拾捌:徳川征伐(壱)~再びの烽火~
今回の話から、武田家は再び徳川家康と対決して行きます。(但し今回は信玄・勝頼親子は全く出て来ませんが)先ず緒戦は史実には無かった掛川城攻めからです。相変わらずの長文ですが、宜しく御願い致します。
収穫を間近に控えて、稲が頭を垂らし黄金色に色付き始めた水田の間を縫う様に、膨大な人数の軍勢が、《本坂道》を北西へ向かって歩を進めて行く。
足軽達は胴丸を始めとした《御貸具足》と言われる揃いの鎧を纏い、背中には色取々の旗指物を括り付けている。
穂先を輝かせた長柄鑓や黒光りする鉄砲を、天に向かって掲げていた。
武将達は《当世具足》を纏い、兜や大身槍を持たせた小者を引き連れて、誇らしげに騎馬に揺られている。
其の軍勢のやや後方に大きな金色の扇が掲げられ、向かって左手に広がる国名の由来となった湖からの、水面の照返しに因って煌めいていた。
古来、遠淡海と呼ばれた東海道屈指の湖…浜名湖である。
《金扇》は、三河・遠江に勢力を持つ大名…遠江浜松城主・徳川三河侍従家康の馬印であり、家康自らが出陣している事の証明でもあったのだ。
家康直率の徳川勢1万余りが先ず目指すのは、隣国の武田家から昨年来占領されている、三河設楽郡の野田城の奪還であった。
時に元亀3年(1572年)7月19日の事である。
野田城と直ぐ東側に在る大野田城は、東三河の国衆で徳川家臣の菅沼新八郎定盈の居城であった。
だが、昨元亀2年(1571年)4月に行われた武田軍の攻勢…所謂《三遠討入》の際に放棄されて武田軍が接収、守将として足軽大将衆の小幡又兵衛尉昌盛が野田城に入城していた。
対する徳川勢は、先ずは武田軍撤退後東側の大野田城を奪還、菅沼定盈を再び城主に据えると、其処を付城にして野田城を窺い続ける。
対する小幡昌盛は、野田城に多数の鉄砲や玉薬・兵糧、更には調略に用いる甲州金を持ち込み、籠城を続けていた。
御互いの動員兵力が比較的少なかった事、更には昌盛の籠城戦の巧みさも相俟って、野田城の籠城は年を跨いで1年以上にも及んだのだ。
此の状況に業を煮やした家康は、遂に自ら出陣しての野田城攻めを決断した。
折しも、盟友・織田弾正大弼信長が、北近江の大名・浅井備前守長政の討伐の為に出陣の支度を進めており、徳川家にも参陣の要請が舞い込んでいた。
家康は、領国の中でも敵対する武田家の勢力と対峙している《境目の城》を除いて、ほぼ最大限の召集を掛けて1万余りの軍勢を掻き集めた。
そして信長の岐阜出陣と丁度同日にあたる19日、本城の遠江浜松城から出陣すると、一路野田城を目指したのだ。
対する武田軍は、奥三河に於いての武田家の拠点として築城中の古宮城から、武田家の重鎮…譜代家老衆の馬場美濃守信春が、僅か百人程の小勢を率いて野田城に入城した。
信春は、古宮城の縄張りの他、奥三河各地に点在する武田方の城の改修を監督していたのだ。
「美濃(信春)殿、此度の御助勢、誠に忝し!正に百人力で御座る!某が討死致した時は、城兵共の事を宜しく御願い仕る!」
「何を戯けた事を申すか!儂は三河に赴く際に勝頼様から重々仰せ付かったのだ!又兵衛(昌盛)や城に籠る者達が此の様な端城で討死致しては、死んだ山城(小幡虎盛)殿にも申し訳無い、呉々(くれぐれ)も又兵衛達が血気に逸らぬ様に導いて参れ、とな!」
「何とっ!勝頼様が…」
勝頼からの言葉に感動している昌盛に対して、信春は次に打つべき一手を説明し始める。
「まぁ元々此の城に籠るは、設楽郡に構えを整える迄の時間稼ぎ、何十倍の敵を相手に犬死致しては元も子も無いのでな!此処は一当て致した後は早々に逃げを打つと致そう!此の儂に一計が有るのじゃ!」
そう言いながらニヤリと北叟笑む信春の顔は、まるで悪戯をする前の童の様であった。
信春は昌盛と十二分に打ち合わせると、先ずは周囲の村々に残った兵糧や甲州金を分け与えて、余計な小荷駄を無くした上で、其の日の深更の夜陰に紛れて、大野田城に奇襲を仕掛けたのだ。
武田軍の予期せぬ奇襲を受けた大野田城の菅沼定盈は、此の時点では召集中だった1万余りの後詰を待ってから挟撃に為るべく、浜松城へ遣いを派遣すると共に籠城の構えを取った。
だが、大野田城が城門を鎖したのを見て取った信春と昌盛は、再び野田城に戻ると此方側も城を固く鎖し、一切の出撃をしなくなったのである。
7月20日。
1万以上の軍勢を率いる徳川家康が大野田城に入城すると、軍勢が野田城を遠巻きに取り囲んだ。
そして、城攻めに備えて仕寄(攻城設備)を組み上げて、鉄輪を締め上げる様にじわじわと包囲網を狭めていく。
だが、野田城からは喚声は聞こえても、鉄砲玉や弓矢等は唯の1つも飛んで来なかったのだ。
翌21日早朝。
武田方からの夜討を警戒した家康の命により、不寝番を置いて野田城を見張り続けた徳川勢は、東側の稜線から朝日が差し込んだのを合図に、野田城へ向かって一気呵成に攻め掛かった。
「者共ぉっ、懸かれぇぃ!」
『ぅわあぁぁっ!』
徳川家の侍大将達が命令を下すと、鉄砲足軽達が援護射撃を行う中、足軽達が恩賞目当てに次々と野田城の堀や塀を乗り越えていく。
だが、城内に足を踏み入れた彼等が見た物は、敵どころか兵糧や玉薬1つ迄も持ち出され、徳川勢を欺く為に篝火を焼べて案山子が並べられた無人の城であった。
「何たる事だっ!城を取り囲んでおきながら、敵にむざむざ逃げられるとは如何なる了見だ!」
(ええぃ、口惜しい!野田城を攻め落とした暁には、城兵を撫斬りに致す心積りであったが、無人では何も出来ぬでは無いかっ!)
大野田城本曲輪に設けられた徳川勢の本陣で、使番からの報告を聞いた徳川家康は、野田城から逃げ果せた武田家の城兵達に心中で毒突いた。
相当な苛立ちからか、頻りに右親指の爪先を噛んで気を紛らわせている。
更に、使番から『周囲の村々に兵糧や金品が配られた』と聞くと、家康は益々苛立ちを募らせていった。
「殿(家康)、御家中の軍勢は織田殿の加勢に向かわねば為りませぬ。此の様な火急の折、敵が勝手にばら蒔いて不正に懐に収めた金品を、百姓共自ら御家(徳川家)に納めさせれば問題有りますまい!」
家康の苛立ちを察した旗本先手役の1人・柴田七九郎康忠が、武田家が配った金品を回収する事を提案すると、此の城の城主である菅沼定盈や、其の上役にあたる東三河衆旗頭の酒井左衛門尉忠次が顔を顰めて康忠を睨み付ける。
勿論、家康も康忠の主張は此れからの統治を考えると乱暴に過ぎる、と思っていた。
だが、家康が其の事を口に出すより早く、康忠が発した一言が家康の《猜疑心》を刺激したのだ。
「殿、野田の百姓共は本の数年前迄は今川に従って居りまする。然れど、徳川家に忠勤を尽くす菅沼殿と異なり、一度は当家に従いながらも武田が迫ると尻尾を振って降った不忠の輩で御座いますぞ!此れは百姓共の心底を見るに又と無い好機では御座いませぬか?」
「うむ、康忠の言や良し!此の野田の地からはまだ今年の年貢を取り立てて居らぬ筈だな!定盈、武田が自儘にばら蒔いた金や兵糧を、近江に向かう前に全て回収致せっ!自ら差し出した者には今年の年貢を全て…いや、半分免ずると布令を発してやるが善かろう。康忠と先手衆は定盈を手伝ってやれ!」
康忠の主張が、己の心の奥底に蠢く欲望や猜疑心を満たすのを感じ取った家康は、微笑を浮かべて定盈に命令を下す。
其れ処か、元々比率を増す腹積りだった今年の年貢を半減させる事に因って、金品を差し出した者達が己に対して感謝しなければ為らない、と本気で考えて居たのだ。
「ぎょ…、御意で…御座いまする…」
定盈は家康に返礼しながらも、此れ以降の統治の困難さを考えて、暗澹たる思いに捕われるのだった。
丁度同じ頃、野田城の北西に位置する本宮山から、馬場信春と小幡昌盛が率いる野田城の殿軍が、眼下の徳川勢を眺めていた。
彼等は、全員が鉄砲・玉薬・鎧兜等を、背負った行李に全て仕舞い込み、甲州金で買い取った百姓の装束や、夜討ちの際に入手した徳川勢の足軽の《御貸具足》に身を包んでいた。
「美濃殿の策が図に当りましたな!昨夜、篝火を焚いた後に徳川の雑兵や物売りの百姓に化けた御陰で、1人も落伍者を出さずに抜け出せ申した!此処に居る以外の者達は、既に長篠や古宮に退きましたしな。…其れにしても、野田の百姓等に配った金や兵糧で御座るが、若し徳川が取り上げてしまっては元も子も無いのでは…」
「いやいや。又兵衛、此の策は徳川が孰れに動こうが別に構わぬのじゃ。若しも我等が配り一度は百姓の懐に納まった物を、徳川が手前勝手に取り上げた為らば、百姓達は如何に思う?」
「あっ!確かに徳川に対して恩義に報いる気が更々失せまするな!」
「そう言う事だ。勿論、何も致さねば百姓は我等が施した事を、多少なりとも恩に着るだろうからな。再び此の地に攻め寄せる際に役立つだろう…。さて、早く此処を離れて先ずは古宮城に向かうとしようぞ。恐らくは直ぐにでも甲斐に戻らねば為らぬ故な!」
得心が入った昌盛が頻りに頷く中、信春は周りの家臣達を急き立てながら、眼下の軍勢を率いる家康を脳裏に浮かべて北叟笑んでいた。
(さて、徳川三州(家康)は上辺は律義を通して居るが、長年の人質暮しが祟って他人に対して疑心が強いと見た。目下の百姓が敵から金目の施しを受けた時、其れを許してやる度量を持合せておるかのぅ…)
此の後、徳川勢の旗本先手衆が中心となって、野田城周辺の百姓から金や兵糧の徴発が行われた。
元々、先手衆に所属する者達は若輩の頃から松平(徳川)家に仕えて来た者が多く、旧今川領の民に対して扱いが冷たい傾向が有った。
しかも彼等は、敵である武田家から施しを受けた百姓達に、監視の目を掻い潜ってまんまと逃げ失せた武田軍の城兵への憎しみを投影させていた。
結果、徳川家による徴発は家康達の予想を超えた苛烈さで行われ、武田家からの金品のみ為らず、身包みも剥がされ翌年の種籾さえ取り上げられた者も続出したのだ。
野田に住んでいた多くの百姓達は逃散して、他の各地の百姓達へ己の身に降り懸かった災難を伝聞していった。
だが、此の徴発で北近江出陣の軍資金や兵糧を全て賄う事が出来た為に、家康や徳川家臣達が事の重大さに気付く迄に、幾許かの時間を必要としたのである。
徳川勢が徴発を終わらせ、野田城から東海道・美濃路を急行して、織田勢の本陣が置かれた北近江坂田郡の横山城に到ったのは、27日の事である。
此の2年前には、横山城の北側を流れる姉川河畔を舞台に、織田・徳川勢と浅井・朝倉勢が大合戦を繰り広げた要衝であった。
徳川勢到着迄の間、20日に横山城に着陣した織田勢は、浅井勢を小谷城から引摺り出す為に、信長の号令一下直ちに攻撃に入っていた。
浅井家の本拠地である小谷城の城下町や越前との国境を焼討ちした他、22日には木下藤吉郎秀吉に命じて琵琶湖畔に聳える山本山城に攻め寄せ、24日には琵琶湖に浮かぶ竹生島に軍船から大筒や鉄砲を打ち込んでいた。
だが、浅井勢は城下町や所領が灰に帰しても、殻に籠った貝の様に1歩も小谷城から出撃して来なかったのだ。
「三河(家康)殿、遠路遥々御足労を御掛けした。戦に強い三河侍の徳川勢の助勢有らば、長政も好き勝手は出来まい。宜しなに頼む」
横山城の本曲輪に設けられた織田勢の本陣で、上座に座する信長が語り掛けると、家康は真直ぐ信長の眼を見据えながら応じる。
家康の中に存在する《同盟者》としての誇りが、信長に対して臣下同然に膝を屈する事を是としなかったのだ。
「弾正(信長)殿の頼みと在らば、此の家康必ずや応えてみせまするぞ!勘九郎(嫡男の信重・後の信忠)殿の初陣も、重ねて御慶び申し上げまする。…如かして、戦況は如何相成っておるのですかな?」
「うむ、長政は城に籠った侭だ。其処で今朝、禿げ鼠を虎御前山に送り込んでおる。次なる一手の為にな…」
そう言いながら立ち上がった信長は、文筥の横から筆を取り出すと、楯板の上に広げられた小谷城から横山城迄書かれた絵図に歩み寄る。
「其の手とは、此れだっ!」
信長は絵図に筆を入れると、虎御前山から始まる1本の曲線を書き入れた。
すると、信長に仕える武将全員の目付きが、スッと鋭い物に変化した。信長が言わんとする事を此れで理解出来なければ、織田家の武将として失格なのだ。
「此れで長政に好き勝手に動けぬ様に、喉首を押さえ付けて呉れるわ!三河殿にも手伝って貰おうか!」
「承知致した!我が徳川の軍勢に御任せあれ!」
(徳川が野田城から北に向けて武田の輩に攻め寄せる時には、織田の軍勢の後詰を頼まなければ為らぬ故、な…)
信長の意図を理解して返答しながらも、家康の心中は既に見返りとして《武田攻め》で如何に織田勢を働かせるか、を考えているのだった。
徳川勢が合流した事で更なる数的優位に立った信長は、小谷城の最も外側に位置する出丸から僅か5町程(約5~600メートル)しか離れていない《虎御前山》を木下秀吉に占領させると、付城と為る要害の普請を開始している。
8月に入ると、今度は浅井家側の後詰として、朝倉左兵衛督義景が自ら率いる軍勢1万5千が、小谷城の在る小谷山の山頂に位置する大嶽城に入城した。
義景は、浅井家側の使者から《織田勢は瓦解寸前》との報せを受けて、慶び勇んで自ら出陣して来た。
だが、織田・徳川の大軍勢を目の当たりにしてすっかり怖気付いた義景は、小谷城に籠る浅井勢の背後に隠れる様に、大嶽城から1歩も出陣して来なかったのだ。
とは言え越前に逃げ帰る事も無く、長期の対陣に備えて大嶽城の改修に着手した他、西側の尾根伝いに新たに福寿丸・山崎丸・月所丸を築き、朝倉勢を入れたのだった。
再び両軍勢が睨み合いに入った時点で、信長は虎御前山砦だけで無く、南側の尾根にあたる八相山(中野山)、更に南東に位置する宮部村にも砦の建設を推し進めている。
更に連絡や兵力の移動を容易にする必要から、悪路が続く虎御前山から八相山を経由して宮部に至る道筋全てを堤防の如く土を盛り上げ、其の上に幅3間半(約6.36メートル)の専用の軍道を普請したのだ。
軍道には、小谷城側にあたる北側に、高さ1丈(約3.03メートル)以上の防御用の土塁を併設されている。
敵が砦や軍道に迫った際には、土塁の前面を流れる田川と宮部の南側を流れる草野川から水を引き込み、虎御前山・八相山の前面に人造湖を造り出せる様になっていた。
此の内、八相山砦と宮部迄の軍道の普請は徳川勢に割り振られており、野田城奪還の際に入手した甲州金が軍資金として早速役立っていた。
此等の普請に因って、小谷から南側との交通の遮断を目論む一方で、予定外の籠城によって士気が著しく低下した朝倉家臣に対しての調略を仕掛けている。
小谷城の前面に建設されつつある付城群、砦を結んで行く手を阻む長大な土塁、そして織田・徳川勢の数の圧力も功を奏した。
其の結果、前波九郎兵衛尉吉継・富田弥六郎長秀といった重臣を始めとした多くの朝倉家臣が、義景に愛想を尽かして織田家に投降するに至ったのだ。
大規模な土木工事に因って、浅井・朝倉勢を封じ込める戦略を採用した信長だが、封じ込めるだけで浅井・朝倉を追い詰めて小谷城を攻め落とせる、とは毛頭考えていなかった。
寧ろ此の策に因って、挑発に乗った浅井・朝倉勢が突出した際に、土塁迄攻め寄させた後に水を引き込み、敵の動きを封じ込めて殲滅させる腹積りであった。
また、万が一他の戦線が危機に陥った際には《人造湖》を水堀と化する事で、必要最低限の人数での防御を可能にする事も考えていたのだ。
此の《攻防一体》の合理的な発想から考えられた信長の策は、予想外に早く役に立つ事に為った。
其の切っ掛けは、北近江から遠く離れた家康の領国…遠江の地から齎されたのだ。
「なっ…、大六っ、何と申したのだ!」
砦や軍道の普請も一段落付いた8月15日。二十四節気では秋分にあたり、日没と共に東の空に《中秋の名月》が浮かぶ頃である。
虎御前山砦に遷された本陣に於いて、徳川家の軍使・小栗大六重国の言上を聞いた瞬間、上座の直ぐ脇に座していた家康は、思わずそう叫んで立ち上がった。
上座に唯1人座する信長は、全く表情を変えぬ侭で使者を睨み据えると、軽く顎を動かして指図する。
すると、信長の脇に控えていた小姓の万見仙千代(重元)が、主の意を察して重国を促した。
「小栗殿。今一度、正確に申すが善い!今、織田・徳川の軍勢は江北の地(北近江)から動く事適わぬ。其の様な刻に、三河侍従(家康)殿を惑わすが如き物言いを致さば、罪は軽くは御座らぬぞ!」
仙千代の言葉を聞いた重国は、口の中の渇きを覚えて生唾を飲み込むと、途中で打切られた己が預かって来た言上を、今度は正確に復唱してみせた。
「然すれば今一度申し上げまする!甲斐武田の軍勢凡そ1万、遠江掛川城へ攻め寄せて参り申した!城主の石川日向(日向守家成)殿は一度金谷の辺り迄出て、夜討を致し申したが今一歩及ばず、残った手勢と共に城に籠城致し申した!掛川城は某が浜松を発つ迄は健在で御座ったが、武田の勢い激しく何時何時城が落ちても可笑しく御座いませぬ!殿(家康)には速やかに軍勢を率いて浜松城迄御帰還下され!」
「馬鹿な…!掛川は東海道屈指の堅城、しかも彦五郎(家成の仮名)が守って居るのだぞ!諏訪の小倅如きが相手で落ちる筈が無かろう!」
「いや、左衛門(忠次)殿。掛川や高天神、二俣等の《境目の城》を除けば、留守居や足弱しか残って居りませぬ故、掛川が抜かれれば浜松迄は直ぐで御座いまする!」
酒井忠次は声を荒げたが、重国が冷静に現状を分析すると他の者は誰も口を開かず、虎御前の本陣内に僅かな静寂の刻が流れる。
すると其の静寂を畏れるかの如く、家康が信長に対して《徳川勢の退陣》を告げる。
「弾正殿、此の侭では我が軍勢が江北に居る間に、帰るべき城や領国を掠め取られかねませぬ!誠に申し訳御座らぬが、此の地を退き陣致したく存ずる!」
「で、在るか…、致し方有るまい。遠江へ戻られるが善い。我が軍勢は江北を離れるにはいかぬ故に兵を送れぬが、三河殿の武運を祈らせて貰う」
「なっ…!」
信長からの素気無い応答を聞いた刹那、家康は表情を消しながらも、内心は遣る方無い怒りで腸が煮え繰り返っていた。
(今更何を申すのか!万が一の際に、織田勢の後詰を送って貰う為に、領国を放って迄助勢をし続けて参ったのだぞ!其れを此の期に及んで後詰を送らぬと申すかっ!)
だが冷静に考えれば、四方から敵の《信長包囲網》に囲まれた織田勢が、曲り形にも未だに盟約を結んでいる武田家と新たに戦端を切る事は、更なる苦境に追い込まれる事が眼に見えていた。
「…承知致した。江北の仕置が済み次第、出来得る限りの後巻をされる事を願って居りまするぞ!然らば、此れにて御免仕る!」
家康は形式通りの所作で挨拶を済ませ、虎御前山砦の本陣を後にした。
だが家康の胸中は既に《織田家を武田家との戦に引き摺り込む》為の謀略を考え始めていたのだった。
遠江佐野郡、掛川城。
東海道を扼する東遠江の要衝で、旧くは駿河今川家の西方進出の最初の拠点であり、大名としての今川家の終焉の地でも或る。
現在では、今川家の保護下から独立した三河徳川家の《東の境目》に位置しており、更に東側に在る武田側の金谷城や対岸の駿河田中城と正対していた。
「殿(家康)から預かりし此の掛川城を失うとは、余りに申し開きが立たぬ…。彼の時の武田の策に引っ掛からなければ、城は未だに落城の間際などには至って無かっただろうに…!」
徳川勢の江北撤退と同日の15日早朝、掛川城本丸の物見櫓から、旭日も眩しい東側のニノ丸を見下しながら、城主の石川日向守家成は悔しさを滲ませながら呟く。
石川彦五郎改め日向守家成は元《西三河衆旗頭》で、今川家の滅亡した永禄12年(1569年)から掛川城主に就いていた。
(因に、後任の西三河衆旗頭には、家成の甥にあたる与七郎数正が就任している)
「こう為れば見事に討死致して、武田の奴輩に眼に物見せて呉れる…!」
憤りを帯びた視線を投げる家成の脳裏には、半月前の取返しが付かない敗北の光景が浮かんでいた…。
時は戻り8月朔日。家成は、大井川の東岸に位置する駿河田中城に武田の軍勢数千が集結した、との物見の報せを受けた。
遠江や三河の徳川勢が江北へ赴いている現状を憂いた家成は、渡河した武田軍に奇襲を仕掛けて士気を高めるべく、掛川の城兵を率いて大井川西岸の金谷郷へと急行する。
月が無き深更、掛川と金谷の間の難所・小夜中山を通過すると、金谷の郊外に於いて対岸の島田郷から渡河を終えて、篝火を焚きながら夜営中の軍勢…田中城主の板垣左京亮信安率いる軍勢を発見した。
暗闇に慣れて、既に夜討の支度を整えていた石川勢は、家成の号令の元、勇躍して板垣勢に襲い懸かった。
板垣勢は不寝番以外は寝静まっていた所為か、当初は混乱していたが、四半時(約30分)もしない内に状況が一変した。
別地点から渡河を終えた後に、下流側の小山城に入っていた別の軍勢が…両職(筆頭家老)で宿老の1人でもある山県三郎右兵衛尉昌景が率いる《赤備え》の軍勢が助勢に入ったのだ。
挟撃の可能性を考慮した家成は、夜討を中止して掛川城への交代を即断する。
だが、信安や昌景から連絡を受けた金谷城や周囲の砦の者が、金谷から小夜中山へ至る道筋で次々と石川勢に襲い懸かった。
結果、掛川城に再び入城して籠城に参加出来た者は、出撃した者の半分にも満たなかったのだった。
翌2日、5百にも満たぬ石川勢が掛川城の城門を鎖して立て籠もると同時に、小夜中山を越えて山県・板垣勢が掛川に進出して来た。
以来半月近くの間、20倍以上の軍勢を敵に回して籠城戦を繰り広げてきた。
だが鉄砲は玉薬が切れ弓矢も尽きて、遂に昨日ニノ丸が陥落してしまった。
討死のみならず逃亡する者も相次ぎ、既に籠城を続ける者は百人足らずに減少していたのだ。
「父上…、某も他の者達も、父上共々城を枕に討死致す覚悟は出来て居りまするぞ!さぁ、どうか御下知を!」
家成が後ろを振り向くと、嫡男の康通が既に具足を身に纏い、最後の出撃を今や遅しと待っていた。
だが、次に家成が発した言葉は、康通には到底承服出来ない内容だった。
「康通、御前は家名を絶やさぬ為に城を抜け出せ。そして殿に事の顛末を話して差し上げるのだ…」
「嫌で御座いまする!家名為らば、本家である従兄の与七郎(数正)殿が継ぎましょう!某は父上に御供仕りまする!」
不毛な侭続きそうな気配だった家成親子の口論は、1人の家臣の報せ…と言うより叫び声で遮られた。
「大変で御座います!武田の軍勢から、傘を回して近付いて来る者達が居りまする!彼れは軍使で御座いますぞ!」
家臣の叫びを聞いた親子は、怪訝な顔をして見合ったのだった。
寄手側からの軍使として、検使(軍監)の任に就く《足軽大将衆》の三枝勘解由左衛門尉昌貞が本丸に入って来た。
家成と昌貞は、籠城戦で傷付いた本丸の御殿(城主の屋敷)に於いて会見を開いた。
「軍勢の検使役を務めて居りまする三枝勘解由と申しまする。日州(家成)殿、既に御貴殿方に勝目は御座いませぬ。潔く御開城なされませ!」
「我等を甘く見てくれた物で御座る!答えは否じゃ!再び参られた時は弓矢にて馳走致す。さぁ、御引取り下され!」
半月に渡って籠城を続けてきた家成の頑なな反応に、多少の共感を寄せた昌貞だったが、義父(妻の父親)の山県昌景からの指示に従って交渉を続けていく。
「然れど、御貴殿方が保っているのは最早此の本丸のみで御座らぬか。此の場に残って居った処で可惜多くの者が散華致すのみ。御嫡男も失っては家名も絶えましょう。為らば、多くの者の命を救う為にも此処は節を曲げて頂きとう御座る」
「……」
「悪戯るな!三河武士が討死如きを畏れると思われたか!」
「待て康通、問われて居るのは儂であってお主では無い。少し控えて居れ…」
家成の後に控えていた康通は憤慨したが、分家筋とはいえ家成自身が心配してした《家名の断絶》を昌貞から指摘された事で、会見の場は奇妙な沈黙に覆われる。
家成は暫しの瞑黙の後に眼を見開くと、昌貞からの開城の申出を承諾した。
「承知致した。為らば我が首を以て開城の証とさせて頂きたい…」
「なっ!父上っ!御待ち下され!」
「石川殿、落ち着かれよ!我々は石川殿の首など欲しては居りませぬ!為らば、武田家に降っては如何で御座いますか?石川殿が宜しければ某が推挙させて頂いても…」
昌貞は、死への覚悟を見せる家成を余りに惜しいと翻意を促したが、家成は笑みすら浮かべながら其れを断った。
「其処迄、買って頂いて恐縮の至りで御座る。然れど殿(家康)には、三男であった某に一家を立てて頂き《西三河衆旗頭》という過分な職に就けて頂き申した。某が仕える御方は殿御一人で御座る…。掛川を喪う責を負う者は、城主である某で無ければ為りませぬ。但し他の者達は是非とも見逃して頂きたい…」
「判って居りまする。他の方々は掛川城を明け渡して頂いた後、浜松迄退く事は決して妨げませぬ。武田家に仕える者の誇りに掛けて御約束致し申す」
「…忝い、安堵致し申した。其れと今生最後の頼みとして、三枝殿に某の介錯を御願い致したいだが…。如何であろうか?」
「介錯で御座るか…」
昌貞は逡巡したが、家成の覚悟の程を鑑みて、介錯人を引き受ける事を決めた。
「…承知仕った。石川殿の介錯為らば正に《武人の誉》、某で宜しければ喜んで務めさせて頂きまする」
「三枝殿、誠に忝う御座る。…康通、儂は今宵に腹を召す。だが此れも武門の習い、三枝殿や武田殿を恨むで無い。己を磨き、正々堂々と刃を交えるのだ。…儂の分迄も母や妹達を厭うのだぞ」
「…父上っ…!」
父の真心溢れる言葉を聞いた康通は、滂沱の涙を零しながら平伏為るのだった。
此の日の夜、《中秋の名月》が辺りを柔らかく照らす中、家成は昌貞の介錯の元で従容として切腹して相果てた。
武田家を代表して、切腹の場に立会って首実験を行った昌景は、遺骸を康通に返還した上で、掛川の郊外で全員を解放した。
康通は昌景と昌貞に礼を述べると、父の遺骸を守って浜松城へと落ちていった。
翌16日払暁、山県・板垣勢は掛川城に入城すると直ちに修築作業に入ると共に、金谷城に代わる拠点として縄張りのみ行われていた《諏訪原城》の築城を開始している。
並行して軍勢の再編が行われ、次なる戦いの準備に入る事になる。
途中の寺院に家成の遺骸を弔い、首のみを持参して浜松城に帰還した康通は、騎馬のみ先行させて大急ぎで浜松に駆け戻った家康に謁見を願い出た。
亡父に代わって掛川落城を詫びる為に参上した康通に対して、家康は敢えて御殿の縁側での面会を指定した。
家康と共に浜松に戻った多くの重臣達が床几に座して見守る中、康通は1人だけ地面に平伏為るのを余儀無くされたのだ。
康通は家康に謝罪すると共に、金谷の前哨戦・掛川落城の経緯・家成の最後等を、出来得る限り客観的に説明した。
其の具な内容に多くの重臣達も納得させられ、家康が《家成の弔い合戦》を命じるのを待ち侘びる。
けれども、家康の発した言葉は康通のみならず其の場の重臣達を凍り付かせる内容だった。
「…見苦しい言訳は終わったか?何れ程言い繕った処で、掛川城は戻っては来ぬわ。全く…、家成も西三河の旗頭に迄就けたのに、醜態を曝しおって…」
「はっ、誠に申し訳御座いませぬ…」
康通は悄然として俯いた侭で在ったが、次に発せられた家康の言葉は、其の場の諸将の心胆を寒からしめるに十分過ぎる内容だった。
「死んだ家成に与えていた官途名《日向守》を剥奪する。掛川をむざむざ喪った貴奴には過ぎた代物よ!また、家成の所領・私財は全て没収致して、徳川宗家の所領と致す!猶、康通からは徳川の士分(武士の身分)を剥奪し、石川家の家臣共は全員を(石川与七郎)数正に付ける事と致す…」
家康は此の件を罰する為に、家成・康通親子の領地や財産だけでは無く、家臣団、身分、更には鬼籍に連なった者の家成の名誉迄も奪い取ったのだ。
此れは10年前の《三河一向一揆》に荷担した者達への処分よりも重い物だった。
然も没収した所領等を、家康自らの懐に納めてしまっているのだ。
(長年忠勤に励んで参られた父上を、何故其処迄貶める必要が有るのだっ!…いや、家臣の方々の手前、信賞必罰の気構えで居られるのやも知れぬ…。新たな戦功を以て、名誉を回復する機会も与えられよう…)
騒然と為る会見の場で、平伏した侭の康通は自らに懸命に言い聞かせていた。
だが、去り際の家康が何気無く小声で漏らした一言が、傷付いた康通の心に深く突き刺さる。
「…死ぬ時も役に立たぬとは、存外に能無しで在ったな…」
(何故其処迄辱めなさるのだ!確かに我等親子に非は有れど『勝敗は兵家の常』だ。然れど徳川家を信じて自ら死を選ばれた父上に、鞭打つが如き此の所業、仮令主君と雖も赦しては《孝》とは言えぬ!)
康通が怒りに燃えて頭を起こそうとした刹那、其の動きに気付いた酒井忠次がサッと駆け寄って小声で呼び掛ける。
「為らぬっ!此処で激為れば、石川の家名も絶えてしまうぞ!」
忠次が康通を押し止める間に、康通の従兄である数正が家康に向かって話し掛ける。
「殿、石川家の家臣を全て引き受ける代わりに、此の者を我が配下に加える事を許して頂きたく存じまする」
「…好きに致せい!」
家康は不機嫌そうに生返事を返しながら、其の場を後にしていく。
其の場に居合わせた者達が深い溜息を吐く中、忠次と数正が康通に話し掛けて来た。
「…恐らく殿(家康)は、織田弾正(信長)に振り回されて苛立っておいでなのだ。此度は余りに具合が悪い時期に重なったのだ。必ずやお主と彦五の事は口添え致す故、堪忍致せ…」
「うむ。儂が都合を付けておく故に、お主は熱りが覚める迄は岡崎にて過ごすが良い。岡崎から程近い足助城は、昨年武田に奪われた侭だから言訳も立つ故、な…。お主為らば若様の御相手に丁度善かろう…」
「…左衛門(忠次)様、与七郎(数正)殿、…御心遣い感謝致しまする。御二方の御厚意に甘えさせて頂きまする…。…其れと、今日此の時を以て、仮名を亡父・家成と同じ《彦五郎》に改めまする。理不尽に父上が被った不明を、必ずや晴らして見せまする!」
そう言いながら、家康が去っていった方向を睨み据える康通を見ながら、徳川家を代表する2人の重臣は、此れからの事を考えて嘆息為るのだった。
因に、康通は従兄の数正の麾下として、三河にある徳川家の元の本拠地・岡崎城に赴いて、家康の嫡男で岡崎城主の松平次郎三郎信康の小姓に推挙される。
康通の境遇を哀れんだ信康は、此の年の内に《岡崎城主付きの馬廻》に抜擢して、彼の士分を独断で回復させたのだった。
信康の厚遇に感謝した康通は此の後、西三河衆…と言うよりも信康側近の1人として戦っていく事になる。
家康は、度重なる不愉快な出来事が齎した怒りを引金として、家成・康通親子に必要以上の刑罰を与えてしまった。
家康自身は気が晴れた所為か余り気にも留めなかったが、此の掛川落城と家成への処分は、徳川家臣や三河・遠江の国衆達に予想以上の衝撃を与える事になった。
万が一、己が預かる城を失陥した場合、財産や所領のみ為らず、最悪生命や家臣迄も剥ぎ取られてしまいかねない…、と恐怖させたのだ。
事実、譜代の重臣だった筈の家成・康通親子が、正に其の様な憂目に遭っているのだから信憑性が高い、と考えられた。
更には今川家滅亡後に、徳川家を頼って落ち延びて来た駿河の今川旧臣に対して、捨て扶持しか与えて居ない事や、2年前の《姉川の戦い》で家康の不興を買った遠江衆への冷遇振りも噂に拍車を掛けた。
勿論、此等の情報を掴んだ武田家も積極的に情報を伝播し、徳川家臣への調略戦に活用したのだ。
此の結果、三河・遠江の今川旧臣に対する家康の求心力は、低下の一途を辿っていくのだった。
掛川開城から半月程経った元亀3年(1572年)9月1日。
少しづつ彩りを増していく山々が見守る中、紅葉を逸早く身に纏った様な紅い具足を纏い、《黒地に白桔梗》の旗指物を翻した軍勢が掛川城を出陣して肅々と進軍していく。
掛川に於いて寄子や相備衆を呼び寄せ、駿河・東遠江の国衆を召集して再編成を終えた、山県昌景率いる《赤備え》の軍勢8千である。
7月から飛騨の三木家の追討戦…所謂《飛騨討入》に参加していた昌景の嫡男・甚太郎昌次も前日に掛川に到着し、早速軍勢の一翼を担っていた。
掛川城・諏訪原城の守りは板垣信安の軍勢を中心とした約2千に委ね、山県勢は南へと歩を進めていた。
目指すは掛川から2里強(約9キロメートル)南、《浜街道》を押さえる東遠江に残された徳川方の要衝・高天神城である。
此の高天神城は、昨元亀2年(1571年)春の《三遠討入》の際、攻め寄せた武田家陣代・武田左京大夫勝頼(当時)の軍勢を1日で退けた城、と言われていた。
真相は、城攻めの長期化・被害拡大を恐れた勝頼勢が、奥三河方面へ転進しただけであったが、士気昂揚に利用しようとした徳川方は度重なる喧伝を行ったのだ。
《高天神を制する者は遠江を制する、高天神を制せざる者は遠江を制する事は能わず》と喧伝された高天神城の重要性は、掛川落城に因って更に高まっていたのだ。
(東遠江の要衝を押さえる城の内、先ずは掛川を奪った。次に高天神と二俣に寄せれば、必ずや家康が誘き出されるに相違ない!儂が思う存分引き付けて、勝頼様の御前に引摺り出して呉れようぞ!)
短身痩躯ながらも闘気を漲らせた昌景は、高天神城が在る南方の小笠山塊を見据える。
だが昌景の脳裏には、其の先に到来為る筈の徳川勢との決戦を思い描いているのだった。
此の《徳川の野田城奪還》と《武田の掛川城攻略》は、一度は鎮静化していた武田・徳川両家の戦いの烽火と為る物だった。
此の2城の攻防から始まった戦いを武田家は《徳川征伐》と呼称したが、後の人々からは《武田家の第1次西上戦》と言われる事に成るのである。
今回、武田家は史実では落とせなかった掛川城を手に入れました。史実では、城主の石川家成が武田家滅亡時まで最前線を守り抜いて、武田家の遠江進出を妨げ続けました。ですが此の城を手に入れた事で、武田・徳川間の力関係が少しづつ変化して行きます。次回やっと新たな総大将となった勝頼が出陣する事になります。相変わらずの乱文ですが、次回も読んで頂ければ嬉しく思います。