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拾肆:元亀争乱(悉)〜甲相の再盟〜

今回の話は、戦争状態だった武田・北条両家が和睦する話です。相変わらずの長文ですが、読んで頂ければ嬉しく思います。宜しく御願い致します。

 古来《霜降月》と呼ばれていた霜月…11月に入ると、甲斐国は南側の一部を除いた全域が乾いた寒気に覆われる。

 甲斐の周囲は、霊峰富士を始めとして八ヶ岳・白根三山・奥秩父山塊等の高峰に囲まれ、中央部に大きな盆地を形成している。

 冬の季節風に乗って来た雪雲の大半は、八ヶ岳を中心とした高峰に阻まれ《八ヶ岳颪》に代表される冷たく乾いた強風が吹き抜けていくのだ。

 とは言え冬至近くになると、高峰でも阻めなかった雪雲の一部が、盆地一面を白一色に染め変えていく。

 其の光景は夜の間に更に冷やされた空気が作り出す霜と相俟って、正に《霜降月》の古名が相応しい景色になっていくのだ。


 白銀の景色となった盆地の北側に位置する甲斐府中の町、其の北辺の相川扇状地の麓には、此の町の中心にして《府中》の地名の由来となった躑躅ヶ崎館が在る。

 前国主の武田陸奥守信虎が川田館から本拠地を移して以来、50年以上に渡って甲斐源氏の宗家・武田家の本城として機能しているのだ。


 躑躅ヶ崎館の主殿の奥に位置する看経所かんきんじょは厠等も併設した生活空間であり、本来は当主・武田法性院信玄の私室として建てられた。

 だが現在は利便性から、陣代・武田左京大夫勝頼が己の執務室兼宿所として利用しているのだった。


 時は元亀2年(1571年)11月半ば、甲斐に此の冬最初の雪景色となった日の払暁の事である。


「そうか!小宰相が無事に戻って参ったか!其れは重畳であった!」

 火鉢に炭がべられて、部屋全体が温められた看経所では、日の出前から中庭で大身槍を振るって稽古に勤しんだ後、半裸と化した勝頼が湯桶で濡らした手拭いで汗を拭き取っていた。

 其処へ新たに躑躅ヶ崎館に勝頼付きとして入った山県源四郎昌満が、勝頼を呼びに来ていた。


 此の頃、勝頼は次代の家臣団の強化の為に、自分の後見役である4人の重臣の息子達を、己の側近と為るべく躑躅ヶ崎館に召し出していた。

 其の結果、山県三郎右兵衛尉昌景次男の源四郎昌満、馬場美濃守信春の嫡男の民部少輔昌房、内藤修理亮昌秀の養子と成った源三昌月、春日弾正忠虎綱の次男で未だに元服していない源助(後の信達)等が、新たに勝頼の側近・近習の末席に名を連ねていた。

 彼等は勝頼に仕える傍ら、勝頼の軍師の真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)や、両職(筆頭家老)兼陣場奉行の原隼人允昌胤等の薫陶を受けて研鑽を重ねているのだ。


「はっ。つい今し方、小宰相の局は躑躅ヶ崎の門を潜られ、今は北の館の黄梅院様の処へと参られた由に御座いまする。左京様に後程御目通り願いたいとの事で御座いますが、何故に其処迄申すのか皆目見当が付きませぬ…」

 小宰相が勝頼に会いたがる理由が判らない昌満は、しきりに首を傾げるが、勝頼には其の用件が如何なる物かは十二分に理解出来ていた。


「そうか…。此の刻限の帰着だ。恐らくは昨晩府中に帰り着いて、身形を整えてからの登城であろう。儂が出向く故に今直ぐ会おう!源四郎、北の館に遣いをして此れより参る旨を伝えて参れ!」

「承知仕り申した」

 源四郎を遣いに行かせた間に、勝頼は奥近習の土屋惣三昌恒を召して己の身形を整えると、昌満が戻る迄の間に幾つかの決裁を済ませていくのだった。


 勝頼は昌満が戻ると、昨年死去するまで信玄正妻の三条夫人(円光院殿)の住いであった《北の館》に向かう。

 此の時点(元亀2年)に於いて、勝頼には側室はいるが正式な正妻は存在しない。

 6年前の永禄8年(1565年)に織田弾正忠信長の養女(実際は姪)のをりゑの方(遠山夫人)を娶っている。

 だが2年後に嫡男・武王信勝を産んだ後、産後の肥立ちが悪く死去していた。

 をりゑの方を未だに大事に想っていた勝頼は、去る9月に信濃高遠の竜勝寺に於いて正式に改葬したばかりであった。


 現在、北の館は嫁ぎ先の相模北条家から離縁させられた勝頼の長姉・黄梅院が住んでおり、幼い弟妹の世話や亡母の供養を行っている。


 勝頼が北の館を訪れると黄梅院自らが弟を出迎えて、かつて父が座していた上座へと通された。

 勝頼が上座に座すると、目の前に小さな身体ながら背筋をピンと伸ばした小宰相の局が勝頼に口上を述べる。


「昨晩遅く府中に戻りましたので、身形を整えた上で日を改めて御城へ罷り越しました。四郎(勝頼の仮名)様には御機嫌麗しく何よりで御座います」

「うむ、此度は相模への長旅御苦労であった。其れで首尾は如何であったのだ?」

「はい、彼方の使僧を務めておられる江雪斎融成殿と御目通り致しました。北条家も武田家との再盟に傾いてると見定め申しました」


 此の小宰相の局は、小畠山城守虎盛の妹にあたり、大熊備前守長秀の後妻と成っている。

 若い頃から三条夫人に仕えて使者として各地へ頻繁に赴いており、外交の才に長けていた。其の為、信玄も度々彼女を使者として利用している。

 今回、勝頼は現在関係を断絶している北条家との再盟約を計るべく、小宰相を小田原へ遣わしていたのだった。


「左様か。板部岡江雪斎殿とは、一昨年の《関東討入》の際に儂も話を交した。彼の者為らば大丈夫で在ろう。其れと、垪和予州(伊予守氏続)殿は如何致しておるのだ?」

 勝頼は此の年1月迄駿河興国寺城主だった垪和氏続を、交渉の窓口の1つに使おうと考えていた。

「はい、密かに御会い致しました処、《甲相の一和はやぶさかでは無い。出来得る限り助力致したい》との事で御座いました」

「そうか。為らば次は重臣同士の談判と相成ろう。小宰相には此れからも色々と働いて貰おうぞ」

 勝頼にそう言われた小宰相は、柔らかな微笑みを浮かべながら一礼したのだった。


 小宰相が部屋に戻り、北の館の広間には勝頼と黄梅院のみが残された。

 勝頼は下座に座している黄梅院の方に向き直って話し掛ける。

「姉上。此の一和が再び結ばれれば、姉上も晴れて小田原へ戻って相州(相模守氏政)殿と暮らす事が叶いましょう。一昨年の夏、重篤だった姉上に言った約束を、ようやく果たす事が出来る故、安堵致し申した」

 勝頼がそう言って笑い掛けると、黄梅院は微笑みながら深々と頭を下げた。だが其の表情は満面の笑みには程遠いものであった。

 2年以上もの長きに渡り謂わば実家に出戻っていた黄梅院は、其の心中に不安が渦巻いているのだ。


「勝頼殿…、新九郎(氏政の仮名)様が側妻を設けられた事、貴方様も既に聞き及んでおられる筈…。仮令たとえ小田原へ戻っても、新九郎様は髪を落とした私を受け入れて下さるでしょうか…?」

「姉上、御安心召されよ!一昨年の戦の折に、相州殿は今は亡き左京大夫(氏康)殿の眼を掻い潜り、姉上に宛てた便りを預けてくれたのですぞ!もっと自信を持ちなされ!」

 黄梅院に不安を吐露された勝頼は、励ます様に優しい言葉を掛けながらも、内心では氏政の心境の変化を危惧していた。

 北条氏政は、己の感情や目先の利益等に流される事が多く、かつては勝頼も氏政の性格を利用して策を謀ろうとした事があった。

 既に落飾してしまった黄梅院が戻ったとしても、側室を寵愛して黄梅院には正妻として敬するのみに成る可能性が高い、と見ていた。

 しかしながら、黄梅院は5男1女の子宝に恵まれており、更には其の穏やかな気性は大石源三氏照や藤田新太郎氏邦、北条助五郎氏規等の義弟達からも良く慕われていた。

 勝頼としては、黄梅院や現在保護している元蒲原城主の北条信三郎氏信・長順兄弟を北条家へ戻す事で、北条家の中にも親武田派の勢力を増大させようと考えていたのだ。


 そんな勝頼の考えを知ってか知らずか、黄梅院は暫く瞑黙した後に勝頼に語り掛けた。

「判りました。私が今生を生き長らえたのはひとえに勝頼殿呼び掛けのお陰。此れからは貴方の為にも武田と北条を繋ぐ懸け橋と成りましょう」

 そう言って心の中で何らかの整理が着いた黄梅院は、勝頼に対して久方振りの晴れやかな笑顔を見せたのだった。


 武田・北条両家の再盟約の交渉は、武田方は勝頼の後見役の1人である内藤修理亮昌秀、北条方は筆頭家老の地位を占め《小田原衆》を率いる松田尾張守憲秀が窓口となり、秘密裏に進められた。

 現在、武田家は京畿を支配する織田家と形式的ながらも《甲尾同盟》を結び、北条家も越後上杉家と《越相同盟》を締結していた。

 更に北条の駿河侵入を阻止した武田軍は、此の3月から北条領に逆侵攻を掛けており、北伊豆の西半分や奥武蔵を既に占領下に置いていた。

 其の為、武田・北条両家の家中には此の《甲相一和》に反対する者が多く、妨害を防ぐ為にごく一部の重臣同士のみで交渉を進めていく事になった。


 武田・北条の和睦交渉が秘密裏に進行しているのと同じ頃、武田家には新たな問題が発生していた。

 《武田海賊衆》(水軍)の本拠地である駿河清水湊に1隻の関船(中型武装艦)が入港して援助を求めて来たのだ。


「おおっ、何とした事だ!此れ程迄にやられておるのに、善く駿河迄渡り来れたものだ!」

 清水湊の物見櫓から駆け付けた岡部木工左衛門が、入港した関船を見て驚嘆の声を上げた。

 彼は武田海賊衆の旗頭である土屋豊前守貞綱(岡部忠兵衛)の一族で、寄子として貞綱を海陸両面で支える豪のつわものであった。

 そんな木工左衛門が驚いた関船は、鉄砲や投げ炮烙の様な火器に因って至る所が壊されて大破している。

 正に何時沈んだとしても不思議では無い損害を受けて、乗って来た水夫達も大半は怪我を負っており、次々と担ぎ出されて手当てを受けていた。


 すると木工左衛門に1人の武将が歩み寄って来る。己の寄親たる貞綱の知己であり、木工左衛門自身も面識が有る男だ。

「おぅ!其の御姿は北畠家の向井伊兵衛(政勝)殿では御座らぬか!岡部忠兵衛を改め、土屋豊前が配下の木工左衛門で御座る!」

「おおっ!木工左衛門殿か!久方振りだのう!誠に相済まぬが忠兵衛殿…豊前守殿に取り次いで貰えまいか?此の侭では伊勢の海賊が九鬼すれに滅ぼされるのだ!」

「…徒事ただごとでは無い様だな!暫し待たれよ!直ぐに豊前守様に知らせて参る!」

 政勝の真摯さと大破した関船を目の前に木工左衛門は、貞綱を急ぎ呼びに行く為に其の場から走り出したのだった。


 清水湊に現れた男は、紀伊尾鷲に拠点を置く伊勢北畠家の《向井船手衆》の向井伊兵衛政勝。

 出自は大和の国人である長谷川家の出で、向井正重の娘を娶って其の養子と成っている。

 主家の北畠家が滅亡前の今川家と親しかった為、義父と共に度々駿河を訪れて今川の海賊衆を教導しており、近年は政勝自身が船手衆を率いていた。

 一昨年の冬には北畠家の使者として清水湊を訪れて武田勝頼に救援を要請する一方、武田海賊衆が紀伊へ航海する際に先導役を務めていた。


 政勝が再び清水湊を訪れたのは、伊勢の隣国・志摩での海賊同士の争いに巻き込まれた為であった。

 伊勢の東側に突き出した形の志摩国には、北畠家を主家として小浜・九鬼・橘・甲賀・浦等の13家が地頭となって割拠していた。

 だが此の内、波切の九鬼衆と他の12家の地頭が対立して、九鬼一族は波切を追われて尾張の織田家を頼って落ち延びていた。


 しかし織田弾正忠信長の伊勢侵攻と、北畠家の降伏に因って被我の立場が逆転する。

 織田の後盾を得た九鬼右馬允嘉隆が志摩に侵攻、12家の地頭は再び連携して防戦したものの次々と叩き潰され、志摩国は九鬼嘉隆が支配する処となった。

 対して、小浜衆の小浜民部左衛門尉景隆を中心とした九鬼に降るを潔しとしない一派は、同じ北畠配下の向井船手衆に援軍を求めて来た。

 政勝自身が船手衆を率いて出撃したものの、鉄砲を駆使した九鬼の海賊衆を前に敗北を余儀無くされて志摩の残党と共に尾鷲に退いていた。

 政勝は『此の侭尾鷲に居ても九鬼勢に対抗出来ない』と考え、旧交が有る旧今川の海賊達を抱える武田家に支援を求める為に、九鬼の海賊衆を単艦で突破して清水湊に入港したのだ。


 だが此の話を聞いた貞綱は個人の判断では手に余ると考え、政勝を連れて急ぎ躑躅ヶ崎館へ向かった。


 貞綱・政勝一行は11月20日の早朝に甲斐府中に入り、其の侭躑躅ヶ崎館に入城すると、2人は直ちに看経所へと通されたのだった。

 

 看経所に入って、勝頼に現在の伊勢志摩の情報を細かく説明すると、勝頼は暫し黙した侭聞きながら思案に更ける。

「ふむ…、成程、良く判った。確かに紀伊迄助けに行ける為らば申し分無いのだが…。貞綱、お主の見立てでは、武田の海賊衆は九鬼の海賊共と争い勝ちを拾う事は出来るとか?」

 勝頼からの質問に対して、貞綱は暫く考えてから現在の戦力から導き出した己の意見を述べる。


「…現在の武田海賊衆はそれがしが関船12隻、伊丹(大隅守康直)殿が関船5隻、北条から鞍替え致した間宮兄弟(武兵衛・造酒丞信高)が合わせて関船15隻、都合関船32隻で御座る。但し昨年から、藤十郎(土屋藤十郎長安)殿から預かった甲州金を用いて、全ての関船の造り替えを進めており、同数為らば勝ちは揺らぎませぬ」

「ふむ…、詰まる処は九鬼の大軍を相手致してでは未だに勝てぬ…と言う事だな?」

「御意で御座る。私見ながら、戦った場合は九鬼の半数を沈める間に、我等は全て海の藻屑と相成りましょう…」


 貞綱の冷静な分析は、隣りで聞いていた政勝を落胆させ、勝頼も思わず嘆息する。

「ふぅ…、海賊衆が全滅する様な策を取る事は出来ぬな。伊兵衛よ。誠に相済まぬが、武田家としては紀伊や志摩迄後詰を送る事は出来ぬ。…しもお主等が良ければ、捲土重来を期して駿河に参らぬか?駿河に参って海賊として仕官を望む者が有らば歓迎致そう。軍船いくさぶねを率いる者には替地を宛行あてがう事と致す。早速書状を遣わす故に尾鷲に戻って話し合って貰いたい。貞綱も尾鷲に渡り彼の者達を説いて参るのだ!」

「御意で御座る!」

「承知致し申した。直ちに豊前殿と共に尾鷲に戻り、義父正重や小浜民部殿と談合致して参りまする!」

 2人の返答を聞きながら、勝頼は満足の態で頷くのだった。


 其の後、勝頼の託した書状を持って尾鷲へと向かった貞綱と政勝の説得により、向井船手衆と小浜衆、そして志摩から逃れた海賊達は、勝頼の招致に応じる為に打揃うちそろって駿河に入った。

 勝頼は伊勢志摩の海賊達の駿河入りを歓迎して、其の全てを召し抱える事を決めた。

 彼等は《替地》となる新たな知行や《堪忍分》となる甲州金を宛行われて、武田海賊衆の一員としての新たな一歩を踏み出した。

 此の時招致に応じた海賊は次の者達である。


 《小浜衆》

 小浜伊勢守(民部左衛門尉改め)景隆

 安宅船(大型戦闘艦)1隻・小早15隻

(志摩海賊残党を含む)


 《向井船手衆》

 向井(受領名伊賀守を称する)正重・伊兵衛政勝親子

 関船5隻


 合わせて大小21隻が加わり、武田海賊衆は合計53隻から構成される船団へと拡大した。

 中でも大きい意義を持つのは、景隆が駿河に持ち込んだ《安宅船》である。

 伊勢北畠家配下の船手頭だった景隆が乗って来た安宅船は、関船まで建造可能に成った清水湊の船大工達にとって、正に《生きた教材》となった。

 彼等船大工達や関連する多くの匠の奮闘により、武田海賊衆の軍船は此の後、次第に大型化していく事に為る。


 時を戻し、貞綱達が尾鷲に辿り着いた12月上旬、武田家が抱え込んだ1つの難題が解決の糸口を掴んだ。

 去る10月に《延暦寺焼き討ち》に因って畿内から落ち延びた、前の天台座主・曼殊院覚恕法親王と山門(比叡山の天台宗徒)一行の処遇に就いてである。


 今上帝(正親町天皇)の弟宮で《准三后》に遇されている覚恕法親王は、昨元亀元年(1570年)に天台座主を襲った。

 しかしながら、《織田家対反織田》の対立で反織田方にくみした為に、此の9月12日に比叡山全域・麓の坂本・日吉神社に至る迄が焼き討ちされ、僧俗3千人以上が殺害された。

 外出中で難を逃れた覚恕は、幕府相伴衆の無人斎道有に保護され、満蔵院権僧正亮信・正覚院僧正豪盛等の側近と共に武田家に亡命したのだ。

 因みに無人斎道有の正体は、前の甲斐国主の武田陸奥守信虎であり、現在は京洛に於いて幕府に仕える傍らで武田家の朝廷工作に助力を与えている。


 武田家は頼って来た覚恕達の為に、駿府南方にある久能山中腹に、比叡山に代わって総本山の機能を代行する寺院の建立を発願した。

 だが現在の武田領内には、信玄が定めた臨済宗妙心寺派の《府中五山》、信濃から甲斐に本尊を移した定額山善光寺、日蓮宗祖山(総本山)の身延山久遠寺…等の数多くの宗派が存在しており、お互い対立を孕みながらも武田家からの保護を受けていた。

 だが其の中に比叡山に替わる天台宗の本山を建立して《天台座主》が移って来るとなると、新たな火種に成り兼ねなかったのだ。


 此の宗派間の諍いを未然に防ぐ為に調停に乗り出したのが、武田家当主で現在静養中の武田法性院信玄である。

 信玄は各宗派に書状を出し、時には夫々(それぞれ)の高僧達…恵林寺の快川紹喜、甲斐善光寺の鏡空智冠上人、身延山の宝蔵院日叙上人…等を呼び寄せて粘り強く説得を続けた。

 其の結果、幾らかの寄進や恩赦を与え、聞かぬ宗派には幾許いくばくかの恫喝も行ったものの、ほぼ全ての宗派の同意を取り付けた。

 一方山門派(天台宗延暦寺派)には、伽藍建立の代償に僧兵の保有の禁止を呑ませ、更には武田方の久能山城の麓に伽藍を築く事で、山門信徒を武田家の統制下に置く事に成功する。


 武田家では此の時の経験を元に、宗教弾圧を指向する織田家とは異なる独自の緩やかな宗教統制策が発展していった。

 後に、武田家の官僚機構の中の公事奉行の下部組織が《寺社奉行》として独立、各宗派を統制していく事になる。


 元亀2年(1571年)の年の瀬も押し迫った12月29日、新年の準備に忙しい府中の街中を突き抜け、躑躅ヶ崎館へと駆け込んでいく騎馬の一団が有った。

 彼等は城内に入り馬場に馬を繋ぐと、直ぐに勝頼が居る看経所へと通された。


 其の頃勝頼は、信濃高遠から一時甲斐に呼び付けた長坂釣閑斎光堅(虎房)からの報告を受けていた。

 虎房は現在、高遠山中で稼動している《秘密鉄砲工厰》に於いて普請奉行として鉄砲製造の責任者をしている。

 勝頼は虎房から、6匁筒・10匁筒の新型鉄砲の製造、及び既存の古い鉄砲の改装状況の報告を受けていたのだ。


「ふむ…。古い鉄砲の手直しは終わった様だが、予想致しておったよりも随分と目減りしておるな…」

「左様で御座いまする。天文・弘治・永禄年間(1569年以前)に作られた鉄砲の内、武田家が保有していたのは約1千挺、旧今川家や徳川家から鹵獲ろかく致した分が合わせて約5百挺で御座る。此等は1年間掛けて全て回収致した上で、部品を交換し新品同様に手直し致して居りまする。今年中で全ての手直しが終わりまするが、新品同様な代物は全体の4割…6百挺程で御座る。其れと別に、使い得る古鉄砲は武田に与する越中・飛騨・関東・東海道の国衆に譲り渡して御座いまする」

「うむ…、都合9百の目減りとは随分と痛いな。もう少しは直せると考えておったのだが…。6匁筒と10匁筒の製造は如何相成っておるのだ?」

「はっ、堺と雑賀で買い求めた6匁筒は計150挺、高遠にて昨年来作っておる6匁筒は約250挺、手直し済みの6匁筒が約600挺、全て合わせて約1千挺…駿河入りの前の数にまで回復致しました。勿論、全てが気難しい雑賀衆でも使える程に質良き代物に御座いまする!」


 勝頼は、鉄砲の保有数が自分の陣代就任の頃の水準を回復した事に安堵した。

 しかも古い鉄砲は作ってから20年以上経った物も有り、稼動率の点で言っても確実に向上しているのだ。

 だが虎房の補足が未だに楽観視出来ない事を強調する。


「但し、6匁筒の内の約7百挺が古き鉄砲の替わりとして、境目の城や各々の大将が率いる筒衆(鉄砲隊)に渡しておりまする。新たな6匁筒の筒衆を作るにせよ、先ずは鉄砲自体が足りませぬぞ!」

「成程…。だが致し方有るまい。鉄砲を作るのは時も費えも随分掛かる物とは最初から判り切った事よ。して釣閑斎、10匁筒の方は如何相成っておるのだ?」

「10匁筒に関しては、当初の予想よりも随分と進捗致しておりまする。現在、10匁筒は合わせて約3百挺を数え、筒衆を目指して集められた1千人近い者も、既に甘利郷左(郷左衛門尉信康)殿と鈴木孫一(重秀)殿の下に於いて厳しい修練に励んでおりまする」

「ふむ…。10匁筒が其の者達全てに行き渡るのは何時の予定だ?」

「10匁筒の製作も順調に進んでおり、当初の予定通り4年後の末迄には、1千挺が揃う予定で御座いまする」


 予想通りの進展に勝頼の口元が自然に笑みがこぼれる。

 其の時、部屋の外から勝頼に呼び掛ける奥近習の山本勘蔵信供の声が聞こえて来た。


「御話の処、失礼致しまする。たった今内藤修理(昌秀)殿御一行が御戻りに為られました!直ちに御陣代に御目通り致したい、との事で御座いまする」

「うむっ!早速話を聞く事に致そう!信供、直ちに一徳斎(真田弾正忠幸綱)と《両職》(筆頭家老)の(山県三郎右兵衛尉)昌景と(原隼人允)昌胤に同席致す様に知らせて参れ!」

「御意に御座いまする!直ちに御呼び致して参りまする!」

 信供が昌秀等を呼びに行くと、僅かに顔色が悪くなった虎房が恐る恐る勝頼に質問する。

「…勝頼様、拙者は重臣の御歴々から余り好かれておりませぬ。此所は席を外した方が宜しいのでは御座いませぬか?」

「構わぬ。此度は虎房も昌秀の話を聞いていくが良い。昌秀の話如何では、今以上の増産を致さねば為らぬやも知れぬ故な!」

「何とっ!…畏まりました。為らば拙者も修理殿の話を拝聴させて頂きまする…」

 勝頼に呼び止められた虎房は、一抹の不安に駆られたものの末席に残る事にしたのだった。


「勝頼様、随分とお待たせ致し申した!北条との一和、去る27日に漸く相調い誓紙を交換致しまして御座いまする!」

 昌秀が上座の勝頼に挨拶する。其の表情には困難な交渉をやり遂げた自信が感じられる。

「うむ、儂の要望が入った故に難しい交渉だったろうが、善くぞ纏めてくれた。誠に大儀であった。して、如何なる仕儀と相成ったのだ?」

「はっ、一和の中身は誓紙に添えた書付にしたためて御座る。御覧下され」

 昌秀はそう言って、懐から1通の書状を取り出すと、上座ににじり寄って勝頼に手渡した。

 中には熊野午王の誓紙に書かれ、御互いに交換した《甲相一和》の誓紙と、詳細を書き綴った書付が入っていた。


 誓紙と書付に認めてあった条文は大凡おおよそ以下の内容である。


1.武田家は以前より領有する西上野を除き、東上野・奥武蔵から撤兵し、北条家が此れを領有する事。

2.武田家は氏政正妻の黄梅院・元蒲原城主の北条信三郎氏信・長順兄弟を北条家に返還する事。代わりに北条家は武田家に人質を出す事。

3.北伊豆は北条家に返還する。但し、駿豆の国境を黄瀬川から狩野川支流の大場川(境川)に変更し、駿河国に編入した地は武田領とする。また、海賊衆等の寄港地として那賀郡土肥郷と其の周辺のみは武田領の飛び地とする。

4.北条家は北伊豆の田方・那賀両郡に北条氏信・長順・元興国寺城主の垪和氏続の3将を城主に据え置く事。

5.北条家は上杉家と断交する事。北条家と上杉家は互いに絶交状を渡す事。北条家は互いに出された絶交状の写しを武田家に提出する事。

6.上杉家に関する情報を相互に交換する事。

7.北条家は匿っている今川氏真を追放する事。但し氏真本人には武田家に従うか、甲相両家の領内から出るか、の選択権を与える。

8.同盟を強固にする為に武田勝頼は北条氏政の妹を継室に迎える事。


「ふむ…。此の中身は随分と彼方側に寄っておるな。修理殿も善くも此の様な中身を呑んだ物だ…。筑後殿、如何じゃ?」

 順番に昌景から手渡されて、半ば呆れ返りながら読み終わった昌胤が、最後に読む虎房に書状を手渡す。

「隼人殿、かたじけない。拝見致す」

 昌胤から書状を受け取った虎房も、読み進めるに従って顔をしかめていく。

「確かに北条と上杉を破談させる為とは言え、武田家が東上野・奥武蔵・北伊豆を渡して、北条からの客人を返してやるのは、余りに譲り過ぎでは御座いませぬか?土肥郷や北伊豆を譲り受けるならば、むしろ此れを機に上野や伊豆を切り取っては如何で御座いますか?」

 読み終わった虎房が、勝頼や重臣達を見渡しながら北条領に攻勢を懸ける事を主張する。


 昨年末、嫡男の源五郎昌国に家督を譲る迄は足軽大将衆に名を連ねていたとは言え、気質的には寧ろ文官に近い虎房は、日頃から周りの評価を気にしてか、虚勢を張るかの様な積極論を主張する事が多かった。

 其の事を既に心得ている勝頼が、虎房に対してゆっくりと今回の和睦の意義を説明する。


「善いか、釣閑斎。今回の北条との和睦は、切り取った東上野・奥武蔵、そして北伊豆の大半を譲り渡したとしても、我等にとっては非常に入り用なのだ…」

「其は如何なる事で御座いましょうや?拝聴させて頂けませぬか?」

「うむ…。現在は、東の北条、北の上杉、西の織田、南の徳川と囲まれておる。織田や上杉とは現在こそ干戈を交えておらぬが、両国共に徳川家と結んでおる。何時何時いつなんどき旗を翻すか判った物では無い。だからこそ、北条左京大夫(氏康)殿が身罷られた此の時が、和睦致して後顧の憂いを無くす好機なのだ。但し、土肥郷のみは海賊衆が駿河湾を抑え、北伊豆の韮山等へ睨みを効かせる為に、敢えて北条に飛地にする事を認めさせたのだ」

「成程…。其処迄は判り申しました。れど、越相(上杉と北条)が手切れ致しては、上杉が武田領に攻め込んで参りませぬか?」

「其れも有り得る事だが、不識庵(上杉弾正少弼輝虎・謙信)殿は恐らく北条領へ向かうだろう。上杉家には以前武田家にも居た三郎(上杉三郎景虎)を引き渡しておるのに、見捨てる形で此方こなたと結ぶのだからな。勿論、北条から催促が有れば援軍を送る所存だ」


 勝頼や重臣達は《己に対する不義》を非常に嫌う輝虎の気性と、輝虎の命令を最優先する上杉家の家風を利用して、上杉家の矛先を北条家に引き受けさせるつもりであった。

 更には援軍を派遣する事で、同盟相手として恩義を売る事も計算されているのだ。


「そして気紛れな相模守(氏政)殿が色気を起さぬ様に、姉上や北条新三郎兄弟を送り込み、北条の内側に武田寄りの者を増やす。と同時に、房総の里見家や常陸の佐竹家を使って北条の矛先が此方へ向かぬ様に致すのだ」

「…勝頼様や御歴々が其の様に北条に御心を砕かれるのは《後顧の憂い》を無くす為…。という事は…織田との戦は近い、という事で御座いますな?」

 虎房の発言に勝頼は大きく首肯する。


「うむ。来年か再来年か…何時に成るかは未だ判らぬが、いずれは京畿を占める織田家とは雌雄を決する時が必ずや来る。其の時には北条勢に背後を襲われぬ様にせねば成らぬ。そして其れ迄に織田家と互するだけの鉄砲が必ず入り用なのだ!」

「成程。為らば6匁筒・10匁筒共に、早く揃えるべく急ぎ手配致しましょう。然れど、残り4年懸かる予定の鉄砲を、来年に行き成り全て揃える事は不可能で御座いまするぞ。其の辺りは御承知下さいませ」

 漸く己が同席を求められた理由に合点が入った虎房は、勝頼に鉄砲の増産を約束した。

 だが、勝頼の要求は此れだけでは無かった。早速、横に置いてある文筥ふばこから数枚の図面を取り出した。


「虎房、其の方には別の話も有る。此れは織田配下の志摩九鬼衆が使っておった、大鉄砲・大筒、其れと敵に投げるとぜる《焙烙玉》とやらの絵図だ。先月訪ねて参った向井伊兵衛(政勝)が九鬼衆と戦った際に、相手方の獲物や不発だった焙烙玉を見て描かせたそうだ。伊兵衛や貞綱(土屋豊前守貞綱)が言うには、同じ様な代物を、雑賀の海賊衆でも使うておるそうだ。高遠に居る雑賀からの鍛冶師は此等を作れると思うか?」

「…恐らくは作り得るかと。しんば出来ぬとしても、雑賀に遣いを送って詳しい絵図を取り寄せるか、鍛冶師を再び借り受ければ可能かと心得まする…」

 虎房は頭の中で、高遠に居る紀伊雑賀出身の鉄砲鍛冶師や、斎木助三郎を始めとする甲斐の刀剣鍛冶から転向した多くの鉄砲鍛冶師の技術力を計算して、時間を掛ければどうにか大鉄砲(抱え大筒とも言う)や大筒、そして焙烙玉等の火器類の製作は可能と判断した。


「そうか!其等は出来得る限り急ぎ手配致せぃ。海賊衆の安宅船や関船、小早に乗せる故に、4月初め位迄には其等を完成させ生産に入るのだ!」

「な…何ですとっ!」

 期限迄の余りの短さに、虎房の声は年甲斐にも無く上擦ってしまう。其れ程迄に勝頼の要求は非現実的なのだ。

 しかし緊迫した畿内の情勢を鑑みて、《僅かでも織田家との戦力差を縮めておきたい》という勝頼の心情は、虎房にも十二分に伝わってきた。


「…承知致しまする。配下の鍛冶師や郷左殿、孫一殿と談合の上で、必ずや成し遂げてみせまする!そうと決まれば寸刻が惜しゅう御座います。勝頼様や御歴々の皆様方にたいして誠に失礼ながらも、此の侭高遠へ戻るべく辞去させて頂きまする」

 虎房は勝頼や重臣達に挨拶を施すと、看経所を後にして高遠への雪道を戻って行くのだった。


「ふぅ…、勝頼様も御人が悪い。釣閑斎殿に対して随分な無理難題を言っておられましたな」

 和睦の報告に訪れた筈の昌秀は、虎房が命じられた内容の困難さに嘆息しながら感想を漏らす。

 しかし勝頼は、昌秀だけでは無く幸綱・昌景・昌胤の3人にも聞かせる様に反論する。


「致し方有るまい。虎房から先程聞いた報告では、武田家は新型の6匁筒1千挺、自家製の10匁筒3百挺の合計1千3百挺を漸く保有致した。然れど、6匁筒の半数以上の7百挺程は、各地の境目の城に置いておかねばならぬからな…。此の侭では徳川家為らばいざ知らず、織田家相手には勝ちは覚束無おぼつかないだろう。海賊衆の差に至っては其れ以上だ…」

如何様いかさまで御座る。織田は武田と婚儀を交し盟約を結びながらも、徳川を半ば配下にして上杉とも誼を求めておりまする。既に越三(上杉と徳川)が結び、更に織田と上杉が盟約成れば、何時でも旗を翻して参りましょう…」

 勝頼の意見に昌景が同調すると、補足するかの様に昌秀が《甲相一和》の意義を強調する。


「だからこそ此度の一和が重要で御座る。北条と上杉が結んだ侭では、武田は四方全てから攻め入られる。然すれば如何なる事を致しても敵いますまい。だが甲相一和が成れば、我等武田家は全力を西に向ける事が出来ましょう」

「左様で御座る。更に出来得るならば、我等と北条、そして上杉を速やかに手仕舞に致して、3ヶ国全てが一丸と成って織田との戦に及ぶが上策で御座ろう」

 幸綱が後を継いで発言すると、勝頼と3人の重臣が一斉に頷く。

 両職就任時に武田家当主・法性院信玄の《天下取りの野望》を聞いた昌胤を含めて、5人の脳裏には《東国の大名達を引き連れて上洛を果たす武田信玄と自分達》の姿が描き出されていたのだった。


 こうして、元亀2年(1571年)末を以て、武田・北条両家の間の《甲相同盟》が約3年振りに復活した。

 此の同盟再締結の報は、年が改まって元亀3年(1572年)1月初旬にかけて東国各地へと伝えられて、夫々(それぞれ)の大名や国衆達に新たな対応を迫る事になった。


 一方で、武田・北条両家は交渉が大詰めに差し掛かっていた12月下旬から、既に合意条件の履行の準備へと動き始めていた。


 武田家では奥武蔵に進出していた西上野方面の旗頭で上野箕輪城代の小幡信竜斎全賢(尾張守憲重)・上総介信実親子が率いる西上野衆の軍勢が、西上野へ撤退を既に開始していた。

 また、信濃松尾城主の真田源太左衛門尉信綱(幸綱長男)・兵部丞昌輝(次男)兄弟が白井城を起点に東上野に進出していたが、此れも撤退を開始した。

 北伊豆方面でも高坂弾正忠虎綱・穴山左衛門大夫信君率いる軍勢が退くのと入れ替わりに、松田尾張守憲秀・垪和伊予守氏続が北条家を代表して受け取った。


 同時に上杉・北条間の《越相同盟》は破棄に向かって動き始め、相互に絶交状が交換されて、武田家には写しが送られる手筈が整えられた。

 更には相模早川に於いて保護を受けていた今川上総介氏真は、北条領から追放された後に武田家に従うを潔しとせずに、徳川家を頼って遠江浜松へと落ち延びていった。


 1月初旬には、北条家からの人質として伊豆韮山城将の助五郎氏規・新四郎氏忠(共に氏政の弟)兄弟が、郡内上野原城に入って城主の加藤丹後守景忠に預けられた。

 ちなみに暫く後に、彼等2人は甲斐府中へと護送されて、躑躅ヶ崎館に於いて勝頼と会見する。

 2人は勝頼から、人質としてでは無く客将として遇され、両家の将来について幾度と無く膝を交える事になる。


 1月15日。

 此の日は小正月とも言われ、宮廷の年中行事に由来する《左義長》と呼ばれる火祭りが行われる。

 門松や注連しめ飾りや御札、書初め等を積み上げて焚き上げ、正月の期間中に家の中に迎え入れていた《歳徳神》を、炎と共に天へと送り出すのだ。

 甲斐府中の空き地や周辺の田畑では、昨日の内から其処畏そこかしこに積み上げられた正月飾りに点火され、幾筋もの黒煙が八ヶ岳颪を受けて南東の曇空の方へと駆け登っていく。


 そんな中、躑躅ヶ崎館からある一団が出発の刻を迎えていた。

 再び小田原へと戻る事になった黄梅院と北条氏信・長順兄弟、そして彼女等を送り届ける使者に任じられた春日源五郎昌澄が率いる手勢であった。

 此の人事は、外交の経験が少ない昌澄が使者となる事で、次世代を担う者達に場数を踏ませようと考えているのだった。


「左京(勝頼)殿。兄弟共々2年もの長きに渡り、本当に世話を御掛け致した。蒲原城で散る筈の我等兄弟が此の世に生を止めたのは、ひとえに左京殿の御陰で御座る!」

「拙僧も兄者同様に感謝致しており申す。父の幻庵を置いて先立つ親不孝をせずに済み申した。大恩有る左京殿に箱根権現の御加護が有らん事を…」

 見送りに出て来た勝頼に氏信と長順が夫々礼を述べる。

 此れに対して、勝頼は笑みを浮かべながら恐縮してみせる。


「御二人とも面を上げられよ。儂も御貴殿方も主家の為に全力を尽くした者同士で御座らぬか。其れに御貴殿方にも前々から申しておる通り、武田と北条が末永く手を取り合う事が我が望み。其の事を叶える為に、謂わば此方の都合で御貴殿方を助けたので御座る…」

 勝頼からそう言われた氏信と長順は、改めて感じ入っていた。事実、勝頼は自分達を捕虜としてでは無く《客人》として遇してくれたのだ。

 暫く瞑黙した氏信は、眼を見開くと勝頼に正対して応える。


「左京殿…。我等兄弟は北条の一門、主家を裏切る訳にはいかぬ。然れど、左京殿には大きな恩義が出来申した。此れに応える為、我等が北条と武田を結ぶかすがいと成って御役に立ちましょうぞ!」

「左様で御座いまする。信玄入道殿には従う気は有りませぬが、左京殿が望まれるならば、拙僧と兄者が北条家を代表して援軍に馳せ参じまするぞ!」

 氏信と長順の言葉に、勝頼は満面の笑みを湛えて2人に礼を述べる。


かたじけない!御貴殿方の御言葉、正に千鈞せんきんの重みが有り申す!我等武田家が上洛の戦に及ぶ時、共にくつわを並べる日を楽しみにしておりまするぞ!昌澄、必ずや此の方々を無事に送り届けよ!善いなっ!」

「御意に御座いまする!武田の御名を汚さぬ様に務めて参りまする!」

 隣りの昌澄が応える前で勝頼と氏信、そして長順は再会を約して固く手を握り合ったのだった。


 昌澄と氏信、長順が行列に戻り、先頭から順番に出発し始めた頃、勝頼は行列の後方に用意されている《女乗物》と呼ばれる1基の高貴な女性用の輿に近付いた。

 勝頼が己の姉である黄梅院の為に特別に作らせた輿であった。

 勝頼は輿の直ぐ横にひざまずくと、中に居る女性…黄梅院に話し掛ける。


「姉上…。漸く小田原へ戻られる日を迎えられた事、御目出度き事で御座いまする。此の四郎勝頼、心より御慶び申し上げまする」

 勝頼に呼び掛けられた黄梅院は、輿の御簾をそっと横にずらしながら、勝頼に柔らかな笑顔を見せる。

「勝頼殿…。私が此の日を迎えたのは、偏に貴方の御陰です。私に貴方の様な弟がいる事を本当に誇りに思いますよ…」

 黄梅院から面と向かって褒められた勝頼は、少し照れながらも別れの挨拶を済ませる。


ただ、弟として当たり前の事を致したのみですのに、此れは面映おもはゆう御座いますな…。姉上、何かしら起きた時には、此の四郎を御頼り下さいませ。出来得る限りの助力を致す所存ですぞ!…あぁ、出立の刻限の様ですな。姉上、再び御目通り叶う日迄、健やかに過ごされませ!」

「勝頼殿…!本当に有り難う!どうか御壮健に!必ずやまた逢いましょう!」


 力者達が腰の高さ迄、輿を担ぎ上げて動き始めると、輿の中で勝頼から別れの言葉を掛けられた黄梅院は、感極まって瞳を潤ませながら勝頼に呼び掛けて来た。

 だが行列は、次第に勝頼から遠ざかっていき、御坂路へと続く通りを曲がると全く見えなくなってしまった。


「勝頼様。皆様方が小田原へ行かれましたら、府中も少しばかり寂しく成り申しますなぁ…」

 行列が見えなくなっても其の場に立ち止まった侭の勝頼の背後から、心配した軍師の真田一徳斎幸隆(幸綱)が声を掛けて来た。


「…一徳斎か。姉上はの様に申されておったが、儂の我侭わがままに因って姉上の境遇を大きく歪めてしまった…。内心では儂を御恨み申し上げておるのでは、と考えてな…」

「其の様な御考えこそが、黄梅院様に対して失礼で御座いましょう。黄梅院様は御屋形様(信玄)の御息女、勝頼様の姉君ですぞ。己の宿世は十分に心得ておられましょう…。むしろ勝頼様の御心が、黄梅院様や北条の兄弟方に新たなる道を指し示したので御座る!3人共に感謝致しておる筈、もっと自信を御持ち為さいませぃ!」

 幸綱に励まされた勝頼は、暫く瞑目すると己自身に言い聞かせる様に呟いた。


「…一徳斎が申す通りだ。姉上達が彼の様に申されておるのだ。儂がしかと致さねば彼の方達の決意が無意味と成ってしまう…。よし!儂もより大きく成長致すべく精進致さねば為らぬ!…一徳斎、看経所へ参るぞ!先ずはまつりごとの懸案を一つづつ片付けねばな!」

「御意で御座る!」

 勝頼からの呼び掛けに幸綱が応えると、2人はきびすを返して、躑躅ヶ崎館の城内へと戻って行くのだった。


 府中の東郊外から郡内・御殿場へ、そして小田原へと続く《御坂路》を、遥か南に鎮座する霊峰富士に見守られながら、粛々と行列が進んでいく。

 其の列の後方に於いて揺られる輿の中に、弟との別れで潤んでいた涙が漸く止まった黄梅院の姿が在った。

 其の瞳には、御簾の向こう側で天空に向けて棚引く、幾筋もの左義長の煙が写っていた。


(煙が棚引いていく山々の向こう側には、相模の海が広がっている。相模には、北条の方々が…、そして新九郎(氏政)様と子供達が待ってくれている筈…)

 無言の侭で棚引く煙を見詰めていた黄梅院の脳裏に、もう直ぐ再会する家族に代わって先程別れたばかりの弟の姿が描かれる。


(離縁されて相模から戻った私にとって、兄上(太郎義信)も既に身罷られて、母上(三条夫人)も蔑ろにする父上と《側室の息子》が治める甲斐の国になど、何の興味も有りはしない、自らも儚くなってしまいたいと思っていた…。そんなかたくなに鎖した私の心を、当の本人である筈の勝頼殿が生命いのちごと救ってくれたのだ…)


 心中の考えが固まるに連れて、黄梅院の瞳にも次第に力強さが宿っていく。

 黄梅院の心中で思い定めた決意の強さが、彼女の瞳からほとばしっているのだ。


(新九郎様や国王丸(後の氏直)と勝頼殿を再び仲違いさせる訳にはいかない!両家の将来の為にも、私の生命いのちを繋いでくれた勝頼殿の為にも、必ず両家を結び付けてみせる…)


「此の私の生命に換えてでも!」


 想いを込めて一言だけ呟いた黄梅院は、右手に遠く見える富士山を見据える。

 自らの目指す目標の困難さを霊峰富士に例えたからか、富士の山頂に住まうとされる浅間神社の主祭神・木花之佐久夜毘売命コノハナサクヤヒメノミコトに祈願しているのか…其れは黄梅院自身にも判然としなかったのだった。


 《甲相同盟》は正式に復活し、武田家は関東での北条家の脅威を解消して、其の視線を西側…京畿を占める織田弾正忠信長へと向ける事が出来る様になった。

 また《勝頼主導の和睦の成立》と内外に印象付けられた事により、他国の大名や幕府、そして公家や朝廷迄もが勝頼を《当主の陣代》以上の存在として認識する端緒となったのだ。


 一方で、静養中で在りながらも武田領内で《山門再興》を実現した武田法性院信玄にも、其の事を契機に新たな官途を授けるべき…との意見が、公家達から発せられた。

 勿論、信玄の父・武田陸奥守信虎(幕府相伴衆・無人斎道有)や、武田家の京の留守居を務める今福浄閑斎等の朝廷や幕府への工作の際に、大量に配られた《甲州金》が心境の変化に大きな影響をもたらした事は疑いの余地が無い。


 更には、武田を味方に付けたい将軍・足利義昭の推挙と、今少し武田を離反させたくない織田信長の思惑が絡み合い、信玄・勝頼親子に新たな官途が奏上される事に成ったのだ。


 此の数ヶ月後、武田家に於いて新たな当主を戴く事になる。


《武田家第20代当主・武田大膳大夫勝頼》…唐名に因み《武田光禄卿》が誕生するのである。


これで武田家と北条家が同盟を結びました。上洛への条件をまた1つクリアしたのですがまだまだ油断は出来ません。次回は少し話をずらして黄梅院達が小田原に帰る話を通して、北条側の話を描きます。相変わらず乱文で寄り道も多いんですがまた次回も読んで頂ければ幸いです。

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