拾弐:元亀争乱(伍)〜攻防二連木城〜
今回は前回から続いて武田家が東三河の二連木城周辺に攻め込んでいきます。史実では「酒井忠次が見事に防衛した間に徳川家康が吉田城に入城した」とか、「実際には武田家は此の年には攻め込んでいない」とか言われています。そんな中、勝頼率いる武田軍が如何に戦うか見て下さったら幸いです。相変わらずの乱文ですがよろしくお願い致します。
古来より、梅雨入り前は一日の始まりを迎えるのが最も早い季節の一つだ。
半月余り経てば、一年間で最も昼が長く為る《夏至》を迎えるという時期にあたる上に、未だに梅雨特有の曇天が蒼穹を隠してはいないからである。
《不定時法》の採用により、日の出と日の入りを一日の昼夜の基準としていた当時の人々にとって、此の事は《外での活動時間が長い》事を意味していた。
百姓達は夜明けと共に田畑で汗を流し、行商人達も少しでも多く売って利益を出すべく仕入れに余念が無い。
其れは軍役に就く武将や足軽達、賦役を課せられ人足として軍勢の末端に居る者も例外では無い。
彼等は冬場であれば未だ暗い筈の刻限から、今日一日の戦局を有利にする為に動き始めているのだ。
東海道の中央部に在する三河国、其の南東部には対岸の知多半島と共に、三河湾を抱く形で外海から遮っている《渥美半島》が在る。
渥美半島の付け根にあたる今橋の地には、東三河の要衝・吉田城が存在した。
16世紀初頭に牧野氏に因って築城された此の城は、三河湾に注ぎ天平の頃は飽海川と呼ばれていた吉田川(豊川)と支流の朝倉川の合流点近くに築かれている。
また、今橋は渥美郡・宝飯郡・八名郡の3郡の境目に位置しており、更には東海道や吉田往還(後の伊那街道)を通して、遠江や南信濃とも繋がっていた。
吉田城は設楽郡を含む東三河全体を抑え、支配するに適した《扇の要》とも言える城であったのだ。
此の地理的な好条件を、東三河に進出した諸大名が見逃す筈が無かった。
駿河から進出した今川家は東三河を領有為ると、当時今橋城と呼ばれていた吉田城に城代を派遣して今川家直轄の支城として整備した。
西三河の岡崎城に於いて、今川家から独立した徳川三河守家康は、永禄8年(1565年)に吉田城から今川家城代・大原肥前守資良を追い出して東三河を版図に加える。
家康は吉田城主として、己の義叔父にあたる酒井左衛門尉忠次を任命した。
同時に忠次は東三河4郡の国衆を束ねる《東三河衆》の旗頭に任ぜられ、遠江平定・金ヶ崎の退き口・姉川の戦い等の戦いに東三河の軍勢を率いて参戦し、徳川の家勢拡大に貢献している。
家康が本城を西三河の岡崎城から遠江の浜松城に移してからは、吉田城は岡崎・浜松を結ぶ要衝として重要度を更に増していたのだ。
そんな吉田城に向かって、東海道の脇往還である《本坂道》を南へ進撃する軍勢が存在した。
其の中でも、軍勢の中心を占める一団は、馬上の武将から足軽に到るまで、全員の具足を赤一色に統一している。
松明に照らされて、まるで紅蓮の炎の如く波打つ軍勢は、月も出て居ない中では遠目に眺めても、弥が上にも目立っていた。
そして彼等の背に掲げられた旗指物には《黒地に白桔梗》の紋様が誇らしげに翻っている。
甲斐武田家の宿老である山県三郎右兵衛尉昌景率いる《赤備え》の軍勢と、寄騎の先方衆(外様家臣)の軍勢5千である。
更に後方には武田家陣代(当主代理)の武田左京大夫勝頼が直卒する2万の軍勢が、更に北側に位置する作手の地を通過して、山県勢に合流為るべく南下していたのだ。
元亀2年(1571年)4月29日未明の事である。
彼等武田軍は、昨元亀元年12月に甲斐を出撃して以来、駿河河東地方・東美濃・遠江等を転戦していた。
そして信濃伊奈の飯田城に一度再集結した後、4月15日を期して《三州道》(三州街道)を通って奥三河に雪崩込んだのだ。
勝頼の本隊は三州道を直進して足助を占領為ると、其処から転進して南へ進撃した。
一方、山県勢は設楽郡に勢力を保つ《山家三方衆》を徳川方から寝返らせると、吉田方面に向けて南下を開始した。
其の後、設楽ヶ原南の竹広の地に於いて、野田城主・菅沼新八郎定盈率いる徳川方の国衆を撃破して野田城周辺を占拠している。
他方、遠江・奥三河と侵攻を受けて来た徳川勢も、吉田城を死守するべく動き始めた。
酒井忠次は東三河衆で未だに徳川方に留まる者達に使番を送り、迫り来る武田軍…其の先陣の山県勢を迎撃する為に吉田城に参集を命じた。
更には遠江の浜松城からは徳川家康自身が旗本を率いて、吉田城の後詰として出撃したのだ。
酒井忠次率いる《東三河衆》は29日未明に吉田城を出立して、直ぐ東側に在る二連木城に入城した。
また吉田川の対岸の宝飯郡、北西の方角に牛久保城が在る。
牛久保城では、城主である牧野新二郎貞成が、既に手勢を纏めて籠城に入り武田軍迎撃の準備に入っていた。
そこで忠次は牛久保城に使番を送り、牛久保城に篝火を残した侭で出撃為る様に命じた。
其の際に乗馬には狽(嘶きを防ぐ為に口に噛ませる木片)を噛ませ、藁で作った足袋を履かせる事で音を抑える様に指示している。
牧野勢に闇夜の中を迂回させて、二連木城におびき寄せる予定の武田軍の後背を夜明けと共に奇襲させる考えなのだ。
(我が方もだけでは無く武田方も、恐らくは境目の兵のみ残しての総掛りの戦の筈だ…。とは言え、田植えが近い此の季節、貴奴等も無理に無理を重ねていよう。此処を凌ぎさえすれば、武田も甲斐の山奥に引っ込むに相違有るまい…)
二連木城の本曲輪で、忠次は指示を出しながら考えを巡らせる。
側には《甕通鑓》と呼ばれる忠次の愛槍が掛けられて、出番が来るのを今や遅しと待っているかの様だ。
外を眺めると日の出が早いとは言え新月が近い頃である為、周囲は未だに薄暗く武田の軍勢の姿を直接垣間見る事は出来ない。
但し、遠く北側には多くの篝火が見え、其の事が武田軍の接近を感じさせた。
ふと忠次の視界に童具足を纏って床几に座っている少年が入った。形式上の二連木城主で戸田宗家を継いでいる戸田虎千代である。
前当主である伯父の主殿助重貞、実父の甚平忠重が立て続けに亡くなった為、未だ10歳の年若ながらも一族や家臣に担がれているのだ。
「虎千代殿。未だに元服を致して居らぬとは言え、此度は戸田の御家の、そして主家である徳川家の危急存亡の刻。伯父の主殿助殿や御父君の甚平殿に恥ずかしくない立ち振る舞いを致すのだぞ!」
「はいっ!左衛門尉様!」
緊張しながらも返事を返す虎千代に対して、忠次が力強く頷き返していると、使番が本曲輪に勢い良く走り込んで来た。
「慌てるで無い。如何致したのだ?遂に武田すれが姿を現したか?」
自らを落ち着かせて努めて冷静に質問する忠次に対して、使番は興奮した面持で忠次に報告する。
「はっ!丑の方角、当古の地に武田の軍勢が現れ申した!物見の者の内で生き残って来た者の話では、軍勢の先手は我等を裏切った山家三方衆、中央には赤い具足の軍勢!総勢は数千は下らぬとの事で御座る!」
武田の軍勢の事を聞いた忠次は、別間に控えていた己の中間を呼び寄せて具足を付けるのを手伝わせながら使番に話し掛ける。
「其の軍勢は恐らく武田が誇る《飯富の赤備え》で在ろう。何でも今は飯富兵部(虎昌)の弟だか甥だかの山県三郎兵衛が引き継いでおる筈だ…。宜しい!当初の予定通りに牛久保衆(牧野勢)と示し合わせ、《赤備え》を此の城と挟んで擂り潰す!お主は城内の者共に、牛久保衆が後背を襲う迄は貴奴等の注意を引き付ける様に申して参れ!」
「はっ!承知仕り申した!」
走り出した使番を見ながら、忠次は被った兜の緒を締めつつ周囲の者達に檄を飛ばして勇気付ける。
「善いか!此度の戦は貴奴等の夜討ち(夜間に行う奇襲)は既に封じ込めた!後は牛久保衆が朝駆け(早朝に行う奇襲)を果たさば我等の勝ちは疑い無いぞ!」
『おおぉぅ!』
忠次の檄に応じた城兵達は俄に活気付いた。《牧野勢との挟撃》で武田軍を破る策が彼等に勝利を確信させたのである…。
吉田川の上流、二連木城からみて北北東の方角に当古の地が在る。
本坂道と吉田川が交わる場所であり、吉田川が《飽海川》と呼ばれた頃より川を渡る渡河点となっている。
とは言え常設の渡しの類は未だに無く、徳川方の国衆である中山家を始め近くに居を構える住民達が船を出す程度であった。
此の当古の地に武田軍先陣を務める山県勢が到達したのは、時を遡って昨晩遅くの事である。
松明を掲げて川の北岸に到達した山県勢は、直ちに小荷駄から荷物を引っ張り出して来た。
それは百数十隻の小舟と鋲を打って補強した数百枚の楯板、そして其等を結び合わせる大量の荒縄であった。
同じく用意された篝火の元、足軽達が物頭の指示に従って、其等の材料を頑丈に組み合わせて行く。
すると2刻程(此の時期では3時間強)後には、吉田川に大軍勢が渡るに足る大きな舟橋が架けられたのだ。
「ふぅ…、一旦飯田城に引き揚げると聞いた時には如何な物かと思案致したが、お陰で伊奈から舟橋の材を持ち込んで準備出来た。正に《怪我の功名》とは良く言うた物だ…」
当古の地に新設された舟橋の出来具合を確かめた軍勢の大将・山県三郎右兵衛尉昌景は、相備え(寄騎)の1人である小笠原掃部大夫信嶺を呼び寄せる。
小笠原信嶺は天文16年(1547年)生まれの当年25歳。松尾城主で騎馬100騎持ちの信濃先方衆である。
父の下総守信貴は天文2年(1533年)、小笠原一族間の抗争に因って松尾城を追われた父(信嶺の祖父)の貞忠と共に甲斐武田家に仕え、20年余り後の武田家の南伊奈侵攻により、旧領の松尾城主に返り咲いていた。
信嶺は信貴の嫡男で、永禄元年(1558)以来甲斐府中に人質として置かれていたが、武田信玄は弟・信廉の娘を嫁がせる等して厚遇している。
今回の侵攻前に信嶺は正式に家督を相続して、山県勢の一翼を担っているのだ。
「掃部殿。お主と松尾の手勢は此処に残り、舟橋を守って貰う。此の橋は勝頼様率いる本隊も通る故、必ずや役目を果たすのだ」
「はっ!承知仕った!必ずや御役目を果たして見せましょうぞ!」
「うむっ。残りの者共は舟橋を渡り軍勢を整えた後に、日の出迄には二連木城に攻め寄せる。其処を陥とさば吉田城は目前だ。者共、勇み戦えぃ!」
『応っ!』
檄に応じた山県勢は、行軍の序列に従って舟橋を渡って行く。
そして、黎明が近付き次第に東側の空がうっすらと明るさを帯び始めた頃、不要となった松明を舟橋の篝火に焼べた山県勢は、二連木城へ向けて進撃を再開したのだ。
其の山県勢の進軍を、物陰から静かに監視している幾つかの目線が有った。
彼等は山県勢の進軍再開を確認為ると、南西の方角…山県勢を奇襲する為に密かに移動中の牧野勢へと、此の事を報せる為に走り去って行った。
日輪は未だに姿を見せぬものの東側の空が白けて来た頃、武田軍先陣である山県勢が二連木城の東数町(1町は約109メートル)が姿を現した。
山県勢は3段の陣形を敷いて二連木城へと距離を縮めて行く。
先ず田峯城の菅沼新三郎定忠・長篠城の菅沼新九郎正貞・作手城の奥平美作守定能・九八郎定昌親子が率いる《山家三方衆》を先陣に据えている。
其の後ろ側には二の陣として駿河庵原城主の朝比奈駿河守信置・信濃田口城主で昌景の娘婿の相木市兵衛昌朝等が率いる先方衆を配している。
最後尾の本陣は昌景自身が采配を揮い、嫡男の甚太郎昌次や山県家直臣の志村又右衛門光家・名取又左衛門道忠が脇を固めていたのだ。
「父上っ!我等が軍勢、城攻めの支度相整いまして御座る!いざ、城攻めの御下知を!」
昌景の下で使番を行いながら《一軍の将》としての駆け引きを学んでいる嫡男の昌次が、準備完了の連絡を寄越して来た。
昌景は獣毛を飾った采配を握り締めると、雷霆の如き大声で麾下の軍勢に命令を伝えて行く。
「よしっ!夜明け前だが此れより城攻めを致すぞ!此の様な端城、日が中天に至る前に落としてくれようぞ!貴奴等は鉄砲が得手故、竹束で身を隠して鉄砲玉を防ぎつつ城との間合を詰めよ!では陣太鼓を鳴らせ!」
すると、未だ夜明け前の空気を切り裂く様に、辺り一帯に山県勢の城攻めを命じる陣太鼓が響き渡った。
最初は間隔が長かった陣太鼓の音が次第に短めに為っていき、連打と呼んだ方が相応しい音色に変わって行く。
其の変化に従って、山県勢の将兵の顔付きが段々と引き締まり、周囲に緊張感を撒き散らしていく。
ドォォォン!
ドォォォン!
ドォォン!ドォォン!
ドンドンドンドンドンドン…
ドン!ドン!ドン!ドン!…ドォォォォン!
連打していた陣太鼓は、力強い侭で再び間隔が長くなり、最後に最も大きな音を掻き鳴らした。
其の瞬間、高々と掲げられた昌景の采配は振り下ろされ、まるで百雷の如き裂帛の気合を込めた号令が響いた。
「者共、懸かれぇぇい!」
『ウオォォォォッ!』
獣が取り憑いた様な叫び声を上げながら、山県勢は城に向かって走り始め、一気に城との間合を縮めていく。
勿論、二連木城を守る東三河衆も指をジッと銜えて待ってる訳では無い。
「よいか!敵勢を城に近付けるな!弓鉄砲で間合を開けた侭で射竦めるのだ!奴等が裏崩れを致す迄耐え切れば我が方の勝ちは揺るがぬぞ!」
「弓衆、構えっ!…放てぇぃ!」
「鉄砲衆は筒先を揃えよ!自儘に撃っておっても射竦める事は適わぬぞ!」
弓衆や鉄砲足軽を率いる組頭達の指示で、被我の距離が3町(約327メートル)を少し切った辺りから、早くも弓矢や鉄砲玉が放たれる。
勿論、此の距離では相手に致命傷を浴びせるのは不可能だ。
大半の鉄砲玉や矢は武田勢に届かずに地面を穿つのみ。縦しんば届いたとしても、鉄砲玉は竹束に刺さる事も出来ず、矢も陣笠や楯板を貫く事は適わない。
だが先頭を走る山家三方衆勢の足軽には、鉄砲玉が竹束に爆ぜる音や風を切る様な音が聞こえ、其の事が山県勢全体の攻撃の足を鈍らせるのだ。
一方、山県勢から見て南東の方角に位置するに岩田の地に於いて、鳴り響く陣太鼓と鉄砲の音を聞いていた一団が存在していた。
牛久保城から迂回して山県勢の後背に回り込んだ牧野貞成率いる軍勢である。
周囲には《牛久保六騎》と称えられる寄騎の者達が、朝駆けを今や遅しと待ち侘びていたのだ。
「ん?どうやら二連木城に武田の山猿共が食い付いたらしいな…。平右殿!今こそ朝駆けに相応しいと存ずるが、準備は宜しゅう御座ろうか?」
先々代・民部丞貞成の実名を受け継ぎ、牛久保城主の地位に就いたとは言え、貞成は未だ17歳の若武者である。
更に寄騎である《牛久保六騎》衆は、今川家臣の頃に先代城主で貞成の父である右馬允成定に先んじて徳川方に鞍替えしていた。
永禄9月(1566年)には、成定は牛久保六騎衆の媒に因って徳川家に降伏していた。
(成定は同年に死去、其の後家康の裁定で貞成が家督を相続している)
詰りは牛久保六騎衆は牧野家の家臣・寄騎で在りながら、徳川の軍監に近い立場であった。当然貞成は彼等に対して強い態度には出る事は出来ない。
「良く見立てられた!《赤備え》共も二連木城を攻めるので夢中の様子。此の侭奴等を《裏崩れ》に追い込む好機で御座る!新二郎様の見立て通り、今こそが朝駆け致すべき刻と考えまする!」
牛久保六騎衆の一人で牧野家筆頭家老の稲垣平右衛門長茂が、貞成の意見に賛意を示して他の者達を見渡す。
すると他の牛久保六騎衆や牧野家に仕える家臣達も、貞成と長茂に対して無言の侭で首肯した。
「よし!武田勢迄は残り10町(約1.09キロメートル)余り!此れより武田勢の後備えに朝駆け致すぞ!先ずは弓組が敵勢の頭上に矢を射掛け、其れと拍子を合わせて長柄足軽が攻め立てるのだ!者共っ、掛かれぇっ!」
『ぅわぁぁっ!』
貞成の号令を合図に、牧野勢の足軽達は一斉に北西方向…二連木城を攻める山県勢の後備えに向かって走り始めた。
城攻めの途中、予想外の方向から喚声が聞こえた山県勢の本陣…《赤備え》の集団は、一斉に馬上の山県昌景を仰ぎ見る。
身長140センチメートル程の短身の筈だが、実績に裏打ちされた自信と気迫が昌景を常人以上に大きく見せていた。
昌景は牧野勢を一瞥為ると近くの家臣を呼び寄せ、手に握った采配で指し示しながら指示を与える。
「郷左衛門!伝右衛門!此方に向かってくる《丸に三つ柏》は牛久保牧野家の軍勢で在ろう!2人は手勢を率いて貴奴等の討入を暫しの間防ぎ止めよ!直ぐに又右衛門と又左衛門の手勢も遣わす!四半時も防がば十分だ!征け!」
『御意に御座いまする!』
昌景にそう返事して踵を返した2人の武将…広瀬郷左衛門景房と三科伝右衛門形幸は、己の手勢に呼び掛けると直ちに牧野勢を防ぎ止めに掛かる。
「飛んで来る矢は楯板も立てて防ぐのだ!竹束のみでは矢が滑って思わぬ矢傷を負う羽目になるぞ!」
「筒衆(鉄砲隊)は急いで弾込め致せ!弓衆は《指矢懸かり》にて敵勢の足を止めに掛かれぃ!」
《指矢懸かり》とは弓の速射性を活かして、矢継ぎ早に射続ける事で敵前面の鉄砲の攻撃や突撃を防ぐ戦術である。
景房と形幸が指示を出して竹束や楯板が牧野勢が迫る南東側に並べられ、其の隙間から弓矢や鉄砲玉が放たれる。
無論、山県勢を崩そうと牧野勢も弓衆・鉄砲衆が攻撃を加え、双方共に飛び道具による激しい銃撃戦が行われた。
「ええぃ、襲う我等が貴奴等の土俵に乗って如何致す所存だ!二連木城では酒井左衛門(忠次)殿が待っておるのだ!長柄組を前に押し出せ!貴奴等を抜いて裏崩れを誘うのだ!」
朝駆けに素早く対処した山県勢を睨み付けながら、牧野勢を実質的に指揮する稲垣長茂が組頭に命令を伝える。
すると牧野勢の弓組の後方から、織田家から導入した3間半(約636センチメートル)の長柄鑓を携えた長柄足軽達が、足軽組頭の指示に従って前進して来た。
山県勢からも、赤い御貸具足に身を包んだ長柄足軽達が、牧野勢に対抗する為に前に出て来る。
「郷左(景房)殿と伝右(形幸)殿に加勢致すのだ!槍の穂先を周りと合わせよ!」
「武田家の誇る《赤備え》が高々不意の朝駆け如きで崩れては、殿(昌景)のみ為らず武田家全体の名折れぞ!打ち崩して返り討ちに致せぃ!」
志村又右衛門光家と名取又左衛門道忠の2人に率いられた長柄足軽衆は、竹束や楯板を回り込む形で牧野勢の長柄組と激突して、お互いの長柄鑓を振り翳して殴り合う。
開戦から半時(1時間弱)余り経過して夜明けが近付いたからか、山県勢と牧野勢の激突は酒井忠次が居る二連木城の丸太を組み上げた物見櫓からも十二分に見て取れた。
《赤備え》が牧野勢に対して振り分けた手勢が少数だった為に、激しく抵抗するもジリジリと後退し始めている。
此の動きを確認した忠次は、二連木城の城兵達に対して出撃の命令を下した。
「よし!此の侭いけば牧野勢は《赤備え》を裏崩れに追い込めるぞ!此れより城からも打って出て、返り忠を打った山家勢に対して《乗り崩し》を掛けるのだ!夜明け迄に騎馬武者を大手口に集めよ!騎馬の寄子、其れに徒士武者や長柄組は後に続き追い討ちを掛けるのだ!」
《乗り崩し》は、数騎から十数騎単位で騎馬武者を集め、敵勢の足軽隊に対して騎乗攻撃を掛ける戦術の1つである。他に《乗り切り》《乗り込み》と呼ばれる用法も存在する。
《乗り崩し》とは、屈強な騎馬武者が敵前衛の足軽を突破して後方に回り込む用法で、其処を突破口として徒士武者や足軽達が敵勢を崩していく形になる。
対する《乗り切り》は浮足立った敵の足軽達に向かって、騎馬武者が騎乗攻撃を仕掛ける事で隊列を撹乱させる戦術である。
逆に《乗り込み》とは、戦端が開かれる前に敵勢が不用意に仕居場を詰めて来た、明らかに後詰が居ない、布陣にもたついている等の疎漏が見受けられた場合に、騎馬武者のみで編成した大物見(威力偵察)を放つ。
未だに布陣を完了していない敵勢に対して騎馬攻撃を仕掛けて混乱させたら素早く引き揚げる。
孰れの戦術も、敵勢は同士討ちを恐れて飛び道具を使用出来ない為に、少数の騎馬武者で攻撃を行える。
(勿論、騎馬武者が攻撃を仕掛けた後は、足軽を中心とした別勢が攻撃を加える事が絶対条件であり、通常は騎馬の寄子を務める小者達も後続攻撃に参加する)
更に上手くいけば、攻撃の様子を見て怖じ気付いた周りの敵勢が勝手に敗走する《友崩れ》と呼ばれる状態へと追い込む事も可能である。
だが、一旦突破や迂回に失敗した場合は、少数の騎馬武者は弓や鉄砲等の飛び道具、又は長柄鑓を揃えて突き出す槍襖の餌食と為ってしまうのだ。
正に敵勢の見極めが重要視される戦術であり、武田軍は此等の騎馬戦術を得手としていた。
忠次は大手口に接近中である武田軍先陣の《山家三方衆》勢に対して《乗り崩し》を仕掛ける事で、既に後方を襲われている山県勢を一気に敗走に追い込み、其の侭の勢いで追撃戦に移行する考えなのだ。
「承知致しまする!」
忠次の命令を聞いた家臣達が、二連木城の各所に配された城兵達に命令が伝達されていく。
忠次の命令が伝わるに従って、城内は俄に活気付いた。特に籠城した場合には出番が極めて少なくなる騎馬武者達は熱り立って出撃の準備を進める。
そして日の出と共に、大手口の門を開けて出撃した彼等の脳裏には、《武田が誇る赤備えの軍勢が無様に敗走する光景》が鮮明に描かれていた。
夜が明け太陽が戦場を照らし始めた頃、山県勢は既に先陣の山家三方衆の他、二陣の相備え衆や本陣の《赤備え》の一部も城攻めに参加しており、一部の者は堀の手前迄到達していた。
其の様な中、二連木城の大手口から騎馬武者を含めた城兵達が出撃する様子は、二連木の城兵のみ為らず山県勢の本陣を攻め立てる牧野勢を大いに勢い付けた。
逆に山県勢は、戦の流れが徳川方に傾くのを食い止めようと、必死の形相で戦い続けていく。
そんな中で唯一《赤備え》を率いる昌景だけが、余裕の表情で戦局を眺めていた。
昌景は《兎唇》(口唇裂)と呼ばれる独特な口辺に笑みを漂わせながら一人北叟笑んでいる。
(ふぅ…、一時は如何に致すか思案したが、どうやら間に合った様だ。此れで武田家の勝ちは揺るぐまい…。其れにしても膳右衛門の奴、宛ら見計らったかの様だな…)
彼には此の戦いを勝利に導く存在が近付いたのが、はっきりと判っていたのだ。
昌景以外で其の存在に最初に気付いた人物は、二連木城物見櫓にて采配を揮っていた酒井忠次であった。
山県勢本陣に抵抗されて未だに裏崩れを成し得ない牧野勢の方に目をやると、其の右翼よりも更に東側から、数千の別の軍勢が近付いて来たのだ。
「彼れは…、武田の新手かっ!拙い、此の侭では牧野勢が崩されてしまう…。おのれっ今一歩の処で…!致し方無い、直ちに退き太鼓を鳴らす様に伝えよ!儂も此れより出陣致して殿軍に入る!其れと使番は直ちに吉田城に入られた殿(家康)に後巻を頼んで参れ!」
「はっ!畏まり申した!」
使番と焦燥の面持で急いで櫓から降りて来た忠次は、夫々(それぞれ)の場所へ向かって駆けていく。
しかしながら、其の間にも牧野勢は既に返り討ちに遭い始めていたのだ。
武田軍の新手に東側から襲われた時、牧野勢は山県勢の本陣に今一歩で到達する処迄来ていた。
だが、新手の中から数十騎の騎馬武者が飛び出したかと思うと、一気に牧野勢との間合を詰めて来たのだ。
直ぐに牧野勢の組頭も対応し始めたが、武田軍は本来並走為るべき足軽達を後方に置いて迄して拙速を求めたのだ。
「はっ、早い!《乗り崩し》を仕掛けて来るぞ!新手に向けて槍襖を作るのだ…」
「遅いっ!」
先頭を駆ける騎馬の武将が、大身槍で長柄鑓を薙ぎ払いながら牧野勢の足軽の中に飛び込むと、返しざまに物頭の首筋に向けて槍を一閃する。
「ひっ!」
自分達を今し方迄率いていた物頭の首が転がり、具足を纏った胴体から下だけが立った姿を見て、足軽達の戦意は一気に霧散した。
「伊奈旗頭、秋山伯耆守じゃ!我が名を冥府への土産と致すが良いわ!」
其の武将…武田軍の第2陣を率いる信濃飯田城主・秋山伯耆守虎繁は、陣笠や御貸具足を避けながら、大身槍を揮って足軽達を葬って行く。
更に其処に騎馬武者達から遅れて、足軽達を含む虎繁麾下の軍勢が襲い掛かる。
秋山勢の攻撃は理想的な《乗り崩し》となり、牧野勢全体が一気に浮足立ってしまった。
「ええぃ!《乗り崩し》を掛けられた程度で崩れては三河武士の名折れ!此処が切所ぞ!何としてでも耐え切るのだ!」
「者共っ!生命を惜しみな!牧野家の名を惜しむのだ!此処で死ぬ覚悟で戦えぃ!」
牧野勢を率いる牧野貞成や稲垣長茂を始めとした《牛久保六騎》衆が、必死に応戦を呼び掛ける。
だが、山県勢に奇襲に耐え切られ、逆に秋山勢に奇襲を食らった時点で、牧野勢は完全に浮足立ってしまい、次第に跳散する者も出て敗走し始めたのだ。
勿論、そんな牧野勢の状況を歴戦の将である昌景が見逃す筈が無かった。
「よし!膳右衛門(虎繁の仮名)が敵に襲い掛かったな!甚太郎(昌次)、今が潮目に相違無い!我等も直ちに総懸かりに移るぞ!本陣も前に出して、城から出て参った敵勢を破った後に其の侭城に付け入るのだ!」
「はっ!承知致し申した!者共、総懸かりの御下知だ!懸かり太鼓を鳴らせ!本陣も城攻めに加わるぞ!」
昌次の指示を聞いた山県勢本陣の者は、漸く出番が来たのを喜ぶかの様な雄叫びを上げた。
同時に陣太鼓が《懸かり太鼓》と呼ばれる総攻撃の合図を戦場全体に響かせると、二連木城に取り付こうと必死に戦う者達や、牧野勢を凌ぎ切った志村光家・名取道忠・広瀬景房・三科形幸の各手勢を更に勢い付かせる。
反対に武田軍の懸かり太鼓を二連木城の外に出撃した直後に聞いた酒井忠次は、周りの者達に後退の指示を送る。
「間に合う者は急ぎ二連木城に退くのじゃ!退いた者は儂が城に戻る前で構わぬ故、付け入らせぬ様に城門を閉じよ!城に入れなんだ者は儂と共に吉田城からの後巻に合流致すぞ!」
忠次の言葉を聞いた者は、我勝ちにと城門に向かって走り始める。
足軽の中には重い長柄鑓や御貸具足を放り出して城に入った者もいる。だが士分の者達は流石に己の槍や具足を捨てる事無く入城していく。
暫く為ると、其の中に面頬を付けた3人の徒士武者が大手口の城門に逃げ込んで来た。
だが、徒士武者達は城門を閉める為に閂を抱えていた足軽達を次々と己の槍で刺し貫いたのだ。
「きっ、貴様等!如何なる存念じゃ!此の後に及んで返り忠を打つつもりか!」
近くの徒士武者が槍を構えながら詰問すると、武者の1人が面頬に手を掛けた。
彼は相当に若い素顔を晒しながら高らかに名乗りを上げる。
「我は設楽作手城主、奥平作州(美作守貞能)が嫡男、九八郎貞昌也!」
すると若武者…貞昌の隣りに居る徒士武者が、槍を構えた侭で話し始める。
「拙者は奥平美作の次弟、源五左衛門常勝!隣りに居るは拙者の弟の藤兵衛貞治だ!徳川の衆よ、善く聞くが良い!奥平九八郎、二連木城一番乗りっ!此の門は武田家に旗を返した手土産に、我等奥平一門が頂戴致した!親父殿(道文入道・監物貞勝)からも《武田の御家の役に立つ様に》と、善く善く言い含められた故なぁ!」
「謀ったか!此の恥知らず共がぁ!」
徳川方の徒士武者は、常勝の言葉に怒り狂って襲い掛かって来た。常勝の喉元に向かって槍の穂先が伸びて行く。
しかし、貞昌の槍が徳川の武者の槍を弾くと、其の勢いの侭に相手の首筋を切断した。
頸動脈を斬り裂いたのか、鮮血がまるで夕立の様に地面に降り注ぐ。
「う…、うわぁ!逃げろぉ!」
「こんな処でむざむざ殺されたくねぇ!」
其の光景を見た徳川方の足軽達は、蜘蛛の子を散らす様に大手口から逃亡していった。
「九八郎殿、一番乗りの戦功、誠に見事で御座った!此の大手柄を兄者(貞能)や親父殿(貞勝)が聞いたら喝采を催すで在ろう!」
貞昌の活躍を、貞治は素直に褒め称える。貞昌は年若らしく照れながら応じていたが、常勝だけは無言で考えていた。
(此れで徳川に未練を残しておる兄者も、踏ん切りをつけざるを得まい。今後共、奥平家が栄える為に武田の御家に手を貸していかなければな…)
三河の他家と同様に、奥平家中にも親武田派と親徳川派の対立が存在していた。
現当主の貞能は親徳川派であり、常勝や隠居の貞勝は親武田派であった。今回の武田家帰属は、常勝や貞勝達の水面下での工作の成果と言える。
常勝は敢えて当主嫡男の貞昌に武功を上げさせる事で、新参である武田家に奥平家を売り込むと共に、徳川家との関係を更に悪化させる事で家中を親武田で統一させるつもりなのだ。
こうして山県・秋山勢による攻撃に因って、此の日の正午迄には二連木城は落城した。
二連木城外で殿軍を務めた酒井忠次や秋山勢の攻撃から逃れた稲垣長茂、同じく《牛久保六騎》衆の牧野半右衛門尉正勝等は、敗走した後に吉田城に逃げ込む事が出来た。
しかし二連木城から逃げ遅れた戸田虎千代や、秋山勢に捕われた牧野貞成を始めとして、多くの徳川家臣が虜囚として山県・秋山勢に捕われてしまった。
何よりも、此の戦いに於いて多数の将兵が討死してしまったのだ。
徳川勢は武田軍の次の攻撃目標を吉田城と想定、此れを死守為るべく敗残兵を収容した。
だが、彼等の予測に反して武田軍の進撃は二連木城だけに留まらなかったのだ。
「忠次が付いて居ながら何たる態だ!長茂も、そして正勝等も、此の責を如何に取るつもりか!」
「誠に申し訳御座いませぬ。全ては軍勢を束ねておった某の責、何卒殿の御厚情を以て此の者達の事を赦免頂きます様、伏して御願い申し上げまする!」
其の日…4月29日の戌の刻(此の季節は午後8時40分頃)、吉田城本曲輪内に在る板張りの大広間には、屋敷の外迄聞こえる位の大声が響いていた。
大広間の上座では、徳川家の当主である三河侍従家康が憤怒の表情を浮かべて屹立している。
下座の正面…家康と正対する場所には酒井忠次が座しており、其の後ろには稲垣長茂・牧野正勝を始めとした東三河衆が平蜘蛛の如く平伏していた。
そして下座の両脇には、本多平八郎忠勝・大須賀五郎左衛門尉康高・榊原小平太康政・都築惣左衛門秀綱等、家康と共に浜松城から駆け付けた旗本先手役が並んで彼等を見守っている。
「判っておるわ!諏訪の小倅(武田勝頼)が頭におるとはいえ、敵は信玄坊主が手塩に掛けた歴戦の軍勢、なまじ策も無い侭で戦った処で勝てる訳が無かろう。此の度の戦は致し方有るまい!」
家康がこう告げると、忠次達は平伏して謝意を表した。家康は忠次の後に座する東三河衆に視線を落としながら話を続ける。
「其れに未だに新二郎や虎千代を捕らえられておる!貴奴等を助けなければ儂の沽券に関わるわ!必ずや助けてやらねばな!」
(なまじ死んでおれば手間も掛からぬものを…しかし此れ以上返り忠を生まぬ為には、此方に居る菅沼や奥平の人質と換えざるを得まい…、ええぃ!忌々しい!)
家康は牧野・戸田という有力な国衆を繋ぎ止める為に、既に裏切った山家三方衆からの人質と交換する必要が生じた事を内心で悔やんでいたが、表面上はおくびにも出さない。
其の為、当主を捕らえられている長茂や正勝等の牧野・戸田両家の家臣達は、助けると宣言した家康に平伏しながら感謝した。
「有り難き幸せで御座いまする!三河侍従様の御厚情に報いるべく、今以上の忠勤に励む所存で御座いまする!」
「うむ、今後共励むが良い!」
家康は当たり障りが無い返事を返しながら、思考の中心は既に《二連木城に入った武田軍をどう片付けるか》に移っていく。
其の様な状況の大広間に使番が駆け込んで、家康に更なる凶報を齎したのだった。
「其れは如何なる事だっ!武田は、諏訪の小倅は二連木城を落として次は此の吉田に寄せては来なかったと申すのかっ!」
「はっ!武田の軍勢の内、武田四郎率いる軍勢が宝飯郡に侵入、牛久保・長沢の諸城に攻め寄せた他、周辺の民家を襲い火付けを働いた上に八木等を奪い去った由に御座いまする!」
八木とは米の事を指す言葉である。《八》と《木》という2つの漢字を組み合わせると、《米》となる為に此の様に呼ばれていたのだ。
(抜かったわ!諏訪の小倅が軍勢を其の様に自在に動かすとは!信玄が出陣して居らぬ、と言うから高を括っておったが…。真逆実は信玄が出て来たのか?いや…判らぬが、先ずは吉田を固めるが先決だ!此の地を失っては遠江は根無し草に成り果てるからな…)
家康は半ば呆然としながらも、東三河のみならず遠江を保全する為に、改めて吉田城を死守する様に各将に指示を与えたのだった。
宝飯郡各地を襲撃した武田軍の各軍勢が改めて吉田城の包囲に付き、諸将が二連木城に設けられた本陣に集結したのは、月が変わった5月の朔日の事であった。
「…と、此の様に先月半ば以降、三河各地で我等と交戦致した徳川方の軍勢の内、討死致した者は2千近くに及びまする。手負いの者や跳散致した者は夥しく把握出来かねまする」
二連木城本曲輪に陣幕を張って設えた本陣に於いて、陣馬奉行の原隼人允昌胤が今回の戦果を説明する。
「また、此方の損害は討死が全軍で3百に満たぬ程度、昨年末の河東討入以来でも千を越えてはおりませぬ」
昌胤の説明を聞いた諸将からは、どよめきにも似た喜びの声が其処かしこから漏れて来る。
しかし昌胤の顔からは喜びの感情は感じられない。昌胤の胸中が新たな問題点に捕えられているからだ。
「皆の衆が喜ぶのは宜成るかな。されど陣馬奉行としては此度の戦は仕舞に致して甲斐に帰国致すに如くは莫し、と心得まする」
昌胤の発言に対して、御親類衆の1人で信濃小諸城主の武田左馬助信豊が異論を述べる。
「隼人殿っ!何を弱気な事を申されるのだ!此度の城攻めで吉田城を落として徳川三州(家康)の首を刎ねれば、遠江・三河の戦いを終わらせる事が出来るのだぞ!勝頼様!某を先陣に御据え頂ければ、此の様な端城は直ぐに落として見せましょうぞ!」
信豊は上座で黙って聞いていた此の軍の総大将…武田家陣代(当主代行)の武田左京大夫勝頼に同意を求める。
諸将の視線が一斉に集中する中、床几に座する勝頼は少し思案した後に答える。
「信豊…、お主には悪いが此度は陣馬奉行たる昌胤の意見を諒としよう。父上が…、御屋形様(信玄)が常々申しておられた教えに《六分の勝ち》というのがあるからな」
「確かに御屋形様が仰有っておられましたな。《弓矢の儀、勝負の事、十分を六分七分の勝ちは十分の勝ち也。八分の勝ちは危うし、九分十分の勝ちは味方大負けの下作り也》…ですな?」
かつて其の言葉を直接聞いた昌景が、改めて信玄の言葉を紹介すると、同じく信玄の薫陶を受けた馬場美濃守信春や内藤修理亮昌秀・土屋右衛門尉昌続・武藤喜兵衛昌幸等が頷く。
しかしながら新参の山家三方衆や若い武将に聞かせる様に、軍師を務める真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)が解説する。
「合戦の勝ち方には3種類御座る。最上は6分から7分の勝ち、反省すべき点を省みる事で更なる成長を望めまする。其の次は8分・9分の勝ち、《窮鼠、猫を噛む》の言葉通り手痛い反撃を食らい兼ねませぬ。そして10分の勝ち…即ち完全勝利が一番良くない勝ち方で御座る。完勝は相手に対して侮りや慢心を生み、後々に必ずや大きな怪我・大敗の元に成りまする。…此れが我等が御屋形様、法性院信玄公が言われる《六分の勝ち》で御座る」
幸綱の説明を聞いた新たな家臣達は、如何にも感心した様に何度も頷きながら聞いている。
すると、勝頼から改めて信豊に…と言うより納得していない諸将全員に向かって話し掛ける。
「詰まる処、我等武田の軍勢は恐らく《六分の勝ち》の範疇を既に越えておる。此れ以上は徳川も決死の覚悟で足掻いてこよう。然すれば我等の損害も大きくなる。詰まりは《八分・九分の勝ち》、と言う事だ。其れともう一つ、我等には気に掛けねば為らぬ事が有る。今日が《芒種》だという事だ。昌胤、お主が憂いておるのも恐らくは此の事で在ろう。違うか?」
勝頼が昌胤に質問すると、昌胤は我が意を得たりと言わんばかりに大きく頷いた。
「如何様。御陣代が仰有る通り、某が憂慮致しておる点は正に其処で御座いまする。武田家の軍勢の足軽の大半は百姓。戦を此の侭続けておっては、秋の収穫に差障りが起きましょうぞ」
陰暦の5月朔日は、二十四節気では《芒種》にあたる。
《芒種》とは古来より、『麦を納め稲を植う』時期であり、此の頃から田植えを始めとして百姓の人手が一番必要な《農繁期》に入るのだ。
《兵農未分離》が常識であった此の時代に於いて、武士階級や一部の傭兵・雑兵を除くと、足軽や人足等の大部分が軍役や賦役を課せられた百姓であった。
本来己が耕すべき田畑を放った侭で軍旅に就いた足軽や人足達は、愈迎える農繁期を前に浮足立っており、彼等を率いる武将達は難しい采配を強いられるのだった。
更には、通常よりも軍役や賦役を課した百姓達には、不平を和らげる為に或る程度の年貢や賦役を免除してやる必要が生じた。
彼等の不平を無視して軍役や重税を課し続けた場合、跳散や一揆を誘発する危険性を孕んでいたのだ。
詰る処、己や一族が統べる領国の保全拡大を目指した戦国大名達は、《領国確保の為の戦争》と《領国の経営》という二律背反の命題の間で揺れ動いていた、とも言える。
勿論、其れは甲斐武田家に於いても例外では無かった。
信玄の陣代に就任した勝頼は、駿河の過半を制した昨元亀元年(1570年)より、少禄の今川旧臣の徒士武者を対象に、所領の替わりに《堪忍分》として甲州金を支給する制度を採用していた。
緊急処置とは言え、《棒給制の常備軍》創設の端緒に就いた武田軍だったが、此の時点では其の総数は千にさえ届かない。
実際、今回の東三河への遠征に参加した総勢2万5千の軍勢の内の大部分…2万近くが足軽として麾下にに組み込まれた百姓達だったのだ。
「左様で御座いますな。此の侭三河で戦を続けては、田畑は荒れて豊作は見込めますまい…此度は此の辺りが潮時でしょうな」
今回、別勢を率いていた秋山虎繁も勝頼の意見に同意する。すると、虎繁に相槌を打つ様に馬場信春・山県昌景・内藤昌秀・真田幸綱が賛意を示した。
駿河東部で北条方と交戦中の春日弾正忠虎綱と共に、陣代・勝頼の後見役に就いている4人全員が、勝頼や昌胤の撤退案に賛意を示した事になる。
居並んだ諸将も自らの所領に《寄子》や足軽を戻して田畑を耕さねば、自らの実入りが目減りして最終的には自らの首を絞める事に成る事は、言われる迄も無く理解しているのだ。
軍議が進むに従って、次第に流れは《奥三河を領国に組み込んだ上で甲斐へ帰国する》という意見へと集約されていく。
其れを見極めた勝頼は、徐に結論を述べ始めた。
「うむ…。どうやら評定は出尽くした様だな。意見を異に致す者が居らぬ為らば、儂が裁決を致すぞ。此れより甲斐に帰国の途に就く事に致す。但し、菅沼家・奥平家を始めとして武田に従った奥三河の国衆のみでは、徳川の反撃を支え辛かろう。其処で先ずは吉田城の周囲のみ為らず、南の渥美・北の宝飯・東の八名の3郡にて焼き働きを行う。3郡の落とした城は此の二連木城を含めて全て毀し、暫く徳川が使えぬ様に致せ」
淡々と語る勝頼が見渡すと、居合わせた武将全員が首肯した。勝頼は其の様子を確認してから続きを説明する。
「其の後に軍勢の大半を帰し、殿軍を野田城に入城させる。しかし南に突き出し過ぎておる故に必ずや徳川勢が攻め寄せて来よう…。野田城を保っておる間に、設楽郡の南の境目である吉田川と大野川(今の宇連川)に沿って、既に在る城や砦を修築致せ。必要為らば要となる新たな城を築いて構わぬ。此等の縄張りを信春に一任致す。信春、善いか?」
「承知致した。遠江の城と共に、必ずや武田家の御役に立つ様な城を築いて見せましょうぞ!」
「うむ、では此度の殿軍にあたる《野田城の主将》だが…」
信春の快諾を受けて勝頼が話を進めようとすると、下座の方に座した武将が声を掛けて来た。
「あいや暫く!勝頼様っ!野田の主将には是非とも某を任じて下されぃ!」
「昌盛か…、然れど…」
「某は未だに勝頼様…四郎様と平八郎殿から受けた大恩を御返し出来ておりませぬ…。今こそが其の刻と心得まする!」
小幡豊後守昌盛は、信虎・信玄の2代に仕えた足軽大将の山城守虎盛(日意入道)の嫡男で、現在は《騎馬3騎・足軽10人持ち》の足軽大将衆の1人。
永禄4年(1561年)、虎盛の死去に伴って家督を継承し、信濃海津城二の郭の城代に着任した。
しかし4年後、軍令に背いて何と《城代を辞任して信玄の旗本になりたい》と直訴したのだ。
本来為らば軍令違反で切腹となるべき処を、勝頼と金丸平八郎(後の土屋昌続)の2人が信玄に取り成した。
其の結果、所領の3分の2と《騎馬12騎・足軽65人》の軍役、城代の地位を叔父の光盛に譲り、昌盛は足軽大将衆として信玄の旗本に復帰出来たのだ。
現在は武者奉行の傍ら、西上野に所領を持つ為に、其の方面の横目付の役目も果たしていた。
「ふむ…。昌盛ならばよもや采配を間違う事も有るまい。よし、昌盛を殿軍として野田城に入れよう。但し此度は時を稼ぐが眼目故に、城を枕に討死致す事は罷り成らぬ!出来得る限り時を稼いだら信春の築く城に移るのだぞ!」
「ははっ!」
昌盛の威勢が良い返答に勝頼は力強く頷くと、床几からやおら立ち上がり居並ぶ諸将を見渡してから話し始める。
「為らば、此れより手分けして渥美・宝飯・八名の各郡にて焼き働きに入る!また、昌盛の手勢と寄騎は一足先に野田城に入り籠城の支度に入れ!信康、小荷駄の中から使える代物を野田城に移してやれ!其等の手筈が整い次第に三河表から撤退致すぞ!善いなっ!」
『ははっ!』
此の数日後、東三河の各地に於いて焼き働きを繰り返した武田軍は、二連木城に火を放った後に奥三河を経由して甲斐・信濃へと撤退を開始した。
馬場信春が奥三河の作手に於いて新城(後の古宮城)の縄張りに入った他、足助の真弓山城に下条信氏、南設楽の野田城に小幡昌盛の手勢を配した。
とは言え、武田軍の1ヶ月に及ぶ東三河での一連の軍事行動に、一応の区切りが付いた格好になった。
一方、武田家の軛を辛くも脱する事が出来た徳川勢だったが、2千人以上の戦死者と其れを倍する負傷者が出していた。跳散した足軽や百姓も夥しい人数に及ぶ。
更には武田家から奥三河から北遠江、そして大井川右岸の榛原郡の一部が蚕食されてしまっているのだ。
暫くは領内の立て直しに時間が掛かるが、家臣団を繋ぎ止める為にも、立て直しが済み次第近々の内に、取られた所領を奪還する必要性が発生しているのだった。
此の元亀2年(1570年)4月の二連木城周辺での抗争の後、武田・徳川両家は、境目での小競り合いを除いて暫くの間奇妙な沈黙が続いていく事になる。
だが、遠く畿内では《天下布武》を掲げる織田弾正忠信長を渦の中心とした激動の嵐が吹き荒れているのだ。
そして武田家も信長が作り出す渦の中に次第に巻き込まれていく事になる。
読んで頂いて有り難う御座いました。これで《元亀2年の三河討入》は終了しました。次回は足利義昭に仕える武田信虎が、勝頼達に絡んでくる話の予定です。長文になると思いますが是非読んで頂ければ幸いです。