捌:元亀争乱(壱)〜畿内騒擾〜
今回からいわゆる《信長包囲網》の話に入っていきます。相変わらず長文ですが、読んで頂ければ幸いです。
時は永禄13年(1570年)4月半ば。数日後には新たな元号《元亀》に改元される事になる日である。
季節は初夏を迎えたが、夜に為ると吹き抜ける涼風にも時折寒ささえ感じられる。山上に構えた山城では尚更だ。
北近江の大名・浅井家の小谷城の中腹に備えられた曲輪…《小丸》と呼ばれる隠居所では、部屋の主が密かにとある老人を客人として迎えていた。
西側の閉めた格子窓が外界への視界を遮っていなければ、月明りの下、此の国の名の由来と為った、海と見紛うばかりの広大な湖《琵琶湖》が広がっている筈である。
「…しかしながら、長政の御台は貴奴の妹、逆らう気は更々あるまい。まぁ此度の《朝倉攻め》には憤慨してはおるが…」
上座から降りて客と対面している部屋の主は弁明がましい発言を行うが、相手の客は、老人らしからぬ力強い視線で睨み付け、部屋の主の発言を封じる。
「…憤慨している為らば起てば良い。此のまま行けば織田は朝倉を攻め潰す。名将宗滴が身罷り15年、織田弾正(信長)に勝てる将は朝倉には居らぬからな。然すれば京と美濃を結び、国友(鉄砲生産地の国友村)を有する此の江北の地を放っては置くまい…」
「…た、確かに其の通りだが、しかし…」
部屋の主は薄い口髭を震わせ、視線も落ち着かぬまま、額に冷や汗を浮かべながら弱々しく返事する。
己の実力に自信が無い故に、齢77歳の老人が放つ覇気に気圧されているのだ。
「野州(下野守)殿、此の決起は公方様…足利義昭公を御救い為る物、正に《義挙》である。既に公方様の御内意も出ておる」
「む、無人斎殿、其れは誠で御座いまするか?」
無人斎と名乗る老人にそう問い掛けた部屋の主…浅井家の前当主である浅井下野守久政が返事を返す。
「うむ、公方様の御内意が伝えられておるのは野州殿だけでは無い。朝倉左衛門督(義景)殿、六角承禎(義賢)殿と右衛門(右衛門督義治)殿、三好日州(日向守長逸)殿と《三人衆》(長逸・三好政康・岩成友通)、三好左京(左京大夫義継)殿、松永霜台(弾正少弼久秀)殿、本願寺坊官の下間刑部(刑部卿法印頼廉)殿…。此等の大名が一斉に信長に襲いかかるのだ。浅井家が此のまま信長に付いておっては、共に滅びる事に相成ろう」
無人斎の発言を細かく聞いていれば、此等の大名は《御内意》を聞いただけで、全員が挙兵に同意した訳でも信長を見限った訳でも無い。
しかし無人斎の《覇気》に飲み込まれた久政には冷静な判断が出来なかった。
「確かに、無人斎殿の言われる通りじゃ!最早信長の風下に立つ必要は無い。長政が京から戻ったら直ちに織田方に攻撃を仕掛けさせよう!」
「為らば、信長が越前を攻めて金ヶ崎から府中に居る時に背後を封じるが良い。十中十死、信長を葬れば功一等は浅井家の物と為ろう。公方様の相伴衆である此の《無人斎道有》が保証致す」
「うむ、無人斎殿、誠に忝い!」
既に半ば勝った気に為っている久政に気付かれぬ様に冷たい視線を送り、無人斎は口角を上げながら北叟笑むのだった。
幕府相伴衆・無人斎道有…元の名を武田陸奥守信虎、嫡男の晴信(信玄)に追放されている甲斐の元国主である。
彼は駿河での叛乱失敗後、伊勢北畠家や京の三条家の世話を受けた後、将軍・足利義輝の相伴衆と為った。
しかしながら永禄8年(1565年)の将軍義輝弑逆事件…世に言う《永禄の変》後に出家して姿を消した。
そして武田姓を捨てて《無人斎道有》と名乗り、昨年から密かに義昭の相伴衆に収まっていた。義昭を傀儡にし始めた信長に対抗する為に…。
彼等が煽った信長への反撃の狼煙は《信長包囲網》を作り出し新たな戦乱が広がっていく。
時は少し流れ改元して元亀元年(1570年)5月朔日(1日)。二十四節季では《芒種》の頃である。
近江小谷城から東へ百里以上離れた甲斐国でも、百姓達は田畑を耕し種蒔きに勤しんでいる。其の姿はまるで秋の実りを祈るかの様だ。
そんな甲斐を中心に信濃・西上野に新たに駿河を領国に加えた甲斐武田家の本拠地・躑躅ヶ崎館に、武田家陣代(当主代行)の武田左京大夫勝頼が戻ったのは昨日、4月晦日(30日)の事であった。
勝頼は駿河の領国化の最中に急報を受けて、約5ヵ月ぶりに甲斐に戻って来たのだ。
昨年11月から駿河に出陣した武田軍は、富士川以東の《河東地方》を除く駿河国の大部分の平定に成功した。
勝頼は或る程度領国化を陣頭指揮すると、数人の有力家臣を招集した上で領国化作業を細分化したのだ。
馬場美濃守信春は駿河各地で武田軍が使用する支城の改修と、不要な城の城割り(廃城処理)。
山県三郎兵衛尉昌景は駿河江尻城と清水湊の整備の陣頭指揮。
土屋(岡部)豊前守貞綱・伊丹大隅守康直は武田海賊衆の関船(中型戦闘艦)・小早(小型戦闘艦)の建造と水夫の勧誘と訓練。
内藤修理亮昌秀は、昨年8月に結んだ越後上杉家との停戦が流動的になり、緊張が高まった西上野・北信濃方面の統轄指揮。
穴山左衛門大夫信君は興津横山城を拠点に河東方面の対北条の防衛。
金山奉行・土屋藤十郎長安は、硝石の仕入れと武田家直轄の金山の増産指揮。
長坂筑後守虎房は信濃高遠に建設を開始した《鉄砲工廠》の工房・住居の整備。
甘利郷左衛門尉信康と新たに仕官した鈴木孫一重秀は紀伊雑賀・十ヶ郷の鉄砲鍛冶・鉄砲遣いを教官に、高遠の《鉄砲工廠》に於いて鉄砲製造と射撃の訓練を行った。
また、京に派遣している今福浄勧斎からは、畿内を制した織田弾正忠信長から将軍・足利義昭の名前での《上洛か使者派遣の要請》が入った。
其れに対して、最終目標を《父・信玄の征夷大将軍就任》に据えている勝頼は、当たり障りが無い親書を浄勧斎を通して信長と義昭に送る事で、一応の義理を果たしている。
此等の武将が細分化した作業を行う傍ら、勝頼と軍師・真田一徳斎幸隆(幸綱)は駿府城と名を改めた旧今川館で、駿河領国化への全体的な統括政務を行っていたのだった。
しかし、4月下旬に駿府城に2つの重大な情報が飛び込んで来たのだ。
1件は京の今福浄勧斎によってもたらされた《織田信長による若狭・越前侵攻》。
そしてもう1件が上野に派遣した内藤昌秀が知らせて来た《北条氏康の7男・三郎が越後へ送られた》事だった。
此等の情報を重要視した勝頼は、幸綱と馬廻を率いて躑躅ヶ崎館に帰還したのだった。
「…という形で去る12日に三郎殿は沼田城に入り、越軍は翌朝には帰途に付いており申す」
「内藤殿、其れでは北条左京(氏康)は上杉霜台(輝虎)に対して我が子を質に送ったので御座るか?」
勝頼への報告の為に、上野箕輪城から先刻躑躅ヶ崎館に帰還した内藤昌秀の報告を聞いて、同席した土屋昌続が問い掛ける。
土屋右衛門尉昌続は金丸筑前守虎義の次男で天文14年(1545年)生れの当年26歳。仮名は平八郎を称し、幼少の頃より信玄の側に仕えて薫陶を受けている。
武藤昌幸・長坂昌国・三枝昌貞・曽根昌世・甘利信忠(初名は昌忠、信康の次兄)と並んで《奥近習六人衆》と称され、永禄11年には土屋家の名跡を継承して《60騎持ち譜代家老衆》と為る。
更に昨永禄12年(1569年)の三増峠の戦に於いて戦死した浅利信種から40騎を譲り受ける形で100騎持ちに昇進した。
また、武田家一門を始め譜代家老衆・先方衆に対する取次や竜朱印状奏者や奉行を務める等、内政面でも武田家を支えている有能な若手武将である。
因みに弟には勝頼の近習の土屋昌恒(金丸惣三)、名跡を与えた寄子には藤十郎長安や豊前守貞綱がいる。
「うむ、右衛門(昌続)が申す通り北条左京は我が子三郎を再び質にしたのだ。最初は我が武田家。そして此度は上杉…という訳で御座る」
昌秀は昌続だけでは無く、此の部屋に居る全員に説明する。すると上座の勝頼が溜め息を吐きながら述懐する。
「武田家が三郎を預かって居ったのは僅かの間ながら、父上も三郎を我が子の様に気に入って居られた…。身罷られた兄上(太郎義信)も可愛がっておったし、儂や五郎(後の仁科信盛)も良く会いに行ったものだ。相模に帰ってから久しいが、実父から再び此の様な仕打ちを受けるとは…。しかも此度は其の為に新三郎殿の妹と離縁させられたと聞く。儂は不憫で為らぬ…」
短期間ながら武田家に人質に為っていた三郎を知る春日虎綱が、勝頼の話を補足する。
「其の話は某も聞いておりまする。蒲原城の落城で北条新三郎(氏信)・長順の兄弟が我等に降った後、三郎殿は彼等の妹と婚儀を交わしており申す。しかし、上杉家へ質に送る為に態々(わざわざ)離縁致させ、代わりに弟の四郎(後の右衛門佐氏光)を宛行ったそうで御座る」
因みに、人質として上杉家に入った三郎だが当主の輝虎が甚く気に入り、帰国後の4月25日に己の姪を嫁がせて養子の1人にする。
更には、前関東管領上杉兵部少輔憲政(光徹)を烏帽子親に元服させて、己自身の初名である《景虎》を名乗らせ、春日山城三ノ丸に屋敷を建てて住まわせたのだ。
此の後より、北条三郎は《上杉三郎景虎》を名乗る事に為る。
「其れでは、上杉は北条を助ける為に矢止め(停戦)を破って西上野や北信濃に出兵致すやも知れませぬな」
そう発言した昌続を含めて此の場の全員が、人質の交換を終わらせて《越相同盟》が動き出せば昨年8月に結んだ《甲越一和》の停戦が崩れるのでは…と考えていた。唯一人を除いて…。
「いえ、右衛門殿。上杉の事は懸念には及びますまい。未だに越中の一向宗徒や椎名右衛門(康胤)が動いて上杉の動きを抑えており申す。其れに昨年再び上杉に降った本庄越前(繁長)は出羽庄内に食指を伸ばしており申す。上杉は好むと好まざるとに関わらず巻き込まれるに相違有りますまい」
其の様に自信を持って断言する幸綱に、勝頼は質問をぶつけてみる。
「為らば上杉と北条は夫々(それぞれ)が何時頃から動き始めようか?」
「上杉は恐らく冬、庄内や越中が雪に閉ざされた時点で三国峠を越山致して参りましょう。但し北条は上杉を当てにして直ぐにでも上野や駿河を攻めて参ります。境目の城は警戒を厳に致すが肝要と心得まする」
「成程、一徳斎殿の言には一理有りますな。では、織田・徳川は如何なる動きを致しますかな?」
昌続は幸綱に対して、もう一方の懸案である織田・徳川の動きの見解を聞いて来た。
「ふむ、徳川が遠州に押し出して参るのは自明の理。しかし徳川家は今、若狭の武藤上州(上野介友益)攻めに招集されており申す」
「確かに一徳斎の申す通りに織田弾正(信長)殿は《若狭攻め》と謳っておる。しかし京の浄勧斎からは『真の目的は越前だ、との噂有り』と伝えて来ておるが…」
勝頼は京の今福浄勧斎から伝えられた京中で囁かれる噂を明かす。
「正に浄勧斎殿が知らせた通りで御座る。織田弾正は若狭を鎧袖一触で降した後、勢いの侭に越前に雪崩込み、朝倉左衛門(義景)殿を滅ぼす所存で御座いましょう」
「恐らくはそう為りましょうな。朝倉左衛門殿の家門への誇りが、織田家に降るを潔しとは致しますまい。かと言って朝倉家単独では、幕府軍を糾合致した織田弾正には敵いませぬ」
幸綱の言葉を継いで昌秀が冷静な分析を行う。確かに朝倉家が越前を統べ2万近い軍勢を動かせるとはいえ、3万を越える連合軍を組んだ織田信長に敵う筈が無いのだ。
虎綱も織田家の膨張に懸念を表明した。
「既に濃尾や伊勢・南近江を統べる織田家が、朝倉領を併呑致さば領国は5ヶ国半、動員出来る兵力は5万を軽く超えまする。此等が全て徳川の後詰に回らば勝ちは覚束ませぬ」
冷静に考えれば考える程、武田と織田・徳川の兵力差は広がる一方である。
其の場に居合わせた5人が黙り込んだ時、騒々しい足音を響かせて土屋昌恒が走り込んで来た。
「皆様方、御無礼致しまする!畿内からの火急の知らせが参りました」
「五月蠅いぞ惣三!此の兄が恥をかくでは無いか!真逆織田弾正が負けた訳では有るまいし…」
実兄の昌続が昌恒を叱り付けたが、昌恒の発言は其処に居合わせた5人全員を驚かすには、十分過ぎる程の内容だったのだ。
「其の真逆で御座いまする!去る28日に越前の織田勢に対して、浅井備前(長政)殿の手勢が背後から襲いまして御座いまする!朝倉勢と挟み撃ちにされ、織田弾正殿の行方未だに知れずとの事で御座る!」
「なっ…、其れは真か!浅井備前殿には織田殿の妹(お市の方)が嫁いでおった筈!浅井殿は義兄の織田殿を裏切って、勝ち目が薄い朝倉家に肩入れ致したのか?」
昌秀が驚きながらも未だに信じられない様に質問する。虎綱も呻く様に己自身の考えを述べる。
「…判らぬが、恐らくは朝倉家との長年の友誼を優先致したのか…。しかし、織田弾正殿を討ち取らねば危なく為るのは浅井家の方だ。弾正殿は如何相成っておるのだ?」
虎綱の質問、と言うより自問には部屋の誰もが答を持ち合わせてはいなかった。すると部屋の外、中庭の方から声が響いて来た。
「信長は未だに生きて居る。期待に応えられずに残念だがな」
「むっ、何奴だ?」
「おのれ、曲者か!」 不審な声に反応した土屋兄弟が素早く立ち上がって縁側に飛び出すが、後ろから勝頼の冷静な声が聞こえてくる。
「平八郎、惣三、其の声は怪しい者では無い。お前は段蔵だな?何かしら掴んで来たのだな?」
すると暗闇の中から1人の忍者が現れた。今年で68歳ながら未だに最高峰の腕前を持つ凄腕の忍者、《飛び加当》こと加当段蔵である。
「藤十郎殿(土屋長安)から信長の動きを躑躅ヶ崎館に伝えよ、との命を受け、高遠の守りから一旦外して貰って近江に走って参って御座る」
段蔵はそう言いながら、縁側の直ぐ側に近付いて片膝を付いた。
「如かして信長は28日に浅井の動きを掴むと同時に、馬廻・近習のみを連れて金ヶ崎城から退いて御座る。其の後は夜通し騎行致し、翌夕には西近江朽木谷の領主・朽木弥五郎(元綱)の屋敷に入った後、昨日30日に京・本能寺に入り申した。よって直ちに駆けて参った次第で御座る」
段蔵の報告を聞いて、宿老達が一斉に溜め息を吐いた。あわよくば信長が金ヶ崎で命脈が絶たれたのでは…と淡い期待が有ったのだ。
そんな中で1人勝頼だけは信長が生きていた事に高揚感を感じながら笑みを浮かべていた。
「うむ、織田弾正殿は浅井殿による虎口を脱した様だな。弾正殿とは闇討ち等では無く、正々堂々戦場で相見えたいからな」
そう言いながら勝頼は重臣達を見渡しながら、言葉を続けた。
「しかしながら此度の越前攻めは明らかに為損じておるのだ。此れから暫くは織田殿の目線は西へ向かざるを得まい。此の状況を利して、今の内に北条・徳川・上杉に囲まれた状況を崩して後顧の憂いを絶つのだ」
勝頼がそう述べた後、縁側迄歩み寄って段蔵に話し掛ける。
「段蔵、此度の働き誠に見事であったぞ。ところで藤十郎やお主に任せた《高遠の守り》は如何相成った?お主に預けた者達はもう使い物に為ったのか?」
「御陣代様、答は否で御座る。一応、回して頂いた諏訪の忍びを鍛え直しておりまするがまだまだ実力が足りませぬな。まぁ鍛冶師の方も、雑賀の鉄砲鍛冶が改めて一から教えておるらしく、未だに鉄砲は1挺も出来てはおりませぬ。故に、某も抜けて来れた訳で御座るが…」
段蔵の率直な報告に勝頼は僅かに落胆したが、信長との全面的な対決は今回の一件で先延ばしに出来る故に、気持ちを切り替える事にした。
「うむ…。此度の越前での崩れで織田家との戦も今暫くは先送りと為ろう。長坂筑後(虎房)には、其れが1年後か2年後かは判らぬが、其れ迄に確実に大量の鉄砲を揃えられる様に伝えよ」
「はっ、承知致しまする」
其処迄言ってから、勝頼は幾許か考え込んで、段蔵に或る指示を出した。
「ふむ…。其れと鈴木孫一(重秀)に伝えて雑賀衆に繋ぎを入れてくれ。費用は武田家が出す故、密かに雑賀の鉄砲遣いを50名程近江・越前に送って貰いたいのだ。期間は雪が積もる迄の半年程度は欲しい。此の事、孫一に確と伝えてくれ」
「高遠に着いたら直ぐに伝えまする。では、御免仕る!」
返事を返すと段蔵は、一瞬にして暗闇の中に姿をかき消した。
勝頼が再び部屋に入って来ると、虎綱が段蔵への指示について質問してきた。
「勝頼様、最後の件は何故で御座る?武田家で賄う鉄砲も足りぬのに、態々(わざわざ)雑賀の鉄砲遣いを送らなくても良いのでは?」
「うむ、上手くは言えぬが…恐らくは浅井や朝倉は織田家に勝てまい。しかしながら余りにも早く負けて貰っては困るのだ。此れを期に両家と繋ぎを取り、影ながら助け船を出す。どうにか両家が保てれば、我等の上洛の際に一翼を担って貰う算段だ」
其の発言に一同は納得出来た。確かに奇襲が失敗した今、単純に朝倉や浅井が織田と正面から戦って勝つ確率は低い。寧ろ一戦で大敗して滅びる可能性さえ有るのだ。
勝頼の発言を受けて、昌秀が冷静に両家が打つであろう手段を述べてみる。
「確かに助けは必要でしょうな。しかし朝倉家も浅井家も一廉の大名で御座る。恐らくは織田家と対立致す六角家や三好家とも連携致す筈。早々に滅びる事には為りますまい」
「左様。先ずは西には出来得る手を打った上で、情勢を見極めるが上策でしょう」
幸綱も昌秀の意見に同調して、虎綱と昌続も無言のまま頷いた。4人の様子を見て勝頼が話し出す。
「良し、では西に関しては暫くは模様眺めだな。但し打ち得る手は出来る限り打っておくのだ。南の徳川に関しても、先ずは遠江や奥三河の国衆に誘降を促すと共に、逆に徳川から駿河衆への調略を防ぐのだ」
『はっ!』
4人の重臣達は勝頼に対して叩頭した。頭を上げてから幸綱が勝頼に確認する。
「つまり徳川とも、今少しは正面からの戦を待つ訳ですな。上杉との戦も早くて冬から、為らば先ずは叩くべきは北条という訳で御座るな?」
「そうだ。出来得る限り手早く河東の地(東駿河)を併呑致した上で、北条を手詰まりに追い込む。向こう側から再同盟を申し込まざるを得ない様に仕向けるのだ」
「承知致しまする。其れでは陣場奉行の原隼人允殿と陣立てについて決めねば為りませぬな」
虎綱が陣場奉行を務める原隼人允昌胤と打ち合わせる為に立ち上がったが、其処に部屋の外から再び土屋昌恒の声が響いて来た。
「皆様方、申し訳御座いませぬ!陣場奉行殿より皆様方に言伝で御座いまする!駿河深沢城、北条からの寄せ手から攻められ落城の由、城代・駒井右京亮(昌直)殿は大宮城に退かれて御座いまする!」
昌恒の報告を聞いて、一同が顔を見合わせる。昌秀が意外そうな表情を浮かべて感想を漏らす。
「いやぁ、よもや北条の方が先に動いて来るとは予想の埒外で御座った。恐らくは三郎殿の引き渡しから見計らって攻めて参ったので御座ろう」
勝頼は直ぐに気を引き締めて、重臣達に新たな指令を下していく。
「よし、虎綱は昌胤と打ち合わせた上で駿河に出陣致せ。駿河に着き次第、(馬場)信春・(山県)昌景・(穴山)信君等と共に黄瀬川に押し出すのだ。海賊衆にも西伊豆を襲わせろ。深沢・興国寺を含めて何処の城を攻めるかはお主等に一任する。但し未だに鉄砲が足りぬ故、無理攻めは致すな。躑躅ヶ崎館での政務に区切りが着き次第、必要為らば儂も後詰を率いて出陣致す。但し畿内の動きが定まらぬ時は見極める迄は出陣は見合わせる」
勝頼の命を受けた虎綱は、甲斐の留守居役から外れて約1年ぶりの前線復帰に思わず顔を綻ばせる。
「はっ、承知致しまする。直ちに原隼人允殿と準備に取り掛かりまする」
「昌秀、お主は相済まぬが再び上野に行って貰う。箕輪城代の信竜斎全賢(小幡尾張守憲重)、海津城代の小山田備中守(昌成)、牧之島城代の栗原左兵衛尉(詮冬)と其等の寄騎を采配致して、上杉の万一の侵攻に備えた上で、西上野の軍勢を率いて北条家の支配する東上野や奥武蔵に攻め寄せろ」
勝頼は昨年に重臣達と交替で任命した各地の城代達や、其の指揮下の先方衆を使って、北条領の北辺を攻める考えなのだ。
「承知仕った。直ちに手勢を纏めて上野に向かう事に致しまする」
「うむ、一徳斎と昌続は一刻も早く全体の情勢が掴める様に儂の政務を手伝うてくれ。では、何としてでも北条を屈伏させて東側を固めるのだ!」
『応っ!』
此の勝頼の号令と共に武田軍は北条への反撃を開始した。
春日虎綱・馬場信春・山県昌景・原昌胤・小山田信茂等が率いる武田軍は富士川を渡って河東地方に進出する。
既に防衛の為に先月中旬から富士大宮城に入っていた穴山信君隊と吉原の地で合流、其の後5月14〜16日に沼津・千本松原付近で北条相模守氏政率いる北条軍と衝突した。
しかし上杉勢が武田の背後を襲うのを待つ戦術を取る北条氏政は、興国寺城を籠城させた侭で黄瀬川に後退、武田軍と睨み合いと為った。
此の睨み合いの最中の8月初め、対陣中の北条勢に激震が走った。
小田原城の前当主《御本城様》こと北条左京大夫氏康が突如病を発して重篤に陥ったのだ。
小田原城に入る為に、氏政が手勢を纏めて小田原に退いたのを確認した武田軍は、軍勢を2手に分割した。
山県昌景・小山田信茂・穴山信君等が率いる8千の軍勢は伊豆韮山城へ、馬場信春・原昌胤・春日虎綱等が率いる5千の軍勢は興国寺城へと夫々(それぞれ)が攻め寄せた。
しかしながら、韮山城の守将の北条助五郎氏規・新四郎氏忠(氏康5男・6男)兄弟、及び興国寺城の守将の垪和伊予守氏続が見事な籠城戦を繰り広げ、武田軍に付け入る隙を与えなかった。
結局武田軍は両城を落とす事が叶わず、河東地方の国衆に対する調略と籠城を続ける興国寺城の包囲を行った上で撤退した。
更に土屋豊前守貞綱・伊丹大隅守康直が率いる《武田海賊衆》は清水湊から出撃して駿河湾を東進、西伊豆各地を襲撃している。
また西伊豆の北条方の海賊に対する誘降を繰り返し、間宮豊前守康俊の寄騎を務めていた伊豆海賊の間宮武兵衛・造酒丞(信高)兄弟の調略に成功している。
彼等の合流により、武田海賊衆は大小32隻の船団に拡大したのだった。
一方、内藤昌秀を始め、真田信綱・昌輝兄弟や小幡憲重(信竜斎全賢)・信実親子等を中心とした西上野方面の武田軍は、西上野の南側に位置する北武蔵と秩父地方に侵入している。
先ずは神流川を渡河して奪還されていた御嶽城を再攻略した後、藤田新太郎氏邦(氏康4男)が籠城する鉢形城に攻め寄せたのだ。
しかし此処でも北条勢は上杉の後詰を待つ持久戦に終始した。結局鉢形城は陥落せず、武田軍は退いたのだった。
其の間、勝頼は甲斐に在した侭で後詰を率いて出陣為る事は無かった。
畿内の情勢が目まぐるしく変化為る中で戦場に在した状態では、未だに当主としての経験に欠ける勝頼が判断を誤る可能性を危惧したのだ。
其の間、勝頼は内政面を充実させる一方、《諸国御使者衆》や信玄から譲り受けた《三つ者》と呼ばれる忍者集団、《歩き巫女》《富士御師》等の諜報組織、更には神諏訪家に代々仕え現在は勝頼自身が保有している《諏訪忍者》、軍師・真田幸綱が育てた戸隠の修験者から発展した《真田忍者》、昨年末盟約を結んだ紀伊雑賀・十ヶ郷の《雑賀衆》に至る迄、正に総動員で畿内各地の情勢や《織田家と反織田連合軍との抗争》の状況を掴んでいったのだ…。
浅井・朝倉勢の奇襲から逃れた織田弾正忠信長は、京からの帰途の近江千草越に於いて六角承禎(左京大夫義賢)が雇った鉄砲の名手《杉谷善住房》に狙撃されながらも、5月21日には本拠地である岐阜城に帰還を果たした。
信長は京と岐阜を結ぶ連絡線である南近江の各地に柴田権六勝家・佐久間右衛門尉信盛等の有力家臣を配置して、南近江奪還を企てる六角承禎・右衛門督義治親子の軍勢を撃退、南近江の甲賀郡へ押し返した。
そして、浅井家臣で坂田郡に勢力を持つ堀次郎秀村が織田方に内応すると、信長は徳川三河守家康の軍勢を近江に招集する。
そして6月21日には2万以上の大軍勢を自ら率いて、小谷城から半里離れた虎御前山に布陣して、小谷城へ攻め寄せたのだ。
しかし攻めあぐねると判断した信長は、22日には軍勢を姉川の南側に位置する浅井方の横山城へ向けて移動する。
追い縋るであろう浅井備前守長政を御詰として誘い出し、野戦を持って一撃で葬り去る為であった。
更には24日には徳川勢5千も横山城付近に着陣、城攻めを開始したのだ。
信長は決戦を欲したが、小谷城に籠る浅井長政にも、正に望む処であった。
越前金ヶ崎で信長の後背を襲った時から、既に両者が並ぶ立つ事は有り得ない。此の侭では坐して死を待つのみなのだ。
長政は織田勢の襲来を知ると同時に、越前の国主・朝倉左衛門督義景に対して『義景自ら率いる2万の軍勢による後詰』を矢継ぎ早に要求する。
しかし危機感が全く無い義景は本拠地の一条谷から動かず、一族の朝倉孫三郎景健等に8千弱の軍勢を付けて送り出したのみであった。
長政は義景の認識の甘さに落胆しながらも、自らは6千程の軍勢を掻き集め、朝倉の援軍と共に横山城に向けて出撃したのだ。
また、此の軍勢には畿内では見慣れない旗指物を付けた一隊が陣借りしていた。
旗に刻んだ旗印は《月輪七九曜》、東信濃の豪族・滋野氏の家紋である。此の手勢を率いている武士は《武田に攻められて紀伊に落去した豪族・滋野源五郎昌幸》と名乗っていた。
此の男の真の名前は、武田家家臣で法性院様申次役の武藤喜兵衛昌幸である。
真田幸綱の3男である昌幸は、己の手勢及び兄の信綱から預けられた《真田忍び》20人程を率いて越前に赴いている。
其の上で武田家が新たに雇った紀伊雑賀・十ヶ郷の雇い鉄砲50人と合流の上で、織田の実力を計る為に近江への後詰に加わったのだ。
朝倉勢の大将である朝倉景健は、滋野勢や他の浪人衆を先陣・朝倉九郎左衛門景紀勢の浮き備え(遊軍)として配置したのだった。
(但し景紀自身は参戦して居ないらしい)
かくして元亀元年(1570年)6月28日、横山城北側の姉川中流域に於いて、織田・徳川勢約2万5千と浅井・朝倉勢約1万4千が真正面から激突した。
当初は姉川の上流側(東側)の野村で織田勢と浅井勢が、下流側(西側)の三田村で徳川勢と朝倉勢が戦端を開く。
信長と6人の武将が合わせて13段の梯陣形を組んで守勢に回る織田勢に対して、浅井勢は磯野丹波守員昌の軍勢を先陣に据えて、次々と織田勢の梯形陣を突破して信長の本陣に肉薄する。
だが3倍以上の兵力差と、丹羽五郎左衛門尉長秀等が率いる横山城の包囲部隊の参戦により次第に劣勢に立たされていった。
一方の徳川勢は、先陣の酒井左衛門尉忠次の軍勢が朝倉勢を攻め立てて、戦闘を優位に進める。
朝倉勢が必死に立て直しを計るが、榊原小平太康政勢が横合いから突撃した事を契機に壊走状態に陥った。
其の渦中に敵中に取り残された先陣の足軽大将の1人、真柄十郎左衛門尉直隆の一党と浮き備えの武藤昌幸勢が、一矢を報いたが大勢には余り影響無く、徳川勢は織田勢相手に粘り強い戦闘を続けていた浅井勢を、右翼から切り崩していった。
其の後に織田・徳川勢による追撃戦が行なわれたが、殿軍を引き受けた武藤・真柄勢が小勢ながらも浅井長政を落ち延びさせ、尚且つ織田・徳川勢に痛撃を与えて追撃を振り切ってみせたのだった。
こうして世に言う《姉川の戦い》は、双方が損害を出しつつも、織田・徳川勢の勝利に終わる。
織田信長は短期決戦で壊滅的被害を与えた上で浅井家を無条件降伏をさせるつもりだったが、追撃戦の失敗により戦略の修正を余儀無くされた。
其の為、無血で開城した横山城に木下藤吉郎秀吉を入れて、長期戦に向けての拠点とした上で、自らは軍勢を一度岐阜に戻している。
しかし2ヶ月も経たぬ内に、今度は三好三人衆討伐を掲げて岐阜を出立した。
織田勢は京を抜けて摂津天王寺に布陣し、8月27日から三好三人衆が立て籠もる野田・福嶋砦を攻め立てたのだ。
しかし、此の状況に危機感を覚えたのが一向宗…本願寺であった。
総本山の石山本願寺の直ぐ北側で戦闘が行なわれている。元々石山の地を欲しがって《退去要求》を突き付けている織田家の軍勢が、此の機会に石山に付け入って攻め寄せる可能性も否定出来無いのだ。
本願寺法主である顕如光佐は、密かに紀伊から雑賀衆や根来衆・津川衆等の紀伊国衆を呼び寄せる。また兵糧や弾薬に関しても準備を怠らなかった。
そして、織田信長からの再びの《石山の退去勧告》が届くと顕如は遂に信長と戦端を開く事を決断する。
顕如の《己の身命を顧みず仏敵信長を討滅せよ》との檄に触れた一向宗徒は9月12日夜半を期して、側面を晒して野田・福嶋を攻める織田勢に襲いかかった。
更には本願寺決起に呼応した浅井長政・朝倉義景が軍勢を率いて出陣して、琵琶湖西岸の近江志賀郡に進出してきたのだ。
近江宇佐山城で留守を守る森三左衛門可成・織田九郎信治等が迎撃を目論んだが、逆に討死してしまった。
此の反織田方の仕掛けた大攻勢によって窮地に陥った信長は、本願寺や三好勢を監視する為の兵力を摂津や河内に残して、軍勢の大半を近江へと返した。
入京して放火した後に近江坂本に布陣していた浅井・朝倉勢は、信長の反転を知ると西側に聳える《比叡山延暦寺》に登り、山上の堂宇を山城に見立てて砦を築き織田勢との睨み合いに入ったのだ。
世に言う《志賀の陣》の始まりである。
其の間にも、顕如の檄文に応えた全国各地の一向宗徒達が、織田家の武将の居城に対して次々と攻撃を仕掛け始め、信長は《金ヶ崎の退き口》に匹敵する苦難に陥っていくのだ。
畿内での大動乱の余波が東国にもジワジワと押し寄せてきた元亀元年9月15日。
未だに躑躅ヶ崎館で政務に就いていた武田勝頼は、薄暮の頃に数名の馬廻と近習のみ引き連れて、とある寺院を訪ねた。
其の寺院は瑞岩山円光院。臨済宗妙心寺派の寺院で信玄が定めた《府中五山》の1つ。そして此の寺院は信玄正室だった三条夫人の菩提寺であった。
三条夫人は公家清華・三条公頼の娘で天文5年(1536年)7月に甲斐に下向して武田晴信(後の信玄)と婚姻、3男2女に恵まれた。
しかし此の年(元亀元年)7月28日に50歳で病没。円光院殿と謚号を贈られ円光院に葬られていた。
勝頼は円光院を訪れると本殿を参拝してから、住職の説三和尚から奥の書院に案内された。もう暫くすると東側の稜線から満月が顔をみせる頃。日も沈み、辺りも薄暗くなり少し冷え込んで来ている。
書院の前の縁側に立つと、勝頼は一度其の場に座してから書院の中に声を掛ける。
「父上、失礼致しまする。四郎勝頼で御座いまする」
「うむ、参ったか。外は冷え込んでおろう。早う中に入って参れ」
中の声に従って勝頼が書院の中に歩を進めると、上座には威風堂々とした僧体の男が座っていた。
勝頼には見間違える筈が無い己の父、武田家第19代当主・武田法性院信玄、其の人である。
昨年6月に勝頼が陣代に就任して以来、信玄は領国各地の湯治場で療養生活を続けている。
今回、己の正室である三条夫人の死去を受けて、菩提寺となった円光院を訪れていたのだ。
「はっ、父上も御息災の様で安堵致しました。しかしながら一昨年甲斐に来られた曲直瀬道三殿の見立てでは、残り2年程の養生が必要な筈で御座る。此れからもくれぐれも御自愛下され」
勝頼は信玄の元気そうな様子に安心しながらも、当代最高の医者・曲直瀬道三から言い渡された療養期間を守る様に、信玄に釘を刺した。
「大丈夫、判っておるわ。儂自身が道三からの見立てで《3年養生せねば後3年から5年で死ぬ》と威されたのだからな。其れ故、儂は後2年間は世を隠れて養生に努める事に致す所存じゃ…。ところでお主の顔色を見ておると、何かしら儂に用件が有るのでは無いか?」
「はっ、御明察で御座いまする。実は父上も御聞きに為られたと思いますが、昨年末に紀伊雑賀・十ヶ郷の鈴木左太夫(重意)殿と盟を約し、その次男の孫一重秀を武田の家臣に致しました。しかしながら此度、某と父上の連名の宛先で、此の様な書状が参ったので御座る」
そう言いながら、勝頼は懐の中から2通の書状を取り出して信玄に手渡した。
「片方は本願寺法主の顕如光佐殿、他方は本願寺坊官の下間刑部法印(頼廉)殿からの書状で御座る。6日付の書状ですが一向宗は織田弾正(信長)殿と戦に及ぶとの事、ついては重秀と我等が借り受けた雑賀の鉄砲遣いを石山に送ってくれ…との話で御座る」
勝頼の話を聞きながら2通の書状を受け取った信玄は、其の書状を熟読してから勝頼に話し掛ける。
「うむ、確かに雑賀の鉄砲の件が書いてあるが、孫一の件は下間の書状にしか記されて居らぬ。為らば儂が《相婿》の顕如殿に書状を認めよう。『武田に来ておる雑賀の者は来春辺りに石山に御送り致すが、孫一は武田の家臣故に断る』とな。恐らくは多少の寄進を致さば話が通るであろう」
「はい、彼等は武田の鉄砲遣い達を鍛え直しておる最中で御座る故に、其の様にして頂ければ助かり申す」
信玄の骨折りでどうやら懸案の1つが片付く目処が立ち、勝頼は信玄に頭を下げる。
「ふむ、儂と顕如殿が相婿なのは、亡き三条の御陰だ…。今迄苦労を掛け通しだったがあ奴には感謝致さねばな」
信玄はそう言いながら瞑目して、今は亡き己の正室・三条夫人の冥福を祈ったのだった。
「…それと父上に土産物が有りまする。受け取って頂けましょうや?」
一頻りの間、内政・外交・軍備について語りあかした信玄と勝頼だったが、或る程度話が尽きた頃に勝頼がそう切り出しながら、背後から細長い布袋を取り出した。
「ほう、儂への土産とな。其れは如何なる代物なのだ?湯治場へ赴く時に荷物に為らねば良いが…」
信玄は笑いながら勝頼から土産を受け取って、中身を覆っていた布袋を取り払った。
中からは滑らかに削られた真新しい台木(銃床)を付けた火縄銃と、玉薬が入った口火薬入れが有った。口火薬入れには武田家の家紋の《武田菱》があしらわれている。
「おぉ、此れは鉄砲じゃな。随分と見事な出来栄えじゃ。しかも普通の物よりは一回り大きい…。勝頼、遂に武田家自前で鉄砲を作り上げたのか?」
信玄に問われた勝頼は自信を持って返答する。
「はい、此の鉄砲は通常出回る《6匁筒》よりも大型の《10匁筒》で御座る。高遠の隠れ工房に於いて雑賀の鉄砲鍛冶から教わった上で、武田の鍛冶師のみで造り上げた正真正銘の初めての《武田の鉄砲》で御座る!勿論、雑賀や根来で培われた戦訓を生かし、出来得る限りの改良を重ねて御座る!」
信玄は勝頼の声が聞こえていないかの様に、興奮した面持ちで《武田の鉄砲》を触っていたが、ふと思い出した様に勝頼に質問する。
「ふむ…、確か2月の末から取り掛かったと聞いておるが、半年以上掛けて出来たのが1挺のみでは余りにも割りに合うまい。此れからも造り続けるとはいえ、余りにも少ないのでは無いか?」
信玄の言葉を耳にした勝頼は、微笑みを浮かべながら心配を打ち消した。
「いえ、武田の鍛冶師のみで造り上げたのが初めてという事で御座る。雑賀の鉄砲鍛冶が造り上げた鉄砲や、雑賀の者と共同で製作致した物の方が多く御座る」
「うん?其れでは既に鉄砲の生産は軌道に乗った、という訳か?」
「いえ、其処迄には至っては居りませぬ。9月初めの時点で《6匁筒》が約100挺、《10匁筒》が約50挺程完成致しており申す。其れに昨年土屋藤十郎(長安)が買い付けた6匁筒150挺が御座る。しかしながら其れ以前の鉄砲の大半は相当に古くなって御座る。今は兎も角、武田家上洛の際にはとても実戦には耐えられますまい」
武田家には約1千挺の火縄銃が有ったが、其の多くは天文・弘治年間(1558年以前)に購入した代物であった。
特に一昨年からの駿河出兵以後は鉄砲の使用頻度が増した為に、古い火縄銃である程暴発や故障が相次いだ。
また命中率や射程距離も低下しており、雑賀衆が改良を重ねた技術を土台とした《武田の鉄砲》に比べると相当劣っていたのだ。
信玄の問い掛けに勝頼が答えていく形の、まるで禅宗の師弟の様な問答が続く。
「其の為、藤十郎が仕入れた150挺と新たに作った《6匁筒》100挺、都合250挺を駿河に送り申した。そして旧今川家の分も含めて、全ての古い鉄砲を順次回収の上で、代わりに新たに造り上げる《6匁筒》に全て取り替えまする」
「ふむ…、しかし回収する古い鉄砲はどの様に致すつもりじゃ?」
「一度回収致した物は高遠に集めた上で、使える部分のみ残して新たに部品を加えて《武田の鉄砲》として蘇らせまする。使い物にならない分は鉄を溶かして農具や鍛冶道具に致しまする」
「ふむ、成程な…。しかし此れと同じ10匁筒は如何致す?50挺を揃えて馬廻に持たせるのか?」
「いえ、甘利郷左(信康)・鈴木孫一(重秀)の両名が率いる《10匁筒の筒衆》を新たに作りまする。全ての人員を国衆の子弟や浪人等の《徒士》のみにて揃え、上洛の一角を担わせまする」
「つまり夫々(それぞれ)の大将が率いる《6匁筒の筒衆》とは別に、本陣の采配で動く《10匁筒の筒衆》を作る訳だな?」
「其の通りに御座いまする」
「……」
勝頼から鉄砲の運用に付いて聞いた信玄は暫く考え込んでから、勝頼に対して肝心な事を問い掛けた。
「恐らく藤十郎が仕入れた南蛮渡来の金山の業で費えは賄えておろう。だが織田と渡り合うだけの鉄砲が揃うのは何時だ?其れが無うては上洛の戦を起こせまい…」
「さて…。諸国との力関係にも因りまするが、織田家を打破るには《10匁筒》1千挺、《6匁筒》は1千5百挺は絶対に必要で御座る。恐らくは其処迄用意為るのに5年は掛かりましょう」
「5年か…。随分と掛かるが、致し方有るまい。儂が残り2年間の養生を終えてからは、諸大名と繋ぎを取って信長の動きを封じ込める。是が非でも上洛して京に武田の旗を掲げるのだ!」
「承知仕りまする!」
信玄の療養中とは思えぬ発破に、勝頼は上洛への決意を新たにするのだった。
こうして畿内の混乱を余所に、武田家は上洛に向けて牙を研ぎ続ける。
しかしながら、時代の激流は容赦無く武田家をも大動乱の渦中に押し流していくのだった。
争乱の元号《元亀》は其の幕を開けたばかりである。
次回の話は敢えて横道に逸れて、真田昌幸の偽名を使っての近江出張(姉川の戦い)を書いて行きたいと思います。進行が遅くて申し訳ありません。是非とも次回も読んで頂ければ嬉しく思います。