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指先の力が抜けた。
その感覚に息を呑み――けれど、瓦礫は崩れることはなかった。
感覚が麻痺しているのか、ひやりとした冷気を感じながら、揺れる木片を見上げた。ああ、でも、落ちてくる……。
と。
強い力で襟首を引かれた。
勢いで浮きかける脚。首が締まって呼吸が止まる。
一瞬飛んだ意識を引き戻せば、瓦礫が崩れ落ちる瞬間を見た。
「……そ……な……」
喉奥から笛のような嗚咽が漏れる。
嫌だ。そんなの。嫌だし、駄目。だめ、だめ、そんなの。
「ソシ・レ……!」
「ショー!」
耳元で叫ぶ声。キーンと響く音は、鼓膜と脳味噌を揺らして頭痛を引き起こす。
思わず歯を食い縛り……聞き覚えのあることにはっとして首を曲げる。
「パセリ」
「無事で良かった!」
あちこち煤で汚れている小人は、満面の笑みを浮かべている。その空気を読まない笑顔に力が抜けた。
無事で良かったって。お前、どこ見て言ってんだよ。この俺のぼろぼろさを見てみろよ。
あちこち痛いし。たくさん血が出ているし。すげぇ痛いし。火膨れも大量にあるし。痛いし。痛いし。
お前は元気そうで何よりだな。なんて、嫌味を言おうとして、代わりに出たのは涙だった。
良かった。本当に、良かった。予想以上に元気そうで苛っときた部分もあるが、でも良かった。安心したのは、嘘じゃない。
でも。
「パセリ……ソシ・レが……」
あいつが、下敷きになってしまった。瓦礫に潰されて……思い浮かんだ言葉に、嗚咽が漏れる。
目尻と口の端に力が入って震えた。その拍子に、目の際に湧き続ける涙が溢れて落ちる。
俺は相当酷い顔をしているのだろうか。目の前の小人が、何かを言おうとしては口を閉じ、手足をばたつかせる。それが頬を叩くことにも、何にも感じない。
「ソ……ソシ、ソシ・レが、ソシ・レが……!」
「え、と、あっ、あの…………クリムー!!」
先程よりも大きな声に、頭が揺れた。酸素不足もあって、上体ごとぐらりと傾く身体。肩に乗っていたパセリが落ちかけ、ぎゃあぎゃあ叫びながらしがみついた。
……だからそれが煩ぇんだよ。精神が磨耗し過ぎておかしくなったのか。涙は止まらないのに、ふつふつと怒りが沸いてくる。
叩き落としてやろうか、と手を伸ばしたところで、目を見開いた。……クリム?
勢い良く振り返れば――とうとう落ちた小人が、外套の端に引っ掛かったのなんて知らない――視界に入る赤と黒。
瓦礫。炎。ぱちりぱちりと木の燃える音。いつかどこかで見たような光景だ。思わず目を細め……瞬いた目を、その時より大きなった背中に戻す。
視線に気付いた赤毛の男が、振り向く。
「とりあえず、やれることはやった。早く治癒士の所に連れ……って、おま、泣い」
「い、生き」
生きているのか。しゃくりあげる横隔膜は、たったそれだけの言葉さえ言いきることができない。思うようにいかない身体に、苛々する。
うーうー唸る俺に、驚いたように目を見開いていたホワイトは、僅かに口端を上げて見せた。
「ああ、生きている」
もっとも、危険なことには変わりない。顔を引き締めてソシ・レに視線を移すと、ホワイトをその身体を背負おうとする。
その際に見えた腕が真っ赤に染まっているのに気付き、寄ろうとした足が縺れる。無様に倒れ込んだ俺に、ホワイトの動きが止まる。
「ブラ」
「動ける」
鼻を啜り、紅い目を見詰める。涙が滲んだ目が哀れに見えないよう、強く返した視線は、寧ろ睨んでいるのかもしれない。
それでも、俺の意思は伝わったらしい。ホワイトは小さく顎を引くと、力の抜けた身体を背中に乗せた。
震える足で立ち上がる。痛みに寄せかける眉。歯を食い縛ることで耐えた。
俺の様子に目を細めたホワイトは、口を開く。
「着いてこれないのなら」
俺は夜族だ。
人間や亜人なんかよりも、余程丈夫な肉体を持っている。こんな怪我では死なない。
だから、助かる方を助けると思うな。お前が助けるのは、そいつだけだ。
「お前は先に行け」
俺の言葉に、ホワイトは眉を顰める。
それを先程より力の抜けた視線で眺める俺は、勿論諦めている訳ではない。
例え、今にも崩れ落ちそうな背中だとしても、着いていくと決めたのなら、俺は絶対に着いていく。
歩けなくたって腕があるなら動ける。腕もなくなってしまったら、蛆のように這いずってもいい。
みっとなかろうがなんだろうが、前に背中があるのならば、俺は頑張れるのだ。
「お前はこっちな」
「ショー?」
落ちまいと足掻く小人を外套の中に入れる。流石に今の俺の状態では、肩は不安定過ぎるからな。
そのこともあって懐に入れたのだが……不安そうな目を向けられて、むっとした。何だその目は。俺だと不満か。
低い声で呟けば、首を振って否定の意を示す。その勢いに、うっかり踏んで首の千切れかけた人形を思い出した。うむ、あれは軽くホラーだった。
「よし!じゃあ皆で脱出だ!」
「お前が仕切るなよ」
外套の上から強めに押して黙らせる。いい仕事をした、と多少清々しい気持ちになった俺を、ホワイトが見ていた。
その何とも言えない表情に、顎を上げて口を開く。
「早く足を動かせ。逃げそびれたらお前のせいだぞ」
「……そうだな」
行くぞ。
そう言って背中を向けた赤毛の足取りは、人一人背負っているとは思えない程軽い。若さか。若さなのか。
しかし、人工チートの聖女も、人間くらいは簡単に持ち上げられるだろう。そう考えると、年齢や性別ではなくチート補正かもしれない。このチート野郎め。
視界に入るのは、黒く染まりつつあるローブだ。その姿が小さくなる前に足を動かす。酒が入った時のように千鳥足になるが、まだ、大丈夫だ。動ける。歩ける。
こんな所で死なない。死ぬ訳にはいかない。俺には、したいことがあるのだ。
会いたいなぁ、と思う。でも会えないことは知っている。死んだら終わりだ。何も残らない。
例え死後の世界なんてものがあったとしても、人殺しで、夜族で、世界の異物である俺は、決して同じ場所にいけないのだろうから。
背中に向けられる言葉も視線も、もうない。なら、足を引き摺ってでも進むしかないじゃないか。




