捌之余之壱:姉川異聞(上)〜決戦への道程〜
今回は本筋から少し外れて、武藤(真田)昌幸の越前・北近江への派遣と《姉川の戦い》の話になります。史実では織田・徳川勢の大勝利に終わる姉川の戦いですが、昌幸一行が入って少しだけ変わっていきます。相変わらずの乱文ですが、読んで頂ければ嬉しく思います。宜しく御願い致します。
季節は梅雨入りの頃を迎え、五月雨が山国の甲斐にも小止み無く降り頻る。雨は山の木々を潤し麓の村々に豊かな実りを齎してくれる。
其の水墨画の様な風景を眺めていると《戦国》の世で或る事を忘れてしまいそうに為る。
其の小雨の中を騎行為る1騎の騎馬が有った。泥濘んだ山道も乗馬を巧みに操って先に進んで行く。
騎行しているのは目深に陣笠を被った若武者である。小柄で目の辺りが窪んだ感じの人相だ。だが其の眼光は鋭く、此の世の深遠や人の心の奥底迄も全て見渡すかの様だ。
若武者の名は武藤喜兵衛昌幸。甲斐武田家の当主・武田法性院信玄と、当主代行たる陣代・武田左京大夫勝頼の間で取次を行う《法性院様申次役》の1人である。
彼は信玄の養生先である信濃のとある湯治場から、勝頼からの指示を受けて武田の本拠地・甲斐府中の躑躅ヶ崎館へと向かっているのだ。
武藤喜兵衛昌幸は勝頼の軍師に就いている真田弾正忠幸綱(一徳斎幸隆)の3男で、信玄の命により甲斐の名門《武藤家》の名跡を受け継いでおり、足軽大将衆の1人として《騎馬15騎+足軽30騎》の軍役を担っている。
物見(斥候・偵察)を得意とし、同じく物見を行う曽根右馬助昌世と共に信玄が《我が両眼である》と称える実力の持ち主であった。
昌幸は5人の兄弟の中でも最も幸綱の智略を受け継いでおり、更に幼い頃から奥近習として信玄に仕えて薫陶を受けていた。いわば《信玄の弟子》として才能を開花させつつあった。
更には昌幸の実家である真田家には、知られざる一面が有った。
信濃の小豪族である真田一族が生き残りを懸けて育て上げた《真田忍者》である。
信濃戸隠山の修験者達を中心に、伊賀国や近江甲賀郡の忍者等を受け入れる事により、小粒ながらも優秀な忍者集団を形成していた。
其の実質的な創設者とも言える幸綱は、武田信虎によって一時真田郷を追われて上野に退転した。
しかし《忍者による情報収集能力》と其の智謀を見込まれ、山本勘助晴幸の仲介で武田晴信(後の信玄)に仕えている。
其の後、幸綱は忍者を巧みに使った情報収集と智略縦横たる其の調略により、砥石城攻略を始めとして数々の武勲を上げ《鬼弾正》の異名で呼ばれたのだ。
真田の忍者集団は現在、長兄で家督を継いだ源太左衛門尉信綱が引き継いでいたが、昌幸は次兄の兵部丞昌輝と共に真田忍者の指揮を行う事も有った。
忍者並みの体術や忍法等は使えないが、他国の忍者で言う《上忍》の様な立場に居たのだ。
(其の意味では徳川家に於いて、忍者では無いが上忍として伊賀忍者を率いる服部半蔵正成が、真田兄弟と同じ様な立場だと言える)
そんな昌幸が躑躅ヶ崎館に飛び込んだのは元亀元年(1570年)5月4日の深更の事であった。
躑躅ヶ崎館に入った昌幸は、直ちに信玄の私室であった看経所に通された。其処は現在、勝頼が泊まり込んで政務を行っている。
「法性院様申次役・武藤喜兵衛昌幸、左京様の御下命により罷り越しまして御座る」
そう言いながら看経所に足を踏み入れた昌幸を勝頼が迎える。
「昌幸か、良う参ったな。父上(信玄)の所に居ったのに呼び立てて相済まなんだ」
「いえ、其れよりも此度は如何なる御用件で御座いましょうや?」
昌幸の質問に勝頼は己の顎を擦りながら昌幸に用件を話し始めた。
「うむ、昨秋の関東討入り(小田原攻め・三増峠の戦)に於いて、お主は父上の元を離れて戦場に参った。其の様に独自に判断出来る才を持った昌幸に、西へと赴いて貰いたいのだ」
「西へ…、で御座いますか?確か西の畿内では織田弾正(信長)殿が若狭を攻めると言っておった筈で御座る。まぁ目的は越前朝倉家の併呑で御座ろうが…」
「うむ、しかし去る4月28日、浅井備前(長政)が突如刀を返して織田勢の背後から襲いかかったのだ。織田方の越前攻めは結局失敗致しておる」
「何と…!備前殿の奥方は弾正忠殿の妹御(お市の方)の筈、其処迄して肩入れ致す程には、朝倉には勝ち目は無いと思いますがな」
昌幸は冷静に考えて、織田家との関係を切って迄して朝倉家との友誼を取った浅井長政の判断を愚かだと考えた。
「うむ、儂が考えてもそう思う位だからな。しかも浅井・朝倉両家の手勢に襲われながらも、弾正忠殿は退き引き致して京に入っておる。30日だから4日前の事だ」
「何と愚かな…。何故に全力を持って其の場にて討ち取らなんだか…拙者には理解に苦しみますな」
「両家がしくじった、と言うよりは弾正忠殿が一枚も二枚も上手だった、と見るべきであろう。だからこそ復讐に燃える弾正忠殿が一戦のみで浅井・朝倉両家を滅ぼしかねん」
其処迄勝頼の話を聞いていた昌幸が得心が入った様に語り始める。
「成程、つまりは拙者が近江や越前に《大物見》に繰り出せば良いのですな。其の上で織田勢や浅井・朝倉勢の実力を計りつつ、何方かが勝ち過ぎぬ様に致さば良い訳で御座いますな?」
《大物見》とは普通の物見とは違い、或る程度纏まった軍勢を率いて行う偵察で、状況に応じて奇襲や迎撃も行う。いわゆる《威力偵察》の事である。
「そうだ。但し現在は織田家とは表立って争う訳にはいかぬ。武田家とは知られぬ様に事を運ばねば為らぬ。昌幸、お主に其れが可能か?」
勝頼に今回の《物見》の厳しさを説明したが、生来の自信家である昌幸は不敵な笑みを浮かべて即答する。
「出来まする。と言うより武田家中に於いて、拙者以外は事をなし得る者は御座いませぬでしょうな」
余りにも自信有り気に応える昌幸を見て、勝頼も思わず笑ってしまった。
「あっはっはっ!そうか!流石は昌幸は父上が《我が眼》と仰有られただけの事は有るな!よし、一徳斎(幸綱)と子細を詰めた上で早速西へ出立致すのだ!寄騎衆の人選も一任致す!それと武田家が費えを支払って、雑賀衆の雇い鉄砲50人も近江・越前に来る予定だ。此れも寄騎と致すが良い!」
「ははっ!畏まって候う!見事御期待に御応えしてみせまする!」
勝頼に対して頭を下げながらも既に昌幸の心は、数多の武将達が鎬を削る事に為る近江・越前の地へと飛んでいるのだった。
昌幸は、先ず己の実父で勝頼の軍師を務める真田一徳斎幸隆(幸綱)の部屋を訪ねた。幸綱も現在、躑躅ヶ崎館に入っているのだ。
昌幸から事の子細を聞いた幸綱は、半ば呆れながらも昌幸の西方派遣に同意した。
其処で2人の話題は武田家と関係無い様に偽装する点に移った。
「…うむ、為らば真田や武藤の姓を名乗る訳にはいくまい。海野家も御聖道様(信玄の次男の竜芳)が継がれておられる故に使えぬな。為らば向こうでは我等が先祖が名乗った《滋野》姓を使うが良い。家紋である《月輪七九曜》の旗も使い古した様に細工して用意致そう」
「助かりまする。しかし父上、此の物見は武藤家の者より寧ろ真田家に所縁有る者を使った方が無理が効くのでは?」
「ふむ…。其れなら源之助(矢沢綱頼の仮名)を付けて貰おう。寄親の土屋右衛門(昌続)殿には話を付けておこう」
矢沢右馬助綱頼は幸綱の直ぐ下の弟であり昌幸の叔父にあたる。幼少時は京の鞍馬山で僧籍に入っていたが、学問を疎んじて武事を好む気性故に追放され、長じて還俗して東信濃の豪族・矢沢家に入って此れを継いだ。
其の後は武田家に属し、《騎馬16騎持ちの信濃先方衆》として土屋昌続の寄騎に付けられていた。
(因みに此の数年後に受領名を授かるのを期に、綱頼から改名し《薩摩守頼綱》と名乗る事に為る)
「其れと勝頼様の命で、畿内の様子を探る為に真田郷からも忍びを放つ。其の内の20人程をお前に預けよう。忍びの差配、よもや忘れておるまいな?」
「《上忍》の差配は全て覚えており申す。御任せ下され、父上」
「そうか。為らばお前が勝頼様の眼と為るべく励んで参るが良い。そして必ずや生きて甲斐に戻って来るのだぞ!」
幸綱の親心に触れた昌幸は、言葉を発さずに唯無言で頭を下げるのみであった。
こうして昌幸は《滋野源五郎昌幸》と名乗り、叔父の綱頼と真田家・矢沢家家臣から選抜した騎馬20騎・足軽30人、其れに従う小者に偽装した《真田忍び》20人を率いて甲斐を出立した。
信濃・越中と山中を通過して、一向宗徒が制する加賀に脚を踏み入れたのは5月下旬の事。
其の中心たる金沢御坊の近郊に於いて、紀伊雑賀から来訪する《雑賀の雇い鉄砲》50人と合流を果たす為であった。
「御貴殿が甲斐武田家から遣わされた御方ですな?儂は雑賀衆の佐竹伊賀守(義昌)と申す。儂等が惣領たる左太夫(鈴木重意)殿から聞いており申す。此度は儂等《雑賀衆》50人が御貴殿の下知に従う様に言われておりまする」
其の様に言いながら頭目らしき武人が話し掛けてきた。
「佐竹殿、拙者は武田家中の武藤喜兵衛と申す。されど此度は忍びの差配も致さねばならぬ故、北信濃から落去致した浪人《滋野源五郎昌幸》と名乗りまする。佐竹殿も其の様に呼んで下され」
「成程、透破仕事も行う訳ですな!流石は《足長坊主》と恐れられた信玄公の御家中で御座る。為らば鉄砲仕事は我等に御任せ下され!必ずや御役に立ちますぞ!」
今回、昌幸達は鉄砲を持って来ていない。雑賀衆の火力を有効的に使ってこそ、100人程度の兵力で策を打てるのだ。
「是非とも期待致しておりまする。先ずは越前に入り、朝倉勢に陣借り致そうと存ずる。戦場に赴かねば織田家の実力は計れませぬからな」
「承知致した。為らば早速、越前の一乗谷に参ると致そう。出陣前に《着到状》を貰って陣立てに加わらねば、《置いてけ堀》を食らいまするぞ!」
「うむ、確かに!では皆の衆、此れより越前一乗谷へ向おうぞ!」
『応ぅっ!』
昌幸一行は佐竹義昌の手勢を加えて越前に入国し、6月朔日には朝倉家の本拠地・一乗谷に辿り着いた。
一乗谷は南北朝時代の頃からの朝倉家の本拠地であり、足羽川の支流・一乗谷川沿いに開発されている。
谷の南北を大木戸と水堀で守りを固めて、其の内側に居館を中心として市街地や各寺院が栄えている。
また足羽川を下った河口にある三国湊とは水運が発達しており、越前の奥まった地に位置しながらも華やかな京風の文化が花開いていた。
着到状を受け取る為に一乗谷に着いた昌幸達であったが、総勢120人余りの手勢の大半は、一乗谷の北側を守る《下木戸》の外、足羽川の川湊も近い阿波賀の地に止め置かれた。
そして手勢に野営準備の後に休息を命じた上で、一乗谷の中に入り着到状を貰う事にした。
昌幸は綱頼と義昌と共に、一乗谷の中心にある朝倉館を目指す。
しかし暫く歩いた後に、歴戦を潜り抜けてきた綱頼が口を開いた。
「源五郎殿、伊賀殿、可笑しいとは思わぬか?浪人衆を呼び寄せ、家臣団の手勢も集まり始めておるのに、朝倉家の本拠地たる此の地に張り詰めた気が流れて居らぬ。まるで戦が遠のいた様じゃ」
「うむ、確かに右馬助殿が言う通りだ。源五郎殿は如何思われる?」
2人と同様の違和感を感じていた昌幸は少し考えてから己の考えを語る。
「恐らく浅井の手伝い戦に足を捕われとうは無いのか…。しかし《唇亡びて歯寒し》と言うが、越前の朝倉家と北近江の浅井家は今では正に一蓮托生の筈、此処は全力で織田家に痛撃を与えるべきだが…。もしそう為らずば、此の戦は難しい事に為りそうだな」
昌幸の発言を聞いて、2人は此の後の苦戦を予想して、改めて気を引き締めていく。
3人は一乗谷の中心である《朝倉館》の側に設置された臨時の奉行所に入り、着到奉行から正式な着到状を受け取った。
すると、次の順番を待っていた武士の一団が目に入った。
一族や家臣を連れているのだが、体格が大きな者が集められている。中でも当世具足を着込んだ先頭の3人は特に大きい。小柄な昌幸から見たら上を見上げるばかりである。
「真柄荘の国衆の真柄備中(景忠)が一門、真柄十郎左衛門尉直隆!同じく弟の直澄、嫡男の隆基、一族郎党を率いて着到致した!」
先頭の中心にいる大男が名乗りを上げるのを見ていると、其の左側に立っていた若武者が近付いて来る。
「何じゃお主等は!此れは見世物では無いぞ!早う去ねるのじゃ!」
歳の頃は二十歳位の血気盛んな若武者を見て、昌幸は微笑みを浮かべて会釈を交わす。但し其の眼光故に、相手から見ると挑発してる様に見えるのだが。
「申し訳御座らぬ。拙者は北信濃の出で、此度紀伊から馳せ参じた滋野源五郎と申す。拙者の如き小兵と比べ見事な体格故に見取れておった次第で御座る」
「確かにお主の如き小兵では御家の御役に立つまいよ!先ずは儂がお主が戦場で役立つか調べて進ぜようぞ!」
若武者は昌幸を半ば莫迦にした様に突っ掛かってくる。昌幸は綱頼達を手で軽く制して、若武者と不本意ながらも対峙為る。
「やれやれ、戦とは力のみで致す物では御座らぬのだがな。宜しい、掛かって参られよ!一つ小兵なりの戦を御覧に入れよう!」
「ほざけっ!朝倉国衆、真柄十郎三郎(隆基)参るぞ!うおぉぉっ!」
隆基は昌幸に掴み懸かろうと両腕を上段に振り上げて襲いかかる。
しかし昌幸は隆基を待ってはいなかった。敢えて懐の中に飛び込むと、降り懸かる両腕を躱す。そして躱した勢いを殺さずに、鎧に覆われていない隆基の脇の下に肘撃ちを叩き込んだ。
「うぐっ!」
と呻きながらも、隆基は猶も掴み懸かるが痛みの為に勢いが無い。
昌幸は相手の腕を取ると、其の力を利用して投げ飛ばした。
昌幸は隆基を転がすと、身形を整えながら隆基に語り掛ける。
「小兵でも、相手の力を利用為れば投げを撃てるので御座る。お主が油断して無ければこうは成らなかったで御座ろうがな」
すると熱り立った真柄家の郎党が騒ぎ出した。
「若っ、大丈夫で御座いましょうや!」
「おのれっ!若に対する所業、誠に赦せぬ!」
しかしながら其の背後から、一族を率いる直隆の怒声が響く。
「止めぬか、見苦しい!隆基が啖呵を切った挙句に負けたのだ!其の御人は降り懸かる火の粉を払った迄!お主等は此れ以上儂に恥を掻かす気か!」
一方で、弟の直澄が隆基を助け起こしながら、甥に向かって言い聞かせた。
「どうじゃ?世間には十郎三郎よりも剛の者が居るのじゃ!姿形に惑わされると此の様になる。大戦に出る前に良い事を学んだな」
「叔父上…。其処の御貴殿、誠に失礼致した!某の完敗で御座る!何卒赦してくれい、此の通りで御座る!」
助け起こされた隆基は巨体を小さくして昌幸の前に跪くと、額を地面に擦り付けて土下座しだした。
「いや、拙者は特に気に致して居らぬ故、御顔を上げて下され。もしも出来得るならば、越前に入国して日の浅い我等と親しくして頂ければ、拙者達も助かり申す」
昌幸は其の場に居合わせた真柄一党全体を見渡しながら語り掛ける。すると直隆が進み出て昌幸に大きな掌を差し伸べる。
「誠に見事な武者振り、感服致し申した!親しく交わる事、此方から是非御願いしたい!改めて儂が真柄十郎左衛門尉直隆で御座る!」
「此方こそ、宜しく御頼み申す。拙者は滋野源五郎昌幸で御座る」
昌幸は直隆の掌を握り返し、堅い握手を交わしたのだった。
真柄一党は今立郡真柄荘を根拠地とする国衆で、国衆(外様衆)として朝倉家の台頭する頃から臣従していた。
此の頃の真柄荘を治めていた本家の当主は左馬助(後に備中守)景忠である。しかし、分家筋で上真柄に居館を構える十郎左衛門家の方が有名だった。
分家当主の直隆と弟の直澄は共に6尺(約181センチ)を優に軽く超える巨漢で、直隆嫡男の隆基も6尺以上の体格であった。
彼等の繰り出す凄まじい膂力は、数十貫の大岩さえも投げ飛ばし、越前一の豪勇を誇った。
彼等に惚れ込んだ越前の刀鍛冶師・千代鶴は、彼等しか使えない様な巨大な大太刀を鍛え上げた。
直隆が持つ刃渡り5尺3寸(約160センチ)の大太刀《千代鶴太郎》(太郎太刀)と、直澄から隆基が譲り受けた刃渡り4尺3寸(約130センチ)の《千代鶴次郎》(次郎太刀)である。
更に直澄に至っては、刃渡りが9尺5寸(約288センチ)もの特製野太刀に長い柄を付けて《長巻》の様に用いていた。
因に、3人は去る永禄11年(1568年)には亡命中の足利義昭の御前で、其等の得物を使った剣技を披露して面目を施している。
昌幸達は真柄一党を通して、一乗谷に参じた内衆(譜代衆)や国衆(外様衆)達と親しく交わり、多くの情報を手に入れている。
当初、織田信長を取り逃がした朝倉家は、織田の本領で越前と境を接する美濃への侵攻を試みていたらしい。
しかし信長は岐阜帰還後に境目の城の警戒を厳重にした為、朝倉勢は付け入る隙を見出せず、精々関ヶ原近郊の赤坂・垂井等で放火したのみであった。
すると朝倉勢…特に当主の義景から戦意が著しく低下していく。
己自身の出陣はおろか、浅井家支援の為に派遣している朝倉式部大輔景鏡の軍勢に帰国命令を発したとの噂も立っていた。
(事実、6月15日に景鏡勢は越前に帰国を完了する)
昌幸達が陣借りしてから半月余りが過ぎても、朝倉勢は未だに浅井家の後詰には出撃していなかった。
「此処が攻め時で有るのに、朝倉左衛門督(義景)殿や取巻きの同名衆(朝倉一門)は何も判って居らぬ!浅井殿が滅びたら次は我が身ぞ!」
阿波賀に臨時に置かれた《浪人衆》の宿所に於いて、陣借りした浪人の1人が叫んでいる。車座になって聞いている他の浪人達に訴えているのだ。忽ち周囲から賛同の声が上がる。
「左様じゃ!此のまま手を拱いておっては、我等が陣借り致した意味が無いではないか!」
「そうだそうだ!もう6月も半ばを過ぎた無いか!此処で腐るだけでは手柄も立てられん!」
そう叫ぶ浪人達に座の中から制止の声が掛かる。浪人衆達と意志の疎通を計る為に、真柄直隆が隆基を引き連れて、連日話に加わっているのだった。
「皆の衆、暫し待ってくれ!お主等の言い分尤もなれど必ずや御屋形様(義景)は大兵を以て近江へ出陣致される筈じゃ!儂に免じてもう少しだけ待ってくれぃ!」
そう言って周囲を諭そうとする直隆を、車座の外側から昌幸が興味無さげに眺めている。此の半月余りで情報を得た昌幸には、義景の心底が既にありありと見え透いているのだ。
「滋野殿、浪人衆の中では御貴殿が一番手勢が多い。お主は出陣が日延べ致して居るのを如何思案なさるのだ?」
浪人の1人が昌幸に意見を求めると、直隆や浪人達は一斉に昌幸に耳目を集めた。
「うむ…。確とは判らぬが、左衛門殿督は此度は近江に自ら出陣為さるまい。恐らくは陣代を立てられよう。拙者の読みでは式部大輔(景鏡)殿ではなく孫三郎(景健)殿か…」
其の昌幸の意見に直隆が反論する。
「馬鹿な…。孫三郎殿は身罷られた右兵衛(景隆)殿の世継で安居城主。確かに家格なら大野郡司の式部殿に次ぐが、今年に入ってから家督を継がれたばかり。流石に2万近くの大軍勢を率いる事は出来まい」
「だから2万の軍勢を出さぬのさ。下手を打つと1万も割るのでは無いか?」
昌幸の意見に一同がざわつき始めた。此処に居る浪人達は2万の軍勢に参加するつもりで陣借りしている。
兵力が半分ならば、其の分勝ち目が薄くなるのだ。
「しかし何故に左衛門督殿は自ら御出陣為さらぬと思うのだ?此の期を逃さず攻めるが常道ではないか!」
「左衛門督殿には左衛門督殿なりの御考えが有るのだろうさ。先ずは浅井家を矢面に立てて小手調べ為るのではないか?」
浪人の質問を適当にあしらいながら、昌幸は口角を上げながら心の中で呟く。
(今年になって、寵愛する妾が世継を生んだらしいからな。余程其の女の肌が恋しいのだろうよ…)
此の年(元亀元年)、義景の側室で斉藤兵部少輔の娘・小少将が世子と為る愛王丸を生んだ。義景は小少将を昼夜を分けず寵愛し、宴を繰り広げて政務を疎かにしていたのだ。
其の寵愛振りは『此女房(小少将)、紅顔翠戴人の目を迷すのみに非ず、巧言令色人心を悦ばしめしかば、義景寵愛斜ならず』と言われている。所謂《傾国の美女》だったのだ。
昌幸の意見を聞いて、悲観的な内容を訝しむ浪人が多かった。直隆親子も多少大袈裟に言っていると考えていた。
だが、そんな宿所に1騎の騎馬が駆け付けた。真柄家の陣所で留守を預かっていた直澄本人がやって来たのだ。
「兄者!出陣が決まったぞ!儂等は先陣に加わって明日の日の出に出立だ!浪人衆の御歴々も共に北近江に向かう事になっておるぞ!」
「おおっ!遂に出陣の下知が下されたか!」
「随分と待ち侘びたぞ!腕が鳴るわい!」
浪人達は興奮しながら手柄を立てる機会が訪れた事を喜んでいる。しかし次の言葉が其の熱気に水を差した。
「うむ、総勢は8千、陣代は孫三郎殿が務めるそうじゃ!…って急に黙り込んで如何致したのだ、皆の衆?」
直澄の言葉で全員の視線は一斉に昌幸に集中した。正に昌幸が言った通りに為ったのだ。
「滋野殿…、兵の数も陣代の事もお主は判っておったのか?」
直隆が恐る恐る質問するが、昌幸は事も無げに答える。
「なに、左衛門督殿の御気性と朝倉家の同名衆の方々の軋轢の噂を重ね合せて考えれば、答は自ら出る物で御座る」
名将・朝倉教景(照葉宗滴)の死後、朝倉義景と同名衆達は教景が当主を務めていた《敦賀郡司》の巨大な勢力を削る事に腐心し続けた。
《敦賀郡司》家当主の朝倉景紀(義景の叔父・大機伊冊)に対抗する為に、《大野郡司》家当主の朝倉景鏡(義景の従兄弟・式部大輔)や安居城主の朝倉景隆(義景の従兄弟・右兵衛尉・雲叟宗瑞)を重用した。
また織田信長の越前討入の際には、朝倉景恒(景紀の世子・中務大輔)が率いる敦賀郡司勢を半ば見捨てる形を取り、金ヶ崎城・手筒山城が落城した。結果として浅井勢の参戦迄に敦賀郡司勢のみが惨敗してしまい、景恒は他の同名衆から責任を追求されて吉祥山永平寺に遁世していた。
「…確かに上の方々の間で軋轢が有るは事実だ。だが、応仁の争乱以来鍛えられた越前武者の力を持って為れば、弱兵の尾張の木端侍なぞ恐るるに足らず!浪人衆の御歴々も今こそが功名を成す刻で御座るぞ!」
『うおぉぉっ!』
直隆は自らの不安を押し隠し、浪人衆の功名心を焚き付けていく。
元々が此の戦で一旗上げる為に参じた浪人衆は、直隆の発破に拳を振り上げて雄叫びを上げる。
其の中で昌幸は1人黙した侭であった。
朝倉景健率いる朝倉勢は一乗谷を出立し木ノ芽峠を通過、敦賀郡を通過する際に当主不在の《敦賀郡司》勢を加えて約8千の軍勢に再編した。
其の上で6月24日に北近江に入り、小谷城の南東にある大依山に着陣。
26日には浅井長政も小谷城を出陣して6千の軍勢を率いて大依山の朝倉勢に合流を果たしている。
早速、朝倉勢・浅井勢の首脳部の間で軍議が開かれ、朝倉勢浪人衆を代表して昌幸が1人参加していた。
朝倉景健の隣には浅井勢の大将・浅井備前守長政が座して、両勢が向い合せに座る。
「此度の戦は浅井存亡の一戦故、左衛門督殿御自らの後巻を期待致して居りましたが…」
残念そうに応対する長政は当年26歳。織田信長が妹を嫁がせるにふさわしい堂々たる美丈夫である。そんな長政が悔しそうな表情を僅かに浮かべる。
赤尾美作守清綱・海北善右衛門親綱・新庄新三郎直頼・阿閉淡路守貞征・浅井玄蕃允政澄・磯野丹波守員昌等の浅井勢の重臣達も不満そうな顔付きで対面に座る朝倉勢を見ている。
其の中でも浅井一の猛将で此の大依山砦を預かる遠藤喜右衛門尉直経は、まるで仇敵と対する様に睨み付けながら不満を言い放つ。
「我が殿は朝倉様に2万の後詰を頼んでおった筈。其れを半分にも満たぬ軍勢とは、朝倉家を救わんとした我等を見捨てる御積もりか!」
其の言葉を聞いた奉行衆筆頭の前波藤右衛門尉景当や弟の九郎兵衛尉吉継、そして印牧弥六左衛門能信・黒坂備中守景久・真柄兄弟等の侍大将達が一斉に色めき立つ。
そんな中で朝倉勢の総大将である朝倉景健が涼しげな表情で長政に言い返した。
「見捨てるつもりは毛頭御座らぬ。其れ故に態々(わざわざ)越前から我等が遣わされたのだ。其れとも備前殿は我等では力不足だと言われるか?」
「いや、孫三郎殿の後巻には感謝致しておりまする。ですが織田弾正(信長)殿の手勢に徳川三州(三河守家康)の援軍を加えて合計で3万はおりましょう。我等のみで勝てましょうや?」
長政は率直に兵力差についての不安を口にする。勿論、言外に更なる増援を求めているのだ。
しかし、景健には織田の大軍勢を恐れる様子は見受けられない。むしろ織田家に対する侮蔑が感じられた。
「信長如きは《武衛家筆頭》たる斯波家の陪臣の其の又分家の出では無いか。斯波家の直臣にして越前守護代を務めてきた朝倉家に敵う筈が無かろう!」
(血統で戦をする訳では無いのだ。貴奴は莫迦では無いか?其れに比して浅井備前は気は弱そうだが却々(なかなか)見る目が有る。信長が義弟に欲しがったのも判るな…)
末席に座る昌幸はそんな事を考えながら軍議を眺めていると、次第に目前の議論も白熱していった。
大別すると、主に浅井勢は姉川を渡河の上での積極攻勢を望んでいた。信長を此の一戦で葬らねば、浅井家自体が風前の灯になるのだ。
特に遠藤直経は、
「自ら本陣に切り込んで信長を討ち取る」と意気込んでいる。
一方、朝倉勢は此の戦が手伝い戦の為にむしろ小谷城付近に退いての籠城策を考えていた。籠城の間に新たな後詰を待つ持久戦である。
だが、浅井方の決戦へ向けた決意は固く、朝倉方の侍大将達も賛同する形となって、議論は次第に積極攻勢の方へと傾いていった。
「織田勢の本陣は姉川の南側、龍ヶ鼻の上に設けて御座る。更に南側には我が方が先月設けた横山城が御座るが、織田・徳川勢に十重二十重に囲まれており申す」
浅井家の家老である海北親綱が、広げられた北近江の地図を指し示しながら戦況を説明していく。
「龍ヶ鼻から姉川南岸迄は余り広く無く、大軍を生かさせずに済み申す。其処で敢えて此の大依山の南を流れる草野川、更には敵前の姉川迄一気に押し渉り、2方向から龍ヶ鼻を攻め立てまする」
そして親綱は姉川付近に書かれた2つの地名を指し示した。
「先ずは全軍が大依山を出立致しまする。我等浅井勢は、龍ヶ鼻の正面になる野村に陣を据えて姉川を渡河致して、織田勢の動きを搦め取りまする。一方、朝倉勢は西側の三田村から渡河して頂き、織田勢が態勢を立て直す前に西側から龍ヶ鼻を攻め立てて頂きまする。最後に折を見て横山城兵も撃って出て信長を討ち取るので御座る!」
姉川南岸の狭隘な平地を利用して、織田の大軍の大半が戦闘に参加してくる前に本陣の信長を討ち取るつもりなのだ。
「成程、龍ヶ鼻の西側…姉川の川下側には確かに《三つ葉葵》の旗指物が見えた。為らば備前殿、我が朝倉勢は徳川の手勢を撃ってから、信長の本陣に西側から攻め寄せ討ち取ろう」
作戦の骨子を聞いた景健は、隣に座する長政に了承の返事を行った。
「朝倉殿、忝う御座る。皆の者、何かしら異論が有る為らば此の場にて述べるが良い」
長政が軍議の参加者に対して発言の機会を与えるが、既に戦意に満ちた諸将からは賛同の声しか出て来ない。
だが、其処に冷や水を浴びせるかの様に、昌幸が反対の意見を述べる。
「御待ち下され。此の度の織田弾正の本陣は変では御座らぬか?確かに見晴らしが良く、我等の動向を探るには適地為れど、余りにも無防備過ぎまする。恐らくは我等を罠に嵌めるつもりでは…」
「ええぃ、黙れ其処の浪人!戦意が高まっておる時に水を差しおって…。貴様等浪人は策に従って動いておれば良いのだ!」
話を聞いていた景健が立ち上がり、顔を真っ赤にして怒りを露にする。
既に景健の脳裏では、己が華々しく信長を討ち取る姿を夢想しており、昌幸の発言は正に己の陶酔に水を差す正しく余計な発言なのだ。
「申し訳御座いませぬ。拙者が差し出がましい事を申しました」
昌幸は取り敢えず景健に謝り、長政に対しても頭を下げる。しかし其の胸中は全く違う事を考えていた。
(やれやれ…。此の阿呆は手柄を横取りされるとでも考えたのか?しかし此れで此方の動きを読まれては万に一つも勝てぬな。仕方ない、真田忍びに一働きして貰うか…)
そんな事を考える昌幸を余所に、浅井・朝倉勢は28日払暁を以て戦端を開く事に決したのだった。
軍議の後に自分の陣所に戻った昌幸は、己が連れて来た《真田忍び》20人を招集して、密かに或る命令を下した。
「良いか、直ちに織田・徳川の陣中に《浅井・朝倉勢、明日に大依山を下山して小谷城に移動。籠城の構え此れ有り》との噂を流すのだ。やり方は任せる故、確実に織田弾正の警戒を和らげるのだ。では行くが良い」
『御意!』の返事と共に忍び達の姿は消え失せ、気配も瞬く間に遠ざかっていく。
「さて、此れで引っ掛かってくれれば、横山から織田の軍勢が駆け付ける前に本陣に手が届こう。後は浅井と朝倉の軍勢の力量次第だが…」
昌幸が一人思案に耽っていると、手勢を纏めていた矢沢綱頼と佐竹義昌が呼び掛けて来た。
「滋野殿、先程両勢の陣立てが明らかにされ申した。浅井勢は5段、朝倉勢は3段に分けるらしいが…」
「佐竹殿?言葉を濁されて如何為さったのだ?」
義昌の反応を訝しんだ昌幸に対して、綱頼が詳しい内容を明かす。
「先陣は《敦賀郡司》勢と国衆と浪人衆…早い話が外様の連中だ。二陣は前波殿と内衆、本陣は孫三郎殿の安居勢と同名衆だが、儂等だけ先陣の浮き備え(遊軍)に外されておる。どうせ軍議の席で孫三郎殿を小馬鹿にでも致したのだろう?」
実の叔父ならではの鋭い指摘に、昌幸は思わず苦笑を浮かべながらも思わず皮肉を述べる。
「叔父上、御待ち下され。敵勢との差を鑑みて一兵でも手勢が入り用と為るのに、此の様な意趣返しを謀る阿呆に対して、態々(わざわざ)喧嘩などは仕掛けませぬ」
昌幸の言葉を聞いた綱頼は、義昌に向かって謝罪を口にする。
「伊賀守殿、誠に申し訳御座らぬ。我が甥の所為で生殺しの様に為ってしまい申した」
「いやいや、浮き備えで動かぬならいざ知らず、立ち回り次第では存分に傾く事が出来申そう。我等の鉄砲の業前を十二分に御見せ致しまするぞ!」
義昌がそう言うと、昌幸と綱頼は顔を見合わせてニヤリと笑う。其の顔は、正に《鬼弾正》真田幸綱の次弟と3男に相応しい凄味に満ちて居たのだった。
翌27日早朝、大依山に布陣していた浅井・朝倉勢1万4千は下山を開始する。
直ぐに南下を行わずに、先ずは小谷城の有る北西方向に移動後に旗指物等を隠匿した。
そして薄暮の頃を見計らって反転、浅井勢6千は野村に、朝倉勢8千は三田村に夫々(それぞれ)布陣した。
此の2ヵ所には、浅井家が織田家と決裂後に急拵えで造り上げて、其の後放棄していた陣所が有り、両勢は密かに其処を利用したのだ。
しかし織田・徳川方は其の事に気付かなかった。両勢の物見達は《真田忍び》の働きによって、両勢の動きを小谷城への撤退と誤認してしまったのだ。
織田信長は包囲する横山城に対して浅井勢の撤退を報せて改めて無血開城を要求する。
其の一方で深更に突如軍議を開くと、開城後直ちに次の行動に移るべく陣払いの命令を発した。
「貴奴等が攻めて来れば姉川の南北に布陣致して、浅井勢を擂り潰すつもりだったが当てが外された様だ。よって翌朝、龍ヶ鼻を降りて虎御前山に向かう。五郎左(丹羽長秀)は此の侭、横山を受け取れ。平左(安藤範俊・後の守就)と卜全(氏家直元・貫心斎卜全)も此れに付け。残りは姉川沿いに居る今の陣立ての侭に虎御前山へ向かう。よって北から先陣は坂井右近(政尚)、二陣は勝三郎(池田恒興)、三陣は藤吉郎(木下秀吉)、四陣は権六(柴田勝家)、五陣は森三左(可成)、六陣は右衛門(佐久間信盛)と致す。…徳川殿は焦る必要は無い。後からゆるりと着いて来られるが良かろう」
信長が隣に座する徳川家康にそう呼び掛ける。しかし家康は半ば激憤しながら反論する。
「御待ち下され!弾正忠殿は我が三河武士が頼り無しと思われておるのか!三河武士は正に一騎当千、何者にも臆する事は御座らぬ!是非とも我等にも働く場を与えて頂きたい!」
「…ふむ、心得違いを致しておった。為らば徳川勢には我等の西側を進んで頂こう。稲葉右京(良通)の手勢を寄騎に付け申そう」
「はっ、御任せ下され!三河武士の実力の程を確と見て下されぃ!」
信長に其の様に返す家康も胸中では、
(ふんっ、軍監を付けねば信用出来ぬか。しかしながら折角、三河から近江迄出向いて参ったのだ。信長殿には此処は勝って貰って、武田との戦で矢面に立って貰わねばな…)
と考えていたのだった。
かくして、元亀元年(1570年)6月28日、北近江浅井郡の姉川河畔を舞台に浅井・朝倉勢1万4千と織田・徳川勢2万5千が正面から激突する事になる。
しかしながら、夫々(それぞれ)の思惑が少しづつ外れていたのだ。
浅井・朝倉勢は織田本陣に奇襲攻撃を試みたのだが、既に織田・徳川勢は横山城付近から北上を始めており、先陣の一部は河畔近くに到達していた。
織田・徳川勢は追撃戦を想定していたが、撤退した筈の浅井・朝倉勢が《朝駆け》を意図して姉川を渉って来たのだ。
其の結果、此の戦いが行軍中の大軍同士の《遭遇戦》となったのである。
此の遭遇戦は、後に織田家・浅井家では《野村合戦》朝倉家では《三田村合戦》と呼称し、武田家や徳川家では《姉川の戦》と呼ばれる様になる。
やっと開戦直前までいきました。という事で次回は姉川の戦いを主に《朝倉(含昌幸)対徳川》の戦いを中心に進めていきます。次回も長い話になると思いますが、是非読んで頂ければ幸いです。