壱:駿河出兵〜新たなる野望〜
相変わらずの乱文ですが宜しくお願い致します。
初夏の釜無川(富士川の上流)沿いの新緑の中を爽やかな微風が吹き抜け、小鳥の囀り(さえずり)が聞こえてくる。
しかし、その河畔では無く、西岸の山中の杣道を分け入って武田軍が甲斐に向けて北上していく。その中心に近習に轡を取らせた軍馬に騎乗した武田法性院信玄が居た。
「どうしてこの様な事になってしまったのだ。勝てる筈の戦を落とすとは…」
信玄率いる武田軍は永禄11年(1568年)12月から甲斐から南隣の駿河に侵攻を開始する。同時期に遠江に侵攻した徳川家康と約定を結び、駿河一国を切り取る為である。
最初は今川家臣21人が内応し駿府城に入城、今川氏真は遠江懸川城に逃亡した。しかし、今川家の忠臣の岡部正綱・岡部元綱や朝比奈泰朝が激しい抵抗を行った。
そして何よりも娘婿の今川氏真を救うべく、相模小田原の雄・北条氏康が嫡男氏政を大将とする大軍を派遣した。
信玄は更なる戦果を求めて、秋山虎繁率いる部隊を遠江に派遣、北条勢と対峙する富士川の西岸にはこの戦いに留守居の予定を変更して参加させた、息子の諏訪勝頼を派遣した。
しかし、それが裏目に出た。
遠江出兵に怒った徳川家康が北条と手を結ぶ。
更には北条勢の智将・北条綱成による挑発に、勝頼が突出し富士川を東に渡ろうとした所を突かれ、勝頼勢が敗退してしまったのだ。
北条勢は1月初めには駿府の東にある興津に展開、甲斐との補給線を遮断した。
「この大馬鹿者がっ!渡河中の戦いは《半渡の戦い》として、孫子も戒めておる!それをむざむざ敵の挑発に乗って、あたら貴重な兵を死なしてしまうとは!勝頼、お前は本当ならば軍令違犯で斬罪のところだが、暫く甲斐の己の屋敷で謹慎しておれ!」
そう指示して勝頼に甲斐での謹慎を命じた信玄であったが駿河での兵站を維持出来ず、更には今川家が誼を通じていた越後の上杉輝虎(謙信)が北信濃に侵入を開始した為に、結局4ヶ月で甲斐に撤退する羽目になったのだ。
その後、退路を絶たれた武田軍は山県昌景隊を先頭に富士川西岸の山中を切り開いて甲斐・躑躅ヶ崎館に帰還した。
甲斐・躑躅ヶ崎館に帰還した信玄は看経所に入って一人思案に耽っていた。
(儂は、そして武田家はこのままで良いのか…。
昨年に儂を見立てた曲直瀬道三は隠居しての養生を薦めていた。しかし富士川での北条との戦で、勝頼は北条氏政と地黄八幡(綱成の旗印)の挑発に乗ってしまっておった…)
信玄は看経所で横になって、過去の事を思い出していた。
武田家は元々信濃から北進する事を指向していた。その為に中信濃の諏訪頼重や小笠原長時、北信濃の村上義清等を攻め勢力を拡大してきた。
その中で越後の長尾景虎(後の上杉謙信)と対立し、彼に対抗する為に天文23年(1554年)3月には今川・北条両氏と《甲相駿三国同盟》を締結した。
しかしある一つの戦いが一変させてしまう。
永禄3年(1560年)5月19日のいわゆる《桶狭間の戦い》に於いて、駿遠三の太守である《海道一の弓取り》今川義元が、当時はまだ南尾張の一大名だった織田信長によって、敗死してしまったのだ。
義元が居たからこそ価値が有った甲相駿三国同盟は、義元の敗死によりその意義を失い、周辺のパワーバランスは徐々に崩れ始めた。
信玄は実弟の武田信繁(古典厩)や山本晴幸(勘介)を戦死させながらも、足掛け12年に渡る上杉輝虎(謙信)との5回の《川中島の戦い》でどうにか北信濃を支配すると、ようやくその目を南の駿河に転じた。
しかしその駿河に南進する事に嫡男義信が抵抗する。自らの妻が今川氏真の妹であり、親今川派となっていたからだ。
「父上!今川は我が妻の実家、氏真殿は我が義兄でごさる!盟約を勝手に破り攻め込むのは、信義にもとる行為じゃ!」
「甘い事を吐かすな!我らが切り取って置かねば、三河の徳川や相模の北条に駿遠を横から奪われる!よって他国に先んじて駿河を抑えるのだ!」
信玄と義信の対立は親織田・駿河進出派と親今川・飛騨進出派の派閥抗争の様相を呈した。
親今川派の義信は永禄8年(1565年)7月中旬頃から、己の父親である信玄の追放計画を謀議し始めた。あたかも信玄が父である信虎を追放した事の再現の様で有った。
己の傅役で《甲山の猛虎》の異名を持つ筆頭家老の飯富虎昌や己の側近の曽根周防守(曽根昌世の息子)や穴山信邦(穴山信君の弟)、長坂清四郎勝繁等と謀議を重ねた。
しかし未遂の内に計画は露見した。計画を知った虎昌の甥(弟とも言われる)の飯富源四郎昌景が信玄に打ち明けたのだ。
謀反の計画を知った信玄は先手を打って動いた。
同年10月義信派を一斉に拘束し、5日後には飯富虎昌以下の義信派幹部を全員斬首に処した。この時、周防守の父親である曽根昌世は北条家に亡命した。(3年後武田家に復帰する)
10月末には義信を東光寺に幽閉の上で廃嫡、2年間の幽閉の後、永禄10年(1567年)10月19日に自害させ、夫人を駿河に追い帰した。
今川家の当主である氏真は、妹を離縁し義弟を廃嫡した武田家に対抗して、もう一方の同盟相手である北条家(氏真の妻は北条氏康の娘)と協同で《塩留め》を実行した為に、武田家は経済的に締め付けられた。
しかしその一方で信玄は、尾張の織田信長との《甲尾同盟》を成立させる為に、諏訪勝頼と信長の養女(遠山友勝の娘で信長の姪)の婚礼を進める。
2人は永禄8年11月に結婚し同盟が成立、それにより四男の勝頼が武田家の実質的な後継者となった。
その後、勝頼夫人が武王信勝を産んで死去すると、直ちに信長嫡男の信忠と信玄の娘の松姫の婚約を決定し、同盟を延長した。
永禄10年に織田信長が斉藤家を滅ぼし美濃を領有。翌年9月に上洛を果たし、足利義昭が室町幕府の第15代将軍に就いた。
信玄は先ず上杉謙信の動きを封じる為に上杉家臣の本庄政繁に謀反を起こさせ、武田軍を北信に出兵させた。そして信長に触発される様に徳川家康と今川領分割の密約を結んだ上で永禄11年の12月に駿河に侵攻する。
しかし結果として、今川家臣の奮戦と北条・徳川による攻撃、更には上杉の北信逆侵攻によって、結局は4ヶ月で甲斐へ撤退をせざるを得なかった。
しかしながら今回の駿河侵攻を徒労にしない為の手は幾つか打った。
駿河への橋頭堡として、興津の横山城に穴山信君を守将として残してきた。信君はそのまま今川家臣団の調略も取り仕切る事になる他、江尻城を修築して兵力を入れた。
また、駿府城に居た4ヶ月の間に、新将軍足利義昭やそれを奉じて上洛した織田信長、それに現在武田家と対立する徳川家康、今川氏真、北条氏康・氏政親子等の力量や各国の国力、家臣団等の情報を掻き集めた。
それらの情報は信玄が駿府を離れるまでに全て集められ甲斐に持ち帰ると共に、旧今川領各地に親武田の地侍を配置して再度の侵攻の下準備にした。
そして躑躅ヶ崎館の看経所に籠って、今後の戦略の練り直しに入った。
(…此処は一体何処なのだ?…)
気が付くと信玄は山中を漂って居た。夢心地ではあるが山々には何処か見覚えが有った。
(この山々は確か儂の6代前の武田信満公が御自害された木賊山に行く道筋だ。確か天目山と言った筈だが…)
武田信満は関東公方府の中の権力闘争で関東全域を戦乱に巻き込んだ《上杉禅秀の乱》で敗北、応永24年(1417年)2月に木賊山で自害していた。
その木賊山に向かう道筋に敗走して落ち延びて居る一団が見えた。暫くすると、一団は逃げるのを諦め林の中の拓けた場所に止まってしまった。
信玄の耳にその一団からの幾つかの恨みの言葉が聞こえてくる。その中の一つの内容が信玄にはやけに印象に残った。
「勝頼様が御陣代で有ったから親族衆や宿老方が言う事を聞かず、挙げ句に裏切りおったのだ!」
その後覚悟したのか女子供や文官らしき者から次々と自害していく。
その中心に武田家の家宝である《盾無》の鎧を着た若武者が居た。そして彼も鎧を脱ぐと見事に自害して果てた。そして武将や武士達は自害の時間を稼ぐ為に、一斉に敵の軍勢に向かっていく。
(どういう事だ?儂が《盾無》を見間違う筈は無い。ならばあの若武者は誰だ?)
そう思いつつ目を転じると中心となって戦っていた一人の武将が奮戦空しく首を打たれようとしていた。
信玄がその武将の顔を見ると、少し歳を取っては居たが、明らかに己の息子の顔だったのだ…!
「四郎!」
信玄は布団を飛ばして跳ね起きた。身体中には寝汗を大量にかいている。寝室で夢を見ていたらしい。
「ふう、夢か…縁起でも無い」
信玄は奥近習の金丸惣三(後の土屋昌恒)を呼んで衣服を着替えながら先程の夢を反芻する。
確かに勝頼の一党が滅ぼされた夢で有った。しかも武田家と因縁が有る木賊山の辺りにおいて…。
「曲直瀬道三に言われて弱気になったのか、儂らしくない」
しかしながら、着替えが済んでから改めて考えると、夢の中の勝頼は《武田の家臣》が動かずに滅びていたのだ。
(ならば、《盾無》を纏ったあの若武者は信勝なのか…)
ふと、そう考えた信玄は金丸惣三に対して指示を発した。
「惣三、躑躅ヶ崎館に蔵している歴史書を看経所に運び込んでくれ。調べたい事が有る」
「はっ、畏まりました」と返事する惣三を見て、夢で追われる一団に成長した惣三が居た様な気がした。
(この様な若武者が無下に死なずに済む手を打たねばなるまい…)
信玄は自らに言い聞かせながら看経所に入り、歴史書を紐解いていった。
その後、信玄は歴史書や各大名の興亡を調べ、自らの甲斐源氏の嫡流である武田家の血統を考え続けていた。
そうすると、直に信玄の脳裏に今までとは全く別の大いなる《野望》が湧き上がるのを感じた。
そしてその野望の実現の為に必要な事を考え続け、或る一つの大戦略を考え着いたのだった。
その年、永禄12年5月に遠江懸川城で今川氏真が徳川家康に降伏して今川家が実質的に滅亡する。遠江を出た氏真は妻(北条氏康の娘)と共に北条領の伊豆戸倉城(現在は狩野川の流れが変わり駿河になっている)に移動すると、北条氏政の嫡男の国増丸(後の北条氏直)に駿河を譲る事を約束した。
翌閏5月に北条と上杉の間で《越相同盟》が成立した。
これにより武田領は北に上杉、東に北条、南に徳川、そして西にはいつ敵に回るか判らない織田に囲まれる状況に陥ってしまった。
そんな梅雨明けの頃に信玄は、甲府・躑躅ヶ崎館に5人の男を召集した。
先ず己の息子で《陣代》である信濃高遠城主・諏訪四郎神勝頼。彼はこの日半年間の謹慎を解かれて久し振りに躑躅ヶ崎館に入って来ていた。謹慎中は四書五経や軍略書・政務に必要な書物を読み続ける日々を過ごしている。
2人目は信濃牧之島城代・馬場美濃守信春。元の名を教来石景政という譜代家老衆である。40年以上の戦歴が有りながら、敵に傷付けられた事が無く《不死身の鬼美濃》と呼ばれている。また、武田流築城術の名手でも有る。
3人目は西上野箕輪城代・内藤修理亮昌秀。元の名を工藤祐長。武田信虎に父を殺されて出奔していたが、信玄が主君になって帰参し引き立てられた。信玄の実弟の典厩信繁の死後は《武田の副将格》とも言われる名将で、昨年(永禄11年)断絶していた名門・内藤家の名跡を継いでいる。
4人目は信濃海津城代・春日弾正忠虎綱。元々は甲斐石和の豪農の息子で、信玄の奥近習として出仕した後に頭角を顕し、慎重な采配ぶりと冷静な退却戦指揮能力から《逃げ弾正》の異名で呼ばれる智将で有る。有能な施政家でも有り、対上杉の最前線を守っている。
最後の5人目は甲府奉行衆・竜朱印状奏者・侍大将・山県三郎右兵衛尉昌景。元の名は飯富源四郎。4年前に切腹した飯富虎昌の甥である。身長140cm程の小男ながら、内政や軍政の中枢を司る一方、虎昌から引き継いだ《赤備え》を率いて周辺諸国に畏れられる勇将である。
5人が看経所に入り眼前に揃うと、信玄は眼光鋭く全員を睨み付けながらこう言い放った。
「勝頼、今の武田家に必要な施策は何だと思う?端的に述べてみるが良い。信春ら4人は勝頼の考えを聞いた上で質問を加えてみてくれ」
信玄の発言を聞いた勝頼と4人の重臣には《昨年の失策の後にも陣代を務める事が可能か試している》と感じた。
勝頼は少し青褪めながらも真剣な眼差しで信玄達を見渡した。
「至らぬ考えも有るでしょうが、自分の考える所を述べさせて頂きまする。重臣方達も良く聞いて貰いたい。宜しく御頼み申す」
と、信春達4人に会釈する。4人は半年前の勝頼との違いに違和感を感じた。前の勝頼はむしろ血気盛んで、必要以上に肩肘を張っている印象が有ったのだ。それが今は神妙な顔付きをしている。
「先ず武田家としての速やかに行うべきは、駿河・遠江への再侵攻だと考えまする。しかし他大名との関係を或る程度改善させる必要が有りまする」
「ならば勝頼殿はどの大名との盟約が必要だと心得ておられる?」
との昌秀の質問に対して勝頼は、
「後方を固める為にも北条家との再盟約が必要と思っておりまする。今後の旧今川領への進出に従って、次第に徳川家康と対立する以上、徳川と攻守同盟を結ぶ織田家との関係も見直す必要が有りましょう」
「成程、確かに駿河や遠江に進出する事を考えるならば、徳川やその後ろにいる織田と対立するのを計算に入れる必要が有りますな」
と虎綱が同意する。
「但し織田との友好関係は徳川との対立時には有効に働きまする。徳川に戦を仕掛けても織田が参戦出来ないですから。よって織田との盟約は完全な破談までは引き伸ばしておくが良いと考えまする」
矢継ぎ早に昌景が勝頼に対して質問を加える。
「ふむ、徳川や織田はそれで良いとして、北条や上杉とは如何致す所存ですかな?」
「北条と上杉の同盟は速やかに手切れに追い込む必要が有りまする。その為には北条に対して《我らとの同盟の方》が彼等にとって有益だ、と分からせれば良いのです」
「ならばそれを如何にして判らせまするか?」
「上杉の手足を縛り、武田と北条が戦をした時に、《上杉が北条の援軍として全く動かず役立たない状況》を見せつけまする。その為には先ず一つは越中の一向一揆に釘付けにする事」
「まぁその手は普通有り得る手ですな」
その昌景の発言を予想していた勝頼はもう一つの策を自信を持って答えた。
「もう一つは《上杉との和睦》を成す事です。一旦和睦が成れば上杉謙信殿の気性からして、向こうから和睦を破る事は有りますまい」
4人は度肝を抜かれた。武田家に取って上杉家は川中島以来の仇敵なのだ。
「…何と大胆な手立てでは有るが、勝頼殿は如何にしてそれを成す御積りか?」
呻く様に虎綱が質問する。彼は対上杉の最前線を守っているから他人事では無かった。
「それは未だ破談していない織田殿、それと新将軍足利義昭公に御仲介を御頼み申すのです。その補助として御方様の実家の三条家にも依頼するつもりです」
「ほぅ、勝頼も色々と考えたな。ならば外交は一先ず置いて内政と軍備は如何致せば良いかの?」
と、満足そうな顔付きの信玄が新たな質問を発した。勝頼も気持ちを新たにして応える。
「先ず内政は、御屋形様がなさっている検地を更に進め、税収の増加を目指すと共に、川の氾濫を防ぐ治水に引き続き力を入れます。それと並行して、駿河を確保してからの水運業の保護と水軍の創設、領内各地で開発・確保した金山での増産、軍勢や小荷駄の移動及び領内の流通を促進する為の《棒道》や諸街道の整備、それに鉄砲(火縄銃)を増やした上での新たな筒衆(鉄砲隊)の編成…辺りを考えております。」
勝頼の考えに対して今度は信春が質問した。
「確かにそうですな。元々我が武田家は鉄砲を求めて居りましたからな。それが出来るに越した事は無いでしょうが、どの様にそれを行うのですかな?」
実際武田家は熱心に鉄砲の導入を進めていた。鉄砲の日本伝来から12年後の弘治元年(1555年)には川中島の北西にある上杉方の旭山城攻めに《弓8百張、鉄砲3百挺》を投入している。
この永禄12年時点に於いては武田領全域で新旧式合わせて約1千挺の火縄銃が配備されていたが、老朽化による稼働率の低下も問題になっていた。
「鉄砲を購うにも先ずは先立つ物が無いといかん。勝頼、先に内政について述べてくれ」
信玄の指示を聞いて、勝頼は内政について説明を始める。
「はっ、では先ず検地についてですが、御屋形様が6年前より始められた検地を、甲斐や信濃等も含めた全領国に於いて新たに検地を行いまする。同時に全領内で甲信同様に棟別改め(家数調査)も実行致しまする。そして《棟別日記》(家数台帳)を最新の状態に更新して田畑や人口を把握し、安定した税収及び労働力の確保と百姓の跳散防止に役立てまする」
「ほぅ、確かに北信濃や西上野では両方共まだ進んでおりませんしな」
「次に治水・街道整備や殖産興業は、甲斐や信濃で御屋形様がなさった内容を新たな領国に於いても実行すると共に特に敵勢が寄せそうな地、特に旧今川領までの棒道を早い内に整備して、兵力や小荷駄隊を速やかに集結させるのです」
その提案を聞いて、信玄と4人の重臣は内心、御互いの《勝頼への印象》が変わるのを感じ取っていた。謹慎前の勝頼は先ず考えそうに無い、むしろ側近に《丸投げ》しそうな内容を真摯な態度で説明しているのだ。
「水軍については我々武田家は海に面して無い為に水軍について詳しい者が誰も居りませぬ。そこで、今川旧臣の水軍大将の者を船ごと召し抱える方が手早いと思いまする」
勝頼の提案に信玄が回答を示した。
「うむ、それに関しては興津の横山城に残した信君(穴山信君)に対して指示を発しておる」
「畏まりました。では金山について述べさせて頂きまする。金山の開発と金の増産については、謹慎中に懇意になった者なのですが、猿楽師の息子である大蔵藤十郎(長安)に任せてみたいと考えております。尤も、今は兄の新之丞共々士分に取り立てられ、土屋右衛門殿(昌続)の与力に付いておりまする」
「何と、大蔵太夫十郎の下の息子だな。確かに儂が士分に取り立てたが…」
「はい、その藤十郎で御座います。元々金山やらに興味が有るそうで、何やら堺において金の新しい産法を覚えに行きたいと…それと並行して、金山から産出した甲州金で、堺か雑賀の辺りから鉄砲を購入しようかと。そしてもしも出来得るならば、熟練した鉄砲使いや鉄砲鍛冶も引き抜いて雇い入れとう御座います」
「成程、しかし鉄砲使いや鉄砲鍛冶を雇い入れるとは何故ですかな?」
との昌景の質問に対して、勝頼は重臣の誰もが考えていなかった回答を示した。
「それは堺、雑賀根来、そして国友でしか生産していない鉄砲を我々の手で造り上げる為で御座る!甲信の何処かに於いて武田家製の鉄砲を生産致し、畿内の織田・本願寺に匹敵する筒衆を育てるのです!」
「か…買い求めれば済む事を、何故に鉄砲をわざわざ造らねばいかんのかがわからぬ」
信春が首をひねるが勝頼はそれに対して回答を示した。
「馬場殿、今は良くても織田家と断交したらもうこちらに鉄砲も玉薬も回っては来ますまい。それ故に自ら鉄砲を生産するのです」
「ふむ、良う判った。勝頼、それ位で終わりにしようか。それにしても色々と勉学を重ねた様だな」
と感心した信玄が終了を決め、勝頼の心変わりの理由を聞いた。
「はぁ、実は謹慎中に恵林寺の快川紹喜和尚が毎月の様に来て下さいまして、色々と勉学に付いての心構え等を教えて頂きました」
「ほう、快川和尚にか。ならば今日申した改革案は如何にした?」
「それに関しては訪ねて来てくれた大蔵藤十郎や武藤喜兵衛(真田昌幸)や長坂源五郎(昌国)と共に語り、それを一人の時に思案して纏めまして御座います。謹慎中にも関わらず多くの者達と交わった事、誠に申し訳御座いません」
「謹慎は蟄居では無いのだ。別に咎めはせぬ。しかし成程、合点が入ったわ。まだまだ粗削りでは有るがなかなか面白い見方であった」
(正に《瓢箪から駒》であったな。勝頼の短慮を諫める謹慎だったが、謹慎先を高遠ではなく甲府の屋敷にしたお陰で、多くの者と交わり考え続けて逆に今回の失態を糧に一回り大きく成長しおった。これならば儂が一歩引いて、野望の実現に備えて身体を休める事も出来そうだな…)
「ふむ…。では儂からお前達5人に知らせたい事が有る。全員心して聞くが良い」
信玄がそう言うと、5人は改めて姿勢を正す。それを確認してから信玄はおもむろに口を開いた。
「先ず、武王信勝の誕生の折に発表した《勝頼陣代の件》を白紙に戻す。また高遠城主の任を解任する」
重臣達には以外な感じがした。謹慎が解除された勝頼から役職と居城を召し上げたのだ。むしろ何らかの役職に付けると予想していた位だった。
一方、勝頼は青褪めながらも覚悟していたのか、冷静に受け止めた。
「畏まりました。謹んで御処置に従いまする。この上は、謹慎中に私を訪ねてくれた者達や諏訪家臣に寛大な御配慮を賜ります様お願い致しまする」
と言って、勝頼は平伏した。最悪《東光寺に蟄居》位の可能性を考えたのだ。
しかし次の一言が信玄の口から発せられると、他の5人全員がその場に凍り付いた。
「その上で勝頼にこの躑躅ヶ崎館を与える。儂は隠居し勝頼に武田家の家督を譲る事とする」
幾何かの静寂の後、5人の中で最年長の信春が呻く様に質問する。
「お…御屋形様、御隠居などとは本気でおっしゃっておられるのですか?」
「当たり前だ。こんな重大な事を冗談などにする筈が有るまい」
信玄の回答を聞いた途端、勝頼達5人は一斉に慌てふためき信玄の慰留に掛かった。
「御屋形様、その様な事はおっしゃられますな!」
「隠居は暫し御待ち下さりませ」
「隠居致されるのは何ゆえで御座いますか?」
と動揺する息子と重臣達に信玄は説明していく。
「儂も元々は孫の武王信勝に家督を譲り、元服するまでは勝頼を陣代にすると言った。しかし今のままでは信勝が元服して家督を正式に継ぐ前にこの武田は今川家の如く滅びるであろうよ。お前達を含めて今の時点で勝頼の器量を認め、その下知に心から従おうとする者がこの武田家中にどれ程居るかのう…」
「そ…それは…」
4人の重臣達は確かに図星を刺されていた。
重臣達、特に彼等4人の忠誠の対象は武田家で無く、あくまでも《武田信玄》個人であるのだ。
もしも《陣代》の地位のまま勝頼が武田家を率いようとしても、信玄以来の重臣達は信玄と比べて軽く見るだろう。
しかも勝頼は既に高遠諏訪家の名跡を継いでいるのだ。特に親族衆や譜代家老衆は《元同僚》の采配や下知を軽んじて、不利になったら裏切る可能性さえ有った。
「勝頼が武田家を率いていくには、先ず儂が生きておる間に家督を譲り、その上で勝頼自身が善政や武勲を重ねるしか有るまい。そうすればお前達や他の家臣達も次第に見る目が変わり、勝頼を真の御屋形として認めるであろう」
しみじみと語る信玄の言葉を聞いていた5人は段々と目頭が熱くなるのを感じていた。信玄の勝頼を思う親心に心を打たれたのだ。
「信春、昌秀、昌景、そして虎綱よ」
信玄の呼び掛けに4人は一斉に平伏する。
「そこでお前達には勝頼の後見を頼みたいのだ。今回の件で一回り成長しただろうが勝頼はまだまだ原石の様なものだ。磨けば光り輝くが何もせねば只の石と同じだ。しかも一騎当千の武将や他国の群雄達を相手にしていくには生半可な君主では話にならんのだ。お前達4名はこの儂が《一国一城の主》足り得ると思える武将だ。時には厳しく叱り、時には激しく諫めて、この勝頼を一廉の君主とするべく導いてやってくれ。勝頼、お主もこの4人を儂の代わりと思い大事に致せ」
信玄の親心の吐露を聞きながら、5人は流れる涙を拭いもせずに平伏した。
「御屋形様…父上!必ずや勝頼は武田の棟梁に相応しい君主になってみせまする!」
泣きながら信玄に自らの誓いを伝えた勝頼は、身体の向きを変えて4人の重臣に平伏した。
「馬場殿、内藤殿、山県殿、春日殿、この勝頼は若輩なれど御屋形様の命により家督を継ぐ事に相成った。されど未熟者故、至らぬ処が有ると思う。是非ともこの私に力を貸して欲しい。宜しく御頼み申す」
「我らで良ければ如何様にも致す所存で御座る。必ずや勝頼様を武田家第20代当主として相応しい御方にしてみせまする」
信春が泣きながら笑顔を見せて勝頼の教育を承った。そこに昌景が付け加える。
「ならば勝頼様が我らを何某殿などと言うのは如何な物で御座ろう?君臣の間柄なのですから呼び捨てになさって頂いて結構です」
「しかしながら勝頼様が昨日の今日にいきなり国主の座に着いたからといって、我らの様に家臣全員が勝頼様に従うとは思えんがな」
昌秀が現実的な問題点を口にする。特に穴山信君や武田信廉等の親族衆は《勝頼が当主になれるなら自分達にも資格が有る》と考えかねないのだ。
「御屋形様、勝頼様、ならばこの様に致しては如何で御座いましょうか?」
虎綱がこう言うと、信玄を含めた他の5人の視線が一斉に虎綱に集まる。
「如何致すのじゃ?」
信玄の問い掛けに対して虎綱は涼しげな表情を浮かべつつ回答してみせた。
「勝頼様に陣代に就いて頂くの他ですよ。但し《信勝様の陣代》では無く、《御屋形様の陣代》に。そして有る程度の戦果…そうですな、駿河侵攻が完了した暁にでも正式に家督を相続為さったら宜しいのです」
つまり虎綱は先ずは《信玄の代理》の立場で周りの家臣団が反論出来ない戦果を手にしてから正式に家督相続を行おうというのだ。
「勿論、御屋形様は隠居為さって静養に入って頂いて構いません。御屋形様には御病気を完治して頂かないといけませんしな」
この虎綱の発言を聞いて、他の4人は信玄を振り返った。
「御病気…父上は御病気を患っておいでなのですか?」
「ふむ…、まぁな。虎綱、いつから儂の病に気付いておったのだ?」
「昨年、我が寄騎を使って上杉方を攻めて、その結果報告に躑躅ヶ崎館に入った時で御座います」
「そんなに早くからで御座るか…」
虎綱の発言に他の4人はしきりに感心している。そんな虎綱の発言を信玄自身が補足した。
「これは秘中の秘だ。儂は実は病気だ。去年見立てた曲直瀬道三殿の話ではこのまま働き続けると、後2〜3年、持って5年で死ぬと言われた。そして完治為るには仕事をせずに3年程養生に努めろ、とな」
「やはりそうで御座いましたか…」
元々信玄の奥近習…というより《衆道》の相手だった虎綱には、信玄の身体を病に冒されるのが判っていた。だからこそ信玄の負担を軽く出来る《勝頼の家督相続》案に賛成したのだ。
勿論知らなかった勝頼達4人は虎綱以上に動揺してしまっていた。そんな彼等に信玄は更なる衝撃的な発言を畳み掛けた。
「では取り敢えずは陣代という事にして於いても構うまい。しかし儂は勝頼に政務を譲った時点で隠居し、しかる後は湯治場で療養に入って身体を完全に治すつもりだ」
「では取り敢えずは父上の陣代に就いた上で駿河平定の後に正式な当主を継がせて頂きまする」
「うむ、しかしまだ話は終わっておらんぞ。完治した後に儂は《武田勝頼率いる武田軍》に推戴して貰って上洛する。織田・足利を蹴散らし武田の旗を京に打ち立てる。その時点で儂は武田の姓を変えて、《源氏の棟梁・源晴信》として征夷大将軍の座を目指す!」
最早、信玄の心には三好家や織田信長の傀儡と化した足利幕府に対して畏敬の念は存在しない。むしろ《源氏の棟梁》として新たな武家政権の成立を志したのだ。それこそが駿河侵攻後に芽生えた新たな野望であった。
「そ…その様な事は真に可能なのですか?」
勝頼が素朴な疑問を口にする。普通の武士にとって《足利幕府の権威》は未だに重要な要素なのだ。
「ならば今の公方が真に将軍に相応しいと思うか!儂は甲斐源氏の嫡流として、甲州法度の如き法を日之本全てに広げ、天下に泰平をもたらしたいのだ!」
勝頼達5人は信玄の病を患いながらも野望と理想に燃えているその《魂の迸り》に触れ、感動に打ち震えてその場に平伏した。
「御任せ下さいませ。我ら5人が力を尽くして、必ずや父上を征夷大将軍に就けてみせまする!のう、皆の衆」
「勿論で御座る!よくぞその志を打ち明けてくれました!」
「勝頼様と我ら重臣4名は力を合わせて織田から畿内を召し上げてみせまする!」
「その時まで御屋形様はどうか御自愛して養生為さって下さいませ」
「ふふっ、腕が鳴るのう。身体中の血が沸き立つ様じゃ!」
興奮した昌景などは今にも出陣しそうな勢いで有る。
「こらこら昌景、お主が血気に逸ってどうするのだ。まぁ良い。それにな、三河の松平家康は自ら源氏を名乗り《徳川》と改姓しておる。儂の見た処、奴も恐らく儂と同じで天下取りを目指しておる筈だ。だからこそ家康は油断ならんのだがな。まぁ先ずは勝頼やお前達の思うべくやって見るが良い。困った時は智慧だけは貸してやろうかのう。では此処は勝頼と武田家の未来を肴に呑むとするか。惣三、酒を6人分持たせてくれ」
この信玄の一言で一同は笑い合ったのだった…。
…こうして永禄12年6月の梅雨明けの日に、信玄の隠居と静養、そして駿河平定後の新当主・武田勝頼の家督相続が家臣団と武田の家宝である《御旗・盾無の鎧》の前で宣言された。
それにより、武田家とそれを取り巻く者達の《時代の歯車》がまた一つ動いていく事になる。
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