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落ちているのだろう、多分。それも頭から。
多分と付くのは、視覚が働いていないからだ。そして、本来に頭に上るはずの血は、重力に逆らって上に上がり気味である。
そうするとどうなるか。足側に血が溜まろうとするというのは、普段地面に立つのと同じ感覚である。つまり俺の身体は今、目を瞑ったまま立っていると錯覚しているのだ。
頭では違うと理解している。いやまあ、その理解がなければ本当に勘違いしてしまいそうなのは否定しないが。経験というのは、頭で考えているよりも心身に与える影響は大きい。
実は、加速が付きすぎて貧血になりそうなくらい長い間落ちている、そうなっていないのは、一応、何度か止まらないかと手足を突っ張っていたからだ。
今だってそうだ。伸ばしきれない腕を壁に押し付ければ、皮膚が布地の繊維に巻き込まれる痛みと共に、落下の速度ががくっと落ちる。
そこまではいいのだ。ああ、そこまではいいとも……。
「ぐげふぅ!」
みっ、鳩尾に入った……!今までで一番のクリティカルヒットである。このように、俺の後を落ちてくる聖女が、叩き落としてくるのだ。
ぎりぎり止まりかけている身体に衝撃を与えられれば、拍子に落ちる。聖女は俺にぶつかった反動でちょっと浮く。
そうしてできた間が、次のブレーキの際の衝突を生み出しているのだ。何か色々間違っているのはわかっているが、何とかのゆりかごという玩具を思い出した。現実逃避だが何か?
毎回そんなことをするくらいなら止めればいいのに、と思うかもしれない。しかし、先程言ったように放っておくとどんどん加速が付くのだ。その状態で激突でもしてみろ、いくら俺の骨でも流石に砕けるわ。
いやまあ、見えていないので、一体いつ底に着くかわからないんだけどな。下手したら、減速直後に首の骨折って終わりとかもありえる。
……その場合、俺の下にはソシ・レがいる、ということに思い当たって、口の中に苦いものが広がったが、
聖女の髪が光った気がした。
「!」
いくら人間離れをしているとは言っても、発光能力はないだろう。ということは、夜族の目が捉えた僅かな光が、聖女の髪を輝かせたように見えただけ。光が入ってきているということは……。
腕を伸ばす。もう何度めになるかわからない痛みに衝撃。落下。それまでは暫く放置していたが、崩された体勢を直ぐ様立て直し、腕を伸ばす。以下繰り返し。
その頃になると、聖女の髪一本一本でさえ判別できるようになっていた。通気孔は近い。問題は、ダクトと部屋を遮る格子であるが。
「無様に潰れてたらはっ倒すぞ耳長!」
ダクトに反響する俺の叫びに、頭の下から強い風が吹く。身体を浮かせる程強いものではなくとも、確実に速度は落ちた。そして、一瞬にして明るくなる視界。
通気孔が見えた、と理解する前に、翼を限界まで広げる。突然の動作と空気の抵抗に、翼の根本が千切れそうな程に痛んだが、気合いで羽ばたかせた。
頭と足の位置が入れ替わる。繋がった縄もどきを引き、聖女を抱き寄せる。最後に一際強く押し上げようとする風の抵抗の中、俺の靴裏は床を踏んだ。
底から伝わる衝撃は流石に軽いものではなかったが、暫くすれば痺れも取れるだろう。
「その言葉、そのまま返す」
「もう着地しましたよバーカバーカ」
「……自分の言葉を省みて死にたくならないのか」
呆れ混じりの言葉に、頬が引き攣る。毒で返ってくると思ったからわざとからかうような言い方をしたのに、このような反応を返されると困る。
うん、間違いなく知能指数低い奴の台詞だね。死にたい。死ぬつもりはないが。
何だかんだ言っているが、風の精霊術で援護してくれていたのはわかっている。それについて素直になれないのは、俺も耳長も一緒だ。面倒臭い性格も、まあ一緒かな。
足首の縄を外しつつ考える。色々ありつつもメインコンピュータールームに辿り着いた訳だが、これで終わりではない。自爆を解除できないのであれば、結局無駄になる。
画面にでかでかと表示されているのは、一秒一秒、数が減っていく様子だ。残りは七分弱。意外と残っていたな。その下に幾つかの四角が表れ、文字が流れていく。
こちらはソシ・レの操作だろう。長い指が軽やかに動く様子は、まるでピアノでも弾いているようだ。こんな状況でなければ見惚れる程に美しい。
俺も理解している訳ではなくとも、何か手伝えることはないかと思っていたが、杞憂らしい。悪魔に遅れを取りはしたが、ソシ・レの方が俺等よりも余程前時代の技術に詳しそうだ。
でも、それで監視カメラが何で使えないんだ。あれか?代々引き継いでいる情報の中にないからか?ちょっとくらい自分で調べればいいのに、と思ったが、権限があるからといって簡単に入っていい場所でもないか。
たたたた、たん。
ぴっこん。
たたたた、たん。
ぴっこん。
たたたた、たん。
ぴっこん。
「お前さっきから何やってんの」
「パスワードがわからん」
「ちょ」
何やら叩いては、エラー画面が開かれるのを見かねて声を掛けてみれば、予想外の返答が返ってきて目を剥く。
「悪魔に変えられたってことか?」
「いや、施設自体に関わるものは管理者以外に変更はできない」
「じゃあ何でわからないんだよ」
「そもそも、自爆機能を作動させる必要がなかったからな」
方法もわからないし、パスワードも知らないと。おま、それはないわ……。
一応、施設内のパスワードはある一定の法則で付けられているらしく、それで予想できるパスワードを入れているらしい。個人的にはそれパスワードの意味なくね?と思わなくもないが、そうして使えるようになった機能も多いそうだ。
そんな数打てば当たる理論に命掛かっているのか……いやまあ、それしかないのだが。涙出そう。
「何かヒントとかねぇのかよ……」
「あるなら苦労はせん」
ですよねー。正直暴れだしたいくらい胃が痛いが、何度弾かれようと隣でかたかたやりまくっている奴を見て、錯乱する訳にもいかない。
「……あ、じゃあ管理者の方を変えて、新しくパスワードを設定……って、そっちの方が無茶か……」
思いついた時には名案だと思うが、言葉に出してみるとすぐに穴が見付かる。
一応、助けに来た筈なのに、俺、役立たずじゃん……聖女を戦闘不能にした時点で、嫌われてもソシ・レを引き摺って戻っていれば、こんなことにはならなかったんだろうな。
吐きそうになった溜め息を呑み込む。ソシ・レの気を散らす訳にもいかないしな。
と思っていたのに、翠の目と目が合って心臓が跳ねた。
「な、何だよ」
「……そもそも、貴様、どうやって侵入した」
「どうやってって」
普通、だったと思う。
俺は、図書館の入り口で死体を見付けてからここに来るまでのことを話し始めた。死体から入館証をパクっげふげふ借りた件では、絶対零度の視線を向けられたが、他は概ね真剣な眼差しのままだ。
「それで、シェルターに入る前に人形に」
「あれはこの施設の番人だ。壊せたのか」
「いや、ちゃんと認証されて通ってきたぜ」
「権限は」
「え?……ええと、よく覚えてないけど、一人で入る分にはいいみたいな?」
第三階層までか……何やら考え込んでいるソシ・レに、何を言っていいのかわからない。そもそもこれ、何の意味があるんだ?
「ユーザー登録されている心当たりは」
「あー……多分管理者が知り合い」
「…………ほう」
目が据わってますよソシ・レさん。思わず敬語になってしまうが、口には出さない。変に突っついて蛇を出したくないのは夜族も同じである。
「思い付く物を全て挙げろ」
「いや、そんな仲良くねぇし。しかも俺ならパスワードは大文字小文字数字混ぜるし……」
「他に方法があるか」
そう言われてしまえば黙るしかない。
深く息を吐く。でも、そうだな。馬鹿でも無駄でも、何もしないまま死ぬよりはずっとマシだろう。
やばいやばいと早鐘を打つ心臓には、もう少しだけ大人しくしてもらって、俺は口を開いた。
「サフィルス」
ぴっこん。エラー音が鳴る。
いや、流石にこれで認証されたらパスワードと言えないが、自分が言った言葉でエラー音を聞くと悪いことをした気分になる。
「次」
「小六」
「コロク。……違うな、次」
卜部、刀、武士、上ノ守国、どぶろく、雪……思い付く単語を片っ端から挙げてみたが、聞こえる音は同じものばかりだ。奴の考えることだから、東国方面に偏ると思ったが、違うのか?
オニユリ。ぴっこん。だろうな、次は……と思って、
「……オ、ニ、ユ、リ、で入れてみてくれ」
駄目元でしかないが、一応。ソシ・レが指を滑らすかたんと言う音。続く筈の音は聞こえず、代わりにこれまでとは違った画面が現れた。
数字のなくなった画面を見上げ、ソシ・レはぽつりと呟いた。
「意味は」
「えー……いや、その……ある奴の好きな花っていうか……」
奴の名前でもあるというか……もごもご言う俺に、何かを察したのか目を細めるソシ・レ。勿論、そこに籠められているのは好意的なものではない。
俺だって嫌だ。いくら死ぬよりマシとはいえ、何が悲しくて他人の甘ったるい感情で命拾わなくてはいけないのか。つか、こんな重要な場面のパスワードに、んなパスワード付けんなよ脳内お花畑。
「吸血鬼とは本当に救えんな」
同意する。しかし、完全に他人事ではない俺は何も言わずに目を逸らした。




