第十六話 夕暮れの草原にて
世界はもともと、たった一つの物質で構成されていたという。その中に魔法で意味づけによる区別をつけたために、世界として機能し始めた。
故にこの世界に分子も原子も素粒子も存在しない。魔法によって、原因と結果の結び付いたある意味わかりやすい世界だ。その構造を解き明かし、自身の望むものへと変換する技術の総称が魔法。神の使ったそれと、現代に伝わるそれでは大きな齟齬がある。
それこそが詠唱である。魔力を込めて放つ言葉により世界に干渉する技術。そこで使われた言葉により、世界を変質させる”魔法陣”の内容が決まる。
詠唱によって行われる魔法。これには特筆すべき性質がある。それはイメージの明確さや、精細さにより、詠唱に必要な言葉の長さが変わってくることにある。例えば、何かを引き寄せる魔法を使う際、普通の魔法使いであれば魔法の属性を決め、どれをどのように引き寄せるかを述べる。
だが、これが腕のいい魔法使いになれば話が違う。培われた経験とセンスにより、魔法の効果を明確に頭に思い浮かべ、普通より遥かに短い言葉で世界を変質させる。
この差が、魔法使いの実力差そのものである。
だとすれば、ここで疑問が生まれる。同じ現象を起こすのに、何故詠唱の時間に差が生まれるのか。これは先ほど言ったようにイメージの明確さなどが関わってくる。
そもそも、魔法に詠唱は必要ないのだ。体外に自身の魔力を放出し、それにイメージを乗せることにより、魔力が世界に干渉、変質を行うのが本来の魔法である。
現代の魔法で詠唱が行われている理由は主に二つが考えられる。一つは世界に対し、より自身の望みを伝えやすくするため。二つ目は魔力の体外放出の手段になっていること、だ。
言葉とはそもそも自身の意思を音に乗せて他人に届けるものだ。それが無意識下で根付いている人間にとって、黙ってイメージを世界に伝えるのと、言葉という明確な手段として伝えるのではその容易さに雲泥の違いがあるのだ。
また、人は魔力を放出する際には皮膚を使っているが、それがどうにもイメージしにくいのである。意思に全てが左右される、不安定な力である魔力を扱う時、そのイメージの不具合は致命的である。
そういった事情もあり、より魔力の放出のイメージがしやすい場所へとそれは移ったのだろう。口は呼吸、唾液、言葉と様々なものを出している。詠唱する際に言葉の放出のイメージに乗せて魔力を体外に放出するのが人にとって最も都合が良かったのだ。
人は社会的な動物であり、個々の欲望と同時に種族全体での躍進にも重きを置く種族だ。僅かな者達しかまともに使えない魔法より、大多数が使い易いと感じるものを主流とするのはある種当然の事だったのではないだろうか。
「………とまあ、ここまでが爺さんの話と俺の推理を合わせたものなんだけど」
「うーんと、魔法は大衆の為のものになるにつれて、元の手法とは体系から外れちゃったってこと?」
「その通り。となると、今まで人類用の魔法を使ってた俺らでは神と同じ手法は難しくなってくると思うんだよな」
俺の言葉に三塚さんがこくこくと頷く。まあ、実際にやってみなくては始まらない。俺は魔力を表出させる。
「三塚さん、魔力感知お願い。身体の外に出てるか見張っといて」
「あ、あのね、つばさ君」
「ん、どうした?」
何か言いたそうな三塚さんを見て一度魔力を引っ込める。
「私も、魔法の練習したいなと思って。これだったら私でもできるから……」
「そうだな……。多分問題ないとは思うけど」
「私、つばさ君の力になりたいの」
また、その言葉。ドギマギして、思わずしなくてもいい質問をしてしまった。
「どうしてそこまでしてくれるんだ?」
そう聞くと、三塚さんはキョトンとした顔をして柔らかく破顔した。
「どうしてって、つばさ君が私達の為にここまでしてくれるからだよ?」
クスリと微笑んで、三塚さんは続ける。
「私ね?向こうの世界にいた頃は勇輝くんに憧れてたんだ。いっつも皆の真ん中にいて、いろんな事件を解決して。なんて凄い人なんだって、きっと特別な人なんだろうなって」
ああ、それはきっと皆が思ってることだろう。勇輝は特別な人間なんだと、凄いやつなんだと。そして実際、それは当たっている。
三塚さんの憧れていたという言葉を聞いて、やっぱりか……などという感想が浮かんできた。何時もあいつは皆の視線を独り占めする。そんなことに一々嫉妬するような時期はとうに過ぎ去ったが、やはり寂しいものがあった。しかしそれは、三塚さんの次の言葉で吹き飛ばされた。
「だからね、私はつばさ君も特別な人なんだと思ってた」
「は?」
「あんな凄い人といっつも一緒に、いろんな事件を解決するつばさ君も、世界に選ばれたみたいな特別な人なんだと思ってたんだ」
「いやいや!俺はそんな特別な人間じゃないさ!!」
三塚さんの言葉に慌てて否定をすると、分かっているとばかりに彼女は頷いた。
「うん、違った。つばさ君は特別なんかじゃ無かった」
その言葉に安堵とも後悔とも取れない感情が胸を満たす。まるで彼女に見てもらえないことが不服なようで、そんな自分に内心で苦笑を漏らした。
「つばさ君と同じ班になって、毎日を過ごすうちに少しずつ認識が変わったの。毎日、つばさ君が外を走ってることを知った。毎朝、つばさ君が剣や魔法の練習をしてることを知った。
筋トレも、剣も魔法も、どれも私では真似できないくらいに努力してることにようやく気が付いたの。努力して努力して、そうやって無理して特別な人の隣に立っていただけなんだって、分かったの」
三塚さんは両手を胸の前で握り、目を閉じた。その頰はほんのりと赤く染まっている。夕暮れも近い空の下でも、何故かそれがよくわかった。
「皆を元の世界に返すために、貴方がどれだけの努力をしているのかを私は知ってる。
勇輝くんの隣に立つために、貴方がどれだけの無茶をしているのかを私は知ってる。
貴方が特別なんかじゃなくて、特別になろうとしているのを私は知ってる。
だからーーーーー憧れたの」
「三塚さん……」
「私達の為にそこまでしてくれる貴方に、何かを返したいって、そう思ったの。そんな貴方が大好きって、心から思えたの」
『大好き』今、彼女はそう言ったんだろうか?彼女の潤んだ瞳を見つめながら、俺はただそれだけを考えていた。
「大好きな貴方を守りたくて、私はここに残った。大好きな貴方を手伝いたいから、私は強くなりたい。
私の気持ちは、迷惑なのかな?」
「……いや、嬉しい。嬉しいよ」
ちくしょう、何だこれ。めちゃくちゃ嬉しいじゃないか。別に、誰かに認められたくて頑張ってきたわけじゃない。勇輝に追いつきたくて勝手にやってきたことだった。皆を元の世界に戻そうとするのも、ただ俺がそうしたいからだ。
だけど、だけどさ。努力が誰かから認められるっていうのは、こんなにも嬉しい事なんだな……。
ああ、折角考えないようにしてたのに。もうダメだ。
「俺も、好きだよ。好きな物を語る時の顔も、ふとしたところで見せる優しさも。班のみんなではしゃいでる時に、暖かく見守ってるみたいなもの笑顔も。全部、好きだ」
そう言って、三塚さんの頭を撫でた。くすぐったそうに身を捩る姿に微笑みが浮かぶ。手がひんやりとした頬に触れると、三塚さんはそっと瞳を伏せる。肩を抱くと、彼女の顔が近くにくる。幼いけど、とても美しいとおもった。
その顔に、吸い込まれるようにして俺は唇を落とした。静かな、二人だけの時間が流れた。時折吹く風が、二人を撫でては空へと舞って行く。暫くして、何方からともなく唇を離す。
「えっと、なんか流れでしちゃったけど良かったのかな?」
「もう、そういう事は言っちゃダメなんだよ。つばさ君も、こういう所は初心なんだね?」
「ま、まあ初めてだし、な」
頰が熱い。きっと真っ赤になっているのだろう。それを見て腕の中の彼女はクスクスと笑った。
「私も初めてだよ。一緒、だね?」
思わずもう一度キスをしてしまうかと思うほど破壊力のある台詞だった。その代わり、腕の中の細い体をギュッと強く抱きしめた。
また二人だけの時間が流れる。
「私ね?こっちの世界に来れて良かったなあ。つばさ君を好きになれて、本当に良かった」
「そっか……。俺も、君と話せるようになって、今ここでこうしているのが凄く幸せだよ」
「ね?つばさ君。私のこと、これからはシャルルって呼んでもらってもいい?」
その問いに頷いてみせ、そっと視線を合わせる。
「シャルル」
「はい、えへへ」
何だこの可愛い生き物は。そしてふと、大事なことを思い出す。
「シャルル、俺はこの世界にーーー」
「うん、分かってるよ。だから私も一緒にいる。ずっと、ね?」
「いいのか、本当に?」
シャルルはそれに言葉で返すことはせず、ただ俺の唇に自分のそれを合わせることで答えてくれた。
「……ありがとう」
ただ、それだけを伝えるのがやっとだった。溢れ出るものを堪えるために彼女を抱きしめる。シャルルも黙ってそれに答えてくれた。確かな繋がりがそこにはあった。