表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/41

廿:徳川征伐(参)~一言坂の戦い~

今回は三方ヶ原の戦いの前哨戦として有名な《三箇野川・一言坂の戦い》の話になります。今回は書いている内に、殆ど徳川家の話みたいになってしまいました。相変わらずの長文ですが、是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。


 北側にそびえる雪を戴いた峻嶺から吹き下ろすこがらしが、元来温暖な気候である遠江国にも冬の到来を告げる。

 既に暦の上では、冬の始まりにあたる二十四節気の《立冬》を過ぎて、後僅かで《小雪》に至る頃であり、例年為らば人々は冬支度を整え始める時期である。

 だが、此の年…元亀3年(1572年)の初冬、遠江国には凩と共に大軍勢が来襲し、遠江のみならず諸国の者達を震撼させていた。

 自他共に認める名門である戦国屈指の強国、甲斐源氏武田家の新当主・武田大膳大夫勝頼が、遂に其の全力を傾けて自ら遠江に来襲したのだ。

 

 此の年4月、父の法性院信玄の従三位権中納言・右近衛権中将叙任と、自身の従四位下大膳大夫・信濃守への昇叙を受けて、武田家の家督を譲り受けた勝頼は、8月から東遠江に1万の軍勢を送り込んでいた。

 そして10月朔日に、満を持して《徳川征伐》と称した大軍勢で遠江に攻め込んだのだ。

 遠江と奥三河に攻め入った軍勢は、盟約を結ぶ関東の北条家よりの助勢3千を含めて、総勢で3万1千に及ぶ。

 当初よりの軍勢を合わせると、4万1千もの大軍勢を投入して居たのだ。

 駿河・西伊豆には隠居の信玄が率いる3千を含む9千の軍勢と海賊衆が東側に睨みを効かせ、新領国の飛騨には桜洞城主に就けた栗原左兵衛尉詮冬を中心に、2千が美濃の織田領を牽制した。

 更には、本国甲斐や信濃・西上野には合計1万の軍勢が境目の城の防備に入っていた。

 正に此の時点に於ける《武田家の総力》を上げた大軍勢であった。

 

 其の大軍勢の力をまざまざと見せつけたのは、10月13日の戦い振りであった。

 奥三河の八名郡から秋山伯耆守虎繁の軍勢5千が牽制を行う一方、遠江各地に展開する武田軍の各軍勢が、中遠江に点在する徳川方の端城に一斉に襲い掛かった。

 武田勝頼率いる本備え1万5千は北遠江の犬居城を出陣すると、天方城・片瀬城(一宮城)・真田城・飯田城・各和城・向笠城を僅か1日で攻略、山県三郎右兵衛尉昌景の軍勢8千は兵を二分して高天神城を包囲する一方で、4千を率いて浜街道沿いの馬伏塚城を開城に追い込んだ。

 更には小山田左兵衛尉信茂・助勢の北条助五郎氏規の軍勢合わせて6千は、東海道を西進して久野城(座王城)に攻め寄せた。

 だが、久野城主・久野三郎左衛門宗能は徳川勢の後詰を信じて城に籠り、小山田・北条勢の攻勢に抵抗してきた。

 其処で、本備えと山県勢も近くの袋井から西島・木原にかけて布陣、久野城の包囲に加わった。

 日没の頃には、鯨波を上げる武田軍2万5千が焚く篝火かがりびが久野城を囲み、宗能や城内の者達に圧力を掛けていった。

 

 また、馬場美濃守信春の軍勢5千も犬居城を発して、只来城・高明城を同日に攻略、天龍川東岸の要衝・二俣城攻略の橋頭堡を固めていた。

 遠江の徳川方の国衆達は、武田軍の疾風怒涛の進撃に、自らの生き残りの為には何方の家に従うべきか迷い始めていたのだった。

 

 武田家の攻勢が行われた13日の深更、三遠の国主を自認する徳川三河侍従家康は、己の居城・浜松城本丸御殿に在る広間で開かれた軍議に於いて、苛立ちを抑え切れずに無言で親指の爪を噛み続けていた。

 

「殿っ(家康)!諏訪の小倅(勝頼)に好きな様に遣らせて良いので御座るかっ!」

「此の侭では、遠江の者共が浮足立ち、不忠者が離叛致し兼ねませぬぞ!此処は天龍川の東側で一当て致して《徳川此処に在り》と国衆共に判らせるが肝要では御座らぬか!」

 家康の異母弟である内藤三左衛門信成、旗本先手衆の本多平八郎忠勝といった若手が興奮して家康に詰め寄る中、《東三河衆旗頭》の酒井左衛門尉忠次が冷静に反論する。

「だが細作(間者・間諜)からの報知では、袋井から久野に掛けて居る武田の軍勢を万を遥かに越えておるのだ!徳川家の軍勢は三遠両国で2万近く居るとはいえ、三河や天龍東岸の軍勢は動かせぬ!此の浜松には8千足らずしか居らぬのだぞ!」

「うむ、左衛門(忠次)殿の言われる通りだ。せめて織田の後巻が有れば武田に互し得るだろうが…」

 武田の遠江攻めが始まった8月以来、浜松城に詰めている《西三河衆旗頭》石川与七郎数正が、織田弾正大弼信長からの援軍を待たなければ互角の勝負に持ち込めない点を指摘するが、やはり若手の武将の榊原小平太康政が反論する。

「然れど、小栗大六(重国)殿が岐阜城へ赴いても弾正(信長)殿は首を縦に振らなかったので御座らぬか!此の侭手をこまぬいて居っては、後方の信玄坊主が武田の軍勢に合流致して仕舞いますぞ!」

 家臣団が侃々諤々に意見を戦わせる間、上座の家康は黙した侭で爪を噛み続けていたが、其の心中では激しく葛藤していた。

 

(信玄坊主相手為らば兎も角、諏訪の小倅如きに好い様に遣られるとは、何と忌々しき事だ…!此の様な時の為に織田の理不尽な要請にも応えて来たのに、信長殿は助勢も寄越さぬしな…)

「殿、信玄坊主が参る前に一度、武田の奴輩に煮え湯を飲ませて呉れましょうぞ!御下知有らば、不肖此の忠勝が先陣仕りまする!」

「本多殿、此の信成も御供仕る!殿、我等に出陣の御下知を!」

 無言の家康に向かって、忠勝と信成が焚き付ける様に出陣を懇願していく。

 

(確かに此の侭浜松城に籠り続ければ、諏訪の小倅如きに負ける事は無かろう…。だが、天龍川の東側の国衆共は、旗を翻して武田に従うは必定だ…。一度は武田の軍勢に軽く当って、遠江の国衆共を繋ぎ止めねばな…)

 当初は《織田勢の後詰無しに戦を仕掛ける等は有り得ない》と考えていた家康だったが、若手の武将からの突き上げに、次第に芽生えた戦意が膨らんでいく。

 

「…善かろう!大物見(威力偵察)を兼ねて久野城の後詰に出陣致そう!諏訪の小倅すれに舐められて居っては、《三河武士の沽券》に関わる!此処は儂自身が勝頼の処に一駆け致そうぞ!平八郎(忠勝)、三左衛門(信成)は儂に供を致せ!」

「何とっ!殿御自らが御出馬為されるのか!」

 忠次が驚く中、出陣の同行を命じられた忠勝や信成は、歓喜の表情で同意する。

「ぎょ、御意で御座いまする!」

「殿、御任せあれ!諏訪四郎(勝頼の旧称)なぞ、拙者の《蜻蛉切》の錆に致して呉れましょうぞ!」

 家康自らが出陣を宣言して沸き立つ軍議の中、忠次や数正は徳川家中に蔓延する《諏訪の小倅に対する侮り》に対して、一抹の不安を覚えるのだった。

 

 翌10月14日未明、満月近い月明りが煌々と辺りを照らす中、家康は忠勝や信成、更には大久保七郎右衛門忠世を中心とした《大久保党》を含む3千強の軍勢を率いて、浜松城を出陣して天龍川を渡河した。

 久野城を包囲する武田軍を偵察し、あわよくば一当てして素早く浜松に退く事で、久野城だけでは無く高天神城や二俣城、強いては浜松城や三河各地の徳川勢を鼓舞する為である。

 徳川の軍勢は東海道沿いに見附を通り抜けると、磐田原台地の東端の《三箇野台》に在る大日堂に進出した。

 三箇野台の下方には葦原を貫く形で三箇野川(太田川)が流れており、其の対岸の木原・西島から袋井に掛けてには、武田の大軍勢が焚く篝火が垣間見えた。

 

「うむ…。信成、川の両岸に広がる葦原を使えば、武田の奴輩に密かに近付けよう。今少し貴奴等に迫って様子を探って参れ。適う為らば、油断を衝いて一矢報いて参るのだ!」

「はっ!御意で御座いまする!」


 家康の下知を受けた信成が、手勢5百を率いると月明りのみを頼りに身を潜めつつ、台地を駆け下りて渡河を果たすと、敢えて目立つ畔道あぜみちを避けて三箇野川の広がる葦原を利用しながら、次第に武田軍に近付いていく。

 

 葦原の中、旗指物も外して密かに移動する内藤勢は、木原畷に武田軍が拵えた陣所から1町足らず迄近付いた。(1町は約109メートル)

 陣所には多くの荷駄や兵糧が置かれ、一目で《小荷駄奉行》が管理する陣だと判別出来る。

「しめた!彼の小荷駄に火を放てば、武田の奴輩を足止め出来得るな!善いか、火を放って一当てのみ致したら首は打ち捨て、素早く三箇野台迄引揚げるのだ!」

 腰を屈めて低い姿勢の侭で指示を与えると、手下の足軽頭達が無言で頷く。

「為らば参るぞ。者共、懸かれぇぃ!」

『うおぉぅっ!』

 信成の号令一下、葦原から飛び出した内藤勢は、一斉に小荷駄が積まれた陣所へと駆け始める。

 だが彼我の距離を半ば程に詰めた処で、武田の陣所の両脇に黒尽くめの足軽が並んで居るのが眼に入った。

 いや、黒い集団の中で只1人だけ、月明りにも映える猩々緋の陣羽織を身に纏いつつも、飾り気の無い鉄鉢の兜を被った、6尺近い巨躯の武将が眼に入ったのだ。

 そして其の指揮官らしき大柄な武将を含めて、数百人規模の黒い集団全員が、鉄砲の銃口を此方に向けている。

(拙いっ!待ち伏せかっ!)

 先頭を駆けていた信成は、一瞬の判断で前に倒れ込んだが、手下達に指図する間も無く、周囲でダァァンという轟音が鳴り響いた。

 次の刹那、信成の後ろに付いて駆けていた内藤勢の5分の1近い百人程が、鉄の暴風に吹き飛ばされて生命を絶たれており、ほぼ同数の怪我人も生まれていた。

「敵の討入りじゃあ!皆の衆、小荷駄を狙う不逞ふていの輩を討ち取られよ!」

 大柄な武将が身体に相応しい声量で叫ぶと、更に向こう側に居た武田の大軍勢が一斉に動き始める。

「退けっ!葦原にて円陣を組み直して、殿が居られる高台迄引き下がるのだっ!」

 其の場から起き上がった信成は、手下達に指示を与えながらも、つい先程迄潜んでいた葦原に走って飛び込んだ。

 内藤勢の足軽達も、信成を追って葦原に走り込もうとしたが、其の背後から再び銃声が鳴り響いて、葦原の手前側に居た全員を前方へと薙ぎ倒したのだった。

 

 武田軍の他の軍勢が内藤勢…更には背後の徳川勢の追撃へと動き始める中、黒尽くめの筒衆(鉄砲隊)は追撃に参加せずに小荷駄衆の守りに戻っていた。

 其の筒衆を指揮した猩々緋の武将に、1人の武将が話し掛けて来る。

 《筒衆旗頭》で小荷駄奉行も務めて居る甘利郷左衛門尉信康である。

 

「孫一殿、我等が育て上げた《10匁の筒衆》の成果は如何で御座った?其れと賊を追わずとも善いのか?」

「おぅ、郷左(信康)殿か。まぁ暗かったとはいえ、撃った弾が浮き上ったのと葦原に邪魔されたが故に、2回揃えて撃ったにも関わらず、全員を潰せなんだ。此れは未だ未だ習練が必要だな…。其れに徳川の賊共は他の方々に任せても善かろう。儂等は命綱である玉薬を運ぶ小荷駄衆を守るが先決よ。まぁ、旗頭殿の御下知が有らば追い掛けるがな」

「いや、大膳(勝頼)様が《小荷駄の警固が肝要》と特に仰有られたのだ。追わずとも別に構うまい…」

 

 信康と《筒衆頭》で雑賀十ヶ郷出身の鈴木孫一重秀は、此の2年以上の間に正に二人三脚で《武田の鉄砲隊》の増強に務めて来た。

 今回の《徳川征伐》に際して、従来の6匁筒より大型の10匁筒を装備した筒衆を、4百人引き連れて参陣していた。

 そして、小荷駄奉行の信康の麾下として、本備えの小荷駄の警固を任されていたのだ。

 彼等は久野城攻略後の行軍の再開に備えて、直ちに小荷駄の点検と警備に別れたのだった。

 

 《10匁筒》に因る2度の轟音は、大日堂の家康達にも届いていた。眼を凝らすと信成の手勢が崩されて、武田の大軍勢が追撃を開始している。

 だが大軍勢故に、全体が追撃に動くには至っていないのが見て取れた。

 

「殿、此の忠勝と《旗本先手衆》が殿軍を相務めまする!疾く此の地より御退きあれ!」

 危機を感じ取った忠勝は、家康に撤退を促すと《蜻蛉切》を抱え上げて旗本先手役の同僚・都築惣左衛門秀綱に呼び掛ける。

「惣左(秀綱)、済まぬが殿軍に付き合って貰うぞ!坂の入口迄下って三左衛門(信成)殿達を救い出さねば為らぬからな!」

「応よっ!者共、平八(忠勝)殿は無双の勇者じゃ!進退を共に致さば殿軍の成就は間違い無いぞ!」

『おおぅ!』

 秀綱の呼び掛けに、旗本の多くの者達が気勢を上げる。

 彼等旗本の内の十数人の若武者達は、一様に同じ様な獣毛の飾りの兜を被っていた。

 主君である家康から下賜された、吐蕃チベット産のヤクの染色した尾毛を飾り付けた《唐の頭》と呼ばれる兜である。

 赤毛・黒毛・白毛と兜毎に色分けされ、勇壮に飾り立てられた兜を誇らしげに被って、旗本達は忠勝や秀綱と共に三箇野台の坂道を駆け下りていった。

 

「懸かれぇぃ!彼の坂を抜くのだっ!何としてでも、遠江から徳川の貴奴等を追い出すのだっ!」

「再び徳川が遠江に戻れば、飯田城の山内殿の如く族滅の憂目を見る羽目に為るぞ!」

 昨日に武田家に帰順して、本備えに組み込まれていた武藤刑部丞氏定・天方山城守通興・向笠伯耆守等の中遠江の国衆達が、次々と三箇野川を渡って大日堂へ続く坂道へと攻め寄せる。

 だが遠江衆の攻撃の全ては、坂の入口付近に於いて完全に塞ぎ止められていた。

 

「武田の者達よ、そして旗を返した遠江の不忠者共よっ!儂は徳川三河侍従が家臣、本多平八郎!此の《蜻蛉切》の錆に致して遣る故に懸かって参るが善い!」

 坂の登り口から少し入った辺りに下馬して布陣した本多忠勝は、家臣や同僚達を巧みに采配しながらも、自ら愛槍《蜻蛉切》を振るって群がる敵を倒していく。

 刃渡り1尺4寸2分(約43センチメートル)の笹穂型の刃に、長さ2丈(約606センチ)余りの青貝の螺鈿で飾り付けた柄を備えた長大な大身槍を、見事な迄の業前で操っているのだ。

 遠江の国衆や足軽が次々と襲い懸かるが、忠勝は《蜻蛉切》の長さや相手との間合いを上手く活用していた。

 其の一振り毎に、容易く見える程の巧みさで、群がる敵を次々と屠っていく。松明に照らされ鹿角の兜を被った其の姿は、まるで鬼神が降臨した様である。

 更には《唐の頭》の兜を被った旗本達が、忠勝の指揮の元で必死の奮戦を見せたのだ。

 

「つ、強過ぎる…!徒士武者や長柄足軽は、一旦坂の下に退けっ!」

「てっ、鉄砲だ!鉄砲足軽を前に出して、撃ち仕留めるしか無い!」

 攻め寄せていた遠江衆は、徳川の殿軍の死物狂いの戦振りに思わず手を緩めて、後方の鉄砲足軽を呼び寄せる。

 だが、此の寄手側の一瞬の間隙をこそ、忠勝は待ち侘びていたのだ。

「今だ!直ちに馬を繋いだ処迄駆け上がれ!殿を追って浜松城へ繰り退き致すぞ!」

『おおっ!』

 忠勝の指示の元、大日堂の方へと一斉に踵を返して走り始める。

 

 遠江衆が鉄砲足軽達を率いて再び坂を登ると、忠勝達は既に其の場を立ち去った直後であった。未だに坂の上から馬の嘶きや馬蹄の響きが聞こえ、松明から漏れる光も垣間見えた。

「ほ、本多平八は未だ此の上に居るぞ!」

「追えっ!貴奴等を討ち果たして、武田殿から所領の安堵状を頂戴するのだ!」

 逃げた本多勢を追い掛けるべく、遠江衆が大日堂に続く坂道へと殺到しようとした刹那、後方で遠江衆の様子を見ていた山県昌景が、百雷の如き大声量で指示を飛ばす。

「坂道を追うのは半数で善い!残り半数は、武田の各々の大将の備を道案内致して、南北の脇道を迂回致すのだ!先程、坂上の台地に僅かだが金色に照らされた扇が見えたぞ!彼れは徳川三州(家康)の馬印の《金扇》に相違無い!天龍の岸迄追い掛けて、三州と手下共を討ち取るのだ!」

『ぅおおぉっ!』

 昌景の号令に雄叫びを上げた遠江衆は、直ちに東海道を追撃する軍勢と、迂回路を道案内する集団へと分かれる。

 彼等に因る迂回路の案内の元、武田家が誇る騎馬武者達も、次々と徳川勢の追撃を開始したのだった。

 

 敗走して来た内藤勢、及び殿軍を務めた本多勢と合流を果たした家康率いる徳川勢は、東海道を西へと走り続けて、払暁前に見附郷へと辿り着いた。

 家康を始めとした騎馬武者は兎も角、徒士武者や足軽は駆け足で必死に逃げて来た徳川勢は、漸く小休憩を取る事が出来た。

(漸く見附か…。此の侭では、武田の騎馬武者共に追い着かれてしまう…!此の見附の連中も、武田の足止めなぞ致さぬだろう…いや、見附の町に足止めさせて呉れよう!)

 立った侭で小姓より差し出された竹筒を受け取り、中の水を一気に飲み干した家康は、周りの家臣達に行き成り命を下す。

 

「…火を掛けよ!」

「はっ?殿、如何なさいましたか?」

 旗本の1人が思わず聞き返すと、家康は苛立ちを隠そうともせずに、改めて細かな指示を飛ばす。

「此の見附の町に火矢を射掛けて、武田の奴輩を足止め致すのだ!火を掛け次第、浜松城へ出立致すぞ!」

 家康の命に従って、見附の町に多く見られる藁葺わらぶきの家屋に、次々と火矢が射掛けられる。

 火は折からの乾燥した空気と凩に因って、瞬く間に町中を包み込む大きな炎へと成長していく。

 火の海と化した見附郷を徳川勢が西へ向けて出発した頃、遠江の国衆達を引き連れた山県昌景の軍勢が、見附郷の東側に辿り着いた。

 炎に焼け出されて逃げ惑う人々の中から、商人の身形をした1人の男性が、昌景に走って近付いて来た。

 

「甲斐武田の武将の方と御見受け致しまする!それがしは見附馬場町にて商いを営みまする、上村清兵衛と申しまする!武田の方々に御願い申し上げまする!此の見附の町を覆う大火を鎮める手助けをして頂けませぬか!」

 清兵衛の必死の形相の中に、芝居付いた仕草を感じた昌景は、清兵衛に対して単刀直入に質問を切り返した。

「上村とやら、御主は徳川三州に恩義でも有るのか?そうで無ければ、家財を持って逃げるか、自ら既に町の火を消そうと致しておる筈だ。徳川から我等を足止め致す様に命じられたのか?」

 落ち着いた物腰だが、闘将らしい覇気を漲らせた昌景の質問に、清兵衛はたじろぎながらも眼を見据えた侭で返答する。

「…某の一存で御座いまする。徳川様には見附で商いをするに当って、色々と善くして頂きました。此の様な危難の刻、義理に眼をつむり容易く武田様に鞍替え致しては、遠州の商人の沽券に関わりまする!」

 家康からの恩義に報いるべく啖呵を切る清兵衛を見て、昌景は軽く嘆息を漏らしながら、周りの諸将に徳川勢追撃の中止を伝えた。

「ふぅ…、致し方有るまいな。確かに、商人ながら其の心意気はあっぱれだ。其れに此れからは、見附の民草も武田家の領民なのだ。御主に免じて、我等が見附の町の火消しを手伝おう。恐らくは《御屋形》たる大膳(勝頼)様も承知して下されようしな…」

「なっ…!」

「山県様っ!御待ち下され!我等遠江の者達は、本領安堵の為にも徳川の奴等を追わねばなりませぬ!是非とも我等だけでも追い討ちを御許し頂きたい!」

 唖然とする遠江衆を代表して武藤氏定が反論するが、昌景は冷静に追撃が難しく為った事を諸将に告げる。

「然りとて、徳川三州は此の炎の向こう側だ。北側は山が迫り、南側は深い湿田、遠回りして追っても我等は徳川勢には届くまい。誠に残念では在るがな…。安堵状は、儂が大膳様に掛け合うて遣るから、安心致すが善い」

(後は、予め迂回致した連中に任せると致そうか…)

 所領安堵の目処が見えた遠江衆と、家康への義理を果たした清兵衛が、共に安堵の表情を浮かべる中、昌景は同僚達の成果を信じて、見附の町を覆う炎を鎮めに向かうのだった。

 

 見附の町から逃れた徳川勢は、天龍川畔への最短距離を取る為に、南側を通る東海道では無く、見附から西進する本坂道へと馬を進めた。

 だが、徳川方の思考を読み取り、本坂道へと迂回した軍勢が追い付いて、駆け足で磐田原台地を下る坂の出口へと向かっていたのだ。

 

「源五郎殿っ!目の前の坂の上に差し掛かった軍勢は、正に徳川の軍勢よ!態々(わざわざ)連れて参った御主の考えが壺に嵌まったな!」

「一刻も早く川を渡りたい連中の考えを当てても、大した自慢には為らぬよ!其れよりも平八郎殿、奴等の中に御主と同じ仮名で凄腕の槍の遣い手が居る筈だ!貴奴が被る兜に衝いた鹿角が目印だ!倒せはせぬが儂が暫く往なして見せる故に、逃げを打つ徳川勢の隙を衝いて、あわよくば家康の首を狙って呉れ!」

「委細承知した!」

 1千程の軍勢の先頭で騎馬を駆る2人の若き武将…譜代家老衆の土屋右衛門尉昌続と、足軽大将衆の武藤喜兵衛昌幸は、徳川勢が本坂道を通過すると読んで、見附を大きく迂回する形で追撃して来たのだ。

「此れより、坂の出口を塞ぎに掛かるぞ!」

「者共、懸かれぇぃ!」

 幼き時より奥近習として、共に信玄の薫陶を受けた2人は、正に阿吽の呼吸で徳川勢へと突撃していく。

 

「坂を塞がれては進退も侭成らぬ!皆の衆、殿軍は承った!此処は儂に任されよ!何と致しても敵勢を突破して、殿(家康)を御無事に浜松迄御連れ致すのだ!」

 忠勝は《蜻蛉切》を握り直しながら指示を出すと、自らの手勢と旗本先手衆を率いて土屋勢に切り込んでいく。

「殿、我等《大久保党》も本多殿達と殿軍として残りまする!浜松迄、疾く御退き下さいませ!治右衛門、新蔵、勘七郎、彦十郎、そして新十郎!此処が切所ぞ!大久保の家名を辱めるなっ!」

「応よ兄者!甲斐の山猿共に、三河武士の底力を見せつけて呉れようぞっ!」

 忠勝等と共に、大久保忠世率いる《大久保党》が殿軍を志願して、次弟で副将の治右衛門忠佐と共に、土屋勢に向かって反転する。

 更には2人の弟である新蔵忠寄・勘七郎忠核・彦十郎忠為、そして忠世の嫡男で旗本の1人として仕えている新十郎忠隣も、家康に一礼して忠世と忠佐に続いていく。

 家康は彼等を見送ると、側に建つ観音堂に向かって、本の一瞬だけ片手拝みをする。

 《一言観音》と敬われ、一生に一言の願いを叶えると言われる仏を、騎乗の侭で拝み終えると、残った家臣達に檄を飛ばす。

「我等を無事に、浜松迄帰し給え…!よし、では早速、出口が塞がれる前に走り抜けて、天龍川の渡し場を確保に向かうぞ!早く致さねば、川を渡る途中に再び武田の山猿共に襲われるぞ!」

「はっ!御意で御座いまする!」

 家康率いる徳川勢の主力は、殿軍に残った本多・大久保勢が時間を稼いでいる隙に、払暁の薄明りの中を再び坂を下って《本坂道》を西進し始める。

 さながら武田の大軍勢の幻影を怯えるかの様に…。

 

「命冥加が惜しければ其処を退くが善い!此の《蜻蛉切》の餌食に為りたいかっ!」

 徳川勢の殿軍は、馬に乗った侭で愛槍・蜻蛉切を片腕のみで操る忠勝の華麗な迄の槍捌きに因って、群がる土屋勢は次々と屠られ、其の度に徳川勢の気勢を高めていく。

 だが、急に忠勝の前に頬当てを着けた小柄な騎馬武者…武藤昌幸が顕れ、忠勝の攻撃を手持ちの十文字槍を使って、無言の侭で受け流したのだ。

 ニヤリと笑った忠勝は昌幸に狙いを定めて攻め立てるが、最初から防御に徹した昌幸は、脚を架けたあぶみのみで馬を操りながら、忠勝の苛烈な攻撃をぎりぎり紙一重で逸らしていく。

 忠勝の攻撃力を原動力としていた徳川勢の反撃の勢いは、忠勝の動きを封じ込めた事で次第に鈍い物に変化していった。

 

「おのれ猪口才な!正々堂々と槍合わせ致せっ!武田の武士は腰抜けの集まりか!」

 蜻蛉切を繰り出しながら挑発を続ける忠勝に対して、昌幸は十文字槍で受け流しつつも、口角を上げて軽口を返す。

「何を馬鹿な事を!御主の如き業前の者と正面切って戦う程、己の腕前を過信しとらんわ!其の様な馬鹿な猪武者と一緒に致すな!」

「ふん!一応褒めて貰ったと解釈してやろう!其れよりも御主の槍捌き!馬を操る巧みさ!其の人を小馬鹿にした語り口!貴様は一昨年、近江姉川に居った朝倉の浪人衆であろう!貴様に《蜻蛉切》を折られた事、未だに忘れて居らぬ!よもや儂を忘れたとは言わせぬぞっ!」

 昌幸と忠勝は、2年前の元亀元年(1570年)6月、一度槍を合わせている。

 昌幸は浅井・朝倉両家の支援の為に、滋野源五郎昌幸の名乗りで朝倉浪人衆に潜り込み、近江姉川に於いて忠勝と百合以上に渡って刃を交えたのだ。

 其の時、昌幸は忠勝の攻撃を封じ込める為に《蜻蛉切》の柄を叩き折り、其の侭逃げ去って《勝ち逃げ》を収めていたのだった。

 

「…善くもまぁ、其の様な昔話を覚えて居る物だな。古き事柄に囚われて居っては、肝の大きさを疑われるぞ」

「黙れっ!貴様の減らず口を《蜻蛉切》で縫い付けて呉れるわ!」

 昌幸の正体に気付いて激昂した忠勝は、前以上の激しさで蜻蛉切を繰り出していく。

 だが良く見ると、冷静さを欠いて多少単調な物に変化した忠勝の攻撃は、防御のみに専念した昌幸に全て遮られているのだった。

 

「平八殿!殿軍の最中に深入り致すな!殿は見事に坂を抜けられ、池田の渡し場へと向かわれた!我等も兄者(忠世)が退路を確保して呉れて居る内に疾く退かねば、武田の他の軍勢に囲まれるぞ!」

 頭に血が上った忠勝に、土屋勢の攻撃から辛くも脱した大久保忠佐が大声で呼び掛けている。

 すると、昌幸は被我の距離を開けながら、忠佐の声で多少冷静さを取り戻した忠勝に話し掛けた。

 

「…其処許そこもとの如き豪傑を相手にしていては、防ぐのみでも骨が折れる。どうやら其処許の主君も取り逃がしてしまった様だしな。…夜が明ける前に、本多殿も手勢を纏めて他の者共々退かれるが善かろう」

「何とっ!情けでも掛けた積りか!儂は殿軍として此処に残って居るのだ!御役目を果たせた為らばいざ知らず、中途の侭に逃げ帰っては三河武士の名が廃るわ!」

「ええぃ、強情を張る奴だな…。だが、三州は既に逃げおおせたのだ。御主等は役目を果たしたのでは無いか?此の様な時に我を張って、手勢や同輩を死地に巻き込むのは、良将の致す事では有るまい…」

 かたくなに家康への忠節を守ろうとする忠勝に対して、昌幸は多少辟易しながらも、此の場での継戦の無意味さを忠勝に諭した。

「…承知致した。貴殿の《武士の情け》、此処は有難く受けさせて頂く!此の借りは必ずや戦場にて返させて貰うぞ!」

「うむ、出来得るなら戦場以外で返して貰いたい物だな…。ほら、此の乱心者の気が変わらぬ内に、疾く御退きなさるが善い」

「誠にかたじけない!では、此れにて御免仕る!」

 忠勝が昌幸に一礼して馬首を返すと、半ば坂の出口を塞ぎつつあった土屋勢も、勇戦した徳川の殿軍に対して敬意を表して、道を開けて通過させた。

 見事に役目を成し遂げた徳川家の殿軍は、朝焼けに背を照らしながら堂々と退いたのだった。


「御屋形様、誠に申し訳御座いませぬ。徳川三州を今一歩の処で取り逃がしてしまいました…」

「其れと三州が逃げた後に、此方の討死・手負いが増える事を防ぐ為に、本多平八郎率いる徳川の殿軍を、某の独断で通しました事も、重ねて御詫び申し上げまする」

 朝を迎え、戦いを終えて再び久野城を囲む軍勢に合流を果たした昌続と昌幸は、家康を取り逃がしてしまった事を、此の軍勢の総大将・武田大膳大夫勝頼に謝罪した。

「そうか…。此度は《大魚》を逸してしまった様だな。誠に残念ながら相手は一廉の大名、流石に一筋縄には行かぬ様だな…。だが、徳川の殿軍共の奮戦が有ったればこその結果、此度は致し方無かろう…」

 態々(わざわざ)天龍川を渡って此方側へと来ていた家康を取り逃がしてしまい、軽く嘆息を漏らした勝頼であったが、己に言い聞かせる様に言葉を繋ぐと、近い場所に座する重臣から声を掛けられた。

「まぁ、此処で徳川三州を討ち取ってしまい、慢心致した挙句に大怪我を負う様では、元も子も御座いませぬ。先ずは此の辺りが《六分の勝ち》で御座いましょう」

 宿老の1人である内藤修理亮昌秀が、信玄の薫陶の一節を引用して勝頼に進言すると、多くの諸将が首肯する。

「左様で御座る。肝要な事は、此の《六分の勝ち》を手入れ(調略)に生かして、天龍川の東に残った徳川方の城を、開城に追い込む事で御座いましょう」

「うむ、確かにな。直ちに使者を送り込み此の事実を《有りの侭》に伝えてやるが善かろう。…しかし徳川の家臣には、武田に劣らぬ強者共が居るのだな。全く、小身の三州殿には過ぎた家臣よ…」

 己の軍師役であり、後見人の1人でもある真田弾正忠幸綱(一徳斎幸隆)からの指摘に、勝頼は頷きながらも徳川家臣団の勇戦振りを称えるのだった。

 

 其の日の朝の内に、山県勢と遠江衆が鎮火させた見附の国府台の地に、武田家に因って1枚の立札が立てられた。

 其処には、武田軍を相手取った徳川家臣団の勇戦を称えた、戯れ歌がしたためられていた。

 

《家康に過ぎたるものが二つ有り、唐の頭に本多平八》

 

 勿論《唐の頭》は家康から貰った兜を被って必死の奮戦を見せた旗本達を、《本多平八》は2度の殿軍を見事成し遂げた本多忠勝を称えた物である。

 そして何よりも、此等の優れた家臣達を《過ぎたる物》と表現して、家康には分不相応だと皮肉って見せたのだ。

 此の戯れ歌は、人々の口伝えに因って次第に東国全体へと広がって、忠勝や徳川の家臣達の面目を施す事になるのだった。

 そして、激戦が繰り広げられた見附西の坂道は、此れより後は側に建つ観音堂に因んで《一言坂》と呼ばれる事に成るのだ。

 

 一方、此の一連の戦いに因って、遠江各地で繰り広げられていた戦況にも僅かな変化が生じていた。

 武田軍からの遣いより、昨日の戦闘の詳細と共に開城勧告を受けた久野城主・久野三郎左衛門宗能は、此れ以上の継戦を諦めて開城した。

 宗能や徳川派の者達は新当主・弾正宗政の手で捕えられたが、勝頼の命を受けて処刑を免れ、今後の徳川家との交渉の際に交換する為の人質とされる事になった。

 

 其の後、武田軍本備えは、昨日の徳川勢が渡河した渡し場がある池田郷を確保した後、天龍川東岸の匂坂城と社山城を占領している。

 勝頼は、社山城の北側にあたり天龍川の渡河点の1つとされる《合代島》の地に進出すると、其処に二俣城攻めの本陣を設けた。

 既に二俣城攻めの支度に入っていた馬場美濃守信春の軍勢も合流を果たすと、二俣城に対して開城勧告の使者が遣わされた。

 だが、既に備えを固めていた二俣城主・中根平左衛門正照は、此の勧告を直ちに拒否する。

 そして、副将として浜松から赴任していた松平善兵衛康安・青木又四郎貞治の両名と、総勢1千2百の守兵を率いて、万全の体制で籠城に入ってしまった。

 更には、山県勢の一部にあたる4千の軍勢が囲んでいた高天神城も、開城勧告に未だ応じずに籠城戦を継続していたのだ。

 

 其処で勝頼は、高天神から駆け付けた山県昌景に、再び高天神城攻略の陣頭指揮を委ねた。

 此の際に、所領を安堵した武藤氏定・久野宗政・天方通興・向笠伯耆守等の中遠江の国衆にも高天神城へ参陣させる事とした。

 更には、今川旧臣の岡部次郎右衛門尉正綱・岡部五郎兵衛尉元信の両名を助勢に加え、武藤昌幸を検視役(軍監)として同行させている。

 他方、御親類衆の穴山左衛門大夫信君を匂坂城に入れて、天龍川東岸の防備を固めると、残りの2万近い軍勢を以て二俣城の包囲網を築き上げたのだ。

 

 二俣城は、大きく蛇行する天龍川と、同じく湾曲しながら合流する支流の二俣川に囲まれた、合流点の北側台地上に築かれた堅城であり、地理的には遠江の《扇の要》にたとえられる。

 小振りな城とはいえ、城の直下で合流する2本の川と、浸食に因って形成された険しい崖に囲まれた縄張りは、攻め口が限定される為に大軍勢が一度に攻め寄せ難い構造となっていた。

 勝頼は合代島・只来城・高明城等に、備え毎に陣地を構えさせて二俣城と周囲の間の連絡を途絶させると、先ずは御親類衆で信濃小諸城主の武田左馬介信豊(典廐・勝頼の従弟)に命じて、北側の大手口へと攻撃が開始された。

 だが、勝頼や武田軍の宿老達の予想に反して、二俣城の攻略は城兵の抵抗に因って、長期間に渡って手間取る事になるのだった。

 

 とはいえ、高天神城や二俣城に攻め寄せながらも、勝頼達の意識は遠江よりも遥かに西側…美濃の方へ向いていた。

 徳川の同盟者…事実上の宗主である織田弾正大弼信長の動き如何に因っては、武田家の方が危機に陥る可能性が有るからである。

 勝頼は、父・信玄からも提案された《織田勢を拘束する為の東美濃侵攻案》を採用していない。

 大義名分を欲した為でもあるが、何よりも織田勢との全面対決を先延ばしにしておく間に、徳川領を併呑して国力差を埋める腹積りなのだ。

 

 反対に徳川家康にしてみれば、今回の三箇野川から一言坂での戦いに因って、武田軍に独力では抗えない事がはっきりした。

 何としてでも、織田家と武田家を全面対決に巻き込まなければ、遠江のみならず三河迄も武田領に併呑されるのは火を見るより明らかである。

 家康は、浜松に帰城した14日の昼には、再び小栗大六重国を信長の居城である岐阜城へと派遣して、織田の大軍勢による後詰を重ねて要請している。

 家康の居城である浜松城に、信長からの指示を伝える使者として簗田左衛門太郎広正が現れたのは、10月末の事であった。

 

「簗田殿、何を申されるかっ!誠に織田殿は其の様な理不尽な事を仰有ったのかっ!」

 上座に座していた家康は、興奮の余りに腰を浮かせながら思わず聞き返す。

 だが、桶狭間の戦いの折に今川勢の本陣の所在を探って、一番手柄を賞された出羽守政綱を父に持ち、自らも信長の馬廻に名を連ねる広正は、敵地の如き周囲の雰囲気にも臆する事無く返答を返した。

「如何様、其の通りで御座る。去る22日に我が主人たる織田弾正大弼(信長)様から預かった言上、違える筈が御座らぬ。《三河殿には岡崎城辺り迄退いて武田の手足を縛るべし、畿内江北の騒攘を鎮めた後に全力で後詰を送る所存》との事で御座る!」

 確かに、遠江や東三河に展開する全軍勢を岡崎城周辺に結集させれば、最大動員兵力は未だに1万6千以上に及ぶ徳川勢が、武田軍に互する事は十分可能である。

 だが家康にとって、此の提案は論外の代物と言って過言では無かった。

 

「御待ち下され!岡崎迄引き下がっては、遠江どころか東三河迄が武田に蹂躙されまするぞ!此等は徳川が血であがなって手に入れた土地、たとえ織田殿の御言葉といえども従えませぬ!」

 家康の主張に広正は軽い嘆息を吐くと、織田勢の置かれた状況を考慮すると、大規模の後詰が現在不可能である事を説明する。

「…三河殿、織田家は現在、畿内各地や江北、そして北伊勢に敵を抱えて居りまする。此の上、更に遠江へ後詰を送らんと致さば、今は戦に及んで居らぬ武田とも相争う事に成りましょう。然すれば、未だに十全では無い織田家の国力が破綻致しまする。其れ故に、徳川家の全ての軍勢を尾張から近い岡崎に集め、畿内を平らげた織田勢と共に武田の軍勢を破るので御座る。武田を破った後為らば、一度喪った領国も容易く取り戻せましょうぞ!」

(都合の良い事を吐かすなっ!信長殿に必要以上に媚びを売ったは、正に此の様な時の為だろうが!せめて万の後詰を浜松に貰わねば帳尻が合わぬわ!)

 心中では悪態を吐きながらも、家康は表情を消して改めて広正に助勢を要請した。

 

「…然れど織田家の大軍勢による助勢無しには、我が徳川の所領である遠江を守る事は叶いませぬ!是が非でも、織田家の助勢を承りたい!簗田殿、再び岐阜に戻って織田殿と掛け合って呉れませぬか!」

「…致し方有りませぬ、承知致し申した。今一度、弾正(信長)様に掛け合い申そう。但し、如何程の軍勢を寄越せるかは御約束致しかねまするぞ!」

「簗田殿、信玄坊主が隠居して諏訪の小倅(勝頼)が率いておるとはいえ、武田の軍勢は誠に精強で御座る。織田殿には是非、最大限の御助力を御願い仕りまする!」

 家康は広正に頭を下げなからも、心中では二俣城や高天神城の解放に織田の助勢を如何に使うか、思案を始めるのだった。

 

 だが、家康の再度の懇願にも関わらず、武田家との全面対決を先送りにしたい信長は、僅かな軍勢のみを遠江に送る事を決した。

 佐久間右衛門尉信盛・平手甚左衛門尉汎秀・水野四郎右衛門信元の3将を主将とする軍勢だが、彼等が率いるべき兵力の過半は、美濃・尾張や江北に残し、総勢で3千足らずの小軍勢である。

 信長は《徳川の助勢》と言うよりは、徳川勢の働きを監視する《督戦部隊》として、3将の軍勢を送り込む積りだった。

 

 岐阜に遣わした小栗重国からの書状で、3千の助勢の内示を知らされた刹那、家康は憤怒の形相で書状を破り捨て、眼前に敵が居るかの様に眼を血走らせる。

 武田軍の侵攻以来、無意識に噛み続けた右親指の爪は、既に指先が鬱血して爪先も噛み切っている程だ。

 だが暫くして落ち着くと、小姓に対して三河から1人の家臣を急ぎ召し出す様に命じたのである。

 

「殿。服部浄閑入道、只今罷り越しました。此の老骨に何の御用で御座いましょうや?」

「参ったか…、半三」

 翌日の深更、家康の居室に1人の僧体の老人が訪れ、家康に平伏していた。

 老人の名は服部半三保長(浄閑入道)。清康から3代に渡って徳川家に仕えてきた老臣てある。

 元々は、伊賀国の千賀地に本拠を置き、伊賀忍者を束ねる《上忍》の1つとして千賀地氏を名乗っていた。

 だが、保長の代に本姓である服部姓に戻して伊賀を出国、時の征夷大将軍・足利義晴(義輝・義昭の父)に仕えた。

 其の後、三河を一時的に統一した松平二郎三郎清康(家康の祖父)に請われて三河国に移住、以来引き連れて来た伊賀忍者達を束ねる一方、自らも忍術の妙手として松平家…徳川家に仕えていた。

 現在は武将として育てた息子の半蔵正成が家督を継ぎ、忍術は行使出来ないとはいえ《上忍》として譲り受けた伊賀忍者を束ねて采配を揮っている。

 保長自身は隠居の後に出家して浄閑入道を名乗り、現在は三河に在る服部家の所領で留守居を務めていたのだ。

 

「…成程、織田は我が徳川の御家を、武田の矢面に立たせる事で、他の敵を叩く刻を稼ぐ積りで御座いますな」

 家康から此れ迄の戦況や織田家との交渉内容の説明を受けた保長は、信長の真意を推し量ると同時に、家臣同然の扱いをされる家康の憤りも理解した。

「うむ、此の侭では我が徳川家は、遠江はおろか父祖の地である三河迄も喪ってしまう!何と致しても織田と武田を戦に巻き込まなければ為らぬ。さもないと、譬え再び三遠に帰ったとしても、正真正銘の《織田の家臣》に零落おちぶれるだろう…」

「然すれば、織田と武田の間で戦わざるを得ない様に致さば良いのですな?」

「そうだ。尚且つ、徳川の名前が絶対に出ない形に致さねば為らぬ!其れ故に、正成の配下の忍共は動かせぬ。…半三、出来るか?」

 家康から問われた保長は、暫くの間瞑黙して考えていたが、ゆっくりと眼を見開くと、静かな口調で家康に質問した。

 

「仕掛けは武田と織田、孰れの側に致さば宜しいので御座いまするか?若し宜しければ、京にて店を開かせている茶屋(四郎次郎清延)殿が訪ねて参った折に聞いた、興味深い話が御座いまするが…」

「四郎次郎から、だと?其は如何なる話だ。此の危急に使えるのか?」

「諾否は判り兼ねまするが、此の手為らば、拙者と茶屋殿、其れに数名の手の者で成し得まする。実は…」

 そう言うと、保長は茶屋四郎次郎から聞いた話と、其処から考え出された《武田と織田を戦わせる策》を掻い摘まんで説明していく。

 保長の大まかな説明を聞き終えた家康は、漸く光明を見出したが如く口角を上げると、保長の策を了承する事にした。

 

「うむ、善かろう。此の件は半三に任せる。四郎次郎に書状を遣わして、金子の手筈を調ととのえさせよう。子細は任す故、必ずや策を成就させて、織田家を武田との戦に引き摺り込むのだ!」

「はっ、承知仕りました。為らば、早速手下を揃えて京へ向かいまする」

 保長は家康に一礼を施して退室すると、直ちに浜松城を出て三河の服部家の所領へと馬で駆け戻っていく。

 先ずは己の屋敷に於いて、息子に譲らずに己の支配下に僅かに残していた数名の下忍と合流して、京の茶屋邸へと向かう事に成るのだ。

 

 家康は、武田家との戦いに織田勢の参戦が適うか否かを、此の服部保長の暗躍に掛ける事に成るのだが、其の結果が出るのには、今暫くの刻を必要としたのである。

 

 二俣城・高天神城で足止めを喰らってしまった武田勝頼、手足を出せずに浜松城等に籠りつつも裏で動き始めた徳川家康、畿内や江北の戦いを優先させて先延ばしを謀る織田信長…夫々(それぞれ)の思惑を孕みながらも、遠江の戦いは膠着状態に入るのである。


伝承では《一言坂の戦い》は13日の午後に開戦、家康は一言坂で戦闘後に西側の湿地帯に陣を張って提灯を木々にぶら下げ、追ってきた武田勢を湿地に嵌めて一泡吹かせた…等の話が有るそうです。ですが今回の話では《夜討ち・朝駆け》で攻撃を行う為に、翌14日の午前1時位に出発・4時位に開戦・7時位に戦闘終了…という設定で話を展開させましたので採用しませんでした。次回は史実では2年後に攻め落とした高天神城の話になります。相変わらずの乱文ですが、是非とも次回も読んで頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ