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拾玖:徳川征伐(弐)~甲軍来襲~

今回は、京で暗躍する足利義昭と信虎の話と、信玄に代わって新当主・武田勝頼が遠江へと出陣する話になります。相変わらず長文ですが、よろしくお願い致します。

 白昼であれば《錦秋》と称するに相応しい、色鮮やかな紅葉に彩られた山々を四方に仰ぎ見る事が出来ただろう。

 だが月齢を重ねて新月も間際と成り、深更に至っても月明りが無い状況では、山の情景を楽しむ事は出来なかった。

 闇に覆われた扶桑の中心たる京の都、北側の上京と南側の下京を結ぶ勘解由小路室町の地に、煌々と篝火かがりびに照らされた、2町四方に及ぶ城域を誇る城が存在する。

 其の城は京雀からは《二条城》、又は城の主人に因んで《武家御所》《武家御城》と呼称されていた。

 

 そんな二条城の謁見の間に、夜の帳を引き裂くかの如き甲高い怒声が響き渡る。

 其の声の余りの大きさに、部屋の外側の護衛がビクリと身体を竦める程である。

 そして室内の上座では、此の城の主人である征夷大将軍・足利権大納言義昭が、熟柿の様に血相を変えて叫び続けて居るのだった。

 

 時に元亀3年(1572年)9月25日深更の事である。

 

「おのれ信長の奴め!予に対して何たる無礼じゃ!此の予に向かって《悪御所》等と吐かすとは悪戯わるふざけにも程が有るわっ!」

 義昭は、己の保護者とも言うべき織田弾正大弼信長の事を、悪し様に罵り続ける。

 2人の関係は既に冷え切っており、内実は御互いが他方を排除為るべく暗躍していたとはいえ、今迄は御互いに利用価値を認めて、表面上君臣としての関係を保って居たのだ。

 

 此の年、元亀3年7月から信長率いる織田家の軍勢は北近江に出陣して、小谷城周辺を舞台に浅井備前守長政・朝倉左衛門督義景の軍勢と睨み合いを行った。

 信長は小谷城前面の虎御前山・八相山・宮部村を結ぶ軍道兼堤防を築造、浅井・朝倉勢を誘い込んだ上で水攻めに追い込み殲滅する、という決戦構想を企図していた。

 だが信長の度重なる挑発にも関わらず、浅井・朝倉勢は城に籠城を続けて決戦には至らなかったのだ。

 更には、援軍として参陣していた徳川三河侍従家康の軍勢1万が、領国の遠江を攻められて撤退してしまう。

 結果、信長は決戦を諦めて9月16日に撤退を開始、居城である美濃の岐阜城へと引き揚げた。虎御前山砦周辺は木下藤吉郎秀吉が守りを固める事に成った。

 そんな信長が、岐阜城に戻った直後、浅井・朝倉両家の裏で糸を引いている義昭に対して、失政を諌める17ヶ条にも及ぶ条書形式の意見状を送り付けて来たのだ。

 

 抑々(そもそも)、《条書》という箇条書きの書式自体が、家臣や領民等の目下の者達に対して法令や命令を指示・徹底する為の代物である。

 しかも其の中身は、義昭の神経を逆撫で為る様な内容ばかりが書き綴ってあったのだ。

 

 天下を統べる将軍として為すべき事を行って居ない。

 暗殺された兄・義輝同様に、朝廷を軽んじて崇敬の念が薄い。

 諸国の大名に御内書を発給して馬等を所望しているが、信長の副状無しで御内書を遣わす事は約定に反している。

 奉公衆を公平に扱わず、祿ろくな働きが無い者が過分な知行が与えられている。

 信長に親しい者達に対して、奉公衆から女房衆に至る迄が辛く当られている。

 京で流通する米を買い占めて値を釣り上げ、不当に利益を貪っている。

 義昭に対して、此等16ヶ条の丁寧な文面ながらも《諌言》とは名ばかりの批判を書き連ねている。

 更に最後の条では『諸々の事柄で欲に耽り、道理や外聞をわきまえぬ故に、貧しい土民・百姓に至る迄がかつて悪政を敷いて暗殺された6代将軍・足利義教になぞらえて《悪御所》と悪口を言って居る』と、義昭の所業を痛烈に皮肉っていたのだ。

 

「上様、御待ち下さいませ!織田弾正様は上様の御風評を気に為され、今少しの御自重を求めておるので御座いまする!どうか今一度の克己こっきを為さいませ!」

 興奮する義昭を宥めようと、奉公衆の細川兵部大輔藤孝が話し掛けて来る。

 藤孝は現在、幕府の奉公衆で有りながらも信長に対して接近を謀っており、明智十兵衛光秀と共に足利・織田両家の下知を仰ぐ《両属》の家臣と言って良かった。

 そんな藤孝の信長擁護とも取れる発言は、義昭の怒りの炎に油を注ぐ結果に為ってしまった。

 

「黙れ藤孝っ!信長が将軍である予をないがしろに致して居るのだぞ!貴奴から此の様な慇懃だが無礼窮り無い意見状を突き付けられて、予が黙って見過ごすと思ったか!」

「どうか御再考を!今、弾正様と争っては敵に利するのみで御座いまするぞ!」

「輿一郎(藤孝の仮名)、少し静まるのだ。上様の御無念が判らぬ訳では有るまい。織田弾正の専横なる振舞は、此度に始まった事では無いのだからな」

「あ、兄上…」

 実兄である三淵大和守藤英から指摘を受けた藤孝は、下を向いて平伏しながら押し黙った。

 藤孝の心中には大きな蟠りが出来始めていたが、義昭は家臣の心境の変化に気付かぬ侭己の考えを述べ続けていく。

 

「此の機会に増長致して居る信長の奴に、征夷大将軍である予こそが《天下の主人》だという事を、骨の髄まで判らせて進ぜようぞ!藤英、控えの間に居る無人斎を、直ぐに予の居室に呼んで参るのだ!」

「御意で御座いまする」

 義昭は己の考えを述べ終わると、脳裏に浮かぶ信長の幻影から逃げる様に、足早に謁見の間から退出する。

 奉公衆達も次々と席を立つ中、藤孝は未だに平伏した侭で在った。

(上様は無人斎の笛で踊らされてるのみで、己の力量を全く判って居られぬ。此の侭《沈みゆく船》に乗り続けては我が身の破滅だ…。こう為れば、上様の動きを弾正様に御報せ致して、繋ぎを取らなければ…)

 数多くの公家と親交を持つ事で処世術を身に着けた藤孝から見て、義昭率いる幕府政権は《沈没間際の船》同然であった。

 此の瞬間、藤孝は両属という立場は同じながらも、心中で仕える対象を義昭から信長へと乗り換えたのだ。

 

「上様。此れで織田弾正殿の心底が、如何なる了見か御判りに為られた筈…。此の侭手をこまぬいて居っては《流れ公方》の憂目を見る羽目に陥りましょうぞ…」

 義昭の居室に呼ばれた法体の老人…相伴衆の無人斎道有は、開口一番にそう語り掛けて来た。

 既に人払いが為されている所為せいか、義昭も幾分か落ち着いて応対していた。

「うむ、予が在京致してこそ幕府が成り立つのだ。信長が予を蔑ろに致すなら、予は各地の大名を率いて信長を討伐致して呉れようぞ!」

「上様、御油断召されますな…。織田弾正の強みは2つ御座いまする。1つは大金に物を言わせて大軍勢を揃え、堺を押えて大量の鉄砲を持って居る事。今1つは身軽さで御座いまする…」

「身軽さとな?其れは如何なる意味じゃ?」

 義昭は敢えて小声で語る道有の語り口に興味をそそられ、聞き返して話の先を促した。

「はい…。軍勢を素早く集めて、敵方の弱き処を叩く術に長けておるので御座いまする。そして、己の身に危険が迫れば直ちに逃げを打ち、次に戦う時には更なる数を揃えて敵を討ち滅ぼすので御座いまする…」

 義昭は道有の話を聞いている内に、権威は有るが小軍勢の己自身が《信長包囲網》の弱点と成り得る事に気付き、急に悪寒に襲われた様に背筋を震わせる。

「な…、為らば如何致せば良いのだっ?手を拱くなと申したのは道有自身だぞっ!」

「御案じ召されますな…。各々の大名が自らが為すべき事を行い、織田弾正の動きを封じ込めるので御座いまする…。織田勢を縛り付け、望む処に大軍勢を集めさせなければ、必ずや勝機が見えて参りまする…。上様は其れ迄、決して慌てて挙兵等を致さず、面従腹背に徹しておれば、彼方から攻め寄せて参る大義名分は御座いますまい…」

「そ、そうかっ!成程良く判った!為らば織田と戦っておる諸大名に、必ずや織田を立ち枯れさせるべく、明日にも御内書を発給致そう!無人斎にも遣いをして貰うぞっ!」

「はっ、承知致しまする…」

 当面の目処が立って安堵の表情を浮かべる義昭に向かって平伏しながらも、道有…甲斐を追放された元国主・武田陸奥守信虎は考えを巡らせていた。

(さて、此処迄は順調に推移致して居る。だが、織田との大戦で諸侯や朝廷を認めさせねば、晴信と勝頼が求めておった《武田の天下取り》は泡沫の夢と消えてしまう…。さて、晴信と勝頼が率いる《武田の軍勢》は織田との大戦に間に合うかのぅ…)

 道有…信虎は、昨年駿河駿府城に於いて息子の晴信(法性院信玄)と孫の勝頼に面会し、彼等の目指す《天下取り》に密かに協力を約束していた。

 信虎は義昭に危害が及ばぬ様に、そして武田家と織田信長の決戦が少しでも武田有利に働く様に、此処3年に渡って織田家の力を削ぐ事に腐心していたのだ。

 とは言え、其の労苦が報われるか否かは、当の道有…信虎本人にも判然としなかったのである。

 

 此の9月25日の時点で、甲斐武田家は織田家とは交戦に至っていない。

 但し昨年来、信長の盟友…と言うより傘下の大名である三河・遠江の徳川三河侍従家康との戦いを繰り広げていた。

 7月に家康直率の徳川勢が三河設楽郡の野田城を奪い取ると、8月には武田の重臣・山県三郎右兵衛尉昌景率いる軍勢が遠江佐野郡の要衝・掛川城を攻撃、開城に追い込んでいる。

 更に9月に入ると、山県勢は掛川の南側に位置する城東郡の高天神城に攻め寄せた。

 だが、遠江第一の堅城である高天神城は、城主・小笠原与八郎氏助の頑強な抵抗の元、20日以上に渡って籠城を続けていた。

 

「随分粘り強いですな。高天神の城主は確か小笠原与八郎と申した筈だが…」

「うむ、如何様いかさま其の通りで御座る。とは言え元は今川旧臣、手入れ(調略)が適わば其に越した事は無いのだが…」

 高天神城が在る鶴翁山から、川を挟んで東側に位置する惣勢山に置かれた山県勢の本陣では、共に昌景の女婿である相木市兵衛昌朝と三枝勘解由左衛門尉昌貞が、川向こうの高天神城に視線を投げながら語り合っていた。

 彼等は昌景の相備衆として、義父に従って高天神城攻撃に参加していたのだ。

 

「朝比奈殿、同じ今川旧臣だった貴殿為らば小笠原を説得出来申さぬか?」

 昌朝は側に来ていた駿河庵原城主の朝比奈駿河守信置に質問する。

 信置は駿河の有力な国衆である朝比奈家の傍流の出自で、父親は今川家の宿老の1人である丹波守親徳であった。

 武田家が駿河に侵攻すると逸早く帰順して、庵原郡西部を所領として宛行あてがわれていた。

 現在44歳、騎馬150騎持ちの駿河先方衆であり、昌景の相備衆の1人として参陣していた。

 

「確かに小笠原与八郎を始めとして、多くの今川旧臣は城内に居るが、浜松から後巻(後詰)が来る迄は粘る腹積りなのか、此方からの呼び掛けにも《梨の礫》で御座る。御役に立てず誠に申し訳御座らぬ…」

「朝比奈殿、そう御気を病まれますな。此の城攻めの今一つの目的は、浜松城の徳川勢を此方に引摺り出すが眼目で御座るからな。とは言え、徳川勢が一向に寄せる気配が無いのが気掛りで御座るな…」

 昌貞は信置にそう語りながらも、未だに高天神に援軍を送ろうとしない徳川家康の真意を計りかねていた。

 

 暫く経つと、山県勢と其の相備衆を率いる侍大将達が、惣勢山の本陣に集まって来る。

 彼等が囲む楯板の上座側には、此の軍勢を率いる武田家両職(筆頭家老)の1人、山県三郎右兵衛尉昌景が座している。

 全員が揃ったのを見計らって、昌景はおもむろに話を切り出した。

 

「皆の者、知っての通り掛川を落とした後、此の高天神城を餌に徳川の軍勢を釣り出そうと致したが、徳川三州(家康)は浜松から一向に出て参らぬ。恐らくは此の侭浜松に籠城致す腹積りだろう…」

「父上、為らば此の高天神を如何致される御積りで御座いまするか?」

 嫡男の甚太郎昌次からの質問を聞いて、昌景は全員を見渡しながら答えていく。

「うむ。今の時点で遠江に居る軍勢は、高天神を囲む我が山県勢を中心とした8千、掛川城等を固める板垣(左京亮信安)殿の軍勢2千。後は遠江の各地に散らばる国衆のみだ。此の人数で無理攻め致しても、当方も甚大な損害を被るは必定だ。其処で、来月には後詰の軍勢が遠江に入る段取りに為っておる!」

「成程。しかして後詰の軍勢は何れ程の人数が参られるので御座いますか?」

 高天神城からも近い榛原郡の小山城から駆け付けた、大熊備前守長秀が質問して来た。

 

 長秀は越後守護・上杉家の重臣の家系で、父は越後箕冠城主だった備前守政秀。長秀も新左衛門尉朝秀の名乗で、主に段銭方(財政担当)を務めて重きを成していた。

 越後の国主が長尾平三景虎(後の上杉謙信)に代った後も、同じく段銭方を務めていたが、所領等を巡る長尾家譜代の家臣達との対立から、突如として叛旗を翻した。

 其の後、武田家に亡命して飯富三郎右兵衛尉昌景(後の山県昌景)の寄子として各地を転戦、剣豪として名高い大胡伊勢守(後の《剣聖》上泉武蔵守信綱)と一騎討を繰り広げる等の活躍を見せた。

 其の功に因って、騎馬30騎・足軽75人持ちの足軽大将衆に抜擢され、昨年より小山城に入って高天神に睨みを効かせていた。

 因に後妻の小宰相の局は、小幡又兵衛尉昌盛の叔母(山城守虎盛の末妹)にあたる。

 

「備前(長秀)殿、懸念には及ばぬ。此度の出陣は大膳大夫(勝頼)様が新たな御屋形様に就かれて初の御出馬と為る。其れ故に、必勝を期して約2万の軍勢を以て、後詰の軍勢を起こされる御所存だ」

『おおっ…』

 昌景の口から新当主・武田大膳大夫勝頼自ら率いる軍勢の来援を聞いて、諸将は感嘆の声を発する。

「此度の討入で目指すは、不埒な所業を繰り返す徳川三州(家康)の討伐である!高天神城を出来得る限り無傷な侭で開城に追い込む為にも、敵の後詰の軍勢を叩いて城兵の戦意を挫くが肝要だ!我等は引き続き高天神城を囲む一方、敵の軍勢が未だに抵抗を続ける周囲の端城を、他の軍勢と示し合わせた上で片端に殲滅に追い込む!」

『はっ!』

 昌景は諸将全員の気合が籠った応答に満足げに頷くと、直ちに次なる指示を下していく。

 

「勘解由(三枝昌貞)、市兵衛(相木昌朝)、掃部(小笠原信嶺)殿、駿河(朝比奈信置)殿、備前(大熊長秀)殿は、引き続き大手と搦手に別れて城兵の動きを封じ込めよ!甚太郎(昌次)は大手の脇に在る池(水の手曲輪)の堤を突き崩して城の水の手を断て!又右(志村光家)、又左(名取道忠)、郷左(広瀬景房)、伝右(三科形幸)は甚太郎を手助け致すのだ!余の者は儂と共に出陣致す!大膳大夫様が遠江に参られる迄の間に、徳川方の端城を虱潰しに落として露払いと致そう!では皆の者、参ろうかっ!」

『応っ!』

 昌景の号令一下、山県勢を支える侍大将達が一斉に立ち上がると、夫々(それぞれ)割り振られた持場へと戻っていく。

 彼等は友軍の進出を待ちながら、再び高天神城に攻勢を掛けていくのだった。

 

 月が変わって10月朔日払暁。二十四節気では立冬に当たる。

 暦の上では既に冬を迎え、雲影一つ無い碧空と紅葉鮮やかな大地を分かつ峻嶺は、純白の雪冠を戴いている。

 初冬の早朝らしい澄み切った空気に包まれた甲斐国の中でも、国主の居館たる躑躅ヶ崎館には、数千の興奮した兵馬の群が発する熱気が溢れていた。

 甲斐源氏・武田家第20代当主を襲った武田大膳大夫勝頼が、《徳川征伐》と称して遂に三河・遠江へと出陣する為である。

 そんな躑躅ヶ崎館が出陣前の喧騒に覆われた最中、看経所横の中庭に今年新たに築かれた3畳の《茶室》の中、2人の武将が茶を嗜んでいた。

 

「父上。予定通りに本日黎明を以て、遠江へ出陣致しまする」

 そう告げた庵主の勝頼の正面には、此の4月に家督を譲った武田権中納言晴信…法性院信玄が座している。

 信玄は此の3年余りに渡る静養生活に因って、血色も随分と改善しており、往年に遜色無い順調な回復ぶりが窺えた。

 勝頼が立てた茶を味わいながら、信玄が話し掛けて来る。出陣直前に2人だけで最後の打ち合わせを行って居るのだ。

 

「うむ、儂も明後日には躑躅ヶ崎を発って駿府城に入城致す。此度の出陣は陣立ては如何相成って居るのだ?」

「はっ、東遠江には既に高天神周辺には山県勢と東遠江の国衆の8千、掛川周辺には板垣左京(左京亮信安)の軍勢2千が攻め入って御座いまする。因って、他の軍勢は《三州路》と《秋葉道》を通る事に相成りまする」

「では先ずは、東三河と北遠江を襲う訳だな。東美濃は如何致す所存だ?信長の後詰を封じ込める為に東美濃は襲わぬのか?」

 茶碗を置きながらの信玄からの質問に、既に考えを纏めている勝頼は、澱み無く丁寧に答えていく。

 

「美濃に対しては栗原左兵衛(左兵衛尉詮冬)の軍勢を中核とした飛騨衆2千が注意を引き付けまする。更には江北の浅井・朝倉勢や石山や伊勢長島の一向一揆勢を焚き付けて織田弾正(信長)の手足を縛る所存で御座る。但し織田家から戦を仕掛けて参った際、若しくは此方から攻め寄せるに相応しい状況が出来た際に、改めて東美濃にも兵を送る所存で御座る」

「…甘いな。儂為らば此度の討入に期を一にして、東美濃も切り取ってしまう処だがな。まぁ、不意打ちで盟を破っては天下を目指す際に聞こえが悪い、というお主の考えを呑んでおこう。父である儂をおもんばかっての事だからな」

「御考慮痛み入りまする。…東三河には虎繁(秋山伯耆守虎繁)率いる伊奈衆2千に、7月迄野田城に詰めていた昌盛(小幡又兵衛尉昌盛)を助勢に加えた軍勢を当てまする。既に一昨日の29日に飯田城を出陣致し、本日の昼には奥三河に於いて、足助城に詰める下条豆州(伊豆守信氏)や設楽郡の《山家三方衆》等と合流致す手筈で御座いまする」

「うむ、其れだけ揃えれば5千程の人数に成ろう。三河の徳川勢を釘付ける事も容易いな…」

「某は主力の軍勢を率いて、《秋葉道》を通って先ずは北遠江の犬居城に入りまする。更に、北条の助勢2千が伊豆から、郡内の小山田勢3千と共に《東海道》を上って遠江へと入りまする。然る後に犬居城の本備えを二手に分けまする。一手は二俣城の敵勢を防いで城攻めを支度を、もう一手は小山田勢・山県勢と共に天龍川東岸の徳川方の端城を片端から落として、高天神・二俣の気勢を削ぎまする」

「…うむ、其処迄は問題有るまい。後は如何にして家康を誘き出す所存なのだ?」

 まるで師匠と問答をしているかの様な勝頼だったが、信玄から痛い処を突かれた為に思わず渋い面持ちを見せた。

「はぁ…実は其の件で、父上の御智慧を拝借致したいので御座いまする。徳川三州(家康)が二俣や高天神の後詰に参った際に、此れを捉え得る為らば良いのですが、若しも両城を見捨てて浜松に籠って仕舞うと、某には三州を誘き出す妙案が、とんと思い付きませぬ…」

「…善かろう。浜松城と家康の件は儂も考えておく。策が纏まった刻には申次の源五郎(長坂筑後守昌国)か九郎(跡部右衛門尉昌忠)を遣わすと致そう」

「申し訳御座いませぬ。御迷惑を御掛け致しまする…」

 勝頼は、家康を破る策を思案して呉れる、という信玄に礼を述べると、他の軍勢の配置の説明を続けていく。

 

「父上の入られる駿府城には、昌国と昌忠の手勢の他に、初陣前の2人…今年漸く元服致した十郎(葛山十郎信貞・信玄6男)と昨年遺領を継がせた新十郎(松尾新十郎・後の信俊)の軍勢を置きまする。更に、上州(上野介信友・信玄弟)殿を父上の護衛として駿府に入れまする。全て合わせると3千程の軍勢と成りましょう。更には駿河先方衆の内、朝比奈駿州(信置)・岡部次郎右(正綱)・岡部五郎兵衛(元信)の3名以外は全て駿河に留め置き、北条への抑えと致しまする。兵力は駿河と伊豆の飛地を合わせて6千程で御座る。勿論、必要為らば父上の軍勢に組み入れて頂いて構いませぬ」

「…成程。では海賊衆も駿河に留め置くのか?」

「はい。安宅船(大型戦闘艦)は船大工に預けて解体して居りましたが、先頃新たな安宅船が漸く1隻出来上がり申した。他に関船(中型戦闘艦)と小早(小型戦闘艦)が合わせて52隻、此の全てを江尻の清水湊に集結させまする。北条の海賊への抑えは勿論の事、三河や其の先に進んだ際には、小荷駄や八木(米)の輸送にも使いまする」

「…うむ、於梅(黄梅院・氏政の正室で信玄の長女)を返して再び盟を結んだとはいえ、油断は禁物だからな。儂の3千に加えて、此れだけの兵力を残しておけば問題有るまい。他の方面への手当ては如何相成っておるのだ?」

「はっ。駿河以外にも、甲斐・信濃・西上野等の領国に留守居の軍勢を残しまする。足軽は百姓の働き手を少しでも残す為に、家を継ぐ者を留守居に優先して回して居りまする。甲斐・信濃・西上野の3国全ての留守居を合わせると、総勢1万程には成りましょう…」

「他国への働き掛けは如何じゃ?顕如(本願寺光佐)殿や浅井備前(長政)、朝倉左衛門(義景)、松永霜台(久秀)等の《信長包囲網》に荷担致しておる家のみか?」

「いえ、加越の一向一揆には長延寺(実了師慶)を遣わした他、会津黒川の蘆名修理(盛氏)・大膳(盛興)親子、常陸太田の佐竹常州(義重)、上総久留里の里見岱宗(東陽院岱宗・里見刑部少輔義堯)にも誼を通じて、上杉や北条の動きを封じ込める所存で御座る…」

 

 信玄は出来得る限りの内容を、勝頼に確認為るべく細かな質問を続けた。

 其れ程迄に、信玄は今回の徳川攻め…そして其の後に控えるであろう《信長との対決》を重要視しているのだ。

 

「最後に、此度の戦に持ち込む鉄砲の数は如何だ?玉薬も十二分に足りて居るのか?」

「はっ!現在も引き続き、東高遠の鉄砲鍛冶村に於いて、生産を続けて居りまする。此度の《徳川征伐》には、夫々(それぞれ)の備えに持たせた6匁筒が合わせて6百梃余り、甘利郷左(郷左衛門尉信康)が差配致す10匁筒が4百梃、都合1千梃を投入致す所存で御座る」

「其れが全てでは有るまい。境目の城等には何れ位を手当致して居るか?」

「流石に他は6匁筒のみで御座いまするが、境目の城に5百梃弱、海賊衆が2百梃余り持って御座いまする」

 

「…うむ、都合6匁筒が1千3百、10匁筒が4百か。未だ目標の2千梃には及ばぬが、徳川相手為らば問題有るまい。後は織田方の鉄砲を江北や摂津に何れ程縛り付け得るか、だな。…勝頼、善くぞ此処迄揃えて呉れた!此れ為らば、武田家の差配は、此の侭勝頼に任せて大丈夫だな!儂は安心して信長との《天下の争奪》に向けて、力を尽くすと致そうぞ!」

 信玄から漸く及第点を貰えた勝頼は、采配を認められた事に安堵したのか、フゥと深い吐息を漏らす。

「…実の処、安心致しました。父上からそう仰有って頂ければ、某も大いに自信が持てまする。…では父上、此れより行って参りまする!」

「うむっ!武田の武名を轟かせて来るが善い!駿府から武運長久を祈って居るぞ!」

「はっ!心得ました!」

 出陣前の最後の打合せを終えた2人は、期せずして茶室の窓越しに借景とした霊峰富士を仰ぎ見る。

 下界よりも逸早く旭日を浴びて白銀に輝く富嶽の姿に、親子2人は《武田の天下取り》への闘志を新たにするのだった。

 

 武田大膳大夫勝頼が直率する本備え5千は、予定通り10月朔日に躑躅ヶ崎館を出陣すると、専用軍道である《棒道》を諏訪へ、更に《杖突街道》を通って高遠の地に到着した。

 諏訪や高遠には、信濃・西上野の各地から参集した軍勢が続々と集結を果たしていた。

 既に綿密な打合せが幾度も行われており、武田の領国各地に設けられた集合場所に於いて、宿老や重臣達を大将とした幾つかの備えを形成した上で、進軍しながら合流する事になっていたのだ。

 但し、諏訪では《御親類衆》の穴山左衛門大夫信君の軍勢が、高遠でも《御親類衆》の木曾左馬頭義昌の到着が遅れた為に、本備えの滞在を予定より1日づつ延長している。

 だが其れ以外の遅滞は無く、高遠から《秋葉道》を南下するに従って、次々と軍勢が合流していき、10月10日には総勢2万に及ぶ軍勢が、信遠国境の《青崩峠》と東側の迂回路《兵越峠》を突破した。

 そして其の日の夕刻には、天野宮内右衛門尉藤秀の居城である犬居城に入城し、12日には北遠江の国衆も参集を終えたのだった。

 

「昌秀、大物見(威力偵察)は既に戻った筈だな?現況を説明してくれ」

 12日の夕刻、犬居城の広間にて軍議が開かれると、開口一番に勝頼が内藤修理亮昌秀に質問する。

 勿論、軍勢の配置は勝頼の脳裏には入っているが、敢えて《甲軍の副将》と称される昌秀に説明させて、諸将に現況を把握させる積りなのだ。

「はっ。別行動を取っている秋山勢、山県勢、小山田勢、其れに北条家よりの助勢は、概ね予定通りに遠江に入って居りまする。先ずは秋山勢で御座るが…」

 

 本備えが甲斐を出陣した10月朔日、秋山伯耆守虎繁が率いる《伊奈衆》を主力とした2千強の軍勢が、昨年来武田家に靡いている奥三河の設楽郡に侵入した。

 要衝の長篠城に於いて《山家三方衆》を始めとした奥三河の国衆を麾下に組み入れて、5千の軍勢に再編すると、徳川方の鈴木平兵衛重好が守る八名郡の柿本城を攻め落としている。

 其の後は八名郡一帯を平定して、国境を挟んで東隣の遠江国引佐郡に進軍していた。

 

 東遠江では、甲斐郡内(都留郡)を治める小山田左兵衛尉信茂が率いる軍勢3千、そして北条家から遣わされた助勢(援軍)3千が東海道を西進していた。

 此の内、北条勢は本来為らば武田家からは2千の兵力派遣を要請しており、対価として多額の甲州金と兵糧を渡していた。

 だが、駿河蒲原城代だった北条新三郎氏信、弟の箱根少将長順、そして駿河興国寺城主だった垪和伊予守氏続の3名が、軍勢に志願して加わったのだ。

 其の為、3千に増強された軍勢を率いる大将には、当主・北条相模守氏政の実弟である助五郎氏規が就く事に変更されていた。

 小山田勢と北条勢は10月7日に駿府を出陣、9日には板垣信安が守る掛川城に到着した。

 其処で軍勢を再編すると、昨11日から東海道を西へ向けて進軍を始め、此の時点で徳川方の旗を掲げる山名郡の久野城(座王城)に攻め寄せていた。

 

 更に、山県昌景が主に東遠江の国衆を中心とした約4千の軍勢で東海道の南側を貫く《浜街道》沿いに在る馬伏塚城に攻め寄せて、山県勢の残り4千が包囲する高天神城の孤立化を進めていた。

 

「…一方、徳川方の城は各々が城に籠っており、示し合わせて攻め寄せる気配は御座らぬ。浜松城の徳川勢も此方へ動く気配は御座いませぬ」

「浜松城も勿論で御座るが、後顧の憂いを無くす為にも天龍東岸の二俣城を落とさねばなりますまい。彼の城は遠江の《扇の要》、其処を落とさば高天神を始めとした東遠江の端城も、徳川家を望み薄と断じて城を開くでしょうからな」

 昌秀の説明が終わって、宿老の1人である春日弾正忠虎綱が、二俣城の重要性を指摘すると、多くの諸城が首肯する。

「大膳(勝頼)様、此処は軍勢を2つに分けるが上策で御座るな…」

 勝頼の脇に座していた同じく宿老の馬場美濃守信春がそう言うと、同様に考えていた勝頼は直ちに断を下した。

 

「正に信春が申す通りだ!信春、5千の軍勢を預ける。天野宮内(藤秀)を案内として只来城・高明城を抜いて、二俣城攻めの支度に取り掛かって呉れ!但し、儂や他の軍勢も直ぐに二俣に参る故に、無理に我攻めは致すな!」

「承知致し申した!先触れとして二俣にて御待ち致して居りまする!」

「うむっ、余の者は儂と共に残りの端城を落とす。徳川三州(家康)が天龍川を渡って後詰に到らば、此れを山県勢や小山田勢、北条勢と取り囲んで蒸し攻めに致す!」

『応っ!』

 短く気合が籠った返答を返す諸将を見渡してから、やや下手に座する小柄な武将に声を掛ける。

 奥に少し窪んだ眼光は鋭く、人心の機微全てを見通すが如き若き武将…足軽大将衆の1人で、遠江国衆の調略を担当している武藤喜兵衛昌幸である。

 

「昌幸、中遠江の国衆に対する手入れ(調略)は如何相成って居るのだ?」

「御任せあれ。武田家に身を寄せて居る一宮郷の領主だった武藤刑部丞(氏定)と、久野城から追い出された久野弾正(宗政)の両名を、国衆の説得に既に遣わして居りまする!更に言えば、家康は遠州併合の折に、飯田城の山内対馬守や各和城の各和三郎兵衛等を滅ぼし、先頃の掛川城では宿老の石川日州(家成)を見捨てて居りまする。此等の事柄が国衆の背中を押す事に成りましょう…」

 不敵な迄に自信に満ち溢れた昌幸の発言に、勝頼は力強く頷くと諸将を見渡して出陣を宣言した。

「うむっ!為らば本備え・馬場勢共に、出陣は翌朝払暁と致す!武田の武威を徳川すれに骨の髄迄判らせてやれ!善いなっ!」

『応っ!』

 返事と共に諸将は一斉に立ち上がり、板張りの床を踏み鳴らして次々と広間を後にしていく。

 総大将の勝頼を含めて、全員が翌朝の出撃へ向けて動き始めたのだった。

 

 翌10月13日、遠江各地に展開する武田軍の各軍勢は、遠江中央部に在る徳川方の端城に一斉に襲い掛かった。

 武田勝頼率いる本備え1万5千は、篝火を照らしながら未明に犬居城を出陣すると、《信州街道》を通って黎明前には天方城に到った。

 だが、天方城の城門は既に開かれ、武田方の久野宗政からの説得を受けた城主・天方山城守通興や家臣一同が恭順の意志を示していた。

 天方城に抑えの兵を入れると、天方勢を加えた勝頼勢は旭日を浴びつつ前進を続ける。

 片瀬城(一宮城)と其の支城である真田城では、元領主の武藤氏定が旧臣や助勢の武田軍と共に徳川勢を放逐して、己の所領を奪還して武田軍に参陣した。

 旧領主の滅亡後、徳川勢の城兵が詰めていた飯田城・各和城等は、武田軍の進撃を目の当たりにして逃亡、更に向笠城の向笠伯耆守も開城して、武田方に馳せ参じたのだ。

 だが、久野城の城主・久野三郎左衛門宗能(弾正宗政の甥)は、湿地に囲まれた久野城の地の利を生かして、小山田勢・北条勢の城攻めに頑強に抵抗し続けていた。

 其処で、山県勢も馬伏塚城を開城に追い込むと北上を開始、更には本備えも近くの袋井・西島・木原に夫々の陣を構えて久野城の包囲に加わった。

 冬の太陽が西の稜線に掛かり始める頃、総勢2万5千に到達した武田の軍勢が、久野城の周囲で鯨波を上げ続け、城内の宗能達の心胆を寒からしめたのだった。

 

 一方の馬場信春の軍勢も只来・高明の両城に攻め寄せて、日没前には両城を占領していた。

 武田軍は正に1日で、遠江の中央部を縦断して徳川家の遠江支配網を引き裂いたのだ。


 此の時点で、天龍川東岸で未だに徳川の《三葉葵》の旗を掲げる城は、河畔の二俣城・社山城・匂坂城と武田軍が包囲する久野城・高天神城を残すのみと成っていた。

 

 こうして、8月から始められた徳川領である遠江・奥三河への攻撃…所謂《徳川征伐》は、農閑期にあたる初冬に入った事により、本格的な攻勢へと移っていった。

 此の時期の遠江と奥三河には合計4万1千余りの武田方の将士が集結していた。

(北条家からの援軍3千を含む)

 更には、駿河・西伊豆に約9千、甲斐・信濃・西上野に約1万、飛騨に約2千の兵力が配置されており、動員兵力は武田家だけで動員限界の5万9千を数える迄に至っている。

 

 参考として後世に編纂された《甲陽軍鑑》に因ると、此等の内で武田家の軍制《寄親寄子制》に基づいた勝頼の当主就任前の動員兵力は、騎馬が全軍合計で9121騎・《御旗本足軽》884人・諸将の麾下である《惣家中足軽》5489人とされていた。

 騎馬には1騎に付き足軽等の雑兵、及び中間・小者と呼ばれる従者が最大4人付き従う事が決められている。

 因って、雑兵・従者を2人動員する《雑兵3人連れ》の際は合計3万3千余人、最大の4人動員を行う《雑兵5人連れ》では5万2千余人…となる。

 他には、新たに併合した領国である飛騨や伊豆那賀郡の土肥に於いて、《寄親寄子制》に基づいて動員が為されており、最大動員兵力は約2千人増加している。

 

 更に勝頼の陣代就任後から、所領では無く《堪忍分》と呼ばれる甲州金を宛行う形で、武田宗家直属の徒士武者や足軽を雇用していた。

 今川旧臣や関東の浪人達を雇い入れた此の制度は、武田家に於ける《常備兵制度》の雛型と成っていた。

 此の《徳川征伐》の時点で、5千余人の徒士武者及び各種の足軽が雇用され、《御旗本足軽》や筒衆(鉄砲隊)等と同様に、武田家当主である勝頼直属の兵団として組み込まれていた。

 勿論、此の動員限界一杯の大軍勢を徴集する為に、足軽として召集に応じた者には諸役の大部分、若しくは其の全てが免除されている。

 更には全ての者に対して、敵領内での略奪・狼藉を禁じ、違犯した者には厳罰で臨む旨を布告した代わりに、前以て甲州金を宛行う形で彼等の噴出する不満を和らげていた。

 

 此等の大軍勢の規律を保つ為に甲州金を宛行うには、潤沢な軍資金が必要不可欠である。

 だが、勝頼の祖父で先々代当主にあたる信虎(後の無人斎道有)の時代から、戦争を繰り返した武田家の財政状況は逼迫していた。

 先代の晴信(信玄)の時代には、多くの金山開発や利水に因って収入は倍増していたが、其れ以上に周囲の諸国への外征に因る戦費が嵩んでいたのだ。

 勝頼の陣代就任の頃には、増加の一途を辿る戦費や動員兵力を増やす為の諸役の免除、そして金山の枯渇等に因って、財政状態は正に《火の車》だったのだ。

 

 其の立て直しの為に、勝頼は新役職《金山奉行》を設置し、土屋藤十郎長安に金の増産の施策を委ねた。

 長安は、当時主流だった《灰吹法》に代わって、南蛮人から最新式の《水銀流し》(金アマルガム精錬法)を聞き出すと、高野山金剛峯寺・丹生都比売神社・雑賀十ヶ郷等と連携して水銀を調達、実用化に成功した。

 此れに因って、金山奉行支配下の金山での産出量は倍以上に増加、累代の借金を完済した上に、多額の軍資金の余剰を生み出すに到ったのだ。

 更には、堺の豪商・薩摩屋の山上宗二の協力・助言を得る形で、《楽市令》等の他国の有用な経済政策を採用した他、流通を促進する意味を兼ねて、主要な街道の整備にも努めた。

 此等に加えて、信玄以来の長年充実に努めてきた内政と、今川家の元で発展してきた駿河の併呑に拠る武田家領内での商工業の発達とも相俟って、戦乱が続く他国からの人口の流入が発生した。

 経済の活性化に因って、百姓の生活も安定して逃散数も減少の傾向を見せ始め、生産力も安定して更なる基盤となった。

 一連の政策を通じて安定的財政基盤が出来つつある事が、此の《徳川征伐》の大軍勢に繋がったのだ。

 

 とはいえ、専従武士は全軍勢の3分の1強にあたる2万余名に過ぎず、遠江に展開する軍勢の半分以上は百姓である。

 遅くとも、翌年5月迄には彼等を村に帰してやらねば、武田家の来秋の年貢に因る収入が激減するのだ。

 武田家としては、其れ迄に如何にして手早く徳川家を屈伏させて、尾張から畿内で強大な勢力を誇る織田家に対して有利な状況を作り出すか、が、大きな課題と言えた。

 勿論、織田信長も徳川家康も十二分に承知しており、武田軍の活動限界を睨んでの戦いを繰り広げていく事に成るのだ。

 

 武田家と徳川家の間で巻き起こった戦乱の炎は、周囲の大名達を巻き込んで益々過熱していく。

 其の行方を将軍や大名を始めとして、多くの者達が固唾を呑んで見守っているのだ。


今回の話で、やっと勝頼の軍勢を遠江へと出陣させる事が出来ました。此処まで勝頼が武田家を率いていくのに不足を補う為に、そして信玄が天下を狙う為に色々と動かして来ました。とはいえ、まだまだ信長には敵いません。先ずは勝頼と家康の対決が推移していく事になります。次回は《一言坂の戦い》になります。相変わらずの乱文ですが、次回も読んで頂ければ幸いです。

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