弐:関東遠征(上)〜若虎の生誕〜
この章でやっと勝頼が武田家を率いていきます。相変わらずの乱文の上に遅筆ですが、宜しくお願い致します。
蒸し暑い中でも、田畑の作物は眩しい太陽の光を身体一杯に浴びて成長していく。まるで梅雨の間の日光の不足分を補うかの様に。
永禄12年(1569年)6月初旬の梅雨明けの日に、甲斐府中の中心に在る躑躅ヶ崎館の御主殿・大広間には領国各地から集まった武田家家臣団の熱気に包まれていた。
御親類衆や譜代家老衆、奉行衆、そして大身の者達が建物の中に着座し、入り切れない者達は開け放たれた中庭に整然と並んでいた。
彼等は雑談をしながら主である武田法性院信玄の現れるのを待っているのだ。
すると暫くして、奥近習を連れて信玄と息子の諏訪勝頼が入って来て、二人並んで上座に《御旗・盾無》を背にして着座した。
因みに《御旗》とは前九年の役の折、当時の源氏の棟梁・源頼義が後冷泉天皇から下賜された白地絹に日の丸を染めた旗で、頼義の三男で武田家の遠祖に当たる新羅三郎義光から代々伝わった物。普段は御旗櫓(祠廟)に安置して、この様な節目の時に上座に置いている。
また《盾無》は新羅三郎義光が所有していた《源氏八領》と呼ばれる鎧の内の一つ。盾を必要としない堅牢さを誇る大鎧で、これも武田家に代々伝わっていた。因みにこの鎧の割菱の飾りが武田家の家紋《武田菱》の元になっていた。
武田家では重要な軍議等の最後には当主の音頭で『御旗・盾無も御照覧あれ』と宣言し、それ以降は異議を言わずに全員が団結して作戦を行う決まりになっていた。
その《御旗・盾無》を背にして座る信玄が徐に口を開いた。
「この度集まって貰ったのは他でも無いこの隣に座る勝頼の事だ。勝頼は本日を持って高遠諏訪家から武田家にその氏姓を戻す。その上で儂の《陣代》として政治・軍勢・外交の全権を譲る事とする。また儂自身は政から一歩退く。何かしら異論は無いか?」
すると、一人の武将が発言を求めた。
「御屋形様、勝頼殿が陣代に為られるのは、信勝様が御当主の座に就かれた後に成人なさる迄の間の名代としてでは在りませぬか?」
そう言って真っ向から異議を唱えたのは小山田左兵衛尉信茂。甲斐東部の《郡内》地方の大半を支配している250騎持ちの譜代家老衆で谷村城と岩殿城の城主である。また彼の母は信玄の叔母(父・信虎の妹)であり、信茂は信玄の従兄弟に当たる為、御親類衆以上の権限を有していた。
「大体、勝頼殿は昨年末の富士川畔の戦で地黄八幡(北条綱成)の挑発に乗り大敗し、謹慎中の身では在りませんか?」
「左様、その負け戦のせいで我ら河内衆が興津の地で苦労してるのですからな」
信茂の異議に賛意を示したのは穴山左衛門大夫信君。200騎持ちの御親類衆で甲斐南西部の河内郡の一切を支配しており下山城を居城にしている。
また信君の母は信玄の姉でその妻は信玄の二女(後の見性院)、しかも所有する軍事力や権限は小山田家に匹敵し、正に御親類衆屈指の実力者と言える。現在は駿河の興津横山城で南の最前線を守っていた。
「それに御屋形様が政から身を退かれる理由が私には判りませぬ」
その信君の意見に其処かしこで賛同の声が起きた。それらの流れに逆らう様に一人の部将が立ち上がり発言を行った。
「御屋形様、拙者は勝頼様の御陣代就任の件を賛成させて頂きまするぞ。勝頼様の武勇はこれからの武田の御家には入り用で御座る」
勝頼を支持したこの武将は小幡尾張守憲重、号は信竜斎全賢。西上野国峰城主だったが近頃嫡男の上総介信実(後の信真)に家督を譲って本貫地の小幡郷で暮らしている。合計1千騎もの赤備え部隊《上州の朱武者》の内、半分の5百騎を率いる西上野先方衆の筆頭である。
「信竜斎殿の言われる通りだ。某も勝頼様が上に立たれる事を支持させて頂こうか」
憲重に同調したのは信濃飯田城代の秋山伯耆守虎繁。飯田や高遠を含めた伊那郡の郡代を務める50騎持ちの譜代家老衆である。
知勇兼備の武将で周辺諸国からは《武田の猛牛》と畏れられる一方、甲尾同盟締結の際は使者を務める等外交・内政も得意としていた。
高遠城主だった勝頼にとって、頼りになる人物が支持を表明してくれた。
更に信玄から後見を託された4人の重臣達(馬場信春、山県昌景、内藤昌秀、春日虎綱)が相次いで勝頼支持を表明した。そうすると他の譜代家老衆や足軽大将、それに先方衆(甲斐以外の外様家臣)も『小幡殿や譜代の重臣方が支持なさるなら…』と勝頼支持に回ったのだ。
それらの動きをある程度見極めた信玄は、改めてこの度の経緯を語り、勝頼の陣代就任を宣言した。
「実は昨年末の曲直瀬道三殿の見立てで、儂が政を行い続けると病が悪化し命を縮めるそうだ。よって政を勝頼に託し儂は出来得る限り養生に専念するつもりだ。では此よりは勝頼には儂の陣代として働いて貰う。また来年位迄には勝頼に家督を譲るつもりである。一同力を合わせて勝頼を盛り立てよ!良いな!」
信玄自身からそう宣言されると不平不満が有る者達もその場に平伏せざるを得なかった。
「御屋形様からの命により、今を持って陣代を務める事に相成った。君臣一丸と為って武田家を更に盛り立てていこうぞ!」
と勝頼が下座の家臣団に声を掛けて、徐に後ろに向きを変えて家宝に宣誓を行う。
「御旗・盾無も御照覧あれ!」
それに合わせて家臣団も内心はともかくとして一斉に唱和した。
『御旗・盾無も御照覧あれ!!』
…こうして永禄12年6月に信玄の隠居と新当主・武田勝頼の陣代就任及び近い内の家督相続が家臣団と武田の家宝である《御旗・盾無の鎧》の前で宣言されたのだった。
その夜躑躅ヶ崎館での宴が済んで後、看経所には信玄、勝頼、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、春日虎綱の6人が再び集まっていた。
彼等は敢えて車座に為って座ると最初に信玄が話し始めた。
「これで先ずは一段落だな。しかしあそこで信竜斎と虎繁が賛成に回るとはな。昌景、誰か根回しでもしたのか?」
「いえ、他の何人かには説得を致しましたが、あの2人には特に何かしらは致しておりませぬ」
「成程…ならば2人は自らの意志で勝頼様を支持した訳ですな。しかし御親類衆の方々は不平が多いで御座いましょうな」
昌秀の感想に虎綱も分析を加えていく。
「穴山殿や小山田殿の他に刑部少輔殿(信廉)や木曾左馬頭殿(義康)、それに民部少輔殿(松尾信是)等の方々が反対かと思われまする」
「ならば早い内に勝頼様の与党を作り上げる必要性が生じますな」
信春がこの中の最年長者らしくこれからの問題点を指摘した。
「確かにな。勝頼、これからはお前がこの武田家を率いていくのだ。如何していくつもりなのだ?」
信玄の質問に真正面に座った勝頼が澱み無く応えていく。既に腹案を用意していたのだ。
「はい、昌景以外の3人が城代として境目の城に張り付いてる状態ですので、留守居役として譜代家老衆の中から派遣して入替えまする。先ずは西上野の箕輪城代は浅利式部を当てまする」
浅利式部少輔信種は120騎持ちの譜代家老衆であり、また信玄の従兄弟にあたる。(母が信玄の叔母)竜朱印状奏者を務める等、武田家の軍制の中心にいる一人である。また彼の配下は山県隊・小幡隊と同じく《赤備え》部隊になっている。
「次に海津城代には、小山田備中を当てる予定で御座る」
小山田備中守昌成は《古備中》と呼ばれた甲斐石田の小山田虎満の嫡男で70騎持ちの譜代家老衆。常に信玄旗本衆の先陣を切る槍の使い手である。虎綱の前任の海津城代で、現在は信濃佐久の内山城代を務めている。
「それに伴い、海津の東に有る尼飾城代には備中の弟の小山田大学(大学助昌貞)を昇格させ、備中の寄騎と致しまする」
「成程、小山田殿なら父親同様城の守りに定評が有りますからな」
と、この移動に昌景も太鼓判を捺してくれた。
「そして牧之島城代には、栗原左兵衛を当てまする。そして、信春達には駿河侵攻の部隊の指揮を取って貰いまする」
栗原左兵衛尉詮冬は甲斐栗原郷の領主で、武田一族に連なる栗原伊豆守信友の甥で、その養嗣子となった。また実父の栗原左衛門佐昌清(信友の弟)は《速攻の栗原》と呼ばれた信虎及び信玄青年期を支えた有力武将だったが、詮冬自身もまた100騎持ちの譜代家老衆を務めている。
「ほう、栗原殿を回しまするか…。そして我らは暫くは外征に専念する訳ですな?」
一時的にとはいえ異動になる昌秀が勝頼に対して念を押す様に質問する。
「うむ、父上が上に立たれるならば、皆が境目の城に張り付いても大丈夫だが、儂が指揮を取るならばお前達の輔佐が是が非でも必要だ。宜しく頼むぞ」
「御任せ下さい。我らが勝頼様を御屋形様同様に名君と呼ばれるべく支えていきましょうぞ!」
「如何にも。しかしこれから暫く戦三昧が続くと思うと今から血が騒ぎますなぁ。ハッハッハッ…」
決意を込めた虎綱の発言に信春が戦巧者らしく笑い飛ばした。
「馬場殿は御屋形様より年嵩なのに相変わらず意気軒昂ですな」
そんな信春を昌景が囃立てると看経所に居る6人の間は一頻り笑いに包まれていった。
暫く看経所で歓談していた6人だったが、信玄が徐に別の話題を話し始めた。
「しかしながら勝頼はまだまだ若いからな。お前達4人と別に《軍師》が欲しい処だな。儂に勘介が付いていた様にな…」
信玄が言う勘介とは、勿論《信玄の軍師》として名を馳せた山本勘介晴幸の事である。彼は永禄4年(1561年)の信濃川中島でのいわゆる《八幡原の戦い》に於いて戦死していた。
信玄に対しての情報将校としての助言も去る事ながら、足軽大将であり尚且つ築城術の達人で《武田流築城術》を発展させた人物でもある。馬場信春も教来石景政と名乗っていた頃に同僚である勘介に築城術を師事していた。勝頼も幼少時には勘介から軍略を学んでいたのだ。
「そうですな。道鬼斎殿(勘介の法名)が生きておったらこの日を一番に喜んでおろうしな」
虎綱が感慨深い表情で述べると、勝頼が口を開いた。
「一徳斎ならばどうで有ろうか?勘介も一徳斎の事を良く褒めておった。父上、如何で御座ろうか?」
「一徳斎…真田幸綱か!確かに奴程に勝頼の軍師が相応しい男はおるまい。此処に居る全員が納得だろうしな」
そう言って信玄は土屋惣三に真田幸綱を呼びに行かせた。
真田弾正忠幸綱、号は一徳斎幸隆。信濃小県の真田郷の領していて、同地の松尾城主でもある。一時武田信虎に攻められ上野の長野業正を頼って亡命したが、後に知り合った山本勘介の推挙により信玄に仕官した。
その後は北信濃及び西上野の豪族の調略に腕を振るい信玄の篤い信任を得る。外様家臣で有りながら甲府に屋敷を与えられたり、一時上野箕輪城代を務める等、譜代家老衆と同様の待遇を得ていた。また戦巧者としても有名で《攻め弾正》の異名を持つ名将である。
現在は嫡男の源太左衛門尉信綱に家督を譲りながらも、未だに西上野・北信濃の国衆支配や調略に辣腕を振るっているのだ。
看経所に呼ばれて入室した幸綱は、信玄と勝頼から今回の家督相続の理由と信玄が心に秘めている《天下取りへの野望》を明かされ、その上で勝頼付の軍師となる事を要請された。
幸綱は信玄達6人に不敵な笑みを浮かべながら言い放った。
「成程…正しく昔に勘介が語った事がある野望ですな。武田の天下の為に非才では有りますが軍師の件、喜んで御引き受け致しましょうぞ!勝頼様、この一徳斎を宜しく御頼み申し上げまする!」
「うむ、こちらこそ未熟な私を導いて欲しい。頼んだぞ」
幸綱が勝頼の軍師となり、4人の重臣と共に勝頼を支える一翼を担う事が決まると、信玄は勝頼に語り掛けた。
「勝頼、これよりはこの5人と共に武田を繁栄させてくれ。それと儂との連絡やら儂から諸国に調略を仕掛ける事を考えて、昌幸と昌国、それと勝資と昌忠を儂に預けてくれんだろうか?」
信玄が指名した4人共20代前半で、現在(永禄12年)24歳の勝頼と同世代のいわば《幹部候補生》と言える者達である。
武藤喜兵衛昌幸は真田幸綱の三男で、信玄の命により甲斐の名門で信玄の母・大井夫人に所縁がある《武藤家》の名跡を受け継いで足軽大将を務めている。また信玄の物見を行う事が多く、同じく物見を行う曽根昌世(義信失脚時に亡命していたが昨年武田家に帰参した)と共に信玄に《我が両眼である》と言わしめていた。
長坂五郎左衛門尉昌国(源五郎)は足軽大将で現在信濃諏訪郡代を務める長坂筑後守虎房の嫡男である。信玄の奥近習を務めた後に武田義信の側近になっていたが、義信失脚後は再び信玄の側近に戻っていた。
(あの事件の時に一族の長坂清四郎勝繁が切腹している)
跡部大炊介勝資は信玄の傅役及び竜朱印状奏者を務めた300騎持ちの譜代家老衆の跡部伊賀守信秋(攀桂斎祖慶)の嫡男である。自らも既に2年前に家督を相続し現在は親子共々竜朱印状奏者も務めている他、外交担当も兼ねている。同僚の竜朱印状奏者で奉行を兼ねている土屋右衛門尉昌続と並んで《若手の出世頭》といえる存在である。
跡部右衛門尉昌忠は勘定奉行や竜朱印状奏者を務めた50騎持ちの譜代家老衆の跡部美作守勝忠の嫡男である。(跡部信秋・勝資親子とは血筋は別系統になる)元武田義信の側近の一人で、義信失脚後は昌国同様に信玄の側近に戻っていた。
信玄自身が養生中に彼等を教導する事により、後々の勝頼の家臣団をより強固なものにしようというのだ。
「心得ました。その4名は父上付に異動致しましょう。但し何人かを戦に動員する事もあると思いまする」
「無論だ。延々と軍場に行かないと若い連中だから腕が鈍ろうしな。ハッハッハッ」
この次の日、勝頼が信玄の陣代に就いた翌朝には信玄は医者の板坂法印と御宿監物政友、そして新たな役職《法性院様申次役》に任命された武藤昌幸、長坂昌国、跡部勝資、跡部昌忠等を連れて甲斐山中にある湯治場に養生に出発した。
勝頼達は彼等を見送った後、直ちに新政策を幾つか実行に移し出した。
先ず最初に使者を遣わせて大蔵長安を召集した。堺に新技術を吸収させる為である。
「勝頼様、土屋藤十郎長安、召し出しにより参上致しました。この度は御陣代就任おめでとう御座いまする」
「うむ、私の謹慎先を訪ねて来てくれて以来だな…土屋?藤十郎の氏姓は大蔵で有ったろう」
「はっ、この度寄親の土屋右衛門様(昌続)より土屋姓の名乗る事を許して頂きました」
その様に言う長安に対して勝頼は今回の命令を発した。
「かねてから長安が希望していた堺への派遣を認める事となった。そこで新たな金の増産の手立てを学んで来るのだ。それと堺の商人や紀伊の雑賀根来に知己を作り、大量の鉄砲や玉薬を手に入れる方策を見つけるのだ。又は鉄砲鍛冶をこの甲斐に招いても良い。どうだ藤十郎、やれるか?」
「おおっ、あの提案を受け入れて下さったのですか!御任せ下さいませ!この土屋藤十郎長安、必ずや勝頼様の御期待に応えてみせまする!新たな金の精錬法と鉄砲の調達、どちらも必ず果たしましょうぞ!」
「うむ、此等を全て満たす事が出来た暁には、お主を金山奉行に抜擢しよう。期待しておるぞ」
自らの要望が適い興奮気味の長安に対して、勝頼は奉行職を約束して励ました。長安は支度金を預かると意気揚々と中仙道を畿内へと上っていった。
次に勝頼は浅利信種、小山田昌成・昌貞兄弟、栗原詮冬を召し出し、新たな役職に付けた。信種は箕輪城代、昌成は海津城代、昌貞は尼飾城代、詮冬は牧之島城代に任命され各地の任地へ赴いていく。
更に勝頼は奥近習として残った金丸惣三に今福浄閑斎を召し出す様に命じた。
今福石見守友清、出家して法名の浄閑斎を名乗っている。70騎持ちの譜代家老衆で信濃筑摩の狩谷原城代を務める傍ら、公事奉行(犯罪取締や訴訟関係を司る役職)を兼ねている。武略・芸能に詳しく交渉事に定評が有った。また多くの罪人を試し斬りにしていた為、軍場の分を加えると《千人斬り》を果たしたと噂されていた。
勝頼は浄閑斎に対して京での外交交渉を命じた。
「浄閑斎、お主にはこの度上洛して貰いたい。公方様(足利義昭)・弾正忠殿(織田信長)・公家衆等の京の実力者に対して越後の上杉謙信との和睦の斡旋を頼むのだ。既に京に派遣して居る外交方を使って良いし、賄いが必要なら勘定奉行に出させる。必ずや和睦を取り付けよ。それと公方様に取り次いで北条に対して武田との和睦を命じる御内書を発給して頂くのだ。お主に一任して良いか?」
「なかなか難しいですがやってみせまする。御任せ下さいませ」
「もしも可能ならば、この勝頼に朝廷からの叙任も得ておきたい。恐らく今後必要な局面が有るからな」
「承知致し申した。武田の若君に相応しい官位を頂戴して参りましょう」
「うむ。狩谷原城代はそなたの嫡男である丹波守顕倍を就ける。寄騎も丹波にそのまま付ける」
「ははっ、有り難き幸せで御座います。息子を宜しく御頼み申しまする」
こうしてその日の内に浄閑斎と諸国御使者衆は交渉費を持って上洛していった。
その日の夕方に勝頼は、病気に掛かったある一人の若い尼僧を見舞いに行った。その尼僧の法名は黄梅院。信玄の長女であり、すなわち勝頼の異母姉にあたる。
相模の北条氏康の嫡男である氏政に嫁いでいて、四男一女を授かり仲睦まじい夫婦であったが、武田の駿河侵攻に怒った氏康によって強制的に離縁させられて甲斐に戻されていた。
その後、落飾し尼になったが失意の状態から病になり、床に伏せる日々が続いていた。
勝頼は見舞いに行った先で黄梅院に元気を出す様に語りかけたが彼女からは、
「もう二度と氏政様や子供達に逢う事はおろか、北条の御家の方々とお会いする事さえも叶わぬのですね…このまま儚くなってしまいたい…」
と、涙ぐみつつか細い声をあげていた。
(もしも見舞いに来たのが父上であったならば姉上は逆らえず、こんなに弱音を言って嘆かなかったろうに…)
そんな感想を持った勝頼はつい、黄梅院に対して語りかけていた。
「黄梅院様、私は此の度父上の陣代に就く事に相成りました。依って陣代として北条との同盟を復活させてみせまする。必ずや黄梅院様を氏政殿や北条家の方々と再会させましょうぞ!どうかこの弟の言葉を信じて頂けませぬか?」
「喩え慰めでも、勝頼殿のその言葉をとても嬉しく思いますよ。勝頼殿を信じて少しでも気を強く持ちましょう」
そう言って黄梅院はこの異母弟に対して恐らく初めて微笑み掛けた。対面を終えて去り際に勝頼は周りの医者に対して、
「温泉で養生して頂け。必ずや黄梅院殿の命を繋いで元気になって頂くのだ。」と命じた。
勝頼の頭の中では黄梅院が生を繋ぐ事が、きっと武田・北条両家の間に後々有益に働くと感じたからだった。
黄梅院が輿に乗って養生に出発したのを見届けた勝頼は、6月16日に陣代就任後初めての軍事作戦を開始した。
御坂峠・籠坂峠を越えて伊豆に侵攻、三島で焼き働きをした帰途に富士大宮城を攻め、富士兵部少輔を降伏させて8月半ばに甲斐に帰還した。
しかし8月24日には春日虎綱を留守居役にしてから躑躅ヶ崎館を出立、韮山から佐久往還を通って小諸城に入った。
後から合流する予定となる西上野以外の武田の領国各地から合計約1万6千人の本隊の兵員を召集しながら、勝頼は京からの知らせを待った。
そして8月末に待望の知らせが舞い込んできた。
「勝頼様、京の今福浄閑斎殿より書状が届きました!」
と惣三から聞いた勝頼が書状を受け取ると、そこには《上杉との講和斡旋成功・甲越一和成立・公方義昭からの御内書入手・勝頼の左京大夫叙任》を知らせてあった。
(よし、既に越中の一向一揆に蜂起して上杉を釘付けにした。更にこの講和だ。上杉は絶対に動かん!そして公方の御内書を手に入れた事で北条との交渉の風穴を開けてみせる!)
そう考えた勝頼は直ちに軍議を開く様に命じた。当然そこには甲斐に残した春日虎綱は居ないが、馬場信春、山県昌景、内藤昌秀、真田幸綱の4人も呼ばれている。
小諸城本丸の大広間に軍議の参加者が揃うと勝頼が作戦を発表する。
「今回の目標は北条家に我が武田の力を見せつけ、上杉との同盟に不信を植え付ける事である。先ずは我々主力部隊は藤田氏邦(北条氏康の四男)の鉢形城を攻める。別動隊として小山田左兵衛(信茂)が大石氏照(北条氏康の三男)の滝山城に、民部少輔(松尾信是)と兵庫介(川窪信実)が雁坂峠を越えて秩父谷にそれぞれ侵攻する。その後主力は松尾・川窪両隊から鉢形城附近で小荷駄の補給を受けてから小山田隊と合流、滝山から小田原城に一当てする。しかる後に郡内に向けて繰り退きする。そして追撃してきた北条勢を破り甲斐に戻り、返す刀で駿河に再侵攻する!」
勝頼の作戦案に対して信春が同意を示す様に発言する。
「成程、八幡原で山本道鬼が狙った《啄木鳥の戦法》ですな」
「勝頼様、確認しておきたいのですが今回の主目的は北条の撃滅ではなく、あくまでも北条に力を見せ付け、それに依って駿河平定への牽制とする、と見て良いのですかな?」
引き続いて昌秀が敢えて質問をする。それによって参加武将全員に作戦内容を理解させる為に質問しているのだ。
「うむ、この度越後の上杉とは織田弾正殿の斡旋で和睦した。更に越中の一向一揆勢も動くので、信濃や上野には来る事が出来ん。その間に北条と上杉の間に楔を打ち込み、駿河を完全に取り込んでしまうのだ。また、京の公方義昭公より甲相講和の御内書を頂いて参った。これを北条方の使僧、板岡部江雪斎に渡して交渉の窓口とする」
勝頼の政治工作を知らない者達は素直に感心していた。陣代の勝頼には出来やしないと考えていたからだ。
「あの上杉を封じるとは存外勝頼様の軍略もなかなかやるではないか…」
そこでスクッと昌景が立ち上がって獅子吼した。
「上杉が挟撃出来ないなら我らが結束して当たらば北条等は恐れるに足らず!武田の力を見せつけて北条を城に引籠もらせるのだ!」
昌景の檄を聞いた武将達は『オオゥ!』と雄叫びをあげて立ち上がった。それを見て勝利を確信しながら勝頼は出陣命令を発した。
「では行くぞ、者共、出陣じゃ!」
8月の末にほぼ集結を完了した武田勝頼率いる武田軍本隊は碓井峠を越えて上野からの合流組を加え、利根川支流の神流川を渡河して武蔵に進撃を開始、9月10日に藤田氏邦が籠る鉢形城を包囲した。それとほぼ同時期に松尾信是・川窪信実が雁坂峠を越えて秩父谷に侵攻、占領下に置いた。
武田軍本隊は鉢形城に対して攻撃を加えたが、最小限の犠牲しか出さない事を心掛けて攻撃した為に、百戦錬磨の信玄が指揮した時よりも明らかに攻撃の手が単調で緩い物になってしまった。
それを見た鉢形城主の藤田氏邦は家臣達に対して檄を飛ばす。
「皆も見るが良い!武田の息子なぞ恐るる必要は何も無い!奴は昨年末に富士川河畔で綱成叔父に敗れてしもうた凡将じゃ!それに既に新たな同盟相手の越後の上杉謙信に後詰要請を発しておる!この戦は必ずや勝てるから安心して戦えい!」
一方攻めあぐねる形になった武田軍だが勝頼や真田幸綱等の首脳陣は全く焦りの色が無かった。
「一徳斎、民部少輔と兵庫介の手勢から小荷駄の補給は完了したか?」
「はっ、既に兵糧・飼葉・玉薬を全て運び込んで甘利郷左衛門尉殿(信康)が管理しておりまする」
甘利郷左衛門尉信康は、かつて信玄の青年期に家老を務めた甘利備前守虎泰の三男である。次兄の左衛門尉信忠の死去後(長兄の与十郎信益は虎泰より先に戦死)にその家督を相続、100騎持ちの譜代家老衆となった。
小荷駄隊を率いていた兄の輔佐をしていた為に兵站に詳しく、自らも小荷駄隊長を多く務める傍ら、鉄砲を使った戦術も積極的に研究し《筒衆頭》(鉄砲隊長)にも就いていた。
「うむ、ならば城の囲みを解け。追撃されない様に警戒しながら滝山城を攻める小山田左兵衛(信茂)に合流するのだ」
「畏まりました。それと誠に申し訳御座らんが…我が愚息の昌幸が手勢を連れて合流したいと雁坂峠を越えて来たので御座る」
「父上から許可を得て来たならば問題有るまい。武門の血が騒いだので有ろう。困った奴だ」
と、勝頼は苦笑と共に武藤昌幸の手勢を迎えたのだった。
武田軍本隊は鉢形城を落城させる事無く、むしろ追撃を警戒しながら武蔵を南下、小山田隊との合流を目指した。
その小山田信茂が率いる郡内衆を中心とした部隊1千2百は郡内と相模の間の難所・小仏峠を踏破してきた。
滝山城主の大石氏照は小山田隊が北側の武蔵檜原口から侵入して来ると想定して兵力を配置していた。
しかし予想外に最短距離の難コースを突破して来たのだ。氏照は檜原口の兵を戻すと共に、滝山城の南西に有る廿里の砦に兵力を増派して迎撃を行った。
砦の守備兵を加えると約2千の兵が小山田隊に立ちはだかった。
最初は数に優る北条勢の方が優勢で有ったが、砦の内外の兵の間に《攻撃か砦の防衛か》で齟齬が発生していた。
その微妙な温度差に気付いた小山田信茂が命令を下す。
「《飛礫衆》を出せ!奴らの頭上に礫の雨を降らせて戦意を挫くのだ」
信茂の命令を受けて小山田家が誇る投石部隊が北条勢に向けて石礫を投げる。
腕が立つ者は直接狙い、狙えない者は敵の頭上に投げて飛び道具の発射を妨げて時間を稼いでいく。
「良し!敵の弓衆や筒衆がこちらを狙えない内に間合いを詰めよ!肉薄して手槍や太刀で攻撃しろ!」
その号令と共に騎馬を降りて徒士武者となった武士や足軽達が木陰を利用しながら距離を詰めて白兵戦に持ち込んでいく。むしろ小勢である筈の小山田隊の方が次第に優勢に戦いを進めていった。
「ええい、退けい!追手が近付かぬ様に繰り退きしながら滝山の御城に戻るのじゃ!」
我慢出来なくなった北条勢は負傷者を手早く纏めると廿里砦を放棄して滝山城へ撤退していく。
しかし小山田隊はそれを追わずに北条勢の死者250余名の首実験を行うと、滝山城攻めの準備を行いながら本隊との合流を待つことにした。
果たして9月26日に本隊は滝山城の北側にある拝島の地に到達、小山田隊と合流した。
「御陣代様は随分と遅い御到着で御座いましたな。鉢形の武者達は然程に歯ごたえが有りましたか?」
勝頼の到着早々、信茂は厭味を言いながら出迎える。
勝頼は鉢形城から聞こえていた己に対する《凡将》との評価の言葉を思い出したが、気を取り直して返答する。
「今回の主目的は駿河を取る為に北条を相模に退かせる事だ。次の戦の為にも損害は少しでも小さい方が良かろう」
「甘い!その様な事では北条から舐められまするぞ!敵を恐れさせるには時には損害を気にせずに猛攻をするべきで御座る!」
信茂は勝頼の采配に対して不満を表明した。陣代の立場を気にしてむしろ慎重過ぎている采配が信茂には生温く感じるのだ。
「たまには御陣代自らが昔の様に陣頭で采を揮われたら如何ですかな?まぁその意気地さえ無いと言われるならば話は別ですがな」
信茂の挑発めいた発言に熱り立った勝頼は立ち上がって側に居る軍師や重臣達に命令を下した。
「良かろう!信茂がそこ迄言うならば、この勝頼の采を此処で見て居るが良い!一徳斎、信春、昌景、昌秀!此よりこの勝頼が陣頭に立って滝山城を攻める!直ちに城攻めの準備に取り掛かれ!昌胤、陣場奉行のお前に城攻めの陣取りは任せる!但しこの勝頼が陣頭に立って采配を取る!」
陣場奉行の原隼人允昌胤は120騎持ちの譜代家老衆。父の原加賀守昌俊の死後後任となって親子2代で陣場奉行を務め、《陣取りの名人》と呼ばれていた。
また竜朱印状奏者等も兼任しており、正に武田家の軍政の中心人物の一人であると言えた。
「はっ、畏まりました。御任せ下さいませ!」と返答する昌胤の声を幸綱が遮る様に発言した。
「い、いけませぬ勝頼様!滝山城を落しておっては時間が掛かる以上に犠牲が多き過ぎまするぞ!」
幸綱が勝頼を制止しようとしたが、勝頼は陣頭に向かいつつ反論する。
「滝山城を落としはせぬ。但し本丸を除いた二の曲輪から下を全て明日迄に落とし、その上で小田原城下に進軍する!これならば北条への脅しとなるで有ろう?」
「成程、それならば当初の予定通りに進軍出来ましょう。但しこの城攻めも鉢形同様に出来る限り損害を出されませぬ様に為さいませ」
幸綱は不承不承ながらも勝頼の案に同意した。此処で勝頼の采配を見せつける事が北条勢にも武田軍内部にも有効に働くと感じたからだった。
勿論信春、昌景、昌秀の3人も同様に考えた為に、敢えて反論せずにそれぞれの部署に散って行った。
その日は攻城用の道具の準備と原昌胤の陣取りに従っての配置換えに終始した為、滝山城に対する攻撃は翌27日の日の出と共に開始された。
勝頼は大手側を共に攻める武田信豊を従えて兵達に檄を飛ばす。
「良いか者共!此より日が落ちるまで滝山城を攻め立てる!武田の武士の真の力を北条の奴輩に見せつけ、骨の髄まで恐怖を叩き込んでやれ!」
武田左馬助信豊は永禄4年の八幡原の戦いで戦死した信玄の次弟・武田信繁(古典厩)の次男で200騎持ちの御親類衆の一人である。父と同じ官途名の為、典厩若しくは後典厩の通称で呼ばれている。
父と兄の望月信頼が相次いで亡くなった為に信繁の死後、その家督と左馬助の官途名そして小諸城主の座を受け継いでいた。
勝頼とは歳が近く立場も似ている為に仲が良かった。しかしながら戦場では攻撃は強いが猪突する癖があり、防御に回ると脆い等の弱点が有った。
その信豊が勝頼の副将として大手側の指揮を行い、信春が搦手側の指揮を行った。
武田軍は足軽大将の米倉重継が20年近く前に発明した《青竹を束ねて油を塗った鉄砲除け》を大量に製造し、それで身体を隠しながら、次第に坂を登り外曲輪の門や壁に取り付こうと試みる。
滝山城兵もそうはさせまいと、上から飛び道具で攻撃を加えるが、武田軍の準備が万全だった為に損害があまり与えられない。むしろ大岩や丸太、熱湯等の方が有効に損害を与えていた。
「ええい、その様な攻めでは落ちる城も落ちぬわ!掛かれ、掛かれぇ!」
陣頭で槍を揮いながら指揮する勝頼や信春、信豊らの号令に触発されて次第に攻撃が苛烈なものになった。
小宮曲輪、次いで三の丸も落とすと、城主の大石氏照自らが防戦の指揮を取った。
勝頼は乱戦の中で采配を揮いながら、援将として三の丸を守っていた勝沼城主の師岡大和守将景と再三に渡り一騎討ちをしたが、決着がつかなかった。
その後日没前には二の丸に突入、残るは本丸のみとなった処で27日の攻撃は終了した。
「此処まで攻めれば、北条の奴輩に十分に判らせる事が出来たろう。これから夜陰に乗じて滝山を離れて小田原に乗り込もうと思う。一徳斎はどう思うか?」
勝頼が篝火が焚かれた本陣に戻って来て幸綱に質問した。既に前線や各陣地から3人の重臣も戻って来ていた。
「そうですな。夜陰に乗じて移動を開始して進軍すれば10月の朔日には小田原城に到達出来ましょう。」
幸綱が助言を行った内容は勝頼自身や重臣達の考えにピタリと一致していた。
「うむ、ならば昌胤、未明より夜陰に乗じて移動を始め、小田原へと進軍する。城兵の追い討ちがあるかも知れんから全軍への手配りを行うのだ」
「承知致し申した。直ちに手配りを行いましょう」
そう言って昌胤が陣場奉行として行軍序列等を決める為にその場を離れた。
そして本陣の中にいる武将が自分と勝頼と3人の重臣だけになると、幸綱は勝頼に苦言を呈した。
「勝頼様は武田軍の総大将で御座るぞ。自ら槍を揮われて万が一討ち取られたら如何致す所存で御座るか?」
「確かに軽率だったかも知れん。だか時には自ら槍を揮い兵の士気を高める事が必要な時が有る。自分は先程こそがその時だったと考えておるが…」
「左様、勝頼様が言われる事にも一理有りと存ずる。武士足る者は命よりも名こそ惜しまねば為らぬ時には敢えて危険に身を晒さねばならん」
勝頼の発言にこれ迄一度も敵から傷付けられた事が無い信春が賛意を示す。更には昌景も幸綱に冗談を飛ばした。
「全く、一徳斎殿は心配性で御座るなぁ。勝頼様の槍捌きは、高遠城主の頃に保科の《槍弾正》に手解きを受けたと言いますぞ」
保科弾正忠正俊は元々武田家と敵対していた高遠頼継の筆頭家老だったが、頼継の敗死後は武田家に帰順し、120騎持ちの信濃先方衆となった。槍の名手で《槍弾正》の異名を誇り、《逃げ弾正》の春日虎綱、《攻め弾正》の真田幸綱と並んで《三弾正》と呼ばれている。
現在は嫡男の弾正左衛門尉正直に家督を譲っている。因みに次男の昌月は内藤昌秀の養子になっていた。
「その話は儂も《槍弾正》殿から直接聞いたぞ。なんでも『勝頼様は筋は良いが、挑発に乗り易いのが玉に瑕』だそうな」
昌月を通して正俊と直接親交が有る昌秀が《正俊の勝頼評》を紹介する。
「ふむ…耳が痛いところを突いてくるな…。確かに我を忘れて攻撃を致す部分が有るからな。ただの槍働きならいざ知らず、采配を揮う時…それも武田の命運を掛けた一戦で去年、地黄八幡に負けた富士川の戦の様な無様な事をしたら、と考えると正に冷汗三斗の思いじゃ」
勝頼がそう言うと、他の4人は昨年末の事を思い出して黙り込んでしまった。やがて信春が代表して勝頼に話し始める。
「確かにあの失敗は赦されざる事なれど、勝頼様はそれを糧にして少しづつ成長為さっておいでで御座る。それに御屋形様も上田原と砥石で敗北を為さり、それを糧に更に大きく為られたのですぞ。勝頼様も同じ様に為されば宜しいので御座る」
この信春の言葉に勝頼は胸の突っ支えが取れた様に感じていた。
「うむ、自分もあの失敗を肝に銘じておかねばと考えておる。あの様な事をこれ以上やりたくはないからのう。但し、これからも槍働きもすると思うがな」
「畏まりました。しかしながらこれからは御自愛為さって下され」
と幸綱が勝頼に再び苦言を呈する。そこに原昌胤が本陣に戻って来た。
「勝頼様、御歴々の方々、そろそろこの滝山城から動いて頂かねば…」
「うむ、了解致した。一徳斎、この話はまた今度という事に致そうかのう」
と勝頼が本陣から動き始めると、幸綱も溜め息を突きながら立ち上がるのだった。
その後夜陰に乗じて武田軍は滝山城から離脱、滝山城や武蔵・相模の諸城からの追撃を警戒しながら一路小田原城を目指す。
朝になって無人となった武田軍本陣を本丸から眺めながら城主大石氏照は歯軋りして叫んだ。
「おのれ武田め!この儂を散々に虚仮にしおって!使番は直ちに武蔵・相模の諸城に援軍の要請を行え。兵を掻き集めて小田原城の兵と挟み撃ちにしてやれ!」
一方武田軍は29日には相模川を慎重に渡河し、10月1日には遂に小田原城下に到達した。
しかし北条氏康は城下の者で非戦闘員を避難、それ以外は入城させて約2万の軍勢で籠城した。
勝頼は城下町を焼き払い小田原城を包囲すると同時に北条家の使僧・板岡部江雪斎円融と交渉を行う為に繋ぎを取る様に指示した。
果たして重臣達が東西北に分かれて攻城戦の指揮を行う一方、勝頼・幸綱と江雪斎は焼け残った寺院に於いて交渉を開始した。
「初めて御目に掛かりまする。北条家の使僧を務めておりまする板岡部江雪斎、号を円融と申します。以後御見知り置きを」
「こちらこそ御足労願い感謝しておる。武田家陣代の武田左京大夫勝頼である」
御互いに挨拶したが、勝頼の名乗りに対して江雪斎が質問する。
「陣代?御当主の法性院信玄殿は如何致しましたか」
「父・信玄公は今度の関東遠征には御着陣為さっておらぬ。この勝頼が全権を代表すると考えて頂きたい」
勝頼の返答を受けて、江雪斎は早速本題に切り込んだ。
「成程。では何故武田は我ら北条の領土を侵されるのですかな。元々は武田家の方が三国同盟を破棄して駿河に侵攻した事が戦の発端の筈。先ずは駿河から全ての兵を退かせて頂きたい」
「あの戦は元々今川氏真殿が塩留めという形で宣戦をされたのに応じたまで。その時点で同盟は今川の手で破棄されており申す。北条家が今川に肩入れを続けるつもりならば、我が武田家も応戦を続けるのみで御座る」
「ですが宜しいのですかな?我々北条家は越後の上杉謙信殿と盟約を結んでおりまする。北条家や駿河を攻めれば背後を襲われますぞ」
そう忠告めいた発言を江雪斎はしたが、勝頼は動揺するどころか不敵な笑みを浮かべて回答する。
「その越後上杉、本当に北条家の盟友に相応しいと御考えか?確かにかの不識庵謙信は己の信ずる正義の為に動く。しかしそれが《相模の国益》に一致するとは思えんのですがな」
勝頼の自信に満ちた発言に江雪斎は内心動揺した。大体半年前までは上杉は20年来の仇敵だったのだから仕方が無い事では有るが。
だが、使僧らしくその動揺を全く表面上見せずに返答を行う。
「少なくとも盟約を破り捨て駿河に侵攻し、今度は我等北条に刃を向けている武田よりも余程信を置けまする」
「ハッハッハ!そう思われるならばこれからも空手形を期待して待たれるが宜しかろう。来年の末位にはどちらが北条の盟友に相応しいか答が出ておるでしょうしな」
「盟友?今現在に戦を仕掛けながら再び盟約を結びたいと言われるのですかな?」
「無論で御座る。但し北条家の方が真に再同盟を望んで来るのならば、ですが。公方様から御内書も出ておりまする」
勝頼は縁側で待機している金丸惣三に対して将軍・足利義昭から今福浄閑斎が頂戴して来た御内書を部屋に持って来させた。
「写しはまだ作っておりませぬ故また返して頂くが、無論本物で御座る。御改め下されよ」
と、勝頼は御内書を江雪斎に差し出した。江雪斎は中身を見て本物で有る事を確認しながら、用意の良さに舌を巻く思いになった。
「確かに本物で御座いますな。しかしながら御内書で薦められましても武田を信用するか否かは別に御座いましょう」
「確かに。しかし我等は北条家と盟約を再び結びたいと考えておる。特に義兄上とは」
そう言って勝頼は懐に手を入れて、上品な作りの1本の黄楊製の櫛を取り出し、江雪斎に差し出した。
「これを余人に判らぬ様に氏政殿に届けて頂きたい」
「氏政様に?この櫛は一体…?」
「密かに届けて頂いたら我が誠意が伝わる筈で御座る」
江雪斎は勝頼の発言に首をひねりながらも氏政に手渡す事を約束し、この日の会談を終えた。
その夜、小田原城本丸では氏康・氏政親子や重臣達が江雪斎から説明を受けていた。
「片方で戦を仕掛けながら盟約を欲するとは虫が良過ぎると思いまする」
しかし重臣の松田尾張守憲秀が武田に対して不満を表明すると、現在城を攻められている為に拒否する意見が大勢を占めた。
その為に提案を拒否する事が速決された。
「では解散する。各自持場に立ち返り守備を続けてくれ。江雪斎、明日にでも信玄坊主の息子に伝えよ」
と、隠居の身ながらも絶大な信望と権力を握っている北条氏康が散会を命じた。
その後、江雪斎は廊下で氏政を呼び止めた。
「氏政様、これを見て頂けませぬか?武田勝頼より氏政様に御内密に、と手渡されました」
と、勝頼に託された櫛を氏政に手渡した。
「こ…この櫛は我が妻の使うておった櫛じゃ。これを勝頼が持って来たのか…」
氏政は櫛をじっと見たまま暫く動かなかったが、徐に江雪斎に語り掛けた。
「江雪斎、翌朝武田の陣所に向かう前に儂の部屋によってくれまいか?勝頼に渡したい物が有るのだ」
「畏まりました」
江雪斎は氏政の黄梅院への想いがまだ続いているのを悟り、希望を果たす事を即答したのだった。
翌3日、再び勝頼と江雪斎は会談を持ち、江雪斎は甲相講和を拒否する旨を伝えた。そして別れ際に勝頼に1通の書状を手渡した。それは氏政が書いた離縁させられた妻・黄梅院への手紙であった。
「この書状を甲斐に戻られた御方様に渡して頂きたい、と氏政様より託され申しました」
勝頼はその書状を黄梅院に渡す事を確約して会談場の寺院を後にしたのだった。
3日深更、武田家本陣には各攻め口の責任者が集合した。
その場で勝頼は小田原からの撤兵を宣言した。
「明日は朝から烈火の如く攻め立てよ。但し日が落ちたと同時に攻めるのを辞めて、甲斐に撤収を始める。津久井城附近から北上、檜原口に出て甲斐に帰還する予定で有るが、状況次第では小仏越えをするかも知れん。皆の者、左様心得よ!」
『ハハッ!』
勝頼の言葉に全員が叩頭した。
翌4日の城攻めは正に勝頼が言った如く凄まじい勢いで攻め立てた。
だが良く観察すると、甘利信康率いる小荷駄隊が既に荷造りを始めたり、交代して後方に下がった部隊が移動の準備を行っているのだ。
しかし武田軍はそれを巧妙に偽装した。その為北条方の守備兵に気付く者が居らず、氏康や首脳陣に武田軍の意図が伝わらなかったのだ。
その夜武田軍は全軍が城攻めを辞めて直ちに撤収、相模川沿いを北上するルートで甲斐に向かって帰国の途に着いた。
10月5日の早朝に小田原城の北条勢が見た物は、陣幕や篝火を打ち捨てもぬけの殻となった武田の陣跡のみであった。
「そうか、退いたか。ならば我等の勝ちということだ。皆の者重畳であった。城兵に勝鬨を挙げさせよ」
武田軍に逃走を許して士気を低下していた為に、わざと勝鬨を挙げて自軍の兵に勝ちを意識させたのだ。
その勝鬨が響く中、氏康は氏政と松田憲秀に命令を発した。
「氏政!憲秀!お前達は直ちに城の兵の内1万を率いて武田勢を追撃しろ!恐らく綱成や氏照達が先に動いておるから、挟み討ちにして殲滅するのだ。征け!」
…こうして5日夕方に北条氏政率いる1万の軍勢が武田軍を追撃に出発した。
また、玉縄城の北条綱成・滝山城の大石氏照・鉢形城の藤田氏邦らの武蔵・相模各地からの軍勢2万は武田軍の帰途を塞ぐべく津久井城の近くの三増峠に向けて出撃した。
このままでは武田軍は三増峠を越えて行かなければ追いつかれ、包囲・殲滅の憂き目に遭う状況に陥った。
勝頼にとって、武田家の陣代としての試金石となる戦いが直ぐそこ迄迫っていた。
両軍4万もの大軍が激突し、後に《戦国史上最大の山岳戦》と評される事になる戦い…
《三増峠の戦い》である。
読んで頂いてありがとうごさいました。今回の関東遠征が一話分で収まりませんでした。次回投稿分は三増峠の戦いを書いていきます。次回も読んで頂ければ幸いです。