捌之余之弐:姉川異聞(中)〜若き昌幸の鬼謀〜
今回も番外編の続きで《武藤(真田)昌幸の姉川の戦い参戦》の話です。今回は戦いの前半部分になります。相変わらずの乱文ですが読んで頂ければ幸いです。
《大八嶋》…即ち日本列島を遥か天空から俯瞰すると、其の真中の辺りに光を受けて煌めく場所が有る。
古来より近淡海とも、鳰海とも呼ばれている日本最大の湖…琵琶湖である。
そんな琵琶湖に流れ込む幾つかの支流の1つに《姉川》が有る。伊吹山系の新穂山を発して西流して琵琶湖に注ぐ川だ。此の辺りは晩秋から冬にかけて《伊吹颪》が吹き付ける有数の豪雪地帯である。
とはいえ、夏の盛りの頃には盆地特有の猛暑に襲われるのだ。此の年の6月下旬は、現在の暦で8月上旬にあたり、正に真夏の暑さに苛まれる季節である。
しかしながら、姉川中流の辺りには自然の暑さだけでは無く、数万もの軍勢が作り出す《殺気》に覆われていた。
つまり此の地に於いて、織田弾正忠信長・徳川三河守家康が率いる2万5千の軍勢と、浅井備前守長政・朝倉孫三郎景健が率いる1万4千の軍勢が、正面から激突したのである。
時に元亀元年(1570年)6月28日の払暁の事である。
当初、織田・徳川勢は姉川南方にある浅井方の横山城を包囲して、後詰に出撃するであろう浅井勢を誘き寄せて壊滅させる腹積もりだった。
其れ故に、信長は浅井勢を誘う為に敢えて本陣を横山城から外れて姉川沿いの丘陵(古墳群)にある《龍ヶ鼻》に据えたのだ。
其れに対して、浅井・朝倉勢は小谷城南東の大依山に集結後、27日深更迄に姉川北岸に移動した。龍ヶ鼻の織田本陣への渡河・奇襲攻撃を計画したのだ。
普通ならば近付いた段階で捕捉された筈だが、織田方の物見兵が情報収集を行う際に《浅井・朝倉勢撤退》との誤報を伝達した為に見逃してしまったのだ。
だが、撤退の報告を聞いた信長は直ちに追撃戦を指示しており、横山城を包囲中の軍勢は北側の手勢から移動を開始していた。
かくして28日早朝には、北岸の浅井・朝倉勢と南岸の織田・徳川勢が期せずして姉川を挟んで向かい合った。
元々決戦を望み、御互いに姉川を挟んで陣を敷いた両軍勢には、最早《遭遇戦》以外の選択肢が無かったと言える。
姉川南岸にある龍ヶ鼻から南側の横山城周辺迄に陣取る織田勢2万は、本陣を龍ヶ鼻の北西に下ろして、其の前面に6人の武将達が夫々(それぞれ)手勢を2段づつ、合計12段に分けていた。
此の場合、各陣が2列縦隊で互い違いに並ぶ《衡軛陣》を組むのだが、龍ヶ鼻の麓から姉川の南岸迄が狭い為に、龍ヶ鼻の北側から東側にかけて麓沿いに並ぶ形となった。
上から俯瞰した場合、《衡軛陣》よりも《雁行陣》や《偃月陣》に近い形になっており、其の分本陣の前方が薄くなっていたのだ。
姉川を挟んで浅井勢と相対する先陣2段の軍勢2千を率いるのは坂井右近尉政尚。美濃出身で軍役だけでは無く、畿内での政務や湖賊(琵琶湖の水軍)の堅田衆への調略もこなす文武両道の武将で、嫡男の久蔵尚恒も参戦している。
先陣の直ぐ後ろに前後2段に分けて布陣した第2陣2千を率いるのは池田勝三郎恒興。信長の乳兄弟であり、其の腹心に名を連ねる勇猛な武将である。
池田勢の右後方に付くのは第3陣2段の手勢2千を率いる木下藤吉郎秀吉。足軽出身だが機転が効く智将で《金ヶ崎の退き口》では殿軍の一員となり活躍、今回より武将として抜擢された。
木下勢の右後方は第4陣2段の柴田権六勝家の軍勢2千が占める。先代・信秀の頃から織田家に仕え、此の6月上旬には六角勢を南近江で破った実績を持つ。火を噴く様な攻撃を得意にしており《懸かり柴田》と渾名されている。
柴田勢の後方、龍ヶ鼻北麓の東側には、第5陣2段の森三左衛門尉可成勢2千が控える。可成は此の4月に越前で嫡男の傅兵衛可隆を亡くしており、彼にとっては《息子の弔い合戦》の一面が有った。
そして其の後方、龍ヶ鼻東麓の姉川に挟まれた地には第6陣2段の手勢2千を率いる佐久間右衛門尉信盛が陣取る。持久戦・退却戦を得手としており《退き佐久間》と呼ばれている。
此の《変り衡軛》の背後、池田勢の左後方に織田信長の本陣4千が有った。本来は佐久間勢の後に渡河する予定だったが、浅井勢が現れた事で不本意な陣形での開戦を余儀無くされたのだ。
また、南側の横山城を包囲する軍勢が有り、丹羽五郎左衛門尉長秀、氏家貫心斎卜全(直元)、安藤平左衛門尉範俊(守就)が合計3千を率いて陣取っていた。
織田本陣から西へ少し離れた岡山の地から姉川北岸にかけてに、徳川三河守家康率いる軍勢5千が陣取っていた。
徳川勢の先陣となる《一の備》は酒井左衛門尉忠次率いる東三河衆1千。忠次は家康の叔父にあたり徳川家の筆頭家老とも目される武将である。
直ぐ後方の《二の備》に付くのは小笠原与八郎氏助率いる遠江衆1千。高天神城主である氏助も含めて、全て今川旧臣によって構成されていた。
遠江衆の後ろ側に付く《三の備》は石川与七郎数正率いる西三河衆1千の軍勢が務める。数正は家康の懐刀であり、其の智略に期待されている。
西三河衆の背後にした岡山の丘上に、徳川家康の本陣が2千の軍勢で陣取る。旗本と呼ばれる徳川家康直属の軍勢であり、正に家康の切り札だと言えた。
徳川本陣の更に背後には、織田勢から派遣された稲葉右京亮良通勢1千が控える。稲葉勢は徳川勢への援軍であると共に、軍監の役目も負っている。
此等の織田・徳川勢に相対する、浅井・朝倉勢は姉川の北岸に展開している。
織田勢正面の対岸である野村の地には浅井勢6千が展開する。彼等は織田勢の動きを拘束するのが役目である。
とはいえ、小勢の浅井勢は姉川渡河後に其の侭織田勢に攻勢を掛ける為に《鋒矢陣》に陣替えしている。
川岸では、先陣の猛将・磯野丹波守員昌が率いる南近江の軍勢1千5百が姉川を今にも渡らんとしている。
直ぐ後方には一門衆の浅井玄蕃允政澄勢1千が、第2陣として磯野勢の後に続くべく準備を開始する。
更に要衝山本山城を守る重臣・阿閉淡路守貞征の軍勢1千が第3陣として控え、更には朝妻城主の新庄新三郎直頼の軍勢1千が第4陣に就いている。
そして最後方は浅井備前守長政自ら率いる本陣1千5百が固めていた。
野村から西側の三田村には浅井家の援軍として派遣された朝倉勢8千が、対岸の徳川勢と対峙している。
先陣を務めるのは朝倉九郎左衛門尉景紀(大機伊冊)の《敦賀郡司》勢と国衆(越前内の外様衆)、浪人衆による3千の軍勢。
しかしながら景紀自身は出陣しておらず、世子の中務大輔景恒も永平寺に蟄居中であり、《敦賀郡司》の家老や国衆の侍大将が幾つかの集団に分かれて指揮を取っていた。
第2陣は内衆(譜代家臣)筆頭で奉行人も務める前波藤右衛門尉景当と弟の九郎兵衛尉吉継が率いる2千の軍勢。主に内衆を中心に編成されている。
そして其の後方に今回の総大将を務める安居城主・朝倉孫三郎景健が自ら率いる3千の軍勢がいた。しかし彼等は、本陣を三田村にある城跡から動かす気配は未だに無い。先ずは先陣が徳川勢を破るのを待つつもりなのだ。
そんな朝倉勢の先陣から1町(約109メートル)程西側に、浮き備え(遊軍)とされた百人程の小軍勢が在った。
全員の具足は使い古した物を身に着け、騎馬武者達が被る兜には全く前立てが付いていない。
しかし見る目が有る者が見れば、当世具足をわざと其の様に偽装している事、そして兜にも細かい補強をしている事に気付く筈だ。
彼等が掲げる旗指物の家紋は《月輪七九曜》。北信濃の豪族・滋野氏の家紋であり、率いるのは北信濃出自の浪人・滋野源五郎昌幸と名乗る若武者。
然れど其の真の名は《甲斐武田家家臣・武藤喜兵衛昌幸》である。
昌幸は武田家陣代(当主代行)の左京大夫勝頼の密命を帯びて越前に入った。
そして叔父の矢沢右馬助綱頼と、紀伊十ヶ郷から派遣された雑賀衆の50人の雇い鉄砲と共に、朝倉家に陣借りをして此の北近江に進出したのだった。
「源五郎様。野村の浅井勢先陣の磯野丹波殿が手勢、姉川を渡って織田の先陣・坂井右近が手勢と槍を合わせ申した」
手勢に付き従う小者の身形をした男が昌幸達に声を掛ける。年若ながらも手達の忍者の唐沢玄蕃である。
「御苦労。引き続き龍ヶ鼻辺りの物見の手を緩めず、子細洩らさずに伝えよ」
「承知!」
昌幸に対して短く返答すると、玄蕃は瞬く間に走り去っていく。
「源五郎、いよいよ始まったな!朝倉勢も先陣の口火を切って真柄殿の手勢が川を渡られる様子、我等も南岸に歩を進めようぞ!」
手勢の内、騎馬20騎と足軽30人を采配する矢沢右馬助綱頼が騎上から昌幸に声を掛けてきた。
見ると、真柄十郎左衛門尉直隆が一族郎党と他の浪人衆を率いて、半ば速足で姉川に脚を踏み入れていく。其の勢いを殺さずに徳川勢の先陣にあたる腹積もりなのだ。
「ふむ…。出来得れば後ろの陣の出方を見極めたかったが…。よし、我等も続いて川を渡り真柄殿の右手を固めよう。伊賀殿、其方は宜しいか?」
昌幸は後ろを振り向き、雑賀衆からの雇い鉄砲を束ねる佐竹伊賀守義昌に声を掛ける。
「勿論で御座る!渡河に備えて鉄砲を濡らさぬ様に手筈は済んでおり申す!者共、手抜かりは無いか!」
『応っ!』
短く気合が入った返事が返って来たのを聞いて、昌幸も騎馬に跨がり右手を高々と掲げてから、裂帛の気合を込めて命じる。
「然れば此れより姉川を渡り、三河侍共に槍鉄砲を馳走仕る!皆の者、我に続けぇぃ!」
『うおぉぉっ!』
昌幸の右手が前に振り下ろされると、百人の手勢が喚声と共に一斉に姉川に脚を踏み入れたのだった。
既に三田村の対岸に渡河を果たした真柄直隆率いる軍勢は、薄闇の向こうに見える岡山の頂上に翻る白地の《厭離穢土欣求浄土》の旗印を見上げる。周りの薄闇との落差で白い旗が映えて見える。
「何じゃ?あの山の上の旗は何処ぞの坊主でも居るのか?」
弟の直澄からの疑問を聞いて、直隆が簡単に説明する。
「あの旗は徳川三州(家康)の旗印だ。つまりは彼処が徳川の本陣…。者共!先ずはあの旗を引き摺り降ろすぞ!」
『応よっ!』
真柄の一党や寄騎の浪人衆から大きな喚声が上がり、立ち塞がる徳川の先頭の《剣片喰》の旗指物の軍勢に向かって行く。
剣片喰の軍勢…徳川勢の一の備である酒井忠次勢は、薄闇の中を攻め寄せる真柄勢や敦賀郡司勢等の朝倉勢先鋒を打ち崩そうとした。
しかし発見が遅れた為に後手に回り、鉄砲や弓等を使えない間合いに迄一気に詰め寄られた。
直ぐに足軽の組頭に指示を送って対処する。
「鉄砲足軽達を後ろに下げろ!長柄組を前に出して槍搦みに追い込む!使番は直ちに殿(家康)と小笠原与八郎、それに石川与七郎に此の事を報せよ!遠江衆には儂等の右手に押し出して貰うのだ!」
「はっ!」
忠次の命を受けた《伍》の旗指物を付けた使番達が、本陣や他の陣迄騎馬で駆けて行く。
鉄砲を持っていた足軽は後方に下がり、代わりに足軽大将に率いられた長柄組が前進して来る。彼等は織田家譲りの3間半(約637センチ)の長柄鑓を高々と振り上げて近付いて行く。
すると真柄勢の副将で足軽組を率いる直澄が走り込んで来る。肩には刃渡り9尺5寸(約288センチ)の野太刀を使った大長巻を担いでいる。
「よし、先ずは儂に任せろ!うぉりゃぁぁ!」
直澄が怒声を上げながら大長巻で長柄組の頭上を、怪力に物を言わせて横に一閃する。すると長柄鑓の木製の柄の部分が纏めて叩き折られた。数人の足軽は降ってきた鑓の穂先で手負いになり、他の者も転倒する者が続出した。
「今だ、掛かれぃ!」
其処に真柄勢に従う浪人衆達が、大身槍・長巻・薙刀等の思い思いの得物を使って切り込んで行く。長柄組は瞬く間に数十人単位で戦闘不能に追い込まれた。
其の様子を後方から馬上で見やった忠次は、己の中の《武士の血》が滾るのを実感した。
「越前すれの弱兵揃いと思いきや、中々骨が有る連中も居るではないか!為らば三河武士の実力が何れ程の物か、骨の髄迄判らせて呉れようぞ!」
忠次はそう言いながら小者から愛用の大身槍を受け取る。甕ごと敵を貫いた事に因み《甕通槍》の銘を持つ豪槍である。
「よし、此処こそが切所と思え!命を惜しまず名こそ惜しめ!然れば必ずや活路が開ける!者共、掛かれぃ!」
自らの手勢に檄を飛ばして士気を回復させると、忠次もまた激戦の渦中に飛び込んでいった。
徳川勢の二の備である遠江衆が、東三河衆の左翼…西側に進出すると、相対的に朝倉勢先陣の浮き備え…滋野勢の正面に向かって来た。
滋野勢…昌幸の手勢は、敢えて朝倉勢先陣の右翼の端から更に1町程西側に展開していた。
「あの《三階菱》は高天神の小笠原家だな。為らば周りの奴等は今川から徳川に乗り換えた連中か…。自らの蒙昧振りを十二分に後悔させて呉れる」
10倍もの敵を前にしても、昌幸は不敵な笑みを浮かべながら呟いた。そして鉄砲使いを率いる義昌と、足軽や騎馬を率いる綱頼に対して手短な指示を送る。
「伊賀殿!先ずは一放ち致して、手筈通りに右手に奴等を誘き寄せますぞ!叔父上も手勢をしっかり纏めて下され!」
「承知致した!者共、仕込みを済ませたら合図する迄待機じゃ!」
「うむ、先ずは貴奴等を上手く嵌めて、此方に手負い無く次に進まねばな。皆の者、決して指図を聞き逃すで無いぞ!」
『はっ!』
指示を聞いた騎馬武者や足軽、鉄砲使い達は、岩陰に身を隠したり地に伏せたりして、己の準備を済ませると咳一つあげずに昌幸からの命令を待つ。
遠江衆との距離が1町を切っても、昌幸は未だ黙した侭で敵勢を睨み続けた。
遠江衆は立ち塞がる敵が小勢故に、全く警戒していない。寧ろ、蹴散らした後に朝倉勢先陣の右側面に回る事に神経が集中していた。
其の内に御互いの間合が半町(30間・約54メートル)を切った瞬間、昌幸は軽く上げた右手を振り下ろした。
「撃てぇぃ!」
自らも地面に伏せて狙いを定めていた義昌が、手勢に命じながら鎧を着けた騎馬武者の眉間を寸分違わずに撃ち抜く。
其れを合図に50人の雑賀の鉄砲使い達が思い思いの標的に向かって発砲した。距離は20〜30間(約36〜54メートル)、雑賀衆の実力を以て為れば《百発百中》の必中距離である。
「ぐあっ!」
「ぎゃあっ!」
重複が有るとはいえ、遠江衆の先頭を走っていた30人以上が一度に翻筋斗うって地に倒れる。
其の全員が即死か致命傷か、若しくは戦闘が不可能な傷を負っている。
「よし!皆の者、直ぐに起きて次の場所迄突っ走れ!」
昌幸が命じると、手勢が全員一斉に西へ向かって走って行く。
「おのれ…ふざけおって!絶対に逃がすな!」
軍勢を率いる小笠原氏助を始め遠江衆のほぼ全員が、舐めていた小勢に攻撃を仕掛けられた為、すっかり冷静さを無くしてしまった。
直ぐに滋野勢を追いかけるが、段々と隊列が崩れていく。
追撃しながら2町以上西へ向かうと、其処には50人の鉄砲使いが再び射撃態勢を立て直していた。
「よし、また先頭と組頭を撃ち殺せ。足軽組は鉄砲組を守るのだ。撃てっ!」
昌幸の指示と共に、遠江衆に再び50発の弾丸が襲いかかる。しかも今回は、足軽達も青竹製の弾除けを掲げて鉄砲使い達を守っている。
再び30人以上を失った遠江衆は、前以上に逆上して追い掛け続ける。逆に滋野勢は反撃に絶対に遭わない様に間合に細心の注意を払いながら西に移動する。
そして遠江衆が追撃を諦めようと考える度に、待ち構えた鉄砲使いが弾丸を打ち込んで怒りを誘うのだ。
次第に遠江衆は滋野勢に釣られて、主戦場よりも西側に大きくずれていった。
(さて…。先ずは釣れはしたが、此の侭西に行き過ぎると国友村に迄行ってしまうな。日の出の頃に合わせてそろそろ仕上げに掛かるか…)
数度の挑発を繰り返しながら、西へ四半里(約982メートル)以上移動を繰り返した昌幸は、他の者との繋ぎ役で従う忍びに尋ねる。
「例の件は段取り通りに進んでおるか?」
「はっ、旗指物は屍から調達致し、徳川勢左手に御手勢が隠れる程度の涸れた川跡を見つけておりまする」
報告を聞いた昌幸は、ニヤリと笑みを浮かべて次の指示を矢継ぎ早に繰り出した。
「よし、では龍ヶ鼻の連中と旗指物の繋ぎ以外は全員で酒井勢と其の後ろの軍勢に例の流言を広めよ。但し本陣には伝わらぬ様にな。では、行け!」
「御意!」
繋ぎ役の忍びが仲間に連絡する為に走り去るのを見ながら、今度は綱頼に向かって指示を出す。
「叔父上は騎馬の者のみを連れて、朝倉勢先陣右手勢を率いる印牧弥六(弥六左衛門能信)殿に後巻を頼んで下され!」
「うむ、姉川の河原を先陣迄戻るのだったな!では、後巻の件は任せておけ!者共、参るぞ!」
『はっ!』
綱頼が動き出すと、昌幸は直ぐに義昌に次の行動に移るべく指示を出した。
「伊賀殿、我等は足軽と筒衆(鉄砲隊)を率いて今少し小笠原を足止め致しまする。然る後に奴等を煙に巻いて再び東の《剣片喰》の軍勢を襲いまする。…但し屍から回収した《三階菱》の旗指物を差した上で、で御座るがな」
「承知致した!では今暫く西側に釣り上げておきまするか!」
「宜しく頼みまする。さて、遠江衆には力尽きる迄踊って貰おうか!」
昌幸はそう言いながら、追い掛けてきた遠江衆に対する今一度の挑発と攻撃を行うべく動き出すのだった。
伊吹山系の稜線の向こう側に広がる蒼空が白み出した頃、薄暗いかった姉川周辺の戦場にも漸く朝の光が満ち始め、戦場の様子が次第に明らかになった。
龍ヶ鼻の北側を主戦場とする織田勢と浅井勢の戦いは、予想以上に浅井勢が織田の大軍を押し捲っていた。
浅井勢先陣の磯野員昌勢は、織田勢先陣の坂井政尚勢を撃破して第2陣の池田恒興勢に食らい付いている。
坂井勢は前段を率いていた嫡男の尚恒が討死する等の大打撃を受けたが、再編後は池田勢西側に展開、2つの軍勢懸りでどうにか磯野勢の猛攻を支えていた。
味方の支援の為に、既に前進を開始していた織田勢第3陣の木下秀吉勢も、渡河を果たした浅井勢第2陣の浅井政澄勢と激突していた。
しかし、戦場域が狭く大軍勢が展開しにくい環境の為に、織田勢の第4陣の柴田勝家・第5陣の森可成・第6陣の佐久間信盛の各軍勢は未だに接敵していなかった。
逆に浅井勢は第3陣の阿閉貞征勢も渡河を果たし、姉川南岸での兵力を増強していく。
「ええぃ!未だ後ろの連中は前に出ては来ぬのか!権六(勝家)の如き猪武者が前で戦うべきだろうが!」
前後2段に分けられた織田勢第3陣。其の本陣に於いて、軍勢を率いる木下藤吉郎秀吉がぼやいている。
元々小者から這い上がった秀吉は、織田家の美濃攻めの時に昔の人脈を使って美濃の諸豪族を誘降した手柄を足掛かりに、遂に武将の地位を得る迄に昇進を果たしていた。
そして、此の4月の《金ヶ崎の退き口》に於いては進んで殿軍の一員となり、信長からの信頼を勝ち得ている。
今回の戦で活躍出来れば《城持ち》の武将に昇進する可能性が高いが、其れ迄に損害が多ければ活躍出来ない事も有り得るのだ。
(何としてでも権六辺りを利用して浅井備前を消さねばならぬ…。然すれば《お市様》は空閨を託つ事になる。そう為れば武勲を上げ続けた後に儂がお市様の後添いに為っても何の問題も有るまい…)
秀吉は若き日に清須城で垣間見た、信長の妹姫であるお市の美貌を思い出し懸想に耽る。
そして秀吉は考えを切り替えると、態と周りに聞こえる様に明るい声で気合を入れ直したのだった。
「よし!先ずは目の前の浅井玄蕃(政澄)を早々に破って川向こうの備前殿を小谷城に追い落とすかのう!」
雰囲気が明るくなった木下勢の陣中に、信長の小姓上がりで馬廻を務める堀久太郎秀政が駆け込んだのは、日の出寸前の頃の事であった。
「久太郎殿、何と申された?奴等に川を渡らせるじゃと?」
「そうで御座る。今、浅井勢は勢いの侭に攻め掛かって来る。其処で大殿様(信長)は御自ら身を晒して浅井備前を川向こうから引き寄せる、との仰せだ」
「何と!信長様御自身が囮になると言うのか!」
驚きの声を上げながらも、秀吉の頭脳は信長の策が有効である事を告げていた。
(確かに浅井備前が勝つには《田楽狭間》同様に大将である信長様の首を上げるしか手は有るまい。とはいえ其れを逆手に取るとは流石は信長様よ…)
「相分かった!前の手勢を任せておる半兵衛(竹中重治)には此方から伝えておこう。信長様にはくれぐれも宜しく御伝え下され!」
「承知仕った。では次は森三左(可成)殿に《龍ヶ鼻を越えて本陣の前に手勢を動かすべし》と伝える故、御免仕る!」
第5陣の森可成の陣へ秀政が消えて、己が手勢への指示を終えると、秀吉は未だに姉川北岸に有る浅井本陣を睨みながら、誰にも聞こえぬ様な小声で独り呟くのだった。
「さぁ、浅井備前よ。早う此方に渡って首を晒すが良い。お市様は儂が慰めて差し上げる故のぅ…」
一方、三田村から岡山に掛けての朝倉勢と徳川勢の戦いは、朝倉勢優位で進んでいた。
朝倉勢先陣は《敦賀郡司》家の家老・三段崎勘解由左衛門紀存と侍大将の真柄十郎左衛門尉直隆、印牧弥六左衛門能信の計3名が1千づつ3手に分けながら、連携を保って戦っていた。
しかしながら第2陣の前波景当勢も未だに姉川北岸に有り、総大将の朝倉景健の本陣に至っては三田村城跡から全く本陣を動かしていなかった。
一方、徳川勢二の備の遠江衆の西側への追撃は、敵を見失った事と使番が東へ戻るべく命令を伝えた事により、国友村の手前で漸く止まった。既に主戦場から半里程離れている。
しかし朝倉勢と戦っている一の備の東三河衆と、東側へ前進して戦闘を開始した三の備の西三河衆の間に、
『遠江衆の西への追撃は朝倉勢と示し合わせた芝居で、戻ってから徳川に返り忠をする』
という話が急速に広まっていった。
酒井忠次や石川数正等の首脳部は一笑に付したが、元々三河の国衆には《三河を侵略した今川家に対する不信》の念が有るのだ。
しかも、此の話が本陣の家康に伝わっていない事が問題に拍車を掛けていた。
そして日の出の直前、東三河衆の左手…西側を守っていた大久保七郎右衛門忠世の手勢が、突如鉄砲による攻撃を受けた。
見ると50挺程の鉄砲を持った小勢で、涸れ川を塹壕の様に使用しており、背中には《三階菱》の旗指物をしているのだ。
「おのれ小笠原め!やはり今川旧臣は信用出来る者では無かったのだ!者共、応戦じゃ!返り忠等為る奴等に目に物見せてくれるわ!」
《三階菱》を見た忠世の弟の治右衛門忠佐や嫡男の新十郎忠隣が、熱り立って遠江衆に対して攻撃を命じる。
暫く続いた銃撃は一旦止んだが、其の直後に遠江衆の本隊が涸れ川の向こう側に現れた。
「性懲りも無く来おったな!何としても奴等を撃ち崩せ!」
忠佐や忠隣等が指揮する大久保家の一党が、遠江衆に対して銃撃や弓矢による攻撃を繰り返す。
しかし、遠江衆の本隊からは殆ど反撃が来ない。まるで何故攻撃されたかさえも判らないかの様な動きである。
其の事に気付いたのは岡山の山上で異変を眺めていた家康であった。
「彼の莫迦共が!涸れ川を伝って逃げる奴等に嵌められたのだ!使番は双方の陣所に赴いて下らぬ事を止めて参れ!」
(我が家臣共は戦しか知らぬ猪武者ばかりか!まぁだからこそ、儂が此奴等の上に就いておれるのだがな…)
家康は使番を派遣すると、此の危機を回避するべく矢継ぎ早に命令を下していく。
岡山の本陣を発した使番が伝えた命令によって、徳川勢による同士討ちは漸く止まった。
しかし《同士討ち》という事態に茫然自失と為った遠江衆と東三河衆に対して、此の瞬間を示し合わせかの様に攻撃が激化した。
朝倉勢先陣の右手側の印牧能信勢・中央の真柄直隆勢が前面の徳川勢を猛攻、家康は旗本先手役の本多平八郎忠勝に兵5百を預けて戦線を支えると共に、各備に使番を送って岡山の麓に後退させて朝倉勢先陣と間合を開けたのだった。
取り敢えず敵勢と間合を開けた事で一段落着いた岡山山上の徳川本陣で、総大将の家康は床几に座った侭で思考を働かせていた。
(朝倉の弱兵を侮っていたが、よもや此処迄やるとはな…。だが恐らくは前の連中にしか戦意は有るまい。後ろの者共に《裏崩れ》を起こさせれば、此奴等も淡雪の如く崩れ去ろう。要は勝ちさえ為れば、どうとでも辻褄は合せられる…)
予想以上の苦戦を強いられた状況を打開為る為に、戦意が低い後陣への《中入れ》を考えているのだ。
「小平太。兵5百を預ける故、朝倉の二の備の隙間に横槍(側面攻撃)を加えて此れを崩せ」
「畏まり申した!」
家康から命令を受けた榊原小平太康政は短く返答為ると、預かった軍勢を率いて岡山を出発した。
朝倉勢先陣では、夜が明けて徳川勢との間合が広がると、各手勢の大将達が集まった。
軍勢全体を率いる大将が不在の為に、軍議を開いて今後の方針を擦り合せる必要が有るのだ。
「滋野殿!先程の敵勢への智略、誠に見事で御座った!皆の衆、此処は勢いを殺さずに徳川を攻め落すべきで御座る!」
先陣右手を率い、先程の敵左翼への攻撃に参加した印牧能信が昌幸に讃辞を送る。
中央を率いる真柄直隆・左手を率いる三段崎紀存も納得の面持ちで頷く。
しかし当の昌幸の顔色は涼しい物である。高々此の程度は《信玄の弟子》としては当然の結果なのだ。
「其れよりも気になる事が御座る。此れより岡山の麓に向かえば、川向こうの前波勢との隙間が益々広がり申す。如何致す所存で御座る?」
昌幸が質問為ると、3人の武将や寄騎の侍大将達の表情が曇る。景健は明らかに先陣に露払いをさせてから出陣するつもりなのだ。
「…致し方有りますまい。後陣には使番を送りまする。しかし敵が我等が待つのを赦してくれますまい」
紀存の発言に能信が賛同する。
「勘解由(紀存)殿が申す通りだ!第2陣が渡るのを待っていては戦機を逃がし兼ねぬ。此処は攻め掛かるに如くは無しと心得る!」
「…よし!為らば支度が済み次第、もう一度押し出すぞ!滋野殿、御貴殿には先陣の浪人衆を纏めて御付け致す。先程の采配を見ておれば、浪人達も従う筈で御座る。我が手勢と印牧殿の隙間に入り、敵の新手を相手して貰いまするぞ」
直隆の提案に、能信や紀存を始めとして他の侍大将達も納得の表情で同意した。
「承知致し申した。謹んで御受け致しまする。為らば寸刻が惜しい、間合が有る内に陣替え致して押し出しましょうぞ!」
『応っ!』
昌幸が音頭を取ると、侍大将達は各々が率いる手勢の元に駆けていった。
此の後、岡山の麓に於いて戦闘が再開された。
徳川勢は右手(東側)から西三河衆(石川勢)・東三河衆(酒井勢)・旗本(本多勢)・遠江衆(小笠原勢)の順に岡山の防御を固める。
他方朝倉勢先陣は左手(東側)から三段崎勢・真柄勢・浪人衆(滋野勢)・印牧勢と展開して攻め寄せた。
しかしながら守りに入った徳川勢を突破するのは容易では無く、朝倉勢は1刻(約2時間)以上攻めあぐねる事に為った。
昌幸率いる浪人衆の正面には、徳川本陣より割かれた旗本勢が陣していた。
昌幸も他の朝倉勢同様に突破を試みるが、相手方も見事な守りを見せて突破を許さない。
逆に一時的には攻めに転じて、昌幸が本気で指揮して防御する場面さえ有ったのだ。
「うむ、敵勢を率いる《鹿角の前立ての兜》の武将は、若いながらも随分と上手い采配をしておるな…」
昌幸は采配を揮いながらも、敵勢を率いる武将の用兵振りを褒めた。しかし其の顔は自信家らしい凄味に満ちた笑みを浮かべている。
「…だが、若い所為かまだまだ粗削りな様だな。八幡原以来幾度も戦塵を潜り抜け、信玄公の御采配を間近で見て来た者として、奴等に用兵の妙を教えて進ぜよう!」
昌幸は恐らく同世代の勇将…実際は1歳年若の武将・本多平八郎忠勝…と戦う事に《武将の血》を熱く滾らせるのだった。
そして昌幸は俄に集められた浪人衆を率いながらも、忠勝率いる旗本達との激戦を次第に優位に進めて、忠勝自身が防戦する処迄追い詰めた。正に突破は時間の問題であった。
しかし此の時点で、昌幸は痛恨の失態を冒していた。
忠勝との激戦に全神経を集中した為に、川向こうの動きを完全に失念してしまったのだ…。
此の時点…巳の初刻(午前9時前)位迄に、龍ヶ鼻前面では浅井勢は第3陣の阿閉貞征勢・第4陣の新庄直頼勢も姉川の渡河を果たして戦闘に参加している。
一方、織田勢は第4陣の柴田勝家勢が東側で、第5陣の森可成勢が龍ヶ鼻を横断の後に織田本陣前面に回って、夫々(それぞれ)戦闘に参加している。
しかしながら信長直率の本陣4千や佐久間信盛勢2千は未だに参戦していない。
「ええぃ!孫三郎(景健)殿は未だに動いて居らぬ!此の侭《漁夫の利》でも狙うつもりか!」
此の局面に於いても、未だに朝倉勢の側面攻撃が始まらない事に業を煮やした浅井長政は、遂に本陣を姉川南岸に動かす事を決断した。
「儂はもう待てぬ!こう為れば本備が川を渡って後巻を致して、義兄上を…織田弾正(信長)殿を討ち取るのだ!」
「殿!善くぞ仰有られた!此の美作、何処迄も御供致しまするぞ!のぅ、喜右衛門殿?」
長政の決断を聞いた重臣・赤尾美作守清綱が賛意を示し、近隣に豪勇を鳴らす遠藤喜右衛門尉直経に同意を求める。
「うむ。殿、此の喜右衛門の命に換えようとも必ずや織田弾正を討ち取ってみせまする!」
(…例え如何なる手段を用いてでも弾正殿と刺し違えてみせる!)
元々信長の先見性を評価していた直経だったが、近習の頃より長く仕えてきた長政の為にも信長を葬る覚悟を固めるのだった。
こうして浅井・朝倉勢優勢で推移していた戦況だったが、此の《長政の渡河》こそが1万の軍勢で浅井勢を塞いで迄して、信長が待ち望んだ状況だったのだ。
後は反撃の切っ掛けが有れば良い。其れは西側の戦場、姉川北岸の三田村に於いて発生したのだった。
即ち《榊原康政勢の側面攻撃》である。
「渡河寸前だった前波勢は徳川勢の横槍を受けて壊乱致し申した!前波藤右衛門(景当)殿、九郎兵衛(吉継)殿は落ち延び申したが、前波新八郎殿、黒坂備中(景久)殿を始め多数の方が御討死致しておりまする!」
「何とした事だ!孫三郎様、如何致しまするか?此の侭では朝倉勢は全滅致しまするぞ!」
三田村城跡の朝倉勢本陣では総大将・朝倉景健の直臣である安居城勢が、第2陣の混乱を見て慌てふためいている。
前安居城主・右兵衛尉景隆の末子だった景健は、此の数年で兄や叔父が相次いで亡くなり、父の景隆も此の年の始め(永禄13年・1570年)に亡くなって家督を継いだばかりであった。
父の元での武将の経験は多くても《総大将》の経験が少なく、未だに家臣の信頼を勝ち得ていなかった。
(父上為らば此の手勢を見事に纏めて戦えようが、儂が真似して無理をしても崩れていくのみよ。為らば軍勢を保った侭で小谷に下がり、義景様の後詰を待つべきだ。こうなっては川を渡らなかったのが幸いしたな…)
景健は此れ以上交戦しても勝機は無いと判断して、撤退する事を決断した。
「狼狽えるな!我等は此れより小谷城迄《繰り引き》を致す。3千の軍勢が一切の隙を見せずに退けば、襲われる事は有るまい。夫々(それぞれ)の備えと浅井備前(長政)殿にも使番を走らせて此の事を報せよ。各々の大将の才覚で小谷城迄退く様に伝えるのだ」
「はっ!承知致しました!」
生き残る目処が見えた所為か息を吹き返した家臣達を横目に見ながら景健は、
(父上の如く家臣を掌握しなければな。そして此の恥は必ずや近い内に雪いでみせる!)
と、己の心中に誓うのだった。
因に、景健は屈辱を糧に精進を重ね、此の9月には湖西の地で見事に雪辱を晴らす事になる…。
こうして、朝倉勢第2陣及び本陣に取っての《三田村合戦》は此の時点で実質的に終了した。
だが戦場に取り残された朝倉勢先陣と浅井勢に取っては、此れから正念場の退却戦を行わなければいけないのだ。
姉川流域に於いて繰り広げられる戦いは、転換点を迎えて愈新たな局面に入っていくのである。
次回は戦いの後半と後日談になります。次回も長い話になると思いますが、此の話をまた読みに来て頂ければ嬉しく思います。