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悪魔が逃げたことに、向こうも気付いたらしい。
聖女に押されながらもどこか余裕を持っているように見えた餓鬼の顔色が変わる。
「どこだ悪魔!僕はまだ望みを……っ!」
うん、馬鹿だろお前。餓鬼の細腕を、更に細いスティレットが貫いていた。格上相手に余所見なんかするからそうなるのだ。まあ、既にあちこち傷だらけではあったが。
聖女の力なら、刺突に特化した剣でも肉くらい引き千切れる。半分ほど露出した腕の断面。そこを結ぶ細い糸は、血の糸か神経かと言われれば間違いなく血液なのだが。あ、切れた。
それにしても、この空間の腕取れ率は高いなぁ。今日だけで言うなら、トップは間違いなく聖女である。いやまあ、一般的に人型と呼ばれる連中に腕は二本しかないが。
取れた回数を通算で考えると笑えなくなるので、これ以上考えるのは止めておこう。俺の精神衛生の為に。
あの餓鬼は、一体どういう契約をしたのだろうな。断罪者なら、一般人と比べて悪魔という種族に詳しい筈である。決して嘘は吐かず、けれども全力で騙してくる夜族だ。
それを知っていて契約を結んだのだから、相当綿密な契約を考えたのかと思えば、この状況である。
そういえば、何も言われていないから加勢しない的なことを言っていたか?断定はできないが、案外本心だったのかもしれないな。どちらにしても、杜撰な契約であることは間違いない。
悪魔に何かやらせるつもりなら、そこまで言う必要があるのか?と思うくらいに一つ一つ言わないと、足元を掬われるぞ。それに関しては実感しているだろうが。
「なあ、あいつら放っておいてもう戻ろうぜ」
「勝手に戻れ。私は用がある」
ですよねー。状況が良くなってきたら、やはり面倒臭くなってきた。で、駄目元で提案してみれば、案の定これである。
傷を塞いだからといって、安静にしなくていい訳ではない。流れた血は元に戻らないのだ。
しかもこいつ草食だからな。味からして薄くはないのだろうが、あまり血液量が多そうには見えない。鉄分摂れよ。
海藻は食えるのかなー。森出身だからどうだろう。なら豆食え豆、もしくは緑が濃い系の葉野菜。パセリなんかもお勧め……と思ったら、別の緑色が皿の上に乗っている想像をしてしまい、思わず遠い目をした。
……そういえば、小人は大丈夫なのだろうか。悪魔は俺と同じように昇降装置で来たが、シェルター内は結構入り組んでいたので別の入口から来た可能性もある。
何かやたら物騒なことを言っていた気がするが、悪魔は特に怪我をしている様子はなかった。まあ、会わなかった、もしくは隠れていた、と考えていいか。
完全に部外者の気分で断罪者共の殺し合いを見ていると、餓鬼がこちらに向かってくる。何あいつ、巻き込む気?
下げさせようとしたって、どうせソシ・レは退かないだろう。仕方ない。俺が一歩前に出ることで、ソシ・レを背中側にする。
餓鬼を追う聖女が、すっげーイイ顔になったのを見てげんなりした。獲物が固まっていると思ったんだろうなぁ。
何本かの氷の槍が現れた。それらの切っ先は全てこちらに向かっている。走りながらこれだけ出せるとは流石。
だが、まあ。正直、全く焦る必要はなかった。何故って、後ろで呆れた溜め息を吐いている奴が居るんだぜ?相手が悪いにも程があるだろ。
森の民、エルフ。
連中の精霊術は、人間のそれを凌駕する。
宙に浮く氷が動き出す前に、その尖端が震えた。照準が付けられなくなったそれは、ぐるりと反転し静止。そして真っ直ぐ動き出した――断罪者達の方へ。
餓鬼と聖女の唇が奇妙に歪む。あ、餓鬼の表情に見覚えがあると思ったのはこれか。確かに表情は動いているのに、感情の篭らない人形の顔。聖女と似ている。
飛んできた氷の槍を慌てて躱そうとする餓鬼。その奥に居た聖女は、身体能力もあってかすり傷程度だが、餓鬼の方は見事に肩に刺さった。無事な方の腕に刺さればもっと良かったのだが、贅沢は言うまい。
つか、相手が出した精霊術をこんな風に使える奴なんか久しぶりに見た。
事象が具現化した段階で、ある程度術者の干渉がなくなっているとはいえ、具現化時の条件付けを無理矢理変えるのは難しいと聞いたけどな。
今回であれば、俺達に向かって飛ぶ、というものであったのだろうが、結果はご覧の通り。真っ直ぐ飛ぶ、という条件は残して方向だけ変えるにしても、それなりの技術は必要らしい。
精霊術は得意だが、こいつの職業は一応教師である。基本的には攻撃に使うことのない引きこもりだ。しかも、貧血気味でそんなことができるのだから、そこらの精霊術士とか涙目なんじゃないのだろうか。これだから種族チートは。
まあ、それに関して俺は他人のことを言えないか。そこらの吸血鬼を圧倒する半吸血鬼も、十分に規格外である。
不幸中の幸いというやつだが、そもそも不幸がなければ必要のないものであることは間違いない。だから俺はセレネに恩を着ること等絶対にない。以上。
五体不満足が悪化してきた餓鬼の動きが鈍る。次の手を考えているのだろうが、まあ、待ってやる義理はないよな。
聖女の方に突き飛ばす。軽い身体は簡単に簡単に浮き、笑顔で片腕を広げる聖女の胸に抱き留められた。
「ルイ」
「…………聖女様」
まるで、宗教画のように美しい光景だった。
微笑むのは白の聖女。聖女程白くはないが、割りと薄い色合いの餓鬼は、さしずめ使徒とか天使とかそういう類いだろうか。
腕ないし血塗れだし物騒な物持ってるし、と考えるとあれだが、これだけ綺麗なら寧ろ演出に思えてくるから不思議だ。
一生そのままで居れば、目の保養になりこそすれ誰にも迷惑はかからないのになぁ。
世界なんて、そんなに綺麗な物では、ない。
餓鬼の背中を回った聖女の手が、その頬に触れる。白い指先が撫でると頬の傷から溢れて固まった血がはらはらと落ち、白い頬が露になった。
「ルイ、貴方は裏切りました」
無駄に厳かな聖女の声。
「神を裏切りました。バース教を裏切りました。仲間を裏切りました。そして、私を裏切りました」
聖女の言葉に小首を傾げる。言っている内容については、まあ狂信者の戯言と考えればいいとして、何か違和感がある。
「私は貴方を粛清せねばなりません」
まただ。何だろう……ん?ああ、そうか。
そして、なんて勿体振った言い方をしたのに、結局言ったのは自分のこと。聞きようによっては神よりも自身を上位に置いたとも取れるそれは、聖女に相応しくない、というか、らしくない言い方なのだ。
とは言うものの、その行動は正しく聖女。幼子を撫でるように優しく触れていた指先は、外れぬよう肉に食い込ませ、骨に引っ掻けている。
どうにか拘束を外そうと餓鬼も暴れているが、聖女の細腕一本に封じられている辺り、無駄な足掻きでしかない。夜族に対して力尽くで来る奴だぞ?常識で考えろ。
そうすると精霊術しかないのだが、肩が潰された方の手は、どれくらい動かせるんだろうな。痛みだってそれなりにある中で、どれだけ集中できるのやら。
それでも、聖女の後ろ側に火球が形成されていくのが見えた。だが、小さい。聖女の頭を燃やし尽くすつもりなら、もっと大きなものでないと。
「ルイ」
聖女が名前を呼ぶ。
はらりと溢れたのは。
「ねえ、さ」
ごぎり。
小さな火球は、爆ぜることなく宙に融けた。




