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陸之余:藤十郎京畿を行く(下)〜南海の布石〜

前話と同様に土屋藤十郎長安(大久保長安)が武田の将来の為に動き回る話です。この話で藤十郎の番外編は終わる事になります。相変わらず長文で読みにくいですが、宜しく御願い致します。

 南海道の東端にある紀伊国は、古来より日本の中心である《五畿内》の南側に位置している。

 此の国は南北朝の争乱の頃より、足利一門の畠山氏が守護を務めてきた。畠山氏は河内を中心に紀伊・越中(後に能登も)の守護大名と為っていた。

 しかしながら《応仁の乱》に始まる戦国の動乱の中で、畠山氏は一族が分裂して次第に力を衰えさせていった。

 そして、紀伊国では強大な力を持って一国を統べる者は現れず、大寺院や国衆等の地侍が乱立していく。


 桓武の御代に弘法大師・空海によって開山し、未だに紀伊を中心に大勢力を誇る真言宗総本山・高野山金剛峯寺。

 高野山から分派した《新義真言宗》の総本山で、行人方(後の根来衆)の力で和泉・河内に数十万石の寺領を保持する一乗山大伝法院根来寺。

 紀ノ川北岸で8百年の間栄える天台宗派の一、《粉河観音宗》の古刹である風猛かざらぎ山粉河寺。

 畠山旧臣で紀伊中部の日高郡一帯に勢力を保持して力を揮った湯川衆の湯川中務少輔直春。

 新宮十郎行家の末裔を名乗り、紀伊南部の熊野一帯で勢力を拡大している新宮城主の堀内氏虎・氏善親子。

 他にも大小多くの寺院・地侍が紀伊を割拠していた。

 そんな紀伊国の北西部を割拠し、全国に武名を轟かせたのが《雑賀衆》である。


 《雑賀衆》とは、紀ノ川下流域の雑賀荘を本拠とした紀伊国衆・地侍による惣(地域連合体)である。

 惣国成立前は紀伊国主の畠山氏の与力であったが、畠山氏の力が衰えるに従って国衆達による自治体制に移行していった。

 雑賀衆は大きく5つの《からみ》という組織に分けられている。(組・搦とも書く)

 5つの《緘》とは雑賀荘(雑賀本郷)・十ヶ郷・中郷(中川郷)・宮郷(社家郷)・南郷(三上郷)の5郷で、合わせて《雑賀五緘》と呼ばれている。

 5つの《緘》には夫々(それぞれ)を率いる惣領が存在して、普段の行政を行っている。

 そして大規模な出兵等の重要な案件は、5つの緘から惣領と年寄衆が集まり、雑賀五緘の寄合・合議によって決められた。

 更に天文14年(1545年)頃には、雑賀本郷の惣領家である《土橋氏》が根来寺泉識坊の門主を送り出していた縁で、種子島より根来寺に伝来していた《火縄銃》が譲渡された。

 元々《雑賀鉢》と呼ばれる鉄兜の生産を行う等、優れた鍛冶技術を持っていた雑賀衆は、直ちに火縄銃の複製に成功して改良・量産を開始していく。

 彼等は量産した鉄砲を使って各地の戦場に《雇い鉄砲》(鉄砲を装備した傭兵)として活躍して、雑賀衆の武名を全国に知らしめたのだ。


 そんな雑賀衆も、実は一枚岩だった訳では無かった。基本的には本郷・十ヶ郷と宮郷・南郷・中郷の間には大きな意見の相違が存在していたのだ。

 理由を細かくあげれば切りがないが、大まかには2つの要因が考えられる。

 1つ目は宗派対立の問題である。

 雑賀荘の西側…紀ノ川河口部に広がる雑賀本郷と十ヶ郷の国衆の間では、一向宗(浄土真宗本願寺派)が多く信仰されていた。

 此の頃、紀伊国全体で146ヶ寺の一向宗寺院が置かれていたが、其の中の96ヶ寺は雑賀荘内に置かれており、中でも雑賀本郷・十ヶ郷に集中していた。

 一方雑賀荘の東側の宮郷では郷内に鎮座していた《日前宮》(現在の日前神宮・国懸神宮)の氏子達が多く存在していた。

 更に宮郷と南に接する中郷・南郷の3郷では、根来寺の《新義真言宗》の影響が非常に大きかった他、《浄土宗》の信徒等も多く存在していたのだ。

 2つ目の要因は産業構造の違いである。雑賀荘は5郷全てが鍛冶師等の鉄加工技術は発達していた他に、雇い鉄砲を派遣するいわば《傭兵派遣》業が盛んだったが、随分と形態に差が存在していた。

 河口部故に海に面していた雑賀本郷と十ヶ郷は、漁業や海運業等も発達しており、後に紀州最強の《雑賀海賊衆》が誕生していく素地と為った。

 また、傭兵派遣でも海賊衆を含めて海を渡って遠距離への派兵が可能であった。

 一方、宮郷・中郷・南郷の3郷では、海に面した大きな港湾が存在しなかった為に農業等が中心に営まれた。

 傭兵派遣でも海賊衆による輸送が出来なければ畿内等の近距離に派遣された。其の為、同じく畿内等の近距離に派遣して末寺を砦として利用していた根来寺行人方…《根来衆》と協同する事が多かった。(其れ故に新義真言宗の信徒が多かったのだが)

 其等の要因も相俟って、《雑賀本郷・十ヶ郷》と《宮郷・中郷・南郷》は利害が対立して別行動を取る事が間々有り、後者の3郷を《雑賀三緘衆》と区別する事も有ったのだ。


 因みに此の数年後、雑賀三緘衆は其の対立故に雑賀本郷・十ヶ郷とたもとを分かつ。

 そして宮郷の棟梁・太田左近宗正を旗頭として《太田党》を成立させて、根来衆と協同歩調を取っていく事になるのだ。


 閑話休題、時に永禄12年(1569年)11月中旬、暦では《冬至》を迎えた頃である。


 甲斐よりは格段に温かいとはいえジワジワと寒さが迫って来る雑賀荘の一角、紀ノ川北岸に広がる《緘》の一つ…十ヶ郷の平井村に、緘の棟梁・鈴木左太夫重意の居館である《平井政所》が存在する。

 しかし現在、重意は嫡男の孫市郎重兼や年寄衆を率いて、雑賀本郷に出向いて留守にしていた。本郷で開かれている雑賀衆全体の寄合に参加する為である。

 本来為らば留守居役として、次男で鉄砲頭に就いている孫一重秀が平井に残る手筈なのだが、重秀は居候をしている客人を連れ回して、連日雑賀荘内の各地を物見に出向いていたのだ。


 居候の主従を率いるのは武田家家臣の土屋藤十郎長安。そして忍者の加当段蔵と飛脚の成田の藤兵衛が付き従っていた。

 長安主従は、雑賀衆が誇る《鉄砲》の買い付けの為に半月近く前から雑賀に来訪していたのだ。

 長安は鉄砲受注の要望を十ヶ郷を通して雑賀衆全体に申し入れており、重意は此の件を合議為るべく年寄衆全体での寄合を開いた。

 其の寄合が済む迄と長安一行は重秀の屋敷に転がり込んだのだが、長安達は重秀に雑賀荘内の各地を案内して貰った。

 そして2人は、案内先でも、屋敷に戻った時も、ありとあらゆる事柄を討論し合い続けた。


 雑賀衆の誇る鉄砲と其れを造り出す鍛冶師や、操る雇い鉄砲の事。

 雑賀衆の5つの緘や紀伊国内の大寺院・国衆等の諸勢力の話題。

 昔、紀伊国内で産出していた辰砂(硫化水銀)の事や長安の専門分野である金山等の鉱山開発の話。

 互いの国での商人達や堺の商人、更には旅商人達からも仕入れた諸国の商いの様子。

 長安の主君である武田法性院信玄や、其の陣代(当主代行)で長安を抜擢した武田左京大夫勝頼の人となり。

 そして、武田家と雑賀衆に将来立ち塞がるであろう現在の畿内の覇者・織田弾正忠信長の事…。


 2人は連日連夜語り合い続け、御互いに影響を与えあった。

 余りに話が盛り上がった為に、戦場にさえ己の側妻を連れて行く程の女好きである重秀が、結果として暫く《女断ち》してしまった程であった。


 此の交流によって、長安は幾つかの新たな策を実行に移している。

 其の1つが辰砂鉱の再開発である。重秀が

「桓武の御代以前より紀伊国では辰砂を掘り出しておった」

と教えたのが切っ掛けだったのだ。


 元来、紀伊国の北部には伊勢から四国に向かって《中央構造線》と呼ばれる断層帯が走っている。関東から九州に迄至る日本最大の断層帯である。

 此の断層帯は紀ノ川の北側を通過しており、根来寺や十ヶ郷は正に其の真上に位置するのだ。

 また、中央構造線の周辺には鉱物資源が多く産出している。

 水銀や辰砂(硫化水銀)も例外では無い。因みに南伊勢で水銀を産出している丹生鉱山も此の一帯に位置している。

 辰砂を産出していた地の側には必ずと言って良い程、採掘技術者達が祭っていた《丹生神社》が置かれており、紀伊北部には多くの神社が鎮座していた。

 そして何よりも紀ノ川の上流、大和との国境の近くの上天野の地に鎮座する《丹生都比売神社》は丹生神社の総本山であった。


 此の《紀伊の辰砂》に目を付けたのが、高野山を開山した弘法大師・空海である。

 空海は密教の儀式に必要な辰砂を確保する為に、丹生都比売神社から上天野のある《高野山》山頂の寄進を受けると、其の山上に金剛峯寺と其の子院による一大宗教都市を作り上げた。

 そして、紀伊北部を中心とする全国の丹生神社を含む土地の荘園化を推し進め、辰砂の確保を諮ったのだ。

 しかしながら、時代の経過と共に辰砂は枯渇して、採掘が殆ど為されていない状況に為っていたのだ。


 長安は重秀に案内して貰って十ヶ郷近辺の高野山領の荘園を幾つか見て回り、枯渇したとされる辰砂の採掘跡の確認に赴いた。

 調査の結果、武田家の金山で培った鉱山技術ならば未だ十分に採掘可能だった。

 其の辰砂も《朱丹》を造り出すには品質が良くないとはいえ、水銀の精製には十分に使用に耐え得ると判断した。 そこで長安は、高野山の子院の中でも武田家と宿坊関係・師檀関係を結んでいる成慶院と持明院に対して、総本山・金剛峯寺への交渉を依頼する事にした。

 条件は『武田家の金山衆に採掘させる代わりに、武田家に廉価で紀伊産の辰砂を販売する事』とした。

 長安は書き付けを段蔵と藤兵衛に託して、2人を高野山に派遣したのだった。


 また長安は重秀に対して《火薬調合法》の教えを請い、此れを伝授して貰った。

 重秀はかつて根来寺の重鎮・津田監物丞算長が編み出した《津田流火術》を会得しており、雑賀衆でも3本の指に入る鉄砲の使い手と為っているのだ。

 流石に砲術は無理であったが、火薬の調合率を始めとした其の知識は、後に金山採掘等に役立つ事に為る。


 だが暦が《冬至》を迎える頃を過ぎても、重意達は未だに十ヶ郷には戻らず、長安は重秀の屋敷で居候を続けていたのだった。


「まぁ藤十郎殿、焦っても始まらぬのだ。親父殿や兄上が戻る迄はどっしりと構えて酒でも飲んでおれば良い!さぁ、先ずは一献!」

 屋敷の囲炉裏の前で、2人は日も沈まぬ内から酒を酌み交わしながら議論を戦わせていた。


 此の頃の日本酒は大寺院によって造られた《僧坊酒》と呼ばれる物と、京等を中心とした《造り酒屋》によって造られる物が存在していた。

 また、酒の種類の主流も《濁酒どぶろく》から《清酒》へと、段々と変化する時期に当たり、上流階級だけでは無く庶民の間でも濁酒以外の酒が楽しまれる様に為っていた。

 2人が飲んでいるのは、河内にある《女人高野》こと天野山金剛寺で造られた僧坊酒《天野酒》。やや琥珀色をしており甘口で、楠木正成が好み織田信長も嗜む当代一流の酒である。

 天野山は十ヶ郷からは山を1つ越えた地に在る為に比較的に入手し易いのだ。


「うむ…。其れにしても孫一殿、此度の寄合は随分と長いのだが、そんなに遠い処でやっておるのか?」

 天野酒を注ぎながら、重秀は長安からの寄合の場所の質問に応えていく。

「いや、寄合の場所は昔から《矢ノ宮さん》と決まっておる。川さえ渡れば半日も掛からぬ筈だぞ」


 《矢ノ宮さん》とは、雑賀荘の惣鎮守である矢宮神社の事である。和歌浦を望む弥勒寺山(現在の秋葉山)の麓に鎮座している。

 因みに弥勒寺山には、名前の由来と為った一向宗紀州御坊《弥勒寺》が在る他、雑賀衆の詰めの城が置かれていた。


「成程…。詰まる処、合議が未だに成り立たぬ訳だな。もし合議が成り立たぬならば、今後の鉄砲の確保に就いて今一度考えねば為らぬな」

 敢えて己自身に言い聞かせる様にそう呟くと、長安は盃を傾けながら新たな案を思案していく。

 しかしながら、雑賀衆の協力を得られぬ場合、長安…つまりは甲斐武田家に出来得る策は極めて限定されてしまうのだ。

 長安は一度は距離的な理由から放棄した《種子島からの鉄砲・玉薬の調達》を再検討する必要に差し迫られてしまった。

 そこで、長安は参考意見を聞く為に『万一の際』と念を押した上で、重秀に《種子島買い付け案》を相談してみた。

 しかしながら、其の案を聞いた重秀からはも当然のことわりだと言わんばかりに、片手を振りながら否定されてしまったのだ。


「あぁ、駄目だ駄目だ。其の手は考えても無駄故に止めておくが良い。藤十郎殿が種子島に行っても単なる無駄足に為るぞ」

 其の様に言われると、長安の方も何故に其処迄言い切れるのか、を訊かなければ納得がいかなかった。

「孫一殿はそう言うが、何事も先ずは試してみなければ判らぬでは無いか!其れを…」

「試さずとも結果が見えておる故に止めておるのだ!種子島に行った処でお主が望む量の鉄砲を買い付ける事が出来ぬ理由が有るのだ!」

 生来自信家の長安さえも鼻白む勢いで断言すると、重秀は盃の中に残っていた酒を一気に飲み干し、居住いを正して語り始めた。

「種子島はな、今から百年以上前から島主の種子島家以下ほぼ全島民が法華宗の信徒なのじゃ」


 寛正3年(1462年)、種子島中部の砂浜に於いて1つの事件が発生した。

 布教に訪れていた日蓮宗(法華宗)の僧・定源院日典が、其の布教活動に反発を覚えた島民達によって、暴行を受けた末に生き埋めで殺されてしまったのだ。

 しかしながら其の後、日典の遺志を継いだ日良を始めとした弟子達や、日典に感銘を受けた当時16歳の若き島主・種子島時氏によって、種子島及び屋久島は全島民が法華宗に改宗した。

 良港が有り貿易中継地として栄えた種子島の法華信徒達の寄進が、畿内等での法華一揆を経済的に支えた要因の1つである。

 百年後の永禄12年(1569年)でも状況は変らず、種子島の島民の大部分は法華宗を信仰し続けているのだ。


「ええぃ孫一殿、種子島の島民達が何を信じていようが、鉄砲調達の件とは関係有るまい!其の様な話は後から…」

 話が逸れたと思った長安は、重秀に注意を促そうとした。しかし重秀の方が長安の発言をさえぎってしまった。

「関係が有るから一から話しておるのだ!黙って聞いておれ!…良いか?つまりは現在も種子島は法華宗の島だという事だ。但し法華宗も宗派が分かれておるからな。種子島に広まったのは確か《日隆門流》とか言ったか…」


 《日隆門流》とは日典の師である法華宗の僧・日隆によって分派した法華宗の門流(一派)の1つである。(現在の《法華宗本門流》及び《本門法華宗》)にあたる)


「日隆門流ならば、名前を聞いた事が有る。確か甲斐にも其の宗派の寺が有るからな。しかし彼処あそこの宗派は、同じ法華宗でも総本山になる甲斐身延山の久遠寺の宗派(現在の日蓮宗)との間でいさかいが多くて、度々に渡り法性院様(武田信玄)が仲介の労を取られておる筈だが…」

 長安は己が知り得る範囲内で、《日隆門流》について考えた。どうやら甲斐武田家との繋がりは希薄な様だ。

「うむ、話を進めるぞ。例外も有るとはいえ、基本的には法華宗とは信徒以外からは寄進を受けぬ物らしい。しかし其れを補う程に法華信徒達はこぞって寄進しておるのだ。種子島もまたしかり。但し、種子島の法華信徒は他に或る品物も寄進するのだ…」

「孫一殿、其の品物とは一体何なのだ?」

 長安の質問に、重秀は声色を落として断言する。

「塩硝(硝石)、そして《種子島筒》…鉄砲だ。種子島の法華信徒は此等の品々を寄進や廉価での販売という形で法華宗の寺院に納めるのだ」

 長安は重秀の話を此処迄聞いても、未だに納得していなかった。

「為らば孫一殿、日隆門流の本山に直接交渉致して、種子島の信徒達に対して、武田に売る様に下知を下して貰えば良かろう!」

 しかしながら重秀は、話し掛ける長安を無視して続きを語っていく。

「種子島の信徒達によって寄進された塩硝や鉄砲は、先ずは船で堺に運ばれる。そして堺に在る顕本寺(常住山顕本寺)に集められた上で、大本山である京・四条西洞院の《本能寺》の塩硝蔵に積み上げられておる…」

 重秀は手酌で酒を注ぐと、一気に飲み干してから此の話の肝心な部分を話し始めた。

「そして、昨年に上洛を果たした或る大名が其の本能寺の塩硝蔵に目を付け、寺に帰依した上で己が在京中の宿所に定めたのだ。其の男の名は…判るな?」

 此処迄聞いた長安は顔を青くしながら、1人の大名の名前を呟いた。

「尾張の織田信長…」

「そうだ。藤十郎殿が本能寺に乗り込んだ処で、寺の主の日承殿を含めて誰も相手してはくれまいよ」

「そ、其れでは織田家は畿内に居ながらにして《種子島の鉄砲》を独占出来る様なものでは無いか!」

 長安の自信の1つの理由として、《最悪でも種子島迄行けば良い》との考えが保険として存在した。

 しかしながら、其の前提が全面的に崩れたのだ。長安は悪酔いしたが如く顔が青褪めてしまっている。

「正しく其の通りだ。まぁ島主の種子島弾正殿(弾正忠時尭)が仕えておる薩摩の島津氏や、元々取引先である堺の商人達は其の埒外らちがいで在ろうがな」

 重秀は補足の意味でそう言ったが、長安の頭の中の冷静な一部分が島津氏や堺からの大規模な買い付けを否定していた。

(武田家と島津家の間は余りに繋がりが薄過ぎる故に、行って直ぐには大量の鉄砲を買い付ける事は出来ぬ。堺の商人達も織田家の締め付けが増す中、敢えて甲斐に売ってくれる様な酔狂な者は、恐らくは山上宗二殿の《薩摩屋》のみで在ろう…。まさか此の様な仕儀に為ろうとは…)

 長安が足元が崩れる様な感覚に襲われている其の時、部屋の外から2人を呼ぶ甲高い少年の声が聞こえて来た。

「孫一兄者、土屋様。只今、平井政所から遣いの方が来られました。父上と孫市郎兄上が寄合から戻られたそうです」


 そう知らせて来た此の少年は、重秀の末弟…つまりは重意の一番下の息子である孫三郎(後の孫市重朝)である。父と長兄が留守の間、重秀の屋敷に預けてあったのだ。

 孫三郎は当年9歳だが、元服前ながらも一流の鉄砲使いの血筋らしく其の片鱗を見せ始めていた。


「おぉ、孫三郎か!良う知らせてくれた。やっと寄合の結論が出たみたいだな。…藤十郎殿、如何致す?明日に延ばして貰う方が良くないか?」

 重秀は長安を心配して、重意達から寄合の結果を聞くのを延期する事を勧めたが、長安は其れを断り今日中に結論を聞く事を求めた。

「いや、其の様に知らせて頂いたのだ。是非とも今宵の内に鈴木様とは話をさせて頂きたい。孫一殿、半刻(約1時間)の後に平井政所にお伺い致す、と伝えて頂けまいか?」

「…承知した。儂は早速平井政所に向かって親父殿達に知らせよう。孫三郎、お前は半刻経ったら藤十郎殿を御連れ致すのだ。良いな?」

 重秀はそう言いながら立ち上がり、身形を整える為に部屋から出て行ったのだった。


 長安は重秀は出て行った後も、暫くは思考が鈍化してしまっていた。《種子島の件》には其れだけの衝撃が有ったのだ。

 単純に言えば、もしも頼みの綱である雑賀衆に断られた場合、日本国内での鉄砲買い付けはほとんど不可能に為る。

 其の場合は海外…琉球や澳門マカオ迄買い付けに行かなくては為らず、航海の危険性や輸送費用等を考えると弊害が大き過ぎるのだ。

 少しすると、長安の様子を心配した孫三郎が話し掛けて来た。

「土屋殿、大丈夫で御座いますか?もしも御気分が回復されたならば、わたくしが平井政所迄を御案内致しまするが…」

 重秀は気を紛らわせる為に、孫三郎に己自身の状況に似た様なたとえ話を話し掛けてみた。

「うむ、では孫三郎坊にちと聞きたいのだがな。お主にとても欲しい玩具おもちゃが有ってだな、其れを御父上や兄上達が買うてくれなんだ時、孫三郎坊は如何に致す?やはり我慢致すかな?」

 しかしながら、既に6匁筒の手入れをこなし射撃も習い始めている孫三郎は、当然と言わんばかりに長安に告げる。

「いえ、大概の玩具は自分で作りまする。もしも自分で作れぬ物ならば、何方かに作り方を教えて貰えば良いのですから…土屋様、如何致しました?」


 孫三郎の言葉を聞いた瞬間、長安は己を畿内に送り出した武田家陣代・武田左京大夫勝頼の言葉を思い出していた。

(そう言えば勝頼様は躑躅ヶ崎館に於いて『鉄砲鍛冶を連れて来ても良い』と言っておった!だが鉄砲鍛冶が2・3人居た処で大量の鉄砲は作れぬ…。為らば雑賀から鉄砲鍛冶を借りて、武田の領内に鉄砲を自前で造り出す鍛冶師を育てれば良いのだ!すれば…)

 無言のまま、長安の頭脳は再び回転を始め、京や堺や高野山等で打っていた策や新たな策を次々と組み合わせて、1つの作戦案を纏めていく。

(此れで雑賀の者が乗らなければ…いや!必ずや乗らせてみせる!此の策以外に武田と雑賀を結び付ける手は無いからな!)


 考えが纏まった長安の顔には、再び自信が漲り始めた。そして孫三郎の方を向き直すと考えを纏める契機と為った礼を述べた。

「孫三郎坊、誠にかたじけない。此度はお主の御陰で新たな活路を見出す事が出来たぞ!」

 長安の褒め言葉を聞いて最初は吃驚びっくりした孫三郎は少し照れながら応えた。

「はい、私が何を致したかは全く判りませぬが、土屋様の御役に立てたなら嬉しいです」

「うむ、為らば此れより酔いを醒まし、身形を整えた上で平井政所に参るぞ!孫三郎坊、案内宜しく頼むぞ!」

 宣言した長安は立ち上がって、平井政所に向かう為に着替え始めるのだった。


(藤十郎殿は屋敷で儂と別れた時とまるで別人だ。自信が溢れた顔付きをしておる。どうやら何らかの策を思い付いた様だな)

 平井政所の広間に座した長安は、半刻前と違い自信家らしさを取り戻しており、先に政所に入っていた重秀を安心させた。

 そんな長安に対して、上座に現れた重意が寄合での合議の結果を伝えた。


「土屋殿、随分と長い間御待たせ致した。今回の寄合にて決した合議の結果を御伝え致そう。武田家に御売り出来る鉄砲は全部で100挺。全て6匁筒で揃えさせて頂く。年寄衆の合議としては、これ以上の積み上げは出来ないという結論だ。御期待に添えずに残念で有るが…」

 しかし、既に次の策に向けて考えを進める長安は、重意に謝意を表した後に質問をする。

「十ヶ郷の皆様方には御足労痛み入りまする。それで、各郷毎の売って下さる鉄砲の内訳を教えて頂けませぬか?」

 その質問には重意に代わって、共に寄合に参加した重兼が答えた。

「鉄砲の内訳は我が十ヶ郷が60挺、他の4郷が各々10挺づつで御座る。最初は宮郷の太田左近(宗正)殿が宮郷の中で使用する鉄砲の確保を理由に反対致し、其れに宮郷、中郷、南郷の年寄衆が同調致し申した。また、我等十ヶ郷の年寄衆が武田家との繋がりを作る意味から、此度の案に賛成致し申したが大勢は覆らず、本郷の土橋若太夫(守重)殿の仲裁で先程の通りに決まり申した」

 重兼の説明を聞いて

(やはり《三緘》の側は当てに出来ないか。雑賀衆の中でも十ヶ郷を中心に策を謀るべきだ)

と判断した長安は、早速鈴木親子と十ヶ郷の年寄衆に新たな要請を行った。

「鉄砲の挺数は100挺で宜しゅう御座いまする。しかし我が甲斐武田家は鉄砲と撃ち手が絶対的に不足致しておりまする。そこで十ヶ郷から鉄砲鍛冶師の何人かに甲斐に御越し頂いて、武田家の鍛冶師共に鉄砲の作り方を一から御伝授頂けませぬか?」

 長安の言葉の真意を掴みかねた重意が、代表して質問する。

「つまりは、鉄砲の代わりに雑賀の鉄砲鍛冶を譲って欲しい、という事か?」

「其れだけでは無く、玉薬の調合、射撃の業、鉄砲足軽の兵法(戦術)等、雑賀流の筒衆(鉄砲隊)の運用の全てを教えて頂き、武田家の筒衆を雑賀衆の方々に匹敵為るべく鍛え直すので御座る」

「…雑賀並みとは、つまりは《津田流火術》の極意を伝授して欲しい、と言われるか?」

 重意は口髭をしごきながら長安の真意を計ろうとする。本気で言っているのか疑っているのだ。


「馬鹿な!我等雑賀衆が鉄砲鍛冶を育て、足軽を鍛える迄に如何程掛かったと思っておるのだ!」

「其の様な事が誠に出来るとでも御考えか!」

戯言たわごとを吐かすのも大概に致せ!」


 長安の左右に並ぶ年寄衆達の誹謗が響く中、長安は背筋を伸ばし自信に満ち溢れた声で断言してみせる。

「鉄砲を買い付けられぬ為らば自ら製作致すしか有りますまい。其れを成さずば武田の御家が滅びる為らば、御家の国力を結集して必ずや成し遂げてみせまする。武田家と十ヶ郷が合力致さば決して不可能では御座らぬ!」

 長安が余りに自信有りげに言う為に、年寄衆の誹謗が収まってしまった。

 何よりも長安が《雑賀衆》では無く、《十ヶ郷》と態々(わざわざ)限定している事に違和感を感じていた。

 重意も例外では無く、長安の真意を確かめようと考えて質問を加えてみる。

「我等が合力せよと言われて、素直に従うと御考えかな?我等には余り益無き事の様に思うがな」

 だが、重意や年寄衆の反応は最初から織り込み済みの長安は、1つづつ判断材料を積み上げていく。


「甲斐国主・武田法性院様(信玄)と本願寺御門主・顕如様は同じく三条公頼様を義父に持たれる《相婿》で御座いまする。十ヶ郷と武田に絆が生まれれば、石山の法主様(顕如)にも益と為りましょう」

 確かに、一向宗徒が多い雑賀の本郷・十ヶ郷を通して、武田・本願寺間の連携が促進されれば、進捗著しい織田家に対して牽制する事が出来る。

 重意や年寄衆が黙って考える様子から、此方側の言葉に耳を傾ける態勢に入った、と判断した長安は話を更に進める。

「また、十ヶ郷を始めとする紀北各地の《丹生神社》の側には辰砂(硫化水銀)の廃鉱が点在致しまする。此れを武田家が誇る《金山衆》と、丹生の総鎮守たる丹生都比売神社を保護する《高野山金剛峯寺》が協同で再び開発して蘇らせまする」

 突如、辰砂や高野山が話に絡んできて、年寄衆は狐に摘まれた様な表情を浮かべている。

「十ヶ郷には辰砂の積み出し港として、雑賀のいぬいの果てに在る《加太湊》と其の沖合に浮かぶ《友ヶ島》を使わせて貰いまする。勿論、今のままでは大型の廻船(輸送船)も入れませぬ故に、武田家が資金を出した上で加太湊と友ヶ島を《大型の廻船》や《安宅船》の如き大型軍船でも入れる大湊に作り変えまする」

 長安の提案した港湾整備の提案は、専用の大規模港湾が無い十ヶ郷の年寄衆には、随分と魅力的に聞こえた。

「何と!加太湊と友ヶ島をか!」

「成程、其れならば海賊衆を友ヶ島に置き、加太湊を警固致せば良い訳か」

「確かに。交易や海賊衆の碇泊に和歌浦の湊を間借りせずに済みますな…」

 年寄衆の良い感触を見て取って、長安は更に畳み掛けていく。

「加太湊は堺に行き来する船が立ち寄るには丁度良い地。大きな湊を整備致さば、今は和歌浦に寄港している堺の薩摩屋を始めとして、多くの商人が訪れましょう。また、此の十ヶ郷と新たに武田の領国と為る駿河国の間での辰砂や水銀の輸送だけでは無く、交易にも十二分に役立ちましょう。勿論十ヶ郷と道を同じくなさる為らば、雑賀の他の郷の方々にも武田家との交易が認められましょう」

 つまり長安は辰砂採掘と港湾整備を通して、武田家・十ヶ郷・高野山の間での《相互互恵》(ウィン・ウィン)の関係を結ぼうと言うのだ。

 更には十ヶ郷の海賊衆を使って、石山本願寺との連携や紀伊方面の海上警固も行う事も出来る。

 雑賀の商人達に取っても、此れによって東国方面に新たな販路を開拓出来るのだ。


 長安の弁説と相俟って、年寄衆達には随分と魅力的な提案に聞こえた。

 しかし重意には、此の提案に潜む危険性が見えていた。

(確かに土屋殿の案は十ヶ郷には益が多い様だが、高野山と組むなど根来寺と縁が深い《三緘衆》は絶対に納得すまい。本郷もどう動くか判らぬ。下手をすると雑賀衆は分裂してしまうぞ!)


 長安の策に《織田寄りの三緘衆を切り離す事》も狙っている事に気付いた重意は、一瞬雑賀衆全体での寄合に諮る事を考えた。

 しかしながら其の様な事を諮れば、三緘衆を通して根来寺や織田家に情報が伝わってしまい、十ヶ郷が後ろ盾も無い侭に攻撃に晒される危険に陥る。

 本郷の仲裁で納めたとしても、労を尽くした本郷の土橋家に主導権を握られ続けるだろう。

 更には此の提案を十ヶ郷が密かに蹴った場合、長安が同じ内容の策を本郷に出向いて棟梁・土橋守重に提案しないとは限らないのだ。


「此れが十ヶ郷から鉄砲鍛冶や使い手を派遣して頂く代償として、武田家が出来得る最大源で御座る。此の提案を此処に居られる皆様方で合議を重ねて頂き、十ヶ郷年寄衆の総意の上で此の案を進めて行きたいと思慮致して居りまする」

 長安の話を聞きながら、重意が上座で1人黙って思案に耽っているのを見届けると、長安は改めて居住いを正して重意達に向かって退出する事を伝えた。

「では其の結論が出る迄の暫くの間、それがしは此の十ヶ郷を離れさせて頂きまする。半月以上は掛かると思います故、此度の御返答は其の時に改めて御伺い致しまする」

 長安がそう言い終わって部屋を出ていこうとした時、年寄衆の1人である中野城主の貴志教信が、長安に話し掛ける。

「ではもしも武田家に都合が良過ぎて気に食わぬ時は、我等の総意で此の話を退けて構わぬ、と言う訳ですな?」

 教信は長安の自信家らしい態度に反発を覚えたのか、随分と挑発的な口調であった。其の言葉を耳にした長安は広間を出る前に再び上座を向き直す。

(此れ以上の策が有るならば、やってみるが良い!拒否されても構わぬ様に先に高野山で外堀を埋めて来ようぞ!)

と心中考えながらも顔色一つ変えずに、教信だけでは無く年寄衆全体を見渡しながら礼を尽くした挨拶を述べた。

「我等は今回の交渉に際して、御互いの益とするべく誠意を持って臨み申した。冷静に見て頂ければ判る事で御座る。其れを己の感情のみで蹴られる為らば、其れでも結構で御座いまする。しからば此れにて失礼仕りまする」

 挨拶の口上を述べると、長安は平井政所を辞去して、重秀の屋敷へ戻っていった。


 長安が政所を出たとの知らせを受けた重意は、上座から十ヶ郷を率いる年寄衆に呼び掛ける。

「此度の対処によっては《雑賀衆》は他の勢力に飲み込まれるか、又は五緘が離間して同士討ちに追い込まれるか…若しくは我等十ヶ郷が雑賀の盟主と成り得るか…。いずれにせよ今迄とは違う型に変化せざるを得まい。其処を考えた上で十ヶ郷の総意を纏め上げる。では皆の衆、思う処を存分に述べてくれぃ!」

 此の重意の発言を端緒に、十ヶ郷の年寄衆は10日以上に渡り侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を繰り広げる事になる。


 一方、長安は翌朝には重秀の部下を護衛に借り受けた上で平井の重秀屋敷を出発して、高野山の子院である成慶院・持明院に向かった。

 既に先行させている加当段蔵と成田の藤兵衛に合流して、高野山との交渉を成立させる為である。

 長安は合流後直ちに、2院の仲介によって高野山の上層部と交渉を開始した。

 既に段蔵達に託した書状を読んで内容を把握済みだった上層部は、長安の提案に好評価を与えた。

 既に枯渇したと考えて放棄していた辰砂鉱の再採掘が出来れば、今はわざわざ堺の《朱座》から購入している密教儀式用の朱丹を自前で調達出来る。

 其の上、余った分を武田家に売却する事で新たな収入源を確保出来るのだ。

 武田家に取っても、長安が導入を進めている《水銀流し》(金アマルガム精錬法)を行うのに、水銀は幾らでも必要になるのだ。

 御互いの利害を磨り合わせた長安は、武田家と高野山の間での契約を成立させた上で、成慶院と持明院を其の窓口に指定したのだった。


 そして成立の夜、長安は己の宿所に段蔵と藤兵衛を呼び出して、1通の書状を手渡した。

「2人には此の書状を持って直ちに甲斐に戻って貰いたい。そして勝頼様に書状を御渡しして、策を実行に移して頂くのだ」

「交渉の先駆けの次は使番か。藤十郎殿の人使いの荒さは、今は京に居る今福浄勧斎殿並みじゃな」

 書状を受け取りながら軽口を叩く段蔵に比べて、藤兵衛は満面の笑みを浮かべている。

 思わず長安が質問したが、返答はやや情け無い内容であった。

「藤兵衛、如何したのだ?故郷に戻るのが其の様に嬉しいか?」

「いえ、街道を甲斐迄走るという事は船に乗らずに済みます故、喜んでおるので御座る!」

「…2人には一応書状の内容を説明致すかな。此れには…」


 書状は武田家陣代・武田左京大夫勝頼に宛てており、《高野山との水銀採掘の交渉の成立》の報告が記されていた。

 更には、《紀伊への金山衆派遣》、及び《武田領内の刀鍛冶師の徴集》を依頼していた。


「…という中身だ。鉄砲の件で十ヶ郷を口説けなんだ時にも、此の一手は《武田の将来》を明るくし得る妙手と為ろう。勝頼様に動いて貰うのは2人の双肩に掛かっておる。宜しく頼むぞ」

「承知致した!」


 直ちに高野山から出立した段蔵と藤兵衛は、東山道を東進して甲斐に帰り着いたが、勝頼は既に駿河の旧今川領に出兵した後であった。

 2人は直ぐに勝頼を追い掛けて駿河に向かい、落城直後の蒲原城に於いて勝頼に書状を手渡す事が出来た。

 書状を読んだ勝頼は、直ちに各金山衆から紀伊に派遣する金堀技師を選抜して、駿河の久能山城に集めさせた。

 そして駿府・旧今川館の落城直後、岡部忠兵衛貞綱・伊丹権太夫康直を主将に新設した《武田海賊衆》を紀伊に派遣する事にした。

 紀伊尾鷲から来訪した北畠旧臣・向井伊兵衛政勝を案内役にした《武田海賊衆》は、金山衆と新たな資金、そして段蔵と藤兵衛を乗せて12月半ばに駿河清水湊を紀伊・加太湊に向けて出港したのだった。


 一方、長安は交渉成立後に高野山を下山した後は成慶院・持明院の僧侶と共に辰砂の採掘予定地の現地調査を繰り返した。

 そして再び十ヶ郷の平井政所を訪れたのは、既に12月の中旬に差し掛かっていた。


 平井政所に入った長安は、早速広間に於いて重意・重兼親子や貴志教信等の年寄衆と面会した。

「土屋殿には随分と待たせてしまい御迷惑を御掛け致した。改めて御詫び申す」

「いえいえ、此方と致しましては鈴木様からの御返答を待たせて頂く身で御座る。別に問題は御座いませぬ。しかしながら御次男の孫一殿が居られぬ様ですが…」

 長安は上座の重意と御互いに挨拶を交わす中で、重秀が此の中に居ない事に気付いた。

「重秀は合議が決してからは、此の平井政所に顔を出しておりませぬ。全く御恥ずかしい限りで御座る」

(孫一殿が顔を出さぬ様な結論か…。鉄砲鍛冶の件を断られたら、多少予定が狂うな…。まぁ最悪水銀みずかねの確保が出来れば、掘った大量の金で改めて鉄砲を買い付けるか)

 高野山との交渉を成立させて、水銀の確保による甲州金増産の目処を付けた長安は、返答に対して心理的に余裕を持って対応出来る。其れが彼を更に自信有りげに見せていた。


 長安と重意は既に大枠が固まった事柄について、次々と打ち合わせていく。

「では此度の合議の結果を言わせて頂く。先ずは先に決した6匁筒100挺御譲りする件だが、全て新品を用意致し梱包も済ませておる。品代は受け取っておる故、何時いつでも持って帰られて結構で御座る」

「御配慮痛み入りまする。直ちに甲斐に運ぶ手配を済ませまする」

「次に辰砂の積み出し港については、加太湊を使って下され。但し御指摘の通り、大型船が荷の積み降ろしを為るにははしけを使わねばならぬが…」

「其れに関しては武田家が整備の費用を賄いまする。職人や人夫の手配は御任せ致す故、立派な港を仕立てて頂きたい。此の甲州金は武田家陣代たる左京様(勝頼)より御預かり致した物、当座の賄いに御納め願いたい」

 長安は活動資金として渡されていた甲州金の残りを、此処で全額吐き出す事にした。其れを見せつける事で、武田家の決断力を演出する為である。


 元々武田家は《国人連合の旗頭》的な色合いが濃く、国主の権限は其れ程大きく無かった。

 其れを打破為るべく、武田信虎は有力国人を誅して国主の絶対権力を確立しようとし、次代の晴信(信玄)は己の《カリスマ》で国を束ねていた。

 しかしながら、未だ当主代行である《陣代》に過ぎない勝頼には、有力国人の意見を無視出来なかった。

 現在多少なりとも改革が進んでいるのは、反対派が勝頼を半ば無視して妨害しないからだ。

 長安は己が此の件の全権を預かった事を利用して、実際以上に勝頼の率いる武田の決断力を誇張してみせたのだ。


 だが、《惣国一揆》である雑賀衆の惣領の1人である重意には、長安が合意と同時に勝頼の名で資金供出をした事で、決断力が印象付けられた。

「此れは助かり申す。流石は東国の勇たる武田家、素早い御決断ですな。…では、次の件たる《鉄砲鍛冶》の件で御座る」

 話題が鉄砲鍛冶の件に変わり、長安も改めて表情を引き締める。

「我が雑賀の鉄砲は伝来して二十有余年、研鑽を重ね改良を続けてきた。今では雑賀の鉄砲は大八島(日本)に並ぶ物無し、と自負しておりまする。即ち《機密》の固まりであり、本来為らば他国に鍛冶の業を伝える等有り得ぬ事で御座る…」

 重意は一度言葉を区切り、長安の反応を確認しながら言葉を続けていく。

「しかしながら、我が嫡男である孫市郎(重兼)が大局を考えて鍛冶師の派遣を行うべし、と主張致し申した」

「ほぅ!孫市郎殿がで御座るか!」

 長安が驚きと共に重意の脇に座する重兼を見ると、重兼は微笑みを浮かべて一礼しながら持論を述べる。

「今後の情勢は畿内を制した織田弾正(信長)を中心に動くでしょう。其の様な中、根来寺や三緘衆は織田に接近し、本郷の土橋殿は本願寺に近付いておりまする。為らば我等十ヶ郷は敢えて武田家に協力致して雑賀衆の均衡を保つべき、と考えておりまする。其れに先人の気概に倣うべきかと…」

「孫市郎殿、先人の気概とは如何なる事で御座るか?」

「種子島時尭公は南蛮人から伝来した鉄砲を秘蔵せずに求める者に製造法を伝授し、昨年身罷られた津田算長殿が根来から雑賀に伝えたからこそ、現在の雑賀の繁栄が有りまする。御二人の気概に倣い武田家に我等の業を伝授致すべき、と申し上げたので御座る」

 重兼の説明が済むと、上座の重意が言葉を続けていく。

「其の様な訳で、武田家に鉄砲鍛冶を御貸し致すが、畿内の情勢をかんがみて長い間は御貸し出来ぬ。御貸し致す鍛冶師は10人、期間は1年間とさせて頂きたい。更に東国出身で武田領に移住を希望した鍛冶師が2〜3人居たので、此れに関しては10人とは別枠で移住を許可致そう」

 長安は重意の言葉を聞きながら、1年間有れば武田領の刀鍛冶を教育して鉄砲製造を軌道に乗せられる、と判断した。此れで鉄砲の調達の目処が立ったのだ。

「有り難う御座いまする!甲斐国より遥々(はるばる)参った甲斐が御座いました。此れで我が主に顔向け出来まする!」

「うむ、次に鉄砲の使い手に関してだが、通常の遣り方と同様の手続きで、雇い鉄砲を50人御送り致す。期間は同じく1年間としたい。此方も武田家に仕官を望む者が10人程居るので、別枠で認める事と致す」

「承知致しまする。雑賀衆の凄腕の使い手達に手解きを受ければ、武田の鉄砲足軽共も他国に引けを取らぬ様に為りましょう」

「そして最後に津田流火術の使い手の件なのだが…」

 軽快だった重意の口調が急に鈍くなり、不審に思った長安が問い掛ける。

「鈴木様、如何為さいました?」

「実は其の件で土屋殿に頼みが御座る。かつて、津田算長殿の処に押し掛けて津田流火術を伝授して頂いた者が居って、其の者が武田家への仕官を望んでおり申す。出来得れば土屋殿には、武田左京様に対して仕官の口利きをして頂きたい」

 長安は重意の申出を即座に快諾した。此れで鉄砲に拠る戦闘に則した兵法を導入出来る為だ。

「勿論で御座る!津田流火術を極めておる方ならば、正に我等武田家が喉から手が出る程欲しい逸材で御座る!で、其の件の御人は何処の御方で御座るか?」

 すると長安の背後、広間の入口のふすまの向こうから大声が聞こえて来た。

「儂じゃ!藤十郎殿、儂もお主と共に甲斐へ参るぞ!武者修行がてらに武田の鉄砲衆を鍛え直して進ぜよう!」

 長安が驚いて振り向くと襖が両側に勢い良く開く。其処には既に旅支度を済ませた重秀が仁王立ちしているのだ。

 長安と初めて会った時と同様に、武芸者然とした装束に猩々しょうじょうひの裏地の陣羽織を羽織り、両側には重秀の側妻でもある2人の男装の少女が控えている。

「儂の家臣郎党から側妻迄、屋敷の全員を連れて行く故、宜しく頼むぞ!」

「孫一殿!お主は何を考えて居るのだ!大体お主は十ヶ郷の鉄砲頭では無いか!多少は己が立場をわきまえろ!」

 余りに軽い重秀の発言に、長安は思わず叱り付けたが、重秀は歯牙にも掛けずに己の主張を通していく。

「兄者の補佐と鉄砲頭は貴志殿が引き継いでくれる。家督なども継がぬ故に屋敷は孫三郎に譲るつもりだ。其れに儂が抜けても、雑賀には《鈴木孫市郎》と《土橋若太夫》という神業遣いが居るのだ。何の心配も要らぬわ!」

 話を聞いていて思わず立ち上がっていた長安は、上座を振り返って苦笑を浮かべた重意に対して質問する。

「鈴木様!孫一殿はこんな事を言っておりまするが、本当に宜しいので御座るか?」

「土屋殿、我等は新たな絆で結ばれた故、此れからは左太夫で結構で御座るよ。其れと、此の馬鹿息子は言い出したら聞かぬたち、好きに使って頂いて構いませぬ。但し鉄砲の腕前は正に天下一、父で或る儂が保証致しまするぞ!宜しく御願い致しまする!」

 そう言って頭を下げる重意を見て、長安は反論を諦めた。実際重秀の実力は、命を救って貰った長安自身が一番良く知っている。

「…左太夫殿、承知致しました。必ずや孫一殿を左京様に取り次ぎましょうぞ」

「おぅ、左様か!藤十郎殿、世話に為るぞ!儂が武田の鉄砲を鍛えるからには安宅船あたけぶねに乗ったつもりで安心致せぃ!わっはっはっ!」

 重秀の高笑いを聞きながら、長安や重意、そして年寄衆達も含めて広間に居合わせた全員が苦笑を浮かべるのだった。


 此の後、加太湊に土屋貞綱率いる《武田海賊衆・向井船手衆合同船団》が入港すると、十ヶ郷は俄かに活況を呈していく。

 長安は甲斐から来た金山衆を高野山に引き合わせたり、甲斐に来て貰う鉄砲衆や鉄砲鍛冶の選定を行った。

 段蔵や藤兵衛は、紀伊各地や堺の薩摩屋主人・山上宗二、更には武田家の京での出先機関を采配する今福浄勧斎の元へ使者として赴いた。

 貞綱や康直ら武田海賊衆は十ヶ郷の海賊衆と交流を持ち、情報を交換していく。


 そして、年が明けて永禄13年(1570年)、春の息吹が其処迄感じられる1月下旬。

 長安を始め、重秀と其の郎党・側妻、鉄砲鍛冶・雇い鉄砲や其の家族等、十ヶ郷から甲斐に赴く者達約100人と鉄砲100挺を乗せた、武田海賊衆の船団が駿河国に向けて出港する日が来た。

(因みに、向井政勝率いる向井船手衆は年明けには本拠地の紀伊尾鷲に帰港している)


 加太湊は未だ大型船は接岸は出来ない為、艀を利用して甲斐へ運ぶ人員や積荷が廻船迄運ばれていく。

 また、其の周囲には武田海賊衆の関船(中型戦闘艦)が陣形を組んで碇泊して、船出の合図を今や遅しと待っていた。

 そんな中、最後の便と為る艀が加太湊の岸に近付いて行く。

 最後の艀には長安と艀の船頭を兼ねる段蔵、そして藤兵衛・重秀と重秀の2人の側妻が乗り込み廻船に移乗する手筈なのだ。


「土屋殿、どうか儂の息子の事を宜しく御願い致しまする。重秀、武田左京様や土屋殿の御迷惑に為らぬ様に身を慎んで、武芸に励むのだぞ」

 見送りに来た重意が、最後に艀に乗り込む2人に声を掛けた。

 しかし当の重秀は軽い口調で返して、兄の重兼に語り掛ける。

「親父殿こそ今年でいよいよ還暦なのだ。《年寄りの冷や水》等と言われぬ様に身体をいとうてくれ。其れよりも兄者、儂の《孫一》の名乗りなのだが…」

「別に構わぬよ。此の侭《孫一》の名乗りを使ってくれ。家督は孫三郎を養子にして継がせるつもりだ。鈴木の家の事は気にせず《武田家の孫一》の武名を紀伊迄聞こえる様に轟かせて来るが良い」

 重兼からそう言われた重秀は、少し照れながらも己自身に言い聞かせるが如く別れを告げる。

「応よ!儂の《八咫烏》の旗印を見た東国の大名共が震え上がる位に為って来るぞ!兄者も息災に過ごしてくれ!では参ろうか!段蔵殿、艀を出してくれ!」

「孫一殿、未だ儂が乗って居らぬだろうが…。では左太夫殿、孫市郎殿、我等も失礼致しまする」 そう言いながら2人が艀に乗り込んだのを確認した段蔵が巧みにかいを操り、艀は廻船に向けて漕ぎ出した。


(昨年6月に甲斐府中を出立して8ヵ月弱、此の旅で宗二殿や左太夫殿親子を始め、多くの知己を得る事が出来た。そして孫一殿という面白き男も武田家に仕官してくれる。後は甲斐に戻って畿内・紀伊で打った手を生かすのみ!必ずや我等若手の手で勝頼様を《真の武田の当主》にしてみせる!勝頼様、待っていて下されぃ!)


 決意を新たにした長安と全ての人員を乗せた船団が、加太湊から針路を南に向けて出港していく。

 船団は次第に東に針路を変え、紀伊と同じく黒潮が岸を洗う駿河国を目指すのだ。

 此の船団が駿河国に入った時、甲斐武田家には新たな変革の波が押し寄せる事に為る。

これで番外編が終わり、次回からはこの話の中の策に従って本編が展開します。長文・乱文ですが、また次回も読んで頂ければ幸いです。

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