拾悉:元亀争乱(玖)~越中・飛騨始末~
今回の話は多少横道に外れて、越中一向一揆への支援と飛騨地方の切り取りの話になります。相変わらずの長文ですが、読んで頂ければ幸いです。
霊峰富士を始めとした高峰を跳び越える際に、雲を山向こうに忘れた代償として熱気を孕んだ南風が府中の町中を走り抜ける。
漸く梅雨も明け、《釜の底》にも譬えられる盆地に拓けた府中の住人や訪れた旅人は、酷暑を避ける様に軒先の日陰や木陰で涼を取っている。
しかしながら、人々が発する熱気が真夏の陽光よりも暑く滾る町の一画が存在していた。
府中の西側に設けられ、六斎市の一方を担って来た《三日市場》、そして南側の《八日市場》であった。
時に元亀3年(1572年)6月13日の事である。
甲斐府中は、甲斐・信濃・駿河を中心とした領国を形成する武田家の本拠地であり、其の居館・躑躅ヶ崎館を核に成長した町である。
無論、武田家は50年以上に渡って精力的に町の振興を推し進めて来たのだが、此処数年で更なる発展を遂げつつあった。
其の要因と為る政策を推進したのが、此の4月に新当主に就任した武田大膳大夫勝頼と其の側近達である。
勝頼は3年前(永禄12年)に父・法性院信玄の陣代に就任すると、既存の商人や職人に配慮を払いながらも、駿河大宮を手始めに《楽市令》と呼ばれる自由市場の設置を推進している。
更に領内全域に私鋳銭等の鐚銭を整理する《選銭令》を布告していた。
また、当時の日本で高額取引に使われていた金銀貨は、専ら秤で重さを量って使用する《秤量貨幣》であった。
其処で勝頼は、父・信玄が7段階の量目体系として確立させていた《甲州金制度》を、一種の《計数貨幣》として領内外や各地での取引に積極的に使用し始めていた。
此の際、減少傾向に為りつつあった甲信各地の金山の産出量を増やす為に、新役職《金山奉行》として土屋藤十郎長安を抜擢している。
長安は堺の南蛮人と接触して、当時最先端の《水銀流し》(金アマルガム精錬法)を会得、導入を推し進めて金の産出量を数倍に押し上げた。
其の多くは武田家を強大にする為の秘密資金に成ったが、其れでも今迄以上の甲州金を流通させている。
信玄の頃から少しづつ武田の領外に出てはいた甲州金が、此の政策に因って主に北条家が統べる関東方面を中心に一気に普及した。
其の利便性も相俟って、甲州金は勝頼や奉行達の思惑を上回る勢いで東国での《地方通貨》へと発展し始めていた。
結果として、府中の2つの六斎市…三日市場と南側に在る八日市場は、手狭に成った取引を賄う為に自然に《常設取引市場》に発展を遂げつつ有ったのだ。
武田の領国支配の中心たる躑躅ヶ崎館にも、家督襲名に伴う変化が起きていた。
先ずは隠居して引き続き静養生活を送る先代・信玄が《従三位権中納言・右近衛権中将》の官途を得た事を受けて、財政と民事や領地に関する訴訟を担当する機関として新たに政所が設けられた。
元来は皇族や上級貴族の家政機関である政所は、源頼朝公の鎌倉政権以来、武家政権の政治体制の一角を担っている。
甲斐源氏の嫡流の公卿とは言え、一地方の大名である武田家が政所を設ける事は、半ば織田家の傀儡として力を喪いつつある足利幕府に代わって、新たな政治体制を目指す雛型と目されていた。
此の組織の長となる政所執事には、筆頭家老に相当する《両職》の1人である原隼人允昌胤が兼任して、其の下に公事奉行・勘定奉行等を統轄する事に成った。
また、もう1人の《両職》で新当主・勝頼の後見人の1人でもある山県三郎右兵衛尉昌景が中心となって軍制の改革も始められた。
新たに武田家に組み込まれたが所領を喪失した下級武士や、諸国から訪れた浪人達に対して《堪忍分》と言われる棒給を支払う事で、武田宗家直属の《常備武士団》を創り始めたのだ。
更には勝頼の直轄領とした信濃東高遠に秘密裏に拓かれた《鉄砲鍛冶村》では、紀伊雑賀十ヶ郷から来訪した鉄砲鍛冶師達の指導の元、既存の鉄砲の改造と新たな鉄砲の生産が順調な進捗を見せていた。
鉄砲足軽が主に使用する《6匁筒》は、新規製作・購入・改造済を含めて1千2百梃を数え、徒士武者が主に使用する《10匁筒》も4百梃生産している。
更には此の年の始めからは、大鉄砲(抱え大筒)・大筒・炮烙玉の試作を行い、漸く量産を開始していた。
他にも多くの分野に渡る武田家の《大改革》を率いる武田家第20代当主・大膳大夫信濃守・武田四郎勝頼は、父・法性院信玄から家督を譲り受けた後も、相変わらず看経所を私室兼執務室に使用していた。
元々、信玄の私室として建てられた看経所は、別室に厠を併設した構造に成っており、籠って政務に励むには都合が良かったのだ。
「…成程。為らば此度の石山への廻船(輸送船)護衛の任、上手く果たせたのだな?」
「はっ!武田海賊衆の中から選び抜いた関船(中型戦闘艦)10隻と堺の薩摩屋が手配致し申した廻船(商船)20隻、紀伊の雑賀水軍と合流の後に、無事大坂の石山本願寺へ兵糧8千石分を運び込みまして御座いまする。10隻の関船は孰れも昨年造った船ですが全て欠ける事無く、無事に清水湊に帰り着いて御座いまする」
広間での此の日の評定を終えた勝頼は、看経所に戻ると《駿河清水湊代官・武田海賊衆旗頭》の土屋豊前守貞綱の報告を聞いていた。
貞綱は本願寺から清水湊に帰港した其の脚で、躑躅ヶ崎館に報告に赴いていたのだ。
「うむっ!全ての船が無事に戻って来たのは誠に重畳だ。貞綱、働き大儀であった」
勝頼は今回の航海が首尾善く終わった事に、満足の面持ちで頷いて居たが、貞綱には《勝頼の家督襲名後初の軍事行動》である此の航海が今一つ腑に落ちなかった。
「御屋形様(勝頼)…、此度は何故に無理を押して迄、大坂に兵糧を運び入れたので御座いますか?確かに此度の航海は、伊勢船を元に新たに作り直した関船の具合を見るには、好都合で御座いました。とは言え関船のみ為らず、兵糧から薩摩屋に支払う廻船の代金迄全てが武田家に持たせるとは…。本願寺も余りに虫が良過ぎるのでは御座りませぬか?」
「うむ…。父上(信玄)は法主殿(顕如)と相婿(正室同士が姉妹)であったが、儂には其の様な繋がりが無い。そんな中で、長延寺を遣いにした我等に応えて、加越の一向一揆を動かして貰ったのだ。替りの条件は果たしてやらねば、只でさえか細い《糸》が切れてしまうからな…」
勝頼は貞綱にそう説明しながら、使僧として遠く北陸の地に派遣した長延寺の住職・実了師慶の事を考えていた。
山内上杉家の出身で、戦火で焼失した鎌倉の長延寺の実了師慶は、信玄に因って招聘されて甲斐府中に居を移している。
そして甲斐で再興した長延寺の住職を務める傍ら、信玄や勝頼の使僧として各地の大名の元に赴いていた。
そんな実了が一向宗の総本山・石山本願寺へ…そして北陸の地へと遣わされたのは、勝頼が陣代として利根川を挟んで上杉勢と睨み合っていた此の年(元亀3年)閏1月の事である。
上野の石倉城で勝頼の命を受けた実了は、清水湊から一般の廻船に同乗し、先ずは木曽三川河口部に位置する長島願証寺に向かった。
願証寺は、本願寺に継ぐ格式と規定される《院家寺院》であり、一昨年(元亀元年)に蜂起した《長島一向一揆》を率いている寺院である。
実了は、昨年に討死した先代住職・証意佐玄の嫡男で願証寺を継いだ顕忍佐尭、そして一揆の実質的な指導者である坊官・下間豊前法橋頼旦に面会している。
因に弱冠12歳の顕忍は、祖父で先々代の証恵教幸が存命中に、信玄との間で其の6女…勝頼の末妹の菊姫と婚約をしていた。
実了は会談の中で、順当にいけば将来勝頼の妹婿となるであろう顕忍と、長島一向一揆を支えている頼旦に対して、武田家として出来得る範囲内での支援と、将来の共闘を約する、との勝頼の意志を伝えたのだった。
願証寺を出立した実了は、続いて海路西進して紀伊雑賀荘に向かっている。
雑賀の5つの《緘》の1つで、鈴木左太夫重意率いる《十ヶ郷》と武田家は、一昨年来の友好関係を持っている。
武田家は、十ヶ郷の外港である加太湊と沖合の友ヶ島を、大型船の入港可能な港に整備する資金を拠出した。
更には、紀ノ川の上流に位置する《高野山金剛峯寺》及び《丹生都比売神社》と共同で産出した辰砂(硫化水銀鉱石)を、友ヶ島に設けた工廠で脱硫して水銀を生産、廻船で武田領内へと輸送して甲州金の《水銀流し》に使用していた。
また、重意の次男・孫一重秀は武田家に仕官しており、武田家独自の鉄砲の製造から運用に至る迄を指導していた。
実了は重意と嫡男の孫市郎重兼と面会して、勝頼からの書状を手渡すと共に今後の関係発展について会談している。
其の中で、武田家が海戦用に試作を始めた《大鉄砲・大筒・焙烙玉》等の大型火器への技術提供を求めた。
具体的には、指導者として此等を製作・指導し得る鍛冶師の派遣を要請したのだ。
重意と重兼は思案の末に、期限付きの条件での鍛冶師の派遣を決断している。
此の派遣に因って、東高遠の鉄砲鍛冶達は大型火器の量産化に成功し、結果として武田家の鉄砲を含む火器類の製造技術が、飛躍的に向上する端緒と為るのである。
実了は十ヶ郷を離れると、雑賀の船に便乗する形で大坂の石山本願寺へ向かった。当初の目的通りに、加越の一向一揆勢に上杉との対決を命じて貰う為である。
実了は石山本願寺に入ると、直ちに《大坂門跡》と尊称される本願寺第11代法主・顕如光佐に謁見する事が出来た。
また顕如が座する上座の脇には、顕如を支える坊官で石山の籠城戦を指揮する下間刑部卿法印頼廉が控えて、謁見に立ち会っている。
此の謁見に於いて、実了は1月に顕如が信玄・勝頼親子に宛てた書状に対して、《織田家との更なる関係悪化・上杉家の武田・北条領への侵入の阻止…等の諸条件が整う迄は織田との全面戦争には参戦出来ない》旨を回答した。
そして不満が残る本願寺側を納得させる為に、実了は相手の要求を飲む形で幾つかの譲歩を行ったのだ。
1つ目は、織田家に与している三河徳川家を武田軍が引き受ける事。
2つ目は、武田家が本願寺及び各地の一向一揆に対して、金銭・物資両面での支援を行う事であった。
(今回の武田海賊衆による兵糧輸送は、此の条件に基づいて実施されたのだ)
其の交換条件として、顕如と頼廉は加越の一向一揆の対上杉挙兵を承認し、其の旨を命じた北陸各地の寺院宛の書状を実了に遣わしたのだった。
本願寺で目的の書状を入手した実了は、京に詰める今福浄閑斎(石見守友清)配下の《三つ者》(忍者)に此れ迄の詳細を伝えると、織田家の領国を避ける形で丹波を抜け、海路で加賀の本吉湊に入った。
加賀一向一揆の中心地である尾山御坊へ入って、加賀・越中の一向宗徒達に挙兵を促す為であった…。
「…成程。此れ迄の経緯は承知致し申した。雑賀の海賊衆も実了殿の根回しが有ったればこそ、彼の様な陰に陽に肌理細かな助力をしてくれた訳ですな!」
勝頼が貞綱に対して、実了に託した役目を掻い摘まんで説明すると、貞綱は合点がいったのかしきりと頷いている。
「うむ、確かにな。其れと兵糧の件は致し方有るまい。8千石で本願寺を味方に留め得る為らば、安い買い物で御座ろう。豊前(貞綱)殿、話は変わるが、今の海賊衆の陣容は如何になっておるのだ?」
勝頼の説明が一段落つくと、途中で看経所を訪れていた《両職》の山県昌景が貞綱に質問して来た。
「はっ、武田海賊衆は某の他に、伊丹大隅(大隅守康直)殿、小浜勢州(伊勢守景隆)殿、向井親子(伊賀守正重・伊兵衛政勝)、其れに間宮兄弟(武兵衛・造酒丞信高)の7名が組頭で御座る。船に関しては、小浜殿が伊勢より率いて参った《安宅船》(大型戦闘艦)を、了解を得て解体して仕組みを調べている処で、今は関船は全て新たに造り替えた37隻、小早(小型戦闘艦)は伊勢・志摩より持ち込んだ15隻のみで御座る」
「豊前殿、船を新たに造り替えた為らば、古い船の扱いは如何に相成っておるので御座るか?」
同じく途中から訪れた土屋右衛門尉昌続が質問を重ねて来る。
昌続は貞綱にとっての寄親であり、貞綱の婿で近習頭を務める惣三昌恒は、昌続の実弟にあたるのだ。
「古い関船の内、数隻は船大工を育てる為に《教具》として解体致し申した。其の上で今川・北条・北畠の海賊衆や雑賀の船から戦訓を盛り込んだ新たな関船の絵図面を、一から引き直して居りまする。残りの関船は楯板や矢倉等を取り払い、新たに集めた新米の水夫達の習練用に致して居りまする」
貞綱は昌続だけでは無く、同席する勝頼と昌景も意識しながら返答する。だが、3人の顔からは多少の困惑が見て取れた。
「習練?古いとはいえ、未だに十分使える船を態々(わざわざ)使って迄習練を為るのは何故なのだ?」
代表して質問した勝頼に、貞綱は丁寧に答えていく。
「現在の海賊衆の水夫は、其の殆どが組頭が連れて参った者達で御座る。今後、安宅船や関船を建造致して武田の海賊衆を大きくするには、新たな水夫な確保が肝要。然れど、水夫の多くは既存の海賊が押えて居る故に、海を知らなんだ者を含めて新たに水夫を集めた上で、一から鍛えなければ為りませぬ。其の際に、海が荒れた程度で船酔いを起こす輩を、舟戦に連れて参る訳にはいきませぬ!故に、船に…海での生活の習練を行って居るので御座る」
山国の甲斐や信濃に育った勝頼達は、人員を集めて軍船を用意すれば、海賊衆は直ぐにでも増強可能だ、と考えていた。
だが、海さえ初めて見る様な者を集めて、行き成り戦力として使える筈が無いのだ。
「…如何様。馬を操るにも相当の習練を熟さねば為らぬ。慣れぬ船為らば尚更で御座ろうからな」
昌続がそう言うと、勝頼と昌景が納得の表情で首肯する。勝頼は下座に座する貞綱に改めて指示を送る。
「得心が入った。確かに安宅船や関船を増やせば、大量の水夫を集め育てねば為らぬ道理だな。他にも小早や《千石船》の如き小荷駄や八木(米)を運ぶ船も必要だからな…。貞綱、委細は任す故に1人でも多くの水夫、1隻でも大きな軍船を整えるのだ。特に伊勢や畿内に押し出すには何よりも大きな軍船が欠かせぬ。金は惜しまぬ故に、解体した船を調べ尽くして、一刻も早く安宅船を建造致せ!」
「御意!委細承知仕りまする!」
勝頼自身が門外漢だからとはいえ、自らの主張を呑んでくれた主君に対して、貞綱は平伏しながら心中改めて忠誠を誓うのだった。
貞綱が看経所を出ると、入れ替わる様に《両職兼政所執事》の原昌胤と、勝頼の軍師を務める真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)が訪れた。
既に日は落ち、室内を行灯が照らす中、此の日の仕事を終らせた勝頼を中心に、車座で酒を呑み交しつつ話に花を咲かせる。
「ふむ…、馬場美濃(美濃守信春)殿は三河で城の縄張り、内藤修理(修理亮昌秀)殿と春日弾正(弾正忠虎綱)殿は西上野と北信濃の仕置で御座ったな」
「左様で御座る。上杉は3月に上野から一度は退いたが、何時何時攻め込むとも限らぬ。加越の一向一揆が上杉の矛先を封じ込める迄は、備えは怠らぬが肝要で御座る」
昌胤が此の場に居ない宿老達の事に触れると、幸綱が越後の上杉家への手当てについて説明する。
「一徳斎(幸綱)殿、加越には長延寺(実了)殿が赴いて居った筈。加越の一揆勢の動静は如何相成って居りまするか?」
「うむ、我が手の者の報せでは、昨月の24日に漸く挙兵致したらしい。今頃は上杉方の最も西に位置する《日宮城》を襲って居る頃だが…」
昌続からの質問に応えながらも、幸綱は越中の進捗状況が芳しく無い事を憂いていた。
此の程度では、上杉家の手足を縛り付ける事が容易では無いのだ。
勝頼も内心一抹の不安を持ちつつも、酒杯を呑み干してから一呼吸置いて、敢えて余裕を持った態度で幸綱達に応じる。
「…致し方有るまい。一揆勢にも其れ相応の内情が有るのだろう。其れと南隣の飛騨討入の件も有る…。昌胤、京の浄閑斎からは未だに報せは届かぬのか?」
「はっ、今福殿からは飛騨討入の御奏請の一報は届いては居りませぬ。恐らくは公家方に対する手入れ(調略)が芳しく無いのでは…」
武田家では、南飛騨桜洞城主の三木飛騨守良頼(姉小路中納言)の討伐を朝廷に上奏して、間髪を入れず討伐に入る計画であった。
しかし朝廷工作の遅れもあって、未だに奏請に至って居なかったのだ。
「勝頼様、如何致しまするか?いっそ御奏請は考えずに行き成り飛騨に討入るべきでは有りますまいか?恐らくは牧之島で戦支度をして居る左兵衛(栗原左兵衛尉詮冬)殿も同じ考えでは…」
昌景からそう言われた勝頼は、己を陣代の頃から支えてくれる《軍師》の智慧を借り受ける事にした。
「ふむ…。儂は武田に《理》が有る事を判らせる為に、浄閑斎の報を待つべきと考えるのだが…。一徳斎、お主は如何に見て取るのだ?」
「勿論、越中の方が優先で御座る。飛騨の三木飛州(飛騨守良頼)や江馬常州(常陸介輝盛)等、上杉に誼を通じる国衆には、必ずや越中への陣触れが有る筈。飛騨を攻め易く致す為にも、加越の一向一揆をより大きく動かすが肝要で御座る」
幸綱の発言に、重臣達が揃って納得の表情を見せるのを確認した勝頼は、加越の実了に使者を派遣する事にした。
「そうか…。為らば長延寺に遣いを送り、《必要為らば古い鉄砲を譲り渡す故に、早く西越中を平らげ、東側へ押し出す》様に促させると致そう。其れと、上杉の目を欺く為にも、遣いの者には武田の正式な家臣は使わぬ方が善かろう。昨年越中に遣わした飛脚を再び呼び出してくれ」
「はっ!直ちに平井郷より呼び寄せまする!」
幸綱は勝頼にそう返答すると、飛脚が住む石和の平井郷に遣いを派遣する為に、席を中座して看経所から退出する。
しかし他の3人は、勝頼達が《百足衆》や忍者では無く飛脚を推す理由が判らず、御互いの顔を見合わせるのだった。
其の3日後…即ち6月16日、越中射水郡の日宮城の麓にある木尾山薬勝寺に、武田家の使僧・実了師慶の姿が有った。
一向一揆勢が20日以上に渡って包囲を続けていた此の日宮城は、前日に漸く開城に漕ぎ着けていた。
一揆勢は城の受け取りを行う一方、更に東側の富山城や新庄城に攻め寄せるべく準備を進めている。
実了は入城後に、真言宗の寺院では或るが薬勝寺側から一室を借り受けて、甲斐の勝頼への書状を書き綴って居たのだ。
其処に、行人包を纏った僧兵…加賀勢を率いる杉浦壱岐法橋玄任が尋ねて来た。大柄で鋭い目付きをしており、まるで武将の如き雰囲気を醸し出している。
「実了殿、此処で御座ったか!其処許に飛脚が届いて居るぞ!」
「壱岐殿で御座いましたか。此れは失礼致しました。然して飛脚とは何処からで御座いましょうや?」
「何でも甲斐の飛脚で《成田の藤兵衛》という輩だ。実了殿、如何致そう。書状だけ預かって参ろうか?」
「いや、拙僧から参りましょう。壱岐殿には御手数を御掛け致すが、飛脚の元へ案内して下され」
直ぐに勝頼からの書状だ、と察した実了はやおら立ち上がると、成田の藤兵衛の元へと歩を進めたのだった。
海路北陸道に到った実了は、3月末に加賀一向一揆の拠点・尾山御坊に入っている。
御坊に到着すると早速、有力な坊官である七里三河法橋頼周、杉浦壱岐法橋玄任に夫々(それぞれ)面会、石山本願寺の法主・顕如からの書状を手渡した上で、越中討入への協力を要請していた。
主に南加賀衆を率いる頼周は、本願寺家に仕える青侍(貴族・公家等の家政を司る侍)から顕如に抜擢され、一昨年に加賀守護・富樫晴貞を討ち取った強硬派である。
一方、尾山御坊生え抜きで北加賀衆を中心に率いている玄任は、越中・安養寺御坊(雲龍山勝興寺)の坊官の家系出身であり、此の時点でも越中に強い影響力を保有していた。
実了は2人に顕如からの挙兵の指示を伝えたのだが、其の反応は対照的であった。
元々《反上杉派》の玄任は二つ返事で挙兵に承諾して、越中の諸寺院に檄文を認めてくれた。
だが《反織田派》の頼周は寧ろ南方…越前方面への進出を企図しており、実了からの要請を拒否して来たのだ。
更に頼周と玄任の間には、南加賀衆を中心とした《本願寺追従派》と、北加賀衆を中心とした《地元独立派》の対立が絡んでおり、事態を複雑化させていたのだ。
だが実了は、取り敢えずは玄任麾下の北加賀の一揆勢が挙兵する事が先決と考え、御坊側の判断を諒とした。
そして玄任と相談を重ねた上で、玄任配下の坊官達と共に西越中の一向宗寺院に挙兵を説いて回る事になった。
礪波郡井波の地で本願寺第5世の綽如が開山した杉谷山瑞泉寺、礪波郡土山から末友の地に半世紀前に移転して来た《安養寺御坊》こと雲龍山勝興寺、更には城端に在る廓龍山善徳寺…等に蹶起を促したのだ。
更には越中守護代の家系で増山城主の神保越中守長職、元の松倉城主だった椎名右衛門大夫康胤…等の越中国衆にも参陣を呼び掛けた。
其の結果、5月中旬に玄任率いる北加賀の一揆勢が越中に侵入すると、越中各地から続々と軍勢が馳せ参じて来た。
瑞泉寺の顕秀佐運と勝興寺の顕栄佐慶の2人が率いる越中の一向宗徒、椎名康胤や神保長職の次男で名代の宗右衛門尉長城が率いる越中の国衆や土豪達である。
彼等を加えて総勢4万を称する大軍勢と成った一揆勢は、5月24日には上杉勢の最前線である日宮城に襲い懸かったのだ。
一方、日宮城に籠城した上杉方の神保近江守覚広・小嶋六郎左衛門尉職鎮(神保旧臣)等は、神通川東岸の新庄城の城将・鯵坂備中守長実に後詰を懇願している。
長実は直ちに春日山城へ急使を走らせると共に、魚津城を預かり越中方面を束ねる河田豊前守長親、越後頸城郡の不動山城主・山本寺伊予守定長にも援護を要請、日宮城解放へと動いたのだ。
そして6月15日、五福山(呉羽山)や神通川の渡し場で両勢は戦いを繰り広げたが、1日で一揆勢が勝利を収め、上杉勢は東岸へと敗走した。
其の一報を聞いた日宮城の覚広・職鎮等は尾根伝いに能登石動山へと逃走、残った者達が和議を結んで城を明け渡したのだった。
城内に設けられた陣所に入ると、1人の飛脚が実了を待って居た。
成田の藤兵衛。
永禄12年(1569年)、現在金山奉行の土屋長安に従って、畿内や紀伊各所を訪ねた人物である。
実了と藤兵衛は、京の今福浄閑斎の元で短期間共に働いた際に知り合っていた。
遣いとして当時陣代だった勝頼とも面識を持ち、其の縁で現在でも武田家からの依頼で飛脚役を務めている。
因に、元亀2年4月26日には、越中への飛脚役の賞として甲斐平井郷で6貫文を与えられており、約1年振りの越中入りであった。
「実了様、御久し振りで御座います。京での憔悴振りに比べて、御元気そうで安心致しました」
「御仏の御加護の御陰で御座います。藤兵衛殿、遠路遥々御務め御苦労様で御座います…。さて、早速書状を拝見しましょうか」
挨拶を交わすと、藤兵衛は早速懐の文筥を実了に差し出した。
文筥の中には数通の書状が有り、其の一番上に実了宛の書状が認められていた。
実了は書状を読み終えると、藤兵衛を伴って玄任に再び面会した。
書状の中には、加越の一向一揆勢に対する《武田からの支援》についての物も含まれていたからだ。
「ふむ…。鉄砲を含めて支援して下される為らば、此方としても非常に有り難い!武田が飛騨を平定してくれれば、飛騨の国衆から側面を襲われずに済むしな!然れど此の条件は、随分と厳しい処を衝いて来られたな…」
「条件?壱岐殿に御渡し致した書状には、何と書かれておるので御座いましょうか?何分拝見致して居りませぬ故…」
実了がそう言うと、玄任は首肯しながら一揆勢宛ての書状を手渡す。
「成程、然も有りなん。では此れを御覧下され」
「拝見仕りまする。…此れは煙硝の件で御座いますな。確かに鉄砲のみ有っても、玉薬が無ければ持腐れで御座いますからな」
「左様。武田大膳(勝頼)殿は、我が本願寺が持つ煙硝造りの秘伝を御所望の様だ。然れど、越中や石山・長島で戦う我等に取っては正に《命綱》、おいそれと教える訳には参らぬ…」
鉄砲の玉薬、即ち火薬に必要不可欠な硝石(硝酸カリウム)の入手は、鉄砲が主力と為りつつあった此の時代、戦国大名にとっては《至上命題》の1つであった。
当時の硝石の生産地は、明国(中国)の山東省・四川省、そしてシャム(タイ)やカンボジア付近である。
(インド・ビハール州から産出するのは少し後の時代である)
だが明国産の硝石は、明国が進めた《海禁》政策(鎖国による貿易禁止令)に因って、直接の交易が出来なかった。
西国の大名達は、キリスト教に改宗する事で南蛮人との貿易販路を確保したり、《倭冦》との密貿易に因って硝石の輸入を行っていた。
更には堺の商人達が、琉球や種子島を中継基地として、各地から硝石の輸入を諮っていたのだ。
一方で鉄砲伝来の頃から、小規模ながらも硝石を精製出来る《古土法》が日本各地で行われた。
築40~50年以上の住宅や馬小屋、寺社等を壊して、床下の乾いた古土を採集する。
其の古土を水に浸した上で、浸出液(上澄み)に木灰・灰汁等を加えて、煮詰めて濾過・冷却すると、結晶化した硝石が精製出来るのだ。
多くの大名達は、必要最低限の硝石を此の方法で賄っていた。
但し一度古土を採集すると数十年以上は再利用出来ない為、効率的とは言い難く大量生産には適さなかったのだ。
此の状況に目を付けたのが、将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした織田弾正忠信長である。
信長は上洛翌年の永禄12年には、将軍の裁可を得て堺の町に代官を置いて統制を強めている。
更に、京に在る日蓮宗本門流の本能寺を定宿の1つに指定する事で、全島民が日蓮宗徒であった種子島から堺に入る硝石を、ほぼ独占する事に成功していた。
此等の策に因って、堺以東の織田家に敵対する大名は、硝石の輸入が事実上困難になりつつあった。
武田家では、古土法による精製の他に、堺の商人・薩摩屋の山上宗二の協力を得て、種子島・琉球から直接明国産の硝石を輸入している。
しかし、鉄砲や炮烙等の大増強を計る武田家にとって、近い将来の硝石不足は火を見るより明らかであり、其の対策も重大な問題であった。
一方の本願寺側では、越中五箇山の地で新たな《土硝法》による硝石の精製法を確立していた。
家の床下…冬でも温かい囲炉裏の側に、深さ6尺(約181.8センチ)以上の竪穴を掘り、床下で作業しやすい様に床板を上げておく。
次に、竪穴の底に稗殻を厚く敷き詰め、蚕の糞と麻畑土を混ぜた物と蓬・蕎麦・麻・猪独活・露草…等の植物を交互に積み重ねる。
更に、一番上を筵や菰で覆い、雨風が当たらな様にして硝酸菌と呼ばれる細菌の反応を促すのだ。
そして年に3回程度、蚕の糞・人尿・植物・硝種(前回培養した土)等を補充しながら、鍬で上下を切り返して空気に触れさせる事で、細菌の繁殖を更に活発にしていく。
丸4年間の仕込みが必要だが、5年目からは同様の手間を掛ける事で、毎年一定量の硝石を生産出来た。
此の《五箇山産の煙硝》は、加賀・越中のみならず石山本願寺や長島願証寺にも届けられ、一向一揆勢の《火力》を支える命綱と成っていたのだ。
勿論、此の事は重要機密とされており、外部はおろか、一向宗徒の中でも一握りの者しか知らされて居なかった。
武田勝頼は《五箇山の煙硝》の事を、紀伊雑賀から仕官した筒衆頭(鉄砲隊長)の鈴木孫一重秀から聞き付けていた。
そして早速、加越の一向一揆勢への支援の条件に《土硝法》の技術提供を求めて来たのだ…。
「さて…、如何に致すべきかのぅ。流石に此の業は秘伝故に、五箇山の外に出したく無いしな…」
玄任はそう呟きながら顔を顰める。
玄任としては、五箇山の地と煙硝を《加越独立派》が握る事は、石山本願寺の法主側近や七里頼周等《南加賀衆》に対する優位性を確保する意味でも非常に重要だった。
下手に武田が出来た煙硝を石山に援助等をされては、其の優位性が弱くなってしまうのだ。
「壱岐殿、我が武田家は間も無く飛騨に討入り、桜洞の三木を討ち果たす所存。然すれば、武田と加越は正に隣国で御座いまする。武田家に煙硝の業を伝える事は、必ずや加越の利と成りまする」
実了が、言外に《加越一向一揆》単体に対する更なる支援を滲ませて、玄任に決断を迫る。
暫しの静寂の後、瞑黙していた玄任はカッと眼を見開いて、正面の実了を見据えながら答えていく。
「善しっ!武田殿に五箇山の煙硝の業を伝えようでは無いかっ!但し、秘伝故に文書の如き物は存在せぬ!証を遺すと後々面倒だ。其処で、五箇山に於いて口伝のみにて御伝え致そう」
「承知致し申した。御配慮感謝致しまする。本来為らば、此の拙僧自らが五箇山に赴いて、口伝を伝授して頂きたい処為れど、越中や飛騨での手入れを致さねば為りませぬ。其処で、此処に居りまする飛脚の成田の藤兵衛に、其の口伝を御伝授頂きとう御座いまする」
実了の口から行き成り己の名前が出た刹那、藤兵衛は唖然としてしまった。幾ら交渉を円滑に進める為とは言え、自分に白羽の矢が当たるとは考えて居なかったのだ。
「はっ?実了様、何を仰有って居られまするか!私は単なる飛脚で御座いますぞ!」
「大事有りますまい。藤兵衛殿が新たな職を身に付ける事は、必ずや益を齎しましょう。其れに、何かしら判らぬ事が有っても、藤兵衛殿の足為らば甲斐信濃から五箇山を訪ねる事も容易いでしょうからな」
「其んな御無体な…」
飛脚として越中に入った時には、想像だにして居なかった展開に、藤兵衛は茫然と為る他は無かった。
だが自失状態の藤兵衛を尻目に、実了と玄任な瞬く間に話を纏めていくのだった。
此の後、実了師慶は加越・飛騨の国衆調略の為に、此の年一杯越中の地に残り、玄任等の一向一揆勢と行動を共にする。
結果として、8月から始まる上杉不識庵謙信(弾正少弼輝虎)率いる越後勢の猛反撃を矢面で経験する事になる。
一方の成田の藤兵衛は、玄任の紹介の書状を携えると、持ち前の健脚を生かして其の日の内に五箇山に赴いて、数ヶ月に渡る《煙硝造り》の修行に入った。
また《煙硝造り》の傍ら、休暇を使って自ら甲斐に駆け戻り、躑躅ヶ崎館の真田幸綱を通して事の経緯を報告し、武田家から支援の約束を取り付けたのだ。
藤兵衛は己が保有する平井郷の6貫文の土地を武田家に返納し、代償に甲斐との国境に近い信濃諏訪郡の瀬沢の地に於いて、桑畑と田畑を手に入れた。
藤兵衛は、武田家の支援で瀬沢に家屋を新築すると、親族や小者を引き連れて移住している。
(勿論、平井郷と瀬沢の古い家屋は解体して《古土法》で煙硝を作り武田家への返済に充てている)
そして、養蚕の経験者に教えを請いながら、五箇山から分けて貰った蚕を育て始める。
更には五箇山と瀬沢、そして甲斐を度々往復して、必要な人材や品物の手配、煙硝の仕込みの段取りを進めていく…。
此の後、藤兵衛は翌玄亀4年の春には《煙硝造り》の修行を終えて、越中五箇山から諏訪瀬沢に帰還する。
そして、自らは飛脚として働く傍ら、養蚕業を隠れ蓑に《煙硝造り》を並行して進めていくのだった。
後日、成田の藤兵衛が始めた《煙硝造り》の副産物とも言える養蚕…生糸の生産は順調に拡大し、武田領からの特産品の1つとして財政を潤す一因と成る。
そして造り出した煙硝は、塩の如き白さに精製されて、武田家の火力を支えていくのだ。
閑話休題。
藤兵衛が五箇山にて修行に励んでいた7月中旬。躑躅ヶ崎館に、京の都から待ち侘びた報せが飛び込んで来た。
京に詰める今福浄閑斎(石見守友清)から、《飛騨討入の上奏を行った》との早馬が届いたのだ。
勝頼は、直ちに牧之島城に遣いを送り、飛騨討入の大将を務める栗原左兵衛尉詮冬に、出撃命令を下した。
詮冬は此の《飛騨討入》での他国からの干渉が入る前に速攻でけりを付ける為に、出来得る限りの兵力を投入した。
自らは主力の軍勢を率い、浅利式部丞昌種(3年前に相模三増峠で戦死した式部少輔信種の嫡男)、教来石善五兵衛信頼(馬場美濃守信春の実弟)、山県甚太郎昌次(三郎右兵衛尉昌景の嫡男)の3人を寄騎として付けた。
そして木曾と飛騨を結ぶ《野麦道》を進軍すると、野麦峠から飛騨に入ってから、三木家の本拠地である益田郡の桜洞城攻略を目指した。
更に、別勢が組まれて江馬常陸介輝盛の居城・高原諏訪城の攻略も開始された。
御親類衆の木曾左馬頭義昌配下の武将、山村三郎左衛門尉良利・三郎九郎良候親子が木曾衆を率い、輝盛の弟にあたる江馬右馬丞信盛が先導役として加わる。
彼等は深志から《野麦道》の北側にある安房峠を突破して、平湯から高原川沿いに侵攻していく。
そして、飛騨討入の検視役(軍監)と軍師を兼ねて、武藤喜兵衛昌幸(真田弾正忠幸綱の3男)が就いていたのだ。
飛騨国は土地が痩せて田畑が少なく、林業や鉱山経営で漸く自立出来ているような国衆達が割拠している。
其処に詮冬は容赦無く、飛騨1国の全勢力の合計をも上回る兵力を叩き付けた。
更には、三木・江馬両家に対しては、昌幸が予め調略を行って内部分裂を誘っていたのだ。
孫子の《疾如風》(速き事、風の如く)の教えを遵守した様な進撃は、《速攻の栗原》と称された父・栗原左衛門佐昌清を、正に彷彿とさせた。
三木勢・江馬勢共に抵抗は儚く打ち砕かれ、三木家当主で《姉小路中納言》を僭称していた三木飛騨守良頼は失意の内に病死。
姉小路家の家督を継いでいた姉小路侍従自綱は、桜洞城から単身京へ逃れた。
更に自綱の弟の鍋山豊後守顕綱、嫡男の姉小路左衛門尉信綱等の三木一族を捕えると、反乱の可能性を排除する為に甲斐へ護送した。
捕えられた三木一族は、勝頼の指示に因って大原海(河口湖)の中央に浮かぶ《大原ノ嶋》(鵜の島)へと送られ幽閉されている。
(大原ノ嶋は天文23年にも知久頼元親子の幽閉に使われている)
また、江馬輝盛は北に逃走して越中に入り、9月17日には新庄城で一向一揆勢と戦う上杉勢に合流、暫く上杉家の客将として働く事になる。
高原諏訪城では、親武田派で隠居していた江馬右馬頭時盛が政務に復帰し、3男であった信盛を正式に世継に定めた。
既に武田家から禄を食んでいた信盛は固辞したが、検視役で《足軽大将衆》の同僚でもある昌幸の説得に応じて、家督を継ぐ事を承認したのだった。
三木家が事実上滅亡し、江馬家が親武田派に統一されると、残っていた大野郡白川郷の勢力…帰雲城主の内ヶ島兵庫頭氏理と白川郷の一向宗寺院・光曜山照蓮寺も、武田家に帰順を願い出た。
すると、三木・江馬両家の間で日和見をしていた者達も、雪崩を打って武田家への帰順を願い出たのだ。
長年の間割拠されていた飛騨国は、僅か10日余りで全土が武田家の領国と成った。
勝頼は8月7日には、帰順した飛騨国衆の所領を安堵すると共に、詮冬を桜洞城代・益田郡(旧三木領)分郡領主として、飛騨先方衆の統制と加越一向一揆の支援を命じている。
また、詮冬の後任の牧之島城代には、今回の《飛騨討入》にも参加した教来石信頼を、前任者の兄・馬場信春の名代として任命した。
詮冬は金山奉行の土屋藤十郎長安の協力の元で、飛騨各地の鉱山を開発した他、林業や養蚕業を行い飛騨の国力増強に努める。
更には、江馬時盛・信盛親子や内ヶ島氏理・照蓮寺等を寄騎として、飛騨一国を短期間で安定に導き、彼等の信任を勝ち得た。
結果として、飛騨国は急速に武田家の領国化を果たし、加越や越前、そして北美濃への《橋頭堡》の役割を担う事になるのだった。
飛騨討入が開始するのと同じ頃、武田領の南西端にあたる奥三河では俄かに慌ただしさを帯び始めた。
三河・遠江を領し、一昨年から交戦状態が続く徳川三河侍従家康の軍勢が、昨年来武田軍に占拠されている三河設楽郡の野田城を奪い返すべく蠢動し始めたのだ。
そして、此れを契機として武田家の戦いの舞台は、再び東海道…遠江・三河の地へと移っていくのである。
今回、武田家を飛騨に進出させました。元々、武田家の中には太郎義信を始めとして『今川家の治める駿河では無く飛騨方面に進出するべきだ』と考える派閥が有りましたが、結局信玄によって粛清されました。今回敢えて飛騨を取った事で、北陸や北近江にも影響を与えていきます。次回は再び徳川との戦いに話が戻る予定です。相変わらず乱文ですが、次回も読んで頂ければ嬉しく思います。有難う御座いました。