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「この愚か者が」
「…………」
「荷物持ちも満足にできないのか。途中で捨てるくらいなら、初めから置いていけ」
「…………」
「警備が来て助かった。聖女を抱えて歩くのは、私には荷が重かったからな」
……なら、何でお前は、一人なんだよ。
火の粉を吸い込んでしまったのか、呼吸の度に肺が痛んだ。捻り出した声は掠れている。
「そんなもの」
ソシ・レの声は、大声を出さなくても通る。その透明感のある美しい声が、嗄れていた。
ざらざらとしていて、篭る声は、聞き取りづらい。俺は、いつもの声の方が好きなのに。
馬鹿な半吸血鬼が一人で暴走したからに決まっている。
こんな時にも毒を吐く男の顔は、まるで普段と何も変わらない。でも。
ソシ・レの胴体は、色々重なり過ぎて見えない。
瓦礫も炎も、邪魔だ。そいつは暴力的で野蛮な耳長族だが、お前達みたいなのは似合わない。いや、似合わなくもないが、もっと似合うものがあるのに。
例えば、森。あらゆる緑が生い茂る草木。生命の力強さを感じる濃い色の土。透き通るような空の下では、こいつの髪は太陽の光が集まったように輝く。
だから、こいつの居場所はこんな場所ではない。瓦礫の悲鳴。本の死骸。蹂躙する炎。こんな終わり続けている場所ではない。ましてや死に場所なんて。
お前、何やってんの。戦慄く唇から溢れるのは、言葉ではなくただの息。
他の奴だって来たのだろう。そいつらに任せれば良かったじゃないか。聖女で手一杯だったから?
だからといって、それはお前が来る理由にはならない。お前が俺を突き飛ばして、代わりのように瓦礫の下に埋もれる理由にはならない。
何をやっているんだ、お前。本当に、何を。
床が熱い。防音と緩衝の為のに使われる木材も燃え、露出した石床熱を溜め込んでいる。服の上からでも感じる熱は、覆うもののない掌を容赦なく焼いた。
上手く動かない脚を引き摺る。瓦礫の下に腕を伸ばして持ち上げようとしたが。
変な風に重なる瓦礫は、力を入れた瞬間は揺れるものの、すぐに元に戻ろうとする。もう少し奥まで腕が入れば噛んでいる金属を引き抜けそうだが、届かない。
ままならない状況に舌を打ち、その怒りをぶつけるように力を籠めた。それと同時に苦痛の声が耳に入り、慌てて力を抜いた。がらがらと崩れる音に、背筋が凍る。
ぱちぱちぱち。炎の爆ぜる音。崩れるのは止まったが、本当に動けなくなってしまった。腕にのし掛かる圧迫感。
ここで腕を抜いたら、その分を埋めようと、確実に瓦礫は落ちてくるだろう。思いっきり後ろに跳べば、巻き込まれずに済むかもしれない。俺は。
ソシ・レ。小さく呟いた声に、視線が返ってくる。何も言わないが、動ける状況ではないことくらいはわかる。
いつまでもこのままでは居られない。肌を焼く炎は、薄刃で撫でるように、けれど確実に力を削いでいく。燃えにくい素材の外套とはいえ、このままでは火達磨……そうでなくても蒸し焼きは確実である。
ソシ・レの唇から、吐息が漏れた。
「行け」
嫌だ。間髪入れずに返した俺に、眼光を鋭くする耳長。自分でもびっくりするくらい早かった。というか、意味もわからずに返したような……何て言ってたっけ。いけ?……行け?
どこに。いや、そこじゃない。それは。
今、言うことじゃ、ないだろう。
「聞け」
嫌だ。
「ショウ」
黙れ。
聞きたくない。耳を塞ぎたくとも、生憎手が塞がっている。無駄に鋭いだけで出来の悪い耳は、ごうごうと唸る炎の中でも、嗄れ声を拾い上げる。
「……人を、呼んでこい」
却下。
「……心中なぞ、まっぴらだ」
そうか。
指に食い込む重み。支えている筈だった手は、既に異物を挟んでいるだけのようなものだ。挟まれている分は下がらない。下がろうとする力は、挟まれている分を押し潰す。
「……私を……」
置いていけ。
ひくついた喉から、変な音がした。
喉の奥から込み上げてくるものがある。
胃の中がぐるぐると掻き回されているような不快感に、炎よりも赤く、染まる視界。
どくん、どくんと、心臓が血を流す音が煩い。
「…………けんな……」
噛み締めた奥歯が砕けた。口内に滲む鉄錆の味を飲み込めば、じゃりじゃりとした砂が喉を傷付けながら胃に落ちる。
「ふざけんな」
堪えきれずに吐き出したのは、怒りだ。
俺が、何で。お前等の言うことを、聞かなくてはいけない。
「どいつも、こいつも」
先に行けと俺の背中を押す癖に。突き飛ばす癖に。
例えそのせいで俺が転んだとしても、その場で蹲っていたとしても。
――決して後を追ってはこないのだ。
お前なんか、嫌いだ。
嫌いだから、お前の言うことなんて聞いてやらない。
お前は俺の主人でもないのだから、お前の言うことを聞かなくてはいけない理由なんてない。俺は。
置いていってなど、やらない。もう。
ゆらゆら。炎が揺れる。ゆらゆらゆら。視界が揺れている。ソシ・レの顔が滲んで、ぼやけて、膨らんで。
翠の目が、呆れたように細まった気がした。
「……幼子でもあるまいし……」
「テメェより……年上だ……クソが……」
「……わかった、から…………泣くな」
黙れ馬鹿。
ぼとり、零れる。ぼとり、ぼとり。落ちる。頬を叩く雫が、火傷に沁みる痛みに、また涙が滲んだ。
熱い。頭が揺れる。痛くて、熱い。意識が飛びかけ、唇を噛み締めて引き戻す。
「ソシ・レ……」
呼び掛けた声は、今までで一番酷い。
咳が止まらない。焼けた肺は、取り入れようとした空気にさえ痛み、拒絶する。
煤で汚れた瞼が、ソシ・レの翠玉のような緑を覆い隠していた。
「あ……ぁ、……や……」
引き攣る唇から勝手に漏れる喘ぎ。
なあ、こっち見ろよ。無視してんじゃねぇよ。
「……ゃ……だ……」
テメェが泣かせてんだよ。なのに、何で知らねぇ振りしてんだよ。
返事、しろよ……!
「……だ……か……」
世界は俺に優しくない。
幸せはあった。でも、悲しくて、辛いことがなくなったことはない。
何度も、何度も。世界に捨てられたあの日から、俺はずっと傷付けられているのだ。
――そしてそれ以上に、世界は俺以外に優しくないことを知っている。
「…………け、て……」
だって、そうだろう?
傷だらけで、ぼろぼろになって、諦めて、痛みを孕みながらそれでも俺は生き続けているのに、いつだって、俺の周りは死んでいく。
見知らぬ者も。餌も。敵も。知人も。大切な、者も。
みんなみんな死んでいく。
「…………ねがっ……」
昔、助けて欲しいと願ったことがある。それは、すぐに無理だと気付いて諦めた願いだ。
だって俺には、呼べる名前なんてないのだ。乞う相手が居ないのに、助けを求めるなんて馬鹿げている。そんなものに意味はない。
嗄れた喉から零れる音に、意味なんてない。




