玖:元亀争乱(弐)〜武田包囲網〜
今回は本筋に戻して、武田勝頼主従を中心に話を進めていきます。相変わらずの乱文ですが、温かい目で見て頂ければと思います。宜しくお願い致します。
《甲斐府中》の町の名前は、律令制の国府とは関連は無い。甲斐国主・武田家の居城という意味である。
永正16年(1519年)当時の国主・武田信虎が此の地に《躑躅ヶ崎館》を建設し、城下町を形成して《府中》と呼称される様になった。
京・堺・石山・博多等の此の時代の大都市には敵わぬとはいえ、甲斐府中の町は東国有数の都市として栄えているのだ。
そんな甲斐府中の町を真っ白に染め上げる様な大雪が降り積もった、或る冬の早朝の事である。
甲斐府中の中心部、武田家臣団が武家屋敷が集まった一角に、剣呑な雰囲気が漂っていた。
武田家の家臣、其れも《譜代家臣の郎党》同士が小競り合いを起こしているのだ。
「何じゃなんじゃ!何で武田の御家中同士で争うとるのじゃ?」
「御陣代様に従えぬ御方が返り忠を打たれたのか?巻き込まれる前に早う逃げ支度を為るんじゃ!」
府中に起居為る住民達は或る者は慌てふためき、また或る者は家財一式を纏める為に己の家に駆け出して行く。
しかし此の騒ぎは陣代・武田左京大夫勝頼に対する謀反の挙兵では無く、況してや国境を越えて他国の軍勢を招き寄せた訳でも無い。
此の昨晩、《譜代家老衆》で9年前に戦死した両角豊後守虎光の嫡男の助五郎昌守と、《足軽大将衆》で6年前に病死した原美濃守虎胤の次男である甚四郎盛胤が、躑躅ヶ崎館での酒席で諍いに為った。
口論から始まった争いは最後には刃傷沙汰と為り、双方が手傷を負った処で相伴衆であった他の家臣達に取り押さえられた。
此の日府中を離れていた勝頼には、直ちに躑躅ヶ崎館に戻る様に遣いが派遣される。
しかし翌朝、勝頼の帰還前に夫々(それぞれ)の郎党同士が小競り合いに為り、国主の御膝元で喧嘩を始めたのだ。
しかし直ちに、他の家臣達が駆け付けて騒ぎを鎮静化させた上で、別々の場所に隔離したのだった。
時に元亀元年(1570年)11月下旬の事である。
「莫迦者がっ!家臣の範と成らねば為らぬ者同士が、館内で刃傷沙汰に及ぶとは如何なる了見だっ!」
内政を強化する為に甲斐の領内を視察していた勝頼は、躑躅ヶ崎館に飛び込むと旅装も解かぬ侭で2人を広間に召し出した。
そして、同座する重臣達の前で開口一番に昌守と盛胤を叱ったのだ。
「はっ、誠に申し訳御座いませぬ。某が浅慮で御座いました」
「酒席とはいえ、躑躅ヶ崎にて刃傷に及んだ事、申開きが立ちませぬ…」
2人は(所詮は陣代)と思っていた勝頼が出す、強烈な《威圧感》に身を小さくして平伏している。
「今、此の場に居られぬ父上が此の事を御耳に為さったら如何に御嘆きに為るか、お主達は少しでも考えた事が在るか!」
「はっ…」
「何の言葉も御座いませぬ…」
勝頼から此処に居ない信玄の事を言われて、2人は絶句して己の浅はかさに涙ぐむ。
「本来、法度に照らし合わせれば双方死罪、喧嘩沙汰に及んだ郎党も相応の罪に問われよう。されどお主等の父の両角豊後守(虎光)・原美濃守(虎胤)は共に武田の忠臣。お主等の郎党も己の主人を慕っての喧嘩沙汰であろう…」
勝頼がそう言って、両側に分かれて座する重臣達を見渡す。そして有無を言わせぬ力強さで宣言した。
「沙汰を申し渡す!両角助五郎昌守!原甚四郎盛胤!お主等の父達の功に免じて、罪一等を減じる!知行・同心は此れを召し上げた上で、両角衆の騎馬50騎、及び原衆の騎馬35騎・足軽100人は此の武田宗家直轄の寄子と致す。但し、再び功を成し罪を雪いだ暁には、替地と新たな同心を与える事に致す!其の時に再び両名の麾下に戻る事を望む者には、此れを認める!者共、左様に心得よ!」
『ははっ!』
重臣達全員が納得の面持ちで平伏為る中、昌守と盛胤は平伏しながら号泣していた。
「ご…御陣代様!誠に有り難き幸せに御座いまする!昌守の命に換えても御恩に報いまする!」
「左様!此の盛胤も必ずや、御陣代様の御役に立つべく精進に務めまする!」
「うむ、此れよりは心を新たにして、武田の御家の為に精進してくれよ」
『は、ははぁっ!』
2人の様子に安堵した勝頼は、重臣の列に居る土屋右衛門尉昌続に後事を任せて、後ろに控える軍師の真田一徳斎幸隆(幸綱)や近習達と広間から看経所に向かう。
看経所へ向かう途中、勝頼の直ぐ後方を歩く幸綱が質問してきた。
「勝頼様、何故に両角衆と原衆を他の者に御預けに為さらないのですか?某は一条右衛門(信龍)殿や今福丹波(顕倍)殿に預ける物と思っておりましたぞ」
「うむ、儂も最初はそう考えたのだ。しかしながら此の甲斐国は、只でさえ当主で或る武田宗家の力が小さいのだ。御親類衆や譜代家老衆の力が強過ぎる、と言い換えても良い。儂は敢えて此の騒動を利して、織田弾正(信長)殿の如く武田宗家の力を強くしたいのだ。まぁ『禍転じて福と為す』という奴だな」
幸綱は、勝頼が此の騒動を《中央集権化》を進める為の好機に考えている事を頼もしく思い、一礼しながら語り掛けた。
「成程、見事な采配で御座いました。勝頼様の成長を垣間見せて頂き、此の一徳斎嬉しく思いまする」
「何を大袈裟な…。一徳斎、此れからも儂の至らぬ処を支えてくれ。期待しておるぞ!」
勝頼は笑いながらそう言うと、看経所へと歩を進めるのだった。
元々信玄の私室として設けられた看経所は、勝頼の陣代就任時から一年以上、其の《政務室兼寝所》として使われていた。
勝頼達が看経所に戻ると、其処には既に先客が着座して居た。
「左京大夫様、つい先程帰参致し申した。先程は御見事な御裁きを垣間見せて頂き申した」
「おおっ!喜兵衛か!善くぞ戻って参った!息災に致しておった様だな!して、隣りの方は何方の御人だ?」
先客とは《滋野源五郎》の偽名で越前・畿内へ大物見(威力偵察)に赴いていた武藤喜兵衛昌幸であった。
勝頼も喜んで昌幸を迎えたが、其の隣りに堂々とした態度で座している若い商人が居る。気になった勝頼は、昌幸に紹介する様に促した。
「はっ、此の御人は泉州堺の豪商・薩摩屋の主人である山上宗二殿で御座る。此度は左京様に御目通り致す為に堺から尋ねて参っておりまする」
「薩摩屋の主人、山上宗二で御座る。左京大夫様の事は藤十郎(土屋長安)殿や鈴木左太夫(重意)殿より伺っておりまする。此度は、昨年秋に藤十郎殿から預かった甲州金を使い、種子島や琉球にて贖って参り申した。其の品物を甲斐武田家に納めるを機に、左京大夫様に御目通り致したく罷り越し申した」
2人の話を聞き、勝頼は宗二に労いの言葉を掛ける。
「其れは遠路遥々此の甲斐に良く来られた。甲斐の地は高僧も数多く来訪致しておる、とは言え堺や京に比べたら鄙びた地。是非とも京畿の話等も聞いてみたいものだ」
「承知致し申した。為らば、某は師匠の千宗易より《茶之道》を学んでおりまする。未だに未熟ながら某で宜しければ、《茶之道》を通して京や堺の気風を感じて頂ければ、と心得まする」
文化面にも精通する父・信玄に比べて《学が少ない》勝頼は、此の機会に其の巨大な差を少しでも埋める事が出来ると喜んだ。
「うむ。儂は父上とは違い、其の様な事柄はさっぱり判らぬ。是非とも御教示頂こう。今後の話の為に藤十郎や鉄砲を采配する者を此処に呼び寄せる故、刻が許す限りゆるりと為さるが良かろう。喜兵衛も久々の甲斐、ゆっくりと致すが良い」
『ははっ!』
こうして、鉄砲や甲州金に関係する者達を呼び寄せる為に、直ちに躑躅ヶ崎館より黒川金山と奥高遠の鉄砲鍛冶村に早馬が遣わされた。
そして、招集している間に勝頼は宗二から《茶道》の手解きを学びながら、経済面での助言を数多く受けたのである。
後に、此の出来事が武田家の《茶道の伝来》として伝えられる事になる。
2日後の薄暮、早馬に因って4人の者が躑躅ヶ崎館の看経所に集められた。
金山奉行の土屋藤十郎長安、鉄砲鍛冶場の普請奉行の長坂筑後守虎房、そして鉄砲頭の甘利郷左衛門尉信康・鈴木孫一重秀である。
因みに此の4人が同席したのは、去る2月の駿河以来9ヶ月振りとなる。
更には軍師の真田一徳斎幸隆(幸綱)、畿内より戻った武藤喜兵衛昌幸、そして山上宗二も同席していた。
「さて、宗二殿。此度の品物の主たるは硝石だ。琉球や種子島から幾ら仕入れたのだ?」
暫くの談笑の後、宗二に甲州金を預けた張本人である長安が質問する。
「シャム(タイ)産の焔硝(硝石)を四耳壺に詰めて仕入れておる。水気に弱い故にな。此処に運んだ量は全部で2百斤で御座る」
「2百斤か…。其れだけの硝石が有れば、何れ位の玉薬を賄えるのだ?武田家が使う分は足りるのか?」
漠然としか判らない勝頼が居合わせた家臣達に質問すると、《津田流火術》を極めた重秀が発言する。
「今の領国を保つ程度為らば十分で御座ろう。但し、他家と争い勝ち残る為にはまだまだ不足で御座る」
そう言って其の根拠の説明を始めたのだ。
弾丸を放つ玉薬や火皿に入れて点火に使う口薬には、此の当時は《黒色火薬》が使用されていた。
黒色火薬は硝石・硫黄・木炭という3種類の材料を、状況・目的・天候等に合わせて配合比率を微調整為るが、燃焼効率が最良の比率は硝石約75パーセント、木炭約15パーセント、硫黄約10パーセントである。
(此の当時は硝石の比率を此れより低めに調合していた)
つまり損失を計算しなければ、2百斤…120キログラムの硝石からは約160キログラムの黒色火薬が作り出される。
弾丸の重量や目標迄の距離に因って変化為るが、6匁筒の場合1発辺りに最低10〜15グラムの黒色火薬が必要とされる。
つまり、今回納品された硝石2百斤は最大約1万数千発分の火薬量に相当するのだ。
現在武田家が保有する火縄銃は、雑賀衆の鉄砲を土台に武田家独自に開発した新型の《6匁筒》《10匁筒》が合計150挺、昨永禄12年(1569年)に堺・雑賀で買い付けた新型の《6匁筒》が合計150挺、天文・弘治年間(1558年以前)製の武田及び旧今川家所有の旧型銃が合計約7百挺の、合計約1千挺である。
火薬を全ての鉄砲に配分すると、1挺辺り十数発分にしかならない。新型銃に限定しても30〜40発位にしかならないのだ。
「やはり鉄砲を放つにも随分と費えが掛かる物なのだな。此れでは《武田の鉄砲》を数多く作っても『仏作って魂入れず』では無いか…」
重秀からの説明を聞いて、勝頼は鉄砲を運用するには予想以上に維持費が掛かる事に衝撃を受けた。
「他に辰砂(硫化水銀鉱石)と玉鋼(和鋼)等の品物も仕入れ申した故に、此度の預かった甲州金で買った焔硝は此の2百斤のみで御座る。まぁ堺の店には、某自身が薩摩屋として品物を別口で購入致した分が有りまするが…」
宗二は勝頼に対して今回の仕入れについて説明するが、其処に長安が横から質問を加えて来た。
「宗二殿、お主の店の蔵には此度仕入れた分を含めて、硝石は如何程置いて居るのだ?」
「ふむ…、確か堺の蔵に8百斤(480キログラム)程、其れと種子島に今年設けた蔵屋敷に1千斤(600キログラム)程有った。しかし殆どは雑賀衆に売る予定で仕入れた分だ。雑賀衆は石山の本願寺に、鉄砲使いを3千人送り込んでおるからな」
宗二は畿内で勃発した織田家対本願寺の戦…所謂《石山戦争》を、薩摩屋の身代を大きくする好機と捉え、同じ堺の豪商・今井宗久の《納屋》の向こうを張るが如く、蔵屋敷を増設して硝石を大量に確保したのだった。
しかし勝頼は、宗二の発言の中身にふと気になった処を見つけて質問する。
「未だ商いは成り立っておらぬのか?為らば、雑賀衆からは手付の金等は未だに貰って居らぬのだな?」
「左様で御座る。此れから戦が激しう為る、と考えで先を読んで仕入れた分で御座る故…」
宗二が其処迄言うと、勝頼は間髪を入れずに話し掛ける。
「善し、宗二殿。為らば其の硝石1千8百斤の内の如何程かを、出来得る限り武田家がお主の言い値で買い取りたい。長安、金山からの上がりは如何相成っておる?必要為らば躑躅ヶ崎の費えを削っても構わぬ故、代金を支払う余裕は創れそうか?」
勝頼の発言に同席した全員が驚かされた。勝頼は大量の硝石を確保出来る為らば、《躑躅ヶ崎館で使用する予算を削減して構わない》と明言したのだ。
「勝頼様…、幾ら何でも躑躅ヶ崎館の費えを削っては、御親類衆を始め重臣の方々から足元を見られましょう。此処は先ずは矢銭(軍事徴税)を取り立て…」
譜代家老衆の一員でもある信康が、勝頼の発言を危ぶんで《臨時徴税》で代金を確保為る事を提案したが、勝頼は即座に否定した。
「其れは甚だ拙い。後々ならば兎も角、今は矢銭を掛けては為らぬ。…此の2日の間、宗二殿から《茶の湯》とやらを教わりながら、商いの事や政について語らった。そして儂なりに考えたのだ…」
勝頼は一旦言葉を止めて、居合わせた7人の顔を見渡してから先に進めた。
「武田の領国では、跳散致す民が増えて来ておる。此の程見て回った村々でも跳散致した家を幾つか見て参った…。先代様(信虎)の頃より戦が絶えず、其れ故に重税や度重なる矢銭が掛けられ、耐え切れぬ者が数多く出たのだろう…」
「確かに先代が此の甲斐を統一して50年。他国に攻められ、他国に攻め寄せ、戦が絶える刻が無かったからですな…」
《武田信虎に攻められた側》と《武田信玄の家臣として攻め寄せた側》の両方を経験した幸綱が、感慨深げに応える。
「うむ、此の跳散を少しでも減らすには、地道に正しい政を致すしか無い。治水に務めて新田を耕し、また《楽市令》や《選銭令》(鐚銭の使用制限令)を布いて商いや品作りを奨励致す。其れと共に、父上の代よりも余計な矢銭を減らすべきだ。然すれば、自ら民も戻り、町や田畑も荒れる事も有るまい…」
勝頼の発言に対して、昌幸が口角を歪め挑発するかの様な表情を浮かべて反論する。其の態度は、まるで主君に問答を挑むかの様だ。
「甘いですな!左京様の…いや、勝頼様が言われておるのは正論とは言え、『矢銭を減らす』等とは所詮は絵空事で御座る!先月には上杉と徳川が盟を結び、四方全てが敵に囲まれてしもうたのですぞ!矢銭を徴せずして、如何に戦を続けましょうや?」
元亀元年(1570年)8月に、遠江浜松城主・徳川三河守家康は秋葉山権現堂の別当・叶坊光潘を越後に遣わした。
光潘は越後春日山城主・上杉弾正少弼輝虎と交渉を重ねて、先月…即ち10月8日に徳川・上杉間で盟約が交わされたのだ。
其れに伴い、徳川家は武田家と正式に断交、駿遠国境の大井川に頻りに兵を出し始めていた。
また、徳川家は武田領の駿河を挟んで、北条家との連携を深めつつあった。
既に上杉・北条間には越相同盟が在り、此の時期《武田包囲網》とも言える同盟が成立していたのだ。
「勿論其の事は承知しておる。別に矢銭を全く廃する訳では無いのだ。だが領民の暮らし向きが逼迫為る中で、多くの矢銭を取り立てて無理な戦を続ければ、必ずや人心を失い家臣領民から見放されよう。儂自身もお主達が付いていなければ、父上達に認めて貰う為に其の道を辿ったやも知れぬ…」
「確かに一昨年迄の勝頼様為らば、家督を継がれても無理な戦を重ねた挙句に自滅為さったでしょうな」
昌幸が勝頼に対して、謹慎前の猪武者振りを挑発為るかの様な物言いを為る。
しかし御互いの顔は微笑みを湛えている。勝頼の謹慎中に親しく交わり、気心が知れた同士だからこその発言なのだ。
「全くで御座る。しかしそんな勝頼様だからこそ、儂等が支える甲斐が有るという物。御屋形様(信玄)程に完璧な主君では働き甲斐が有りませぬからなぁ!」
同じく謹慎中の勝頼と親しくなり、現在は勝頼の政策を経済面から支える長安も一緒に笑い飛ばす。
「お主等…、相変わらず言いたい放題にしおってからに…」
勝頼が微笑みながら愚痴ると、他の者達も苦笑為るしか無かった。
「勝頼様が此度は追加の矢銭を取らぬ御積もりとは判り申した。しかし其れと硝石の買い占めとは矛盾致しませぬか?先立つ物が無ければ、何れだけ欲しい代物も手には入りますまい…」
勝頼達の話を聞いていた虎房が疑問を口にする。如何なる手段にせよ、金が無ければ硝石も鉄砲も手に入らないのだ。
「うむ。金山からの上がりが増えてきたとはいえ、鉄砲の増産を始めとして他の事にも多くの金が入り用だ。しかし、此度は敢えて其等を多少繰り延べても買い付けを致す所存だ…。重秀の説明通り為らば、今後は織田を始めとして、様々な大名が硝石の買い占めに走るだろう。今後を考えれば何れ程有っても足りる事は有るまい…」
重秀の説明を聞いて、硝石の買い付けを最優先させるべきと考えた勝頼に対して、鉄砲生産の責任者として虎房は反論する。
「鉄砲の生産を止めるので御座るか?其れでは益々硝石を確保する意味が有りますまい…」
「いや、此度仕入れた玉鋼は全て鉄砲村に回すつもりだ。其れと弘治以前の旧い鉄砲を、甲斐と駿河から既に5百挺近く回収致しておる。此れを全て高遠に持ち帰って貰う」
「旧い鉄砲を…で御座いまするか?」
鸚鵡返しに聞き返す虎房に、勝頼が旧式の鉄砲について説明為る。
「そうだ。5百挺の鉄砲を全て分解して、夫々(それぞれ)使える部分と否なる物に選別致す。其の上で此度仕入れた玉鋼から、不足の部品を新調の上で今一度《武田の鉄砲》として蘇らせるのだ」
「成程…、そう言う事為らば、其等を活かす為にも硝石を仕入れる事が肝要で御座るな」
勝頼の説明を聞いて、やっと得心が入った幸綱が頷きながら同意した。
「うむ。去る9月に父上にも御説明致したが、最終的には残り7百挺も順次改修を進める所存だ。お主等の仕事は益々大事な物と為るぞ!」
「はっ、承知致しまする。必ずや成し遂げてみせましょうぞ!」
平伏為る虎房に満足した勝頼は、改めて宗二に硝石を売って貰う様に要求した。
「さて、宗二殿。お主の店の硝石、如何程迄なら譲って貰えるだろうか?此れは御家の浮沈に関わる事、是が非でも汲んで頂きたい」
そう言って勝頼はスクッと立ち上がって上座から降りると、宗二の眼前に座り直して頭を下げたのだ。
其の時点迄、宗二は他の者の話を聞きながら、暫くの間瞑黙して考え込んでいた。
しかし大柄な勝頼が、目の前迄来て頭を下げたのを見ると、噴き出して大口を開けて哄笑しだしたのだ。
「ああっはっはっ、あぁっはっ…」
「ん?宗二殿、如何致した?儂が何かしら変な事を致したか?」
勝頼は怪訝な表情を浮かべて問い掛けると、宗二は掌を振りながら謝った。
「いやいや、そうでは御座らぬ。誠に失礼致し申した。いやぁ…、其れにしても左京様の御気性は、正に藤十郎殿が言われた通りで御座ったなぁ」
「ほぅ、其れは初耳だ。長安は儂の事を如何様に申しておったのだ?」
勝頼が《家臣の己に対する批評》に興味を持つと、宗二は堺で聞いた内容を包み隠さずに披露する。
「確か…、《勇敢で情緒豊かな理想家肌》と聞き申した。但し《猪突する癖が有って感情的で坊っちゃん育ち》とも言ってましたな」
「ぶ、無礼で在ろう!商人の分際で戯言を申すのも大概に致せ!」
虎房がそう叫んで立ち上がり掛けたが、当の勝頼は笑いながら制止した。
「わぁっはっはっ…!流石は長安じゃ!儂の事を良く見ておるではないか!虎房も目くじらを立てるで無いぞ」
「は、はぁ…」
気抜けした返事を為る虎房を横目に見ながら、勝頼は宗二に続きを促した。
「宗二殿、失礼致した。如かして他には何を申しておったのだ?」
「己の失敗を糧に、自らを研鑽して大きく成長致しておる、と聞いておりまする。だからこそ仕え甲斐が有る、と…」
宗二の言葉を聞いた他の者達は、同意為るかの様に大きく頷く。但し、長安だけは多少苦笑していたが。
「成程、左京様は織田弾正殿とは些か違いますが、主君としての魅力が有る方ですな。畿内には、三好・松永の如き輩が我物顔でのさばって居りましたからな…」
そう言いながら一度瞑目した宗二は、次の刹那カッと眼を見開くと気合いを込めて応える。
「よし、我が薩摩屋が仕入れた焔硝合わせて1千8百斤、代金を納めて頂ければ全て御売り致しましょう!其の代金で雑賀の焔硝を仕入れ直す事と致しまする!」
「本当か!其れは誠に有り難いが…、長安、其の様な大金を金山から捻出出来るのか?」
喜色を浮かべながらも一抹の不安を持つ勝頼は、長安に重ねて尋ねる。1千8百斤の内の一部と全てでは必要な金額に雲泥の開きが在るのだ。
「此度の仕入れの中には辰砂が含まれておりまする。其れを水銀に致して金山にて《水銀流し》に使用致さば、恐らくは鉄砲の費用と硝石の代金を賄う事も適いましょう。但し《太鼓判》や《一分金》に加工致すには手間暇が掛かる故に、小粒金や延金の形状に成りますぞ?」
戦国時代、諸大名が自らの領国の鉱山から鋳造した金銀貨は、殆どが金銀の重量によって其の交換価値が決められる《秤量貨幣》で或る。
甲金・甲州判とも呼ばれた、甲斐武田家が誇る《甲州金》も、初期こそは無印の小粒金や碁石金・延金による秤量貨幣だった。
しかし鋳造や秤量技術が進化為るに従って、金4匁(約15グラム)を1両とする両・分・朱・糸目の4進法による量目体系を採用して《地方貨幣》として渡来銭と並んで流通しだした。
武田領内の金山から産出・精錬された金は甲斐府中等に設けられた《金座》に集められる。
松木・野中・志村・山下の4家が夫々(それぞれ)《金座頭》として職人を組織しており、鋳造した甲州金に独自の極印を刻み、製造を4家で寡占していた。
甲州金の品位(純度)は平均81〜83パーセント、4家の極印によって保証された品質は、《計数貨幣》としての条件を十分に満たしていた。
謂わば《甲州金》は日本で初めて体系的に整備された高額貨幣制度だ、と言えるのだ。
此の年(元亀元年)に勝頼が新設した《金山奉行》に就任した長安は、武田家が保有する各金山の《金山衆》に水銀を使った《金アマルガム精錬法》(水銀流し)を伝来、一気に主導権を掌握した。
しかし、4家の寡占状態の《金座》には未だに影響力を行使出来ず、以前よりも多少上乗せした程度の金を納める程度であった。
そして飛躍的に産出量を増やした金の大半は、金山の施設内でも加工が容易い小粒金や延金に鋳造した。
其等は《武田製の鉄砲》や《武田水軍》の整備等を始めとする、勝頼主導の秘密裏に進行している政策の、巨大な資金源となっていたのだ。
「堺では銀だけでは無く金も秤で計って使うのだ。小粒金でも砂金でも延金でも、甲州金で在れば別に構わぬよ」
宗二が長安に対して返答為ると、他の者から安堵の声が漏れる。此れで鉄砲の運用を思う存分行う目処が着いたからだ。
「勝頼様、此れで上杉・北条・徳川、そして織田…、四方を囲む大名共を蹴散らす目処が着きましたな!」
重秀の呼び掛けに対して、勝頼は慎重な姿勢を崩さなかった。
「いや…、今の武田家には4家全てを一度には相手出来ぬ。最終的には織田弾正(信長)殿と雌雄を決する事に相成ろう。だが其の前に後方の憂いを断ち、立ち塞がる障害を突破しなければ成るまい…」
「成程。詰まる処、上杉・徳川の動きを封じ込め、北条を攻め立てて再盟約を結ばせる事が肝要…という事で御座いますな?」
聞き返してきた信康に、勝頼は少し考えてから若干の修正を加えた。
「ふむ…。北条に関しては其れで構わぬ。駿東の深沢・興国寺の両城の攻略を引き続き進める。そして伊豆や奥武蔵に圧力を掛けて、北条を再盟約に追い込む…。上杉には警戒を怠らず、攻め寄せて来たら守りの戦を行う。寧ろ越中の一向一揆や椎名右衛門(康胤)を矢面に立てて動きを封じ込める…。但し、徳川の居る東海道は状況が変化しておるからな」
「左様。徳川を野放しに致さば、今川旧臣だった先方衆(外様家臣)達に動揺が走りだす。逆に三河や遠江の国衆を切り崩す為にも、此処は徳川に一当て致すが良策と心得る」
勝頼の言葉を引き継ぐ形で、幸綱が補足の説明を加えた。
其処に幸綱の実子で、北近江で徳川勢と刃を交えた昌幸が計略を献策する。
「勝頼様。遠江国衆に切り崩しを掛ける為らば、駿東を攻める間に《離間の計》を謀ってみては如何で御座ろうか?噂では今川旧臣の遠江衆は、近江姉川での大戦での大層無様な戦振りで、徳川家臣の間では針の筵、徳川三州(家康)の覚えも頓に悪いと聞きまする。此等の間に今から楔を穿てば、必ずや後から効き目が表れると考えまする!」
昌幸は参戦した《姉川の戦い》に於いて遠江衆を散々に翻弄し、謂わば遠江衆を此の状況に追い込んだ張本人であった。
そんな昌幸からの献策に、勝頼や幸綱は苦笑為るしか無かった。
「良かろう。此の計略は昌幸に一任致す。徳川家臣の切り崩しの為、見事成し遂げてくれよ」
「はっ、承知致し申した!勝頼様の御期待に見事応えてみせましょうぞ!」
相変わらずの自信家振りを頼もしく思った勝頼は、他の者達にも指示を出していく。
「虎房は旧い鉄砲と買い付けた硝石・玉鋼を受け取って戻って貰うが、鉄砲鍛冶を増やす為にも甲斐各地から野鍛冶(在野の鍛冶師)を集めておる。彼等を面通し致した上で善き者を高遠に連れて行くが良い」
「はっ、御心遣い、感謝致しまする」
「其れから、府中に届まる間に嫡男の(五郎左衛門尉)昌国への家督相続の手続きを済ませておくが良い。来月中に受領名を継がせ《筑後守昌国》を名乗らせよう」
鉄砲鍛冶村の普請奉行を引き受けた際に交わした約束を、勝頼が気に掛けて律義に果たしてくれると知った虎房は、感激の余りに平伏した侭で、言葉に詰まるのだった。
「次に信康と重秀は、早急に《10匁筒》と其れを操る者を揃えてくれ。百を越える程度でも別に構わぬ。徳川に一当て致すには是が非でも入用だ」
「承知致した!為らば其の任は郷左(信康)殿に御任せ下され。此の儂に弟子入り致して早9ヶ月、元々の素地も有った故に今では《雑賀衆》の妙手と肩を並べる業前で御座るぞ!」
雑賀衆の頃には3本の指に入っていた凄腕の鉄砲使いである重秀の推薦に、勝頼は信康に今回の筒衆(鉄砲隊)を率いさせる事にした。
「うむ、為らば此の度は10匁筒の衆は信康に率いて貰う。お主達が鍛え終わった使い手のみで構わぬ。師走(12月)の初めには河東地方に向こうてくれ」
「はっ!《武田家の鉄砲衆》として、必ずや御期待に御応え致しまするぞ!」
勝頼は信康の力強い返事に頷くと、重秀に話し掛ける。
「其れと重秀に頼みが有る。一昨日、刃傷沙汰を冒した両角助五郎と原甚四郎の両名の知行・同心を召し上げた。だが儂としては再起の機会を与えてやりたい。其処で、両名に信康同様に《鉄砲のイロハ》を叩き込んで貰いたいのだ」
「承知致し申した!此の孫一自ら両名を鍛えて進ぜましょうぞ!但し素人を一から鍛える故、生半可な事では難しいですぞ!」
重秀の《忠告》を勝頼は頷きながら了承する。
「構わぬ。2人が徒士武者に為るよりは、重秀の手で鉄砲の使い手に育つ方が大将に戻るには近道だろう…」
「成程。為らば勝頼様の書付けを預かって2人を説得致しまする。高遠に戻る折には2人共に連れて参りましょう!」
勝頼は重秀の返答に満足の呈を示して、宗二に向かって話し始める。
「宗二殿。では硝石の代金は長安から受け取って貰いたい。此れからも善しなに御頼み申す」
「はっ、此方こそ末永い縁と成ります様に祈念致しまする」
勝頼と宗二が儀礼を交わす中、長安が突拍子も無い事を提案し始めた。
「…勝頼様、代金の件は承知仕り申した。必ずや用意致しまする。が、其れと別件で某に一つ御願いが御座いまする。実は此度の《河東への後詰》に、某と我が配下に入った金山衆を御加え頂きたいので御座る」
「金山衆を…か?確かに父上は北条と共に武蔵松山城を攻めた折に、甲斐から金山衆を呼び寄せて掘り崩しを掛けたというが…」
長安からの提案に、勝頼は困惑の表情を浮かべる。信玄が前例を作っているとはいえ余りに唐突だったからだ。
しかしながら、松山城攻めに参加して間近に金山衆の働きを見ている幸綱が、無言で頷いて同意の意思を示すと、勝頼も長安と金山衆の帯同を認める事にしたのだった。
「…良かろう。興国寺城を包囲を始めて早半年、深沢城も取り返さねば成らぬ故、金山衆を使う事も有ろう…。では、予定通りに来月の朔日を以て軍勢を率いて河東の地へ出陣致す!皆の者、戦支度に遺漏無き様に致せぃ!」
『ははっ!』
勝頼が命じると看経所に居る全員が自然と平伏した。
勝頼の身体が纏う雰囲気は既に一武将の其れでは無く、新たな《武田家の当主》に相応しい覇気に満ちていたのだった。
勝頼が自ら率いる武田軍3千は、12月1日に河東地方平定を目的に甲斐府中・躑躅ヶ崎館を出陣した。
其の中には小荷駄隊に交じって、金山奉行・土屋長安と配下の金山衆も参陣している。
更に武田の領国である信濃・西上野から集まった軍勢が、南下する武田軍に次々と合流していく。勿論、甘利信康率いる《10匁筒》の部隊も追い付いて、本陣の一角を占めている。
既に武田領に組み込まれている河東地方西部の要衝・富士大宮城に入城為る頃には、武田の軍勢は1万以上に膨れ上がっていた。
そして大宮城と其の周辺には、既に駿河各地から参集した軍勢が集結を終えている。
其等と共に東進して、興国寺城を包囲する春日弾正忠虎綱率いる軍勢を併せた頃には、軍勢の総数は2万以上を数えたのだった。
興国寺城は沼津の地、愛鷹山から伸びる尾根の先端に築かれた城で、河東地方の東側を抑える要衝である。
また、此の城は北条家に取っては《早雲公旗揚げの城》として特別な意味を持っている。
其の為、北条家と今川家の境目の城として長年領有を争っていたが、武田家を交えた3国が同盟すると興国寺城は今川家に帰属する事となった。
其の後、武田家の駿河侵攻が始まると、北条家は河東地方を進出・占拠する。興国寺城も其の支配下に入り、垪和伊予守氏続が城代に任ぜられた。
対する武田家は元亀元年(1570年)5月から河東地方東部の駿東郡に進出、興国寺城も包囲されて氏続は城に籠城した。
8月には伊豆韮山城攻めに連動為る形で、春日弾正忠虎綱・馬場美濃守信春・原隼人允昌胤等を主将とする5千の軍勢が興国寺城へと攻め寄せた。
しかし、氏続が見事な采配を繰り広げ、武田軍に付け入る隙を与えなかった。
韮山城も落とせなかった武田軍は、河東地方の国衆に対する調略と興国寺城の包囲を春日虎綱に委ねて撤退、虎綱は周囲に付城を設けて包囲を続けている。
此の時点で、興国寺城は半年以上の籠城に耐え抜いており、未だに《三つ鱗》の旗を翻していた…。
「御待ち致しており申した。誠に残念ながら、我等は攻め手を欠いた状況で御座る。とは言え、長久保や深沢からの後詰は追い払っており申す」
巧みな用兵を駆使して、興国寺城への後詰を完全に阻止してきた春日虎綱が、本陣を設けた陣屋で勝頼達に話し掛けた。
「うむ…。しかしながら京に居る浄閑斎(今福友清)殿からの報せでは、間も無く浅井・朝倉と織田・徳川の間で矢止め(停戦)と相成りそうだ。どうやら弾正(信長)殿は《袞龍の袖》に縋ったようだな…」
《袞龍の袖に縋る》の袞龍とは天皇の装束であり、袞龍の袖とは皇帝自身の事を表す。
つまりは今上帝(此の時は正親町天皇)の権威に縋って、討伐の名目を得たり和議の仲介を願い出る事を指す。
此の時点で織田信長は多くの敵と交戦状態に入っていた。
北近江の浅井下野守久政・備前守長政親子。
南近江の六角承禎(義賢)・義治親子。
越前の朝倉左衛門督義景。
摂津の三好三人衆。
そして法主・顕如光佐率いる本願寺である。
彼等による《織田家包囲網》と織田勢の間で摂津・近江・北伊勢等で戦闘が繰り広げられた。
9月には近江宇佐山城で森三左衛門尉可成・織田九郎信治(信長弟)・青地駿河守茂綱が、11月には近江堅田に於いて坂井右近尉政尚、尾張小木江砦では織田彦七郎信興(信長弟)が夫々(それぞれ)討死している。
織田信長は此の難局を打破する為に、幕府だけでは無く朝廷にも働き掛ける事で浅井・朝倉との和睦を画策したのだ。
将軍・足利義昭は、元々は浅井・朝倉等を裏で焚き付けた張本人である。しかし義昭は、和議を望む朝廷の意向に逆らうだけの気概は持ち合わせていなかった。
一方の盟主である朝倉義景としても、補給無き侭に比叡の山上で越年するよりは、本国である越前との連絡線が断たれる前に帰国為る事を望んだのだ。
結局12月13日に《江濃越一和》と呼ばれる和睦が結ばれる。織田勢が浅井・朝倉勢に人質を出した上で、双方が西近江から撤退為る事になった。
また、六角勢とも11月21日に和睦が成立しており、信長は正に《虎口》から抜け出す事が出来たのである…。
幸綱が現在の畿内の状況を大まかに説明を終えると、勝頼は立ち上がってから今後の方針を明らかにする。
「織田家と浅井・朝倉両家が、長く続かぬとはいえ近い内に和睦を致すのは必定。然すれば手伝い戦に出ていた徳川勢が駿河表に出張って来るであろう。其の前に駿東郡の城に攻め寄せ開城に追い込み、返す刀で徳川勢に一当て致して、遠江の国衆の離叛を誘うのだ!」
「…四郎殿、儂は其の案には反対致す。経験が浅いそなたには判らぬやも知れぬが、徳川に戦を仕掛けては、其の後盾である織田弾正殿を無用に刺激しよう。寧ろ此処は徳川を攻めずに北条の領国を切り取るべきだろう」
勝頼の方針に真っ向から反対したのは、穴山左衛門大夫信君である。信君の言葉遣いの端々に、(陣代に過ぎない)と勝頼を軽んじる態度が滲み出ている。
しかし御親類衆の筆頭格とも言える信君の意見は重く、同席為る者達からも賛意が漏れて来た。
其処に、同じ御親類衆である一条右衛門大夫信龍が意見を述べる。
「いや、此の侭では四方を敵国に囲まれて、擂り潰されるは目に見えておる。先ずは北条に和睦を呑ませ、其の一方で徳川に一当て致さば、上杉と織田の腹積もりも読めて来るだろう。某も勝頼様…いや、左京様の御意見に賛同致す!」
「左様、上杉も上野に出て参ったが、異様に動きが鈍う御座った。しかも既に帰国致したらしい。上杉と徳川が盟を結んでおる為らば、徳川に一当て致して探りを入れれば、何かしら判るやも知れませぬからな」
信龍の意見に西上野の将兵を引き連れて参陣した内藤修理亮昌秀が同意した。
昌秀は西上野の守りを小幡信竜斎全賢(憲重)上総介信実親子にを委ねて来ていた。
既に4月には北条から人質が預けられているにも拘らず上杉勢の動きは鈍かった。
(此の時の人質は上杉輝虎の養子と為り《上杉三郎景虎》を名乗っている)
武田家とは利根川を挟んで睨み合いと小競り合いを行うのみで、未だに本格的な交戦には至っていない。
昌秀は警戒を厳に行いつつも、上杉の家中に何かしらの事態が有ったのでは、と考えていたのだ。
因に、此の年、上杉輝虎は一度《卒中》(脳梗塞)によって倒れていた。幸い回復したものの、左足に麻痺が残る《左下肢不随》になっていたのだ。
其の様な中、9月から上野厩橋城に出陣したが、武田軍と本格的な交戦を行う事無く越後に戻っている。
帰国後の12月13日に輝虎は越中平定の祈願と同時に出家し、以後《不識庵謙信》の法名を名乗る事に為るのだ…。
《武田の副大将》と呼ばれる昌秀の発言に、多くの侍大将が納得した。此れにより、大勢の意見は勝頼案の支持に傾いていった。
勝頼は其れを見計らった上で立ち上がると、力強い目線で諸将を見渡しながら武田軍の方針を宣言した。
「では、先ずは駿河に残った北条方の持ち城を開城に追い込む。同時に海賊衆に西伊豆を襲わせ後方を撹乱致す。また、常州太田の佐竹常陸介(義重)殿や総州久留里の里見岱宗(東陽院岱宗・里見刑部少輔義堯)殿に繋ぎを入れて、北条の動きを封じ込めるのだ。河東一円を統べ、北条家の動きを封じた上で、遠江に兵を進める!」
勝頼は一息に言い切った後、諸将の反応を確かめると少しだけ自らを落ち着かせる。
「…但し此度は深入りは致さぬ。飽く迄も徳川に従う遠江・三河の国衆・領民に、武田の武威を示して徳川からの離叛を誘うのだ。そして守り難し城は破却致して、守るに足る城は城兵を置いて武田領に組み込んでゆく」
勝頼は言葉を再び切ると、鋭い眼光で諸将を見渡して檄を飛ばす。
「善いか!徳川とは此度と別に今一度闘わねば成らぬのだ!そして北条は再び盟約に追い込む必要が有る。其の刻の為にも、武田の強さを十分過ぎる程貴奴等の骨身に刻み込んでやろうぞ!」
『応っ!』
勝頼の檄に応じて、勝頼に近い重臣や武将・足軽大将達だけでは無く、参集した殆どの者達が掛け声と共に興奮して立ち上がる。
彼等は勝頼の中に《武田法性院信玄の後継者》としての実力を見出し始めていたのだった。
一方で勝頼の変化に対して、信君や信玄の弟の武田刑部少輔信廉・武田(川窪)兵庫介信実、娘婿の木曾左馬頭義昌、従兄弟の小山田左兵衛尉信茂等は、渋々立ち上がりながらも苦々しい表情を浮かべていた。
中でも自他共に《御親類衆筆頭格》を自負していた信君は、憤懣やるかたない心境であった。
(ふんっ、四郎如きは所詮は諏訪の妾腹の出自、《甲斐源氏》の血が半分しか流れておらぬでは無いか!儂は母が御屋形様(信玄)の妹姫(南松院)、我が妻も御屋形様の姫君(後の見性院)だぞ!太郎(義信)殿が存命為らばいざ知らず、彼の者よりは儂の方は武田の血が濃い!武田の次の棟梁は儂こそ相応しい筈じゃ!おのれぃ…、今に見ておれ…)
勝頼を睨む信君の瞳に一瞬暗く妖しい光が宿る。しかし其れを直ぐに押し殺して、諸将の動きに倣って掛け声を発するのだった。
勝頼率いる武田軍は其の翌日から、興国寺城の出城の役割を果たしていた砦を虱潰しに落として包囲の輪を更に狭めていく。
同時に城の南東、伊豆に近い狩野川河口付近の沼津三枚橋の地に在った砦の大改修を開始した。
元々は、北条家が対岸の伊豆戸倉城と河東地方の繋ぎの為に築いた砦だった。
其の砦の改修に、勝頼は足軽だけで無く土屋長安率いる金山衆、金で雇った近隣の人夫迄も動員させた。
そして年の暮れ迄には《武田流築城術》の縄張りの特徴である、同心円状に配置した空堀や馬出しを備えた城が姿を現した。
櫓等の建物は未だ備えていないとはいえ、此の《三枚橋城》を春日虎綱に預けた。
虎綱は三枚橋城を本陣に興国寺城包囲を続ける。其の一方で駿豆国境の抑えとして、此の城に細かな改修や櫓の建造を進めていくのだ。
興国寺近辺での幾つかの作業を終えると、勝頼は主力を率いて黄瀬川沿いを北上を開始した。
目指す最初のは河東地方の北東端に位置する要衝…深沢城である。4月に北条に陥とされた侭に為っている此の城を、奪還するべく動き出したのだった。
こうして動乱の元号《元亀》は、其の最初の年を終えていった。
しかし、大八島に吹き荒れる動乱の嵐は未だに止む気配は無く、むしろ激しさを増していくのである。
今回、史実より7年早く沼津に城を築きました。この城によって、北条の反撃を封じ込める事になる予定です。次回は《深沢城攻め》を中心とした河東地方での北条との戦いと、西駿河を窺う徳川との小競り合いの話になる予定です。未だに投稿が遅い上に乱文ですが、また次回も読んで頂ければ嬉しく思います。