拾参:元亀争乱(陸)〜三虎の邂迎〜
今回の話は戦いから離れて、史実では遂に叶わなかった《武田家三代が一つ処に集まって話し合う》話です。相変わらずの乱文ですが宜しく御願い致します。
京。
大八嶋の中心に位置し、《桓武の御世》の平安京への遷都以来7百有余年の間、禁裏(今上帝の御所)が置かれた都である。
また、足利尊氏が幕府を開闢した地でもあり、政治的にも《扶桑の要》と呼ぶに相応しい場所の1つである。
全国に散らばる大名達は、此の《京》に上洛を果たし天下に号令する事を夢見ていたのだ。
そんな大名の中でも、永禄11年(1568年)次期将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした尾張美濃の大守・織田弾正忠信長が、現在の天下取りの最右翼と世間から目されている。
勿論、信長の勢力伸張を善しとしない者も上洛当初から数多く存在していた。
現在、其の勢力は越前の朝倉・東四国の三好・北近江の浅井等の大名から本願寺・延暦寺等の大寺院、一部の公卿迄広範囲に及ぶ。
そして何よりも、信長の形式上の主君である筈の将軍自身さえも、裏では反信長勢力として動き始めていたのだった。
時は移り変り、元亀2年(1571年)8月下旬。信長の上洛から丸3年が経過している。
《仲秋の名月》の頃を過ぎると、日中は暖かくても日が落ちると急に増して来た寒さが秋の深さを感じさせる。一日の寒暖差が大きな盆地特有の気候の所為である。
新月に向かって細くなった下弦の月は未だに東の稜線から顔を見せず、暗闇に包まれた京の街中を秋風が吹き抜けていく。
当時の京の街は北辺の公家・武士階級・寺社勢力が強い《上京》と、南辺の商工業者が力を持っている《下京》と言う2つの街が、恰も双子都市の様に存在している。
だが、上京と下京の間には細い室町通沿いに多少の町並みが有るのみで、通りを少し離れると畑や荒れ地が広がっていた。
2年前、そんな室町通沿いに70日余りの突貫工事で突如として城が築かれた。
縄張りは上京の南側、室町通沿いの土地2町四方に及ぶ。周囲を2重の水堀で囲み、中央には屋根に金箔を施した3重の《天守》が聳え立ち、篝火によって煌びやかに照らし出されている。
永禄8年(1565年)の《永禄の変》での先の将軍・足利義輝弑逆事件の現場だった《武衛陣》に築かれた此の城を、京の住人達は現在の城主に因んで《武家御所》《武家御城》と称していた。
其の《武家御所》の主は、此の地で暗殺された足利義輝の実弟であったのだ。
「道有!予を何時迄待たす積もりぞっ!予は其処迄気が長うは無いぞっ!」
灯に照らされた部屋の中で、1人の男が苛立ちを隠そうともせずに金切り声で怒鳴りつける。
城主である男は部屋の中でも一段高く作られた上座の中央に、脇息に肘を預けた状態で座しており、目の前に平伏する法体の老人に対して怒りを帯びた目線を送っている。
「道有!そちを相伴衆に加えて此の2年近くの間、一体何を致しておるのだ!信長は未だに予に対しての慇懃無礼で不遜な態度を、全く改めぬでは無いか!」
「申し訳御座いませぬ。然れど此の《無人斎道有》が常々申しておるが如く、織田弾正(信長)殿の心底は、率爾ながら上様を傀儡として操る事で御座る。既に明らかな事に眼を瞑った侭では、益々御立場が悪く成る一方ですぞ…」
「…わ、判っておるわ!」
狩衣を纏い公卿の様な身形をした上座の男が、臣下で或る筈の《無人斎道有》なる老人が発する迫力に怖じ気付く。
上座の主…足利将軍家の当主にして従三位権大納言・第15代の征夷大将軍である足利義昭を正面に見据え、正面に座する道有…30年前に嫡男と重臣達から追放された前甲斐国主・武田陸奥守信虎…は背筋をピンと伸ばすと、今の主君である義昭に滔々(とうとう)とした口調で訴え掛ける。
「上様の御境遇を憂いた畿内各地の大名の方々が、昨年から織田弾正殿の討伐の志を持って兵を挙げておられます…」
「…うむ」
道有の力強い口調に気圧された義昭が、有耶無耶な生返事を返したのを見て、道有は話を続ける。
「既に朝倉左衛門督(義景)殿、浅井下野守(久政)殿・備前守(長政)殿親子、六角承禎(義賢)殿・右衛門督(義治)殿親子、《三好三人衆》(三好長逸・三好政康・岩成友通)の御歴々が義挙に加わり、本願寺の法主の顕如様も宗徒の方々に蹶起を促す檄文を出されておりまする。更には三好左京大夫(義継)殿、松永霜台(弾正少弼久秀)殿、比叡山延暦寺の天台座主の覚恕法親王様も密かに誼を通じておられまする…。此の様な時に上様御自身が《態度を改めぬのが赦せぬ》等と仰有られては、御歴々の志が報われませぬ。織田弾正殿は昨年末、上様が御仲介なさった《江濃越の一和》を僅か半年余りで反故に致したのですぞ…」
織田家を中心とした畿内の《元亀争乱》は、昨元亀元年(1570年)4月、信長率いる軍勢による越前討入と朝倉・浅井勢による金ヶ崎での奇襲を以て幕を開けた。
6月には近江姉川河畔に於いて朝倉・浅井勢と合戦に及び、優勢勝ちを収めたが追撃は適わなかった。
8月から9月は摂津野田・福島での《三好三人衆》討伐の戦に本願寺勢が参戦、横槍を入れられて撤退を余儀無くされた。
更には9月から11月に掛けて近江湖西地方での浅井・朝倉勢の攻勢に遭い、比叡山延暦寺を舞台にした《志賀の陣》と呼ばれる長期の籠城戦に持ち込まれた間に、伊勢長島願証寺の本願寺勢が挙兵し弟の信興を喪った。
正しく此の時の織田家は、何時滅ぼされても全く可笑しくは無い状況だったのだ。
其処で信長が選択したのは《袞龍の袖》に縋る事…即ち今上帝(正親町天皇)の勅命による講和で切り抜ける事だった。
義昭も信長からの依頼に応える形で、朝廷に勅許が下りる様に仲介の労を取っている。
此れに因り、12月13日には朝廷の仲裁によって織田・浅井・朝倉の3家は停戦に合意した。世に言う《江濃越一和》である。
更には本願寺や南近江の六角家とも、夫々(それぞれ)と交渉の末に停戦に漕ぎ着けたのだった。
だが停戦締結の僅か20日程後の元亀2年1月2日には、北近江の横山城主である木下藤吉郎秀吉に命じて、朝妻湊・姉川間で通行を規制、浅井・朝倉と本願寺の連絡線を遮断した。
次いで2月24日には、南近江に残された浅井家の拠点である佐和山城を開城に追い込み、新たに丹羽五郎左衛門尉長秀を城主に据えている。
其の際、織田勢は流言を流す事で浅井方の佐和山城主・磯野丹波守員昌の離間・調略を推し進めていた。
しかし員昌及び佐和山城兵達は、浅井家浪人衆頭の矢沢右馬助綱頼が手引きして脱出に成功、引き続き浅井家の先陣を務める事になる。
因に、矢沢綱頼は甲斐武田家の軍師・真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)の次弟である。
前年に浅井・朝倉勢への援軍として浪人衆を率いた武田家足軽大将衆・武藤喜兵衛昌幸(幸綱の3男)が、叔父に策を授けて員昌を浅井方に繋ぎ止めたのだった。
織田勢は、4月には三河表に侵攻した武田の軍勢と対決する為、陣触れを発して岐阜城に軍勢を集結させている。
しかし、武田家の矛先が織田の本国・尾張へ向かわないのを見届けると、5月12日には集めた軍勢を使って、尾張・伊勢の国境を流れる木曽・長良・揖斐の3川の河口部に築かれた伊勢長島城の一向一揆(長島願証寺)勢に攻め寄せている。
しかし長島城はおろか砦の1つも落とせず、更には帰途を追撃されて氏家貫心斎卜全(直元)が討死、柴田権六勝家が重傷を負う羽目に陥った。
一方、近江の一向一揆勢が正式に浅井家の支援に乗り出し、近江方面の合戦が再び本格化する。
浅井勢は、前年に浅井家から織田家に鞍替えした堀二郎秀村の鎌刃城を攻めたが、寄親の木下秀吉勢が後詰に入り撃退している。
此等の事態を打開する為に、信長は自ら軍勢を率いて北近江に出陣、8月18日には秀吉の横山城に本陣を構えて、浅井家の本城である小谷城に攻め寄せたのだ。
此の8月下旬の時点でも、小谷城を攻め立てると共に、其の周辺の村落に対して刈田狼藉や焼き討ちを行っていた。
勿論、其等の情勢については既に義昭の耳にも届いていた。織田の陣営には細川兵部大輔藤孝・和田紀伊入道(惟政)・明智十兵衛光秀等の幕臣達が、将軍家と織田家に両属する形で仕えており、織田勢の動きは逐一知らされていたのだ。
「判っておるわ!だからこそ、傲慢で不遜な信長を今の内に懲らしめねば為らぬのだ!だが浅井・朝倉・六角・三好三人衆・本願寺…、此等のみでは貴奴には敵わぬ!仮令三好義継と三人衆が誼を戻し、松永久秀が織田方の筒井順慶と争う事になっても、まだまだ足りぬのだ!」
「確かに上様の仰有られる通りで御座いまする…。為らば如何為さいまするか?真逆弾正殿の此れ迄の所業を御赦しに為られて、御膝を曲げられまするか?」
道有からの降伏を勧めるが如き質問に憤慨した義昭は、脇息をバンッと叩きながら甲高い声で反論する。
「何を申すか!予は武家の棟梁たる《征夷大将軍》ぞっ!今上の帝に御成り代わり、此の扶桑を統べる存在じゃ!其の予が何故に信長に屈さねばならぬのだっ!ええぃ、忌々しい!…そうじゃ!妙案を思い付いたぞ!」
突如として喜色を満面に浮かべる義昭に一抹の不安を感じながらも、道有は顔色を変えずに質問する。
「…上様、其は如何なる御考えで御座いまするか?」
「うむっ!織田の勢いに匹敵する諸国の心有る大名共に、予の書状を遣わせて上洛を促すのだ!毛利や上杉…武田や北条にも使者を遣わすと致そう!」
「…御言葉ながら申し上げまする。上様からの御内書を頂いたとて、上杉家は越中での本願寺殿への対抗上、寧ろ織田家と誼を深めておりまする。また、毛利家や北条家、其れに武田は代替りの為に家中がごたついておりまする。故に孰れの大名も直ぐには動けますまい…」
織田方と反織田方に分かれて抗争を繰り広げる畿内の周辺には、数ヶ国の分国を支配する幾つかの大大名が存在していた。
しかしながら、越後の上杉不識庵謙信(弾正少弼輝虎)は昨年患った卒中(脳梗塞)により左下肢に障害が残っており、更には越中の一向一揆との長年の対立・三河の徳川侍従家康との盟約等により、織田信長と争うとは考え難かった。
また、安芸を中心に勢力を誇る毛利家では、今年(元亀2年・1571年)の6月14日に親織田派と目されていた隠居の陸奥守元就が死去している。
とは言え《謀神》と迄恐れられ、死の間際迄毛利家の采配を司っていた元就の死去により、毛利家は今暫くは動きそうに無かった。
相模を中心に関東を支配する北条家も、隠居後も《御本城様》と呼ばれて実権を握っていた北条左京大夫氏康が、昨年8月に人事不省に陥っていた。
其の後は一時持ち直していたが、最近は氏康の病状が再び悪化しており、全く予断を許さない状況になっていた。
また現当主の相模守氏政が、己の感情や目先の利益に判断を左右される短所が有るとはいえ、北条家の言わば国是である《関東制覇》を放って迄、義昭の檄に応えて挙兵するとは考え難かった。
甲斐を拠点に数ヶ国を領有する武田家では、当主の武田法性院信玄(大膳大夫晴信)が2年前から、病気療養と称して表舞台から姿を隠していた。
直後から信玄4男の武田四郎勝頼が、信玄の陣代(当主代行)として国政を率いている。
(其の後、勝頼は従五位上左京大夫に任官している)
昨年末から今年夏にかけて、勝頼率いる武田軍は駿河河東地方・北遠江・奥三河を併呑していた。
其の後は北伊豆や奥武蔵等の《対北条家》の戦いのみ展開させ、他の方面では守りを固めて併呑地の領国化を優先させていた。
「ふむ…、確かに毛利や北条は直ちに参じる事は難しかろう。京からも随分と離れておるからな。だが、上杉家は当主が義に篤い輝虎じゃ!兄上の《輝》の一字を賜った程の恩義が有る故に、本願寺との和睦が成れば必ずや馳せ参じるだろう!早速、輝虎と石山の顕如殿の双方に《互いに弓矢を納めて兵を挙げる》様に遣いを送ると致そう!…後は武田じゃ!」
己の希望的観測から立案した策に、必要以上に自信に満ちた面持で一人言の様に呟いていた義昭は、不意に道有に向かって話し掛ける。
「道有よ!武田家への遣いは其方が務めるのじゃ!昔は甲斐国を追い出され国主の地位を追われたとは言え、今の甲斐を率いる勝頼とやらは其方の孫、決して粗略に扱われまい!必ずや武田の挙兵の確約を取って参るのだぞ!…よもや否やと申すのでは或るまいな?」
「…いえ、其の様な事は御座いませぬ。此の無人斎道有、上様の御為ならば故国に赴き《織田打倒の義挙》を説いて参りまする…」
道有は義昭からそう問われると、元とは言え1国の国主に相応しい所存で平伏して義昭の命令に従った。
しかし伏せた道有の顔色は、30年前に国を喪った《古傷》を不用意に抉られた筈であるのに、何故か北叟笑んでいたのだった。
時は過ぎて、義昭と道有の密談が行われてから、凡そ1月程経った9月23日の事である。
京の都から百里以上東側にある甲斐府中の城下に、秋風と呼ぶよりも寧ろ初冬を思わせる乾いた冷たい風が吹き抜けるが、町の西外れに設けられた市場からは人々の熱気が溢れている。
甲斐府中の城下町にも、他の町の市場同様に月に6回開催される《六斎市》が2ヶ所在り、交互に市を開いている。
1つは府中の城下の南東部に設けられた《八日市場》、もう1つが城下の西出入口を扼する此の《三日市場》である。
此の日が丁度開催日に当たる三日市場には、繁盛する噂を伝え聞いて甲斐を訪れた多くの旅商人達や、府中や周辺に住む商人や職人達で大層な賑わいを見せていた。
そんな市場に面した街道を、西の方から土煙を巻き上げながら早馬が此方へと駆けて来る。人々が街道の端に避ける中、早馬は脇目も振らずに街中へと駆け抜けて行く。
避けた人々が見送る早馬が向かう先には、甲斐や近隣を治める甲斐武田家の本城…躑躅ヶ崎館が在るのだ。
「…うむ、遠路大儀で御座った。裏に下がられてゆっくりと休まれるが善かろう」
「はっ!痛み入りまする!」
四半時(約30分)の後、京から遥々と馬を乗り継いで府中に駆け込んだ使番を、軍師の真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)が下がらせる。
すると、軍議を開く広間にて上座に座る若武者…武田家陣代・武田左京大夫勝頼は深く嘆息した。
「ふぅ…、高遠にて去る16日に、小谷の矢沢綱頼からの繋ぎの透破から、此の事を聞いた時は《よもや其処迄致すか…》と勘繰ったが、京の浄閑斎からも同じ内容の書状を寄越して参ったのだ。恐らく間違いあるまい。…比叡山延暦寺は織田弾正(信長)殿に滅ぼされたようだな…」
勝頼がそう断定すると、別件で躑躅ヶ崎館に集められた6名の武将は押し黙り、広間には重苦しい雰囲気が流れていく。
織田弾正忠信長は、敵対勢力に包囲された状況を打破する為に、改めて弱い敵から順番に各個撃破する事にした。
其の最初の目標に選ばれたのは、天台宗総本山にして《王城鎮護の山》比叡山延暦寺であった。
延暦寺は《山門》とも呼ばれ、勢威が衰えた此の頃でも数百の僧兵を抱えていた武装勢力であり、志賀の陣の際には浅井・朝倉勢の比叡山籠城を認める等、反織田勢力への肩入れを行なっていたのだ。
信長は小谷攻めの最中である8月中旬から周到且つ秘密裏に計画を練り上げ、9月12日払暁から3万の軍勢で一斉に攻撃を開始したのだ。
攻撃は、当時活動の拠点であった坂本の町を中心として、日吉神社の山王二十一社・山上の東塔・西塔・横川の仏閣等の広範囲に及び、其のほぼ全てが灰燼に帰した。
更には主に坂本に居住していた、延暦寺に属する僧俗3千人以上が殺され、文字通り1つの寺院ごと葬り去られてしまったのだ。
《比叡山焼き討ち》の第一報は、小谷城に入っている矢沢綱頼から配下の真田忍び・唐沢玄蕃を通じて勝頼に齎された。
此の時、勝頼は信濃高遠に於いて稼動している秘密の《鉄砲鍛冶工厰》の視察を終えた後、4年前に死去した正妻・をりゑの方(遠山夫人)を高遠の竜勝寺に於いて改葬していたのだが、報せを受けると直ちに甲斐へ帰国の途に着いている。
更に2年前から京に上洛して、朝廷・幕府に工作を司っている今福浄閑斎(石見守友清)が、《諸国御使者衆》を介して詳報を報せて来たのだった。
「…いやはや、よもや叡山を焼くとは織田弾正も随分思い切った事を致しましたな」
軍議に集められた重臣の1人の山県三郎右兵衛尉昌景が、信じられぬとばかりに頭を振る。
現在昌景は遠江・三河方面での手当てを終わらせて、《両職》(筆頭家老)の1人として躑躅ヶ崎館に於いて勝頼の補弼の任に就いていた。
「いや、源四郎(昌景の仮名)殿。叡山の焼き討ちは、明応の頃に管領家の細川政元公が1度行なっておる。既に前例が有るならば、織田弾正は躊躇う事は無いだろうな…」
昌景に対して、伊豆戸倉の地から急ぎ帰国していた春日弾正忠虎綱が声を掛ける。
虎綱は元々は海津城に於いて北信濃方面を担当していたが、昨年末から駿河三枚橋城を拠点に対北条戦の指揮を行なっており、現在北伊豆まで北条方を押し込んでいた。
「左様、叡山の側も最近は修学を怠り、色欲に塗れ、権勢を振り翳して居ったと聞く。此の様な所業と相成った事も、致し方無しと心得る」
同じく招集に応じて、奥武蔵の御嶽の地から戻った内藤修理亮昌秀が話に加わる。
昌秀も今年夏迄の遠江・三河攻めの後、西上野方面から北条方に攻め入っており、既に奥武蔵に主戦場が移りつつあった。
「とは言え、叡山の地は京の鬼門に位置し、上京と近江の間を扼している要衝。叡山が滅ぼされて織田が抑えた意味は限り無く大きかろう…」
すると、近頃甲斐に帰国していた馬場美濃守信春が、比叡山の位置の重要性という別の視点から指摘する。
信春は昨年から駿河・遠江・奥三河の各地を巡り《武田流築城術》に則した形で新たな城の築城・支配下に入った城の改修を指揮していたのだ。
「如何様。美濃殿の御指摘の通り、確かに京から近江を出入り致す品々…特に北国からの八木(米の事)の流れを抑えた事は極めて大きい。幕府・朝廷に対する睨みも格段に増しまする。我等としても此の侭手を拱く訳にもいきませんな」
昌景と共に《両職》を兼任している陣場奉行の原隼人允昌胤が、比叡山の位置が京の物流を司るに重要な点を付け加えて、信春の指摘に賛同した。
「うむ…、して勝頼殿。儂だけで無く、戦場に居た修理殿や弾正殿迄も躑躅ヶ崎に呼び付けたのは、此の件を話す故で御座るかな?」
勝頼からの呼び出しに不満を感じている武田刑部少輔信廉が、上座に座する勝頼に声を掛けて来る。
信廉は信玄の同母弟(信虎6男)で騎馬80騎持ちの御親類衆。
芸術の才能に優れ、絵画・彫刻・歌道・漢詩等、多種に渡って才を発揮する一方、信玄と容姿が似ており影武者を務めていた。
其の後、勝頼が陣代に就いてからは信濃深志城代を務めている。高遠城に異動する計画も有ったが、勝頼が高遠を直轄地とした為に立ち消えになっていた。
「いや、叡山の件に関しては、取り敢えずは武田領に逃げ込んだ僧俗を匿うが、暫くは静観致すつもりだ。だが此度、態々集めたのは叡山の事では無い…。実は高遠にて《叡山の報せ》を受ける前に、浄閑斎から別件の書状が参った。将軍・足利義昭公からの御内書を携えた使者が甲斐を訪れるとの事だが、問題は御内書の中身では無い…」
「まぁ、内容は《織田家討伐の兵を挙げる事》を迫るのみで御座ろう。読まずとも判りますな」
深刻そうな勝頼に対して、信春が笑いながら軽口を叩くと他の5人も微笑みを見せる。
「勝頼様、では問題は御内書を届ける使者の方…という訳で御座いますな?」
虎綱が質問すると、勝頼は困惑の表情で頷いたが、既に理由を知る幸綱は忿懣遣る方無い表情で、浄閑斎からの書状を取り出した。
「此れが公方様の使者の無人斎道有と名乗る者の書状と、浄閑斎殿からの添え状で御座る。《百聞は一見に如かず》、各々方で御覧為されよ」
幸綱はそう言いながら、回覧出来る様に書状を隣りの昌景に手渡した。
「何と致した事か!」
「うぅむ…、此れは…」
書状が回っていくに従って、憤りと困惑が広間を占有していく。そして最後に書状を手にした信廉が、信じられぬとばかりに呻いた。
「ち、父上だと…!」
「叔父御殿、其の通りで御座る。此度甲斐に入国を求めておるのは、幕府相伴衆の無人斎道有殿。其の素性は先代甲斐国主・武田陸奥守信虎公…我が祖父で御座る。其れ故に重臣の中でも信虎公を見知っておるで在ろう6人を召し出したのだ…」
信廉に話し掛けた勝頼は、グルッと集まった諸将の顔色を見渡しながら話しを続ける。
「無人斎殿…御先代の信虎公は今は正式な幕臣じゃ。然れどお主達にも多少は蟠りが有ろう。甲斐に入国を認めるか否か…」
「勝頼様!某は断固反対で御座いまする!如何なる御存念が有るかはいざ知らず、彼の方が再び甲斐国に舞い戻るのは災いの種と相成りましょうぞ!」
勝頼の言葉を遮るが如き勢いで、昌秀が血相を変えて道有…信虎の入国に反対する。
昌秀にしてみれば、信虎は諌言した父の工藤虎豊を誅殺した張本人であり、其の後は兄の昌祐や一族郎党と共に諸国を放浪する羽目に陥ったのだ。
「勝頼様。修理殿の言い分は誠に尤もで御座る。拙者も御屋形様(信玄)と勝頼様には御仕え致すが、失礼ながら信虎殿には恨みしか御座らぬ!」
信虎に一度攻められて、故郷の真田庄から追われた経験を持つ幸綱が、昌秀の反対意見に賛意を示す。
すると、無言ながらも昌景と虎綱も頷き、2人の意見に同調する。
「然りながら、信虎公は正式な幕臣で御座る故に会われた方が良いかと心得る。昔の御所業を理由に無碍に断る訳にもいきますまい」
反対が多い中、昌胤が幕府との関係を理由に、信虎の入国を認める方針に支持を示す。
「左様。どういう経緯かは知らぬが、御先代(信虎)が幕府の中枢に居るのは事実、しかも元とは言え《在京の守護》で御座る。朝廷や公家にも顔が効きましょうぞ!」
信春も幕府や朝廷との関係を重要視して、昌胤同様に入国に理解を示した。
「儂は…、《父上の子》として心情では入国を認めてやりたい。然れど《御屋形様の弟》としては甲斐に入れてはならんと思う。優柔にて申し訳無いが…」
信廉は苦渋の表情を浮かべながら、己自身の葛藤を口にする。
すると7人全員の意見を聞き終わった勝頼が、全員の顔を見渡しながら自らの考えを明らかにした。
「全員の意見、確かに聞かせて貰った。では儂の存念を述べる事に致そう。此度の幕府の使者、無人斎道有とは会見しようと思うが、甲斐入国は認めない。駿河か信濃辺りの何処かの地にて会う事に相成ろう。異議有らば此の場にて申してくれ」
《甲斐以外で会見する》という落し処を自ら辿り着いた勝頼に対して、7人全員が納得の表情を見せる。
其れを見て安心した勝頼は、改めて7人を見渡しながら断を下した。
「よし、ならば浄閑斎を通じて甲斐以外に迎える様に交渉致そう。会見の際には皆の者にも同席して貰いたい。善いな?」
『ははっ!』
勝頼の決定に従う事を表すかの様に、其の場に居る7人全員が平伏する。
其の中には、勝頼に対して不満を持つ筈の信廉も含まれていた。
(此は可笑しい…、諏訪の四郎殿は篤実だがもっと猪突の気が有り、思慮も浅かった筈だ。目付共の意見が割れた後に、自然に己の考えた折衷案を認めさせるとは…。此れでは宛ら兄上の様では無いか…!)
信廉は此の一件を機に、勝頼に対して《側室の子》という偏見無しで向き合い始める事になるのだった。
こうして勝頼の出した方針に従って、《幕府相伴衆・無人斎道有》こと前国主・武田信虎を武田領に入れて、甲斐以外で会見を行う事を申し入れた。
場所は高遠も候補地に上がったが、《鉄砲鍛冶工厰》が露見する可能性や交通の便を考慮して、昨年改修を終えて一条右衛門大夫信龍(信虎9男)が城代を務める駿府城にて会見が開かれる事に成った。
幕府の使者としての信虎を迎える準備が進行する一方、勝頼は武田家が幾つか保有する隠し湯の中の1つに、密かに遣いを送り出している。
遣いが向かった地には屋敷が建てられており、最も此の会見に影響力が有る人物が療養生活を送っているのだ…。
勝頼が会見を決めてから半月程経過した10月5日、駿河江尻の清水湊に1隻の船が入港した。
海路武田領への入国を果たした、無人斎道有…武田信虎率いる幕府からの使者の一行を同乗させた商船である。
だが、下船した一行の中には、明らかに武家とも商人とも違う雰囲気を醸し出した一団が存在した。
物腰から高貴な出自を感じさせる高位の僧侶と、彼を頂く僧侶の一団である。
彼等こそが、信虎が武田家を《畿内の争乱》に引き摺り込む為に、畿内で保護して駿河迄連れて来た《切り札》だったのだ。
丁度其の頃、勝頼と其の一行が甲斐府中から騎行して、会見場として用意された駿府城に入城すると、城内は蜂の巣を突いた様な騒ぎになっていた。
勝頼が城代の一条信龍を見掛けると其の理由を問い掛ける。
「信龍殿、落ち着かれよ。其の様に慌てるとは如何致したのだ?」
だが、柄にも無く慌てている信龍が応えた返答は、勝頼の予想を大きく越えていた。
「おおっ!左京(勝頼)様っ、一大事で御座るっ!此度の会見に我が父上(信虎)の同行の者が知らされたのだが、其の中に天台座主が来て居るとの事で御座るぞっ!」
「何だとっ!確か今代の天台座主は准三后の覚恕法親王じゃ。儂や父上からも去年座主に就かれた時に祝いの品を送って居ったが…」
曼殊院覚恕法親王は先代・後奈良天皇の第3皇子で今上帝(正親町天皇)の弟宮にあたる。
若くして天台宗の門跡寺院《曼殊院》に入って其の門跡を継承し、《准三后》として敬われていた。
昨元亀元年(1570年)には第166代の天台座主を襲っている。
だが比叡山は覚恕不在の時に焼き討ちに遭い、更には朝倉・浅井等の反織田方の大名との関係を追及された覚恕は、同じく難を逃れた権僧正の満蔵院亮信、僧正の正覚院豪盛等と共に、無人斎道有の保護を受けて武田領に亡命して来たのだった。
「恐らくは、道有殿…先代様(信虎)が織田と戦わせる為に態々(わざわざ)御連れ致したのだろう。此の侭では畿内の戦乱に済し崩しに引摺り込まれる…。だが今の武田家では、織田と戦っても勝ちは拾えまい。如何致すべきか…」
勝頼は会見の間際迄打開策を模索する。そして会見場に赴く間に1つの提案を考えついたのだった。
「勝頼、此度は比叡の御山は悪逆非道なる信長奴に因って、一山残らず灰燼に帰した…。伝教大師(最澄)以来灯し続けてきた《不滅の法灯》も途絶えてしまった。是非とも仏敵信長を討ち滅ぼし《山門再興》の実現に力を尽くしてくれ…」
「法親王殿下は此の様に仰有っておられる。甲斐武田家も殿下や公方様の檄に応え、織田弾正に向けて兵を挙げるが良かろう…」
翌6日の朝から会見が始まり、お互いに挨拶も碌に終わらぬ内に、上座に座した覚恕と脇に控えている信虎が勝頼に挙兵を呼び掛ける。
(単刀直入に来たか!此れは中々躱し難かろう…。御家の為にも我が案を呑ませて上手く切り抜けねばならんな…)
勝頼は困惑しながらも、先ずは上座の覚恕と信虎に向けて《織田征伐》が現時点では難しい事を説明する。
「某も法親王殿下の《山門再興》の御祈念、誠に尊き物と心得まする。されど我が武田家は四方を強敵に囲まれ、動きを封じられておりまする。また織田弾正は朝廷への尊崇の念極めて篤く、心底は扨置き形の上では公方様を手中に抱えており、更には武田家と織田家は数年来の盟約を結ぶ間柄で御座いまする。今の様な状況で武田家が挙兵致したとしても、北条・上杉等の大名は従うどころか我等こそが《朝敵》と名指しして、嵩に懸かって攻め寄せて参りましょう。当主・法性院信玄の陣代として、国を其の様な状況に追い込む訳には参りませぬ」
覚恕に対する此の勝頼の発言を聞いて、脇で聞いていた信虎は思わず鼻白んだ。
己を追放した老獪な信玄為らば兎も角、年若な当主代行程度は朝廷や幕府の威光を笠に着れば、容易く従うと思っていたのだ。
「…ですが、法親王殿下や山門の御歴々が再び叡山に戻られる迄、此の侭では永きに渡り彷徨い続ける事に相成りましょう。其処で我等武田の領内に、法親王殿下や織田方の手を掻い潜った御歴々が再び集うに相応しい《根本中堂》の如き伽藍を築きたいと考えておりまする。確か出羽の《宝珠山立石寺》には、天文12年(1543年)に《不滅の法灯》が分灯されておる筈で御座いまする。其の法灯を武田領の伽藍にも分けて頂き、叡山に再び集う時迄の希望の灯と致しとう御座いまする…」
勝頼がそう言いながら平伏すると、其の後ろに控えている山県昌景・原昌胤・馬場信春・内藤昌秀・春日虎綱・真田幸綱・武田信廉・一条信龍の8人の重臣も一斉に平伏した。
『おおぉっ!』
其の提案を聞いた覚恕に付いて来た亮信や豪盛等の僧侶達から、大きな感嘆の声が上がった。
覚恕や延暦寺からの亡命僧達にしても、織田が滅ぼされるか、織田と山門が和睦しない限り、延暦寺が再興する事は不可能だ。
何方にせよ数年単位の持久戦に成る公算が高く、直ぐに比叡山を奪還出来ない為らば、拠点と成るべき仮の本山は必ず必要に為るのだ。
「うむ、勝頼殿の厚意嬉しく思う。叡山に《山門再興》を実現致す迄、新たな伽藍で分灯して来る法灯を守る事に致そう。何卒宜しなに頼む…」
覚恕は取り敢えずの安住の地が確保出来る時点で、今回は要求を引き下げる事にした。
覚恕一行が別間に案内され、会見の間には勝頼と武田の重臣、そして信虎のみが残された。
途端に、上座の脇に座している信虎の雰囲気が目に見えて刺々しく変化する。
「四郎とやら…。初めて会うが、物の道理とやらが全く判って居らぬと見えるな。此処で織田を滅ぼせば《管領》として天下に号令出来るのだぞ!其の程度の事が何故判らぬのだ!」
そう言いながら立ち上がった信虎は、上座の中央…先程迄覚恕が座していた場所に歩を進めて、立った侭で後ろの重臣達を睥睨する。
「大体、四郎を支えるべき家臣に、親の名字を名乗らぬ不孝者が随分と多い者よ。しかも馬場、山県、内藤…晴信(信玄)の好みか、孰れも儂にしたり顔で妄言を吐いて成敗した輩の姓ばかりだ!…其処の内藤と名乗る奴の父、工藤下総(虎豊)も儂に盾突く故に斬り捨てたのよ!」
(お、おのれっ!儂だけで無く手に掛けた父迄も辱めるのかっ!許せぬっ!)
話しを聞いていた昌秀が憤怒を露わに身を起こそうとして、横に座する信春から無言で押し止められる。
だが上座に立つ信虎の話は、追放された鬱憤を30年ぶりに晴らすかの様に罵倒し続ける。
「儂が手討ちにしてやった輩の息子に、儂の討伐から逃れた逃げ足が早い信濃の者、挙句の果てには百姓に迄も大身を与えるとは、何たる様だ!」
信虎は次々と言い放ち、幸綱や虎綱も顔を伏せた侭で歯を食い縛って堪えている。
其処に睚を吊り上がらせた勝頼が身を起こし、下座に座した侭で上座の信虎に向かって敢えて低い声色で制止する。
「御先代様…いや、道有殿、口を慎まれよ!」
「はんっ!四郎とやら!貴様は誰に向かって其の様な口を聞いておる!儂が当主の頃は武田家に代々伝わった《筑前左文字》で貴様の様な讒言を吐いた失礼な輩を50人程手討ちにしたものだ!」
上座の信虎は少しづつ勝頼に近付きながら、怒りに任せて罵倒する。
当主だった頃を彷彿とさせる様な雷霆の如き怒号と、抜身の刃の如き狂気を孕んだ眼光は、信虎の時代を体感していた諸将達を射竦めるには十二分だった。
しかし当時生まれていない勝頼には、信虎に対する潜在的な恐怖が余り存在しなかったのだ。
「妄言を吐くのも大概にされよ!其の様な所業を重ねに重ねた故に放逐された事に未だ気付かれぬのか!」
「な、何だとっ!」
勝頼から予想外の反論を受けた信虎は、《怒髪天を衝く》が如く髪の毛を逆立てて、更に怒りを露わにする。
「其れに、武田の重臣達に不満を持たれておる様で御座るが、此の者達は全員父上(信玄)と共に武田家繁栄に力を尽くし、未だ若輩な儂を支えてくれる、何にも替え難い大切な忠臣達で御座る!若し此の者達を愚弄する為らば、此の者達が赦しても儂が赦さぬ!良く覚えておられよ!」
「左京様…!」
「勝頼様…。有り難き御言葉で御座いまする…!」
勝頼の発言を聞いた重臣達は、思わず前に座した勝頼を仰ぎ見て感動に震えていた。
勝頼に批判的な信廉でさえも、
(何たる青臭さじゃ!だが此の男が建前では無く、心底から言っておる事は儂にも判る。此れも生まれ持った篤実さ故やも知れぬ…)
と、素直に感心したのだ。
だが、言われた信虎は完全に逆上して、口角から泡を飛ばす勢いで叫び声を上げる。
「おのれっ!善くも幕臣たる儂を虚仮にしてくれたな!儂自ら手討ちにしてくれるわっ!其処に直れぃ!」
信虎は腰に佩いた脇差を抜き放つと上座から勝頼に近付いていき、勝頼も座した侭で脇差を避けれる様に身構える。
其の瞬間、会見場の襖がバンッと勢い良く開き、此処に居る全員が聞き覚えが有る声が流れる。
「双方、其処迄に致すのだ!勝頼も父上も頭を冷やすが良い!」
「父上…到着なさいましたか…」
「…晴信か」
「お…御屋形様…?」
「うむ。皆の者、息災であったか。先代たる我が父の事、此の儂に預けてくれまいか?」
動きを止めた勝頼と信虎は固より、呆然とした重臣達の前には武田家の現在の当主・武田法性院信玄が立っていたのだ…。
信玄は3年前の永禄11年(1568年)冬の第1次駿河侵攻の直前に、京から訪れた名医と名高い曲直瀬道三から診察を受けた。
此の曲直瀬道三に甲斐へ赴いて信玄の診察する様に依頼したのが、当時畿内各地を潜伏していた信虎であった。
其の時の診察に於いて、道三から《政務一切から最低3年程離れて静養に務めなければ余命は最も持って5年》と宣告されたのだ。
其の後の駿河での戦いが頓挫した信玄は、翌年息子の勝頼を己の全権代行として《陣代》に就けると、以後2年以上に渡って武田領各地で療養生活を送っていたのだった。
因みに、信玄は永禄2年(1559年)2月に出家して《徳栄軒信玄》という法名を名乗っている。
其の後、駿河侵攻前後から《法性院信玄》の院号を名乗り、永禄12年11月9日付の陽雲寺に納めた起請文には《法性院》と署名していた。
勝頼から事の子細を書状で知らされた信玄は、自ら駿府に入り駿府城の会見場に現れて、険悪になった己の実父と息子の仲を仲裁したのだった。
突如として会見場に現れた信玄の要望により、家臣や随行者を交えずに3人のみでの会談を行う事になった。
駿府城の改装時に中庭に新たに設けられた茶室が用意され、信虎・信玄・勝頼の3人のみが茶室の中に入っていく。
亭主の場所には信虎が座って居るが、茶を点てる訳では無く余人を交えずに向かい合ったのだ。
「ふんっ、京より離れた鄙びた地にしては随分不相応な茶室を設えておるな…」
「堺の茶人の千宗易殿の弟子で、薩摩屋の主人の山上宗二殿に昨年から茶の数奇を学び申した。此の茶室の建て方や間取りも、宗二殿の手解きで御座る」
信玄の取成しで幾分落ち着きを取り戻した信虎の感想に対して、同様に冷静になった勝頼が、此の茶室を設計した《茶数奇》の師匠の名前を明かす。
「うむ、其の事は儂も聞いておる。堺や雑賀とも交易を行っておるとは、頼もしい限りだ」
信玄が勝頼の成長を認める発言をすると、勝頼は無言の侭で目礼する。
すると居住いを正した信玄が勝頼の方を向き直して、己と父・信虎の対立について語り始めた。
「勝頼に言っておかねばならぬ事が有る。儂と我が父信虎との事だ。心して聞くが良い…」
「…はっ」
「先程、お主は父上に随分と憤っておったが、父上が家督を継いだ当時の甲斐は武田宗家の力が弱く、国内は大いに乱れて今川や北条も攻め込んで参っておった。其の様な中で父上は《武田宗家の力を強め一門や家臣の力を削ぐ》事に腐心なさっていた。其れ故に武田一門や重臣でも背いた者を粛清して迄、甲斐を纏め上げたのだ…」
「……」
「だが、其の遣り方の苛烈さ故に板垣(駿河守信方)や甘利(備前守虎泰)、飯富(兵部少輔虎昌)等の重臣達は儂を旗頭に担いで父上と対立した。甲斐の分裂を憂いた儂は、重臣達と謀って父上を駿河に追放致したのだ…」
「…成程。しかし仲違いを致した筈の父上と道有殿…御先代様が、何故其の様に互いの話の中身を理解出来るので御座いますか?」
「決まっておろう。父上が駿河に居る時から秘密裏に書状を交し続けておったからな」
「何とっ!」
世間も《険悪な親子》という認識を持っている信玄と信虎が、裏では既に和解して情報の遣り取りを続けていた…とは、勝頼には余りに予想外であった。
「父上から今川家の御家の状況を逐一知らされておった故に、儂は今川領の駿河の切り取りを推し進めたのだ。然れど、父上の事を知っておったのは儂と弟の信繁、それと勘助(山本晴幸)のみだったからな。八幡原(川中島の戦い)で2人が討死致した後は儂1人しか知らぬ事。だからこそ義信は儂に反対致したのだろうがな…」
「……」
信玄は駿河への侵攻と引換に、嫡男の太郎義信や重臣の飯富虎昌を喪っている。
そして、勝頼と親子2代掛りで漸く駿河全域を切り取ったのは、つい此の年の始めの事なのだ。
話は移り、信虎が己の今の境遇を語り始め、信玄と勝頼は耳を傾ける。
「今川家を出た儂は各地の大名と親交を深めた後に、時の将軍だった足利義輝公に仕えた。京や畿内の状況を晴信に知らせておったが《永禄の変》で将軍が弑された後は、再び畿内の各大名の処に身を潜め、一昨年から公方様(義昭)の相伴衆に就いたのだ」
「…如かして父上、駿河に参ったのは昔語りを致す為では御座らぬのでは?」
「うむ、公方様は織田弾正信長の傀儡の状態から抜け出す為に、儂や側近の者を使って《信長包囲網》を築きつつある。だが朝倉や三好如きでは包囲網の芯足り得ぬ。此処で武田が織田を倒せば、管領に就任して天下に号令出来るのだぞ!今こそが兵を挙げる好機じゃ!」
信虎が武田領を訪ねた目的を、信玄と勝頼に明かすと2人は顔を苦笑を浮かべながら顔を見合わせた。
昔なら兎に角、現在の信玄と勝頼の最終目標は《管領》職如きでは無いのだ。
「父上…、天文弘治の頃はいざ知らず、今の我等…武田家が目指す物は管領職では御座いませぬ。因って、父上の御申出を受ける形では兵を挙げる訳には参りませぬ」
「如何様。正に父上…御屋形様が仰有る通りで御座いまする」
「何を申すかっ!晴信!四郎!お主等、其れは如何なる存念じゃ!見す見す天下取りの機会を見過ごす所存かっ!…いや、真逆…其の様な事は…」
信虎は2人に翻意を促そうとしたが、不意に全く別の《大それた》発想に思い至り愕然とする。
其処に追い討ちの様に、信玄が勝頼と後見役の重臣達、そして側近のみに明かした野望を明らかにした。
「父上の思い付かれた通りで御座る。此の戦国乱世、幕府の力衰え世の中が千々に乱れた今、力無き足利将軍家に変わって武田家が《武家の棟梁》を目指して何の問題が有りましょうや!我等は新羅三郎義光公以来の《御旗》を掲げて天下を目指す所存、其れ故に公方義昭公の下知で兵を挙げる訳にはいきませぬ!」
信玄から既に野望を聞き、其の実現の為に陣代として武田家を率いる勝頼は、父の発言に我が意を得たりと大きく首肯する。
だが今迄の書状にも綴られておらず、此の茶室で初めて聞いた息子の《天下取りの野望》を、信虎は途方も無い夢想だと考えた。
「其の様な事は出来る筈は有るまい…。晴信…お主は甲斐源氏の宗家故に血筋は申し分無い。だが官位は《従四位下大膳大夫・信濃守》に過ぎぬのだ。公方様は《従三位権大納言・左近衛中将》、其の隔たりが有る限り、武田家に幕府などは開けはせぬぞ!」
「承知致しておりまする。何も従四位下の位で幕府を開闢出来るとは思っておりませぬ。幕府開闢には最低でも《従三位以上の官位》が必要ですからな」
「判っておるでは無いか!…そうか!晴信、お前は先ずは昇階を果たして、宣下の条件を少しづつ叶える為に、儂の手を借りる考えじゃな!」
「御明察で御座る。一昨年から浄閑斎(今福石見守友清)が京にて朝廷工作を致しておりまするが、近頃は織田方の目も有り、捗々(はかばか)しくは御座らぬ。此処は父上の御力を御貸し頂けませぬか?」
信玄と勝頼が、本気で足利家に代わって将軍の位を目指しているのを知った信虎は、2人の顔を見渡しながら決意の程を聞く。
「晴信、四郎。お主達の決意の程は善く判った。だが管領職と将軍の位では道の険しさは雲泥の差、お主達に其の覚悟が有るのか?無いの為らば過ぎたる事を望まぬ事だ」
信虎の質問に2人は居住いを正しながら返答をする。
「無論で御座る。但し足利幕府を打倒しようとは考えておりませぬ。公方様には《大御所》に成って貰い禅譲の形を目指す所存で御座る」
「そして我等武田家は、《源氏の棟梁・源晴信》を仰いで天下に名乗りをあげまする!」
「……」
「…父上?」
「……ふふっ、ふっはっはっ、あっはっはぁっ…!」
2人の話を聞いた信虎は瞑黙して暫く思案に更けると、不意に大声を上げて哄笑しだしたのだ。
「はぁっはっ…!お主達の考えは未だ未だ甘いかも知れぬが、儂が公方様の側で上手く立ち回れば違って来るやも知れんな!善かろうっ!晴信の従三位、儂が公卿共に掛け合い必ずや叶えてやろう!それと今の晴信の官位に四郎が就ける様になぁ!」
信虎の発言に喜色を浮かべた2人は、改めて信虎に礼を述べる。
「父上、勝頼の事迄考えて下さるとは有り難き事。御礼申し上げる」
「では、公卿や朝廷、公方様に話を致す時の為に、甲州金を用意致しまする。但し、持ち運びや出所を隠す事を考えて、全て砂金や粒金で揃える所存。御先代様が京に戻る迄に工面致しまする」
「ふむ…、四郎も直ぐに其の辺りに考えが及ぶとは、随分と陣代の職に揉まれた様だな」
勝頼は信虎の言葉を褒め言葉と考えて、無言の侭で一礼したのだった。
「勝頼、小田原の氏康が死んだ。此の3日の事だが掴んでおるか?」
其の後、3人で子細を詰めている最中に、信玄が不意に話して来た。
「な、何とっ!北条左京殿が!其れは初耳で御座る!重篤とは知って居りましたが、回復為さいませなんだか…」
勝頼は瞑黙して、北条家の偉大な当主の死に哀悼の意を表してから、信玄と信虎に話し掛ける。
「しかしながら、此れで北条との和睦が進展出来まする!御先代様には、改めて北条家と出来れば上杉家にも、御内書を発給される様に御願い致しまする。現在上杉家とは小競り合いのみで収まって居りまするが、北条との和睦の代わりに上杉と戦っては元の木阿弥で御座る」
「…承知した。《甲相越一和》は公方様も御望みだからな。だが上杉は最近織田に接近致しておる。効果は無いかも知れんぞ?」
「其の時は致し方無し、一徳斎辺りと策を練って動きを鈍らせまする。其れと現在姉上に仕えておる小宰相の局を関東に遣わすつもりで御座る」
小宰相の局は小畠山城守虎盛(日意入道)の妹、即ち小幡豊後守昌盛の叔母にあたる。
若い時より信玄正妻の三条夫人(円光院殿)に仕え、また永禄6年(1563年)頃に、上杉家より亡命した大熊備前守長秀の後妻に入っている。
三条夫人の遣いをしていた為か外交の才に長けており、過去に信玄も度々使者に使っていたのだ。
昨年三条夫人が死去してからは、共に看病を行っていた其の娘の黄梅院(信玄長女)に仕えている。
黄梅院は北条相模守氏政の正妻だったが、武田の駿河侵攻を機に氏康に因って離縁させられ甲斐に帰国している。
其の後気落ちして一時重篤に陥ったが、勝頼の指示で医師団が手厚い看護を行った結果、現在は快復して躑躅ヶ崎館で母の供養や幼少の弟妹の世話をして暮らしていた。
「うむ、小宰相ならば適任で在ろう。先ずは交渉の糸口を造るが肝要だからな」
「はっ。更には甲斐で保護致しておる元蒲原城主の北条新三郎(氏信)・長順兄弟や、開城時に交渉を持った元興国寺城主の垪和予州(伊予守氏続)らも、交渉口として役立って貰いまする。まぁ最終的な交渉は重臣同士…昌秀と藤田新太郎(氏邦・北条氏康4男)辺りが交渉致す事に成ろうかと心得まする」
勝頼の方針を聞いた信玄と信虎は納得の表情で頷いた。
「うむ、北条との交渉は勝頼に任せて大丈夫で在ろう。為らば儂は先程の覚恕殿一行の安住の地を作ってやろう。場所は最初は信濃辺りと思ったが、既に茶室に入る前に決めた故な」
信玄の発言に残り2人は如何なる事が疑問が起きる。会見中に此れ迄其の様な話は全く無かったからだ。
「晴信、お主は何を言っておるのだ?一体何処に致す所存なのだ?」
「父上、天台山門が武田の領内で僧兵を抱える事態は避けねばなりませぬ。如何に致す御所存で御座いまするか?」
「うむ、駿府の南側に寺院が立ち退いた場所が有るでは無いか。しかも頂きには武田の城が築いてある故に統制には好都合、そして其の中腹を伽藍に致すのよ!」
「あっ!」
「ほう…成程な…」
2人が驚きと納得の表情で南側の小窓を覗くと、其の向こう側には《借景》として計算されている眺め…独立峰の久能山が聳えていたのだった。
此の後、3人は深更に至る迄話し合い、子細を詰めていった。
そして早くも翌10月7日の朝には、3人は夫々(それぞれ)が実施為るべき目標を定めて各々の目的地へと旅立っていった。
武田信虎…無人斎道有は息子信玄の従三位昇階と孫勝頼の大膳大夫叙任、そして御内書発給の工作の為に、大量の砂金を手土産に京への帰途に付いた。
武田法性院信玄は、覚恕法親王率いる山門の比叡山に替わる《仮の御山》を久能山に設ける為に、各宗派間の調整に取り掛かった。
陣代・武田左京大夫勝頼は、北条との再盟約を行うべく、甲斐の躑躅ヶ崎館へと帰国した。
そして駿府城に招集された重臣達も、再び夫々の任地へと戻って行ったのだった。
結果として此の後、信虎・信玄・勝頼の3人が再び一堂に会する事は二度と無かった。
正に此の1日だけが《唯一の邂迎》と成ったのである…。
だが、3人共其の事を知る由も無く、夫々が時代の潮流を泳いでいく事に為るのだ。
今回、覚恕法親王を出しましたが、史実でも武田家に亡命しています。(とはいえ山門再興叶わず亡くなり、延暦寺は信長死後に再興します)信玄が上洛途上に信濃駒場で病没した時には《覚恕が死んで火葬した》と誤魔化そうとしたそうです。(直ぐに諸国に漏れますが)さて、次回は北条と再び同盟を結ぶ話に成ります。また長文になると思いますが引き続き読んで頂ければ嬉しく思います。