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「何で、血をやらなかったんだ?」
金の髪を手櫛で梳いていると、赤毛が声を掛けてきた。
するすると通っていたが、僅かに引っ掛かる感触。毛先を見れば、血で固まっていた。これは水を用意しないと駄目だな。
「化け物にした方が良かったって?」
「……そうは、言っていない」
顔も見ずに答えれば、固い声が返ってくる。この結果を間違っているとは思わないが、感情が追い付かないといったところか。
……もしかしたら。もしかしたら、本当に夜族になったとしても、見逃すつもりだったのかもしれない。
俺と契約しようとするような奴だ。人間に害を与えるつもりもない夜族まで狩ろうとする人間ではない。いやまあ、俺も喰うことは喰っているが。殺していないだけで。
生まれついての夜族と、元人間の思考は違う。勿論、本人の性格もあるのだろうが、育ってきた環境や常識というものに引き摺られるのだ。
しかし、全くそのままとも言えない。原因が流れる血か溢れる力かはわからないが、人間の時には考えもしなかったことができるようになるのだ。
まあ、人間の時と同じ感覚ではすぐに飢え死にしてしまうので、生存本能が働いているのだろう。俺は人間的な物がぶっ壊れるだけだと思っているが。
それでも、単なる金儲けの手段として"夜狩り"になった俺より、余程ミナの方が信用できただろう。
不安があるなら、ホワイトが監視すれば良かったのだ。生気なら狩る夜族から奪い、手頃なのが居なければホワイトが与える。夜族の本能のままに人間を襲おうとするのであれば、その時に殺せばいい。
……きっと、一番良かったのはそれだったのだろう。ミナは仇を討つ機会が与えられ、ホワイトは知り合いの死を見なくても済んだ。だが、それはもしもの話だ。可能性の話はあくまでも想像の話だ。
そして、そのもしも、俺達の前には転がっていなかった。
ただ、それだけのこと。
「言っただろう。無理だって」
治療の際に破いてしまった衣服を整える。どっちにしろホワイトの外套で包むとはいえ、死者を辱める趣味はない。
ミナの死体を抱き起こした。死語硬直が始まっていない身体は、ぐらぐらと不安定だ。
何となく赤子を思い出す。ふにゃふにゃでぐにゃぐにゃの命。目の前の死体とは真逆なのに、あれもまた重かった。
「落とすなよ」
「当たり前だろ」
受け取った肉体を、軽々と抱き直すホワイト。俺だって別に持てない訳ではないが、仕方ないだろう。
いくら筋力があっても、体格というものはどうにもならないのだ。落とさないように力を入れて、死体を砕いてしまったら意味がない。
悪魔が戻ってくるとは考えがたいが、何が起こるかはわからない。手が塞がっているホワイトの前を俺が行くのが道理だ。
血の臭いが濃く残る部屋を出て、俺は階段を上り始めた。
「半吸血鬼の血に、吸血鬼化させる力はないって知ってるか」
後ろから着いてくる足音が止まった。
半身で振り向けば、赤毛が間抜けな顔をしているのが見えた。お前の口に埃が入ろうが知ったことじゃねぇが、ミナを落としたら殴るぞ。
「……そうなのか?」
「"夜狩り"でも知らねぇのか」
一般人の吸血鬼観はとんでもないものだが、"夜狩り"ギルドには正しい情報が出回っている。
調査中であったり少数派に対応してないものもある為、基本的には、と付くが、生態に関しては概ね合っていた筈だ。
俺も見たことはあるが、既に自分が知っている内容ばかりだったのでよく覚えていない。
前を向いて足を動かす。今度は着いてきたので、そのまま歩き続けた。
「半吸血鬼は情報が少ない」
「まあ、奴隷だしな。あまり表には出ない」
ただでさえ弱いのに、餌もまともに与えられないから、力が付かない。下手に力を付けられて反抗されても困るからだ。
狩りに出されることも少ない。返り討ちに合う可能性が高く、また、支配されてもまだ反逆心を持つ気力があるような奴なら、摘まみ喰いや脱走の危険もある。
表に出てくるとしたら……そうだな。根城を襲われた吸血鬼が、捨て駒として使う時くらいか?その場合文字通り必死なので、悠長にお喋りをしている余裕はないだろうし。
……いや。そもそも、自分達が同族を作れるかどうかも知らないだろう。自分の境遇を考えれば、普通やろうと思わない。
したところで、元人間だからわからないという可能性も高いのだ。何せ自分の"夜の血"も知らない連中だ。
「俺だって、言われるまで知らなかったしな」
「吸血鬼化か?」
「ああ。やり方間違えてるだけだと思ってた」
会話が途切れた。ブーツの底が鳴る音だけが、規則正しく響く。
平静は装っているが。結構自分が不安定になっているのはわかっている。
なら、何故わざわざ自分から言っているのだろう、と考えれば、思い当たる節は幾つかある。例えば言い訳。例えば戒め。例えば懺悔。どれにせよ、自分の為の言葉なのは間違いない。
「……同族に、したい奴が居たのか」
ぱちり。予想外の言葉が返ってきて、思わず瞬きをした。そして胸中で繰り返す。同族にしたい奴が居たのか。
言葉を認識すると同時に、唇が吊り上がったのがわかった。
「まさか」
寧ろ逆だ。化け物にしたいだなんて思ったことはない。そもそも、彼女が俺と同じものになるなんて思ったこともなかった。
確かに、嫌われても憎まれても、決して許されなくても、化け物にしてやろうと思った。
だがそれは、化け物にしたかった訳ではない。それしか方法がないと思っていたからだ。それに、例え夜族になったとしても、彼女は俺の同族ではなかっただろう。
これも、所詮は想像の話だ。
彼女は夜族にならなかった。
そもそも俺には、そんな選択肢等初めから用意されていなかったのだ。
「俺が吸血鬼の生態で一番理解できないのはな、ホワイト。愛する者を同じ化け物にしたい、だ」
俺は、化け物になんてなりたくなかったと、ずっと思っている。それこそ何百年も前からだ。
人間を辞めたくなかった。生き血を啜ることに恍惚を感じ、弱者を虐殺することに何の感慨も覚えない生き物にはなりたくなかった。
けれど、あの時はそうではなかったのだ。自分の無力さを痛感したあの時だけは。
俺はどうして吸血鬼ではないのだ、と。心の底から叫んだ言葉には、何の意味もない。




