拾壱:元亀争乱(肆)〜三遠転戦〜
今回、武田家は矛先を西の遠江・三河に向けて動きます。武田・徳川の直接対決の第1ラウンドと成ります。相変わらずの乱文ですが読んで頂ければ嬉しく思います。
草萌ゆる早春の季節を迎え、山々の八重桜等も未だ固いながらも小さな蕾をちらほら付け始めている。
しかしながら、戦乱の真っ直中に身を置かざるを得ない民衆達には、早春の訪れを穏やかに眺める事さえも赦されない。
人々が必死に命を存えようと足掻く姿は、季節の変わり目等よりも余程眼に入る此の時代の日常の光景なのである。
周辺の国々の草刈場と成っている亡国の旧領で在れば、尚更眼に付く正に日常茶飯時なのだ。
其れは数年前まで《東海一の弓取り》《駿遠三の大守》と栄華を誇った今川家の旧領も例外では無かった。
駿河国の東の国境が黄瀬川為らば、西側の国境は遠江との間を隔てる大井川である。
駿府(駿河府中)から東海道を西上すると、島田郷に於いて大井川の東の川岸にぶつかる。此の島田郷は古より栄える大河の渡河点であった。
また、此の島田郷は刀鍛冶が多く居住しており、良質な刀剣や槍等が生産されていた。
しかし、其の島田郷一面を濛々と立ち上ぼる黒煙が覆い尽くし、人々は襲いかかる軍勢から身や財産を守る為に、郷の外に広がる湿地帯を潜り抜けて脱出していく。
だが一部の者達は脱出さえ叶わずに郷の中に取り残され、僅かでも安全そうな場所に身を隠すべく必死に逃げ惑っていた。
「ぅおりゃぁ!」
「ぐははぁ!死ねやぁ!」
血に酔って興奮した足軽達は、逃げ惑う民衆を追い掛けて斬り付け、串刺しにして殺していく。
一部の者は未だ燃えていない家に上がり込み、金品を略奪した上に隠れていた女子供を連れ出して見境無しに犯した後、担ぎ上げたり脅したりして連行していく。
逃げる事を諦めた人々の虚ろな瞳には、《三つ葉葵》…十数年前迄は今川家の傘下にいた徳川家の旗指物が翻っていた。
時に元亀2年(1571年)2月朔日の事である。
「善いか!貴様等は今川家が滅びた際に、徳川家では無く武田如きを選んだ故に、此の様な仕打ちを受けるのだ!怨む為らば貴様等を守る事が出来なんだ信玄坊主や諏訪の小倅を怨むが良いわ!」
郷の開けた場所に設けられた本陣に於いて、此の軍勢を率いる大将である徳川家旗本先手役の1人・柴田七九郎康忠が連行された民衆に怒鳴り付けている。
康忠達は彼等を人買いに売り捌こうと考えているのだ。
「柴田殿…。我等が殿(家康)に命じられておるのは《大物見》(威力偵察)と《焼き働き》のみの筈。此の様な人攫いの如き所業は余りに惨いのでは御座らぬか?其れに我等は千に満たぬ小勢、此処は武田勢が駆け付ける前に御控え成される方が宜しかろう…」
康忠達の暴虐無尽な振る舞いに、此の軍勢の軍監を務める鳥居四郎左衛門忠広が苦言を呈するが、康忠は逆に忠広に己の持論を大声で力説する。
「何を申すか四郎左!我等三河譜代は坊主上がりの義元如きに永きに渡って虐げられておったのだぞ!殿も駿府に囚われの身に為られ、我等は今川の陪臣、正に道具同然の扱いだったのだ!今川が滅びた今こそ積年の恨みを晴らして何が悪いのだ!其れに島田の鍛冶師が鍛えた槍刀が、武田すれに渡るのを防がねば為らんからな!」
そう言って叫ぶ康忠を、忠広は再び制止しようとしたが、其れよりも先に慌てふためいた若武者が本陣に駆け込んで来た。
「し…、柴田様、鳥居様、た…大変で御座いまする!あ、赤い具足が…赤い軍勢が艮の方から迫って参り申した!旗指物は…《黒地に白の桔梗》で御座いまする!其の人数、優に千を越えておりまする!」
「赤い軍勢…黒地に白桔梗…、よもや《山県の赤備え》がこちらに向かっておるのか!然も、儂等よりも多いと申すのか…」
若武者の報告を聞いた刹那、2人の血の気が見る見る消え失せて浮き足だっていく。
そして其の動揺は、徳川勢の本陣から宛ら水面に波紋が広がる様に急速に拡大していった。
前日迄、旧今川館を拡張する形で普請中の駿府城に於いて留守居を務めていた山県昌景は、己の直属の《赤備え》のみを率いて、此の日…2月朔日の未明を以て田中城に向けて出陣した。
田中城に入城後、南伊奈・駿河各地に点在している己の《相備衆》(甲斐以外の寄子)や、駿河から加わる寄騎の軍勢を合流させる手筈なのだ。
しかし夜が明け切り田中城が近付くに従い、南西の方角に黒煙が立ち上ぼり始めた。次第に煙量は増え、避難出来た郷の住人達が微高地に沿って続々と此方へ向かって来たのだ。
「殿(昌景)、どうやら徳川勢の大物見(威力偵察隊)が大井川を渡り、島田郷にて焼き働きを致しておると見申した。敵勢は恐らく数百という程度で御座る!」
煙を視認したと同時に物見に出していた昌景の直臣の志村又右衛門光家からの報告を受けた昌景は、前方の燃え盛る島田郷を睨み付けながら采配を握り締めた。
小男ながらも威風堂々とした昌景が、馬上から宛ら雷霆の様な大声で号令を発する。
「《赤備え》を纏いし武田家最強を誇る我が精鋭達よ!眼前の郷で焼き働きを致しておる恥知らず共を成敗致す!者共、掛かれぃ!」
昌景が采配を振り下ろすと、配下の《赤備え》が周囲を圧する様な鯨波を上げて、島田郷に向かって動き始めた。
其の雄叫びに驚いた避難民達は、微高地から態と湿地に降りて瞬く間に山県勢の進撃路が形作られていく。
山県勢は采配を口に銜えて自ら騎馬で突撃する昌景を先頭に、鮮血が滴る穂先の様に島田郷の徳川勢に押し寄せていく。
其れは正に昌景の軍略の師である武田法性院信玄が本陣が掲げる孫子の旗印の一節、《侵掠為る事、火の如し》を体現為るかの様であった。
柴田康忠と鳥居忠広が率いた徳川勢は、《赤備え》の山県勢の猛攻に対して、淡雪が春の陽射で溶ける様に瞬時に粉砕された。
康忠と忠広は命冥加を永らえて、どうにか大井川を渡り切る事が出来た。
しかしながら柴田勢の大半は、大身槍や長刀等の打物を携えた騎馬武者から《乗り切り》を掛けられ、追い付いた足軽達に打ち取られた。
大井川は柴田勢の血に染められ、川を渡り切り再び遠江の地を踏んだ者は、当初の1割にも満たなかったのだった。
此の島田郷での小競り合いから数日の後、徳川家の本城・浜松城に、遠江の秋葉山権現堂別当の叶坊光播が訪れた。
光播は昨年8月には、越後春日山城の上杉輝虎の元に徳川方の使者として赴き、徳川・上杉両家の同盟締結に尽力している。
其の光播に、武田家陣代・武田左京大夫勝頼から徳川家当主・徳川三河守家康宛の書状が届けられ、光播は急ぎ浜松を訪れたのだ。
しかし此の時期、家康は京に上洛中であり、徳川家と豪商の茶屋四郎次郎邸に滞在していた。
同盟者・織田信長の口添えにより、去る1月5日に従五位上、11日には侍従に昇進しており、答礼を兼ねて上洛していたのだ。
但し家康は柴田勢の敗報が伝わった時点で既に京の茶屋邸を出立して急いで帰国の途に着いており、家康が武田からの書状を受け取ったのは、昨年迄居城としていた三河岡崎城に入ってからであった。
「ええぃ!ふざけた事を綴ってきおって…、信玄坊主の小倅如きが何を吐かすかっ!」
書状を読んだ家康は怒りの余りに勝頼からの書状を破り捨てて畳の上に投げ付けた。
「殿…、武田からの書付には何と書かれておったので御座いまするか?」
直ぐ側に座していた平岩七之助親吉が質問して来た。
親吉は幼少時から小姓として家康に仕えていて、現在は昨年元服した嫡男・信康の傅役を務めている。家康にとっては気心が知れる相手の1人である。
「勝頼の奴め、武田の過去の所業を棚に上げて、島田郷での焼き働きを責めてきおった!だけなら未だしも《其の件を以て徳川の非を鳴らし三遠を征伐する》旨を公方(足利義昭)様のみならず御上(朝廷)に上奏する等と吐かして来おった!端から遠江を窺う腹積もりの分際で、貴奴は何様のつもりじゃ!」
「落ち着かれて下され。武田が上奏致した処で、此の様な事は罷り間違えても御裁可は下りますまい。所詮は上奏した、という体裁を整えたいだけで御座いましょう…」
憤慨する家康に対して、石川与七郎数正が宥めに掛かる。
家康が今川家の人質だった頃からの腹心は、一昨年から《西三河衆旗頭》に就いて信康の後見役として岡崎城に入っていたのだ。
数正の指摘を尤もだ、と思い直して、家康は幾分落ち着きを取り戻して来た。とは言え、未だに冷静とは程遠い家康は、立った侭で数正に質問する。
「はっ!其の程度は判っておるわ!問題は公方様から御内書を貰えば事は足りる筈の処を、態々(わざわざ)《上奏》等という迂遠な手段に訴える貴奴の底意じゃ!数正は如何に思うか?忌憚無く述べてみぃ!」
「ふむ…。武田の縁戚である三条家は一度断絶致し、現当主の実綱殿は未だ齢十歳の年若故に役に立ちますまい。恐らくは此れを機会に朝廷や他の公家衆との繋ぎを造る腹積もり、かと思案致し申した」
数正の回答に一応納得した家康は、やっと上座に座ると指示を下し始める。
「ふむ…。そんな処で在ろうな…。幕府の実権は信長殿が握っておる。今の公方様は言わば傀儡と同じよ。諏訪の小倅も今以上の官位を望む為らば、懇意の公家衆を新たに作らねば為らぬだろうからな…。直ちに信長殿に遣いを放って、武田の上奏なぞ葬り去ってくれようぞ!」
「はっ、殿の書状が準備出来次第、織田に遣いを送りまする」
数正の返答に満足しながら、家康は武田家の遠江侵攻への備えについて考えを述べる。
「何方にせよ、早晩武田勢が大井川を渡って来る事は間違い有るまい。旗本先手役、東西の両三河衆には浜松に駆け付けるべく申せ。其れから遠江衆には各持ち城にて籠城の支度をさせよ。姉川の戦で見苦しい動きを見せた遠江衆には、此度こそは死物狂いで働いて貰おうか…」
家康がそう言いながら脇息に身体を預けて、数正や親吉との会話の傍らで思索を巡らせる。
暫く経つと、部屋の外から家康に呼び掛ける声が聞こえてきた。
「殿、夜分申し訳御座いませぬ。火急の件が起き申したので御報せに参りました…」
「うむ、正成か。此処には数正と親吉しか居らぬ。構わぬ故近う寄れ」
そう呼び掛けられて、襖を開けて1人の武将が入って来た。徳川家の諜報機関《伊賀同心》を束ねている服部半蔵正成である。
正成は忍者では無いが、父・保長から受け継いだ伊賀忍者達を統率する《上忍》である。伊賀より呼び寄せた数十名の伊賀忍者を率いており、現在は家康の命で更に増強に務めていた。
また《鬼半蔵》と呼ばれる槍の名手でもあり、同僚の《槍半蔵》渡辺半蔵守綱と並び称されているのだ。
「失礼致しまする。与七郎(数正)殿、七之助(親吉)殿も御聞き下され。武田家の重臣の秋山伯耆(虎繁)が手勢、美濃恵那郡より国境を越えて奥三河の田峯城に現れ申した」
「な、何だとっ…!東美濃には遠山家への後詰に《山家三方衆》を始め、奥三河の国衆を送り込んだ筈だ!上洛の際も信長殿が《明智十兵衛(光秀)を遠山の後詰に遣わす》と言っておったぞ!其れが何故奥三河に現れるのだ!」
家康は思わず脇息を倒す勢いで大声を張り上げる。
其れに対して、正成は飽く迄も冷めた口調を崩さずに返答する。
「其れは、田峯城主・菅沼新三郎(定忠)が武田に返り忠致して秋山を迎え入れた故に御座いまする」
「ばっ、莫迦なっ!」
家康はそう言った侭絶句してしまった。数正や親吉も同様であった。既に東美濃から信濃へ戻ったと思っていた秋山勢の奥三河出現は、家康に取って正に《青天の霹靂》だったのだ…。
元来、東美濃には鎌倉以来遠山家が勢力を保っていた。岩村城に拠る岩村遠山家が惣領として、明照・明知・飯狭間・串原・安木・苗木の遠山分家が《遠山七頭》と呼ばれる集団を形成していた。
特に岩村遠山家と有力な分家の苗木遠山・明知遠山の両家は《三遠山》と呼ばれており、東美濃一帯に大きな影響力を誇っていた。
遠山七頭は当初は美濃を制していた土岐家(滅亡後には斎藤家)に対抗する意味で、甲斐信濃の武田家の影響下に入る一方、尾張の織田家・三河の松平家とも友好状態を保っていた。
永禄8年(1565年)の武田・織田両家の同盟の際には、岩村遠山家が仲介を行っている。
更には織田信長は、妹が嫁いでいた苗木遠山家の遠山駿河守景廉(苗木勘太郎)の娘…己の姪・をりゑを養女に貰い受けた上で、武田勝頼に嫁がせているのだ。
(をりゑの方は2年後に信勝を産んで病死している)
しかし信長が岐阜城に入城した永禄10年(1567年)頃から、東美濃にも織田家の影響力が増大していく。
岩村遠山家の遠山大和守景任は、正室として信長の叔母にあたる於艶の方を貰い受けており、元々親織田派だった苗木・明知の両遠山家と協同歩調を取り始めたのだ。
更には東美濃と接している奥三河設楽郡に勢力を持つ《山家三方衆》との連携も模索し始めた。
《山家三方衆》は田峯城の菅沼宗家・長篠城の菅沼分家・作手城の奥平家の3家が同格で連携しており、今川家や松平家の強い影響を受けていたが、永禄7年(1564年)頃には既に徳川家の傘下に加わっていた。
遠山家は山家三方衆や織田・徳川両家の後盾も有って、武田領の信濃木曾地方(筑摩郡)や伊奈郡にも触手を伸ばし始めたのだった。
更に、苗木の遠山景廉が戦傷が悪化して死亡すると、織田家の仲裁に因って苗木城主は飯狭間城主の遠山右衛門佐友勝が就く事になった。
(飯狭間城は嫡男の久兵衛友忠に譲ったが、友忠も明照城主となる。飯狭間城主は其の嫡男・友信が継ぎ右衛門佐を名乗っている)
急速な東美濃での影響力の低下を憂いた武田家陣代・武田左京大夫勝頼は、譜代家老衆の1人で伊奈飯田城代である秋山伯耆守虎繁に対して、東美濃への出兵を命じた。
虎繁は自ら伊奈衆と其の寄騎2千を率いて、元亀元年12月に飯田城を出撃している。
秋山勢は伊奈と三河を結ぶ《三州道》を南下して東美濃に侵入、遠山勢の機先を制して恵那郡上村に布陣した。
対する遠山勢は岩村城の遠山景任を大将に、明照城の遠山友忠、飯狭間城の遠山友信、明知城の遠山相模守景行・景玄親子、串原城の遠山右馬介景雄等《遠山七頭》を中心に軍勢を掻き集めた。
(苗木城主の遠山友勝は病床の為に家臣の吉村源蔵が参戦している)
《山家三人衆》も田峯菅沼・長篠菅沼・奥平の3家の他、分家の野田菅沼家からも軍勢が出陣した。
更には徳川家康の命を受けた鈴木・設楽・戸田等の奥三河や東三河の国衆も出兵に応じた。
遠山勢・奥三河勢を合わせて総勢5千の軍勢を集結させたのだ。
秋山・遠山両勢は、元亀元年(1570年)の年の瀬が押し迫った12月29日に矢作川の上流にあたる上村の地で激突した。
遠山勢は兵力の多寡に物を言わせて、雪を踏み分けつつ秋山勢に総掛かりで攻め寄せていく。
だが、奥三河勢の一部分…特に田峯城の軍勢は攻め寄せずに距離を保っている。
戦意の差を見極めた虎繁は、2千の寡勢である秋山勢を敢えて5段に分けた上で、伊奈衆が正面で遠山勢を引き付け、虎繁自ら手勢を率いて側面や背後から遠山勢を襲ったのだ。
結果として混乱した奥三河勢は不戦を貫いた田峯城の軍勢と共に戦場を離脱、東美濃勢のみとなった遠山勢は惨敗を喫したのだ。
此の戦いで遠山景任は槍傷を負ってしまい、結果として此の傷が原因で元亀3年に死去する事に為る。
更には明知城の遠山景行・景玄、苗木家臣の吉村源蔵を始めとして、数百の戦死者を出す大敗北を喫したのだった。
遠山勢敗北の報を受けた岐阜城の織田信長は、遠山家への後詰として明智十兵衛光秀を大将とする軍勢を派遣した。
年明けと共に岩村城を包囲した上で城攻めに入っていた秋山勢は、明智勢の進軍を確認すると包囲を解いて山田子村へと移動した。
そして此の地に於いて3日間に渡る戦闘を繰り広げたのだ。
光秀の巧緻を極めた采配に、次第に不利な状況に追い込まれるのを悟った虎繁は、東美濃からの撤退を計った。
しかしながら東美濃から直接飯田城には戻らず、敢えて南方に転進して城主が戦死して不在の明知城を攻めたのだ。
明知城では周辺の幾つかの砦を落としたのみで更に東南に進み、濃三国境を越え奥三河の設楽郡に侵入している。
そして秋山勢が奥三河に侵入すると、田峯城衆の菅沼新三郎定忠が武田家に寝返り、秋山勢を田峯城に迎え入れたのだった。
「新三郎殿。上村の戦場のみ為らず、北の武節城迄迎えを頂く等の重ね重ねの御厚情、此の虎繁感謝致しまするぞ」
田峯城の本曲輪に入った虎繁は、此の城の城主で菅沼宗家の当主でもある、菅沼新三郎定忠に礼を述べる。
菅沼定忠は弘治2年(1556年)に父である大膳亮定継を一族間の内訌で幼くして失い、永禄4年(1561年)今川氏真に所領安堵される形で、菅沼宗家の当主と成った。
(此の時点では小法師丸という幼名で安堵されている)
だが若年故に、叔父で親徳川派の弥三右衛門定直を始めとした重臣達が、後見役として実権を握る形で徳川家に帰順していた。
成人した定忠は此の状況を打破する為に、親武田派の家老である城所道寿入道(六左衛門信景)を重用した。
そして、彼を窓口にして武田家に鞍替えを謀ったのだった。
「はっ!菅沼宗家の棟梁として、今後は武田の御家の為に忠勤に励む所存で御座る!伯耆守(虎繁)様には今後共御見知り置きを賜ります様に御願い致しまする!」
己の養子である左衛門昌詮(金丸虎義の3男・土屋昌続の次弟にあたる)よりも年若な定忠を好ましく思いながら、虎繁は目の前の定忠と道寿に話し掛ける。
「新三郎(定忠)殿にも道寿殿にも御足労を御掛け致した。今後、轡を並べる者同士、宜しく御願い致す。御二方には先ずは長篠・野田等の菅沼分家や奥平、鈴木、戸田等の奥三河の国衆に対する手入れ(調略)を担って頂く事に為り申す」
『ははっ!』
2人の返事に首肯した虎繁は、次の攻撃の標的を示唆する。
「此度の戦は飽く迄も遠山勢相手の算段で御座った。其処で某は一度飯田城に戻り、改めて兵を集めて戻って参りまする。其の刻に到って長篠城と足助の真弓山城の何れか従わぬ方に攻め掛かる所存で御座る!」
「成程、承知致し申した。長篠の菅沼家は我らの同胞、先ずは此方より遣いを放つ事と致しましょうぞ!」
道寿の言葉を聞いた虎繁は、彼等の誘降が早い内に成功する様に自らも助力を約したのだった。
秋山虎繁が田峯城から飯田城に一旦退いた頃、駿河と遠江の国境…大井川を、武田左京大夫勝頼が率いる武田軍本備えが渡り、遠江への第一歩を踏み締めていた。
先陣を務める山県昌景勢、二の陣の馬場美濃守信春勢、三の陣の内藤修理亮昌秀勢は、既に夫々(それぞれ)が昨日迄に渡河を完了していた。
山県勢は田中城に当初の予定通りに軍勢を集めると、島田郷から大井川を渡河した。
そして金谷・各和・飯田・一宮・天方等の東遠江の小城を片端に落としながら、既に帰順を表明した北遠江の国衆・天野宮内右衛門尉藤秀の居城・犬居城を目指して進撃して行く。
其の際に、東海道を押える東遠江の要衝で石川彦五郎家成が守る掛川城は、攻めあぐねるとの予測から城周囲での苅田狼藉のみとして、城攻めは行っていない。
馬場勢は大井川をより下流で渡河すると、吉田の地の能満寺山に築かれていた小山城から徳川勢を駆逐した。
其の後は小山城の改修を行うと共に、小山城の南方に龍眼山城・滝堺城を築城して大井川下流域を押えている。
そして内藤勢と其の後に続く本備えは、遠江に入ると小山城で兵力を整えた上で、3月に入ってから西に向かって進撃した。
最初の目標は裏街道にあたる《浜街道》を押さえる東遠江のもう1つの要衝・高天神城であった。
高天神城は小笠山塊から東に張り出した鶴翁山を中心に築かれた山城である。
鶴翁山は小高い山だが周囲を峻険な崖と深い谷で囲まれており、高天神城は其の地勢を活かした小規模ながらも堅固な城であった。
城主の小笠原与八郎氏助は、今川家臣で2年前に死去した父・美作守氏興の嫡男である。
今川家が武田家に攻められ、当主の今川氏真が掛川城に籠城した際に徳川家に鞍替えした。
氏興の死後は氏助が其の侭城主を務める一方で、遠江衆の有力な一翼として徳川家の主要な戦いに参加している。
但し、前年の近江姉川の戦いに於いて、秘密裏に浅井・朝倉方に参陣していた武藤昌幸の挑発と計略に因って、他の遠江衆と共に散々に打ち破られて大打撃を蒙っている。
其の事に憤慨した家康によって、遠江衆は三河譜代の家臣達の寄子として扱わる事に成り、遠江衆の間に大きな不満と成って燻っていた。
氏助自身も、旗本先手役の一人・大須賀五郎左衛門尉康高の寄騎とされ、今回の武田家との戦いを失地回復の機会と意気込んでいたのだ。
「むう…。高天神城とは聞きしに優る堅城だな。よもや此処迄とは思いもせなんだな…」
城の東側の総勢山に設けられた高天神城攻めの本陣に於いて、此の軍勢の総大将である武田勝頼は思わず嘆息を漏らす。
勝頼の視界には、川を挟んだ対岸の夕闇に包まれた高天神城の影が浮かんでいる。
「某が采配を預かりながら誠に申し訳御座らぬ。ですが城主の小笠原与八郎(氏助)の采配、敵ながら誠に見事で御座るぞ!」
此の日の攻撃の采配を大手口の前線で揮っていた内藤昌秀が、勝頼に対して謝罪しながらも敵勢の指揮を褒め称える。
「うむ、確かにな。しかし此の侭手を拱いていては、遠江の国衆達が武田を見限り兼ねぬ。如何致すべきで御座ろうか…?」
今回の遠江討入にも参陣している一条右衛門大夫信龍がそう述べると、本陣に参集していた内藤勢と本備え傘下の侍大将達が議論を重ねる。だが妙案は却々(なかなか)浮かんでは来ない。
周囲も次第に暗闇に支配され、闇夜越しに篝火で浮かび上がる高天神城を眺めていた勝頼が床几に戻って来ると、末席に近い処に座していた小柄な武将が話し掛けてくる。
兜の下の窪んだ眼は眼光鋭く、若いながらも物怖じせずに居並ぶ武将達を見渡している。まるで相手の心の奥底迄も全て見抜くような目付きであった。
今回の討入前に、遠江の国衆の切り崩し工作を担当した武藤喜兵衛昌幸である。
「勝頼様、そして皆様方。此処は敢えて高天神に拘泥致さずにいっそ放っておくべきと考えまする」
「な、何を申すのだ!」
「其れこそ、遠江の者達に甘く見られるだろうが!」
昌幸の提案を聞いて、居並ぶ諸将が騒然となった。だが昌幸の口調には全く揺らぎは見受けられない。
「此処で高天神城を無理に力攻め致しては、長い刻を費やす事に為る上、大きな被害が出るは必定で御座る。其処迄して力攻め致す必要は、今は御座いませぬ。孰れ刻が至らば熟柿が落ちる如く楽に落とせましょう…」
「成程…、遠江衆を今以上に切り崩してから改めて高天神を攻める訳か…」
昌幸の提案の意図に得心がいった勝頼が、納得の表情を浮かべる。
「喜兵衛殿。其れ為らば、態々(わざわざ)高天神城迄出向いて1日で退く必要は全く有るまい。寧ろ、遠江の国衆が武田を軽んじるのでは無かろうか?」
自信有りげな昌幸に対して、本備えとして参陣した土屋右衛門尉昌続が疑問を口にする。昌続と昌幸は、共に幼少の頃より奥近習として《信玄の薫陶》を受けてきた同士なのだ。
「平八郎殿。懸念には及ばぬよ。高天神城の守りを固めれば、其の分周りが薄く成る。そして、高天神城の中も其れだけ手を入れ易く成る故に、何方に転んだとて損は致さぬよ」
「源五郎よ。其処迄言う為らば、次に寄せるべきは何処と考えるか言わねば為るまい。されど余程の妙手で無くば勝頼様も諸将方も得心が行かれぬぞ!」
昌続に説明していた昌幸に対して、勝頼の軍師で昌幸の実父である真田一徳斎幸隆(幸綱)が質問を投げ掛けた。其の口調は親子と言うよりまるで師弟の様である。
「勿論で御座る。されど恐らくは父上が考える地と寸分の違いも御座いますまい…」
「ふんっ!言いよるわい!だが其れでは他の方々にとっては応えておらぬも同然ぞ!」
幸綱は不敵な言い回しをする息子を窘める。其処に勝頼が、2人に対して質問を為る形で助け船を出した。
「うむ…。為らば一徳斎、そして昌幸よ。高天神の城攻めを止めた後、お主等は何処を攻めるべきと考えるのだ?」
「はっ!拙者の考えでは其れは三河足助の地、真弓山に向かうが上策と心得まする!我が父、一徳斎も同じ考えと心得まする!」
昌幸の自信に満ちた物言いに、勝頼は思わず幸綱の方向を見やったが、幸綱は苦笑しながらも昌幸の策に頷いてみせる。
「成程!確かに奥三河の西側、此の遠江からは最も遠い城だが確かに妙案だな!某も喜兵衛の策に同意致そう!」
昌秀はパンッと膝を叩いて昌幸の策に賛意を示したが、理解し得た幾人かを除くと殆どの武将が訳が判らず騒然としている。
「うむ…。大丈夫で在ろうか?詰まりは態と奥三河に攻め入る事で、三河の軍勢を釘付けに致して遠江に後詰に回させぬ策、と見たが…」
勝頼も朧気ながらも理解出来たが、昌幸にとっては其の解答は未だ正鵠を射てはいなかった。
「まぁ…、未だ及第には程遠いですが、掻い摘まんで申せば其の様な処で御座る。加えて申さば、足助の地には飯田より続く《三州道》(三州街道)が貫いており申す。そして其の先には、徳川の元の本城である岡崎が御座る。足助が武田の城と成らば、最早徳川には遠江へ大規模な後詰を送る事は適いますまい…」
昌幸の補足説明を聞いた諸将は成程とばかりに頷いたが、未だに全面的な納得がいかない勝頼は質問をぶつける。
「其れ程に重要な城ならば、徳川勢は必死に応戦して来ようし、一度我等が落としても奪い返しに来るで在ろう…。足助に兵を進めては、武田の軍略の幅を狭める事に為りはすまいか?」
そんな勝頼に対して、昌秀が心配を払拭する様に説明を加える。勿論、勝頼だけでは無く周りの諸将にも言い聞かせる事で、半ば言いっ放しの昌幸の策を補足しているのだ。
「勝頼様の御心配は御尤もですが、此度は余り御懸念には及ばぬと心得まする」
「うん?昌秀よ、其れは何故なのだ?」
「三州道から足助に兵を入れた場合、足助が奥三河の西側での境目と相成りまする。其処から武田と徳川の境目に沿って、軍勢を一気に南下させ申す。既に奥三河の設楽郡に居を構える国衆《山家三方衆》には秋山伯耆(虎繁)殿、山県三郎兵衛(昌景)殿が手入れを進めており申す。彼等にも参陣を命じた上で吉田・ニ連木・野田等の東三河の城を攻めまする」
昌秀の説明を横から聞いていた諸将達からも、信龍や昌続を始めとして次第に賛意を示す者達が増えていく。
「成程!遠江の小山・金谷・犬居等の城を確保致した上で、三河の城を攻め立てていけば、遠江・三河に散らばる国衆に必ずや動揺が走りますな!」
「左様で御座るな!遠・三の国衆達に《武田左京(勝頼)恐るべし》と植え付け得れば、徳川との今後の争いに大いに役立ちましょうぞ!」
諸将の意見が固まり始めたのを見届けた勝頼は、床几から立ち上がると其の場の全員を見渡しながら方針の変更を決断した。
「よし!為らば今宵中に高天神より陣払い致すぞ!先ずは伊奈に戻り飯田城にて軍勢を整え直す!馬場勢・山県勢・秋山勢にも夫々(それぞれ)遣いを走らせ、留守居役を残して飯田に向かわせよ!再び軍勢を整え次第、飯田から三州道に入り足助に雪崩れ込むぞ!善いな!」
『応っ!』
勝頼の檄に対して、諸将は雄叫びを上げながら立ち上がると、陣払いを行うべく一斉に動き出したのだった。
勝頼率いる武田軍本陣は、翌3日未明には高天神城の包囲を解き北上を開始した。
同時に、小山城周辺の馬場信春勢と北遠江の山県昌景勢も、各城に守備兵を入れた後に《秋葉道》を信濃目指して北上していく。
だが徳川家康を始めとした徳川家首脳部は、武田軍の一連の動きを《遠江の一部を蚕食したのみで撤退を開始した》と誤って判断したのだ。
武田軍は遠江から信濃に引き揚げる際、《三つ者》や《透破》と呼ばれる忍者集団を放っている。
彼等は遠江の各地に《3月1日に相模北条家が駿河に再侵攻して、駿東郡北部の要衝である深沢城を奪還した》との情報を流したのだ。
但し実際には、春日弾正忠虎綱・穴山左衛門大夫信君を中心に、駿豆国境の黄瀬川沿いに防衛線を構築させる事で、五分以上の戦いを展開しており、駒井右京進昌直が籠る深沢城も健在であった。
しかしながら徳川家は、此の偽情報に惑わされる形で、今回の戦いで武田方に占領された遠江や奥三河の各城の奪還に向けての準備を始めた。
更には同盟を結ぶ尾張を後背に抱える西三河の軍勢にも、浜松に駆け付けるべく陣触れを発していたのだ。
其の結果、徳川勢は武田との戦いに於いて、完全に後手を踏み続ける羽目に陥ったのだ…。
信濃飯田城に入った武田勝頼は、新たに召集した者も含めて軍勢の再編を急がせると共に、飯田城の北東の天龍川沿いに在る小城・大島城の大改修を命じている。
更には3月10日に死去した叔父(信虎5男)の松尾民部少輔信是の遺領を、其の弟(信虎7男)兵庫介信実の嫡男で齢8歳の新十郎(後の信俊)が婿養子に入る形で継ぎ、信実が一括して差配為る様に了承している。
そして4月15日、2万以上の軍勢を勝頼直率の本備えと馬場勢・山県勢・内藤勢・秋山勢の5つの軍勢に再編を完了した武田軍は、満を持して飯田城を出陣して奥三河に侵入したのだ。
此の内、山県昌景勢は三河に入ると武節から南下、《山家三方衆》の支配する設楽郡に入った。
此の時点迄に、田峯城の菅沼定忠・城所道寿や同調した長篠城の家老・菅沼伊豆守満直の説得と山県勢の侵攻が功を奏して、長篠菅沼家当主の新九郎正貞や作手城の奥平美作守定能・九八郎定昌親子等が武田家に寝返った。
此れにより、山家三方衆は3家共に武田の傘下に加わったのだ。
(奥平定昌は後に武田家から通字を授かって信昌と改名している)
山家三方衆が《三河先方衆》の一員として山県勢に加わると、山県勢は彼等を先導役として設楽ヶ原から南へと侵攻していく。
一方、秋山勢を先陣とした武田軍本隊は、三州道を其の侭西進して、4月19日には足助の地に雪崩込んだ。
足助の真弓山城主の鈴木越後守重直と嫡男の喜三郎信重は、昨年末の東美濃恵那郡の上村での合戦に参加していたが、秋山勢と刃を交える事無く真弓山城に撤退していたのだ。
2万近い武田の大軍勢の襲来に驚いた鈴木親子だったが、直ちに城に籠って抵抗を試みた。
しかしながら、衆寡敵せず4日後には岡崎へ脱出し《足助七城》と呼ばれる周辺の城を含めて、鈴木家の所領は悉く武田の掌中に帰した。
此の武田軍の三河への攻撃は、直接の相手である徳川家のみ為らず、後盾とも言える同盟者の織田家をも刺激した。
織田・武田間には未だに盟約が存在しているが、先の東美濃侵入とも考え併せて《武田との開戦も已む無し》との考えが固まりつつあった。
事実、後手を踏んだ徳川家康からは、岐阜城に向けて救援を求める使者が多く放たれ、其れを受けた織田弾正忠信長は《岡崎表での決戦》を覚悟して陣触れを発していた。
しかし、此の時には《武田対織田・徳川》の決戦は回避された。
足助の武田軍が岡崎では無く東三河を目指して南下を始め、岡崎城…そして其の先の尾張から当面の危機が回避されたからである。
織田の大軍勢は三河には現れず、翌5月に伊勢長島の一向一揆討伐に向かう事になる。
徳川家は今暫くの間は、独力で武田軍と戦う羽目に陥ったのだった。
勝頼は足助の守将として、山県勢相備え(寄騎)で信濃先方衆の下条伊豆守信氏を置くと、秋山勢を先陣に馬場勢・内藤勢が本備えの前後を固める形で南下を開始した。
徳川方の浅賀井・八桑・大沼・田代等の諸砦は其の殆どは自落してしまい、抵抗しても半日も保たなかった。
武田軍は次第に南下して、28日には奥平家の本拠地である作手の地に到達している。
其の頃、山家三方衆を始めとした三河先方衆を先陣とした山県勢は、菅沼家の分家で説得に応じなかった菅沼新八郎定盈が籠る大野田城に迫っていた。
定盈は己の従兄弟で西川城主の西郷孫九郎吉員や、吉員の甥で月ヶ谷城主の西郷右京進義勝、義叔父で川路城主の設楽小四郎貞通と共に徳川方に留まっていた。
彼等は協同歩調を取り、設楽ヶ原の南側の竹広の地に於いて、設楽郡に残っていた秋山虎繁配下の小軍勢と激突して、此れを山中に押し返している。
しかしながら、菅沼勢の優位は長くは続かなかった。
長篠城を進発した山県勢が竹広に至ると、《赤備え》を先頭にして菅沼勢へ襲いかかった。其の赤い津波の様な攻撃に、菅沼勢は正に瞬時に粉砕された。
西郷義勝は戦死し、定盈・吉員・貞通は漸く夫々の居城に逃げ帰ったのだった。
昌景は定盈の本城である野田城と、直ぐ側に在り定盈が一時本拠地としている大野田城へと向かって進撃していく。
だが同族同士が戦う事を嫌がった菅沼定忠が、敢えて遠回りに案内をしてしまい、其の隙を衝いて定盈と家臣達は半ば悠然と城から脱出して、西郷吉員の西川城へと逃亡したのだった。
直臣の1人である名取又左衛門道忠から、定忠の事を知らされた昌景は涼しい顔で其の事を赦免した。
道忠や志村光家、そして昌景の嫡男である甚太郎昌次は、其の処置に怪訝な表情を浮かべた。
彼等を代表して昌景の娘婿の相木市兵衛昌朝が意見を述べる。昌朝は田口城主だった相木能登守昌朝(常喜入道)の嫡男で、父と同じ《昌朝》の実名を名乗る人物である。
「義父上、此の侭菅沼新三郎(定忠)の所業を見過ごしておっては、武田家の鼎の軽重を問われる事に成りますまいか?」
しかし昌景は己の息子や直臣達に、少し憂いを帯びた微笑みを浮かべながら応える。
「取り立てて責める事は有るまい。野田城や大野田城は自ら落ちたのだし、彼の者達には吉田城やニ連木城を攻める時に挽回させれば良いからな。其れに…」
「父上…?如何為さいましたか?御加減が悪いのですか?」
口を閉ざした昌景を心配した息子の昌次が声を掛けるが、昌景は頭を振るとポツリと呟く。
「他家の事とはいえ、同族相食む姿など儂は見とうは無い。そんな光景は2度も見せられれば沢山だからな…」
そう言う昌景の脳裏には、天文10年(1541年)に起きた若き武田晴信(後の信玄)と家臣団による父の陸奥守信虎の追放劇、そして永禄8年(1565年)に信玄が嫡男の太郎義信を幽閉する光景が写っていた。
特に後者は昌景自身が信玄に謀反の謀議を密告し、其の結果として己の叔父で兄同然に導いてくれた飯富兵部少輔虎昌を切腹に追い込んでいるのだ。
「父上…。某どもの心配りが至らぬ故に、誠に申し訳御座いませぬ…」
昌景の心情の一端に触れた4人は神妙な顔付きとなり、昌次が消沈して詫びを入れると、昌景は眼を閉じながら話し掛ける。
「いや、此の様な事は戦場で言うべき事では無いな。儂が悪かった。だが…、だからこそ我等が一丸となって、御屋形様(信玄)と勝頼様を御支え致さねば為らぬのだ…」
昌景はそう言うと眼をカッと見開き、鋭い眼光を放ちながら4人に対して檄を飛ばす。
「善いか!勝頼様率いる本陣は、既に作手の地に至って居られる!野田城と大野田城には備えの兵を入れて、直ちに吉田城へ向かうぞ!勝頼様の御手を煩わす事の無き様、我等《赤備え》が魁となって吉田城に攻め寄せるぞ!者共、左様に心得よ!」
『はっ!承知仕り申した!』
檄に応じた彼等は、先ずは野田城と大野田城を接収する為に、夫々の陣所に戻っていく。
そんな彼等を鋭い眼で眺めながら、昌景は己に言い聞かせる様に呟くのだった。
「さて…、田畑が気に掛かる足軽共が浮ついては足元を掬われ兼ねん。此処で徳川三州(家康)に大負け致さば、勝頼様への家督相続が大きく遠退こう…。代替りを心待ちにされておる御屋形様(信玄)の為にも、是が非でも勝ちを齎さねば成らぬな…」
4月29日未明、野田城を出立した山県勢は、東三河の要衝・吉田城を目指して南下を開始した。
また、武田軍本隊も作手から南へ押し出して、山県勢に合流為るべく進軍する。
だが、此れから農繁期を迎える此の時期、昨年から《甲州金による徒士武者の雇用》等を僅かに取り掛かったとは言え、大部分で《兵農未分離》である武田軍には、活動の限界が迫っていたのだ。
一方、吉田城からは城主の酒井左衛門尉忠次が《東三河衆》を率いて出撃して、武田軍を迎撃する為に二連木城に入っていた。
更には後詰として、徳川家康自身が旗本を率いて浜松城から吉田城に進撃して、忠次と入れ違いに吉田城に入城を果たしていたのだ。
元亀2年(1571)初頭から勃発した武田家と徳川家の間の抗争は、当事者達の思惑を孕んで《吉田城》と其の東半里に在る《二連木城》に集約していく。
次回は対徳川戦の後編、山県昌景率いる《赤備え》対酒井忠次率いる《東三河衆》が二連木城周辺で激突する事に成ります。相変わらずの乱文長文ですが、次回も是非とも読んで頂ければ幸いです。