が事を成し遂げる迄、三州と徳川勢を此の三方ヶ原に封じ込めるのみだな…」

(父上が、未熟な儂でも徳川勢を破れるべく練り上げた此の策、兵の大部分を預けられた儂がしくじっては元も子も無いわ!父上の期待に応える為、そして武田の名誉を汚さぬ為にも、必ずや成し遂げなくては…!)

 勝頼は僅かに瞑黙して心中で己に言い聞かせると、カッと眼を見開いて軍配を前に翳した。

「…皆の者、其れでは参ろうか!此処が切所と心得て、《野伏せ》の罠に掛かった徳川勢を討ち果たすのだ!」

『ははっ!』

 父親の信玄から譲り受けた《諏訪法性の兜》を被り、愛用の《紅糸威最上胴丸》を身に纏った勝頼は、内心の高揚と不安を押し隠して《其の瞬間》を待ち続ける…。

 

 武田軍の殿軍として、徳川勢を誘導為る役目を帯びていた小山田信茂は、余りにも素直に食い付いて来る徳川勢の動きをいぶかしんでいた。

 信茂は敵勢が《鶴翼の陣》に陣替えしている隙に、父の出羽守信有・兄の弥三郎信有と3代に渡って小山田家に仕える侍大将である、奥秋加賀守房吉を呼び寄せて質問を浴びせてみる。

 

「加賀…。彼の敵の動き、数倍の敵を相手取るにしては、余りにも戦振りが粗過ぎだ、とは思わぬか?」

「殿も、其の様に見て取られましたか。敵勢の先陣に、異様に威勢の良い大将が垣間見え申した。恐らくは其の者に引き摺られて参ったので御座いましょう」

 徳川勢を此処迄引き連れて来た平手汎秀の存在を、戦いの中で当に見抜いていた房吉は、信茂が次に求める回答も既に用意していた。

「先程の《鶴翼》への陣替えに於いて、其の武者が率いて居った《二本引き両》の旗指物は、敵の《鶴翼》の向かって右の付け根に御座いまする。備えに多く見える旗指物は《丸に笹竜胆》…大将は石川与七(数正)かと推察致しまする」

「うむ、為らば其処に印地や弓矢を畳み懸けろ!其の猪武者を使って、徳川の《鶴翼》を前の方に引き摺り出せっ!」

 信茂の号令が下り、《飛礫衆》と弓衆が最大射程一杯の処に布陣為る石川勢の前方…平手勢に向かって、石礫と弓矢を打ち込んで来る。

 度重なる小山田勢の挑発に激昂していた上に、昨日無礼を働いた徳川家康が、己の直ぐ右隣りに当たる《鶴翼》の中央に布陣した事に因って、すっかりいきり立ってしまった汎秀は、丘上の小山田勢に己の槍を向けながら突撃の命令を下した。

 

「ええぃ!何時迄も目障りな奴輩よ!者共っ!此れより手前の小川を抜いて、丘の上の敵勢を向こう側に追い落とす!命を惜しむな!名こそ惜しめ!此の地にむくろを晒してでも、織田家譜代の家系たる平手の名を天下に轟かせて呉れるわ!懸かれぇぃ!」

『うわぁぁっ!』

 小山田勢の印地打ちをずっと軍勢の先頭で受け続けて、神経を磨り減らしていた平手勢3百は、狂気を孕んだ叫声を上げながら突撃を開始為る。

「ええぃ!止まらぬか!殿は未だに懸かり太鼓を鳴らしては居られぬぞ!」

 数正は必死に平手勢を抑えつけようと試みるが、平手勢の動きに触発されて、右翼側の備えからも暴走し始める者が現れた。

 

「武田の山猿共っ!三箇野川での借りは、貴様等の血肉を以てあがなわせて呉れようぞ!」

「懸かれぇぃ!二俣城を失った汚名を雪ぐには此処を抜く他に無い!織田の助勢如きに一番槍を取られるな!」

 武田軍の遠江侵攻直後に、久野城近郊の三箇野川河畔で苦杯を嘗めた内藤信成や、つい二俣城を失陥した中根正照や青木貞治等の《雪辱を期する》武将達が両勢を隔てる小川を渡り、先に北行した武田軍に因って踏み固められた雪の上を、ジワジワと前進し始したのだ。

 

(丘の軍勢が崩れ始めても後詰を入れるでも無く、唯々(ただただ)後ろの祝田の坂を目指して退くのみか…。…よし!此処で平手甚左(汎秀)や信成、正照、貞治等を止めるよりは、此の流れに乗って一気に総懸りに攻めて、《諏訪の小倅》を蹴散らして呉れるわ!)

 《鶴翼》の陣形の中央に於いて、騎乗して采配を揮っていた家康は、此方側と距離を保つ形で丘の向こう側へと《繰り退き》する小山田勢と、追撃し始めた平手勢や内藤勢を見遣って、更なる攻勢に打って出る決断を下した。

「懸かり太鼓を鳴らすのだ!此れより《鶴翼》を前に進めて、丘の上から逃げる敵に追い討ちを懸ける!貴奴等を破った為らば、勢いの侭に祝田の坂の手前に残った奴輩を、纏めて坂の下迄追い落とせぃ!」

『ぅおおぉっ!』

 家康が発した檄を聞いて、本備えから沸き起こった熱気と歓声は、瞬く間に《鶴翼》の両側へと伝播していき、徳川勢全体の戦意は一気に最高潮に達した。

 忠次や数正等の冷静な重臣達を除いた多くの者達には、此れ迄苦戦を強いられた武田軍相手に、相手の失態に因る《千載一遇の好機》が遂に訪れた、と捉えられたのだ。

 特に旗本先手衆で左翼に布陣する本多平八郎忠勝や大須賀五郎左衛門尉康高や榊原小平太康政、《大久保党》を率いる大久保七郎右衛門忠世等の武勇を誇る者達は、此れ迄鬱積させていた戦意を爆発させる《絶好の機会》を逃さぬ為に、己に預けられた軍勢に進撃を命じていく。

 

「者共っ、一気に坂を登るぞ!儂に続けぇぃ!」

「三河武士の力を見せ付けるは、今を於いて他に無い!我等が殿の御恩に今こそ報いるのだ!」

 徳川方の勇将達の戦意に感化された様に、右の脇備えに位置する佐久間信盛や、本備えに組み込まれた水野信元も、自ら馬上にて采を揮って進撃を開始したのだ。

 君臣一体に高揚した戦意其の侭に、徳川勢は《鶴翼》の陣形を保つ形で、雪が降り積もった丘の緩やかな斜面を登って行く。

 既に小山田勢は稜線の向こう側へと退いており、徳川勢は膝丈程の小川を渡り、遮る者が居ない雪の原野を走破して、次々と丘陵の尾根を越えて行くのだった。

 

 武田家と徳川家の間に漲って戦雲は、武田側の策略が功を奏す形で、遂に《両軍主力同士の正面対決》へと発展為る事に成った。

 だが、大軍を擁した上に、父・信玄が勝頼の為に捻り出した策に従って、必勝を期した武田軍にも不安な点が存在した。

 半時以上に及ぶ《野伏せ》に因って身体を冷やしてしまい、所謂いわゆる《低体温症》に近い状態に陥ってしまったのだ。

 小山田勢等を除いて、武田軍は身体が温まる迄の短い時間とは言え、全力で戦闘出来ない事態に成っている事に、誰一人思い至って居なかった。

 多かれ少なかれ、御互いに錯誤を抱えた侭、武田勝頼と徳川家康の対決…《三方ヶ原の戦い》が幕を開けようとしていた。


とりあえず今回は、両軍が出陣してから激突直前迄の内容で進めていきました。見ての通り、若輩の勝頼が率いる事によって生じる不利な部分が、今迄の改革の蓄積によって大きく埋まり、史実の《三方ヶ原の戦い》と同程度の有利な展開へと持ち込んでいます。逆に言えば、信玄と勝頼の実力差は少なくとも此れ位迄はしないと埋まらないのでは、と思います。そう考えると、信玄の死後に負の遺産を抱えた侭に《陣代》名目で武田家を率いざるを得なかった史実の勝頼には、あの時代を勝ち残るのはやはり難しかっただろうな、と思います。次回は三方ヶ原での両軍の激突の話となります。相変わらずの長文の上に、前以上の遅筆なので誠に申し訳無いのですが、次回も読んで頂ければ幸いです。有り難う御座いました。

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