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廿参:徳川征伐(陸)~三方ヶ原前夜~

今回の話は、信玄の隠居に因って家督を正式に継いだ武田勝頼が、徳川家康との直接対決…三方ヶ原の戦いへ向けて動き出します。相変わらずの長文ですが、宜しく御願い致します。

 鈍色にびいろの曇天が天空の全てを覆って、其の向こう側に在る筈の蒼穹を隠してしまって居る。

 雪冠を戴いた峻嶺を駆け抜けた北風に乗って、頭上を途切れる事無く雪雲が駆け抜けて征く。

 此の年1番の寒気を伴った雪雲達は、本来為らば甲斐や信濃と比較して暖かい筈の遠江の台地を、少しづつ純白に染め上げていく。

 だが、遠江国の中央部を貫流して南の大洋を目指す天龍川の東岸には、雪の純白に映える様な色鮮やかな旗指物を翻して、総勢4万を越える軍勢が次なる戦いに備えていた。

 翻る旌旗の中でも一番多く描かれた文様は《四つ菱》や《花菱》…清和源氏の一流である甲斐源氏・武田家の家紋である。

 彼等は、甲斐武田家第20代当主・武田大膳大夫勝頼が自ら率いる《徳川征伐》の軍勢4万1千である。

 武田軍は、未だに浜松城で抵抗を続ける徳川三河侍従家康を打破る為に、明日の天龍川の渡河と、更なる西への進軍の準備に勤しんで居たのだ。

 

 時に元亀3年(1572年)12月21日の事である。

 

 一昨日…即ち12月19日に東遠江の徳川家最後の牙城である二俣城を落とした武田軍は、明朝黎明を以ての天龍川渡河進撃を決定した。

 麾下の軍勢の殆どは浜松城攻めに向けて士気を盛り上げる中、二俣の南に位置する合代島に設けられた武田軍の本陣には、武田家と助勢に入っている北条家の重臣の面々が顔を揃えて、明日の出陣に向けての最終確認を行っていた。

 

「…現在、浜松城には徳川三州(家康)率いる徳川勢は8千。浜名湖の西側、今切の渡しには佐久間右衛門尉(信盛)等が率いて参った織田の後詰3千が居り、今日中には浜松に入城致すと思われまする」

 武田家と北条家の重臣達が居並ぶ中、《両職》(筆頭家老)の1人で陣馬奉行も兼任している原隼人允昌胤が、上座の直ぐ横に張り出された西遠江の絵図を矢竹で指し示しながら説明を進める。

「浜松城は、城内の縄張りに幾つかの崖を取り込み、北側には《犀ヶ崖》と呼ばれる急峻な断崖で守らせておる、要害堅固な平山城で御座る」

れど、我が軍勢は北条勢を含めて総勢4万6千。東遠江に5千程残すとはいえ、4万を越える軍勢で力攻めを致さば、浜松城も一捻りで御座ろう!」

 浜松城への力攻めを主張為る譜代家老衆の小山田左兵衛尉信茂(勝頼の従兄弟)に対して、宿老の1人で《甲軍の副将》と称えられる内藤修理亮昌秀が反論為る。

 

「小山田殿、其れは上手く有るまい。我等は高天神攻めで3ヶ月、二俣攻めで2ヶ月掛かったのだ。浜松城は其れを遥かに優る要害、時間も掛かり犠牲も増えてしまう」

如何様いかさま、内藤殿の意見に賛成で御座る。然れども此の侭、浜松を放置致す訳には参らぬで御座ろう…」

 同じく宿老の1人の春日弾正忠虎綱が昌秀に賛意を示すと、諸将の多くが首肯為る。

 すると、北条家助勢の大将で当主・相模守氏政の実弟に当たる助五郎氏規が、武田家の諸将を見渡しながら意見を述べる。

 

「とはいえ、城を長々と囲んで追っては敵の思う壷。此処は徳川勢を城から誘い出して野戦に持ち込むに如かず、と愚考致す」

「うむ!三州(家康)を野戦に引き摺り込めば、御当家の勝利は揺るがぬ!腕が鳴りまするな!」

 氏規の意見に、御親類衆で勝頼の従兄弟の武田左馬介信豊が同意為るが、宿老の1人でもう1人の《両職》でもある山県三郎右兵衛尉昌景が説明役の昌胤に質問を加える。

 

「然すれば、双方合わせて5万以上の大軍が打付ぶつかるのだ。戦場には相当の広さが要る。隼人允(昌胤)殿、浜松の近辺に其の様な場所は御座るのか?」

「勿論、調べは付いて御座る。浜松の北側に広がる《三方ヶ原》の台地が適地と心得る。東西に2里半、南北に3里半(1里は約3927メートル)の広さを持ち、北から南へと緩やかに傾斜致して居り申す。水の便が悪く、田畑は殆ど無く多少の松が生えるのみで、大部分は原野が広がって御座る」

「成程…。其処為らば如何なる陣形も作れる。兵の多寡を十分に生かせますな」

「其処為らば、我が郡内勢の活躍の場が有りそうですな!」

「…だが、如何にして徳川勢を其の三方ヶ原へおびき寄せる所存だ?浜松城に閉じ籠って居っては、野戦に持ち込む事は適わぬぞ?」

 昌胤の提案に対して、昌景や信茂は納得の表情を浮かべるが、宿老の中で1番年嵩な馬場美濃守信春が、徳川勢を誘き出す具体策を求めて来た。

 

「美濃(信春)殿、策は有りまする。此の合代島を進発して神増かんぞうより天龍川を渡り、其の侭三方ヶ原の北側を流れる都田川沿いを通り抜けて、浜名湖畔に位置する気賀の地へと向かいまする。然すれば、徳川勢は『我等が浜松を素通りして三河へ向かう』と焦り、我等を横撃しようと追って参る筈。其処を捕捉致して祝田の坂を三方ヶ原へ駆け上がり、野戦に持ち込むので御座る」

「うむ…。然れど、其の様な見え透いた動きに徳川勢が釣られるだろうか?万一追って来なければ、我等は後方に1万以上の敵勢を抱える事に成る。二俣城や東遠江に攻め寄せる事も考えられよう。其れに、坂を登って陣形を調える途中に襲われては拙かろうし、坂の出口を抑えられて《逆落し》を掛けられるやも知れん…」

 信春が、昌胤の策の問題点を一つ一つ丁寧に述べると、思わず一同が唸ってしまった。

 其処に、未だ此の評定で黙した侭の勝頼に向かって、御親類衆の筆頭格の穴山左衛門大夫信君が噛み付いて来る。勝頼の従兄弟で義兄でもある信君は《反勝頼派》の急先鋒と言って良かった。

 

「四郎(勝頼の仮名)殿っ!御一同が知恵を絞っておる最中に、大将が策も無く黙した侭では示しが付かぬ!武田家の御屋形らしく、御一同が納得為さる策を御披露為さっては如何で御座る?」

(まぁ御主の知恵では良い策は持ち合わせて居るまい!諸将の前で面目を失うが善いわ!)

 信君の挑発的な発言に、多くの諸将が苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる中、信茂は俯き気味に冷笑をうかべ、同じ御親類衆の木曾左馬頭義昌は嘲笑を隠そうとさえしなかった。

 だが、勝頼は信君の挑発にも激昂為る事無く、淡々と語り始めた。

 

「確かに、徳川三州が浜松城に亀の如く閉じ籠もった侭では、我等は長対陣を強いられるだろう。無理に城攻め致しても相当の犠牲が出る上に、織田家が盟を破って大軍勢を送り込み兼ねん。因って、《浜松城の攻略》は野戦に持ち込んだ上で徳川勢を叩き潰し、其の侭の流れで逃げる軍勢と共に《付入り》を目指すしか無い…」

「何とっ!浜松の攻略ですとっ!大言壮語も大概に致されよ!」

 勝頼の発言に、信君は内心で北叟笑みながら反発して見せ、他の諸将もザワザワと小声で騒ぎ始める。

 勝頼は無言の侭、右手を上げて諸将を制止為ると、信君だけでは無く全体を見渡しながら話を続けていく。

 

「…確かに、皆の者の心配も最もな事だ。中には、先に此の話を聞かせた一徳斎(勝頼の軍師の真田弾正忠幸綱)の様に、昔の儂の様に猪突の癖が出たのかといぶかしむ者も居ろう…。確かに、儂が父上(隠居の法性院信玄)に優る処は《若さ》と《槍働き》のみ、三州にも《諏訪の小倅》と舐められておる。だからこそ、格下と思っていた儂から挑発されたら、徳川勢の血気に逸る連中は必ずや食い付いて参る!」

 勝頼の発言を聞いていた諸将は、次第に勝頼の語り口に引き寄せられる様に無言で聞き始める。

 信君や信茂、義昌も御手並拝見とばかりに、冷笑を浮かべた侭で話を聞いている…。

 

「儂は、此の《徳川征伐》が始まる前の時点で、徳川勢が本城たる浜松城に籠城致す事を鑑みて、父上に浜松城攻略の策を御伺いして居った。そして昨日、父上の側にはべる長坂筑後(昌国)が、父上からの書付を届けに参った。其の書付の中に《三州撃破の策》と《浜松城攻略の策》が夫々(それぞれ)したためておられた」

「何とっ!」

「御屋形…御隠居様からの策を、既に伝授頂いたと仰有られるので御座るか?」

 勝頼が信玄から計略を授かったと聞いて、静聴していた諸将は一斉にざわついた。信君達も己の耳を疑ったのか、隣りの者達に話し掛ける。

「…昌胤、矢竹を貸して呉れ。良いか、皆の者。此の父上の策は、《徳川の儂に対する侮りを利用致す事》と《徳川の軍勢を浜松から出来得る限り引き離す事》が要と為る。先ずは…」

 

 勝頼は昌胤から矢竹を受け取ると、信玄からの書状に記されていた策を説明していく。

 予め幸綱に策を披露した際に、細かな疑問点を洗い出した上で、幸綱と相談して回答を用意していた為、説明と質疑応答は澱み無く進んでいった。

 

「…以上が、計略の骨子と為る。此の度の戦いで、我等が浜松城の徳川勢を留守居以外全て引き摺り出して《三方ヶ原》へ引き付けねば、其れだけ《父上の御負担》が増える事に為る!何と致しても貴奴等を浜松城から引き剥がすのだ!其れこそが父上の御心に適うと知れ!善いなっ!」

『はっ!』

 説明を終えた勝頼の相貌には、此の計略を捻り出した偉大な父親に対する信頼と、必ずや徳川勢を叩き潰すという決意に漲っている。

 其の勝頼が、裂帛の気合を込めて諸将に発破を掛けると、其の場に居合わせた全員が平伏為る。

 勝頼を快く思わぬ信君や信茂、義昌でさえ、無意識の内に叩頭してしまって居たのだ。

 当主としての風格を少しづつ其の身に帯びつつある勝頼を仰ぎ見て、信玄から後見を託された宿老達は、自然と相好そうごうを崩しながら、御互いに頷き合う。

 勝頼は、上座から諸将の反応を確かめると、居住いを正してから改めて宣誓の口上を朗々と唱える。

「明日の大戦、我等の御旗たる父上に勝利を捧げるのだ!御旗・楯無、御照覧在れ!」

『御旗・楯無、御照覧在れ!』

 

 武田家では、代々継承されて来た家宝である《御旗》と《楯無鎧》に宣誓が成された瞬間から、一切の異議を言う事は御法度とされ、一致団結して事を成し遂げる様に定められていた。

 武田家の諸将は、信君等の内心では憤懣遣る方無い者達も含めて、此の時から明日の決戦に向かって動き始める事に成るのだった。

 

 武田の本陣…天龍東岸の合代島からひつじの方角に5里程移動為ると、一時は三河・遠江の2国を平らげていた徳川三河侍従家康の居城である浜松城に辿り着く。

 7月に武田家に仕掛ける形で戦を開いて以来、緒戦の三河野田城奪還以外は負け戦が続いており、徳川家の勢力範囲は最大時と比して既に3割近くが武田家に蚕食されていた。

 更には浜松防衛の最後の砦と言える二俣城の陥落に因って、武田の大軍勢との対決は正に目前に迫っている。

 だが、城内に籠る8千の将兵の顔色は、怯える処かむしろ明るく、士気が高揚していた。

 遂に此の日、待ちに待った織田家からの助勢が入城を果たし、漸く《諏訪の小倅》を迎え撃つ態勢が整ったからだ。

 助勢の大将である佐久間右衛門尉信盛と、織田の与力大名で家康の母方の伯父に当たる水野下野守信元は、入城後直ちに開かれた軍議に参加していた。

 

「天龍川の向う岸、二俣から合代島、神増の辺り迄、武田の軍勢で溢れかえって居りまするぞ!敵の総勢はおよそ4万!其処彼処で炊飯の煙が立ち上り、明日にも川を渡らんと為る勢いで御座いました!直ちに浜松にて籠城の支度を整えるべきかと心得まする!」

 日中に浜松城から天龍川畔に大物見(威力偵察)に出向いていた鳥居四郎左衛門忠広から、武田の軍勢の動きの報告を受けると、諸将の間でざわめきが広がっていく。

 徳川勢の諸将の予想では、武田の兵力は《総勢3万、川を渡るのは2万7千程度》と考えており、忠広の報告は其れを遥かに凌駕為るのだ。

 

「四郎左(忠広)!武田を恐れる余りに、敵勢の数を多く見誤るとは何たる腰抜けよ!武田の軍勢が其の様な大軍勢の筈が有るまい!」

 報告を聞いていた旗奉行の成瀬藤蔵正義から罵倒を浴びせられた忠広は、憤慨して正義に怒鳴り返した。

「殿(家康)の側に居るのみで、武田の奴輩を見ても居らぬ成瀬殿から、腰抜け呼ばわりされるは心外の至り!直ちに取り消されよ!」

「何だとっ!臆病者を臆病と言うて何が悪い!」

「貴様ぁっ!」

 2人が立ち上がって、御互いに掴み掛かろうと為るのを、家老の1人で《東三河衆旗頭》の酒井左衛門尉忠次がたしなめた。

「藤蔵、四郎左!双方とも大概に致せっ!客人たる佐久間殿が見て居られるぞっ!」

「はっ…、酒井様、申し訳御座いませぬ…」

「醜態を御見せ致した非礼、平に御容赦の程…」

 

 2人が謝罪為る間も、上座の家康は無言の侭で右の親指の爪を噛み続け、苛立ちを隠そうともしていない。

 雰囲気を変えて話を進める為に、もう1人の家老で《西三河衆旗頭》の石川与七郎数正が、評定に参加している信盛と信元に意見を求めた。

 

「佐久間殿、水野殿。御貴殿方は如何御考えで御座るか?妙案が在るならば拝聴致したい」

「うむっ、此処は浜松城に籠城致して、武田の奴輩を引き付けるが肝要で御座る。我等を含めて総勢1万1千、此の要害たる浜松城に拠って、我が主君が畿内を平らげて後巻の軍勢を送られるを待つが上策。若しも徳川殿が御出陣致す御所存為らば、御諫め致す様仰せつかって御座る」

 信盛が浜松城への籠城案を主張為ると、信元も甥の家康に身体を向けて、籠城案を採る様に説得してきた。

「二郎三郎(家康の仮名)殿、儂も佐久間殿と同じく籠城の策を推すぞ。只でさえ甲斐国は強兵の国と言われておるのだ。しかも鳥居殿が正しければ、武田は我等の4倍近い大軍だ。正面まともに野戦を挑んでもとても勝ちを拾うのは覚束ぬ…」

 忠広の主張を補強為る形と成った2人の援将の意見は、消極的ではあるが常識と照らし合わせても至極真っ当な内容であり、多くの…特に徳川譜代では無い外様の徳川家臣が首肯していた。

 だが、旗本先手衆の1人である本多平八郎忠勝が、憤怒の形相で織田方の2人や頷いた同輩達を大声で怒鳴り付ける。

 忠勝は、東遠江で武田家の大軍を迎撃した《三箇野川・一言坂の戦い》での獅子奮迅の活躍に因って、今や徳川家切っての闘将として知れ渡っていた。

 

「信玄坊主為らばいざ知らず、其の威を借るのみの《諏訪の小倅》に怯えるとは何と情け無い事よ!目付を致すのみで自ら戦う意志が無い助勢なぞ、味方の士気を削ぐ分だけ敵より始末が悪いわ!」

「何をっ!若造の分際で其の様な口を叩くとは、己の分をわきまえぬ奴よ!其処迄言われる為らば、儂等は此の侭岐阜へ帰って復命致す故、御貴殿方のみで武田と戦われるが宜しかろう!」

「勝手に為されいっ!織田殿が同じ立場為らば、役に立たぬ後詰なんぞ早々に追い返すでしょうからな!」

 忠勝の発言に逆上した信盛が、織田勢の帰国を示唆為ると、忠勝は更に言葉を重ねたが、無言の家康の顔からはサッと血の気が引いた。

 現在、ほぼ独力で武田家と戦っている状況で、折角の助勢を断って追い返せば、織田家を戦に引き摺り込めないばかりか、下手を打てば信長から《武田に寝返る》との疑念を持たれる。

 畿内に派遣した服部半三保長の工作活動が功を奏して、織田勢が武田との戦に全面参戦して貰う迄は、織田家の重臣でもある信盛を美濃へ帰らせる訳にはいかないのだ。

 

「忠勝っ!織田家歴戦の重臣たる佐久間殿に対しての其の口振りは、儂の顔に泥を塗る積りかっ!此の痴れ者が、暫く黙って聞いておれ!」

 家康は急いで忠勝を叱責為ると、信盛に対して家臣の非礼を詫びた。

「佐久間殿、誠に申し訳御座らぬ。此の者の発言も、儂と徳川家を大事に思う余りの事に御座る。織田家に対する忠節も篤い佐久間殿為らば、此の者の心情を推し量って頂けるかと…」

「うむ…。徳川殿が其処迄仰有るの為らば、儂も水野殿も水に流すと致そう。忠勝とやら、貴殿の無礼な振舞は、徳川殿に免じて赦して進ぜよう。有難く思うが善い!」

 忠勝は、媚びへつらうが如き家康と、慇懃無礼な信盛に対しての怒りで、憤然と立ち上がろうとしたが、忠次と数正が此方へ目配せしているのに気付き、辛うじて席を立つのを思い止まらせる。

 忠勝が退出しなかった事に安堵した忠次と数正は、信盛達の意識を再び軍議に戻す為に提案を行った。

 

「殿(家康)、其れに佐久間殿、水野殿。只闇雲に城に籠るのも如何で御座ろうか。若しも武田の奴輩が、此の浜松を素通り致したら、無傷の侭で数万の軍勢が三河や尾張へと雪崩込む事に相成り申す」

「左衛門(忠次)殿の申す通りで御座いまする。去る永禄3年(1560年)の桶狭間の戦の折、佐久間殿は織田弾正(信長)様と共に勇戦致され、10倍の今川勢を見事打破って御座る。我等も今川方として大高城に入って居った故に、佐久間殿の活躍を良く承知致して居りまする」

「左様。其の佐久間殿の御助力が有らば、十二分に勝機を掴めましょう!武田の軍勢に疾風迅雷の如く襲い懸かって我等が力を見せつけ、しかして浜松城に籠城致すが上策と心得まする」

「成程!酒井殿と石川殿の申され様、誠に御尤ごもっともで御座る!桶狭間の如く隙を衝いて襲い懸かれば、勝ちを拾って武田の奴輩を遠江に釘付けに致せましょう!我等は浜松城の後詰に参ったからには、徳川殿の陣触れが在らば軍勢の一翼を担って勇戦致しまするぞ!」

 徳川の重臣2人に巧みに自尊心を刺激されて、信盛は機嫌を直して出撃案に賛成した。

 

 此れを機に、評定は諸将が出撃案と籠城案に分かれて活発な意見を交わしていく。

 其の中でも無言の侭の家康は、顔色を消しながらも内心は北叟笑んでいた。

(ふぅ…、一時は如何相成るかと思ったが、忠次と数正が上手く運んで呉れたわ…。家臣共が《諏訪の小倅》に此れ以上靡かぬ様に致す為にも、此処で戦って勝ちを収めておかなければな…)

 徳川家は、此の数ヶ月に及ぶ武田の攻勢に因って天龍川東岸を喪失していたが、其れに伴って多くの遠江の国衆が徳川家から離反していた。

 此処で一矢も報いる事無く戦を避けては、家臣団の間からも《徳川家は頼るに足らず》と思われ、更なる離反を招く可能性が高かったのだ。

 また、万一浜松城を放棄して三河へと退いた場合、現在は徳川方に付いている西遠江や東三河の国衆が、一気に寝返る事も考えられた。

 更には《織田家の与力大名》とも言える徳川家の立場も、戦略に少なからず影響を与えていた。

 織田信長は《信長包囲網》とも言われる同盟を相手に苦戦を強いられており、外交に因って各個撃破に追い込む必要が有った。

 其の為、武田家とは仮初かりそめの盟約で全面対決を先送りにした上で、徳川家に《東方の防壁》の役割を担わせたのだ。

 家康としては、信長に応える為にも、己自身の領国保持の為にも、武田軍と不利を承知で戦わなければならなかった。

 

 或る程度議論が進んで、《一戦して勝利を収めて武田軍を浜松に引き付ける》方向へと意見が集約されつつあるのを見て取った家康は、意識的に表情を和らげてから信盛に1つの依頼を行った。

「佐久間殿、此度の後詰を率いる御貴殿に、1つ頼みが御座る。実は此の浜松に、織田殿の元を逐電致した者達を匿って居り申す。佐脇藤八郎、長谷川橋介、山口飛騨、加藤弥三郎の4名で御座る。此の戦にて勲を立てた暁には、彼等の織田家への帰参を弾正殿に御口添え頂きたい。如何で御座ろうか?」

「ほう…。懐かしい名前で御座るな。彼等は殿(信長)の御不興を買って逐電致す迄は近習として《赤母衣衆》に名を連ねて居った者共で御座る。更に申せば彼等は《桶狭間》の折には殿の小姓として、清須城から熱田宮まで先駆け致して御座る。彼等が三河(家康)殿の元に居るとは誠に縁起が善い。正に《天の配剤》で御座ろう。若しも此の戦で功在らば、必ずや殿に口添え致し申そう!」

 信盛は、信長の旧臣を匿った上に帰参を仲介しようとする、家康の《律義者》振りに感心し、徳川家臣達は《桶狭間の戦》で信長の直ぐ側で戦った者が徳川勢に加わる事で縁起を担いで、更に戦意を高めていく。

「佐久間殿、かたじけのう御座る。宜しく御頼み申す」

 家康は信盛に深々と頭を下げながら、誰にも見えぬ様に口角を釣り上げる。

 帰参の口添えを依頼した事だけで《律義者》という印象を与え、自軍の戦意の高揚にも役立てる。

 更には、扱いが難しい織田旧臣の厄介払い迄も可能に為るのだ。

 家康は嘲笑を消しながら面を上げると、家臣や織田の援将達を見渡しながら、威勢良く啖呵を切った。

 

「者共っ!戦の勝敗とは、兵の多寡のみにて決まる訳では無い!何より武田の奴輩を率いるは、信玄坊主ではなく《諏訪の小倅》よ!其の小倅が兵の多きを頼んで、我が浜松の門前を通り抜けるのを易々見逃しては、新田家の末流たる徳川家の名折れ、正に末代迄の恥辱だっ!儂は出陣致して武田の奴輩を打破る!そして、浜松城に貴奴等を釘付けに致して、犀ヶ崖を武田の亡骸で埋めて呉れようぞ!」

『ぅおおぉっ!』

 己の檄に応えて、雄叫びにも似た咆哮を放つ家臣達を眺めて、家康は己の中の萎え掛けた戦意を、再び奮い立たせるのだった。

 

 暫くして、家康は浜松城に設けられた織田の助勢の陣地を訪ね、信盛が率いて来た軍勢の侍大将達へ挨拶に回ったのだが、其処で小さな騒動が起きた。

 家康は特に改めて調べる事無く、近い陣屋から順番に訪ねて挨拶を済ませていた。

 佐久間信盛の嫡男の甚九郎信栄、水野信元の養子の藤四郎元茂(信政とも)、尾張津島の土豪の出自である大橋与左衛門重賢、更には此の助勢の軍監として浜松に参陣した滝川彦右衛門一益…と、挨拶を済ませていく。

 だが其の事を聞き付けて、1人の武将が己の宛行あてがわれた宿所で怒りに震えていた。

 織田からの援将の1人で、3百の手勢を率いて浜松城に来ていた平手甚左衛門尉汎秀である。

 

 汎秀は、信長の傅役で初期の家老だった平手中務丞政秀の嫡孫にあたる。

 織田家譜代の若手家臣として主君の信長から将来を嘱望されており、今回の助勢では手勢の大半を父の監物久秀に預けた上で、助勢の大将の1人として浜松へ参陣していた。

(佐久間勢・水野勢も軍勢の大半を尾張や近江に残して、動員兵力を遥かに下回る兵数で参陣しており、助勢と言うよりも徳川勢を都合良く動かす為の《目付役》と言って良かった)

 だが家康は、小勢の平手勢を《佐久間勢の与力》程度にしか認識しておらず、取り立てて先に挨拶などに赴かなかった。

 己への挨拶が後回しにされた事に聞き及んだ汎秀は、織田家譜代の家柄を半ば無視された事に激昂したのだ。 

「おのれ徳川三州めっ!俺は織田家譜代の出自、此の軍勢を率いる一手の大将だぞ!其れを他の端武者共と同等に扱うとは、断じて我慢為らぬ!」

 怒りに任せて周囲に当たり散らした汎秀は、其の侭宿所の2階へと駆け上がると、先年に堺にて入手した三味線を爪弾きながら、大声で小唄を唱い始めた。

 異変を聞き付けた軍監の一益が平手勢の宿所に駆け付け、汎秀に仕える家臣から事情を聞き出すと、2階へと上がって汎秀に話し掛ける。

 

「甚左(汎秀)殿、如何為さったので御座るか?此の様な事は大将の振舞に相応しく御座らぬ。徳川方への手前も御座る故に、今少し御自重下され…」

「はっ、此れは此れは滝川殿では御座らぬか!三州殿とは挨拶は済ませられたか?」

 汎秀が鼻を鳴らしながら、一益にも半ば喧嘩腰に突っ掛かって来ると、半ば呆れながらも自重を訴え掛けた。

「甚左殿…。向こう側も武田との大戦を控えて気が立って御座ろう。此処は大将に相応しい度量を見せて…」

「五月蠅い!三州が其処等辺りに先に挨拶致した為らば、其奴等が大将だろうよ!俺は一介の端武者らしく、明日先駆けして討死して呉れるわ!武士の礼儀をわきまえぬ三州には『端武者には挨拶なぞ無用』と御伝え下され!」

 意固地に為っている汎秀に、一益は匙を投げて宿所を出ると、織田方の他の大将である信盛と信元、そして家康に事の顛末を伝えた。

 だが信盛や信元は《若気の至り》だと考えて特に仲裁には動かなかった。

 家康に至っては、報告と謝罪に訪れた一益と談話して別れると、不機嫌な口振りで吐き捨てた。

「ふんっ!愚か者の戯言たわごとに煩わされるとは迷惑な話よ!阿呆は此の侭に放っておけ!」

 そう言うと、挨拶を早々に切り上げて浜松城に帰ってしまったのだった。

 確かに家康や徳川の家臣達、そして信盛や信元は、目前に迫った大戦の支度に追われており、我儘わがままに振る舞う汎秀に付き合う暇なぞ無かった。

 だが、翌日の深更には其の全員が、汎秀を放置してしまった事を後悔為る羽目に陥るのだった。

 

「おのれ勝頼め!不遜にも武田家の家督を乗取ったのみでは飽きたらず、大身たる我等に当主面で指図為るなぞ、増長慢にも程が有るわ!」

「左様左様!太郎(勝頼の亡兄の義信)様が生きて居られた為らば、此の様な気苦労を致さずとも良かったのだ!四郎(勝頼の仮名)殿も分不相応をわきまえんとは、誠に困った御人よ!此れでは先が思い遣られるわっ!」

「全く御二人の仰有る通りじゃ!我が木曾家も、此の様な憂目を見る為に武田家の御旗を仰いだ訳では御座らぬわ!」

 此の日…12月21日の深更、穴山勢が匂坂城から陣を移した下神増の地に、小山田信茂・木曾義昌の両名が訪ねて、長陣を労うと称して酒宴が開かれていた。

 3人は、大なり小なり勝頼に対する不満を抱いている同士であり、勝頼の陣代就任以来、たまに集まっては不平不満を肴に酒を酌み交わしていた。

 

 信君と義昌は信玄の娘婿…即ち勝頼の義兄であり、信茂も信玄の妹を母に持ち、勝頼の従兄弟に当たる。

 年齢も信茂34歳・義昌33歳・信君32歳と近い上に、夫々の立場も似通っている。

 元々、穴山家は甲斐河内、小山田家は甲斐郡内、木曾家は信濃木曾を、夫々(それぞれ)一円支配した地方領主であった。

 其の後、甲斐武田家の勢力が伸張していくに従って、武田家と縁戚関係を結ぶ事で、其の傘下に加えられていったのだ。

 だが、3家は夫々が内政に於いて、統治組織や大幅な裁量権を保ち続けた侭であり、財政的にも独自に金山や森林を保有して独自の基盤を保っていた。

 先代である法性院信玄でさえ、此の3家に与えられた権限は取り上げる事が出来ず、領内には武田家の影響力は直接行使出来なかったのだ。

 3家は夫々が《小大名》級の国力を持ち合わせ、たとえる為らば武田家を盟主とした《連合政権》を構成する小国、とも言える存在であった。

 此の事は軍事面に於いても当て嵌まっており、3家は御親類衆や譜代家老衆の一員として、武田家から軍役を課せられていたが、3家の国力と比して未だ余裕が有る物だった。

 其の為に3家には相備衆が配されず、代わりに各々が軍役以上の軍勢を出して、自らの手勢のみで一手を組む事が認められており、代償としてより多くの恩賞を頂戴していた。

 事実、《騎馬200騎持ち》の軍役を課せられた信君は、直臣や東駿河の配下を含めた最大動員兵力の4千を率いて参陣、現在は下神増に於いて翌朝の天龍川渡河の準備に入っていた。

 《騎馬250騎持ち》の信茂も、軍役の倍以上に相当する3千の軍勢を率いて、遠江へ参陣していた。

(但し此の数字には、武田家直臣の検視役が率いる手勢も含まれる)

 義昌は、本拠地木曾の美濃との国境の守備に半分以上の軍勢を残しながらも、《騎馬200騎持ち》の軍役に当たる合計1千の軍勢を出陣させて居り、浮備(遊軍)に配されていた。

 3人の志向は、武田宗家の力を強化しようと考える勝頼や其の側近達とは、完全に対極に位置している。

 元々、義信が居た時点では同じ御親類衆の一員であり、むしろ自分達より軽輩だった勝頼が、宗家の当主として数々の改革を推し進めて力を増す事に、不快の念を抱いていた。

 特に、武田分家とされる穴山家の当主であり、本来の世継である義信の死亡後は後継を自認していた信君に取って、勝頼は《武田家当主を僭称為る者》に過ぎなかったのだ。

 

「左兵衛(信茂)殿、左馬頭(義昌)殿。今日の評定を見られたで在ろう。此の侭では、御当家は妾腹の出自の勝頼から好きな様にされてしまうぞ」

「…確かに、今の侭では拙いやも知れん。然れど、貴奴が当主に就いて以来勝ち戦が続いて居る。陣代(当主代行)に就いてから、既に駿河・飛騨・東遠江を領国に加えて居るのだぞ。貴奴に抗う者もめっきり減ってしもうた」

 勝頼への不満を噴出させる信君に対して、信茂は幾分冷めた口調で、現在の状況を冷静に分析する。

 だが其処に、少し酔いが回った義昌が感情を剥き出しに不満を噴出させる。

 

「だが、儂等の所領は僅かしか増えて居らぬ!全て宗家の勝頼と取り巻きの老耄おいぼれ共が、領地の配分を決めて居るでは無いかっ!…いっそ、儂等3人が一斉に退き陣致しては如何で御座ろう?合わせて8千の軍勢が退かば、御親類衆や譜代家老衆の中からも退くに相違無い!勝頼の奴に痛い目に合わせる事が出来るぞ!」

「左馬頭殿、其れは相成らぬ!既に評定に従って、秋山勢と北条の助勢の合わせて8千が動き始めて居るのだ。其れに、此度の戦は久々に御屋形…御隠居様(信玄)が御出馬に為られるのだ!其の様な折に無断で退き陣致しては、謀反と見做されるわ!」

 義昌の安易な提案を信茂が一蹴すると、信君も信茂に同調した。

「左様、義父上(信玄)の御前にて無断で退き陣致すなぞ、およそ士大夫が致す事では無い。其れに、此度の戦で我等が徳川勢を引きつけねば、義父上に危害が及ぶ。此の戦、全力で勝ちを収める他在るまい。…勝頼に名を成さしめるのは不本意だがな…」

 信君はそう漏らすと、憤懣遣る方無い表情で持っていた酒杯の中身を臓腑に流し込む。

「…致し方有るまい。我等が動かなんだが為に、武田家が滅びては本末転倒だからな。先ずは目障りな徳川を叩き潰し、徳川三州を縛り上げて御隠居様の御前に引き摺り出す!其の為ならば、不本意だが四郎殿の下知に従うと致そう…」

「左衛門(信君)殿や左兵衛殿がそう言われるならば、我が木曾勢もやぶさかでは御座らぬ!いやはや、其れにしても口惜しや…」

 武人らしく己の中で割り切る信茂と、不満が在りながらも2人に追従為る義昌を代わる代わる見遣りながら、信君は気を紛らわす様に、空になった酒杯に独酌するのだった。

 

 信君達が酒を酌み交わす下神増の地から辰の方角に歩を進めると、東遠江の要衝で僅か20日前に開城した高天神城が在る。

 高天神城の周囲には3ヶ月にも及んだ攻防戦の折に、山県昌景率いる武田軍1万以上が城の包囲に使った陣所が残されている。

 山県勢のみ為らず、開城した高天神城主の小笠原弾正少輔信興の手勢も含めて、二俣城…そして下神増へと転戦していた。

 現在は留守居役として、駿河先方衆の岡部五郎兵衛尉元信が高天神城に入り、無用と化した陣所等を片付けて居る筈であった。

 だが此の刻…12月21日深更に於いて、陣所は無人どころか数千の軍勢が入って、翌朝の出陣に備えて英気を養って居たのだ。

 

「元信。其方の武勇は勝頼からも聞いて居る。此度は一旦高天神を離れて、此の儂に付き合って貰うぞ」

「はっ!御意で御座いまする!」

 高天神城から川を挟んだ東側に在る惣勢山に設けられた山県勢の本陣の跡には、急拵えとは思えぬ陣屋が組まれ、中では上座に向かって元信が平伏していた。

 今は亡き今川家中でも指折りの将才を誇り、現在は勝頼に忠誠を誓っている元信でさえも、まるで雷に打ち据えられた様に地に伏している。

 元信の前の上座に座するのは、現在駿府城に入城している筈の武田家の前当主・法性院信玄…武田権中納言晴信であった。

 

「昌国、掛川城の板垣勢は如何じゃ?翌朝には出陣出来るのか?」

 信玄は、《法性院様申次役》の1人で右側に侍する長坂筑後守昌国に質問した。

 昌国は勝頼に信玄からの書状を届けた後、掛川城に駐屯中の板垣左京亮信安に翌朝の出陣の指示を伝え、此の薄暮に信玄の元へと復命していたのだ。

「はっ、板垣殿からは『総勢2千を以て、明朝黎明に出陣致して、天竜河口の欠塚(掛塚)の地にて合流致す』との返事を貰って参りました」

「ふむ、御苦労だった。昌忠、同行致して居る軍勢は如何相成っておるか?」

 昌国の返答に頷いた信玄は、左側に侍する跡部右衛門尉昌忠に質問為ると、昌忠は書状をそらんじるかの様に返答した。

「はっ。駿東の葛山家を継いだ十郎(信貞)様と、松尾領を継いだ新十郎(信俊)様より組み入れた騎馬4百騎分、足軽や中間・小者を含めて合計2千と、それがしと筑後(昌国)殿、岡部殿の手勢が合わせて5百程で御座る。更に現在、清水湊を発した海賊衆が、高天神の南の浜野浦に入って居りまする。彼等は欠塚に於いて我等を渡した後、土屋豊前(貞綱)殿が兵5百を率いて軍勢に加わる算段で御座いまする」

 

「ふむ、全て合わせて5千程か…。幾分少ないが、虚を衝けば此の人数でも構うまい。むしろ此れ以上増えては、相手に悟られよう…」

 昌忠の返答を聞いて、信玄は己自身に言い聞かせる様に呟きを漏らす。

 一拍置いて、信玄は陣屋に控える3人を見渡しながら、力強い口調で宣言する。

 

「善いか昌国、昌忠、そして元信!明日、勝頼が4万以上の大軍勢を率いて、浜松城から徳川勢を引き摺り出して打破る!だが、此の策は其れのみには終らぬ!我等親子が二手に分かれ、一方が城に籠る兵を打破り、もう一方が空の城を奪い取る!御主等の力、存分に揮って貰うぞ!」

『はっ!』

 3人が平伏為るのを見ながら、信玄は家康に対する闘志を漲らせるのだった。

(家康…、御主の眼には《諏訪の小倅》と侮る勝頼しか写っておるまい。此処は儂自らが戦場の厳しさを御主に教えて進ぜようぞ!)

 

 翌日黎明、下神増。

 餌を求めて飛来して水面で羽根を休めていた真鴨の群が、時ならぬ喧騒に目を覚まして、相変わらず曇天に覆われた空へと一斉に飛び去って行く。

 既に具足を身に纏って戦支度を整えた穴山勢4千が、残雪を踏み締めて水面へと辿り着くと、穴山信君の命令が下されて一斉に天龍川に足を踏み入れて行く。

「者共っ!我等河内衆が先陣を切るからには、無様な醜態は断じて赦さぬ!《武田の御旗》が相応しいのはいずれか証明してみせようぞ!」

『ぅおおぉっ!』

 信君の号令に河内衆は雄叫びを返し、穴山の家紋である《三つ花菱》の旗指物を翻しながら、次々と川を渡り切って対岸へと進んで行く。

 

 其の後方…穴山勢の次に渡河する為に待機する浮備の軍勢の更に背後に進んで来た本備えに於いて、勝頼は対岸の遥か彼方を悠然と見据えていた。

 だが勝頼の眼は爛々と輝き、其の心中は煮え滾らんばかりに闘志を漲らせていたのだ。

(再び父上に我が戦い振りを見て頂ける!必ずや徳川勢を叩いて、父上の御役に立ってみせようぞ!首を洗って待っておれ、徳川三州!)

「穴山勢に引き続き、浮備勢、そして本備えの順番に天龍川を渡って浜松城へ向かう!者共、勇み戦えぃ!」

 勝頼は右手に握った軍配を高々と振り上げると、己に従う軍勢に渡河の命令を下すのだった。

 

 幾度かの激突に因って、遂に臨界点に達した武田・徳川両家の対立は、合計5万以上の将兵による浜松城周辺…三方ヶ原台地での直接対決を引き起こした。

 大小名のみ為らず、多くの者達の耳目が集まる中、両家の軍勢は決戦の渦中へと身を投じるべく動き始めていた。

 決戦の刻の僅か半日前…元亀3年12月22日の黎明の事であった。

家督相続以来、数々の改革を勝頼に行わせましたが、いよいよ史実では信玄が家康を打破った《三方ヶ原の戦い》に突入します。ですが、百戦錬磨の信玄為らばいざ知らず、息子の勝頼では信玄の様な《敵前反転による完全勝利》という作戦は難しいと思います。其処で、勝頼にも《完全試合》が出来る様な手段を行っていく事になります。次回は三方ヶ原で戦端を開く話に成ります。相変わらずの長文ですが、是非ともまた読んで頂ければ嬉しく思います。

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