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拾陸:家督襲名~積翠寺の密謀~

今回の話は、武田勝頼が正式に家督を禅譲される話になります。相変わらずの長文になっておりますが、是非とも宜しく御願い致します。

 遠くから鳥がさえずる声が響き、爽やかな涼風が吹き抜けていく。

 季節は既に走り梅雨の時季を迎えており、比較的晴れの日が多い甲斐国でも曇天に覆われる日が増えて来る頃である。

 だが、雲一つ無く澄み切った青空が広がった此の日、山麓に設けられた境内にはまるで初夏に相応しい陽気に包まれ、南側を見渡せば甲斐国の中心である府中の町並みを一望出来る。

 そんな陽気の中を、武士の正装である《狩衣》に身を包んだ数多くの武将達が、府中から坂道を登って此の寺院を目指して歩いて来ていた。

 此の寺院…積翠寺に朝廷からの勅使を迎えて、当主・武田法性院信玄と陣代・左京大夫勝頼の昇叙を祝う為であった。

 

 時は元亀3年(1572年)4月12日の事である。


 万松山積翠寺。

 甲斐府中の北側に在る臨済宗妙心寺派の寺院で、丸山と呼ばれる山の南麓に開かれた古刹である。

 此の寺の南側に永正16年(1519年)12月、甲斐国主・武田五郎信直が新たな居館《躑躅ヶ崎館》の建設に着手すると、積翠寺の裏山にあたる丸山の山頂から山腹に掛けて、其の《詰の城》が築城される事に成った。

 翌永正17年に築城が開始されると、早くも1年後には戦塵に晒される事になった。

 大永元年(1521年)9月、福島兵庫助正成を大将とする駿河・遠江勢1万5千は甲斐併呑を目指して富士川沿いから甲斐に乱入した。

 信直改め左京大夫信虎は、臨月の正室・大井夫人や女子供を積翠寺の詰城に避難させると、躑躅ヶ崎館や飯田河原を舞台に激戦を繰り広げる。

 其の最中の11月3日、大井夫人が詰め城に於いて嫡男太郎を出産、後の晴信(信玄)の誕生である。

 此れに因り士気が高まった武田勢は、小勢ながらも福島勢を打破り、同陣した一族の多くを喪った正成は駿河へ逃亡した。

 甲斐の統一から間も無い信虎は、敢えて《正成の贋首にせくび》を用意して勝鬨を上げたのだった。

 余談ではあるが、正成は15年後に今川家の家督争い《花倉の乱》で討死、嫡男孫九郎は北条家に亡命して、北条綱成と名乗る事になる…。


 此の戦いで見事に守り切った詰め城は《要害山城》とも《積翠寺城》とも呼ばれる様に為り、積翠寺は其の居館の役割を兼ねる事に成った。

 勝頼が誕生した天文15年(1546年)には、積翠寺に後奈良天皇の勅使として下向した、権大納言の三条西実澄(後の実枝)及び権中納言の四辻季遠を積翠寺に迎えて連歌会を催している。

 此の事に倣って、信玄と勝頼の昇叙を伝える為に下向した勅使・従二位権中納言の飛鳥井雅教(後に雅春と改名)を積翠寺に迎えて、昇叙伝達の儀式を執り行う事に成ったのだった。


 積翠寺の本堂に手を加えて用意された大広間に、良く響く甲高い男の声が響き渡る。

「『武田大膳大夫信濃守、従四位下源晴信朝臣。従三位に昇階して参議に列する事、此を相赦す。併せて右近衛権中将に任ずる』」

 四位以上の者しか纏えない漆黒の束帯に身を包んだ雅教が、上座に立った侭で朝廷からの勅状を朗々と読み上げていく。

 其の見事さは正に現職の《武家伝奏》に相応しい物である。

 雅教が見下ろす下座には久方振りに狩衣姿と成った武田晴信…法性院信玄が座しており、其の後には陣代の武田左京大夫勝頼や武田家が誇る家臣団がかしこまっている。

 彼等の面持ちはいずれも晴やかだ。甲斐武田家として初めて《公卿》を輩出した事を誇らしく思っているのだ。

 そして雅教の背後…上座の奥の方には、武田家代々に伝わる家宝である《御旗》と《楯無鎧》が飾られ、昇叙任官の儀式を見守っていた。


「『更に三条西大納言(実澄)や四辻大納言(季遠)等からの奏薦を受け、官途を《権中納言・右近衛権中将》へと転任致す。なお、本来為らば還俗致さねば成らぬ処為れど、弟宮たる曼殊院(天台座主・覚恕法親王)様よりのたっての御奏請を御受け致し、主上おかみ(正親町天皇)の御叡慮を賜り、特に《僧正》位は其の侭と致す』…武田殿、善いかのう?」

「はっ!重ね重ねの御厚情痛み入りまする!今後共、武田家を上げて勤皇の志を以て働く所存で御座る!」

 信玄がそう口上を述べて上座の雅教に平伏すると、勝頼以下家臣一同が信玄に倣って一斉に平伏する。

 深く頷いた雅教は、従者から次の勅状が入った文筥ふばこを受け取ると、うやうやしく開封して読み上げていく。


「うむ。次でおじゃる。『武田左京大夫、従五位下源勝頼朝臣。従四位下に昇階致す事を相赦す。更に《大膳大夫・信濃守》へ転任とする』…以上でおじゃる」

「はっ!父・晴信と同じ官途に就かせて頂いて、誠に有り難き幸せで御座いまする!今後共朝廷の御為に励む所存で御座いまする!」

 勝頼が答礼の口上を述べると、武田家の全員が再び平伏する。

 但し、良く観察すると数名の重臣の平伏が、信玄の口上後に比べて幾分浅いのが見て取れる。

 彼等は信玄の官途を勝頼が引き継ぐ事…いては勝頼が武田の家督を襲う事に、複雑な感情を抱いているのだ。

 そんな彼等の考えを知ってか知らずか、信玄が面を上げると雅教に或る提案を行った。


「飛鳥井卿に御頼み致したき事が御座いまする。実は《武家伝奏》たる飛鳥井卿の御下向を機会として、此れに控える四郎…大膳大夫勝頼に甲斐武田家の家督を譲ろうと思いまする」

「なっ…!」

「ちっ、父上!此の晴れがましい席で何を仰有るのですかっ!」

「お、御屋形様っ!御短慮は為りませぬぞっ!」

 勝頼や家臣達の悲鳴にも似た声を聞きながらも、信玄は断固として隠居為る事を主張し続ける。

「お主等も何を驚いて居るのだ。大体、勝頼を陣代に据えた時に、駿河を平定致したら家督を譲る、と申して居っただろうが」

「いや、其れはそうで御座るが…。御屋形様、日を改めて躑躅ヶ崎にて家督を譲られたら如何で御座ろうか?」

 信玄の考えをいささか性急だと考えた馬場美濃守信春が、信玄に日取りの変更を進言する。

 しかしながら、信玄は力強い口調で其れを否定した。

「ならぬっ!飛鳥井卿が御下向に為られて居る今こそが、家督を譲るに相応しい好機なのだ!」

 信玄の余りの激しい口調に、上座の雅教が驚いて聞き返して来る。


「武田殿、落ち着きあらっしゃれ。然れど、何故でおじゃる?そちが其れ程迄に隠居を望む訳が、麿にはとんと判らぬがのう…。其れに武田殿が国主として動く方が、上手く国が治まるのではあらっしゃらんか?」

「いえ、飛鳥井卿。勝頼は静養に入ったそれがしに成り代わり、此れ迄見事に陣代の役目を相務め申した。此処は敢えて勝頼に家督を譲って国主としての経験を積ませる事で、《一廉の国主》として内外に認めさせる事こそが、武田の将来に肝要で御座る。勿論、某も家督を譲りし後も隠居とは言え《権中納言・右近衛権中将》として職責を怠るつもりは毛頭御座らぬ!」


(…そうかっ!御屋形様は武家伝奏の飛鳥井卿立ち会いの元で家督を譲る事で、勝頼様が継ぐを是とせぬ者達の蠢動を封じる御考えだ!為らば、我等が妨げるは不忠という物よ!)

 信春は信玄の発言を聞きながら、もう1つの隠された目的に思い至ったのだ。

 信玄は、勝頼や家臣達にも己の考えを言い聞かせて有無を言わせぬ為に、わざと此の場面を選んで発言しているのだ。

 信春は信玄に対して平伏して、勝頼に家督を譲り渡す事を承服する意思を示した。

 また、信春と同様の答に至った勝頼の後見人たる他の宿老達…山県三郎右兵衛尉昌景・内藤修理亮昌秀・春日弾正忠虎綱・真田弾正忠幸綱(一徳斎幸隆)…も平伏して信玄に承諾の意思を示す。

 すると多くの重臣達が5人に追従する形で平伏し、勝頼の家督襲名を諒としたのだった。

 そして当の勝頼は、父や重臣達の心配りに内心で感謝しながら、雅教さえ惚れ惚れする様な見事な所作で口上を述べてみせた。


「はっ!甲斐源氏の宗家たる武田家の第20代当主の座、此の勝頼が御引き受け致しまする!今後も父・晴信の如き誉れ高き国主と呼ばれる様に相努める所存、飛鳥井卿にも是非とも御鞭撻の程を御願い申し上げまする!」

「うむ、此は見事な口上でおじゃる。勝頼、麿からも宜しなに頼むぞ」

 雅教が後継者の勝頼に対して、好意的な印象を抱いているのを見て取った信玄は、不敵な迄に自信に溢れた笑みを湛えながら、上座の雅教に対して語り掛け続ける。


「飛鳥井卿、御安心下されよ。刻が到らば《天下静謐》を成す為に、此の新国主たる勝頼率いる武田家と共に、総力を上げて起つ所存で御座る!飛鳥井卿にも是非ともそう思し召し下され!」

「おおっ!其は誠に頼もしいのう。主上にも武田殿達の忠勤の志を御奏上申し上げようぞ!」

 感嘆の声を上げる雅教に一礼した信玄は、改めて武田家の家臣達に対して、勝頼への代替りを宣言した。


「此の場に集いし武田の武士もののふ達よ。今、此の刹那を以て、武田大膳大夫信濃守・源四郎勝頼を甲斐武田家の新たな国主と致す!此れからは、新たな御屋形である勝頼に儂同様に仕えてくれ。善いなっ!」

『ははっ!』

 内心はどうあれ、居並ぶ家臣団全員が平伏すると、信玄は上座に向き直して居住いを正す。

 其の視線の先…雅教の背後には、武田家の家宝たる《御旗・楯無》が鎮座しているのだ。


「御旗・楯無、御照覧あれ!」

 信玄が、武田家に伝わる誓いの口上を唱える。《御旗・楯無》に宣言する事で、全員が異議を捨てて一致団結する儀式なのだ。

『御旗・楯無、御照覧あれ!』

 勝頼以下、武田の家臣達が後に続いて一斉に唱和する。

 此の瞬間、東国に覇を唱える甲斐武田家は、新たな国主の誕生を承認したのだった。


 其の後、信玄・勝頼親子の昇叙と代替りを祝う宴が、躑躅ヶ崎館に場所を移して催された。

 其の中でも、本殿の大広間には信玄・勝頼を始め、御親類衆・譜代家老衆・足軽大将衆等の重臣が集い、更には飛鳥井雅教や北条家からの人質の北条助五郎氏規・新四郎氏忠兄弟等の来賓が招かれ、盛大な宴が催された。

 勿論、老若男女を問わず、躑躅ヶ崎館に仕える全ての者に祝儀が配られ、さながら無礼講の如き酒宴が館中で催された。

 また、府中の町中では元々昇叙を祝賀して用意された酒肴が、町の其処彼処そこかしこに於いて振る舞われ、府中の住人達は勝頼の当主就任を祝したのだった。


 翌日…即ち4月13日、勅使の任を終えた飛鳥井雅教は、払暁と共に川舟を用いて帰京の途に付いた。

 とは言え、躑躅ヶ崎館や府中の町中では、昨日同様の酒宴が日が高い内から数多く開かれている。

 六斎市の一つで府中の西側で開かれている《三日市場》でも、東国各地から集められた酒肴が翔ぶ様に売れて、一夜明けて未だたけなわの宴席に次々と並べ直されたのだ。


 そんな中、武田家の家臣の中の一部…其れも重臣に名を連ねる者ばかりが、つい昨日に儀式が執り行われた積翠寺に向かって馬を走らせる。

 夫々(それぞれ)が必要最低限の護衛しか連れていない。しかも、積翠寺の山門の前に全ての従者は留め置かれ、当人のみが境内に入る事が許されていた。


 良く眼を凝らすと、積翠寺の境内には数多くの忍び…武田家に仕える《三つ者》が身を潜めている。

 のみ為らず、府中から山門に至る道沿いや周囲の山麓、果ては要害山城の城域全体に及んで、《諏訪忍者》や《真田忍者》迄も借り受けて警固の任に就けていたのだ。

 其れはまるで要害山全体に、一山を覆い尽くす巨大な《結界》が形成されたかの様である。


 昨日儀式を執り行った積翠寺の本堂は、儀式の際其の侭の間取りであるが、儀式用に飾り付けた装飾は一切が取り払われている。

 上座の奥には昨日同様《御旗・楯無》が並んで鎮座しており、家宝を背後にして《清華成》を果たした武田権中納言晴信…法体に戻り袈裟を纏った法性院信玄と、新たな当主に就いた大膳大夫勝頼の2人が座していた。

 一方の下座には、武田家が誇る家臣団の中でも指折りの武将達、そして奉行職を務める者ばかりが集められ、左右と下座側に2列づつ分かれていた。

 そして広間の中央には、3畳分程の大きさで至る処に書き込みが加えられた《畿内から関東迄の地図》が置かれていたのだ。


 此の積翠寺には、信玄・勝頼親子と勝頼の5人の後見人…馬場信春・山県昌景・内藤昌秀・春日虎綱・真田幸綱の他に、以下の重臣達が招集に応じていた。


《信濃深志城主・南安曇分郡領主・御親類衆》武田刑部少輔信廉(信玄弟)

《甲斐川窪城主・御親類衆》武田(川窪)兵庫介信実(信玄弟)

《甲斐上野城主・駿河駿府城代・御親類衆》一条右衛門大夫信龍(信玄弟)

《信濃小諸城主・北佐久分郡領主・御親類衆》武田左馬介信豊(典廐・信玄弟信繁の嫡男)

《甲斐下山城主・河内郡分郡領主・御親類衆》武田(穴山)左衛門大夫信君(信玄甥・娘婿)

《信濃福島城主・木曾領分郡領主・御親類衆》木曾左馬頭義昌(信玄娘婿)

《駿河田中城主・御親類衆》板垣左京亮信安

《甲斐郡内谷村城主・都留郡分郡領主・譜代家老衆》小山田左兵衛尉信茂(信玄甥)

《両職(筆頭家老)・陣場奉行・奉書奉行・譜代家老衆》原隼人允昌胤

《竜朱印状奏者・侍大将(侍隊将)・譜代家老衆》土屋右衛門尉昌続

《信濃飯田城代・譜代家老衆》秋山伯耆守虎繁

《信濃海津城代・譜代家老衆》小山田備中守昌成

《信濃牧之島城代・譜代家老衆》栗原左兵衛尉詮冬

《信濃狩谷原城代・譜代家老衆》今福丹波守顕倍

《竜朱印状奏者・侍大将・譜代家老衆》跡部大炊介勝資

《駿河深沢城代・譜代家老衆》駒井右京亮昌直

《奉書奉行・足軽大将衆》三枝勘解由左衛門尉昌貞

《侍大将・足軽大将衆》横田十郎兵衛尉康景

《三河野田城将・足軽大将衆》小幡又兵衛尉昌盛

《信濃先達城主・足軽大将衆》多田淡路守常昌

《浅井・朝倉家取次・検視役(軍監)・足軽大将衆》武藤喜兵衛昌幸

《法性院様(信玄)申次役・侍大将・足軽大将衆》長坂筑後守昌国

《法性院様申次役・勘定奉行・譜代家老衆》跡部右衛門尉昌忠

《駿河興国寺城代・足軽大将衆》曽根右近助昌世

《西上野衆旗頭・西上野箕輪城代・西上野先方衆》小幡尾張守憲重(信竜斎全賢)

《上野国峰城主・西上野先方衆》小幡上総介信実

《信濃松尾城主・信濃先方衆》真田源太左衛門尉信綱

《侍大将・百足衆・信濃先方衆》真田兵部丞昌輝

《信濃高遠城将・信濃先方衆》保科弾正忠正俊

《信濃高遠城将・信濃先方衆》保科弾正左衛門尉正直

《信濃芦田城主・信濃先方衆》芦田下野守信守

《駿河駿府城将・駿河先方衆》岡部次郎右衛門尉正綱

《駿河駿府城将・駿河先方衆》岡部五郎兵衛尉元信(元綱改め)

《駿河清水湊代官・武田海賊衆旗頭》土屋豊前守貞綱

《武田筒衆(鉄砲隊)旗頭・譜代家老衆》甘利郷左衛門尉信康

《武田筒衆頭・近習衆》鈴木孫一重秀

《高遠郡代官・普請奉行・鉄砲作事方・足軽大将衆》長坂筑後守虎房(釣閑斎光堅)

《金山奉行・金山衆差配、武田家外交方》大蔵藤十郎長安


 以上、君臣合計で40有余名の武将が此の本堂に参集していた。正に《武田家の中枢》を成す者達が一堂に会したのだ。

 

 彼等重臣の一番最後に入ってきた穴山信君は、信玄に対してうやうやしく礼を施すと、己の席次に従って上座に近い場所…上座脇の信廉の隣りに座する。

 すると集まった諸将を意識しながら、上座の勝頼に食って掛かった。

「評定の前に御陣代に御教示致したき儀が御座る。此度の御屋形様の《清華成》、誠に目出度き慶事に御座る。此の機会に己の功績や権力を、御屋形様や我等にひけらかしたい気持ちが御座ろう。然れど、我等一同は或る者は国の境目の守りに就き、或る者は国政を司る御役目を帯びる立場、一々此の様な呼び出しを為さっては敵に付け入る隙を与えるのみ。今後は此の様な無様な采配は厳に慎まれるが宜しかろうと存ずる!」

 武田の分家とも言える甲斐最大の領主・穴山家の当主である信君にとって、《妾腹の出自》(諏訪御寮人の息子)でありながら当主に就任した勝頼は未熟な簒奪者も同然だった。

 其の嫉妬心から、信玄の前にも関わらず勝頼を罵倒してみせたのだ。

 

「左様、左様。折角御屋形様が御本復為さったのだ。四郎(勝頼の仮名)殿はいっそ御屋形様に陣代職を返上しては如何かな?」

 信君の発言を聞いて、調子付いた相婿の木曾義昌が相槌を打って勝頼を口汚なく罵る。

 更には無言ながらも、小山田信茂も口角を上げて冷笑を隠そうともしない。

 半ば言われ放題の勝頼は、瞑黙した侭で静かに聞き続ける。横に座する信玄も、敢えて留め立てする気配も無く彼等や他の重臣達の顔色を窺って居る。

 むしろ、真田信綱・昌輝兄弟や小幡憲重・信実、保科正俊・正直、岡部正綱・元信等の《先方衆》が一斉にいきり立った。

 陣代就任後、己の味方を増やす為とは言え、外様家臣である《先方衆》を譜代並みの扱いに変えてくれた勝頼に、先方衆の面々は強い支持を寄せていた。

 其の勝頼や自分達に対して、特権を振り翳すが如き言動を行う御親類衆に反発したのだ。

 そんな騒然とした広間全体に、まるで百雷が一度に落ちたかの如き怒号が響き渡った。 

 

「好い加減に致せっ!穴山殿、木曾殿、慮外者は貴殿等の方だ!勝頼様は朝廷によって《大膳大夫》の官途を与えられ、武家伝奏たる飛鳥井卿の前で武田の家督を襲名為さったのだ!貴殿等の物言いが、正式な御屋形と成られた方に対して相応しいか考えて見るが善いっ!」

 両職(筆頭家老)の1人で、陣代の頃から勝頼を支えてきた山県昌景が、戦場の号令を彷彿とさせる大声量で信君達を戒めたのだ。

「や、山県殿…。何も其処迄深い意味は御座らぬ。本の戯言ざれごとで御座るよ」

 昌景の予想外の舌鋒に、すっかり怖気付いた義昌は昌景に言遁れしようとする。

 其れに比べると遥かに肝が据わった信茂は、信君達への援護とばかりに此の評定の人選にも異議を唱えた。

 

「其れのみでは御座らぬ。御親類衆や譜代の重臣の評定に、外様であり《寄子》に付けるべき先方衆を同席するとは誠に料簡違いも甚だしいと存ずるが…」

 勝頼に対して挑戦的な視線で睨み据えた信茂に、槍玉に上げられた先方衆の者達は無言ながらも怒りの視線を向ける。

 だが勝頼は改めて参集した者達を見渡しながら、改めて今回の評定が通常とは異なる事を強調する。

 

「何も儂の当主就任を祝したくて参集致したのでは無い。儂自身、昇叙任官の儀式のみで代替りはいづれの機会に、と考えていた位だからな。此度の様な《主君の昇叙》が如き慶事為らば、領国各地に散らばる重臣達が名代に一時委ねて招集致したとしても、他国の間者共に勘繰られる事は有るまい…」

如何様いかさま。武田家初の《公卿》の叙任を祝うと為らば、重臣達が府中に集まるは当然で御座るからな」

 もう1人の両職であるが原昌胤が、勝頼の考えた招集の機会に賛意を示す。

 更には集まった諸将の多くも大きく頷いているのを確認して、勝頼は信君達に再び言葉を継いだ。

 

「《先方衆》も、《御親類衆》や《譜代家老衆》《足軽大将衆》同様に、武田家の大切な家臣であり重要な戦力だ。父上や祖父・信虎公が他国から引き抜いた者達を、足軽大将に取り立てて家臣の層を厚く致したのは、其の考え故だ。此度も此の評定に必要最低限の者のみを招集致したつもりだ。何かしら異議有らば忌憚無く述べてくれ」

「…いや、構いませぬ。話を先に進められよ…」

 憮然とした信君がそう声を絞り出すと、他の2人も渋々承知した。

 

(此れは何だ?以前の四郎為らば彼の様な言われ様を致さば、激昂致すのみで正面な議論なぞ出来なかった筈だ。昨年の父上(信虎)との対面の刻といい、確かに成長著しいのは認めざるを得まいな…)

 御親類衆の列の最も上座側に座していた武田信廉は、勝頼の応対や発言に目を見張りつつ、無言を貫く長兄・信玄を見遣ると、息子の成長を垣間見たのが余程嬉しいのか、時折微笑みが零れているのを見て取った。

(成程、兄上の…御屋形様の思惑通りという訳か。取り敢えずは致し方無し、四郎殿を武田の旗頭に仰ぐと致そうか…)

 信廉は人知れず嘆息しながら、勝頼の当主就任への心中のわだかまりに、一応の折り合いを付けたのだった。

 

 一方、評定の開催に表立って異議を唱える者が絶えると、勝頼はおもむろに話を進め始めた。

「…無論、昇叙の儀に併せてお主等を呼んだのには訳が有る。でなければ態々(わざわざ)名代を任地に残して迄、本人を府中に参じる命は出さぬ」

 そう言うと、隣りに座する信玄に語り掛ける。

「父上、養生は確か3年を期と致して居られた筈。御加減は如何で御座いますか?」

「うむ、養生の御陰か近頃は体調も相当に良い。山歩きを致したり、勝頼から差し入れて貰った《10匁筒》を使って的撃ち致したりして少しづつ身体を元に戻しておる処だ」

 其処に申次役として側で仕えて来た長坂昌国と跡部昌忠が、信玄の近況に補足を入れる。

 

「左様で御座る。昨年は側妻を新たに持たれる迄に回復為さって居られまするぞ!御安堵召されなさいませ!」

「如何様、更には昨年の末には姫君が御生れになられ申した。それがしも拝見させて頂き申したが、其れは愛くるしい姫君で御座った」

 2人の話を聞いた諸将から

『おおっ!』

と歓声が上がる中、勝頼は眉間を抑えつつ小声で信玄に苦言を呈した。

「父上、養生の最中に側妻を置いて《氣》を与えて居っては元の木阿弥では御座らぬか…。真面目に養生に勤しんで下され…」

「何を申すか。元気為ればこそ女子衆おなごしゅうを側妻に入れておるのだ。謂わば順調に養生を果たした証左だろうが」

 生来の好色家である父・信玄の屁理屈の如き言い訳を、勝頼は聞き流して評定を続ける事にした。

 

「兎に角、父上は確実に以前の壮健さを取り戻しつつあられる様だ。然すれば、我々も次の動きに入る事が出来る。父上の存在こそが此れからの《武田の軍略》の肝と成るのだからな」

 そう言って、側に置いた文筥の中から2通の書状を取り出すと、諸将に回して読む様に促しつつ説明を加える。

「上野の石倉城から伝え聞いた者も居ろうが、1通は1月14日付の石山本願寺の法主・顕如光佐殿から《織田家と逸早く絶交致して後背を衝いて欲しい》との書状だ。もう1通は、京の公方たる足利大納言(義昭)殿からの御内書だ。《甲相越の3家が和睦致して、織田家と対抗して欲しい》と記されておる…」

「うむ、確か儂と勝頼の連名に宛てた書状であったな?」

 隣りに座する信玄の確認に、勝頼は頷いて返答する。

「はい、此の内の本願寺には長延寺を石山に派遣致し申した。向こうの出方にも拠りまするが、此方からは《加越(加賀越中)の一向一揆の挙兵》を依頼致す所存で御座る」

 

 《長延寺》とは、信玄が鎌倉より招いた一向宗の寺院で、住職の実了師慶の事を指している。

 実了は、信玄・勝頼の使僧として度々各地に遣わされており、此の時も勝頼の命を受けて大坂の石山本願寺に派遣されていたのだ。

 

「長延寺が向かっておるなら一先ずは案ずる事は有りますまい。大坂の門跡殿(顕如の事)の返答待ち、といった処で御座るな」

 勝頼の話を聞いた一条信龍がそう述べると、実了の人となりを知る多くの者が頷いて賛意を表す。

「だとすると、問題は御内書の方ですな。表立っては兎も角、公方様と織田弾正(信長)が仲違いしておるのは公然の事実…」

「然り、だからこそ公方様は武田家に対して、御内書を送って助力を求めて参ったので御座ろう!」

 小山田昌成と栗原詮冬が御内書について指摘すると、隣りに座する今福顕倍が疑問を投げ掛けてくる。

「然れど、昨年末に盟に復した北条はいざ知らず、上杉とは本の先月迄睨み合いを致して居ったのに《甲相越のー和》なぞ難しかろうと存ずるが?」

「確かに丹波(顕倍)殿が申される通りだ。大体上杉とは八幡原(川中島)以来敵同士の間柄、公方様の為に今更此方から和を請うのは如何な物か…」

 顕倍に同調した駒井昌直に対して、隣りの跡部勝資が反論する。

 勝資は武藤昌幸等と共に、信玄の元で《法性院様申次役》を務めた際には、特に外交の才に磨きを掛け、父の伊賀守信秋(攀桂斎祖慶)の死と共に300騎持ちの譜代家老衆として名を連ねていた。

 また、亡父の信秋と昌直の亡父・高白斎は元同僚で、息子同士も親交が在るのだ。

 

「其れは御懸念には及びますまい。上杉とは3年前の永禄12年(1569年)に公方様の肝煎りで《甲越一和》を結んでおりますぞ」

「然れど、其の内実は《御互いに手を出さぬ》というのみで、とても盟約と呼べる代物では有るまい。しかも今年に入って上杉が上野に攻め入って反故に為ったではないか!」

 

 勝資に対して、上杉との《八幡原の戦い》で父・信繁(古典厩)を喪った武田信豊が声を荒げる。

 其の時、勝頼が信豊に声を掛けた。勿論其の場の諸将全員が聞く事が計算されているのだ。

 

「上杉は既に徳川と盟を結び、織田にもよしみを通じようと秋波を送っておる。恐らくは近い内に織田弾正(信長)の陣営に取り込まれるで在ろう。勿論、手をこまぬくつもりは毛頭無い。先程申した様に、加越の一向一揆を上杉との戦に動かす所存だ。他にも陸奥会津の蘆名修理(盛氏)・大膳(盛興)親子を動かして、揚北(越後下越地方・阿賀野川以北の地)を窺わせる。肝要なのは上杉の矛先を此方に向けぬ事だ…」

 勝頼の策は《遠交近攻策》の応用であり、諸将達も十分に納得出来る内容に頷いている。

 信玄や後見人たる宿老達も、当初に比べて格段に安定感を増した勝頼の振舞に、安堵の表情を浮かべていた。

 

「北条と盟約を結び、上杉の動きを封じたならば、次はいよいよ公方様の命を奉じて上洛の戦に打って出るのですな!」

「うむ!淡路殿、考えるだけで腕が鳴りまするな!」

 喜色に満ちた面持ちの多田常昌と小幡昌盛が、顔を見合わせて言い合うと、回りの諸将も頷きながら期待感を滲ませる。

 しかし勝頼の次の発言は、一見すると諸将の期待を裏切る物だったのだ。

 

「此処に居る者達に一つ言わねば為らぬ事が有る。此の武田勝頼、当代の征夷大将軍たる足利大納言殿の下知に従って、上洛の戦を興すつもりは毛頭無い」

 余りにも気負いが無い静かな口調であった為、真意を知らされていない諸将は思わず聞き流しそうになり、思考を停止させて勝頼の言葉の内容を反芻する。

 次の刹那、多くの武将達が勝頼の発言に反撥して一斉に騒ぎ立てた。

 

「勝頼様、何を仰有られて居られまするか!公方様の下知に従わぬなら、今後如何に為さる御所存で御座る?」

「我等が上洛致さぬ為らば、公方様は織田弾正が軍勢には勝ちを拾うは適いませぬぞ!」

「勝頼様っ!御気は確かで御座るかっ!折角の天下取りの好機をむざむざ逃がすとは、他国や後世の物笑いの種に成りまするぞ!」

「勝頼殿、此れは正に国主の風上にも置けぬ所業ぞっ!御屋形様、矢張り此処は勝頼殿に家督を御譲りに為るのは、御延ばしあそばした方が宜しいのでは?」

 勝頼を支持する武将達さえ騒ぎ立てる中、信君などは千載一遇の好機と言わんばかりに、信玄に対して改めて家督相続の延期を進言しだす始末である。

 だが比較的に機転が効いた数名の武将達は、勝頼の発言の中の言い回しに違和感を感じていた。勝頼は将軍で或る筈の義昭を《公方》や《武家御所》という尊称を使わず官途名で呼称しているのだ。

 勿論勝頼の、そして信玄の真意を既に知らされている者達は、軽く瞑黙して勝頼の次なる言葉を待つ。

 そして勝頼が発した次なる一言は、騒然とした諸将を一瞬にして茫然自失に追い込むに充分過ぎる代物だったのだ。

 

「此れより話す事は此の場以外は決して他言無用と致す。武田家は、甲斐源氏の嫡流たる《武田権中納言・右近衛権中将・源朝臣晴信公》を旗印として奉じる事と致す!そして足利家に代わる新たな《征夷大将軍》に奉じるべく動いていく所存だ!…何かしら異議有る者は此の場にて申してみるが善い!」

 

「なっ…!」

「其れは無謀な…!」

「いや大膳様、某には全く異議は御座いませぬ!」

いよいよ挙兵の刻が到ったかっ!腕が鳴るのぅ!」

 此の《野望》を初めて聞いた諸将の内、土屋長安・鈴木重秀の両名は、勝頼の主張に完全に同調している。

 しかし他の初耳だった諸将は、勝頼の宣言をまるで絵空事を聞くかの様に茫然としていた。

 そんな中、信玄の実弟である武田信廉が漸く呻く様なか細い声で聞き返してくる。

 

「勝頼殿…。そして兄上も、本気で戯言の如き大それた望みが叶うと思って居られるのか?管領職為らば兎も角、将軍位を簒奪致すべく動かば、織田に代わり我等に対して《追討の御内書》が出されようぞ!」

 信廉はそう言いながら上座の信玄・勝頼親子を仰ぎ見るが、2人の面持ちからは不安どころか、むしろ自信さえも窺える。

 更には目の前に座する昌景・信春・昌秀・虎綱・幸綱の5人の宿老と両職の1人である原昌胤の表情にも、動揺らしき物は浮かんでいない。

「…そうか、お主等もうに承知の上か。為らば如何にして新たな武家御所を打ち建てる所存だ?其の指針も無ければ我等も首を縦には振れぬぞ?」

「無論だ。六郎(信廉の仮名)よ、そして余の者達も聴くが善い…」

 信廉からの質問…とは名ばかりの苦言を、上座の信玄が妨げる。そして此の本堂に居る全ての者を言い含めていく。

 

「此の日の本の国は、《応仁・文明の騒乱》から早百年余り、東国では《永享の鎌倉討伐》以来130年以上も戦乱に明け暮れて居ったのだ。好い加減泰平を求めても良い頃合だろう。然れど今の公方…義昭は傀儡遣いの信長からの操り糸を切る事のみに熱中し、戦乱に倦む人々の塗炭の苦しみから眼をそらしておる!」

 信玄は本堂に集っている重臣達を見渡しながら、己の胸中に燃え盛る野望を吐露していく。

「為らば、甲斐源氏の嫡流たる此の儂が、乱れた世を再び束ねて呉れよう!上洛の兵を挙げ、前途を阻むであろう織田信長を討ち果たして、新たなまつりごとを開闢致すのだ!」

「兄上…、甲斐源氏という血統だけでは他国の武士はおろか、武田家の家臣さえも二の足を踏もう…。此の儂自身も公方様を弑し奉って迄、天下を目指す事は考えられん…」

 兄弟の中では比較的気弱で、気質としては文化人肌である信廉は、長兄・信玄の真意を知らされて不安を口にする。

「いえ、叔父上。御懸念には及びませぬ。足利大納言…義昭公には、父上に将軍位を禅譲して頂き《大御所》に就いて貰う所存で御座る」

 不安がる信廉に対して、信玄と共に上座に座する勝頼が、信廉や諸将の不安を払拭すべく説明を聞かせる。

「また、父上は此の度《従三位権中納言・右近衛権中将》の官途に叙任致されて御座る。従三位以上の者…即ち《公卿》には、形式的ながら朝廷から政所まんどころを設置する権限が与えられまする」

 

 《政所》とは、親王や公卿以上の者に設置が認められる家政機関(家中の一切の仕事を取り仕切る組織)の事である。

 かつて、鎌倉幕府を開闢した源頼朝は、従二位として公卿に列した際に、其れ迄訴訟や公文書発給作業を担っていた《公文所》を、律令制に則した形で家中の所領の訴訟や財政を司る《政所》へと発展・統合させている。

 其の後、此の機能は足利幕府にも受け継がれており、足利家の家政機関として代々伊勢家が政所執事を継承していたのだ。

(余談だが、関東に覇を唱える北条家の初代・早雲庵宗瑞は、此の伊勢家の備中の分家の出自と言われている)

 

「ふむ、確かに独自の《政所》を設けて執事職を置く事は可能だろう。詰まる処、先ずは武田家の中にも《武家御所》に変わり得る新たな政の組織の核を固める訳か…」

 信廉が《政所を設置する》という勝頼の提案に理解を示すと、諸将の間からも次第に賛意が沸き起こったが、其処に土屋昌続が冷静に国力差を指摘する。

「如何様。然れど大膳様、我が武田家の領国は甲斐・信濃・駿河・西上野に加えて飛騨・三河・遠江・伊豆の一部のみ。対する織田弾正の所領は8ヶ国半に及び、更には京と堺を抑えて居りまする。今の侭で織田弾正を討ち果たして上洛を果たす事は難しかろうと思案しまするが…」

 

 此の刻(元亀3年4月時点)の織田家の領国は、尾張・美濃・伊勢・志摩・若狭・山城・大和・河内・南近江の8ヶ国半に、摂津・和泉・但馬・丹波の夫々(それぞれ)一部が含まれていた。

 更には、三河・遠江の徳川三河侍従家康が同盟者、というよりも傘下の大名として存在していたのだ。

 

「うむ、昌続の申す通り此の侭では上洛を果たすのは難しかろう。鉄砲1つを取っても、今の武田家と織田家の差は歴然としておる。其れ故に、武田の軍勢が織田弾正と雌雄を決するのは、余程の事が無い限りは国力の差が縮まる迄は…儂としては2・3年先に延ばしたい所存だ」

「勝頼殿、何を迂遠な事を申すのだ!御屋形様…中納言様の御決意を聞いてなおも其の様な事を申されるかっ!」

「小山田殿、某が大膳様に御聞き致して居るので御座る!横車は止して頂きたい!」

 猛り立って勝頼の話を遮った信茂に、昌続は睨み付けて抗議したが、勝頼自身が手を翳して昌続を制した。

「昌続、儂は別段構わぬ。善いか信茂殿?武田家と織田家は曲がりなりにも盟約を結んでおり、未だに破棄されては居らぬ。御互いが刻を稼ぐ為とは言え、な…」

「馬鹿にして居られるのかっ!其れしきの事は疾うに判っておる!」

「うむ。為らば問おう。如何にして織田家との盟約を解くのが《武家の棟梁》に相応しいと考える?」

「何とっ!ふむ…」

「此れは改まって考えると難しいですな…」

 勝頼からの突然の質問に、信茂や昌続だけでは無く本堂の中の全員が黙り込んだ。

 信玄も隣りに座する己の後継者を、興味津々に眺めている。

 

「そ…、其の様な事は決まっておろう!織田が盟約に油断致して居る為らば、其の隙を突いて襲わば善いではないか!」

 僅かの沈黙の後に、義昌がまるで妙案が浮かんだかの如く言い放つと、同じ列に座する一条信龍が即座に否定した。

「其れは悪手だな。其の様な無様な事を致しては、相手の恨みを買うばかりか周囲の大名共からも軽く見られようよ!」

「うむっ!信龍が申す通り、肝要な事は正に其処なのだ!管領職を目指す為らば《幕府からの命が有った故に致し方無し》との言訳が立とう。然れど、武田家が新たな《武家の棟梁》たるを目指す為らば、誰もが認め得る大義名分が必要だ。其れこそ《織田方が不義を重ねた挙句の果てに盟約を破って我等に襲い懸かる》等の、万人が首肯するに相応しい大義がな…」

 信龍の反論を補足為るかの様に勝頼が己の主張を述べると、矜持が傷付けられたと考えた義昌が1人立ち上がって勝頼を糾弾する。

 

「なっ、何を吐かすかっ!下手に其の様な些細な事にこだわって居っては、織田を野放しに為るも同然では無いかっ!」

「木曾殿、御控え召されよ!中納言様と新たな御屋形様の御前で御座るぞ!」

「黙れ外様の分際がっ!御親類衆たる儂に何たる無礼な奴よ!」

 激昂した義昌が、制止しようとした保科正俊を怒鳴り付けるが、其処に上座から義昌をたしなめる声が響く。

「婿殿、其の様な物言いは感心せぬな。誉れ高き《槍弾正》の申す通り、先ずは控えるが善い」

「はっ!申し訳御座いませぬ…」

 信玄からの叱正に意気消沈した義昌が俯いてしまうと、勝頼は信玄に目礼してから続きを語り始める。

 

「勿論先程申した通り、彼我の国力差を少しでも詰める必要もある。鉄砲の数は勿論の事、玉薬の材料たる塩硝の量では全く適わない。…せめて勝ちの目が見えて来る迄は、我が方から織田家に対して、攻め入る様な事は控えたい。但し先に織田の方から不意の戦を仕掛けて来るなら、全力を傾けて戦い抜く所存だ。…とは言え、京の大納言(義昭)殿が自らの権威回復の為に、朝倉・浅井・本願寺を中心とした畿内の大名達を使嗾為る筈だ。恐らくは相伴衆の無人斎道有(武田陸奥守信虎)殿が纏めるで在ろう此の《織田包囲網》を使わぬ手は無い。彼等の力を利用して、織田の力が此れ以上増さぬ様に、軍勢を畿内に引き付けて貰う。但し、大納言殿が先走り過ぎて潰されたり、此方の支度が調う前に戦に巻き込まれては元も子も無い。無人斎殿には書状を出して、くれぐれも御軽挙を慎んで貰う。更には武田家も各地の大名を後方から支えて、我等が兵を挙げた後は陣営に取り込む所存だ…」

「まぁ其処迄は問題は有りますまいな。然れど、我等武田家の動きは如何相成るので御座るか?」

 其処迄の説明に得心が入った信茂からの質問に、勝頼は軽く頷いてから続きを述べていく。

 

「うむ、我が武田家は先程申した通り、織田方に付くで在ろう越後の上杉勢を、加越の一向一揆勢を使って北陸道に縛り付ける。関東や北信濃を襲われては厄介故な。そして上洛の兵を挙げる前に、先ずは武田家に不義を重ねた2家の大名を攻め滅ぼし、領国に取り込む所存だ!」

「2家ですと?1つは数年来刃を交える徳川家とは判り申すが、今1つは何処で御座るか?」

 御親類衆の末席に座している板垣信安が質問した事は、此の場の諸将の多くに共通した疑問だった。

 勝頼は一呼吸置いて諸将を見渡すと、力強い口調で戦うべき《敵》の名を断言した。

 

「1つは信安殿が申す通り三河の徳川三州(家康)だ。昨年には駿河島田宿を焼き討ちを致す等不埒な所業が在る故に、既に書状にて宣じており、朝廷にも御奏請申し上げて居る。そして今1つは南飛騨・桜洞城の三木飛州(姉小路中納言・飛騨守頼良)だ!」

「はて…、桜洞の三木と言えば、飛騨国司の姉小路家を継いだ三木で御座るか?彼の者共は8年前に山県殿や木曾殿が叩いて居った筈だが…」

 

 飛騨国司姉小路家は、建武の新政の際に南朝方の参議・姉小路高基が飛騨に下向した事に始まる。

 其の後、北朝…幕府方の守護・京極家との争いに破れ、更には《応永飛騨の乱》と呼ばれる内乱を契機に3家に分裂して抗争と衰退を繰り返した結果、飛騨国司の姉小路家は実質的な断絶状態に陥った。

 

 其処に目を着けたのが、京極家の被官から南飛騨に土着した三木家の飛騨守頼良である。

 頼良は朝廷工作の末に嫡男の自綱よりつなを姉小路家の後継とする事に成功すると、自らも姉小路姓を名乗って《中納言》の官途を自称したのだ。

 更には越後上杉家や美濃斎藤家のと誼を通じると、武田領である信濃木曾谷や武田家に従う国衆が多い北飛騨に侵攻を繰り返したのだった。

 永禄7年(1564年)には飯富昌景(後の山県昌景)と木曾義昌を主将とした武田軍が、武田に従う北飛騨の江馬右馬頭時盛を支援して桜洞城を攻撃、頼良は所領の一部を割譲して武田家に臣従した。

 しかし頼良は再び武田家に反旗を翻し、上杉家や織田家と誼を通じた他、江馬時盛の嫡男で上杉派の常陸介輝盛と共に、武田派の飛騨国衆への攻撃を加えていたのだ。

 

 勝頼は堂内の諸将に飛騨の状況を掻い摘まんで説明すると、全体を見渡しながら飛騨を攻撃目標に加える理由を述べる。

「此度は飛騨の三木飛州や江馬常州(常陸介輝盛)を飛騨から逐うに際して、武田に飛騨出兵の《ことわり》が在る事を世に知らしめる為に、父上と儂の連名で朝廷に上奏申し上げる。とは言え、昨年の徳川討伐の奏請同様に、織田殿が介入して潰される筈だ。其処で、京に詰める今福浄閑斎(石見守友清)からの《参内した》との報せが入り次第飛騨に討入り致して、遅くとも秋口迄には飛騨一国を完全に平定致す所存だ!」

「成程…。飛騨を抑えた為らば加越の一向一揆や越前の朝倉との繋ぎが容易に成りますな!」

 秋山虎繁がそう言うと多くの者達が頷いている。其れを見て取った勝頼は、譜代家老衆の面々の内の1人に命令を下す。

 

「詮冬、此度の飛騨討入の大将は其処許そこもとに務めて貰おう。此の人選は父上とも談議致して決めた事だ。また、寄騎衆に関しては陣場奉行である(原隼人允)昌胤と話を詰めるが善い。子細が定まり次第、直ちに牧之島城に戻って出陣の支度に入るのだ!」

「承知致し申した!《速攻の栗原》と称された父・左衛門佐(昌清)の銘に恥じぬ働きをして見せまする!隼人允殿、宜しく御願い仕る!其れと、先に飛騨を攻め入られた木曾殿と山県殿にも御助力を御願い申し上げる!」

 詮冬から相談と支援を要請された3人の内、昌胤と昌景は快く了承したが、義昌のみは信玄や周りの諸将の眼を気にしながら渋々承知する。

 とは言え、飛騨出兵の一応の方針が決まると、勝頼は改めて諸将に徳川領を攻める事を宣言した。

 

「うむ、其れと秋が深まって稲刈りが済んだ頃を見計らって遠江と三河に攻め入るぞ!織田弾正の後詰が入る前に、武田の総力を上げて徳川三州を叩き潰すのだ!」

『応っ!』

 勝頼の檄に力強く応じる諸将を見渡して、信玄は己の後継者の成長に安堵していた。

 

(若しも家督を譲らぬ侭で儂が死んでいたならば、此奴等は勝頼の命令など歯牙にも掛けて居らなんだろう。だが3年間《陣代》を務めた事と、5人の後見人の薫陶を受けた事が、勝頼の血肉と成って生きて居る。此れ為らば勝頼に武田家の事を任せ、儂は今暫くの静養と《天下統一》への策を練る事に専念出来そうだな…)

 信玄は勝頼の素質を最大限引き出した此の結果に満足し、己の目標たる《天下取り》へと闘志を掻き立てるのだった。

 

 其の後、細かな部分を詰める為に白熱した評定が続き、一応の決着を見たのは周囲を夜の帳が包み込んだ頃の事であった。

 今後の方針を固めて評定を終えた信玄と勝頼は、上座で居住いを正し並んで諸将を見渡していく。

 そして信玄が黙った侭で促すと、勝頼は頷いて諸将に話し掛け始めた。

 

「此度の評定にて我等の方針が定まったとはいえども、今は盟約を結ぶ北条を含めて、他国が如何なる動きを致すかは全く判らぬのが現状だ。暫く戦わぬつもりでも、織田弾正の方から此方へ戦を仕掛ける事も有り得よう。父上に武家の棟梁へと駆け登って頂く迄のきざはしは、正に《艱難辛苦》の連続と成ろう。然れど、我等の手で必ずや父上を天下人にしてみせようぞ!そして、此の扶桑に於いて苦しんでおる民達を平安に導くのだっ!」

『ぅおおぉっ!』

 勝頼の言葉を聞いた諸将が、武者震いしながらも雄叫びの如き歓声を上げるのを確認した信玄は、勝頼に目配せして後ろ向きに座り直すと、燭台の灯に照らし出された武田家の家宝を確と見据えて、朗々とした声で宣言する。

 

「新羅三郎義光公よ、そして武田家歴代の宗主の方々よ!儂は我が世継ぎたる勝頼と此の家臣共と力を合せ、必ずや《武家の棟梁》に就いてみせまする!どうか浄土から御覧下されよ!御旗・楯無、御照覧あれ!」

『御旗・楯無、御照覧あれ!』

 信玄が誓いの口上を唱えた刹那、諸将の目付きが鋭い物へと変化すると、まるで打ち合わせた様に見事に口上を唱和する。堂内は彼等が発する熱気に瞬く間に包まれていったのだった。

 

 甲斐武田家は此の2日間を期に、世代交代による新たな政治体制と新たな野望に向かって動き出し始める事になった。

 しかしながら、周囲の状況が全く予断を許さない事は、勝頼が陣代の頃と大差が無かった。

 だが其れでも、積翠寺に居る武田主従だけでは無く、武田領の内外で暮らす殆ど全ての者が、間も無く訪れるで在ろう更なる《大戦乱》の予感を肌に感じているのだった。

 

 結論として、京で起きるある事件を契機として、双方の思惑を飛び越える速度で、翌年には武田・織田間で《全面戦争》が沸き起こり、他国を巻き込んで多くの戦渦を生む事に為るのである。


これで正式に勝頼を当主に出来たのですが、遅筆故に随分時間が掛かってしまいました。まだまだ先が長いですが、長い目で付き合って頂ければ幸いです。さて次回は使僧の長延寺実了が越中に赴く件、そして飛騨攻めの話になります。相変わらずの乱文ですが、是非とも読んで頂ければ嬉しく思います。


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