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拾伍:元亀争乱(捌)~上州の対陣~

今回は、武田勝頼が上野に於いて上杉謙信の軍勢と睨み合う話です。史実では信玄が率いて睨み合いをしていますが、未熟な勝頼は如何に乗り切るでしょうか?相変わらずの乱文ですが御一読下されば幸いです。

 関東と越後の間に大きく横たわる三国山脈には、早春とは名ばかりで未だに降り積もった豪雪に覆われ、峰々を白銀に輝かせている。

 夏の豊富な雨量に因って鋭く削られた其の稜線は、白銀の雪に反射された陽光と相俟って、まるで長柄足軽達が穂先を並べて、高々と掲げたかの様だ。

 しかし三国山脈の麓の南側と北側では、別世界の様に其の様相を全く異にする。

 三国の嶮に因って多くの雪雲は捕えられる為、《雪国》の異称が相応しい豪雪地帯である北の越後側と違い、南の上野側は北側に比べて降雪量が著しく少なくなっている。

 とは言え三国山脈の南麓とも為れば、早春の頃には2尺近い雪が降り積もり、街道の脇には除いた雪がうずたかく積まれているのだ。

 当時南蛮に於いて使われた暦(ユリウス歴)で2月15日にあたる此の日も、其れは例外では無かった。


 そんな三国山脈の南麓、越後と関東を結ぶ三国峠を越えて暫く進むと、北上野を抑える要衝・沼田城が聳えている。

 利根川の上流部と支流の蓮根川・片品川の合流点に面した断崖の地に築かれた此の城は、元々は地元の国衆である沼田氏に因って築城された。

 だが越後の戦国大名・上杉(長尾)家によって永禄3年(1560年)に占領されて以来、《入関》…上杉勢の関東遠征の拠点として利用されているのだ。

 此の時、沼田城には前年11月から上杉輝虎率いる上杉勢が三国峠を越えて入城しており、其の侭沼田城で越年して駐留を続けていた。

 だが、去る1月15日に沼田城に数年来の同盟相手である相模北条家の使者が訪れた。

 そして北条家当主の相模守氏政から、上杉家との絶交状が送りつけられ、同盟が破棄されてしまったのだ。

 憂いた上杉家は現有の兵力のみで出陣、惣社城・厩橋城を奪還すると共に、直ちに陣触れを発し、上杉に従う関東各地の国衆、及び三国山脈を越えた上田庄に所領を持つ《上田衆》等に対して沼田城への参集を命じていた。


 そして此の日、出陣を翌日に控えて、沼田城には東国各地から次々と軍勢が集結していた。

 狭い城内は出陣前の最後の準備でごった返し、城内に収まり切れない軍勢は城の周りに陣を構えて、其の時を今や遅しと待ち構えている。

 北側に視線を向けると、三国峠から続く幾人にも踏み固められた山道を、《上田衆》の軍勢が此方に向かって来るのが見えるのだった。


 《上田衆》は輝虎の義兄(姉婿)で永禄8年(1565年)に水死した上田長尾家の長尾越前守政景の遺臣団である。

 しかし生前の政景が当主の座を狙っていた事もあり、輝虎は政景の妻である仙洞院(輝虎の姉)と嫡男・喜平次顕景を春日山城で預かった。

 更には上田長尾家の本拠地である魚沼郡上田庄を直轄化、《上田衆》は解体されて各地の最前線に送られた。

 謂わば顕景を人質に取られた《上田衆》達は、顕景が上田長尾家を再興する事を信じ、最前線に赴いて戦い続けていた。

 今回も北条との断交を受けて《上田衆》に対して、未だに雪深い三国峠を越山して沼田城に集まる様に命じられ、天嶮を越えて上野に出兵して来たのだった。


 そして沼田城の本曲輪では、具足を纏い行人包を被った壮年の武人が、櫓の上から三国の嶮を背にして大杯を煽っている。

 其の人物…関東管領たる上杉弾正少弼輝虎、法名不識庵謙信…の顔は、実弟・三郎(上杉景虎)を見捨てて迄して、武田と再び結んだ北条氏政に対する怒りで、憤懣遣る方無い面持ちを見せていた。


 時に元亀3年(1572年)閏1月2日の事である。


「実城様(謙信の尊称)、如何為さいましたか?御加減が優れぬ様に御見受け致しますが…」

 輝虎の背後から、譜代の旗本で腹心の1人である三条城主・山吉孫二郎豊守が話し掛けて来る。

「孫二郎か…。此度の絶交で、北条は(柿崎)晴家を血祭りに上げる所存だろう。和泉(柿崎和泉守景家)には悪い事を致したが、北条の血を以てあがなわせて呉れよう!唆した為らば武田も同罪じゃ!諏訪の四郎(勝頼)とやらもどうやら父親の信玄坊主と同類であったか…」

 輝虎はまるで目の前に北条氏政や武田勝頼が居るかの様に、カッと前を睨み据えながら、京から取り寄せた酒蔵・柳屋産の酒を一気に飲み干す。


「実城様、小田原に忍んでおる軒猿が知らせて参ったのですが、どうやら柿崎左衛門(晴家)は無事に戻される様で御座いまする」

 豊守からそう告げられた輝虎は、手酌で大杯に酒を注ぎながら、無言の侭で話しの先を促す。

「此度、北条相州(氏政)の正室で武田信玄の息女、黄梅院が小田原に戻った際に其の様に薦めたそうで御座いまする。左衛門は既に一昨日には小田原を出立して上野に向かっておる、との事で御座いまする」

「ふむ。其れは誠に重畳だ。実は伊予(山本寺伊予守定長)から三郎(景虎)助命の嘆願が在ったのだ。伊予は三郎の傅役に就いておる故、一命に換えても助けて欲しい、とな。三郎自身に罪は無く、儂としても忍び無かった。晴家が戻るなら三郎を赦しても異論は有るまい。可惜あたら北条に返すのは惜しいがな…」

 見せしめの為とは言え、養子とは言え我が子を殺さずに済んだ為か、輝虎は愁眉を開いて安堵の表情を見せて大杯を煽った。

 だが、大杯の酒を飲み干すと再び鋭い目付きに戻る。


「だが、北条・武田の不義を正す事は別事じゃ!関東管領として不義のやからを見逃す事は出来ぬ!孫二郎、出陣の支度は如何相成っておるのだ?」

「はっ、陣触れを発して未だ着到致さぬのは《上田衆》のみで御座る。其の《上田衆》も三国峠を越えて此の沼田城に向かっておりまする。また、城代の石州(松本石見守景繁)殿より、小荷駄の支度も相調ったとの報せも参りました」

 豊守からの報告を聞いて、輝虎は口元を緩めて戦を待ち望んでいたかの様に微笑む。

 そして大杯を側に置くと、代わりに1尋(6尺・約181.8センチ)程の長さに切り取った青竹を握り締めた。

 越後を発つ時に、春日山城で切り出した青竹は、中風で左足に麻痺が残る輝虎にとっては、軍配であり杖でもあるのだ。

 其の侭で参集した軍勢の目の前に出ると、其れ迄ざわついていた者達が一瞬で静まり返った。

 しわぶき一つさえ上がらず静寂に覆われた軍勢に対して、輝虎は沼田城中に響き渡る様な気合が籠った声で出陣を命じる。


「者共っ!此の度、関東管領たる山内上杉家との盟約を反故ほごに致し、再び関東の安寧を妨げんと蠢動を始めた《他国の凶徒》伊勢氏政と、其の裏で奸計を巡らす武田信玄・勝頼親子に対して、《関東管領》の職責を以て懲罰を与える為、此れより出陣致す!先ずは朝駆け(払暁奇襲)にて武田方の石倉城を落とし、其の侭対岸の厩橋城に入城致す!…南無兜跋毘沙門天!我には北天の守護神たる毘沙門天の加護が付いておる!我に従い《正しき義》の力を以て《他国の凶徒》共を打ち払い、関東の静謐を取り戻すのだ!」

『うおおぉっ!』


 《他国の凶徒》とは、北条家2代の伊勢氏綱から相模を追われた扇谷上杉家の当時の当主・上杉修理大夫朝興が蔑みを込めて呼称した呼び名である。

(氏綱は此の事に対応して、鎌倉幕府執権の北条氏の後継を称して《北条》姓に改姓している)

 輝虎は青竹を揮いながら、一度は同盟を結んだ北条家を《他国の凶徒》と嘲罵する事で、集まった関東の諸将に自らの正当性を訴え掛けた。

 内心、北条家を《浪人の成り上がりの末裔》と捉えている関東の諸将には、此の主張は大いに受け入れられた。

 集まった諸将は鯨波を上げて、輝虎が関東管領として再び盟主に仰ぐ事を認めたのだった。


 薄暮の頃、沼田城からの出陣が始まり、入城出来ない侭に先陣として石倉城に向かわされる《上田衆》に続いて、関東の諸将の軍勢が松明を灯しながら次々と出陣して行く。

 其の光景を横目に見ながら、輝虎は豊守を呼び寄せて命じる。

「孫二郎、春日山の直江大和(景綱)と京の神余隼人(親綱)に遣いを放て!織田弾正(信長)と盟を結ぶべく交渉に入らせるのだ!武田に苦しめられて居る徳川侍従(家康)になかだちを頼めば否とは申すまい!行けっ!」

「御意っ!直ちに遣いを送りまする!」


 豊守は命を受けると、春日山城と上杉家の京屋敷に対して直ちに使者を遣わすべく下がって行く。

 出陣を開始して益々慌ただしさを増す城中に於いて、1人静寂に包まれたかの様な輝虎は、内心から沸々と湧き上がる怒りと闘志を抑えていた。


(…一度為らず二度迄も三郎を見捨てるとは、氏政は人面を被った獣も同然だ!唆した武田親子共々、関東管領たる此の儂が、必ずや報いを呉れてやろうぞ!)


 輝虎は利根川の流れが続く南側を見据える。視線の先には石倉城や厩橋城が、そして其の向こう側には北条家が不法に占拠する関東の大地が広がっているのだ。

 

 上杉輝虎率いる上杉勢は、3日未明には利根川を渡河して、払暁と共に利根川西岸に位置する石倉城に迫った。


 石倉城は元々は対岸に在る厩橋城の前身となった城である。

 しかし天文3年(1534年)の水害により利根川が氾濫、流路が変更した際に城の大半が水没し、新流路の東岸に残った部分が厩橋城へと発展している。

 其の後、永禄8年(1565年)に武田徳栄軒信玄(当時)が、対岸の厩橋城と西上野の要衝・箕輪城の連絡を遮断する為に、西岸の城跡に新たに石倉城を築城していたのだ。

 しかしながら上杉勢の怒濤の攻勢を前に、石倉城は僅かに1刻も持たずに落城した。

 輝虎は直ちに石倉城に守備兵を配置すると、再び利根川を渡河して厩橋城に入城した。


 此の攻勢には、襲われた当の武田家よりも、上杉との同盟を破棄した北条家の方が慌てていた。

 3年前の同盟締結以来、度重なる援軍要請をことごとく断ってきた上杉家が、同盟破棄と共に攻勢を仕掛けて来たのだ。

 北条家の者達にしてみれば、上杉の心底を見透かした心地になったのは否めない。

 とは言え、此の侭武蔵や下総へと南下されては、今後の関東の支配にも支障をきたす。

 北条家は、当主氏政の弟達…次弟・大石源三氏照と3弟・藤田新太郎氏邦率いる軍勢を上野に出陣させると共に、新たな同盟相手である甲斐武田家に援軍要請の使者を送ったのだ。


 だが武田家の対応は周囲の予測以上に早い物となった。

 石倉城の陥落後直ちに、上野箕輪城代の小幡信竜斎全賢(尾張守憲重)からの連絡が入ると、陣代(当主代行)たる武田左京大夫勝頼自ら率いる軍勢が直ちに甲斐府中を出陣した。

 陣触れに間に合わない軍勢は途中の諏訪上原城・佐久小諸城で合流、北条勢が上野に入る頃には、既に1万近い軍勢が碓氷峠を越えて上野に入っていたのだった。


「大石源三殿と藤田新太郎殿ですな。三増峠で一瞥致して以来で御座るな。武田家陣代の四郎勝頼で御座る。大石殿は相州(氏政)殿の名代、どうぞ隣りに御着座下され」

 石倉城の上杉勢を追い散らして奪還した武田軍に、北条の軍勢が合流すると直ちに、石倉城本曲輪に在る広間に、両家の武将達が集められて軍議が開かれる事になった。

 其の劈頭、勝頼は氏照・氏邦の兄弟を見掛けると、自ら自分の隣り…上座を薦めながら挨拶を交したのだ。


「僭越ながら上座に失礼致す。御貴殿が左京大夫殿か。儂が《滝山衆》旗頭の大石源三氏照で御座る。御貴殿の徳川相手の戦振り、此方にも伝わって居りまするぞ。れど、東国の荒武者や越後の強兵相手では如何でしたかな?…新太郎も返事を致さぬか」

「…鉢形の藤田新太郎じゃ!」

 氏照と氏邦は、3年前に勝頼が率いて初めて実施された《関東討入》で、夫々(それぞれ)の居城である滝山・鉢形両城を攻め立てられた。

 更には相模にて繰り広げられた《三増峠の戦い》でも、武田軍を追い払うのが精一杯で、実質的な敗北を喫していた。

 2人の心中には、つい数年前迄は世継ぎでさえ無かった勝頼に対して、未だに多少のわだかまりが残っており、其れが態度にも如実に現れていた。


「…成程、それがしに対して、多少含む処も有るだろうが、改めて盟約を交したからには《両家の繁栄》の為、水に流して下さらぬか?」

「ふんっ!随分と虫が良過ぎる話じゃな!我等北条は《甲相一和》を結び直す代償に、伊豆の一部と弟の三郎を失ったのじゃぞ!…まぁ、義姉上(氏政正室の黄梅院)を返してくれた事は諒とするがな…」

 北条家臣側の最も上座側に座した、兄以上の激情家である氏邦が、勝頼に対して食って掛かる。其処に1人の若い武将が声を掛けて制止した。


「新太郎兄上!左京殿は我が北条の同盟相手で御座る!落ち着いて下されぃ!」

「何とっ!助五郎、新四郎!何故貴様等が、此の上野に居るのじゃ!」

「…2人共に息災で在った様だな、誠に重畳だ。然れど左京殿、甲斐に人質に出した我が弟達を、此処に連れて参るとは如何なる了見で御座るか?」

 軍議の席に現れたのは、《甲相一和》の際に人質として武田家に預けられた2人の弟…北条助五郎氏規と新四郎氏忠で在った。

 氏規と氏忠は、氏邦の隣に開けられた席に着座すると、氏忠が上座の氏照に説明を始めた。


「源三兄者、某が説明致す。助五郎兄者と某は、加藤丹後(景忠)殿の郡内上野原城に預けられたが、直ぐに甲斐府中に召喚されたのだ。其処で我等は左京殿から、新三郎殿と長順殿が住んでいた屋敷を宛行あてがわれたのだ…」


 北条家の長老格・幻庵宗哲の息子である北条新三郎氏信と箱根少将長順は、3年前の駿河蒲原城の戦いで武田家の虜囚と成った。

 だが2年以上の間、2人は行動の制約は有るものの客将に準じる扱いを受けて、先月晴れて小田原に帰国を果たして、北伊豆に改めて知行を受けていた。

 氏規と氏忠も、同盟先からの人質とはいえ、氏信達と同様の待遇を与える様に指示が為されていたのだ。


「…という訳で、此度の出陣に際して某等は《左京殿の客将》として、上野迄出張って参ったので御座る」

 氏忠からの話を瞑黙した侭で聞いていた氏照は、勝頼の方を向き直すと改めて礼を述べる。


「御本城様(兄の氏政)に成り代わり礼を申す。とは言え、此の事と上杉との戦は別事で御座る。我等は武田と共に上杉を追い払う為に、此処に参ったのだからな」

「確かに仰有る通りで御座る。為らば大石殿は如何にして上杉と矛を交える御所存かな?」

 勝頼の逆質問に対して、すっかりいきり立った氏邦が噛み付いて来る。

 向かい側に座る武田家の諸将達は、其の姿に顔をしかめ苦笑を堪えている。


「決まっておろうが!利根川を渡り厩橋に入った謙信坊主を討ち果たすのよ!然すれば、次の上杉の当主は不在の侭、三郎を関東管領に就けるのも夢では無いっ!」

「止めぬか新太郎!お主は熱く為り過ぎじゃ!左京殿、弟の無礼を平に御容赦願いたい…」

 氏照は隣に座する勝頼に次弟の非礼を謝った。だが勝頼が氏邦の意見に真っ向から反対する。


「いや大石殿。御気に為さらずに結構で御座る。然れど藤田殿の策は某は…武田としては否、と言わざるを得ませぬな!」

「なぁにぃぃ!」

「新太郎、少しは黙っておれぃ!して左京殿、我が弟の意見を否定する理由を御聞かせ願いたい。でなければ、我等と致しても得心がが参りませぬな」

 氏邦は己の意見を否定されて、益々興奮して怒号を上げる。

 氏照はそんな氏邦を叱り付けながらも、己自身も納得出来ない故に、勝頼に再度の説明を求めた。

 すると勝頼は己の隣りに置いていた文筥ふばこから2通の書状を出すと、其れを氏照に差し出した。

「確かに判りにくう御座るな。為らば大石殿、此等の書状を一読して頂きたい。北条にも関わる事である故に、藤田殿や重臣方にも回して一読下され…」

「では失礼して拝見致す。…むぅ!此れは…、新太郎、此れを読むが良い!」

 勝頼が文筥から取り出した書状を預かって一読した氏照は思わず声を上げ、弟達に書状を回していく。


「此等の書状は、1通は去る1月14日に石山本願寺の法主・顕如光佐殿から、某と父・信玄の両名に宛てた物で、《織田家と逸早く絶交致して後背を衝いて欲しい》との内容で御座る。そして今1通は、京に居られる公方様…足利義昭公からの御内書で御座る。《甲相越の3家が和睦致して、織田家と対抗して欲しい》との内容で御座るが、此方は小田原にも同様の内容の御内書が届けられた筈で御座る。勿論、其等は府中から持ち出した真物故に大切に扱って頂きたい」

「確かに小田原には、先代たる父上(氏康)の御生前の頃から御内書が届けられて居り申した。とは言え、我等北条家は《関東公方》たる足利右兵衛佐(義氏)様を戴いて居る故、迂闊うかつには動く訳には参りませぬ」

 

 北条家は、関東公方家の正当な後継である《古河公方》足利右兵衛佐義氏を掌中に握っていた。

 義氏は母(父・晴氏の継室)は北条氏綱の娘の芳春院、正妻は北条氏康の娘(後の浄光院殿)で在る。

 とはいえ、義氏は元々の本拠地である下総の古河御所では無く、北条領の武蔵葛西城で公方職を襲っており、上杉家を始めとする反北条の大名からは長年に渡って承認されていなかった。

 《越相同盟》に因って関東管領・上杉輝虎に承認され、本来の居城である古河御所に入ったのは僅か2年前である。

 其れも当の氏照自身が《義氏の後見人》として古河御所の実権を握っていた。

 義氏は正に《北条家の傀儡の公方》であり、大義名分は兎も角、実質的には北条家の一門衆の1人と断言出来たのだ。

 勝頼も其の辺りは十二分に承知しているが、北条の面々の心証を考慮して敢えて触れずに先に話を進めていく。


「成程…。かく言う武田家も立場は違えど、今迄公方様の御下命を遂行致しておらぬ故に兎や角は申せませぬ。然れど、上杉不識庵(輝虎)殿は朝廷や公方様に対して尊崇の念が非常に篤い人物、公方様の御内書が届けば、此の侭睨み合いのみで矛を収めるかと考えまする。…其れに…」

「其れに…左京殿、如何致したのだ?」

 途中で言葉を濁した勝頼をいぶかしんだ氏照が聴き返して来ると、勝頼は氏照のみ為らず北条方の武将全員を見渡しながら言葉を繋いだ。


「盟を交しておるとはいえ、《叡山焼討》を始めとした織田弾正(信長)殿の振舞を、苦々しく思っておるのは確かで御座る。勿論、織田殿が反省して御正道に戻る為らば越した事は御座らぬ。然れど、若しも此の侭織田殿が我等の諌言にも耳を傾けず専横を極める為らば、我々武田家としても此の盟約を再考せざるを得ませぬ…」


 勝頼はわざと遠回しに表現したが、氏照を始めとした北条方の諸将には、既に武田が《織田との戦》を想定している事が十二分に伝わっていた。

 

「詰りは、織田との戦を前に関東での戦は出来ぬ…との御考えかな?為らば左京殿は上杉を如何に致す御所存なのだ?」

 氏照は詰問と呼ぶ方が相応しい口調で問い質して来た。だが勝頼はさも当然と言わんばかりに返答する。

「だからこそ、本願寺からの書状を御見せ致したので御座る。詰りは、顕如殿に返書を送って加賀・越中の一向一揆の挙兵を促すので御座る!」

「そうか!越中で一向宗が騒げば春日山城も危うくなる。上杉としても本拠地の越後へと退かざるを得ませぬな!」

 パシッと己の膝を叩いて氏規が賛意を示すと、北条方の諸将も次第に勝頼が主張する《利根川を挟んだ対峙》に傾いていく。


「うむ…、確かに向こうが越後に退く為らば、此処で無理を押して戦を仕掛ける事は有るまい…。此処は左京殿の御考えを諒と致すべきでは…」

「兄者っ!何を弱気な事を!我等は永禄4年(1561年)には謙信坊主を破っておるのだ!敵が油断して居るからこそ、此処は川を越えて厩橋に攻め入るべきで在ろう!」

 氏邦は勝頼に対する反発からか、積極的に攻勢を仕掛けるべく兄に訴え掛ける。

 此の侭氏邦を放置しては、折角傾きかけた話が戻り兼ねなかった。

 すると勝頼は苦笑を浮かべて、氏邦のみ為らず武田・北条の武将全員に聞かせる様に過去の戦話を語り始めた。

 其れは、勝頼にとっては恥ずべき過去の汚点であり、正に《現在の勝頼の原点》とも言える事で在った。


「藤田殿、そして大石殿も、恥ずかしながら某の話を聞いて下され。去る永禄11年(1568年)の師走、我等武田の軍勢は父・信玄の号令の元、駿河に攻め入り申した。其の時、某は留守居役の予定で御座ったが、父上に直訴して後備に加えて頂き富士川の守備を任され申した。然れど、血気に逸っておった某は、北条家が誇る《地黄八幡》殿…今の上総介(北条綱成)殿からの挑発に乗って、易々と富士川を渡ってしまい申した…」

『……』

 過去の恥を晒す内容を語る勝頼に、氏邦は何時しか落ち着きを取り戻して、話を聴き始めた。

 のみ為らず氏照や氏規等、そして武田・北条両家の武将達が全員聞き入ってしまう。


「勿論、其の様な無様な采配を眼前で晒して、東国に武名を轟かす《地黄八幡》が見逃そう筈が御座らぬ。某の手勢は散々に破られ、可惜あたら手勢の者達を犬死にさせてしまい申した。更には甲斐本国との連絡を断たれた武田の軍勢は、駿府を手放して甲斐に引き返す羽目に陥り申した…。父上の《半年間の謹慎》という温情が無ければ、陣代どころか某は腹を召していた処で御座った。某の失敗は、孫子・行軍篇が述べる処の《半渡而撃之利》(半ば渡らしめて此れを撃つは利なり)の言葉を守らなんだ故。藤田殿、今の我等が利根川を渡河致しても、当時の某と同じ《半渡》の状況、彼の上杉不識庵(輝虎)殿を相手に廻して勝ちを拾うのは難しかろうと存ずる…」

『……』

 勝頼が語り終わっても、其の場の全員が押し黙った侭である。其処で勝頼は更に話を進めていった。


「其れと、此処で不識庵殿を下手に刺激しては、未だに越後に居る侭の三郎(景虎)殿にも危害が及ぼう。三郎は一時のみとは言え某も《弟》と呼んだ者、此の侭見捨てるのは余りに忍びない…」

「三郎…」

 勝頼が景虎の安否を心配しているのを聞いて、氏邦は思わず下を向いて顔を隠してしまう。不覚にも涙腺が弛み掛けたのだ。


 其の場の全員が押し黙った中、勝頼の隣に座している氏照が次弟だけでは無く諸将に言い聞かせる様に決断を下す。


「新太郎、そして皆の衆。此の戦で大きな痛手を負えば、佐竹や里見がまた蠢動致し兼ねん。しかも勝っても得る物も少ない為らば、敢えて左京殿の策に乗るも1つの策よ!」

 氏照の声を聞きながら、勝頼は無謀な《敵前渡河戦》をどうにか退ける事が出来た事を内心安堵しながらも、表面上は極めて冷静に語り掛ける。


「とは言え、両家の軍勢の何方どちらが欠けても、上杉との均衡が破れて大敗を喫するは必定で御座る。上杉が退く迄は両勢打ち揃って此の地で睨み合う事に為りまするが、北条方は如何で御座る?」

「承知致した。小田原には遣いを立てて報せておきまする。左京殿も越中の一向一揆の件、何卒宜しく御願い致す!」

「御任せ下され!此れより府中へ直ちに遣いを送り、使僧を越中へと赴かせる所存で御座る!然れど、結果が出る迄に数ヶ月は掛かるやも知れぬ故、しかと心得て貰いますぞ!」


 其の後の軍議に因って、武田・北条両家の軍勢は、上杉家と管領方の軍勢と利根川を挟む形で長対陣する事に成った。

 石倉城と対岸の厩橋城を中心に、甲相越の諸州から集まった4万近い軍勢が2手に分かれて対峙したのだ。

 其の一方で勝頼は甲斐に遣いを送り、府中の一向宗寺院・長延寺の実了師慶を石倉城に呼び寄せた。

 山内上杉家の出身で、鎌倉に在った長延寺を甲斐で再興した実了は、其の後信玄・勝頼の使僧として全国各地を訪れている。

 勿論、同じ宗派である石山本願寺や長島願証寺、越中の諸寺院等にも面識が有った。

 勝頼は実了に対して、各地の一向宗寺院宛の書状を遣わせて畿内・北陸方面に派遣したのだった。


 勝頼と別れた実了は、甲斐を経由して駿河に出ると清水湊から海路西進した。

 途中、伊勢長島の願証寺・紀伊雑賀の加太湊と寄港しながら石山本願寺に入ると、法主・顕如光佐から越中の一向宗徒宛の蹶起を促す書状を預かった。

 其の後、北陸道に乗り込み加賀・越中各地の一向宗寺院を訪ね歩き、顕如からの檄文と甲斐に於いて託された《甲州金》を手渡して説得を重ねていった。

 其の結果、5月24日には総勢4万の加賀・越中の一向一揆の軍勢が、越中に在る上杉方の境目の城《日宮城》に襲い掛かるのである。


 だが、此の5月24日の時点で、上杉不識庵謙信(輝虎)は既に上野厩橋城から越後春日山城に退いていたのだ。

 其の切っ掛けは、上野や越中とは全く別の場所…遥か西の京畿の地からもたらされたのだ…。


 今少し刻を戻した、3月末の事である。

 相も変わらず利根川を挟んで東西で軍勢が睨み合う上野国は、間も無く初夏を迎えるに相応しく清々しい晴天に覆われている。

 たまに言葉戦や鉄砲戦から小競り合いに成る場合も有ったが、双方が先に渡河を行う事を忌避した為に2ヶ月以上の睨み合いに陥っているのだ。

 だが、利根川の東岸側…上杉勢の本陣が設けられている厩橋城の本曲輪には、さながら眼に見えぬ雷雲に覆われたが如き緊張感がみなぎっていたのだった。


「何とした事だっ!孫二郎、其の報せは真実まことなのか?」

 本曲輪の御殿に於いて、朝の勤行が終わって朝餉を食していた輝虎は、己の耳を疑って目の前の山吉豊守に聞き返した。

 だが、豊守が述べた内容は直前に聞いた内容と、寸分違える事は無かった。


「はい、実城様。京の神余(親綱)殿が態々(わざわざ)報せて参った事、相違無き物と心得まする。武田晴信(信玄)に対して《従三位参議・右近衛権中将》の官途が授けられ、息子の勝頼は父の官途であった《従四位下大膳大夫・信濃守》を譲り受けた事、最早もはや疑い無き物かと…」

「えぇぃ!信玄の如き没義道もぎどうの輩が、何故に《清華成》を果たして恐れ多くも《公卿》に名を連ねる事が出来るのだっ!」

 輝虎は逆上した勢いの侭に豊守を怒鳴り付けたが、輝虎の側近を長く務めて来た豊守にとっては茶飯事なのか、顔色一つ変えずに冷静に報告を続けていく。


「神余殿の報せでは、武田を味方に付けたい公方様(将軍・足利義昭)と、武田との戦を今少し引き延ばしたい織田弾正(信長)殿の思惑が結び付いた《同床異夢》の代物、との事で御座る。然れど、神余殿の書状の最後に奇妙な事がしたためて御座る…」

「奇妙とは如何なる事か?孫二郎、今少し詳しく述べてみよ!」

 輝虎の質問に対して、豊守は冷静な侭で親綱が知らせて来た問題点を指摘する。


「諏訪四郎(勝頼)が父の官途…大膳大夫と信濃守を継ぐのは未だ理解出来まする。妾腹が家督を継ぐには、家臣共を抑える為にも父の官途を受け継がねばなりますまい。然れど、従四位下で在った信玄を行き成り《三位中将》(正・従三位で近衛中将に就く事)に任ずるのは、先ず普通の手順では有り得ぬ事で御座る。公方様も織田殿も其処迄は望んではおらなかった筈…」

「然りだ。恐れ多くも公方様は《従三位権大納言・左近衛中将》、織田殿は《正四位下弾正大弼》だ。幾ら味方に付けたいとはいえ、恐らくは織田殿と同じ《正四位下》辺りを落し所に考えて居られた筈だ…」

「左様で御座る。然れど織田弾正殿による昨年の《叡山焼討》の後に、武田領に落去された天台座主・覚恕法親王殿下を匿い、駿河久能山に代わりの伽藍を開いた功を以て《僧正》の位を授かっており申す。恐らくは其の折の恩義で座主様からの御口添えが有ったのでしょうが、何故に一足飛びに参議に就けたのか…」

 京から書状を寄越した親綱と同様に、信玄が参議の官途を得た理由が理解出来ない豊守は首を傾げる。

 其の刹那、輝虎は1つの故事を思い出した。其れこそが、信玄が参議に成りおおせた理由に他ならないのだ。


「そうかっ!其れ故に信玄は殿下を匿うばかりでは無く、伽藍を開いて招き入れたのだ!其処迄読んで居ったとは抜かったわ!」

「…?実城様、其れは如何なる事で御座いまするか?それがしには今一つ判りませぬが…」

「善いか、孫二郎。信玄は此度の伽藍建立を以て僧正位を授かった。古来より《僧正位は三位に、権僧正位は参議に準ずる》とされておる。天台座主から征夷大将軍の職を襲われた足利義教公は、還俗の折に此の慣例に従って将軍宣下を受ける前に参議になられ、直ぐに従三位に上がって公卿に列せられておる…」

「成程っ!詰り、彼の者は義教公の故事に倣って参議の官途に就いて訳で御座いますな!」

 ようやく合点がいった豊守が輝虎に聞き返す。しかし、輝虎の脳裏は信玄の《次の一手》を考え始めていた。


しかも、信玄の息が掛かった者達は『信玄は《僧正》故に三位の官位にあたる』…と主張致したので在ろう。此れで恐れ多くも公方様の官位に並んでしもうたのだ。恐らくは義教公や歴代の公方様の先例に倣って、次は《権大納言》辺りを要求して来よう…。然すれば、誠に不遜な事に公方様の官途に並ぶ事に成るのだ!権官とはいえ、な…」

「うぅむ…。流石は《足長坊主》の異名を持つだけ在りますな。甲斐信濃に居ながら、尚且つ半ば隠居の身で、此処迄朝廷や公家方を動かすとは…」

 思わず唸ってしまった豊守に比べて、輝虎は真正面を睨み据えた侭で暫く沈黙する。其の鋭い眼光は、まるで目の前に宿敵たる信玄が居るかの様である。

 やおら大盃を手に取ると、側に控える小姓になみなみと酒を注がせて、一気に飲み干した。

 そして麻痺が残る左足を庇う様に立ち上がると、豊守や他の部屋の武将達に大声で命じた。


「孫二郎、北条の誅伐は一旦取り止めて越後に戻るぞ!他の者にも直ちに陣払いの触れを発するのだ!春日山で軍勢を一度立て直し、稲刈りがしまえてから北信濃へ向かうぞ!信玄が息子を矢面に立てて影で蠢動致すならば、儂は《関東管領》の職責を果たし、信玄の姑息な動きを封じて貴奴を眼前に引き摺り出して呉れるわっ!」

「御意で御座る!越後も既に田植えの頃を迎えて居りまする。実城様の御下命は家中の者も喜びましょうぞ!では、直ちに陣払いに取り掛かりまする!」

 豊守はそう言いながら輝虎の側を離れると、他の武将達と共に越後帰還へ向けて準備を始めるのだった。


 厩橋城は急に慌しさを増していたが、城内の武将達の表情には大きく2通り存在していた。

 或る意味《出稼ぎ》感覚が有り、内心は越後にある己自身の所領や田畑が心配であった上杉勢の者達の顔には、撤退の準備に勤しみながらも、自然と笑みがこぼれている。

 他方関東の管領方の諸将は、上杉勢主力の撤退後に半ば単独で北条勢の矢面に立たされる事を考え、暗澹たる表情を浮かべるのだった。


 《上杉勢撤退開始》の報は、利根川対岸の石倉城に於いても直ちに察知された。

 此の時、石倉城では武田・北条両勢の諸将が広間に参集して軍議を催している最中であった。


「何だとっ?厩橋の上杉勢が陣払いをしているのか?確かに田植えも近い故に退くのも不思議では無かろうが…」

 報告を聞いた勝頼は、川を挟んで睨み合いを続けている最中に、一方的に撤退の準備に入る輝虎の意図を俄かに判断出来ない。

 一方、2ヶ月以上に渡って上野の地に止め置かれた現状に苛立つ藤田氏邦が、勝頼に追撃を主張する。


「左京殿、今こそが関東から上杉を叩き出す好機で在ろう!直ちに川を渡って厩橋に攻め掛かろうではないか!」

「左様。藤田殿の申される通りで御座る。勝頼殿、此の侭取り逃がしては《惰弱》の謗りは免れぬが、如何に致す所存で御座る?」

 氏邦の主張に同調して、増援として石倉に参陣していた穴山左衛門大夫信君が勝頼に尋ねてくる。

 勝頼の従兄弟で義兄でもある信君の口調は、詰問と呼ぶ方が相応しい程に刺々しく、勝頼に対して好感情を持っていない事が、北条方の諸将さえも一目で判る程である。

 信君の発言に、同じく居並ぶ武田諸将の内でも、小幡尾張守憲重(信竜斎全賢)・上総介信実親子、真田源太左衛門尉信綱・兵部丞昌輝兄弟、保科弾正忠正俊・弾正左衛門尉正直親子等の諸将が、信君に不快な表情を浮かべる。

 長年武田家に仕えながらも、甲斐以外の出自の為に《先方衆》として区分されてきた彼等だが、勝頼が其の功を認めて譜代並みの扱いに改め始めていた。

 其の結果、先方衆の中には勝頼の支持者が急速に広がりつつあった。

 中でも若手の中には、現当主の信玄よりも勝頼に忠誠を誓う者さえも現れ始めていたのだ。

 他方、甲斐の御親類衆・譜代家老衆の一部には未だに高遠諏訪家を継いでいながら武田家に舞い戻った勝頼に対して、根深い反撥が存在していた。

 特に勝頼の亡兄・太郎義信に近かった信君は、其の急先鋒とも言える存在であった。


「待たれよ、穴山殿。我等が敢えて利根川を挟んで睨み合ったのは、上杉の動きを封じて関東から追い払う為で御座る。下手に帰路を妨げて返り討ちに遭う位為らば、むしろ残った管領方の城を攻めるが上策と心得る。新太郎兄者も落ち着き召されよ…」

 信君や氏邦に向かって、北条家の列に座していた北条氏規が反論して来た。

 其の合理的な意見に、両家の諸将達も納得の表情を浮かべながら頷いている。

 氏邦も弟から言われた事に一理が有ると考えたのか、嘆息しながらかいなを組み黙り込んでしまった。


 其処に、躑躅ヶ崎館からの使番の応対の為に中座して控えの間へ赴いていた勝頼の軍師・真田弾正忠幸綱(一徳斎幸隆)が戻った来る。

 だが、幸綱は己自身が当初座していた席には戻らずに、勝頼と大石源三氏照が並んで座している上座の真正面で平伏する。

「ん?一徳斎、戻って来るなり如何致したのだ?躑躅ヶ崎からは何と報せて参ったのだ?」

 質問する勝頼に対して、幸綱はまるで己自身が使者であるかの様に仰々しく応え始める。


「はっ、府中躑躅ヶ崎館に残られて居る両職(筆頭家老)山県三郎右兵衛尉(昌景)殿よりの吉報で御座いまする!京に詰める今福浄閑斎(石見守友清)殿からの報せでは、此の度、御屋形様(信玄)が《従三位参議・右近衛権中将》の官途に任ぜられる事に成り申した!更には御陣代たる左京大夫(勝頼)様には、御屋形様の今の官途である《従四位下大膳大夫・信濃守》が其の侭譲られる由に御座いまする!」

「何とっ!其れは本当で御座るかっ!そう為らば甲斐源氏の棟梁として初の壮挙で御座るな!」

「うむっ!西国の大名では《清華成》は有れど、東国の武家で正式に公卿に列するのは、恐らく彼の《堀越殿》(堀越公方・足利政知)以来では御座らぬか?」

 報せを聞いて武田側の武将を中心に喜びを表す中で、幸綱はわざとらしい迄に芝居染みた口調で、上座に座する勝頼に報告を続けていく。

 勿論、此の昇叙の事実を北条家の一門・重臣や武田家中の《反勝頼派》の者達にしかと判らせて、勝頼の家督相続への反論を封じ込める為であった。


なお、躑躅ヶ崎館に武家伝奏にも任ぜられている飛鳥井中納言(雅教・後の雅春)様が来月半ばに勅使として御下向されるとの事、急ぎ躑躅ヶ崎に御帰還遊ばされませ!」

「成程…。恐らく上杉勢が退くのは此の件を掴んだ故で御座ろう。更には田畑の事も有る故に、関東にかまけておる暇が無くなったのですな。一旦は春日山に退いて策を練り直すつもりで御座ろう…」

 小幡憲重がそう指摘すると、得心がいったのか両家の諸将の多くが同意と勝頼に対する称賛の声を上げる。


「此れは誠に慶事に御座る!左京様も誠に御目出度う御座いまする!」

「うむっ!御屋形様の陣代として研鑚を重ねた、左京様の実績が認められた証左で御座る!いよいよ家督を継がれる刻に至った様で御座るな!」

 武田諸将の喜びの声の中、上座に於いて勝頼と席を分ける大石氏照が、勝頼に声を掛けて来る。


「左京殿。此の度の御貴殿と信玄公の昇叙は誠に祝着至極、北条を代表して御祝い申し上げる。此れで御貴殿も《陣代》では無く、晴れて名門武田家の主と成るので御座るな!」

「大石殿の御祝辞、謹んで御礼申し上げまする。然れど、仮に代替り致したとしても《北条家との絆を軸にしていく》という武田の方針にはいささかの振れも御座いませぬ。姉上(黄梅院)も其れを祈念致しておる筈、此れからも末永い関わりを保ちとう御座いまする」

「うむっ!今後共、善しなに御願い仕る!」

 そう言うと、上座の2人は御互いに向かい合いながらガッチリと両手を取り合って、友好関係の継続を誓い合う。

 2人の握手の光景は、広間の中に居る両家の諸将達を興奮の坩堝るつぼへと導き、程度の多寡は有れど全員が信玄・勝頼の昇叙と同盟の発展を歓迎したのだった。

 …唯一人を除いて。


(諏訪の妾腹である勝頼如きに、其の様な昇叙が許されるとは、貴奴は如何なる詐術を使ったのだ!武田家の当主に相応しいのは此の信君以外に存在せぬのに、差し置いて僣称する所存かっ!今に必ずや増長の報いを喰らわせて呉れようぞ…)


 信君は広間の中で1人だけ板張りの床を見据えた侭、まなじりを吊り上げている。

 勝頼が陣代に就いてから3年近い間募らせていた、勝頼への憎悪が益々膨れ上がっていく。

 武田の分家筋とも言える穴山家の嫡男として生を受け、己の領内では《武田》姓を呼称している信君にしてみれば、勝頼は《簒奪者》も同然だったのだ。

 とは言え、勝頼に対する憎悪…若しくは嫉妬心…よりも、信玄に対する忠誠心の方が遥かに勝っていた。

 信君は《武田家の為》と己に言い聞かせ、勝頼への反撥を心の中に一旦は沈めるのだった。


 信君の心には、此の後も勝頼への反撥が熾火おきびの様に燻り続けた。

 だが、信君が御親類衆の重鎮で或るが故に、信玄や勝頼や宿老等の武田家首脳部は、考えを改めると信じて断固たる厳しい処置を行わなかった。否、行えなかった。

 後に、彼等は其れを後悔する羽目に陥るのである。


 閑話休題。

 上杉勢が三国峠を再び越えて越後に引き揚げると、武田・北条両家の軍勢はようやく活動を始め出した。

 北条勢は北武蔵に向かう小軍勢を除いて、大石氏照が率いるほとんどの軍勢が、管領方が集まる下総北部へと進軍していく。

 上杉勢という後詰が越後へ帰還した状況を狙って、管領方が再挙兵した為に勢力が後退した下総方面の回復に動いたのだ。


 一方、西上野の確保の目途を着けた武田軍は、後詰として石倉城に入っていた甲斐・信濃の軍勢を順次帰還させ始めた。

 また、勅使・飛鳥井雅教の下向に伴い、甲斐府中の寺院・積翠寺に於いて勅使を迎える準備を開始する様に指示を出した。

 其れに並行して、石倉城から武田家の領国各地に散らばる家臣達の元へ、勝頼の書状を携えた早馬が次々と放たれる。

 信玄・勝頼親子の昇叙を報知すると共に、彼等に甲斐府中への参集を命じる為であった。

 特に《御親類衆》《譜代家老衆》や有力な《足軽大将衆》《先方衆》には、任地を一時名代に預けて甲斐への参集に応じる様に命じていたのだ。

 勿論、昇叙の一方の当事者であり、現在は信濃の山中に設けられた湯治場で静養中の父・信玄にも甲斐へ帰還為るべく使者を遣わせたのは言う迄も無い。


 此等の処置を終えた勝頼達は、石倉城を出立すると急峻な碓氷峠では無く、南側に位置して比較的傾斜が緩やかな余地峠を抜けて甲斐への帰国の途に付いた。

 一行の中には、小幡憲重・信実親子、真田信綱・昌輝兄弟等を始めとした《西上野先方衆》も加わっている。

 彼等《先方衆》も一族郎党に留守を委ねて、勝頼と共に躑躅ヶ崎館へと向かう事になっているのだ。


(父上が遂に公卿に列せられる…。此れで漸く天下へのきざはしを一歩踏み出せた。然れど、織田弾正は更に遥か先を進んでおる…。織田は強大故に今の侭では勝ちを拾うは適わぬ。織田の勢いを削ぐ為にも、先ずは手足を…没義道を重ねる三州(徳川)を潰して呉れようぞ!邪魔立て致すならば正々堂々と戦って、必ずや打ち破って呉れるわ!)

 勝頼は甲斐へと向かう軍勢の直中で、騎馬に揺られながら武田家の前途について思索に耽る。

 畿内の半ばを制する織田信長に対抗する困難さを認識しながらも、其の胸中は織田や徳川を相手の大戦に、既に闘志を燃やしているのだ。

(そして…目指すは《天下人》!父上を必ずや将軍に押し上げて見せる!)

 勝頼は未だに雪が残る信濃の白銀の峰々を見詰めながら、遥か西に在る京の都へと思いを馳せるのだった。


 此の利根川での対陣が、《陣代・武田左京大夫勝頼》としての最後の戦となった。

 勝頼や武田軍の面々、そして信玄が甲斐府中に集った時、武田家は新たな一歩を踏み出す事になる。


話の最後に書いた様に、やっと勝頼を武田の正式な当主に昇進させてやれます(笑)。遅筆と性分故にとんでもない時間が掛かりましたが、未熟故と御勘弁下さい。次回は代替りの話です。乱文ですが是非とも読んで頂ければと思います。

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