廿壱:徳川征伐(肆)~氏助の嚇怒~
今回は史実よりも1年半早く実施する、高天神城攻めの話です。相変わらずの長文ですが、是非とも読んで頂ければ幸いです。
北側に聳える峻嶺を乗り切った雪雲が天空を駆け抜け、冬の小笠山塊に牡丹雪を一頻り降らせて南の海へ抜けて行くと、視界全体が薄い雪化粧に覆われ、淡い陽光に照らされた白銀の世界へと変化する。
既に二十四節気での《冬至》を過ぎて、愈本格的な《寒の内》へと入ろうとする季節である。
だが、此の惣勢山に陣を構えて敵城を囲んで既に2ヶ月半以上、敵は未だに城に立て籠もって抵抗を続けていた。
そんな惣勢山の陣所から、敵が籠る城が在る鶴翁山へと視線を投げ掛ける男が居た。
小さな体付きだが、窪んだ眼は鋭い光を放ち、姿が見えぬ敵勢の心の機微さえも読み取ろうとする。
そして、向かって右手奥に見える青田山(陣場峠)の方角から立ち上る煙に視線を移すと、僅かに口角を上げながら、皮肉気味の口調で独り言を呟くのだった。
「やれやれ…。徳川方も懲りずに、又もや狼煙を上げるか。此れで3度目だが、余程の阿呆で無ければ家康が後詰を寄越さぬ事を悟る頃合だろうに…。機は十分に熟した。恐らく山県殿も同じ存念の筈、そろそろ仕上げに掛かると致すか。御屋形様も痺れを切らして居られるだろうからな…」
敵城…徳川勢が立て籠もる東遠江の要衝・高天神城を眺めながら、攻城の検視役(軍監)を務める武田家足軽大将の武藤喜兵衛昌幸は、不敵な笑みを浮かべるのだった。
元亀3年(1572年)11月下旬の或る日の事である。
一時、小康状態に為っていた武田・徳川両家の戦いは、元亀3年7月から再び本格化していた。
7月の徳川勢の三河野田城奪還、8月の山県三郎右兵衛尉昌景の軍勢に因る遠江掛川城開城に続き、9月の始めからは山県勢が高天神城に攻め寄せていた。
更に10月に入ると、新当主・武田大膳大夫勝頼が率いる武田軍の本隊が《徳川征伐》と呼称して遠江に侵攻、天龍川東岸の徳川方の諸城を次々と攻略していく。
此れに対抗する為に、徳川三河侍従家康は自ら出撃して一泡吹かせようと試みたが、三箇野川・一言坂に於いて逆撃を喰らい、本多平八郎忠勝等の家臣団の勇戦で辛くも逃れる始末だった。
其の結果、東遠江の国衆の多くが、武田家に鞍替え為るか、両家を天秤に掛けて模様眺めを為るかの行動を取っていた。
天龍川東岸で徳川の旗を掲げて籠城するのは、小笠原与八郎氏助の高天神城・中根平左衛門正照の二俣城の2城のみと成っていたのだ。
だが、高天神・二俣の両城は家康が後詰の軍勢を送り込んで呉れると信じて、必死の籠城戦を繰り広げた。
高天神城からも、軍勢催促の使者として匂坂牛之助光行が派遣され、家康から『織田家の軍勢参らば必ずや後詰の軍勢を起こす。織田勢の先陣が浜松に参ったら青田山にて狼煙を上げ、城兵に其の到着を知らせる。後詰の先陣が天龍川を渡ったら2度目の狼煙を上げ、織田弾正(弾正大弼信長)殿が浜松に参ったら3度目の狼煙を上げて武田の奴輩を討ち払う』と伝えられ、城兵達は後詰の到着を信じて、城に籠って抵抗を続けていた。
9月末には、山県勢が水の手曲輪を破壊していたが、既に城方は《かな井戸》と呼ばれる井戸を掘って水の手を確保していたのだ。
其処で、高天神攻めの指揮を取った山県昌景は、主に傾斜が緩やかな西の丸に攻撃を集中して此れを占領した。
(此の際、守将の本間八郎三郎氏清・岩尾修理亮義清兄弟を鉄砲にて討ち取っている。)
更には西の丸を起点に攻勢を強め、遂に《かな井戸》が在る井戸曲輪を陥落させる事に成功している。
水の手を完全に絶たれた城方は、其の後も雨水等を壷に溜めて使用する事で、懸命の籠城を続けた。
更には、再び匂坂光行を浜松城の家康の元に派遣して、必死の思いで後詰の懇願を行い続けた。
其の結果、家康からの指示に因って、青田山からの狼煙が2度に渡って上げられ、反転攻勢に向けて城兵の士気は多いに高められた。
だが結局は、城を解放為るべき《徳川・織田の軍勢》は最初から高天神方面には出撃しておらず、次第に城方の戦意は磨り減らされていった。
そして3度目の狼煙の後にも、約束された味方の後詰は現れず、遂には雨では無く雪が降り出す頃に至って、水壷の中に貯えていた貴重な水さえも涸れ果てたのだ。
此処数日の敵勢の鈍さから、貯えた水の枯渇と城方の戦意の低下を読み取った昌幸は、城攻めの大将である昌景に進言して、開城勧告の使者を送り込む事にしたのだった。
「与八郎殿、御久し振りで御座るな。立派な武者振り、亡き作州(氏助の亡父の美作守氏興)殿も御慶びで在ろう…」
高天神城の御前曲輪に於いて、城主の小笠原氏助に正対したのは、今川旧臣として小笠原親子と轡を並べた岡部五郎兵衛尉元信と岡部次郎右衛門尉正綱の両名であった。
「此の城には、最早水の貯えは有るまい。徳川や織田の後詰も参らなかったのだ。もう此れ以上の継戦は難しかろう…」
「与八郎殿、同じ今川家の旧臣として、可惜無駄に命を散らして欲しくないのだ。此処は高天神城を開かれて、共に武田家に御仕え致さぬか?」
元信も正綱も、同輩だった氏助や小笠原家の家臣達を救う為に開城を促す。
だが、未だに徳川の後詰を待ち侘びる氏助は、2人からの勧告を即座に拒否した。
「岡部殿達の御言葉、誠に有難く存ずる。然れども、幾ら同じ今川の旧臣とはいえ、今現在は仰ぐ旗の色が違い申す。我等は後詰を約束された徳川様の恩義に報いる為にも闘わねば…」
「だが、其の徳川三州(家康)からは、狼煙による後詰の報せが反故にされたでは無いか。其れに、遠江衆は三州から冷遇されて居るのでは御座らぬか?まぁ、掛川で腹を召された石川日州(家成)殿は譜代家老であったにも関わらず、御家断絶に等しい憂目を見たそうだから、遠江衆のみという訳では無かろうが…」
「ぐっ、そ、其れは…」
確かに遠江衆は、今川家から鞍替えした最初こそは、家康から厚遇されていた。
だが、2年前の近江姉川の戦いに於いて、朝倉家浪人衆に加わっていた滋野源五郎昌幸…武田家から遣わされた武藤昌幸の策に嵌まり、同士討ちを演じてしまったのだ。
其の後、氏助を始めとした遠江衆も汚名返上為るべく奮戦して、此の戦いの勝利に貢献している。
小笠原家臣の渡辺金太夫照に至っては、織田弾正大弼信長から《日本第一の槍》と称えられて感状を与えられたのだ。
だが、同士討ちに因って天下に恥を晒したと感じた家康は、小笠原家が束ねていた遠江衆を半ば解体してしまい、三河からの譜代家臣の指揮下に分散したのだ。
更には、遠江衆の忠誠心を試すが如く、各地の戦場に赴く度に最前線に立たせ続けたのだった。
其の上、重臣で掛川城主に就けていた石川家成が城を開いて切腹すると、見せしめの為に所領・家臣から《日向守》の官途に至る迄を没収してしまい、嫡男の康通は武士の身分を剥奪された上で岡崎に送致されていたのだ。
(康通は家康嫡男の三郎信康から救い出されて、岡崎城主付の馬廻として再登用されている)
若しも、氏助が高天神城を開いてしまった場合、家成と同じ、若しくは其れ以上の憂目に遭う事や、捕えられて罪人として処刑される事は、此れ迄の状況から容易く想像出来たのだ。
「与八郎殿、御父上たる作州殿の同輩として、忠告させて呉れまいか…。亡き今川治部大輔(義元)様が桶狭間にて身罷られ、刑部(氏真)様が掛川城を明け渡されてから、我等今川旧臣は夫々(それぞれ)新たな主に仕えて参った…」
元信が昔話を始めると、正綱と氏助は黙って聞き入った。元信は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも参戦している。
討死した主君・今川義元の首を織田勢と交渉して奪還した武将であり、言葉に十分な重みが有った。
「儂も、最初は次郎右衛門(正綱)殿や大原肥前(資良)殿と共に、今川家に忠勤を誓う者達を再び集めて、駿府館に刑部様を御迎え致そうと試みたが、結局刑部様御自身が小田原の屋敷に籠った侭で、駿河には最後迄足を踏み入られなんだ…」
「そうで御座ったな。某と父上は其の時は既に、徳川様の御元に馳せ参じて居り申したからな」
「うむ。腑甲斐無い主君を持ってしまった苦労は、儂等今川旧臣が一番骨身に応えておる。為らば少しでも仕え甲斐が有る主君を選ぶべきでは無いか?」
「だからこそ、徳川様を次の主に見定めたのだ!信玄坊主が隠居致して《諏訪の小倅》が当主に就いた武田なぞ、頼りに成る筈が御座らぬ!」
膠も無い答を返した氏助に対して、元信は或る疑念を口にする。其れは氏助自身が、内心で不安に感じている事であった。
「…与八郎殿、御主は誠に、三州殿が…徳川家康が信に足る御人だ、と考えて居るのか?小笠原家が家康から信頼されておる、と思って居るのか?」
「な…何を馬鹿な事を申されるかっ!我等は徳川様の遠州入国以来、忠誠を尽くして参ったのだ!遠江や三河のみならず、越前金ヶ崎での退き口(退却戦)も、姉川の戦も、観音寺攻めも出陣致した!今年も武田と睨み合う傍らで兵を割いて、江北の小谷城攻めに兵を送って居る!浜松にも叔父上(氏興の末弟の惣兵衛清広)を出仕させて居るのだ!そんな我等の忠勤を、徳川様が疑う筈が御座らぬ!」
「果たしてどうで在ろうか…。遠江の国衆は、或る者は飯田城の山内対州(対馬守通泰)殿の如く一族根絶やしにされ、徳川を信じて馳せ参じた者は畿内での手伝い戦にも行かされて擂り潰される。其処迄致して、所領安堵の他に何かしら恩賞を頂戴致したのか?」
「そっ、其れは…」
口籠る氏助に向かって、元信は畳み掛ける様に、昌幸から教えて貰った或る《噂》を口にする。
「其れに、失敗致したとはいえ久野城の久野三郎左衛門(宗能)には直ぐに後詰に参って居る。二俣城にも先程、南側の神増の辺り迄後詰を送ったが直ぐに退けられたそうだ。にも関わらず、3ヶ月近く籠城致して居る此の高天神には後詰が参らぬのは何故で御座る?而も、後詰を報せる狼煙を3度に渡って上げさせながら、未だに姿形を見せては居らぬではないか。其れは詰る処、御主が武田と内通致して居る、との疑念が有るからでは御座らぬか?」
「馬鹿なっ!何を根拠に其の様な戯言を申されるかっ!」
「溯れば、遠江の小笠原家の系脈は、信濃守護家の信濃小笠原家に通じる。武田家と同じく新羅三郎信光公を遠祖とする《清和源氏》の一門で御座る。恐らく家康は、与八郎殿や高天神の御歴々が武田家の軍勢と示し合わせて、後詰に参った徳川勢を殲滅致すと疑って居るので御座ろう…」
「なっ…!」
余りにも突拍子も無い理由に、氏助は思わず絶句してしまった。
だが、最近の家康の素気無い応対や家臣に対する発言を顧みると、氏助の疑念を膨らませるには十分だった。
「まっ…、真逆其の様な戯言を、殿(家康)が御信じに為られる筈が無い!五郎兵衛殿、次郎右衛門殿、某を謀るのも大概にして頂こうか!」
「そう考える為らば致し方有るまい。だが大膳様は、儂等を武田家の末席に加えられる際に、『良禽は木を択ぶ』と誘って下されたのだ。与八郎殿にとっての《木》に相応しき主君が何方か、今一度考えてみられるが善かろう。次郎右衛門殿、今日の処は退散致すとしようか…」
そう言うと、元信は正綱と共に御前曲輪から退出して、惣勢山の本陣へと戻っていった。
其の様子を物陰から鋭い目付きで監視している武将が居た。徳川家の戦目付(軍監)として高天神城に残っていた大河内源三郎政局である。
政局は一頻り監視を終えると、配下の者を呼び寄せて浜松城に召集されている上役…旗本先手衆の大須賀五郎左衛門尉康高へと遣いを走らせたのだった。
氏助は、元信等が帰ると直ちに匂坂牛之助光行を呼び寄せて、今一度の援軍要請の為に浜松城に走らせた。
此の籠城戦の勝利の為であるのは勿論だが、何よりも家康の真意を見極めて、自らの心中に沸き起こった疑念を払拭したかったのだ。
だが、光行が浜松城下に着いてから登城して本丸に到る迄、織田の軍勢は姿形さえも見受けられず、見掛けた徳川の軍勢は明らかに出撃では無く籠城の支度を整え始めていた。
光行は不安に苛まれつつも広間に通されて家康に謁見したが、其の反応は光行を落胆させるに十分過ぎる代物であった。
「又しても其の方か…。未だに織田殿の軍勢が浜松に参って居らぬ。其れ故に、高天神への後詰は未だに送る事は出来ぬ」
「では、何時に成れば後詰を送って頂けましょうや!既に後詰到着の狼煙が3度上がったにも関わらず、御味方や織田の助勢は来着致さず、城内は意気消沈致して居りまする!井戸も喪い水も涸れ果て、後数日も戦えませぬ!何卒高天神の御家中の方々を御救い下さいませ!」
素気無い、と言うより冷淡な家康の返答に対して、光行は苦悶の表情を浮かべつつ、血を吐く様な思いで後詰を懇願する。
氏助や高天神城の将兵に『狼煙が3回上がれば援軍が到着する』という家康の言葉を伝えた当の本人として、何としても後詰を送って貰って城を救い出したい、と考えていたのだ。
だが、康高を通して政局からの報告を逐次受けていた家康は、光行に対して冷めた口調の侭で指示を出す。
「武田の奴輩に晒されて居るは、高天神のみ為らず、此の浜松城や二俣城も同様だ。織田勢の来着有る迄は、今暫く持ち堪えよ。必ずや後詰を送って進ぜよう」
「久野城や二俣城には後詰を送られたでは有りませぬか!我等は既に3ヶ月近く矢面に立たされ、疾うに限度を越えて御座いまする!せめて我等の旗頭たる大須賀様の御手勢だけでも、御助勢願いませぬかっ!」
「此の無礼者がっ!儂に指図為る積りかっ!織田勢の来着無くば、後詰は無理だと言った筈だ!氏助にも確と申し伝えておけ!」
光行の懇願に思わずカッと激昂した家康は、怒鳴り付けながら立ち上がると、小声で愚痴を零しつつ広間を歩み去っていく。
「…五郎左(康高)を送っても《城の内外》で挟まれては、犬死致すだろうが、痴れ者めが…」
「と、殿…」
(城の内外で挟み討ち…。矢張り、我等は《返り忠》を疑われて居るのか…、いや、疾うの昔に見捨てられて居ったのだ…。狼煙を上げさせたのも我等を謀っての時間稼ぎ。嗚呼!此れでは、高天神にて戦っておる与八郎様や同輩の方々に申し訳が立たぬ!)
家康の不義理に対する絶望と、計らずも氏助や城の将兵を騙してしまった良心の呵責から、光行は暗澹たる心持ちで浜松を後にすると、高天神城へと戻っていったのだった。
「うっ、牛之助、其れは真実なのか!。為らば我等は仕えるべき主君に謀られたのか!」
高天神城に帰参した光行からの報告を戦評定の場に於いて受けた氏助は、3回上がった《偽りの狼煙》の件から、武田と示し合わせての挟撃を疑われた事、更には後詰が事実上不可能な事を聞くと、落胆を通り越して怒りに打ち震えた。
「我等を見捨てるだけなら未だしも、懸命に奉公致した我が赤心を疑われるとは、心外の至りじゃ!其の様な無分別にて、浜松から10里の近きで奮戦致す此の城を見捨てる為らば、我等ばかりが城を枕に死ぬるは詮無き事だ!儂は徳川には最早付いて行けぬ!」
「待たれよ与八郎殿!御主は殿(家康)から受けた大恩を如何に考えて居るのだ!惣兵衛殿の御命も危うく致す所存か!」
其の様に反論したのは、三河幡豆郡から高天神城に入っていた欠城の城主・小笠原摂津守安元である。
安元は同族である氏助の監視を兼ねて、開戦当初から高天神城に入っていたのだ。
「摂津守殿の申される通りじゃ!4代の恩顧を受けた今川家を捨てて、徳川家に仕えたにも関わらず、幾何もせずに武田に寝返る等とは、変節漢の謗りを受ける事に成ろうぞ!」
此の安元に、父の清広を浜松に送っていた小笠原玄蕃義時・作右衛門興康が同調、更には長老格で氏助の大叔父(祖父・春茂の3弟)に当たる小笠原雲波斎(氏朝)を始め、小笠原一族は挙って氏助に反対した。
一方で、氏助の姉婿の安西越前や側近の渡辺照・鮫島加賀等は、氏助に賛同して武田家への帰順を主張して、小笠原家中は正に真っ二つに割れて激論を交わす。
「貴様等は城主たる与八郎様を見捨てて去る積り為らば、既に味方では無い!此の刀の錆に致されたいか!」
「変節の腰抜けが何を吐かすか!徳川様に成り代わり成敗致して呉れる故に、早く掛かって参れ、此の腰抜け共がっ!」
御互いに激昂して白刃を抜かんとせん勢いに成った時、1人の武将が2派の間に割って入って制止した。
氏助のもう1人の叔父で、侍大将として一手の将を務める右京進義頼である。
「双方其れ迄に致せ!御互いに朋輩同士が此処で戦っても、致し方有るまい!…此処で城を枕に挙って討死致したく無ければ、与八郎殿が言われる様に城を開くしか無いのだ…」
「……」
義頼の発言に、双方共に多少冷静さを取り戻した。何方の側も徳川譜代の家臣でも無いのに、家康の理不尽な命令に従って犬死したくは無いのだ。
「とはいえ、我等の如き小身の者が家を保つには、非情な決断も必要だ…。与八郎殿、武田家に帰順を望む者は御主が率いて下され。儂は徳川に残る事を望む者を引き連れて、浜松の惣兵衛に合流致そう…」
義頼の提案は、開城後は個人の意志に従って武田・徳川の双方に別れる事により、将来片方が滅びてももう一方が家名を保つ事を狙った物だった。
地方の小豪族の家名存続に賭けた意地を即座に理解した氏助は、己と共に泥を被って呉れた叔父に、心の底から謝意を表した。
「叔父上、忝う御座いまする。では、武田方との和睦の条件に、浜松に参る者の安全の件を盛り込みましょう…」
「うむ、では儂は浜松に居られる大須賀(康高)殿や阿部(善九郎正勝)殿に使いを遣わそう。申し訳御座らぬが、摂津守殿にも御取次を御願い致しまする」
「右京殿、承知致し申した」
安元の同意を受けて、評定は漸く生を繋いだ安堵感に包まれる。
だが其処に、評定に遅れた武将が割って入り、武田方との和睦に強行に反対した。他の曲輪を見回っていた軍監の大河内政局である。
「何を都合良き事を吐かして居るのだ!浜松や二俣が危急の折、我等だけがむざむざ城を開く等とは、許される筈が有るまい!少しでも長く武田の奴輩を引き付け、城を枕に皆討死致すに如くは無し!」
「落ち着かれよ!先程評定に因って、城を開く事に決したのだ。御主にも従って貰うぞ!」
「黙れっ!此の変節漢が!やはり殿が憂いて居られた通り、同族に靡いたか!」
怒りに任せて叫んだ政局の言葉を聞いた氏助は、吹っ切れた様に凄味の籠った笑みを浮かべた。
「矢張りそうであったか!大河内っ!御主の言葉で改めて目が覚めたわ!徳川殿は…家康は、臆病風に吹かれたのでは無い!端から此の小笠原氏助を信じず、見捨てる腹積りだったのよ!最早、家康に我が君主たる資格無し!此れで、心置き無く武田家の旗を仰ぐと致そうぞ!」
「貴様ぁっ!殿を愚弄致すかっ!」
激昂した政局は、脇差を抜き放って氏助に斬り掛かろうとするが、側に居た渡辺照が無言の侭で脇差を叩き落とし、其の侭床に抑え込んだ。
「金太夫!大河内を石牢に押込めておけ!家康には『浜松に質に入って居る者達の身柄と交換にて、此の者の身柄を御返し致す』と伝えると致そう!越前、御主が浜松にて口上を伝えて、質を取り戻して参れ!」
「はっ!承知仕りまする!」
(家康、今に見ておれ!此の氏助を、そして遠江の武士を虚仮に致した事を、必ずや後悔させて呉れようぞ!)
家臣達に指示を出して、開城へ向けた準備を始めながら、氏助の脳裏には家康に対する闘志が沸き上がっていくのだった。
月が改まった12月2日、惣勢山の山県昌景の元には、高天神城からの軍使として渡辺照が訪れ、開城の意志と条件が伝えられた。
《徳川勢主力との対決等を前に、後方にあたる東遠江の平定を急ぐべし》と考える昌景や昌幸は、高天神城を開城出来得る為らば多少の譲歩を行って構わない、と主張していた。
其の為、城方からの提示された《徳川方に残る者達の天龍川西岸への安全な移動》の条件は直ちに認められ、翌日には高天神城の速やかな開城が実現した。
城に籠っていた高天神衆は、武田家に帰順する《東退組》と、徳川家の指揮下に残る《西退組》に別れて城から退き、岡部元信が城を暫時預かる事に成った。
更には《西退組》と共に、本来《東退組》の安西越前・福島十郎左衛門助国・匂坂光行・福島河内長国(助国の息)が同行して、浜松に於いて徳川家との交渉に赴く事に成り、浜街道を西へと旅立ったのだ。
だが、己を信じて浜松迄落ち延びた者達に対して、家康は冷淡を通り越して酷薄とも言える処分を下した。
浜松に到着した《西退組》は、家康の指示に従って、直ちに徳川譜代家臣の配下として吸収されている。
遠江小笠原家の家督は、右京進義頼が継ぐ様に命じられたが、家臣団や寄騎の遠江の国衆は解体され、夫々(それぞれ)の配下に組み込まれた。
義頼率いる小笠原家には、代りの新たな所領は一切宛行われず、親類である幡豆小笠原家の所領に間借り為る形に成ったのだった。
其の上、安西越前と福島親子は、人質返還の交渉の席にさえ着けぬ侭に、《高天神城失陥の責を負う》として即日切腹に追い込まれた。
匂坂光行に至っては、家康から《狼煙の指示を勝手に捏造した》という冤罪を着せられ、口封じを兼ねて首を刎ねられる事に為ったのだ。
浜松城の北西には、北側に広がる三方ヶ原台地との境目を成す《犀ヶ崖》と呼ばれる深い崖が在る。
家康は、浜松城の北側の外堀とも言える此の崖の側に於いて、密かに光行の首を刎ねる様に命じた。
処刑前に自ら命を絶つと、高天神衆の人質はおろか処刑人にも累が及ぶ、然れど罪人同然に首を刎ねられる屈辱は受け入れ難い。
そう考えた光行は、処刑前に予め腹を掻っ捌いておく《陰腹》を斬った上で刑場に赴き、家康が望む《罪人としての斬首》では無く、切腹の体裁を調える事で、遠州武士の意地を見せたのだ。
「家康っ!此の牛之助には、一切の不義は無い!貴様の如き没義道の輩は、律義者を演じても何時の日か化けの皮が剥がれるに相違無いっ!儂が先に冥府に参って、貴様の罪過を閻魔大王に伝えて呉れるわ!…さぁ、亡き美作(氏興)様に会いに参ろうか!介錯を御願い致す!」
光行は、目の前に現れなかった《家康の不義》を最後迄叫び続けた後に、自ら首を介錯人の前に差し出した。
介錯人の刃は振り降ろされ、光行は犀ヶ崖の露と消えたのだった。
此の処刑の瞬間、犀ヶ崖の谷底には浜松城の様子を探っていた《真田忍び》が潜んでいた。
光行の死に様が《上忍》にあたる武藤昌幸に伝えられると、昌幸は遠江や三河の各地に対して、直ちに一連の話を事実の侭に拡げさせたのだ。
光行の話は、遠江・三河の住人のみ為らず、口伝に徳川家中にも伝わっていき、徳川家の求心力を更に低下させる一因と成るのだった。
そして高天神城には、今1人家康から見放された者が存在していた。
高天神城の石牢に閉じ込められた大河内政局は、家康が人質返還の交渉を拒否した事に因って、数年に渡って幽閉生活を送り続ける事に成るのだ。
一方、高天神城を開城した小笠原氏助は、天龍川東岸の合代島に設けられた武田軍の本陣に赴き、武田家の新当主・武田大膳大夫勝頼に謁見した。
勿論、山県勢の大部分及び高天神衆の《東退組》も、天龍川以東に最後に残る徳川方の牙城・二俣城の包囲に加わる為に、移動したのは言う迄も無い。
此の頃の勝頼は、本陣に於いて采配を揮う傍ら、先月24日には天皇の勅命に従う形で、駿河の臨済寺に9ヶ条からなる寺中の定書を発して寺の再興を促す等、内政面にも力を注いでいた。
「小笠原氏助。此度の高天神開城と武田家への帰順を以て、本領を安堵為ると共に、旧領たる馬伏塚城周辺を改めて加増致す」
「はっ!有難き幸せに存じまする!」
上座に立つ武田大膳大夫勝頼から所領の安堵状を頂き、更に高天神以前の小笠原家の居城だった馬伏塚城を再び取り戻し、氏助は平伏しながら礼を述べた。
「うむ、氏助には今後《弾正少輔》の官途名を名乗る事を相許す。更に、当家が《通字》として用いている《信》の一字を与えようと思う。亡き美作守殿の《氏興》からも一字を頂き、《信興》というのは如何だ?」
「小笠原弾正少輔信興…。我が父の事迄も慮って頂けたとは…。正に、古き己を捨て新たな門出を迎えるに相応しい名前で御座いまする!有難く頂戴仕りまする!」
身分や地位が高い者から諱の一字、若しくは通字を賜る事は《偏諱》或いは《一字拝領》と呼ばれ、将軍・大名の間や君臣間に於いて行われていた。
武田家の場合、武田家の通字である《信》は、家臣団の中でも有力な者に下賜されており、例外も在るが同じく武田家から偏諱として下賜される《昌》の字よりも上位とされていた。
氏助に取って《信興》の名は、小笠原家に対する勝頼の厚遇の証と言え、十分に満足のいく物であったのだ。
「…大膳大夫(勝頼)様、初見の砌に大変不躾では御座いますが、某より御聞き届けて頂きたき事柄が御座いまする!」
氏助…信興に対して安堵状と官途名を渡し終えた時点で、信興が上座の勝頼に対して訴え掛けて来た。
立ち会っていた武田家の重臣たちは『すわ何事か』と色めき立ったが、当の勝頼は涼しい顔色で応じる。
「うむ…。中身次第では叶えてやれるやも知れぬが、先ずは話を聞いてからだ。遠慮無く述べるが善い」
「はっ!徳川家の…家康が自ら出張った戦で、是非とも某を先手衆の一翼に加えて頂けませ!我等高天神衆を謀った家康を、此の手にて退治致しとう御座いまする!」
「三州(家康)をか…。信興、御主を徳川との戦の際には先手衆に加えると致そう。だが、三州の首を譲る件は約束出来ぬ。貴奴の首は此処の者達の多くも欲して居るからな!本来為らば、此の勝頼自身が槍働きで討ち取りたい位よ!」
勝頼がそう言って微笑むと、勝頼の気性を知る重臣達が思わず漏れる笑いを噛み殺す。
但し、勝頼の後ろに控える軍師・真田弾正忠幸綱(一徳斎幸隆)だけは、額に手を当てながら嘆息を漏らしていた。
勝頼の言葉に一応納得した信興は、次に忠誠の証として躑躅ヶ崎館に送るべき人物について説明した。
「其れと、躑躅ヶ崎館に出仕させる者に就いてで御座いまする。本来為らば、某の親類の内で御役目を果たせる者を選んで、甲斐に御預け致すべき処。然れど、某以外の小笠原家の親類共は、我が弟を除いて全て浜松に退き申した。其れ故に、甲斐には某の只1人の実弟、齢3つの鶴寿丸を御預け致す所存で御座いまする。何卒、よしなに御取り計らい下さいませ!」
「未だ3つで御座るか…。其の様な幼子を御当家に御預け頂けるとは、小笠原殿の御覚悟の程は判り申したが…」
信興からの提案に、そう返した宿老の1人の内藤修理亮昌秀を始めとして、多くの者が困惑の表情を浮かべる。
3歳(満2歳程)では、他の先方衆の子弟の様に戦場に赴かせる事が出来ない上に、役職を与える事も不可能である。
更には万が一、信興が武田に不満を抱いて裏切った際に、制裁として幼子に手を掛けた場合は、其の事を敵対勢力の宣伝材料に利用される危険も有ったからだ。
だが、勝頼はあっさりと承諾したばかりか、其の年代の者しか果せない役職を与える事にしたのだ。
「よしっ、為らば信興の弟御を当家にて預かろう!弟御の鶴寿丸には、我が嫡男たる武王信勝の奥近習の1人に就いて貰うと致そう。儂も父上が致された様に、跡継ぎの信勝を支える優秀な家臣を育てていかなければな!信興、如何で在ろうか?」
「何とっ!其の様な大任に鶴寿丸を就けて頂けるとは…、誠に恐悦至極に存じまする!」
余りに予想外の返答に、思わず勝頼に深々と平伏しながら、信興は身体の奥底から熱い感情が吹き上がって来るのを感じていた。
(正に五郎兵衛殿達が言われた通りであった!此の御方為らば、我が全霊を以て仕えるに足るに違いない!恐らく、父上が彼の今川義元公に御仕え致した時も、此の様な御気持だったのだな…)
一頻り感慨に耽った信興は身を起こすと、勝頼に向かって臣下の礼を施して、改めて忠節を誓うのだった。
「某は岡部五郎兵衛殿より『良禽は木を択ぶ』と諭され申した。大膳大夫様こそ、正に我が《大樹》に相応しき御方!此の信興、大膳大夫様の恩義に報いる為にも、粉骨砕身の限り御仕え致す所存で御座いまする!武田家の家臣として新参者で御座いますが、何卒御見知り置き下さいませ!」
「うむ、信興の働き、期待して居るぞ!武田家を大きく致す為、そして世を正道に導く為に、儂に力を貸して呉れ!」
「御意っ!」
此の瞬間、小笠原弾正少輔信興は武田家の家臣としての新たな人生を歩み始めた。
信興は心服した勝頼の為に、全身全霊を以て武田家に仕えていき、後の世に《勝頼派の重臣の1人》として知られていく事に為る。
信興が帰順した日の深更、合流した軍勢の手当をしていた山県昌景と武藤昌幸の2人は、勝頼の本陣へと呼び出された。
2人が訪れると既に勝頼のみ為らず、内藤昌秀・真田幸綱、同じく宿老に名を連ねる馬場美濃守信春・春日弾正忠虎綱、更には両職(筆頭家老)の1人の原隼人允昌胤が顔を揃え、敢えて絵図を囲んで車座に座していた。
昌景を含めて、信玄から若き勝頼の後見を託された武田家の現《最高幹部》が一堂に会する中、昌幸は不敵な迄の表情で、勝頼の真正面に腰を降ろす。
「昌景、昌幸。此度の高天神城攻め、大儀であった。此れで、東遠江はほぼ武田の版図に収まったな」
車座故に同じ高さながらも、掛軸を背にした上座に座した勝頼が2人を賞すると、昌景は逆に謝罪して来た。
「いえ、高天神の攻略に3ヶ月もの月日を費やしてしまい、誠に申し訳御座いませぬ。貴重な時を無駄遣い致してしまいました…」
「とはいえ、力攻め致さなんだ故に、兵力の消耗は見込みより少なく済み申した。其れよりも、二俣城も攻め倦ねて居られる御様子、此方は如何相成りましょうや?」
「こらっ、昌幸!勝頼様や重臣方の御前ぞ!無礼な口振りは慎まぬか!」
昌景とは対照的な返答を返した昌幸に対して、実父の幸綱が叱り付けたが、其れを勝頼は掌を振りながら宥める。
「一徳斎、別に構わぬさ。昌幸の此の口振りは今に始まった事では有るまい。神妙にされては此方がこそばゆいわ!」
勝頼の言葉に、幸綱の方が恐縮してしまい、共に座する重臣達は互いに見合って苦笑する。
「だが、確かに二俣を攻め始めて1ヶ月半経ったが、周りが其れを許さぬ状況に成りつつあるからな…」
勝頼の言い様と表情の変化に、状況の悪化を感じた昌景と昌幸は、思わず顔を見合わせる。
「徳川が愈二俣の後詰に出張って参ったので御座るか?早速腕が為りまするな!」
「然れど、家康だけならいざ知らず、織田弾正(信長)が自ら参ったら、些か拙いですな…」
対照的な反応を見せる2人に対して、勝頼の軍師である幸綱が説明していく。
「徳川は先月半ばに一度動いて居る。此の合代島の南の神増に後詰を送って参ったが、馬場殿が直ぐに追い払って御座る。…片や未だに織田は動いて居らぬが、直ぐにも動くやも知れぬ。1つは先月14日に東美濃の遠山家の中で内紛が起きた事だ。惣領の岩村城主、遠山大和守(景任)の病身を良い事に、今年1月に織田弾正の息子(信長5男の御坊丸)を養子に入れ、織田三郎五郎(信長の庶兄の信広)と川尻与兵衛(秀隆)を置いておった。だが、2人が江北の後詰として岐阜に退いた隙を衝いて、岩村の家臣や東美濃の国人共が、織田家や遠山大和守に対して叛旗を翻したのだ…」
「ふむ…、確かに二俣以外の東遠江を統べ申したが、我等は東美濃の方迄は未だ手を伸ばして居りませぬ。此の時期を見計らった様に遠山の内紛が起きたのは、恐らくは何者かの手引きが有っての物か、と…」
「如何様。修理(昌秀)殿の申される通りで御座ろう。然れど、此の時期に織田と徳川両方を相手致すには、御当家には些か準備が足りませぬ。万全の仕置を致さねば、譬え我等でも危のう御座る」
隣りに座する虎綱が、昌秀の推測に同意しながらも、織田家との全面戦争を危惧する。
とはいえ、《徳川征伐》戦は順調に推移しており、重臣達には明るい雰囲気が感じられた。
そんな中でも、勝頼と幸綱のみが眉間に皺を寄せて、重苦しい空気を漂わせている。
「…勝頼様、如何され申した?先の御方様(信勝の生母のをりゑの方(遠山夫人)・5年前に死去)の御実家での内紛、やはり御気に障りまするか?」
「いや、信春。其れと此の事は全く別の話だ。孰れにせよ、遠山の内紛に乗じて我等が東美濃を切り取るには、大義名分が無さ過ぎる。今暫くは東美濃の様子を見つつ、飛騨の栗原左兵衛(詮冬)に陰ながら支援させ、落ちて参った者が居れば領内にて匿う事に成ろう。だが、東美濃の事なぞ此れに比べれば瑣末な事だ…」
己を心配した信春にそう告げながら勝頼が目配せ為ると、幸綱が傍らに置かれた文筥から2通の書状を取り出す。
「…御歴々。此れは浅井備前(長政)殿の重臣、赤尾美作(清綱)殿からの書付と、浅井家浪人衆に入らせて居る源之助…我が弟の矢沢右馬助(綱頼)の副状で御座る。右馬助に付けた《真田忍び》が夜を継いで持って参り申した…」
「成程…、其れ故に浅井や朝倉の取次である拙者も、重臣方に交じって此の場に呼ばれた訳ですな」
重臣のみの中に、1人だけ交ざっていた昌幸は、父の言葉に漸く得心がいった。だが、ふと見ると最初に書状を受け取った信春の顔色が、見る見ると苦悶の表情へと変化していく。
「…美濃殿、何が書かれておるので御座るか?」
「皆の者、此処からは儂が話す故に、回し読みながら聞くが善い。朝倉左衛門(義景)率いる朝倉勢1万5千が、去る12月3日に江北から撤収して越前に帰国致した」
「なっ…!」
「そっ、其れは誠で御座いますか!」
「うむ、朝倉曰く『越前との国境が雪に閉ざされては、将兵や国の者達が不満を抱く故に、一旦帰国致して来春に改めて出陣致す』と主張致して、備前殿の制止を振り切って帰国致したそうだ…」
「馬鹿なっ!1万5千の朝倉の軍勢無くば、浅井勢のみでは江北の織田勢を支え切れますまい!」
「恐らくは帰国出来ぬ事に一番不満を抱いて居ったのは、残して来た愛妾(小少将)を抱けぬ義景自身で御座ろう。阿呆だとは姉川の折に判って居りましたが、よもや此処迄阿呆だとは…」
織田勢の兵力差を考えて残された浅井勢を心配した昌胤と比べ、朝倉家の内部事情に詳しい昌幸は、帰国した義景を遠慮無く扱き下ろす。
「だが、此の侭では我等も含めて、織田の大軍勢に1家づつ虱潰しに滅ぼされよう。何方に致しても、朝倉勢に再出馬を要請致すと共に、我等も一刻も早く徳川三州を屈伏させて、織田勢の来襲に備えなければ成らぬ…」
其処に居る全員が書状を読み終えた頃合に、勝頼がそう告げると7人共に徐に首肯為る。
全員が認識したのを確認為ると、勝頼は矢継ぎ早に次々と命令を下していく。
「昌幸、此れより直ちに駿府の父上(信玄)の元に赴き、朝倉家に対して詰問状を認めて頂け!儂も書付を用意致す故に、其等を携えて越前一乗谷の朝倉左衛門に会って参るのだ!」
「承知致し申した。為らば書付を頂戴致す迄の間に、遠江の国衆への風聞を広める指示を与えておき、然る後に駿府へと参りまする。恐らくは年明け過ぎには遠江に戻って、復命致す事に成ろうかと…」
「いや、其れでは些か遅い。出来得る限り疾く戻って参れ。最低でも浜松に攻め寄せる頃には間に合う様に致せ!」
「はっ?其れは何とも御無体な…。まぁ信濃と飛騨を早馬を継げば、恐らくどうにか成るか…という処で御座ろうか…」
「うむ。次に、昌胤は天龍の西岸から西側は浜名湖、北側は井伊谷の辺り迄を具に調べ上げよ!何処の地に於いても戦を開ける様に致せ!」
「御意っ!物見の人数を増やし、二俣を落とす前に調べ上げて見せまする!」
「一徳斎は、何時でも東美濃の遠山勢に後詰を送れる様に、秘密裏に準備に取り掛かって呉れ。率いる将を人選致し、兵員と小荷駄を調達致して、一朝有事の際には直ちに出陣出来る様に備えて置くのだ!」
「はっ。東美濃為らば、主将は一昨年にも出陣致した秋山伯州(伯耆守虎繁)殿が適任かと。直ちに秋山殿と示し合わせ、密かに準備を終らせまする」
「宜しく頼む。信春、昌秀、虎綱、そして昌景は、儂と共に何と致しても二俣を開城させるぞ!但し此の戦は未だ《徳川征伐》の端緒、出来得る限り総掛りは行わず、兵の損害を抑えつつ城方を屈伏させるのだ。善いなっ!」
『ははっ!』
全員に一通りの指示を出し終えた勝頼は、内心では己自身が武田家を率いて進むべき道程の険しさを思い合わせて、軽い嘆息を漏らすのだった。
(ふぅ…、物事とは熟簡単には進まぬ物よ…。此れに勝る難局の数々を、容易い迄に乗り越えて来られた父上には、儂なぞでは迚も足元にも及ばぬ…。だが、儂の未熟を嘆いて居っても始まらぬ。『人事を尽くして天命を待つ』と言うからな。兎に角、儂に成し得る全てを行う迄よ!)
東遠江の要衝・高天神城の開城に因って、天龍川以東に残された徳川勢の城は、現在も籠城中の二俣城のみと成った。
だが、次第に武田・織田両家を隔てていた勢力…徳川家や遠山家が次第に弱体化為るに従って、両家の勢力圏が直接接する形に成ると、其の緊張は次第に抜き差し為らぬ状態に成りつつあった。
更には、織田家を武田家との戦に引き摺り込みたい徳川家康の命を受け、服部半三保長(浄閑入道)が密かに暗躍しようと企てて居たのだ。
両家の激突は少しづつ現実味を帯びて来ており、確実に其の瞬間が近付いている事を、人々は肌で感じ取っているのだった。
今回の話で、武田勝頼率いる武田軍は、史実よりも1年半早く高天神城を占領しました。史実では信長の後詰が浜名湖の今切の渡しに迄来て居た為に、早期に開城させる為に1万貫もの所領を条件に氏助を投降させました。しかし《信長包囲網》と同時期に攻め寄せさせた為に、史実よりも少ない加増にしています。それと東遠江の徳川領が無くなったので、匂坂牛之助の処刑現場を東遠江から浜松城に変更してみました。さて、次回は未だ落ちてない二俣城の開城の話になります。相変わらずの乱文ですが、次回も是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。有難う御座いました。