いかに以下省略
頭脳、肉体、運動能力、顔、
あらゆるジャンルの人間的価値基準において私は絶対的自信はないまでも、人としての平均値をすべてにおいて越えていることが自信でもあり、突出した才がないことを悩む向上心溢れる人間、それが私ではなかったのか?
いや、確かに私であった。私であったのだ。
私であったと言うなれば、今はどうであるのか?
簡潔に述べれば目も当てられない状況であるということだ。いかにかくのごとき状況に甘んじることになったのか?責任者に問いただしたい。責任者はどこか?
私の人生の流れが変わってしまったのは一年あまり前からである。とある戦争がきっかけだ。
受験というのは人の生き方をいともたやすく変えてしまう。
人を向上させ恩恵と幸福を与えることもあれば、人を堕落させ損害と不幸を押し付けることもある。
私は後者であった。
一被害者としてここに社会の不当性をここに訴えることにしよう。果たして読者はいるのか?
一年前私は受験という戦争の最前線へと自ら進んで乗り出していた。こわいものなど何もなかったほど私の精神は安定していた。受験戦争というものはいささか風変わりなところがる。仲間は居らず、自分以外のものは全て敵であった。そしてこの争いのなかでは自らが持っている物を切り捨てれば切り捨てるほど優位にたてる。
ときには友も欺き、教師にへつらい、弱者を侮蔑する、そんな必要もある。
私はためらはずいろいろな物を捨てた。
まず第一に有意義な学生生活を送るという希望を捨てた。この事による後の後悔の念は振り払えないものとなる。
次に友達を捨てた。
この事で誰も足を踏み入れない別館の一室で乙女とイチャイチャするのではなく、孤独と寒さに震えながら弁当を食べるという所業に及んぶことになる。
さらにゲームを捨て漫画を捨て遊びに出かける服を捨てた。
これによって泣く泣く勉強するしかなくなり、かなりの勉強時間と、勉強に信念を注いでいるという周りの理解と、変人と言う愛称をもらった。そこに愛があったのかは定かでない。
私はさまざまな物を捨て東大という怪物に挑んだ。
その事は回りも周知していた。その結果酷い仕打ちを受けることとなる。
その事とは勉強の師である教師たちからからかわれることとなったのだ。
あいつは阿呆か自分の成績がわかっているのか?
この学校から東大は3年に1度程度なのにあいつはまだこの学校の平均水準じゃないか。
いつまで続くやら。
あいつはどこまで本気なんだ?
等々職員室での話題となった。そんなことを愛溢れるクラスメイトは私に教えてくれた。
授業ではわかりきった簡単な物しか答えさせられず、答えられると異様に誉められた。
そこに嬉しさは微塵もない。
3年の11月三者面談という最初の山場が訪れた私の師は私に東大は浪人しても無理だから諦めなさいと諭した。
だが私は屈しなかったセンター試験で8割を取ることを条件に受験を認めさせた。
私は第一戦の勝利を確信したそこに師と両親の嘲笑うような笑みが浮かんでいたことは少しも問題ではないように感じていた。
しかし、蓋を開けてみればセンター試験7割という状況に終わってしまった。私は敗北した。
それでも師は私を褒めた。予想以上の出来だと。
そして私はC判定の別の国立大前期とB判定の国立大後期試験を受けることとなった。
私は薔薇色のキャンパスライフを望んでいた。
しかし予想に反して、志願者が激増。
過去最難の災難な入試となってしまった。
ああエジソンよ運は、努力すればするほどついてくるのではなかったか?
私はエジソンにたいする尊敬心はミジンコほどもなくなった。
かくして私に残ったものは変人と言う周囲の認識と、無駄に青春時代を捨てたという事実であった。
あのとき隣の可愛い乙女に話しかけていれば、野郎たちと騒いでいれば、違う夢を追いかけていれば、今、後悔の念は振り払えない。
しがし、まだもう一年頑張ればいいではないか。
もう後には引けぬ。ぐぬぬ。
という感情が私を更に破滅させることとなった。