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拾:元亀争乱(参)〜河東討入〜

今回の話は駿河平定戦の最後にあたる駿河深沢城攻めです。前話で沼津に城(三枚橋城)を築きましたし、総大将が《六分の勝》を理想とする信玄ではなく勝頼なので、多少史実と変わった部分が有ります。相変わらずの乱文ですが読んで頂ければ嬉しく思います。

 暦の上では春を迎えたとはいえ、1月初旬は未だに寒空が広がり身も心も寒さを感じる時節である。

(太陽暦では1月下旬にあたる)

 扶桑第一の高さを誇る霊峰富士の南麓の地と言えど例外では無い。

 富士を始めとした数々の峻峰を越えて来た北風が、おろしと成って乾いた強風をもたらすのだ。


 そんな富士南麓の一角に、川の合流点の高台を利用した城が在る。

 其の城で最も高い、二の曲輪に設けられた簡素な物見櫓に、1人の若き武将が年嵩の武将を従えて立っていた。

 彼は川の対岸から城を囲んでいる、万を遥かに越える敵兵を眺めており、其の右手には書状らしき物が握られていた。暫くして、背後の武将に声を掛ける。


「豊前、小田原には既に使番を走らせた筈だ。未だに後詰の軍勢は現れぬのか?」

 声を掛けられた武将…玉縄北条家の家老、間宮豊前守康俊は苦渋の表情を浮かべて応じる。

「はっ、善九郎様。未だに後詰の軍勢は来てはおりますぬ。小田原だけで無く玉縄の殿にも既に遣いは放っておりますが…」

「父上も《玉縄衆》単独では動けまい…。したが、此の深沢が落城致さば小田原に匕首を突き付けられたも同然ぞ。御病身の御本城様(氏康)は兎も角、新九郎(氏政)様は如何様に御考えなのか…」

 若い武将は敵勢が掲げる《武田菱》の旗指物を睨みながら、書状を持った右手を握り締める。

「武田の小童こわっぱも此の様な矢文を寄越しおって…。儂も《地黄八幡》を継ぐ者、信玄坊主為らばいざ知らず、其の小童には負けはせぬわ!」

 そう言って若い武将…深沢城代を務める北条左衛門大夫綱成の嫡男・善九郎康成は攻め寄せる甲斐武田の大軍を今一度睨み付けるのだった。


 時に元亀2年(1571年)1月3日の事である。


 深沢城は駿河国・河東地方の北東端、御厨高原の東隅に位置する。抜川・宮沢川の合流点に築かれた城で、2本の川を天然の堀と成した堅城である。

 また此の城は小田原に通じる《足柄路》や小田原城の東側で相模湾に注ぐ《酒匂川》を抑える戦略上の要衝でもある。


 当初は今川家の持ち城だったが、永禄11年(1568年)末、武田家の駿河侵攻が始めると其の位置の重要性故に北条家が進出・占拠した。

 対する武田家は後継者の四郎勝頼が陣代(当主代行)に就任すると、一度失敗に終わった駿河侵攻を再開、其の中で譜代家老衆の駒井右京進昌直に深沢城攻めを命じた。

 昌直は永禄13年(1570年)1月、甲府から御坂峠・富士吉田・籠坂峠を越えて御殿場に通じる《御坂路》(鎌倉街道)を通って深沢城に侵攻、占拠して改修を始めた。

 しかし4月には北条左衛門大夫綱成・善九郎康成親子を主将とする大軍が攻め寄せ、駒井勢は富士大宮城に敗走していたのだ。


 対する武田軍は5月から河東地方の要衝である興国寺城を包囲、後詰に現れた北条氏政勢と睨み合った。

 8月には伊豆韮山城にも攻め寄せたが、落城させるには到らず、興国寺城も籠城を続けていた。


 此の時点では駿豆国境である黄瀬川・狩野川の西岸に、北側から深沢・葛山・長久保・興国寺の各城が北条方として健在である。

 また、信玄が隠遁し勝頼が陣代に就いた為に、『組みし易し』と見た南関東の北条・越後の上杉・三河遠江の徳川の3家が《武田包囲網》とも呼べる物を形成していた。

 更には武田家の影響下に在った北飛騨の江間・東美濃の遠山等の小勢力も武田家から離叛しつつあったのだ…。


 此等に対して、武田家陣代の左京大夫勝頼は、12月初旬から自ら2万余りの軍勢を率いて河東地方に出陣した。

 軍勢は先ず興国寺城の包囲の輪を狭めると共に、狩野川の西岸の沼津三枚橋の地に突貫工事で大規模な平城を築城したのだ。

 そして其の《三枚橋城》を春日弾正忠虎綱に預けると、北側の深沢城に迫ったのだ。


 勝頼勢は深沢城に到達すると、城を包囲して攻城戦の準備を進めると共に、同行していた金山奉行・土屋藤十郎長安率いる《金山衆》に命じて坑道を掘らせる《掘り崩し》の策を進めた。

 そして陣中で元亀2年の元旦を迎えると、勝頼は右筆ゆうひつを呼び出して、書状を認めて矢文として深沢城内に射込んだのだ。

 勝頼は其の矢文の中で、『父・信玄が長年同陣して北条家を助けてきた恩義』と『武田家の仇敵だった上杉家と手を結んだ今川氏真の不義』、そして『今川家を打倒した武田家の正当性』と『北条・上杉の同盟が機能せぬ故に上杉家が頼りに成らぬ事』を書き綴った内容であった。

 そして最後には『今こそ先年来からの両家の対立を決着させよう。後詰を呼ぶ為に小田原城に遣いを出す為らば、護衛を付けて御送りしよう』と挑発したのだった。


「さて、彼の矢文で釣り出せれば申し分無いのだが…。一徳斎、北条方に何かしら動きは有ったか?」

 矢文を放った3日夜半、深沢城の包囲を続ける武田軍の本陣に於いて、総大将を務める武田家陣代・武田左京大夫勝頼が軍師の真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱)に問い掛ける。

「いえ、矢文は確実に城代の北条善九郎(康成)まで届いておる様ですが、未だに動く気配は御座いませぬ。恐らくは小田原からの後詰と示し合わせる腹積もりかと…」

 幸綱が応じると、勝頼は嘆息しながら床几しょうぎに座り直した。しかし其の眼は笑っており、十分な余裕が感じられる。

「うむ、簡単に釣り出しに応じぬとは、流石は《地黄八幡》の息子と言った処か…。長安、城の掘り崩しには如何程の日数が掛かるのだ?」


 勝頼は城の掘り崩しを統轄している金山奉行・土屋藤十郎長安に質問する。長安は南蛮渡来の技術を以て主導権を得、昨年には甲斐武田家で初めて新設された《金山奉行》職に就任している。


「はっ、恐らくは10日程で本曲輪に到るとは思いまする。しかしながら水の手を断つ迄掘り進めるとなると1ヶ月…いや、其れ以上見込まねば成りませぬ」

「ふむ…、盟約が破談致した徳川の動きを考えたら、其れ程は刻を費やせぬ。東美濃に遣わした秋山虎繁の手勢も、儂等と奥三河で合流致す心積もりだろうからな」

「左様ですな。伯耆(虎繁)殿の手勢に伊那衆を含めても2千程で御座る。余り無理をさせては敵中に孤立致しかねませぬ」

 勝頼に対して、西上野から駆け付けた内藤修理亮昌秀が応じる。彼は越後の上杉謙信の動きが鈍くなった為に、西上野の将兵を率いて河東地方に出陣しているのだ。


 其処に1人の武将が、横から勝頼への異議を唱えた。

「為らば刻を費やす事は控えねばな成らぬ筈。すれば一度総掛かりに攻め寄せるが上策!勝頼殿!此の様な小城、掘り崩しなぞ掛けずとも、郡内の衆が一捻りで落として進ぜよう!此の左兵衛に城攻めの采配を代わって頂こうか!」

 勝頼に対して噛み付いたのは、甲斐郡内の領主・小山田左兵衛尉信茂。信茂は勝頼や長安の策を手緩いと考えていた。

 すると勝頼の事を内心侮蔑している甲斐河内の領主・穴山左衛門大夫信君が、信茂の意見に賛同を表す。

「左様。勝頼殿と違い、左兵衛尉(信茂)殿は元服以来郡内の兵を率いて先陣を務めてきた譜代の勇将。此処は左兵衛尉殿に、素直に采配を御委ね致すのが宜しいのでは無いか?」

 武田の分家当主でもある信君の不遜な発言に、勝頼に近い譜代家老や足軽大将は気色ばんだ。特に近習の土屋惣三昌恒や山本勘蔵信供等は、顔を熟柿の様に真っ赤にして憤怒している。


 しかし当の勝頼は2人の意見を冷静に受け流すと、おもむろに口を開いた。

「お主達の言分は判った。しかし此の度の城攻めは乾坤一擲の大戦では無く、此の直ぐ後には徳川三州(家康)との戦も控えておる。出来得る限り兵を損じたくは無い。其れ故、掘り崩しは此の侭続行致す。其の上で北条善九郎に開城を促すのだ」

「何とっ!勝頼殿は此の左兵衛の考えを愚弄致す所存かっ!事と次第に因っては容赦致さぬぞ!」

 勝頼の予想外の反論に遭い、信茂は憤激して床几を倒しながら勢い良く立ち上がると、勝頼に怒号を浴びせる。

 本陣の中に一瞬騒然とした空気が流れる。しかし、其処に静かだが有無を言わさぬ気迫に満ちた声が信茂を遮る。

「黙るのじゃ!左京(勝頼)様は御屋形様(信玄)の御陣代ぞ!異議を述べるのみ為らばいざ知らず、お主等の物言いこそが左京様を愚弄致しておる。少しは言葉を慎むが良いわ!」

「み…、美濃殿…」

 信茂は己を叱り付けた重臣中の重臣、馬場美濃守信春を呆然と見遣った。其処に勝頼が改めて声を掛ける。


「確かに深沢城は小城ながらも中々の堅城だ。其れ故に開城を促すが、近くの城…南側の葛山城辺りが落城致さば、深沢の城兵に対する十分な脅しと成ろう。信茂、お主には郡内衆を率いて此れを陥して貰おう。陣中に居る旧城主の葛山中務少輔(氏元)を寄騎させる故に手引きをさせるが良かろう。…嫌ならば他の将に任せるが如何致すか?」

 立った侭で勝頼からの《葛山城攻略》の命令を聞いていた信茂は次第に喜色を浮かべる。そして意志を問われると、折角の手柄を立てる機会を逃がさぬとばかりに二つ返事で了解した。

「承知っ!代々、武田家の先陣を承って参った《郡内衆》の実力、勝頼殿に確と納得して頂こう!者共、参るぞ!」

 そう言うと、信茂は小山田家に仕える家臣や寄騎の武将を引き連れて本陣から出て行ったのだった。


「勝頼様、宜しいので御座いますか?小山田様や穴山様の振る舞いを其の侭と致しては、後々の障りと成りませぬか…?」

 本陣での軍議の後、未だに床几に座する勝頼に対して、近習の頭である土屋惣三昌恒が問い掛けてくる。

 其の周りの近習達も同じ様に考えていたのか大きく頷いている。

 勝頼は自分の為に憤慨してくれている年若の家臣達を、嬉しく思いながらも教え諭す様に静かに語り掛けた。

「今の処は、儂は武田の当主では無い。唯の陣代に過ぎぬのだ。彼の者達が儂と亡くなった兄上(太郎義信)を比べてしまうのは致し方無き事よ…。儂は己の分をわきまえ、実を上げ続けるのみよ。然すれば儂に反目致す者もおのずから心を入れ替えよう。一条右衛門(信龍)殿の様にな」

 勝頼の言葉を聞いた近習達は、憤激していた事も忘れたかの様に勝頼に尊敬の眼差しを注いでいる。


 其の光景を本陣の一角から3人の重臣が眼を細めながら眺めていた。

「さて…、勝頼様も2年前の軽佻な振る舞いを為さった頃に比べ、随分と目に見えて成長為さった様だな。お主等の見立ては如何じゃ、修理(昌秀)殿、一徳斎(幸綱)殿?」


 3人の中で一番年嵩である信春が、好好爺然とした嬉しそうな表情を浮かべて2人に問い掛ける。

「左様。儂の見た処でも、随分と国主らしゅう成長された様に思う。弾正(春日虎綱)殿も《随分と思慮深く成られた》と褒めておった。三郎兵衛(山県昌景)殿も含めて我等5人、御屋形様から勝頼様の後見を託され申したが、陣代としての振る舞いの中で《武田の後継ぎ》としての御自覚が芽生えた様ですな…」

 昌秀も勝頼達を遠目に眺めながら、其の垣間見える成長を認めたが、幸綱の評価は少々違っていた。


「御二方共随分と甘う御座いませぬか?勝頼様は確かに常に鍛練され武勇に優れ、まつりごとも他国の策を積極的に取り入れる等、良い面も増えておりまする。しかし御気性は一皮剥けば悍馬の如く、何を為さるか肝を潰し掛けた事は一度や二度では御座らぬ。しかも無暗に他人を信じ過ぎまする。其れ故か、手入れ(調略)も御屋形様の手練手管に比べたら素人同然。他国の大名が未だに《小僧扱い》致すのもむべなるかな、で御座る」

「…一徳斎殿は随分と手厳しいな。だが勝頼様の事を良う細かく判っておるのだな…」

 信春と昌秀は呆気に捕られてしまった。

 幸綱は此の2年の間、軍師として、そして半ば師範として勝頼の側で仕えてきた。其の中で勝頼を長い間見続けているからこその厳しい評価なのだ。


「為らば、我等の《勝頼様後見》の任は今暫く入り用で御座るな」

 昌秀が微笑みながら話し掛けると、信春は笑いながら応じる。

「そうさな。今後も勝頼様の成長を見れるならば、老いてからの楽しみが増えたと言うものよ。なぁ、一徳斎殿?」

「御二方は側仕え致さぬから楽しいので御座る。それがしは忙しうて感慨に耽る暇も御座らぬわ!」

 幸綱のぼやきに、武田家を代表する2人の名将は笑みを浮かべるのだった。


 深沢城の城内では、籠城の日数が増すに従い、次第に焦りの色が濃く成ってきた。

 武田軍の金山衆が実施している《掘り崩し》が発覚すると、北条康成は直ぐに妨害を試みた。弓や鉄砲を狭間から打ち込んで金山衆を追い払おうとする。

 しかし、足軽を大量動員して竹束や板楯で急造した防壁が金山衆を妨害から守り、逆に狭間に向けて射撃して撃ち手を返り討ちにしたのだ。

 更に時が経過為ると、武田軍からの《言葉戦》で深沢城の将兵の戦意を削ぐ事態が起きた事が伝わったのだ。

 深沢の南側に位置する北条方の持ち城…葛山城の落城である。


 深沢城の陣中から出撃した小山田信茂率いる郡内勢は、葛山氏元の率いる手勢を先頭に葛山城を目指して南下した。


 葛山中務少輔氏元は、一族の播磨守貞氏の子で前当主・葛山氏広の養嗣子となった。

 葛山氏は先代氏広が北条早雲の3男だった為、今川家と北条家が対立為ると北条方に付いたが、氏元が後を継ぐと再び今川家に帰参している。

 永禄11年(1568年)末の武田信玄による《第一次駿河侵攻》の際、他の今川家臣と共に武田家に帰順。富士郡油野に替地を拝領して、主に穴山信君の寄騎として働いていた。

 また、武田家に人質に出した次女・おふちは勝頼の弟・十郎(後の信貞)と婚約しており、此の機会に本領を回復させて家勢を盛り返そうと俄然張り切っていたのだ。


「ふんっ!此の程度の小城で刻を費やすな!一気に攻め落とすのだ!生温い事を申しておる諏訪の四郎殿に、郡内衆の実力を見せつけてやるのだ!」

 信茂は檄を飛ばすと、前城主の氏元の手引きに従って、城の南側に隣接する葛山家の菩提寺・仙年寺から攻め寄せる。

 更に城の東側の大手曲輪、西側の搦手からも攻め立てて、北条方の城兵を本曲輪に追い込んでいく。

 城兵も本曲輪に追い込まれつつも、弓や鉄砲で必死に応戦したが、次第に敗色が濃くなるに従って逃げ腰に変わっていく。

 葛山城の本曲輪は城の中央北側に位置しており、信茂はわざと北側に兵を配置していない。

 城兵達は本曲輪の北側から次々と逃亡し、最後には百体程の遺骸を残して一兵残らず逃げ散ってしまった。


 しかしながら、総掛かりで攻めた郡内衆も被害を受け、十数人の戦死者と百人近い負傷者を出している。

 負傷者の中には、本領奪還の為に手勢を率いて手引きしていた、葛山氏元も含まれていた。

 勝頼は報せを受けると、氏元に先年の富士大宮城攻めでの功と合わせて葛山の地を与えると共に、弟の十郎を正式に氏元の婿として元服させる様命じたのだった。


 後に葛山氏元は、此の戦傷が原因で死去する事に為る。

 そして、葛山家の家督は婿で或る《葛山十郎信貞》が継いで、同じく信濃仁科家を継いだ《仁科五郎信盛》と共に、兄の勝頼を支えていく事に為る…。


 だが、信茂率いる郡内衆の進撃は、葛山城では止まらなかった。

 負傷した氏元と葛山勢、そして郡内衆に寄騎していた加藤弥次郎信景(郡内上野原城主・加藤丹後守景忠の息)の手勢を葛山城に留め置くと、更に南側に在る長久保城を目指したのだ。


 だが、葛山城落城の報を聞いた長久保城では、直ちに籠城戦の態勢に入っていた。

 長久保に到った信茂率いる郡内衆は、城を北・東・西の3方から包囲した上で一気呵成に攻め寄せていく。

 しかしながら、手足を仕舞った亀の如く固く守る長久保城を落城させる事は出来ないままに、郡内衆の戦死者や手負いの者が増えていったのだった。


 一方、葛山城の落城を知った深沢城の兵達は、落胆の色を大きくしていた。

 そんな中、城を預かる北条康成は城一番の高所である二の曲輪から武田軍の動きをつぶさに垣間見ていた。

 其処に、陣頭で采配を振るっている間宮康俊が戻って来たのを見つけると現状を問い掛けた。


「豊前…、武田勢の掘り崩しは如何相成っておるのだ?邪魔立ては致しておるのか?」

「残念ながら掘り崩しを防げておりませぬ。既に幾つかの土塁や橋を崩されており、此の侭では曲輪同士の連絡すら断たれましょう…」

 玉縄衆を裏から支えてきた康俊も、無念そうな表情で悔しさを滲ませる。

「此の様な事態に善九郎様を巻き込んでしまい申し開きも御座いませぬ!此処はそれがしの首と引き換えにしてでも必ずや関東に御返し致しまする!」

 悲壮な決意を示す康俊に対して、康成は首を横に振った。

「豊前、其れは絶対に相成らぬ。死なば諸共、お主1人を死なせはせぬ。若しも抜け出す事さえ適わぬ為らば、我等一丸となって討って出ようでは無いか…」

「ぜ…善九郎様…有り難き御言葉で御座いまする…」

 康俊が涙を滲ませて感慨に耽っていると、別の曲輪から1人の少壮の武将が駆け付ける。康俊の嫡男の新左衛門康信である。


「善九郎様、父上、敵勢の動きが何やら怪しゅう御座いまする。武田勢は陣替えを致して、本陣を設けた南側を厚くしておりまする。しかし北側の本曲輪の向こうは随分と薄く成っておりまするぞ!」

「ふむ、此の《二の曲輪》と本曲輪の間の土橋を掘り崩したから油断致しておるのか…、儂の見立ても同じだが、うぅむ…」

 康信からの報告を受けた康成は暫く考え込んだ後、上を向くとポツリと呟く。

「ふむ…、其れにしても随分曇ってきたな。此の侭では今宵の望月もちづきは拝めまいて…」

 其処迄呟くと突如として、間宮親子の方に向き直ると先程とは脈絡が無い発言を切り出した。

「善し、新左衛門!直ちに此の《二の曲輪》よりも南側の曲輪の者に《夜半を以て全員二の曲輪に集まる》様に伝えよ。其れ迄の間に門の内側には土を盛り、武田勢が城に容易に立ち入らぬ様に致すのだ!」

『ははっ!』

 康信が他の家臣と分担して、夫々(それぞれ)の曲輪に遣いに走って行く。其れを横目に見ながら、康成は別の指示を出した。

「豊前は掘り崩された本曲輪への土橋の代わりに、曲輪の物を使うて仮橋を架けるのだ。そして梯子を出来る限り多く用意致せ。但し武田勢にばれぬ様に、夜陰に紛れて事を成すのだぞ!」

「はっ!」

 康俊は返事を返したが、配下に作業を命じながらも心中では、

(善九郎様は川の合わさる側に有る本曲輪に逃れて如何致す御所存なのだ?討って出ずに腹を召される御積もりか?)

と、いぶかしむのだった。


 夜半過ぎ、南側の曲輪に篝火を焚いた侭で、城兵達が続々と二の曲輪に集められた。

 夜空は康成が言った通りに一面に雲が広がり、冴え渡る満月も早春の星空も覆い隠している。

 康俊は全ての物頭からの集合の報せを纏めると、具足を身に着け床几に座った侭で瞑黙する康成に報告為る。

「善九郎様、本曲輪以外の全ての曲輪の者を集め終わり申した。本曲輪との間の仮橋と梯子も夜が更けてから用意致し申した」

 すると、ゆっくりと眼を見開いた康成は立ち上がり、周りの城兵を見渡しながら語り始めた。


「武田勢に包囲されて既に半月以上経つ。しかしながら小田原からの後巻きは未だに現れぬ。此の侭では城は落ち全ての者が首を討たれよう。討って出る事も出来ようが、此の城が落ちるのを防ぐ事は出来まい。因って全ての城兵で城を抜け出して山中城へ繰り引き致す!落城の責は儂1人が負う。但し、お主達を全て山中城に逃した後でな…」


 飽く迄も静かに己の考えを明かす康成を見ながら、武将・足軽の区別無く多くの者がむせび泣いている。

「善九郎様!我等深沢の城兵、山中城だろうが閻魔様の元だろうが何処迄も御供致しまする!なぁ、皆の衆!」

 号泣しながら康信が自らの心情を話し周りの者達に同意を求めると、多くの者が無言で頷いている。

 康成は此の様な状況に追い込まれつつも、己を支えようと考えている城兵達に内心感謝しながら、矢継ぎ早に指示を出して行く。


「善し!夜明け迄に全ての者を落ち延びさせる!旗印等は山中城にて新調致す故に、邪魔な品物は全て置いて行く!此の《二の曲輪》と本曲輪の他に味方が居らぬのを確認致したら、門を土壁で塞げ!他の者は仮橋を渡って本曲輪に行くのだ。川沿いの塀を壊して川岸まで梯子を架けよ!水練(水泳)の上手は先に渡って、対岸迄の綱を張るのだ!綱が張ったら其れを伝うて全員渡り切れ!仮橋・梯子は打ち捨てて構わぬ故、急いで事を計るのだ!良いな!」

『はっ!』

 城兵達は返事を為ると、一斉に分かれて作業に向けて動き出したのだった。


 一方、武田本陣近くの高台では、総大将の勝頼が深沢城を見詰めていると、其の後ろから真田幸綱が声を掛けて来た。

「深沢城の北側、本曲輪の対岸辺りから備を動かし申した。しかし、誠に貴奴等は今宵城を抜け出しましょうや?城を枕に討死致す所存では?」

「いや、北条善九郎が其の様な事を選ぶまい。其の為に態々(わざわざ)逃げ道を作ったのだからな。《囲師には必ず闕き窮冦には迫る事勿れ》と言うしな。其れに此度の目的は駿河を統べて国境を固め、再盟約に引き摺り込む事だ。決して北条方を《根切り》にして恨みを残しては為らぬ…」


 勝頼は《孫子》の一説を引合に出して、深沢城兵を見逃す事を告げた。


「一徳斎、深沢城から人影が消えた時点で、昌直(駒井右京進昌直)と寄騎勢を入城させよ。昌直は己が守っていた深沢城を奪われて期する処が有るだろう。是非とも名誉挽回の機会を与えてやりたい…。其れと、黄瀬川の西側で未だに落ちておらぬ興国寺・長久保の両城に遣いを送るのだ。《開城致さば北条方の将兵を無事に相豆に御送りしよう。致さねば葛山・深沢に続いて総掛かりで攻め落とす》とな」

「承知仕りまする。しかし遣いの者を送っても、逸った北条方から屠られる事も有り得まする。此の任は我が愚息の一人、信昌に御与え下され」

 勝頼の命を聞いた幸綱は、其の危険な任務に養子に出した己の息子である加津野信昌を推薦したのだ。


 加津野市右衛門信昌は真田幸綱の4男であり、直ぐ上の兄・昌幸と共に幼い時から甲斐府中に人質に出されていた。

 其の後、信玄の命で武田の分家・勝沼家にも連なる甲斐の名家である加津野家の家督を受け継ぐ事に成った。

 当時、加津野家の前当主の昌世が永禄8年(1565年)頃に死去して家名が絶えており、信昌は其の名跡を継いだ形である。

 現在は騎馬15騎・足軽10人持ちで御鑓奉行の職に就いて居た他、検視役(軍監)等も務めている。

 今回の河東地方侵攻にも御鑓奉行として手勢を率いて参陣しており、他の奉行と共に本備の《一騎合衆》や《同心衆》を率いているのだ。


「…良かろう。両城への遣いは信昌に致そう。深沢の開城を確かめたら、先ずは三段橋城の虎綱(春日弾正忠虎綱)の元に向かわせて興国寺城の垪和予州(伊予守氏続)を説得致せ。興国寺城が開城致さば長久保城も諦めよう」

「はっ、直ちに信昌を弾正殿の元に遣わしまする」

 幸綱が承知為ると、立て続けに勝頼は指示を下して行く。

「両城を開城させて駿豆国境を固めたら、直ちに西に向かう事と致す。此度の河東攻めには参陣致さずに江尻に留まらせた昌景(山県三郎兵衛尉昌景)に、田中城(徳之一色城)に入城致す様に伝えよ。先ずは徳川勢を駿河から完全に追い払うのだ!」

「御意で御座る。直ちに江尻城に使番を走らせまする。しかして遠江に討ち入る際は…?」

「うむ、其の侭昌景率いる山県勢が先陣を務める事に相成ろう。其の後を追う形で信春(馬場美濃守信春)の二の備、昌秀(内藤修理亮昌秀)の三の備が後に続く形だ。遠江を抜け三河迄一気に攻め立てた上で、東美濃を攻めておる虎繁(秋山伯耆守虎繁)の手勢と奥三河で合流致して信濃に引き揚げる所存だ。此度は《徳川家は駿遠三(駿河・遠江・三河)を統べるには値せぬ》と国衆達に思わせるが目的。城攻めは全て一当て致して、長陣致さねば落ちぬ様ならば放って先に進む事と致す」

 勝頼の説明を聞き終えて、幸綱は内心胸を撫で下ろしていた。勝頼が《河東討入》での優勢振りに増長して《華々しい決戦》を求めたりしていない事に安堵したのだ。

「承知仕り申した。直ちに其の様に手配致しまする。…其れにしても、勝頼様も随分落ち着かれましたなぁ。駿河平定の後は三郎兵衛殿達に戦を委ね、甲斐に戻られる訳で御座るな…」

 幸綱はそう述べたが、勝頼からの返答は全く違っていた。

「何を申すか。此度は自らの眼で遠江や三河の人心を見極めねば成らぬ。其れ故に儂も本備を率いて遠三の地を討ち入るつもりだ。…一徳斎、如何致したのだ?」

 怪訝な表情を浮かべる勝頼の前で幸綱は、

(増長なさってはおらぬのを喜ぶべきか、相変わらず血気盛んなのを嘆くべきか…。やはり今暫くは儂の苦労が続きそうだ…)

と思いながら、大きな溜め息を吐き出すのだった。


 翌朝、即ち元亀2年(1571年)1月16日、武田軍は無人となった深沢城を約9ヶ月振りに再占領を果たした。

 勝頼は駒井昌直と其の寄騎衆を再び城将とした。そして土屋長安率いる金山衆に命じて、直ちに城の改修工事に着手している。


 一方、加津野信昌は深沢城の開城を見届ける事無く本陣から出立為ると、黄瀬川沿いを愛馬を駆けさせ沼津三枚橋城に飛び込んだ。

 信昌の説明を聞いた虎綱は、信昌の副使として己の嫡男の源五郎昌澄を付けた上で興国寺城へ送り込んだのだ。


「予州殿!興国寺への城寄せをことごとく退けられた御貴殿の武略の程、誠に見事で御座る!れど既に城は包囲されており、落城は最早時間の問題で御座る!」

 興国寺城の本曲輪に在る城館、其の館で最も広い板張りの広間の中心に、信昌と昌澄は寸鉄も帯びぬ侭で座していた。

 目の前の上座には、2年の間此の城を守り抜いてきた興国寺城代・垪和伊予守氏続が2人と相対している。

「何を申すか!我等北条家の御嫡流であられる国王丸(後の氏直)君は、お主等武田の手で亡国の憂き目に遭われた今川上総介(氏真)様の御猶子と成られておる!詰りは駿河の国は我が北条家が今川家から譲り受けた物だ!」

 氏続は北条家が対外的に主張している《駿河領有の正当性》を述べてきた。

 しかし其れを聞いても信昌達は全く動じない。氏続の発言は予想の範囲内なのだ。直ぐに横に座る昌澄が、2人で予め考えていた反論を披露する。


「今川上総殿は、4年前に我等武田家の領国に対して《塩留め》を行い申した。此れにより武田家は国益を著しく損ない申した。即ち今川家が先に盟約を反故にして挑んで参った戦で御座る。謂わば、武田家は降り懸かる火の粉を払った迄で御座る!」

「ふむ…」

 昌澄の反論に一理有ると考えた氏続は、瞑黙した侭で熟考している。其れを見取った信昌は自分自身が人質を買って出る事にした。

「当方は此の城のたつみの方角に三枚橋城を築城致し申した。小田原からの後詰は全て塞がれ、此の城には決して届きませぬ。若しも開城致される為らば、此の信昌が自ら城の皆様を伊豆・相模に御送り致す所存で御座る」

 改めて後詰の可能性を全否定されて、氏続は肩を落として話し始める。


「…最早致し方御座らぬ…。承知致し申した。開城の件、御引受け致し申す。儂の皺首を差し出す故、家臣郎党を無事に返して頂きたい…」

 其処迄聞いた信昌は、氏続の提案を即座に否定する。

「伊予殿の御首など欲しくは御座いませぬ。帰国を望まれる方は、北条の領内へと帰って頂きたい。勿論、伊予殿も例外では有りませぬ。但し、伊予殿には深沢城を攻め落とされた我が主君・武田左京様の書状を御預け致す。我等の望みは《甲相の再盟約》、其の為に伊予殿には一肌脱いで頂こう」

「…儂に和睦のなかだちをさせる心積もりという訳か…。しかし御本城様が御聞き届けに成るか判らぬぞ。儂も失陥の責を負わねば為らぬ立場、即座に腹を切る事も…」

 氏続は信昌の提案を否定的に受け取っていた。現在の上杉・徳川両家との盟約と明らかに矛盾するからだ。

 だが、信昌は即座に反論して氏続や家臣の考えを一定の方向に誘導していく。

「いえ、腹を召される事は恐らくは有り得ませぬ。武田家との和睦の媒には伊予殿を名指しさせて頂く所存で御座る。暫くは蟄居閉門の扱いを受けましょうが、聡明な北条左京大夫(氏康)様や相模守(氏政)様為らば自ら軍略の幅を狭める事は為さいますまい…」

 信昌は言外に《時機に氏康親子が上杉・徳川と武田を天秤に掛ける事に為る》と匂わせて、氏続を敢えて武田への窓口の一つにする腹積もりなのだ。

 氏続としても、上杉家には氏政の弟・三郎(上杉景虎)が養子に入ったにも拘らず、武田に対する動きが鈍過ぎる事に不満を持っている。

 更には落城間際の此の状況から家臣を生きて返す為に、信昌の提案を呑まざるを得なかった。

「…承知致した。此の侭籠城致しておれば城と共にみなごろしにされた身の上、こう為れば加津野殿達の考えに乗らせて貰おう…」

「其れは誠に重畳で御座る。では、早速開城の段取りを決め申そう。我等は伊予殿と両家和睦の話が出来る日を、是非とも御待ち致しておりまするぞ!」

 信昌はそう言うと、昌澄と御互いに頷いて無事に交渉が成った事に安堵したのだった。


 此の交渉の結果、興国寺城は開城して垪和氏続を始め全城兵が伊豆山中城へ退去して行った。

 また小山田信茂が攻める長久保城も、深沢・興国寺の両城が開城した事で自落、武田家の手中に落ちた。

 此れに因って、河東地方の全域を手中に収めた武田軍は、直ちに深沢・葛山・長久保・興国寺・三枚橋の各城の改修を行うと共に、駿東郡の国衆に所領の安堵を行う事で武田家の支配を印象付けた。

 そして一定の目処を付けた2月中旬、河東地方を春日虎綱・穴山信君に預け、武田軍は東海道を西へ進んで行く。

 

 一方、病身の氏康に替わって名実共に北条家を率いる事になった北条氏政は、山中城に退いた北条康成、間宮康俊・康信親子、垪和氏続等に、一時的に謹慎を言い付けた。

 しかしながら、駿河奪還を謀る氏政は、武田軍主力が駿東郡を離れると同時期に彼等の謹慎を解いて軍役に復帰させている。

 其の上で、康成の実父である玉縄城主・北条左衛門大夫綱成を総大将にして彼等を預けると、直ちに深沢城を奪還する為に出陣を命じたのだった。

 しかし武田軍は、春日虎綱が総指揮を取る形で駿東郡の死守に成功し、逆に三枚橋城の東側にある伊豆戸倉城に穴山信君率いる河内衆が攻め寄せた。

 此等の動きにより、北条綱成勢は伊豆方面に反転、両家の軍勢は狩野川・黄瀬川を舞台に一進一退の攻防に続けていくのである…。


 こうして、永禄11年(1568年)末より足掛け4年に渡って繰り広げられてた駿河国の争奪戦は、武田家が駿河全域を支配する形で決着を見る事と為った。

 だが、武田家を覆う戦機は未だに充ち満ちている。戦いの舞台は西へ…西駿河、遠江、奥三河、東美濃へと拡がっていくのである。

次の話でいよいよ徳川家との対決が始まります。とは言え簡単に勝てる相手ではありません。多分また長い展開になると思います。長文・乱文ですが、次回も是非とも読んで頂ければ幸いです。

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