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序:名医からの忠告

初めての投稿の上、扱い慣れていないので乱文・誤字脱字はご勘弁下さい。

 この地方の冬の風物詩である八ヶ岳颪おろしが甲斐府中の町を駆け抜けていく。

 しかしその様な中でも信濃から御本尊を遷した甲斐善光寺には《善光寺参り》と呼ばれる参拝者が数多く訪れていた。

 そんな彼等の中を一人の医者が府中の町、いや甲斐の中心である躑躅ヶ崎館つつじがさきのやかたに入っていった。


 時は永禄11年(1568年)12月5日、場所は甲斐府中の躑躅ヶ崎館の中にある看経所かんきんじょと呼ばれる当主用の私室である。


 そこにはこの躑躅ヶ崎館の主人で、甲斐・信濃2国の国主である、甲斐源氏嫡流の武田家第19代当主の武田法性院信玄が居た。

 彼はこの秋に病気で倒れた為に、都である京からはるばる甲斐に来たこの医者から見立を受けていた。

「貴方様がこのまま不養生を続けていれば、残された御寿命はあと3年、長くみても5年といった所で御座いましょうな」 その医者から見立というよりも余命宣告をされて、信玄は憮然とした表情を浮かべた。

 もしもその見立を行ったのが、武田家御抱えの医者である板坂法印と御宿監物ならば、見立て違いと笑い飛ばし無視してしまうだろう。

 しかしながら信玄を見立てた医者は、前将軍・足利義輝や西国の雄・毛利元就を診察し、今や天下一の名医との呼び名も高い、京の曲直瀬道三その人なのだ。

 恐らく京の公家の所に亡命している己の父親の武田信虎が《善光寺参り》の名目で送って寄越したのだろう。

 そう考えた信玄は目の前の曲直瀬道三に質問した。

「この儂にはやらねば為らぬ事が数多く残されておる。しかしこのまま不養生を続け、政を行えば、3年から5年で死んでしまうのだな?」

「このまま不養生を続けておれば、確実にそう為りましょう。しかしきちんと身体を休めて養生に専念すれば、その後10年は長く生きられましょう」

「そうか、全く希望が無いという訳では無い様だな。では、儂は何ヶ月位養生すれば良いのだ?」

「そうですなぁ…一概には言えませぬが、3年程養生すれば完治なさいましょう」

 その道三の発言を聞いて信玄は強い口調で反論した。

「さ、3年だと!そんなに政を離れる訳にはいかん!儂が寝込んでおった為に予定が伸びておる!このままでは徳川三州(三河守家康)が遠江はおろか、駿河まで併呑してしまう!何よりも、この9月に上洛しおった織田弾正忠(信長)が畿内を切り取ってしまうではないか!それに後を継ぐべき孫の武王信勝はまだ二つだ。まだまだ隠居は出来ん」

「成程…御嫡孫と仰有りましたが、貴方様には成人した息子は居られぬのですかな?」

 その道三の質問に信玄は再び憮然とした。

「…元々嫡男だった義信は昨年亡くなった。それに、信勝の父親でもある勝頼には、既に高遠諏訪家を継がせておるのだ。よって、勝頼は信勝が元服するまでの間、陣代として政をさせるつもりだ」

 《陣代》とは当主では無く、その職務代行者、若しくは輔佐する者の事だ。その信玄の発言を聞いて、道三は半ば呆れつつ信玄に対して指摘を行った。

「貴方様は陣代の様な地位のままで、譜代の重臣達や御親族の方々を従わせる事が本当に出来ると御思いですかな?」

「……」

「縦しんば、その様な幼君を当主に頂いて御家が保てますかな?後継者に恵まれなかった今川家や斉藤家、三好家等は衰退や滅亡の憂き目をみて、上手くいった毛利家や北条家、それに織田家等は栄えておりまする」

「ふむ…。しかし先程言った通り、我が武田家はこれから駿河に出兵しなければ為らぬ。それにこの儂が居なくては武田家は立ち行かぬ」

 そう言って養生を拒否する信玄に対して、道三は突き放した様に言った。

「残された御寿命をどうお使いに為ろうが、貴方様の自由にされるが良いでしょう。但し、家督を譲られたら仕事は減らせますし、養生にも専念する事が出来ましょう。板坂殿と御宿殿に養生の処方を渡して置きます。どうか御考慮下さいませ」

そう言い残して道三は躑躅ヶ崎館を出て帰国の途に付いていった。


 道三が帰った後、夕闇が近付く頃になっても信玄は一人看経所で火鉢にあたりながら思案に耽っていた。

(このまま信勝が成長するまで、勝頼を陣代にしたままで良いだろうか…。しかしながら勝頼には武勇に走り猪突する部分が有る。一武将ならともかく、早めに当主に据えた上で経験を積ませるべきだろうか…)

 そこに廊下から、奉行の一人である土屋昌続が信玄に声を掛けてきた。

「御屋形様、領内各地からの陣振れことごとく整いました。明朝には駿河に御出陣頂けまする」

「そうか、ならば召集に応じた者達を労ってやろうか。昌続、付いて参れ」

「御意」

 信玄は看経所を出てから、応答した昌続を連れて渡り廊下を歩いて移動する。

(まぁ時間はたっぷりと残っているのだ。先ずは北条や徳川に先んじて駿河を切り取る事に集中しよう。しかる後に織田弾正が畿内で力を付ける前に上洛をしようか…家督相続の件はその後に考えれば良かろう)

 そう思案しながら諸将が集まっている大広間に向かって歩いて行った。


 その後この《第一次駿河侵攻戦》は、今川家臣の奮戦と北条・徳川の横槍で、4ヶ月で甲斐に撤退する事になる。

 しかし、この日の武田信玄と曲直瀬道三の邂逅によって、正史とは別の形で時代の歯車が動いていく事になる。信玄・勝頼親子の天下取りの道へと…

 時に永禄11年12月5日、武田軍の駿河出兵の前日の事であった。

未熟な文を読んで頂いてありがとうごさいました。続きも少しづつ書きますのでまた読んで頂けたら幸いです。

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