捌之余之参:姉川異聞(下)〜敗走〜
今回は番外編の後編、武藤(真田)昌幸の《姉川の戦い》参戦の完結編になります。いつも以上に長文になってますが、読んで頂ければ嬉しく思います。
辺り一面を真夏の熱気と血肉が醸し出す臭気、そして此の地に集った合計3万以上の軍勢の喚声と殺気に満ちている。
近江国浅井軍の姉川流域に於いて此の日…元亀元年(1570年)6月28日の払暁から始まった戦いは、開戦から3刻(約6時間)を経過した頃に新たな局面を迎えていた。
最初は浅井・朝倉勢の先陣が、南岸に布陣した織田・徳川勢に対して優勢な戦いを進めた。
浅井勢は磯野丹波守員昌勢を先頭に倍以上の織田勢を押し捲り、遂には当主・浅井備前守長政自ら本備を率いて南岸に押し渡った。
一方、朝倉勢先陣も緒戦に快勝して徳川勢を防戦一方に追い込んだ。
徳川三河守家康は本陣を張る岡山から、《旗本先手役》本多平八郎忠勝に軍勢の一部を預けて防戦させた。
しかし反撃を期する家康は、本陣から同じく《旗本先手役》榊原小平太康政に兵5百を与えると、姉川北岸で未だに参戦していない朝倉勢第2陣の前波藤右衛門尉景当勢を側面から襲わせたのだ。
其の策は図に当たり、渡河を開始していた前波勢は壊走し、朝倉勢総大将の朝倉孫三郎景健は此の地から撤退を命じてしまったのだ。
未だに対岸で戦う浅井勢と朝倉勢先陣を戦場に残して…。
使番から報せられた《前波勢崩壊・景健勢離脱》の報は、瞬時に戦場を駆け巡る。
其れは南岸に取り残された朝倉勢先陣と浅井勢から戦意を奪い去るには十分過ぎる物であった。
瞬く間に攻勢は鈍り、足軽ばかりでは無く肝が据わらない武将達も浮足立ち始めた。
其れを見極めた織田弾正忠信長は、浅井勢を殲滅するべく全軍に攻勢に転じる命令を下した。
「浅井の周りの者共は直ぐに攻め立てよ。五郎左(丹羽長秀)は川下、卜全(氏家直元)と平左(安藤範俊)は川上から周りこめ。右衛門(佐久間信盛)は手筈通り。稲葉右京(良通)は五郎左に寄騎せよ。三河殿にも使いを出せ」
「御意!直ちに伝えまする!」
信長の上意を夫々(それぞれ)の武将に伝えるべく、堀久太郎秀政を始めとした近習・小姓達が一斉に動き始める。信長の命令を聞いた時点で己が行うべき事を各々が理解しているのだ。
信長は無言の侭、小姓達から兜を被せて貰いながら、眼前の戦場の中心に居る筈の義弟・長政に心中で語り掛けるのだった。
(長政…。俺を裏切った代償は家臣の血で贖って貰うぞ。浅井家の道を誤らせた連中を根切りに致して、二度と逆らえぬ様にしてやろう…)
だが混乱の度合は、浅井勢よりも朝倉勢先陣の方が大きかった。後の前波勢が壊走し、本陣は戦わずに逃げ去ってしまった。自分達だけが姉川南岸に取り残されてしまったのだ。
「皆の衆、落ち着くのだ!此処で浮足立って《見崩れ》や《聞き崩れ》を起こしては敵の思う壺だぞ!」
今にも逃散しそうな軍勢を保つ為に真柄直隆・直澄兄弟や印牧弥六左衛門能信、そして三段崎勘解由左衛門紀存(敦賀郡司家家老)等が必死に声を掛けている。
しかし自分達の孤立した状況が判ってしまった為に、すっかり戦意が挫けているのだ。
因に《見崩れ》とは味方の敗走を目撃して釣られて軍勢が壊走する事、《聞き崩れ》は味方の敗北の報告や噂で軍勢が壊走する事である。
更に其処に徳川勢が攻勢に転じて、混乱に益々拍車が掛かる。侍大将達は浮足立ち、足軽達は的確な指示が無く、己が何を為れば良いのが判らぬ侭に次々と討ち取られていく。
其の時、朝倉勢浪人衆が居る場所から何本もの矢が一斉に天空に放たれ、ブゥゥンと遠くに響く笛の様な音が戦場に鳴り響いた。
「ん…鏑矢か?治承・寿永の戦(源平の戦い)では有るまいし、誰があんな古臭い物を…?」
怪訝に思った朝倉・徳川の両勢が一瞬御互いに動きを止めて空を仰ぎ見る。
其の瞬間を見計らった様に、浪人衆の処から陣太鼓の音が鳴り響き、同時に数ヶ所から大きな叫び声が聞こえた。其れは異口同音に全く同じ内容を指示していた。
「中央の真柄勢を軸に方円陣を組むのだ!此の侭各々が戦うてはなぶり殺しに遭うぞ!」
此の太鼓の音と指示する声を聞いた朝倉勢の武将や足軽大将は、ハッとして己の手勢に命令を下す。
「ま、正に其の通りじゃ!陣替えを致して真柄殿を中心に先陣全体で相手を退けるのじゃ!」
「よし、彼の陣太鼓は正しく《陣替え》の合図だな!良いか!此れからは徳川相手の殿軍の戦だ!周りの同輩と呼吸を合わせて進退を計るんだ!」
太鼓の音と呼び掛けた大声を契機に、半ば烏合の衆に為り掛けていた朝倉勢先陣が息を吹き返したのだ。
勿論、陣太鼓を鳴らして指示を伝えたのは滋野源五郎こと武藤喜兵衛昌幸と、彼が信濃から連れて来た20人の《真田忍び》達である。
敢えて鏑矢という古い道具で一瞬だけ気を引き付けた上で、朝倉勢全体に散開させた忍び達が鏑矢と陣太鼓を合図に同じ内容を叫んで指示したのだ。
「よし…。此れで先ずはむざむざ討ち取られぬ様には出来た筈だ。次は軍勢を纏める迄、彼の者を防ぎ止めねばな…」
太鼓の撥を小者に扮した繋ぎの忍びに手渡しながら、そう呟く昌幸の視界の中心には、先程から采配を競っていた《鹿角の兜の武将》が写っている。
「叔父上。拙者は此れより、彼の鹿角の騎馬武者を防ぎ止めまする。叔父上は浪人衆を率いて、印牧殿・真柄殿・三段崎殿と合流して下され!伊賀殿には我が手勢である《騎馬20騎・足軽30人》を預け申す故、一時采配を御願い致しまする」
昌幸は己の馬に騎乗しながら、隣に居た己の叔父(真田幸綱の次弟)である矢沢右馬助綱頼に話し掛けた。
「承知した!浪人達は儂に任せておけ!伊賀殿、我が甥の援護を頼みまする!」
「御任せ下され!しかし滋野殿、如何して貴奴等を防ぎ止め致される?」
雑賀衆50人を率いて昌幸に寄騎する佐竹伊賀守義昌が質問してくる。連れて来た雑賀の鉄砲使いは、流石に歴戦の者達らしく未だに50人全員が欠ける事無く無事に残っているのだ。
「うむ、最早敵を破る事は無理で御座ろう。因って1人でも多くを小谷に落ち延びさせる事が肝要。伊賀殿には手勢を損なわぬ様にしながら敵を防ぎ止めて頂きまする。くれぐれも宜しく御頼み申す」
「承知致した!では皆の衆、何としても無事に殿軍を果たして帰ろうでは無いか!」
『応っ!』
信濃から連れて来た手勢や雑賀の鉄砲使い達が檄に応じるのを聞きながら、昌幸は《鹿角の武将》の動きに集中している。
彼は騎馬に乗った侭、片手で大身槍を振り回しながら陣頭で指揮を揮っている。
(奴は采配は的確な上に槍捌きも見事な物だ。浪人達では恐らく数合と持つまい…。奴を暫し足止めせねば陣替えを掻き乱されかねん…。よし!此所は儂自身が前に出る!)
昌幸そう思い定めると、自らの槍を握り直して馬を《鹿角の武将》の方に寄せて行く。
《鹿角の武将》…本多忠勝も自ら槍を振るいながら、浪人衆の采配を揮っていた武将を目で追っていた。
(小平太が朝倉の後備えを崩さなければ危なかった。鏑矢と陣太鼓も彼の者の策に相違無い。軍配では敵わぬ為らば、槍捌きを以て打ち破るのみよ!)
忠勝は隣に馬を並べる旗本先手役の同僚・都築惣左衛門秀綱に手勢の指揮を一時的に預けると、自らの郎党のみを率いて朝倉勢との最前線に躍り出たのだ。
「此の軍勢を率いる者は何処に居わすか!三河守(家康)様の旗本である此の儂と、いざ尋常に立ち会えぃ!」
忠勝は1丈3尺(約394センチ)の黒塗りの柄に刃渡り1尺4寸2分(約43センチ)の刃を備えた愛槍を軽々と振るっている。
刃に止まった蜻蛉が真っ二つになる程の切れ味から《蜻蛉切》と異名で呼ばれる名槍である。
「ええぃ、儂の邪魔に為る奴等は《蜻蛉切》の錆に致すぞ!」
忠勝の行く手を阻もうとする者達は、数合も保たずに殺されていく。
次第に騎馬で疾駆する忠勝は、郎党達も置き去りにして《一騎駆け》の様に切り込んで行く。
為ると、忠勝の正面がパッと左右に別れ、其の中を1騎だけ騎馬が進み出て来た。己が手勢を預けて来た昌幸である。
「逃げずに出て来た様だな!我れは徳川三河守様が家臣、旗本先手役の本多平八郎!いざ尋常に勝負致せ!」
忠勝の闘志迸る掛け声に、昌幸は少し口角を上げながら応じる。但し其の不敵な顔付き故に、相変わらず相手を挑発してる様に見えた。
「やれやれ、こうでもしなければ周りの連中が逃げ難うして敵わぬでは無いか。まぁ出来得る為らば拙者も見逃してくれれば助かるが、お主も役目上そうは行くまい…」
「抜かせっ!其の人を小馬鹿に為る口調を常世国で後悔させて呉れるわ!」
忠勝はそう言い放ち、槍を頭上で回転させながら突撃して来る。左腕は手綱を握った侭で右腕1本で《蜻蛉切》を操り一気に距離を詰めて来たのだ。
逆に昌幸は両足の鐙に力を込めた上で、両腕で大身槍を握り直した。
「うぉりゃぁ!」
忠勝の繰り出す突きを、昌幸は自らの槍で弾き跳ばす。
しかし忠勝は弾かれた瞬間、直ぐに体勢を立て直して2撃目を繰り出して来る。
昌幸が鐙のみを使って巧みに馬を操り身を捩ると、忠勝は更に3撃目を放って来るのだ。
(何と!流れるが如き見事な槍捌きだ!普通の者は数合保たぬのも頷ける…。だが馬を操るのは儂の方が断然長けておる。周りが陣替え致す迄何としても無事に堪えねばな…)
昌幸は両足のみで巧みに乗馬を操りながら忠勝の攻撃を躱し続け、幾度かは逆に反撃も繰り広げた。
しかし忠勝の槍の技量は昌幸の予想よりも遥かに上をいっており、数十合を過ぎた頃から昌幸は次第に防戦一方に陥っていく。
そして昌幸が忠勝の攻撃を百合以上に渡って避け切ると、忠勝は攻撃をしながら昌幸に対して降伏を進めて来た。
「儂の槍捌きを此処迄耐え抜いたのはお主が始めてだ!お主為らば十分に旗本としても働けよう。もし良ければ儂が殿に推挙致そう!どうじゃ?勝ち目無い朝倉殿を見限って降参致さぬか?」
「お主の御厚意、誠に有り難く存ずる。だが残念ながら徳川三州が仕えるに値する君主とは到底思えぬ故、御断り致し申す!」
そう返答しながら、昌幸が繰り出した攻撃を、忠勝は《蜻蛉切》の柄で受け止める。良く見ると柄の部分は激しい攻撃と昌幸に対する防御で罅が入り始めている。
(よし!攻め処は恐らく此処のみだ!此処で為損じたら首を討たれるぞ!)
昌幸は己の槍を捻るように繰り出し、忠勝の《蜻蛉切》に絡ませて攻撃を封じる。
「ぐっ!おのれっ!」
忠勝が絡んだ槍を振り払おうと両腕で握り直して力を込めた瞬間、昌幸は忠勝の凄まじい膂力を利用して、柄の部分に過度な負担を与えた。
すると、絡んだ2本の槍の柄から次第に補強が弾け飛び、最後にはバキッと音を立てて2本共に叩き折れてしまったのだ。
「な、何とした事だ!儂の《蜻蛉切》が…、おのれぃ!」
己の愛槍を壊された忠勝は、一瞬茫然自失に為ったものの、顔を熟柿の様に真っ赤にして怒り出した。
しかし相手の槍を壊した時点を頃合と考えていた昌幸は、其の刹那に次の行動を起こす。陣替えを成功させて後退を始めた朝倉勢に向かって乗馬を駆けさせ始めたのだ。
「此度は此れにて失敬致す!縁が有ればまた戦場で遭うだろう!ではさらばじゃ!」
「おのれっ!逃がすか!」
昌幸を追い掛けようとした忠勝に、都築秀綱が騎馬で駆け寄って来る。
「平八郎殿!殿からの御下命で御座るぞ!儂等は此れより本陣や西三河衆と共に、稲葉勢を寄騎致して浅井勢を攻める様に、との仰せだ!」
「何と!貴奴に《蜻蛉切》を折られた侭逃がせ、と言うか!」
「そうじゃ!穂先が有れば柄はまた作れろう。其れより殿からの御下命の方が一義だろうが!」
秀綱に言われて冷静に考えた忠勝は、昌幸の追撃を諦めた。追い付いた家人に折れた《蜻蛉切》を預けると、他の旗本と共に龍ヶ鼻に向かって駆け出した。
(おのれ…彼の浪人は名前を名乗らなかったが、此の屈辱は必ずや返してくれる!覚えておれ!)
口には出さないものの、忠勝は無傷とはいえ其の心中は敗北感と捲土重来への決意が渦巻くのだった。
此の後、忠勝は《蜻蛉切》の柄の部分の長さを2丈以上に作り替え、青貝の螺鈿で飾り付けた。
後に忠勝の技量も相俟って《蜻蛉切》は諸国に名槍として知れ渡る様に為る。
そして、忠勝と昌幸は2年後の冬に遠江に於いて再び相見える事になるのだ。
忠勝を振り切った昌幸は、川沿いに迄後退していた朝倉勢先陣に向かって馬を駆けて行く。
既に徳川勢は岡山周辺の本陣・西三河衆と対岸の三田村の榊原勢が、織田家の稲葉勢と共に東へ移動を開始しており、新たに本多勢も龍ヶ鼻へ移動を開始した。
其の結果、朝倉勢には東三河衆・遠江衆が攻撃を続けている状況で、朝倉勢先陣は姉川の南岸に迄退いて抗戦していたのだ。
其の最前線では真柄直隆・直澄兄弟が懸命に戦い続け、彼等に遠江衆の匂坂式部・五郎次郎・六郎五郎兄弟が山田宗六等の郎党と共に襲い掛かっていた。
「堪えろ!皆の者、此処が切所じゃ!何としても押し返すのじゃ!」
直隆は声を振り絞って一族や郎党を励まし、直澄や隆基が必死になって群がる徳川勢を退けている。
昌幸は騎乗した侭で太刀を抜き放つと、速度を落とさぬ侭に匂坂一党に切り込んだ。
「滋野源五郎、真柄殿に助太刀致す!命冥加を長らえたい為らば、其処を退くが良い!」
昌幸が騎馬で切り込みを掛けて、匂坂方の郎党数人を斬り殺すと匂坂一党は怯みを見せ、其の隙に真柄勢は敵との距離を開けて態勢を立て直した。
昌幸は匂坂一党を退けてから直隆達に馬を寄せて話し掛けた。
「済まなんだ、真柄殿!徳川の鹿角の槍使いの気を逸すのに時間が掛かってしもうた!」
「滋野殿、忝い!御陰で兄弟共々命拾い致した!其れと今は印牧殿が渡河を采配しておるが、三段崎殿は討死された様だ!」
敦賀郡司勢を率いてきた三段崎紀存の訃報を聞いた昌幸は、黙祷をした後に直ぐに気持ちを切り替えて直隆に対して殿軍に加わる様に要請する。
「勘解由殿が…。誠に残念為れど、今は寸刻が惜しい!先ずは徳川勢を押し戻して隙を作り、一気に姉川と北側の草野川迄渡り切る!真柄殿御一党には拙者と共に殿軍を務めて貰えぬか?」
先程迄戦い続けた上に厳しい戦況にも関わらず、直隆達は昌幸の要請を二つ返事で快諾した。
「うむ、承知致した!為らば儂自身や直澄も含めて殿軍の采配を滋野殿に御預け致す!宜しく御頼み申す!それと隆基を滋野殿の護衛に御付け致そう!」
「其れは有り難いが…、十郎三郎(隆基)殿は構わぬのか?」
昌幸は隆基本人の意志を確かめた。出陣前、初対面の折に組み合った為に昌幸は一抹の不安を覚えたのだ。
「勿論で御座る!むしろ、某から御願い致しまする。滋野殿の見事な采配、側で護衛しながらじっくり学ばせて貰いまする!」
隆基の言葉を聞いた昌幸は刹那の間だけ瞑目してから真柄勢に呼び掛けた。
「…承知致した。為らば此れよりは織田・徳川を相手の退き戦(退却戦)を采配致す。方々(かたがた)、今一度気を引き締めなされよ!」
『応っ!』
真柄勢の掛け声と共に再開した朝倉勢の退却戦に於いて、昌幸は綱頼や義昌らが率いていた己の手勢と真柄一党を殿軍とした。
そして双方が後退と援護を交互に繰り返す《繰り引き》によって姉川を渡河して徐々に北上を始めた。
相手するべき遠江衆・東三河衆は、度重なる損害で武将は兎も角足軽達は戦闘意欲が低下しており、此の局面は朝倉勢優位に進んでいった。
一方、印牧能信は先陣の内で滋野勢・真柄一党を除いて残存している軍勢全てを率いて、先行して姉川と北側の草野川を渡り切った。
そして昌幸からの指示に従って直ちに幾つかの小勢に別れた上で、ある準備を始めたのである…。
太陽が真南に差し掛かり正午を迎えた頃、戦況は織田・徳川勢による追撃戦へと移っていた。
織田勢により包囲された浅井勢は、直ちに姉川南岸からの脱出を計り始めた。
第2陣を率いた浅井政澄を始め多くの者が討死した中、先陣の磯野員昌勢は南近江の佐和山城へ離脱、第3陣の阿閉貞征勢・第4陣の新庄直頼勢も、多数の死傷者を出しつつも北近江へ敗走しだした。
一度は姉川を渡った浅井勢本陣も、長政実弟の浅井石見守政之が長政の身代わりと為って討死。
更に弓削六郎左衛門尉家澄や今村掃部助氏直等の武将も楯と為って討死する中、漸く姉川を再渡河を果たして開戦時本陣を置いた野村の地を通過していた。
「ええぃ!浅井備前は川を渡ってしもうたぞ!追えぃ!何としてでも備前が首を刎ねるのじゃ!」
浅井勢を駆逐して、織田の大軍勢でごった返す姉川南岸の岸辺で、木下藤吉郎秀吉は配下の武将達に追撃を命じた。
既に彼の軍勢は浅井政澄・浅井政之の2将を討ち取っている。此れに浅井長政を討ち取れば、間違い無く最大の戦功と為るだろう。
其の功が城持ち武将や家老、延いては寡婦と為るであろうお市の方の後添いの座に繋がる、と思っているのだ。
(お市様…。今暫く御待ち下され。貴女様の柔肌を儂の物に致しますからなぁ…。然すれば儂は信長様の義弟、家老どころか宿老にも駈け登れる!)
秀吉は北叟笑みながら悦に浸っていたが、彼の追撃指示に異議を唱える者が現れた。
「御待ち下され。払暁から此れ迄の戦で、我等が手勢は無視出来ぬ損害が有りまする。追い討ちは他勢に任せて、先ずは手負いの者を後に下げて手勢を纏め直すが先決か、と心得まする」
「半兵衛!此処で長政を逃がせば此の戦の後に禍根を残す事に為るぞ!」
秀吉に意見した此の男の名は竹中半兵衛重治。元・美濃斎藤家の家臣である。
重治の名が世間に知れ渡ったのは、永禄7年(1564年)2月に主君の斎藤龍興を諌める為に居城の稲葉山城を奪取した事による。
其の後、再び斎藤家に稲葉山城を返還した後は浅井家に客分として身を寄せた。
斎藤家滅亡後は秀吉の寄騎として織田家に仕え、秀吉の参謀に就いて浅井家臣の調略に力を発揮している。
今回の戦では木下勢の前衛を率いる秀吉弟の小一郎長秀(後の秀長)に付いて、実質的に此れを指揮して勝利に貢献した。そして秀吉からの追撃命令に再考を促す為に訪れたのだ。
重治は《三国志》の諸葛孔明を彷彿とさせる柔らかな物腰で語り掛けて来る。
「確かに浅井備前を討ち取れば、藤吉郎殿の功は比類無いでしょう。しかし未だに朝倉左衛門(義景)は出陣致さず、兵力を温存致しておりまする。今後の戦の事も有りまする故、此処は敢えて無理は致さず兵を慰撫致すが良いかと心得まする。其れに…」
「其れに…何じゃ!半兵衛、早う申してみよ!」
重治の溜めた言い回しに苛立った秀吉は、次の言葉を迫った。すると重治は声を落として秀吉にしか聞こえない様な小声で囁く。
「…今、備前殿が身罷られてはお市様も後を追いましょう。お市様を無事に救い出す為には、余程頃合を見極めねば為りませぬぞ」
秀吉は己の中の下卑たる欲望を見透かした様な重治の智謀に不快の念を持ったが、態と笑顔を作り明るい口調で話し掛ける。
「勿論じゃ!信長様の大切な妹御じゃからな!御無事に御救い致すのも家臣として当然の務めじゃ!」
「では、先ずは一旦は手勢の再編を致した後に追撃を行う、という事で如何ですか?恐らく半刻(約1時間)で整いましょう」
「うむ、半兵衛の言を良しと致そう!手負いの者は直ぐに金瘡医に見て貰え!元気な者は今の内に飯を喰ろうておけ!小荷駄を受け取ったら直ぐに川を渡るぞ!」
重治からの念を押した質問を受けて、秀吉は意識して明るい口調で周りにも向けて命じるのだった。
因に、此の戦いの後に秀吉は横山城主に任じられて重臣の列に加わる事に為る。
そして対浅井戦の最前線を、約3年に渡って守り続けるのである。
一方、織田・徳川勢の追撃を振り切るべく北上の脚を速めた浅井勢だったが、草野川の手前に新たな軍勢が前途を塞いでいた。
開戦時は龍ヶ鼻東麓の最後方に陣して、此処迄全く参戦していない佐久間信盛勢2千である。
信盛は黎明前の信長からの命令により、姉川の上流を渡河して草野川南岸に進軍、敗走する浅井勢の退路を塞ぐべく陣を張っていたのだ。
多くの者が逸れて20人程に減少していた長政一行には、明らかに突破不可能な兵力差である。
「最早此処迄か…。此れ以上逃げても致し方無い。喜右衛門、済まぬが介錯を頼む。そして首をお市に届けてくれぬか?」
長政は同行する遠藤直経に切腹の介錯人に為る様に頼んだが、直経は自害為る事を強く制止した。
「殿!簡単に腹を召されてはなりませぬ!何故に石見(政之)様が身代わりと為って迄して殿を落ち延びさせたと御思いか!」
「喜右衛門の申す通りで御座る。未だに善右衛門(海北親綱)殿を始め多くの者が殿を逃がすべく踏ん張っておるのに、殿は其れ等の働きを無駄に為さる御所存で御座るか?それに殿が亡くなっては浅井家には織田弾正(信長)と互し得る者は御座いませぬ。皆、殿に浅井家の未来を託しておるので御座る」
直経の言葉を継いで、重臣の赤尾清綱も長政を諭していく。しかし長政は悲観的な考えを変えようとはしない。
「だが此の軍勢を突破出来ると思うか?縦しんば抜けたとしても小谷城に着く前に追い付かれよう…」
「否!此処さえ抜けば某に弾正(信長)を止める策が有り申す!決して諦めては為りませぬぞ!」
直経が強い口調で長政を諭すと、周りに残った馬廻り達に言い放つ。
「者共!殿を御守りして敵陣の右手、西側を抜けるぞ!我に続けぇぃ!」
長政一行は直経を先頭に、佐久間勢の西側に向かって駆け出し始める。
馬廻り達も全滅してでも長政を逃がす覚悟で、敵との距離を詰めて行く。
しかし、突如佐久間勢の右手の奥の方から発砲音が轟き、陣形が後方から崩れ始めたのだ。
長政は此の好機を見逃す様な事はしない。自らが指揮を取って混乱する敵陣に攻撃を仕掛ける。
「何だ?何が起きたか知らぬが今が好機だ!彼の隙間に切り込みを掛けよ!喜右衛門、行くぞ!」
「殿に後れを取るな!命を惜しむな!名こそ惜しむのだ!突っ込めぇぃ!」
直経の号令と共に、浅井勢は一丸と為って突撃する。普通為らば鎧袖一触で全滅する兵力差だが、後方を襲われて《裏崩れ》を起こした佐久間勢右備えは、たいした反撃も出来ない状態に陥っていた。
「此れは拙い。兵力では我等が圧倒的に上なのだ。東にずれて、敵との間に仕居場を開けよ。裏崩れを起こした右備えは東側に逃がして再編させよ」
《退き佐久間》の異名に相応しく、佐久間信盛は早急に立て直すべく自らの軍勢を東側に移動させる。
其の上で奇襲された右備えを陣の後ろ側に後退させて、損害を最小限に抑えて新たに仕切り直す策を取ったのだ。
しかし其の動きこそが奇襲を仕掛けた側…朝倉勢殿軍を率いる昌幸が望んだ事だった。昌幸は草野川へ北上中に逃げる浅井勢を見つけて、保護するべく軍勢を迂回させたのだ。
「流石は《退き佐久間》だ。下手を打つと崩れてしまう中で良く纏めておる。まぁ、だからこそ次の手が読めるのだがな」
自らも馬上から太刀を振るう昌幸はそう呟くと、軍勢を動かして浅井勢を保護するべく指示を下す。
其処に1人の武将が昌幸に近付いて来る。開戦前の軍議で御互い見知った遠藤直経であった。
「おおっ!お主はたしか朝倉の浪人衆の滋野殿で御座るな!態々(わざわざ)助けに来て貰うとは誠に忝い!」
「御貴殿は大依山の遠藤殿で御座るな!備前守(長政)様の処には真柄十郎左(直隆)殿が向かわれた!御安心召されよ!」
「其れは何より重畳…。滋野殿、お主の御手並は配下の伊賀者から聞いており申す。何卒殿の御身を小谷迄御連れ願いたい。織田の脚は某が必ずや止めてみせまする!」
直経の言い回しに怪訝なものを感じた昌幸だったが、刹那脳裏に或る故事が浮かんで来た。
「…遠藤殿!御貴殿は《荊軻》の顰に倣われる御積もりか?其れは無理で御座る!御命を粗末に為されるな!」
荊軻とは古代中国・春秋戦国の末期の燕国の刺客で、秦の始皇帝の暗殺を企てた人物だ。
同行した仲間の怯懦の為に露見しながらも、始皇帝をあと一歩の処迄追い込んだ事から、《歴史上最も有名な刺客》と言われる人物である。
直経は昌幸からの質問には応えずに、ただ己の固い決意を語る。
「例え織田弾正を殺せなくとも刺客に命を狙われれば追撃の手が緩む筈。其れで殿の御命が長らえる為らば、此の命は惜しくは無い!」
「しかし弾正殿を討ち取るは至難の業。先月も千種越で狙い撃たれながらも生き長らえておるでは御座いませぬか!」
先月19日、京から岐阜城へ帰還中の織田信長に対する狙撃が行われたが、弾が外れた為に暗殺は失敗に終わっている。
犯人である杉谷善住坊は逃亡して行方知れずに為っていたのだ。
「だから荊軻に倣って、討死した御味方の兜首を持参致して織田の本陣に参る。一廉の武将の首ならば弾正の…信長の首を討てる、とは思わぬか?甲斐武田の武藤喜兵衛殿…」
畿内へ来て初めて正体を言い当てられた昌幸は人知れず冷汗を流したが、平静を装って惚けてみせようとする。
「其れは誰で御座る?拙者は信濃を落ち延びた豪族の息子で御座るが…」
「確かに御父上の真田弾正(幸綱)殿は信玄公の御父君(信虎)に攻められて上野に落ち延び申したな。まぁ《蛇の道は蛇》と申す様に、お主が率いる忍者の素性は既に配下の伊賀者の組頭から教えて貰った。其処からお主の正体が判ったのだ」
昌幸は得心が入って無言の侭頷く。昌幸の反応を見て直経は一つ一つ訴え掛ける様に言葉を続けた。
「朝倉家は御家中はいざ知らず、左衛門督(朝倉義景)殿や同名衆の御歴々は浅井家を配下としか見ておらぬ。いざと為れば見捨てられるやも知れん。武藤殿、御家存亡の際には武田家の後巻を頼めまいか。無理為らば、せめて殿や御家族を甲斐に匿って欲しい。此の事をお主の御主君に申し次いでくれ!御頼み申す!此の喜右衛門今生最後の頼み、是が非でも汲んでくれぬだろうか?」
直経の必死の願いを聞きながらも、昌幸は聞き届けた際の影響を素早く計算していく。そして、
(うむ、後詰出来得れば申し分無い。出来ずとも備前殿を匿えれば、其の地縁を使って調略を掛ける事も出来よう。先ずは勝頼様に話してみるか…。何より此処迄の覚悟を無碍には出来まい…)
と考えて直経の頼みを聞き入れる事にした。
「…承知致した。喜右衛門殿の言葉、我が主君たる法性院信玄公と御陣代である左京大夫(勝頼)様に必ずや御伝え致す」
「そうか…。武藤殿、誠に忝い。此れで心置き無く、弾正と刺し違える事が出来る」
そう言って直経は自らの鎧兜を手早く外して、側で死んでいる佐久間勢の武者の遺骸から外した具足を身に着けていく。
「殿に御会いしては必ずや止めに入られるだろう。此の侭織田勢に潜り込もうと思う…。武藤殿…いや、滋野殿、後を御頼み申す」
「…喜右衛門殿、御武運を」
十中十死の覚悟で南側の織田勢に向かおうと為る直経に、昌幸は別れ際に其れだけを言って目礼で見送ったのだった。
昌幸率いる朝倉勢殿軍は、佐久間勢が東側に移動した隙に浅井長政等の保護に成功した。
昌幸は手早く兵を纏めると、抗戦する事無く一気に草野川南岸迄退かせた上で直ちに渡河に入った。
「浅井勢が逃げる為らば致し方無い。貴奴等を草野川に追い落とすのだ」
手勢の再編を終わらせた佐久間信盛は、己の手勢に改めて追撃を指示する。
草野川は水深が浅いとはいえ、川の渡河中に攻撃を受ければ平地より難渋する。信盛は朝倉勢が渡河する最中を狙って殲滅する考えなのだ。
『ぅおおぉっ!』
佐久間勢の足軽達は喚声を上げ、長柄鑓を振り翳しながら川岸に向かって駆け出した。
大した時間も掛からずに草野川の河畔に走り込んだ佐久間勢の足軽の前には、浅井長政を守りながら渡河を行う朝倉勢殿軍がいる。
しかし、川の向う岸を見た足軽達の先頭が急に脚を止めた。後続の者が止まるのが間に合わずに、次々とぶつかってくる。
「何を致しておるのじゃ!立ち止まらずに一気に敵を攻めぬか!」
足軽達の異常に気付いた佐久間勢の武将達が、脚を止めた足軽達を責めながら前の方に出て来るが、川の向う岸を見て絶句してしまった。
「ばっ…莫迦な!敵の後詰じゃと!儂等の倍は軽く越えておるぞ!」
「下手に川の連中を襲えば、返り討ちに遭うは我等の方か!」
川の北岸には浅井・朝倉の旗指物を掲げた5千以上の軍勢が待ち構えていたのだ。
彼等は佐久間勢が川に入った途端に、其の《半渡》に付け入る構えを取っており、佐久間勢が川に近付こうとすると大きな鯨波を上げて威嚇して来たのだ。
佐久間勢の足軽や武将達が手を拱いている隙に、朝倉勢殿軍は長政を守りながら後巻の軍勢と合流を果たしたのだった。
先頭から連絡を受けた佐久間信盛も、元々浅井長政の渡河中を襲うつもりだったのだ。彼我の立場が逆転した状況の危うさは、十分過ぎる程理解していた。
信盛は手勢の追撃を一時停止して陣形を整えると共に、直ちに本陣の信長に使番を走らせて指示を仰ぐ。
しかし織田の本陣は突如、草野川以北への追撃の中止を命じ、佐久間勢も再び南へと移動したのだった。
姉川河畔の戦場から小谷城に帰還を果たした浅井・朝倉勢は、直ちに敗残兵の収容と周辺への手当を行った。
そして深更を過ぎた頃、浅井長政は身形を整えると赤尾清綱・海北親綱と朝倉勢先陣を率いた数名の武将を呼び寄せた。
「最初見た時は何と大胆な事だと思ったぞ。後詰の軍勢の大半が《偽兵》だとは儂も驚かされた」
「某もで御座る。よもや此の危急の際に偽兵の策を用いるとは、某の思考の埒外で御座った!善右衛門(親綱)殿にも見せたかった!」
長政と清綱は草野川で合流した後詰の軍勢の真相を、小谷城に戻っていた親綱に明かす。
草野川北岸に渡って後詰の軍勢と合流した時に、其の軍勢が実は大半が周辺から掻き集めた農民達だったのだ。
此の農民達は印牧能信率いる朝倉勢先陣の主力が、昌幸の策に従って朝倉家からの支度金を叩いて招集したのだった。
「滋野殿、真柄殿、印牧殿。朝倉勢先陣の戦い振り、誠に見事で御座った。此の長政、改めて礼を申す」
「いえ、本来は朝倉勢が全軍、せめて本陣が参戦しておれば良かったので御座る。朝倉家を代表して御詫び申し上げまする」
朝倉勢を代表して真柄直隆が御詫びを述べ、直澄・隆基と印牧能信、そして昌幸が一斉に頭を垂れる。
「もう済んだ事だ。面を上げられよ。此度散財致した支度金は、改めて我が浅井家が立て替えよう。それと先程、織田本陣に捕われておった安養寺三郎左衛門(氏種)が解放されて戻って来た」
「ほう、三郎左殿が戻ったか。其れは重畳で御座った。如かして、敵が解放致した為らば向こうの様子も判る筈。殿、三郎左殿は如何申して御座る?」
そう言って親綱が質問を加えて来た。親綱自身も長政を逃がす為に、手勢を率いて木下勢と鎬を削った故に、同じく戦場に残った安養寺氏種の事は人事では無かったのだ。
「うむ、三郎左衛門が小谷城に残る兵の人数を大目に明かしたら、弾正殿は追撃を中止したらしい。そして喜右衛門(遠藤直経)の死に様を教えてくれたそうだ…」
「喜右衛門殿で御座るか…」
此の中で直経と最後に会話した昌幸は小さく嘆息したのだった。
昌幸と別れた遠藤直経は織田本陣に向かう途中、既に討たれていた味方の武将・三田村某の首を手に入れた上で、織田方の徒士武者に変装した。
そして首実験を始めた織田本陣に潜入して、織田信長の大将首を討つべく近付いたのだ。
しかし顔を見知っていた馬廻の竹中久作重矩(半兵衛重治の弟)が直経の事を見破った。
2人は信長の前で組み討ちになり、遂に直経は討ち取られてしまったのだ。
しかし、此の事が織田勢の追撃の脚を鈍らせ、長政を始め多くの逃亡中の浅井勢が命を長らえる一因と為ったのである…。
「今頃は城内の他の家臣達も、三郎左衛門から此の事を聞いて憤りを表して居る筈だ。喜右衛門は一命を払って、浅井侍の心中に憤りの炎を灯したのだ…」
長政の話が終わると、一同の間をシンとした静寂が支配した。各々が直経を始めとして戦場で散った者達に、静かに黙祷を捧げたのだ。
寸刻が過ぎて、徐に長政が口を開き昌幸に尋ねる。
「滋野殿。喜右衛門は小谷へ向かう途中、儂や清綱に『危急の際は滋野殿を頼るべし、彼は朝倉の者に非ず、然れど其の場に居らずとも智略を貸してくれる』と言い遺してくれた。其処で単刀直入にお主に聞きたい。お主が朝倉の浪人で無いなら一体何者だ?そしてお主から見て、浅井家が生き残るには如何なる策を取れば良いのだ?」
(ふむ…。喜右衛門殿の遺志を果たすには、やはり我が正体を判らせた方が良かろう。一介の浪人者では此方の話を真剣に聞くまい…)
昌幸は長政が話し終えるのを黙って聞き考えた後、回りの者達を見渡しながら答える。
「承知仕った。為らば拙者が此れより話す事は他言無用、備前(長政)様と美作(清綱)殿、善右衛門(親綱)殿、そして弥六左(能信)殿と真柄殿御一党3人…合わせて7人のみの心に留めて頂きたい。宜しいですかな?」
昌幸の念の押し様に只事では無いと感じた7人は全員無言で頷いた。
「拙者の真の名は武藤喜兵衛昌幸。信濃の豪族・真田弾正(幸綱)の息子で甲斐武田家に御仕え致す足軽大将で御座る。此度は武田家御陣代・武田左京大夫(勝頼)様の密命により、朝倉・浅井家を陰から扶ける為に参上仕った。今迄伏せていた事、此の場にて御詫び致し申す」
「な…、何と!信玄公の御家中か!為らば彼の見事な采配は納得がいく…」
「真田の《鬼弾正》の御子息とは!御父上の御勇名は此の近江にも伝わっておりますぞ!」
昌幸の正体を教えられた一同から感嘆の声が漏れてきた。だが昌幸は其の事には特に触れずに、己の考えを述べていく。
「有難う御座いまする。為らば拙者の考えを述べさせて貰いまする。先ずは、姉川の南側の横山・佐和山を暫く手放すべきで御座る」
一同が提案の唐突さに絶句する中、どうにか清綱が聞き返してくる。
「なっ…!何故に態々(わざわざ)手放すので御座る?特に佐和山城は勇将の磯野丹波(員昌)殿が守る南近江屈指の要衝で御座るぞ!」
「だからで御座る。拙者が織田弾正為らば必ずや《離間の計》を施しまする。然すれば半年も経てば佐和山も丹波殿も失いまする。為らば佐和山は打ち捨て、丹波殿には替地を与えて手元に残すべきで御座る」
「…成程、確かに…」
浅井家の3人が頷く中、昌幸は直隆達の方を向いて次の内容を述べる。
「次に朝倉家で御座るが、此れよりは全軍が越前に帰国為さるのは厳に慎まれるべき、と心得まする。兵が少ない冬場に浅井勢を攻められては各個撃破の良い見本になりまする。最低5千以上は北近江に常駐致すべきで御座る」
「…承知致した。必ずや左衛門督(義景)様に御伝え致そう。但し、我等の意見を左衛門督様が聞いて下さるか判らぬがな…」
朝倉家臣を代表して直隆が其の様に応じる。顔には苦渋の色が浮かんでいる。
確かに国衆(外様家臣)である真柄家や印牧家だけが主張しても、義景や同名衆(朝倉一族)は腰を上げない可能性が高いのだ。
内衆(譜代家臣)を含めた家臣全体に何れだけ同調者を作るか、が課題だと言えた。
「ふむ、では最後に備前様御本人へ言うべき事で御座る」
昌幸は長政に対して居住いを正す。小柄な昌幸と大柄で端正な容姿の長政が改めて正対為る。
「うむ。早速拝聴致そう」
「では備前様、貴方様の御父君である下野様(浅井久政)の力が余りに強過ぎまする。僭越ながら此の侭では浅井家存亡の障りと為りましょう…」
昌幸の指摘を聞いた一同は沈黙してしまう。其れ程迄に昌幸の指摘は正鵠を射ていたのだ。
「我が武田家の様に追放等とは申しませぬ。せめて小谷城を出て頂いて、北近江の何処かの寺院に御入りに為って頂くに如くは無いかと心得まする」
「…武藤殿、お主が申したい事は良う判っておるつもりだ。然れど父の元には未だに公方様(将軍・足利義昭)の御使者が頻繁に尋ねて居る。今の浅井家は其の繋がりを断って迄、父上を小谷から放逐は出来ぬのだ」
「公方様との…で御座るか?しかし心底は兎も角、幕府と織田家の関係を考えれば、精々《御内意》を頂くのが限界では?」
昌幸は幕府と久政の関係の緊密さに異常な物を感じた。確かに昨年来信長と義昭の関係は緊迫の度を深めているが、久政を御内意1つで操るには義昭の力は希薄なのだ。
「うむ…。実は今年初めから父上の隠居所である小丸に、相伴衆の《無人斎道有》なる御坊が度々尋ねて参っておった。近習達が言うには、其の御坊が来られた後は必ず強気な主張に御変わりに為るらしい…」
(其の御坊は随分と怪しいな。突如の浅井挙兵も貴奴の差し金やも知れぬな…)
昌幸は無人斎と名乗った幕府の相伴衆に興味を持ったが、敢えて其れ以上は触れぬ侭で長政に語り掛ける。
「成程、下手に城外に御退去頂いても、下野様に取り入る輩が出らぬとも限りませぬな…。若しも下野様を其の侭に致される為らば、せめて備前様御自身が政の采配をしっかり御握り下され。備前様には美作殿、善右衛門殿、丹波殿を始めとした忠臣が数多く居られまする。彼等の支えが有れば、必ずや独り立ち出来ましょう」
(但し朝倉左衛門が盟主気取りで《隠居の支援》の如き余計な事を仕出来さなければ、だがな…)
昌幸は心中では浅井家の立場を危惧しながらも、己の主張を言い終えると見事な所作で平伏したのだった。其の心底を顔色から悟られない様に…。
「うむ。武藤殿の言葉、正に勇気を貰えた。今後とも宜しく御頼み申す。浅井家・朝倉家のみでは京や畿内を制した義兄上…織田弾正殿には決して敵わぬ。お主が甲斐に帰国致した暁には、是非とも信玄公と左京大夫殿に両家の御支援を賜るべく申次致して貰いたい」
昌幸の心中を窺い知れない長政は、そう言って武田家からの支援を要請してきた。強力な織田の大軍勢と相対するには、味方は何れ程いても足りる事は無いのだ。
条件付きとは言え、浅井家・朝倉家に有益な味方と為って貰いたいのは昌幸も同じである。昌幸も長政の要請を直ぐに了承した。
「承知致し申した。帰参の際、必ずや此の旨を主君に御伝え致しまする。為らば此れよりは、御両家との繋ぎとして《唐沢玄蕃》なる忍びを遣わしまする。玄蕃は若いながらも今日の戦でも善き働きを致した手達の者、必ずや役目を果たすと心得まする」
「うむ、忝い。宜しく御頼み申す。では、此れより細やかながら酒宴を開くと致そう。此の戦で散った者達を偲んで弔おうでは無いか!城内の者達にも酒肴を出してやるが良い!」
『ははっ!』
長政の言葉に全員が平伏している中、昌幸は下を向いた侭で次の行動について考えを巡らせるのだった。
(さて…。真柄殿や印牧殿には悪いが、朝倉家の上の連中に《百年の驕り》が有る限り、浪人衆の立場から支援しても何の恩義も感じまい。いや、寧ろ反感を得るのみだな。浅井野州(久政)も然り。此の場に集いし者達が、両家を立て直す事が出来得れば良いが…。此処は叔父上と伊賀殿を浅井家に移した上で、儂自身は忍びを差配して畿内の物見に徹するか…)
こうして織田家や浅井家では《野村合戦》、朝倉家では《三田村合戦》、武田家や徳川家では《姉川の戦》と呼称される戦いは終結した。
浅井・朝倉勢は約1700人、織田・徳川勢も約1400人の戦死者を出ている。
此の内、昌幸率いる滋野勢は緒戦の対徳川戦と退却戦に於いて、約7百人もの戦死者を敵に強いている。
更に負傷者が4家の軍勢夫々(それぞれ)が戦死者数の2〜3倍に及び、両勢合計で1万人以上の死傷者を出したのだった。
合戦自体は織田・徳川勢の優勢勝ちといった処だったが、織田勢は横山城を無血開城させる事に成功、城主に木下秀吉を置いた。
此れにより、浅井領を南北に分断する楔を打ち込んだ事に為り、合戦の結果を織田家の戦略的勝利に繋げたのであった。
此の後、朝倉家は『当面の危機は回避した』と判断したのか、浪人衆の縮小を開始した。
昌幸率いる滋野勢は他の浪人達と共に、此の機会を利して浅井家の浪人衆に鞍替えした。
浅井長政は此の戦で大きな損害を出した軍勢を補強出来る故に、彼等を歓迎して迎え入れたのである。
だが、昌幸が望む様な浅井・朝倉家の《改革》は遅々として進まなかった。朝倉義景と同名衆、そして彼等に支持された浅井久政等の《守旧派》が主導権を握り続けた為である。
浅井長政や真柄直隆等の意見は尽く退けられ、旧態依然とした幕府を中心とした形での戦略が行われた。
此の結果、浅井・朝倉両家は足利義昭が主導する所謂《信長包囲網》の一角を占める事に為り、9月半ばには挙兵した石山本願寺と連携して西近江・京へと侵攻。
20日には近江宇佐山城を守る織田九郎信治(信長弟)・森三左衛門尉可成・青地駿河守茂綱(蒲生賢秀弟)の3将を坂本に於いて討ち取った。
だが、織田勢が迫ると両勢は比叡山延暦寺と其の周辺に籠城、後に《志賀の陣》と言われる長陣に入っていく。
浅井家の浪人衆に入った《滋野勢》の内、佐竹伊賀守義昌率いる鉄砲使い50人は、本願寺挙兵の連絡を受けると直ちに石山に急行している。
後に義昌は、織田勢との戦いに於いて勇名を馳せ、足利義昭から《佐武》の姓を与えられるのだ。
また、矢沢右馬助綱頼は信濃からの騎馬・足軽を昌幸から預かって浅井家浪人衆に残った。
彼等は9月からの西近江戦に長政に従い参陣している。そして其の侭《志賀の陣》で織田勢と睨み合う事に為る。
一方、昌幸は一段落付けると、7月には手勢の指揮を綱頼と義昌に預けている。そして自らは《真田忍び》を率いて畿内各地を調べて回る事とした。
昌幸は京に駐留している今福浄閑斎(石見守友清)や堺の豪商・薩摩屋の主人の山上宗二、紀伊雑賀・十ヶ郷の棟梁・鈴木左太夫重意等の協力を仰ぎながら、幕府内部や畿内周辺の大小名、そして織田家の情報を徹底的に調べ上げたのだった。
そして、元亀元年(1570年)11月中旬。昌幸は波涛唸る紀伊沖の大洋上に居た。
浅井・朝倉との繋ぎの為に唐沢玄蕃と数人の忍びを綱頼に預け、余の者を陸路信濃へ帰還させると、自らは駿河・清水湊へ向かう薩摩屋の商船に便乗して海路帰国の途に着いたのである。
「宗二殿、お主の店の船に乗せて貰った御陰で随分と助かった。感謝致しておるぞ」
昌幸は此の船の持ち主で同乗している薩摩屋の主人・山上宗二に話し掛ける。
「いやいや、礼には及ばぬよ。儂も昨年、藤十郎(土屋長安)殿を通じて武田家から預かった甲州金で買い付けた硝石や辰砂(硫化水銀)を運ばねば為らぬ。野分(台風)を避けておったら丸々1年待たせてしもうたからな。お主を連れて行けば武田の陣代殿に会う事も容易かろう」
左手に紀伊の山々を仰ぎ見ながら航行する船上で、宗二は笑いながら応えてくる。
「其の件は任せてくれ。既に信濃へ帰った忍びを通して躑躅ヶ崎へ繋ぎは取って有るからな」
其の様に返答為る昌幸だが、其の脳裏には5ヶ月前の姉川の戦場での織田・徳川の大軍勢が浮かんでいた。
(織田弾正達が此の侭の勢いで力を付けてしまえば、武田家はもはや貴奴等を倒せまい…。だが貴奴等を破らねば《武田の天下取り》は画餅に帰す。早く躑躅ヶ崎に戻って、信玄公や左京様と策を練らねばなるまい。そして必ずや織田弾正と徳川三州を打ち破って呉れようぞ!)
昌幸は近い将来に起きるであろう織田・徳川勢との《姉川の戦い》以上の大会戦を思い描いて、改めて闘志を滾らせるのだった。
後に昌幸は其の智謀に更に磨きを掛けて、数年後に新たな《武田家軍師》に就任する。
そして、当主・武田勝頼を支えて、織田信長を始めとして数多の武将達と相手に、覇と智謀を競っていく事に為るのである。
此の話で、朝倉家の真柄直隆等が生き残り、浅井家・朝倉家と武田家の間に新たなパイプが出来上がりました。彼等の存在が武田家の状況を僅かながらも変化させて行きます。さて、次回からはまた甲斐の武田家を中心に話を進める予定です。相変わらずの乱文ですが次回も読んで頂ければ幸いです。有難う御座いました。