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廿弐:徳川征伐(伍)~二俣の残照~

今回の話は遠江の要衝の二俣城攻略の話になります。相変わらずの長文ですが是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。

 峻嶺から吹き下ろす北風と共に、逆巻くが如き激流が南の大洋目指して流れていく。

 今少し下流へ向かえば、其の流れは滔々とした《扶桑有数の大河》に相応しい物へと変化していく。

 だが、急峻な山間を駆け抜けた激流は、平野への出口を前に力を使い果たすかの様に大きく蛇行して、周囲の河岸を削り取って行く。

 流量が増加する夏の頃に比べれば未だ未だ少ないとはいえ、激流は砂礫や流木さえも押し流す、正に《暴れ天龍》の異称こそが似つかわしい奔流である。

 

 天龍川。

 《神が住まう湖》とも呼ばれる諏訪湖を水源に、南信濃と遠江を貫流している大河である。

 木曾山脈・赤石山脈に挟まれた狭隘な土地を駆け抜けた流れは、遠江に入って暫く流れると、巨大な岩盤を削りながら遠江の肥沃な平野へと蛇行していく。

 更には、東側から湾曲しつつ合流する支流の二俣川の流れに因って、岩盤は更に削られて断崖絶壁が形成されている。

 そんな天龍川と二俣川に三方を囲まれた《蜷原台地》の頂上を縄張りに、二俣城が築かれて遠江平野の《扇の要》を抑えていた。

 現在、此の要衝の帰趨を巡って、3万を遥かに越える甲斐武田家の大軍勢が十重二十重に城を囲み、徳川家臣の中根平左衛門正照率いる1千2百の籠城方が、1ヶ月半以上に渡って必死の抵抗を続けていたのだ。

 

 地表が冷されて発生した谷霧が上流から次々と流れ込み、辺り一帯を淡い白色に覆っている。

 其の様な霧の中、3人の若い主従が天龍川の西岸…二俣城が在る蜷原台地の対岸を歩いている。

 彼等からは対岸の断崖が見えるのだが、此の霧の中では城側から彼等を捕捉為るのは困難を伴うだろう。

 無論安全の為に此の様な天気に出歩く彼等も、万一に備えて残雪が積もった岩陰や立木に身を隠して、目立たぬ様に歩いて居る。

 特徴の無い具足を身に付けて、手勢を持たぬ徒士武者の姿をしているが、人並を越えた背丈で立ち振る舞いはまるで一廉の武将の様である。

 …否、彼等は正に武田家に仕える青年武将と其の若き主君なのだ。

 

「…御屋形様っ!そろそろ本陣に戻らねば重臣方が御気付きに為られまする!今為らば未だ間に合いまする故に、霧が晴れる前に本陣に戻りましょう!」

「勘蔵の申す通りで御座る。此の侭では霧が次第に晴れて、籠城致して居る徳川の者にも見付かりまする!疾く御帰陣下さいませ!」

「…昌恒、信供、大丈夫だ。霧は幼き頃より、諏訪や高遠で見慣れて居る。此の濃さ為らば今暫くは身を隠せる筈だ。姿形を見せぬが、諏訪の《忍び》にも警固をさせて居るからな…。其れよりも、態々(わざわざ)天龍の向こう岸に渡って参ったのだ。一刻も早く、二俣城の西側の崖を調べるぞ。二俣城の水の手が絶てぬ訳を探らねば成るまい…」

 此の年4月に家督を継いだ甲斐武田家第20代当主・武田大膳大夫勝頼は、奥近習の土屋惣三昌恒・山本勘蔵信供と、護衛を兼ねた数名の《諏訪忍び》のみを引き連れ、借りた徒士武者の具足を纏って、密かに二俣城の水の手が尽きぬ謎を探りに来ていたのだ。

 

 元亀3年(1572年)12月上旬の払暁の事である。

 

 遠江二俣城の攻防戦は、勝頼率いる武田家の大軍勢の来襲を受け、正照が開城勧告を拒否した10月18日から開始されていた。

 蜷原台地の断崖と天龍川・二俣川の急流に守られた二俣城は攻め口が限定される為、武田軍は外曲輪が設けられた北側を中心に、断続的な攻撃を繰り返した。

 だが、正照と副将の松平善兵衛康安・青木又四郎貞治の采配も相俟って、城兵の抵抗は衰えず十数回の攻撃を退け続けた。

 遂には、譜代家老衆で上野松井田城代の小宮山丹後守昌友、援軍として参戦した北条家諸足軽衆の大藤式部少輔政信が、城攻めの最中に相次いで討死してしまったのだ。

 

 事態を重く見た勝頼は、北側からの攻撃を弓矢や鉄砲のみに変更為る一方で、二俣城の包囲を更に狭めて水や食料を尽きさせる《兵糧攻め》を並行して行う事にした。

 だが、二俣城内の兵糧は、秋に収穫した八木(米)を始め籠城戦に備えて備蓄されて居り、相対的に水の手を枯渇させる事に眼目が置かれていた。

 固い岩盤である蜷原台地の先端部に位置する二俣城に於いて、地下水脈まで井戸を掘り抜く事は、《金山衆》を擁する武田家為らば兎も角、徳川家が保有為る技術力では事実上不可能である。

 だが、包囲する陣越しに見る二俣城の城兵は、明らかに備蓄のみでは有り得ない程の豊富な水を使って居たのだ。

 勝頼は二俣城周辺の封鎖を強化して、水の搬入を妨げようとしたが、城兵は水を河岸に汲みに来ては居らず、謎は深まると共に城攻めも膠着化していった。

 

 一方の徳川勢も、11月中旬には二俣城へ後詰を送り込む事を試みている。

 合代島の武田本陣を直接衝くべく、天龍川を渡河して南側の神増かんぞうの地に陣を敷いたが、駆け付けた武田家の宿老・馬場美濃守信春の軍勢に蹴散らされて、成す処無く浜松城に退いていた。

 

 御互いに決め手を欠いた侭、季節は攻め始めた初冬から真冬へと進んでいく。

 折しも、両職(筆頭家老)の山県三郎右兵衛尉昌景率いる軍勢を送って、二俣城と並行して城攻めを進めて居た東遠江の要衝・高天神城を、12月3日に開城させていた。

 勝頼は、遠江各地に展開している武田軍の内、高天神の降兵も含めて3万以上の軍勢を二俣城周辺に結集させて、二俣の包囲網を更に狭めた。

 徳川勢や織田家の後詰を警戒為る一方で、居ても立っても居られぬとばかりに、自ら二俣城の水の手の謎を、探りに来て居たのだった。

 

「二俣の城方が、水を汲みに河岸迄降りて参った気配は無い。若しもそう為らば、逆に辿って城内へ付け入るのだが…」

 日が昇り始め、少しづつ霧が薄れて視界が開けていく中、勝頼はそう呟きながら対岸に目を凝らしている。

「…此の侭では、城方の者共にも気付かれまする。疾く馬を繋いだ処へ戻りましょう。万一、敵勢に見付からば、我等のみでは容易に御逃がし出来ませぬ…」

 同行者を代表して、昌恒が無謀な物見に対して苦言を呈するが、勝頼は忠告を聞いて居ないかの様に話し掛けて来る。

「山城の全ての水を、井戸無しで賄うのは相当な難事だ。ましてや千人分とも為れば、汲みに降りるなぞ埒外で在ろう。必ずや絡繰りが有る筈だが…。ん?昌恒、正面の辺りの樹の茂り方はいささか可笑しく無いか?」

 そう言って会話を打ち切ると、勝頼は岩影に隠れて、対岸の崖に生い茂る木々の方を指差した。

「はて…、確かに一番川の流れが激しい辺りに、彼の様な茂り様は確かに可笑しいですな。まるで樹木で何かしら隠して居る様な…」

 言われた昌恒と信供も同じ様に身を隠して、木々の方角をジッと凝視為る。

 

 3人が岩影で気配を消して、霧が薄まって視界が広がるのを待って居ると、木々の茂る辺りの真上から、城兵が何かしら桶の様な物を水面に落として来た。

 良く眼を凝らすと、桶を落とした辺りには巧妙に隠蔽された木組みの櫓が見て取れた。

 そして激流に落ちた桶は、結んだ縄で城内へと引き上げられ、桶を下ろした城兵が手元の水甕に汲んだ水を移し替えて運んで行ったのだ。

 

「勝頼様、どうやら《井楼》の様で御座いまする。山上の城内から釣瓶つるべで水を汲み上げて居ったのでしょう…」

「成程…。《二俣城の水の手》の謎の答は此れで御座ったのですな!」

 漸く謎が解けたとばかりに大きく頷く2人に対して、勝頼は自らの心に沸き起こる興奮を鎮めながら返事を返した。

「うむ。…為らば、彼の櫓を壊してしまえば、水の手を断って干ぼしに追い込めるな…。先ずは、無事に本陣に戻って此の事を皆の者に伝えるが先決だ。昌恒、信供。城方に見付かる前に戻ると致そう。孫子曰く《知り難き事陰の如く》と言うからな」

「はっ!」

「御意で御座いまする!」

 3人は井楼の所在を確認為ると、本陣へと駆け戻るべく馬を繋いで居る処へと密かに移動為るのだった。

 

 勝頼の帰陣後、合代島の本陣には、武田軍を率いる重臣達が集められて軍議が開かれた。

 また、助勢として3千の軍勢を送って居る相模の北条家からも、主将の北条助五郎氏規と副将の北条新三郎氏信が呼ばれて居た。

 

「漸く水の手を見付けられたそうですな!何でも崖に井楼を組んで居ったとか…」

「聞いた我等が唖然あぜんと致す程の大胆さ、御陣代の頃と些かも変わって居りませぬな!」

 本陣を訪ねて来た氏規と氏信が、型通りの挨拶も早々に井楼の話題を話し掛けて来る。

 20倍以上の兵力差にも関わらず攻めあぐねている、二俣城の攻略の切っ掛けを勝頼自身が見付けた事を、氏規と氏信は高く評価しているのだ。

 

 氏信は、同じく助勢に参じている弟・箱根少将長順と共に、3年前(永禄12年)の駿河蒲原城の攻防戦に於いて、将兵の助命と引換に虜囚と成り、甲斐府中に連行されて人質生活を送った。

 其の2年後(元亀2年)に《甲相の再盟》が結ばれると、氏信達が帰還した代わりとして、氏規と弟の新四郎氏忠が甲斐府中に赴いていた。

 だが勝頼は、北条家の一門衆である4人を人質では無く《客将》として遇し、政務の合間を見ては屋敷を訪問して、話を重ねて親しく交わっていた。

 氏信等と共に帰還した北条相模守氏政の正室・黄梅院(勝頼の長姉)や、今回の助勢にも志願した元・駿河興国寺城代の垪和伊予守氏続等を含めて、北条家の中に親武田派…と言うより《親勝頼派》と言える派閥が、じわじわと拡がり始めていたのだ。

 

「其の様な《匹夫の勇》を誇るとは何という浅慮で御座るか!曲り形にも甲斐源氏の嫡流たる甲斐武田家の当主を名乗るつもり為らば、軽挙妄動の類は厳に慎しんで頂こうか!」

 北条家の2人の評価を全否定為るかの如く、勝頼に噛み付いて来たのは、御親類衆の重臣で武田の分家当主でもある穴山左衛門大夫信君である。

 勝頼の義兄でもある信君は、現在は合代島の南側に在る匂坂城の守備に就いている。

 だが信君の発言には、陣代就任前には同輩でむしろ格下だった、勝頼に対する侮蔑の心情が透けて見えた。

 行き成り重苦しい空気に包まれた評定の場を取り繕う様に、譜代家老衆で勝頼を支える宿老の1人である春日弾正忠虎綱が状況の説明を始めた。

 

「…現在、二俣城に攻め寄せて50日に為らんと致すが、未だに曲輪の1つも奪っては居らぬ。此の様な折に、謎であった水の手の在処が判ったのは正に重畳で御座る」

「為らば其の井楼、直ぐにでも壊してしまえば善かろう!」

 譜代家老衆の小山田左兵衛尉信茂が、今にも攻撃を急かす様に発言為ると、《両職》(筆頭家老)の1人で勝頼の宿老でもある山県三郎右兵衛尉昌景が透かさず反論を述べる。

「左兵衛(信茂)殿、井楼が建つ天龍川は名うての急流。川舟を仕立てても近付くのは容易では有るまい…」

「為らば上流から川舟を近付ければ、井楼に辿り着けよう!然る後に、斧やまさかりで切り倒せば良い!」

「いや。作業の最中に、駆け付けた城方の鉄砲から餌食にされるだけだ」

「為らば、御当家に仕える透破(忍者)共から水練の得手を集めて、密かに忍び寄れば善かろう!」

「左兵衛殿は此の寒さの中、氷の如く冷たい急流を泳いで、井楼を壊して無事に戻って来れる…、と本気で考えて居るのか?」

「其処迄言われる為らば、山県殿には何かしら腹案が御座るのかっ!若しも御有り為らば御教示頂こうか!」

「…今は未だ妙計は浮かばぬが、思案を重ねて居る最中だ。皆で知恵を絞れば…」

「其の様な悠長な事を!未だ妙手が無いなら、儂の手を使わぬ道理は無いで御座ろうが!」

 昌景と信茂が御互いに譲る事無く言い争いを続ける中、勝頼が不意に間に割って入る形で質問して来た。

 

「…昌景、信茂。儂が見た限り、急流の直中に建つ井楼に近付くのは容易では無い、と感じた。彼の様な激流の中でも、水練の得手為らば、井楼に取り付く事が出来るのか?」

「…確かに得手為らば対岸迄泳ぐ事は可能で御座いまする。然れど、体力を奪われた中で敵に襲われる事無く作業を終える事は、難しかろうと存じまする。しんば上手く井楼を壊しても、再び生きて戻って参る事は、至難の業で御座いまする」

「ふむ…。其れは確かに拙かろうな…。次に川舟だが、急流に逆らって漕ぐ事は難しい筈。為らば、川上から流れに乗る形で近付いて、井楼に取り付く事に為る。此処迄は間違い無いな?」

「はぁ…、確かに間違い御座いませぬ。流れが緩き川下為らばいざ知らず、二俣城の井楼の辺りは川上側からしか近寄れませぬ。但し、急流とはいえ流れを完全に掴めば、船頭が漕がずとも井楼迄辿り着ける川舟も御座いましょう」

 余りにも初歩的な質問ではあったが、昌景は勝頼に対して丁寧に回答していく。

 其の遣り取りを聞いて居た信君や信茂、そして同じく御親類衆で勝頼の義兄の木曾左馬頭義昌は、嘲笑を隠そうともしなかった。

 だが、質問を終えた勝頼が《己の腹案》を述べると、評定の場が驚きとどよめきに覆われた。

 

「うむ。漕がずとも川舟が辿り着ける為らば、流れを掴みさえすれば他の物でも辿り着け得るだろう。為らば、川上から頑丈な筏の類を何十枚も流してやれ!無人の侭でも上手く流れに乗せて何度も打付ぶつけ続ければ、木組みの井楼でも耐える事は適うまいよ!」

『ぉおおぉぅ!』

「何とっ!」

「其れは妙策で御座る!無人の筏為らば、鉄砲を撃ち掛けられても全く問題有りませぬな!」

しかも、川上にて筏に使う丸太を切り出すは、同数の川舟を調達致すより遥かに容易う御座るな!」

 二俣城攻略の光明が見えた武田家の諸将が興奮に包まれる中、勝頼は冷静に命令を下していく。

 

「だが此の策には、天龍川の流れを完全に掴み、井楼に向かって筏を何度も正確に打付ける事が肝要だ。其処で筏の組立、及び井楼に向かって流すのは、天龍川沿いに居城を持つ《遠江先方衆》を当てる所存だ。昌景は陣頭で指揮に当たれ!海賊衆を使いこなす北条殿にも、筏作りと井楼攻めに加わって頂きたい」

「はっ!承知致し申した!」

「大膳殿、御任せ下され!必ずや山県殿と共に、井楼を壊して見せましょうぞ!其れに加え、筏作りの最中の護衛も引き受けさせて頂こう!」

「其れは誠に頼もしい限り。北条殿、宜しく御頼み申す。次に、城の北側だが、昼夜を分かたず交替しつつ、此れ迄以上に攻め立てる。城方が井楼の辺りに気を払えぬ様に致すのだ。但し井楼さえ陥ちれば、城の水の手は絶たれて開城せざるを得ぬ。我攻めには持ち込まず、じわじわと鉄輪で締め上げる様に、北の曲輪に攻め寄せよ。…此の二俣を早々に屈伏させて、徳川の喉元に匕首あいくちを突き付けるのだ。では早速、子細を詰めて行くぞ!」

『応っ!』

 全員が闘志を漲らせながら勝頼に応じる中、信君を始めとした数人は、声だけは応じながらも苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべるのだった。

 

 軍議が終わると、直ちに此の《徳川征伐》で武田の傘下に入った遠江の国衆…所謂《遠江先方衆が、昌景の指揮の元に早速筏作りに入った。

 先ずは、二俣城よりも上流に当たる犬居城の天野宮内右衛門尉藤秀、水巻城の奥山美濃守定茂、中尾生城の奥山兵部丞定友・左近将監友久親子の手勢が、所領から立木を切り出していく。

 同時に、此の《徳川征伐》で恭順した片瀬城(一宮城)の武藤刑部丞氏定、久野城の久野弾正宗政、天方城の天方山城守通興、向笠城の向笠伯耆守の各手勢が、切り出された丸太を天龍川畔へと運び出して、井楼に打付ける筏へと組み上げる。

 正に《人海戦術》で、一昼夜の間に筏の大群を作り上げると、天龍川の流れに乗せて二俣城よりも上流に用意された武田軍の陣所へと運び込まれたのだ。

 

 勝頼達が井楼を発見した翌日黎明。

 冬の太陽が、雪化粧を施した山際から、柔らかな陽射を投げ掛けると同時に、二俣城の北側に陣を張った武田軍の前衛が、竹束に身体を隠しながら一斉に前進を開始した。

「さて、そろそろ此の城を頂戴致そうか!者共、此処が踏ん張り処ぞ!其れでは懸かれっ!」

『ゥオオォッ!』

 前衛の指揮に就いた宿老の馬場美濃守信春の号令一下、楯板の前面に大量の竹束を括り付け、其れを横一列に並べて、屈強な足軽達が鯨波を上げながら一斉に坂道を駆け上がって行く。

 50日にも及ぶ十数回の攻防戦の中で、既に竹束を持った侭で坂道を通れる様に、麓から北曲輪迄の道が整地されているのだ。

 高さ1尋(6尺)にも及ぶ《竹束の壁》は鉄砲の弾丸を喰らいながら前進し続け、逆茂木を半ば押し潰して空堀の手前に到ると、隠れていた中間や小者達がもっこで運んだ土塊を、掛け声と共に次々と空堀に投げ込んでいく。

 城方も鉄砲を一斉に撃ち放つが、弾丸は前面を覆った高い竹束と、内側の楯板に因って全て食い止められた。

「此れでは埒が明かぬ!鉄砲を持って物見櫓に登れ!高所から竹束越しに狙い撃てぃ!」

 組頭の指示で、鉄砲足軽達が櫓の梯子を登ろうと試みるが、櫓上に到る前に援護に入った武田方の筒衆(鉄砲隊)の餌食にされた。

 残された抵抗は、精々弓矢や石礫を高々と放って、弧を描かせて敵陣へと打ち込む位になってしまった。

 

 城の北側から大きな銃声が響き渡ったと同時に、更に北側…二俣城から上流の武田軍の陣所から、1枚の筏が天龍川の流れに押し出された。

 筏は最初の内は順調に、流れに乗って井楼に近付いていく。

 だが、井楼の直ぐ下流で合流する二俣川に因って流れの向きが変えられ、川の真ん中付近を空しく通過していく。

「成程…、左手から真横に合流する二俣川が、筏の向きを変えて居る訳ですな…」

 陣頭指揮を取る昌景の横に並んだ北条氏規が、昌景に話し掛けて来る。

「うむ…、其の様で御座る。然れど、此の侭では僥倖に期待致すしか無いのではなかろうか?」

「山県殿、御案じ召されますな。それがしも三崎の海賊衆を配下に持つ身、船戦の難しさは承知致して居り申す。既に、此の直ぐ下流の鹿島郷の神主、大角孫丞なる者から川の流れについて、細かく聞いて居りまする。筏を流して居る上野介(清水康英)は更に詳しく聞いて居りまする故に、先ずは篤と御覧在れ!」

 自信に満ちた氏規の面持ちに、昌景も再び闘志をあらわにして筏と井楼を見詰め続ける。

 

 半時(1時間弱)以上経過して、康英達が次第に川の流れの特徴を掴んで来たのか、段々と井楼の側を流れ去る筏が増えて来た。

 中には井楼の数寸(1寸は約3.03センチメートル)脇を擦り抜ける筏も現れ始めた。

 其の頃に為ると、二俣城の将兵達も武田軍が流して来る筏を見付けて、報せを受けた城主の中根正照が、井楼の直上に駆け付ける。

「ええぃ、水の手櫓(井楼)を守るのだ!善兵衛(康安)を呼んで、手隙の鉄砲を此処に掻き集めろ!」

 正照の命令を受けて、既に戦闘に入った北曲輪以外の全ての鉄砲足軽が、井楼の直上に駆け付けた。

 北曲輪で鉄砲足軽達を指揮していた弱冠18歳の副将・松平康安も駆け付け、号令を掛けながら自らも火縄銃を構える。

「善いか!櫓に近付く筏を狙うのだ!…撃てぇっ!」

 数十梃の火縄銃が一斉に火を吹くが、流れ来る筏に中々当たらない。

 しんば命中しても、無人の筏に小さな穴を穿つのみでは、何の妨げには為らなかった。

 双方の将兵が見守る中、井楼の根本に初めて筏が直撃為ると、筏は分解しながらも支柱の1本をし折った。

 更に《質量兵器》と化した数枚の筏が、次々と井楼の処へと流れていき、残りの支柱にも激突して井楼を激しく揺さぶると、其の度に城方からの嘆息と武田軍からの歓声が木霊こだま為る。

 そして傾き始めた井楼は、遂に轟音を響かせながら天龍の流れの中に飲み込まれ、其の姿を消し去ったのだった。

 

 井楼を破壊して水の手の遮断に成功すると、勝頼は城に対する攻撃を停止させて、開城を促すべく軍使を派遣した。

 水の手を絶たれた事で此れ以上の抗戦は不可能と判断した正照は、副将の松平康安と青木貞治を呼び寄せて3人で談合の上、康安を浜松城に送り出した。

 武田方の出した条件を含めて、主君から開城の許可を貰う為である。

 

「善兵衛(康安)が戻って参ったと聞いて何事かと思えば、真逆まさか開城致したいとは…。しかも武田の条件は『二俣の城兵と引換えに、遠江の国衆からの人質を一旦帰郷させる事』などと吐かして居るのだ!到底承諾出来ぬわ!…善いかっ!間も無く織田の軍勢が参る故に、今暫く持ち堪える様に平左(正照)達に伝えぃ!」

 二俣城を開城したい旨を聞いた徳川三河侍従家康は、明らかに不快な表情を浮かべながら康安に更なる継戦を命じるが、康安は全く納得してはいなかった。

「殿(家康)には、幾度と無く某や青木殿が遣いを致して、二俣城への後詰を御願い致して参り申した!然れど、最早限界で御座る!殿は、我等二俣の城兵を高天神城同様に、見殺しに致す所存で御座るか!」

 

 康安の出自である《大草松平家》は、当初は岡崎周辺に所領を持っていたが、宗家である安祥松平家(現在の徳川家)と対立して敗れ、額田郡大草に移住していた。

 更には、10年前の《三河一向一揆》が起きると、幼き康安の後見を務めた曾祖父の昌久が一揆に荷担、康安自身も所領である三河大草の地を召し上げられていた。

 其の後、康安は一揆勢に参加して鉄砲の技術を習得し、過去の雪辱を期して、徳川の世継である三郎信康を通す形で、徳川家に帰順を果たしている。

 だが、一揆の頃に培われた反骨精神は、些かも衰えては居なかった。

 

「…そうは言っては居らぬ。開城の交渉を出来得る限り…年明け位迄は引き延ばすのだ。織田の先乗りの軍勢3千が、間も無く領内へと入る。更に、朝倉左衛門(義景)が越前に帰国致した故に、年明けには織田弾正(信長)殿自らの後詰が参る。其れ迄の間、交渉を伸ばして諏訪の小倅(勝頼)を二俣に足止め致すのだ」

(成程…、3千の助勢が参っても助けに入られぬ腹積りか…。此の侭では、高天神の小笠原与八郎(氏助・現在の弾正少輔信興)同様の捨石にされる、という事か。為らば…)

「…承知致しまする。直ちに二俣城へ戻って中根殿に御伝え致しまする」

「うむ、期待致して居るぞ…。下がって善いぞ」

 康安が承諾の返答を返して平伏為ると、家康は生返事を返して退出を促した。

 康安は感情を消した侭で家康の御前から退出すると、浜松城下の自らに宛行あてがわれた屋敷に向かう。

 そして、屋敷内の全員に三河への疎開を命じた後に、二俣へと戻って正照達に家康の命令を伝えると、2人に家康への不満を吐露した。

 

「中根殿、青木殿。某は高天神の事といい、此度の二俣の事といい、殿(家康)の為さり様は我慢が為りませぬ!水無しで年明け迄籠城を続けろ、などとはとても正気とは思えませぬ!」

「善兵衛…、織田の大軍勢無しには領国を保てぬ事、殿も御心痛なのだ。余り其の様に言う物では無い…」

 不満を吐露する康安に、《信康付きの家老》として直接の上役に当たる正照が苦言を呈する。

 だが、既に家康に愛想が尽きた康安は、益々不満を噴出させていく。

 

「然れど、遠江の国衆の人質は解き放たぬ、水無しで半月近く籠城しろ、と明言されたので御座るぞ!此れでは、儂等1千2百の二俣城兵に城を枕に犬死致せ、と言って居るのと同義では御座らぬか!」

「善兵衛!其れ以上は何も申すな!…こう成っては最早是非も無い。武田方へ二俣城を開城致す旨を伝えると致す。だが、国衆の人質の解放は出来ぬ故、交渉は多少長引くだろう。其の間に浜松の殿が戦仕度を整えられるに相違有るまい…」

 未だに家康への忠誠を誓う正照や、同調して首肯する貞治に対して、康安はすくりと立ち上がって2人に言い放った。

「某は仕え甲斐が無い主君に従う積りは御座らぬ!殿は…徳川三州(家康)殿は、己は救いの手を差し伸べては居らぬにも関わらず、城の失陥には厳罰を以て臨まれて居る。掛川然り、そして高天神も然り!後詰にも参らず、長々と捨て置いておきながら、責任を此方だけに擦り付けられるは御免蒙る!」

「なっ、何と言われる!松平一門として、恥ずかしくは御座らぬのか!」

 貞治は激昂して怒鳴り付けるが、正照は腹に含む処が有るのか、青褪あおざめた侭で無言を貫いた。

「…御二方には他意は御座らぬ。此れ迄御世話に成り申した。御二方と肩を並べて戦った事、本当に誇りに思って居りまする…。某は、此れより三河へ向かってから、昔の《一揆》のつてを頼りに逐電致す。然らば御免仕る!」

 康安は一息に言い切ると、共に戦った正照と貞治に一礼してから、身を翻して部屋から出ていった。

 

 康安と大草松平家の家臣は、翌朝には二俣城から姿を消していた。

 家臣達は浜松から逃れた者達と合流して、三河の奥深い山中に暫く身を隠す事に成った。

 そして康安自身は、直接の主君である岡崎城の徳川信康に暇乞いを為ると、家康の眼から逃れる様に徳川領国から出国している。

 此の時信康は、父の眼を誤魔化せる様に、大草松平の家臣を匿う手配した他、出国する康安の支援も密かに行った。

 其の恩義に報いる為に、康安は数年の後に信康の元に帰参を果たす事に為る。

 

 二俣城の開城交渉は、水の手を破壊した直後から始められたが、武田方の条件を家康が拒絶した為に、意外な日数を要する事に成った。

 結果として、二俣城は12月19日に正式に開城し、中根正照・青木貞治以下の徳川勢は降伏して城を明け渡した。

 但し勝頼や武田軍の首脳部は、降伏した正照達を殺すが如き愚策は採らなかった。

 勝頼の指示に従って、鉄砲を含む全ての武具や牛馬は没収された上で、希望者全員に水と兵糧が手渡され、徒歩にて浜松へと帰る事と定められたのだ。

 未だに1千人以上を数える二俣城兵は、久方振りの水に喉の渇きを潤すと、天龍川の浅瀬を歩いて渡河し、浜松への道程を進んで行く。

 

 薄暮の頃、二俣城の残兵を率いて漸く浜松城の城門をくぐった中根正照と青木貞治は、他の諸将からの冷たい視線に晒された。

 さながら針の筵の如き視線を浴びながら、正照と貞治は家康に二俣城失陥の罪を詫びる。

「殿…。此の度は武運拙く、二俣城を武田の軍勢に奪われた事、申開きも御座いませぬ。正に、万死に値致す処為れど、今一度の雪辱の機会を御与え下さいませ…」

「二俣から戻った1千の軍勢は、浜松での戦いにも必ずや入り用に成る物と心得まする!」

 家康は訴え掛ける正照と貞治に対して、苛立ちを隠そうともせずに言い放つ。

「…何故、二俣を武田の奴輩に明け渡したのだ?二俣から浜松迄は天龍川を渡らば一息ではないかっ!而も、余計な事迄して呉れよったわ!」

「余計な…?其れは如何なる事で御座いましょうや?」

「其れさえも判らぬか正照!貴様等がのこのこ歩いて天龍川を渡って見せた御陰で、武田の奴輩に何の苦労も無く天龍川を渡る場所を教えてやったのだぞ!」

「ああっ…!」

 家康の指摘に愕然と為る正照と貞治に、家康は更に畳み掛けて責め立てる。

「織田の助勢の先乗りたる3千の軍勢が、既に岡崎に参って居る!貴様等があと2・3日粘り続けて居れば、後詰の軍勢を起こして諏訪の小倅に一泡吹かせられた物を…!」

「はっ!申し訳御座いませぬ!」

「其処迄配慮が至りませなんだ!」

 既に二俣を見捨てる腹積りだったとは、露程にも感じさせぬ家康の口振りに、正照と貞治は床に額を擦り付けて平伏為る。

「ふんっ!口先だけならば何とでも言えるわ!誠に其の様に思うて居るならば、次の戦で儂の為に見事に散ってみせるが善い!」

「くっ…!承知仕り申した…」

 家康が、力無く平伏為る正照達を一瞥為たのみで広間から出て行くと、集められた諸将も彼等から視線を逸す様に広間を後に為る。

 後には、絶望に打ちひしがれて自殺紛いの討死を覚悟した、2人の武将のみが残されたのだった。

 結論から述べると、2日は3日後には武田との戦場に赴き、野に屍を晒す事に成る…。

 

 他方、周辺の地勢に詳しい二俣城の将兵に《瀬踏み》をさせる事で、天龍川の渡河地点を確認させた武田軍の本陣に、次々と来訪者が現れていた。

 飯尾与四郎右衛門助友を始めとして、日和見を続けていた遠江の国衆達が、腰を低くして武田家に帰順を申し入れて来たのだ。

 

 勿論此の間、勝頼は合代島の本陣にて采配を揮う一方で、武田家の当主としての政務にも励んでいる。

 例えば、天龍川より東側の徳川方の所領を収公し、恩賞として諸将に加増した他に、宗家の直轄地に編入して、財政基盤の強化を計っている。

 また、東遠江の治安を維持する為に、遠江に於いて乱暴狼藉を禁ずる法度を記した高札を各地に掲げている。

 此の法度の範を示す為に、違反して狼藉を働いた将兵に対しては、降格や士分剥奪等の処罰を与えた他、無断で乱取り(拉致)を行い人買いに売り捌こうとした者を捕えて、遠江の民衆に公開の元で斬刑に処している。

 父・信玄の治世に於いて、戦場の乱暴狼藉や略奪、乱取り等は、恩賞に有り付けない下級武士や足軽の不満を解消させる為と称して、黙認どころか積極的に行われていた。

(勿論武田家のみでは無く、東国の各大名の軍勢でも常態的に行われていた)

 勝頼自身、一武将だった頃には何ら疑問も持たずに黙認していたし、此の侭当主に就いていた為らば、恐らく武田家の滅亡に至る迄、其の部分に思いすら至らなかっただろう。

 だが、陣代就任前の軍規違反に因る半年近い謹慎生活の中で、親交を持った多くの者の影響を受け、更には僧籍に入り《御聖道様》と称される次兄・竜芳(海野二郎信親)からの忠告を受けた結果、乱暴狼藉や人身売買を早期の領国化を妨げる《悪習》と断じるに至ったのだった。

 勝頼が断固として臨んだ此等の諸政策は、天龍川以東の武田の領国化を促進させると同時に、未だに徳川家の勢力圏に入った侭の天龍川以西の国衆や民衆に対して、武田への警戒を和らげる事に成った。

 だが、敵地での乱暴狼藉や乱取り等の慣習を《既得権益》と捉える武田家の一部の者達は、勝頼の一連の方針で更に反感を募らせる事に為るのだった。

 

 二俣城の開城に伴う東遠江の国衆の帰順に因り、遠江各地に展開為る武田軍は、帰順した国衆の手勢を含めて合計4万6千以上に達した。

 しかし、東遠江の安定を考える為らば、幾何かの軍勢を残しておく必要性が生じる。

 其処で、帰順した東遠江の国衆には、留守居の手勢以外の全兵力の参陣を命じる一方で、飯田城・各和城・只来城・光明城等の徳川勢の撤退で無人と化した城に、武田軍の兵を入れて抑えとした。

 また東海道に扼する掛川城には、城攻めにも参加した駿河田中城主で《御親類衆・騎馬120騎持ち》の板垣左京亮信安が率いる2千の軍勢を入城させた。

 更に開城した二俣城には、信濃先方衆の芦田下野守信守を主将とした軍勢を入れて、東遠江防衛の要としたのだ。

 

 信守は信濃佐久郡の春日城主で騎馬150騎持ち。元々は信濃佐久郡に勢力を持っていた岩村田大井家の重臣・依田家の庶流として、芦田城を本拠としていた。

 主家だった岩村田大井家が信玄との戦いに敗北為ると、其の後は信守も武田家に出仕して台頭してきた。

 信守は信濃先方衆で在りながら、同じ信濃先方衆の丸子・武石の2家を相備衆として付けられており、信濃先方衆の有力な1人と位置付けられていた。

 信守は、嫡男で本姓に復した依田右衛門佐信蕃と共に、一族・相備衆を率いて二俣城に入城為ると、《金山衆》の協力を得て城から河岸迄通じる通路を掘削して、井楼に代わる新たな水の手の確保に取り掛かった。

 そして掛川以外の留守居の兵を含めた合計3千の軍勢を預けられ、天龍川以東の安定に努める事に成る。

 

 東遠江各地に合計5千の軍勢を残す事に因り、武田軍は合計4万1千の軍勢を再編した。(北条家の助勢3千を含む)

 二俣城の開城と東遠江の平定に因って、後顧の憂いを無くした武田軍首脳部は、《徳川征伐》の次なる段階である天龍川以西の西遠江…中でも徳川家康の居城である浜松城の攻略へと焦点を移していた。

 遠江の徳川勢は、4ヶ月以上に及ぶ武田との戦いの中で多くの将兵が死傷或いは逃散したが、天龍川以東から退いた者達を含めて、未だに約8千余りの軍勢が浜松城に籠城していた。

 更に織田家の助勢3千が三河を通過中、との報知が既に入っており、浜松城の軍勢は1万1千余りに膨らむと見られていた。

 武田と徳川の兵力差は4倍近くに及ぶのだが、籠城戦では城を攻める側は、城に籠る側の最低3倍、出来得る為らば10倍以上の軍勢が必要とされている。

 だが既に、兵力差が5倍以上の高天神城攻略に約3ヶ月、20倍以上の二俣城攻略にも丸2ヶ月を要しており、3倍程度の兵力差しか無い浜松城の攻略には、其れ以上の長期間に成る事が容易く予想出来た。

 浜松城攻略に時間を掛け過ぎていては、包囲網に封じ込まれている織田信長が、武田家との仮初かりそめの盟約を破棄して、大軍勢を擁して徳川の後詰に入る可能性が非常に高かった。

 勿論、家康は《浜松での後詰決戦》を企図しており、長期の籠城戦に備えて着々と準備を重ねている。

 勝頼率いる武田軍としては、何としてでも徳川勢を浜松城から引き摺り出して、野戦に持ち込む必要が有るのだ。

 

 浜松城を如何に早く攻略為るか、を思案し続けながらも、全く良策が浮ばずに渋面を作る勝頼の元に、後方の駿府城からの《助け船》が来たのは、二俣開城の翌日夕刻の事であった。

 

「御屋形(勝頼)様におかれましては、二俣城の開城の事、誠に祝着至極に存じまする。駿府城に御座おはしまする法性院様(信玄)も、必ずや御慶びの事で御座いましょう」

 合代島の本陣に来訪した《法性院様申次役》の長坂筑後守昌国は、勝頼に二俣開城の祝辞を述べる。

「源五郎(昌国の仮名)も壮健で何よりだ。しかして此度は何用で参ったのだ?父上よりの御用件は如何なる事なのだ?」

「はっ!法性院様から1通の書付を預かって参り申した。然れど、内容は某も聞かされて居りませぬ。法性院様から『御屋形様以外、他人の眼に触れさせるべからず』と厳命されて居りまする故…。但し、某は此の後、掛川城の板垣様にも書状を御渡ししてから、高天神城に向かう様に言われて居りまする」

「そうか…。大儀であった。父上よりの書付けは確かに預かった。今宵はゆっくり身体を休めて、明朝に掛川へ発つが善い」

「御意で御座いまする!」

 書付けを勝頼に手渡して平伏為る昌国の背中を見ながらも、勝頼は信玄が書付けに記したであろう《策》に期待を抱かずには居られなかった。

 

 其の日の深更。

 部屋の外で土屋昌恒を始めとした奥近習が宿直に就く中、勝頼は布団の傍らに座り込んで、火皿のほのかな灯火を頼りに、1人で信玄からの書状を読み耽っていた。

 手元には、簡略して記された天龍川から浜名湖辺り迄の地図が置かれている。

 書状と照らし合わせて地図を指でなぞりながら、勝頼の眼は興奮を抑えられずに爛々と輝きを放つ。

(…成程!此の策為らば、三州を城から引き摺り出せるぞ!而も儂等の動きを読んで、既に駿府を出立為さっておいでとは…。父上の智謀は誠に見事な物だ。儂では迚も及びも付かぬ…)

 

 《徳川征伐》出発の朝、躑躅ヶ崎館に於いて、勝頼は信玄に対して《家康を破る策が思い付かない》と相談して助言を求めていた。

 駿府城に入った信玄は勝頼の為に、家康を浜松城から引き摺り出して野戦に持ち込む策を考え出すと、書状をしたためて勝頼に策を伝授したのだ。

 

(三州は儂を《諏訪の小倅》と侮っておると聞く。為らば必ずや父上の策に嵌まるに相違有るまい!)

 勝頼は火皿の灯で照らされた地図の、浜松城の上の方に記された地名を呟く。

「三方ヶ原…か。」

(必ずや徳川三州を打破って、父上の天下への道をじ開けて呉れようぞ!)

 勝頼は、拳を固く握り締めながら、近く訪れるであろう徳川勢との決戦の勝利を誓うのだった。

 

 時に元亀3年(1572年)12月20日、後世に名高い《三方ヶ原の戦い》を2日後に控えた夜の事である。


今回、やっと二俣城を攻略しました。此の話では、勝頼の改革に因って最大動員兵力が増加しており、史実の信玄が率いた3万の兵力(此の内3千は東美濃に侵攻)に比べて、1万以上多い兵力で遠江に攻め寄せてます。しかし、掛川城や高天神城を同時期に攻め落とした為に、史実に掛かった時間と同様に長対陣となってしまいました。次回は三方ヶ原の戦いに向けて各陣営が動き始めます。乱文ですが次回も読んで頂ければ幸いです。有難う御座いました。


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