56
ひゅう、と。
息を呑むような小さな音が聞こえた。
「ぁ」
小さな喘ぎが、薄い唇から漏れ。
端から溢れるのは紅い――
「ミナは失敗しちゃったねぇえ?」
ミナが倒れるのと、室内に聞き覚えのない声が響くのは同時だった。
視界ではホワイトがミナに寄るのが見える。俺は、倒れたミナの向こう側……地下室の入り口に居た人影から視線を外さない。
お約束通りとも言っていい美形だ。蜂蜜のような金の巻き毛、垂れ目がちの碧眼。着ているものはシャツにズボンと平凡だが、柔和に見える甘い顔立ちを隠すようなものではない。
美形だ。しかし、ちぐはぐな印象がある。靴下の表裏を間違えたような、気付いたとしても最悪放っておけるような違和感。
いつも通り回る頭に、どんどん濃くなる芳しい匂い。
こくり。唾を呑み込んだ音が響いた気がした。
「そっちの赤いのと一緒に、殺しちゃえば良かったのにぃ。何でのんびりお話してるかなぁあ?」
「お前が『彼』か」
「そうだよぉお?そして君は『血塗れの薔薇』だよねぇえ?」
にっこりと笑う男――悪魔。その顔には邪気の欠片もない。それはそうだ。紛い物だからな。
下手な奴が変化をするとこうなるのだ。表面上だけ取り繕うとするから、角度や表情によって、元の存在との齟齬が大きくなる。
人間を見慣れている俺からすれば、苛々するくらいお粗末な出来だ。無表情キャラでも演じていた方がまだマシなのに。
「はじめましてぇ。僕は一万と二十五番目の悪魔だよぉ。よろしくねぇえ?」
「悪魔史上最も間抜けな死に方をしたくなければ、その頭の悪い喋り方を今すぐ止めろ」
「その言い方は狡いよねぇえ?どっちにしても殺す気じゃないかぁ」
にこにこにこ。悪魔の笑みは変わらない。
一万二十五番目というのは、悪魔の産まれた順番であり、名前みたいなものである。契約の上に存在する連中にとって、被る可能性のある名前より、番号の方が都合がいいかららしい。
それでも、名前に対する憧れというものは持ち合わせているという。歴史上何度も出てくるような悪魔は、気に入った契約者に付けられた名前を大事にしているのだ。まあ、同じ名前の別悪魔がうじゃうじゃいる可能性もあるが。
悪魔にとって名前とは、付けるものではなく付けられるもの。なら、自分達で付け合えばいいじゃないかアホかと言ったら、笑いながら嫌みを言われたことがあった。
どうせ、相手が悪魔だと名前に変な契約を仕込まれるとかそんな理由だろ。その悪魔は名前を付けられたがっていたが、俺の知る限りその機会は訪れなかった。ざまあ。
……そう。その機会は来なかった。あの悪魔が名前を乞うた女は、死んだ。殺された。そして殺したのは。
「楽に死なせてやるから、大人しく俺の問いに答えな。悪魔」
「えぇえ?そんな代償じゃ嫌だなぁ。ちなみになぁにぃい?」
「ミナの仇の名前」
きょとり、と目を丸くした悪魔は、まるで小鳥のように首を傾げた。言葉の意味を考えているような、そもそも理由があって傾げたとも言えないような、そんな仕草にも見える。
そして、悪魔は何度か瞬きをし――
「教えてあげなぁいぃ!」
にっこり笑ったかと思えば、背中を向けて駆け出した。
「逃がすか……!」
「ブラッディローズ!」
無視をするには、悲痛な叫び。
視線を向けた先では、ミナを横向きに寝かせるよう支えたホワイトの姿があった。
奴の視線は、決して逸らされることなく俺を射抜く。
「傷を塞げ。俺は治癒術を掛ける」
「俺に何のメリットがある」
寧ろ、この会話すら無駄だ。
俺はあの悪魔を追わなければ。
あの悪魔は『教えてあげない』と言った。『知らない』ではない。言わなかっただけで本当に知らない可能性もあるが、問い詰めるには十分な理由だ。
悪魔は嘘を吐けない。教えてやらないと言うことはそのままの意味だ。了解、なら教えてもらう必要はない。
力ずくで全ての情報を吐き出させてやればいい。この程度の屁理屈は悪魔が使う手口だ。通用するのはわかっている。
俺の考えが正しいのであれば、あの悪魔は、俺の獲物を知っている。
そしてそれは、ずっと、ずっと、ずっとずうっと前から、ミナが探し始めたそれこそずっと前から、俺は探していたのだ。
殺す。殺す殺す絶対に。
その手掛かりになる可能性のある悪魔と、俺を殺そうとする人間。優先順位は明白だ。
「死ぬぞ」
「それが?」
ぎらぎらと。燃えるような瞳の奥底は、酷く冷たい。
けれど、それだけだ。多少好みな目玉だとしても、それは俺が助けなければ理由にはならない。
俺の心を動かすのは唯一人だ。昔も、今も、これからも、ずっと。
月光のような白金色の髪も、吊り気味の目も、さらさらと気持ちのいい唇も。
全部覚えている。不規則な生活をしているのに驚く程美しい体型を持っていて。そして、そんな容姿以上に美しいのは、強い、心。――あ。
気付いて、しまった。じわじわと広がる紅が、ミナを覆っていく。美しい女を、鮮血は色鮮やかに染めていく。
それは命の色だ。美しい。涙が溢れそうなくらいに。
足を動かす。そうだ、追わなければ。ずっと探してきた、俺の生きる意味だ。
これを逃したら、今度はいつ近付けるのかわからない。鎖から解き放たれた獣のように、本能のまま暴れているような奴なのに、いつもいつも逃げられる。
どうして。俺があの男を見たのは、望みもしなかった最初だけ。どうして。何人もの人間や夜族が殺された噂は聞くのに、俺の前には出てこない。
地上への扉はすぐ側だ。歩いたとしても、二十歩も掛からない。歩く?走ればいいじゃないか。追いかけなければいけないのだから。
なのに。
何で、俺は血塗れの女の傍らに跪いているんだ。
服を破く。露になった肌も紅く、その白さは想像するしかない。
滑らかな輪郭を持つ背中に、無作法に刺さる短剣。それとの接触面である肌の僅かにへこんだ部分からは、体内に留めておけなくなった血液が行き場を求めて溢れている。
ホワイトに視線を向ければ、小さく頷かれた。それを見た俺は、短剣と肌の境に舌を伸ばす。舌先から伝わる甘美な味には、気付かない振りをして。
生気をたっぷり含ませた唾液を、傷口から注ぎ込む。俺の役割は、あくまで治癒術の補助だ吸血痕程度ならまだしも、致命傷には気休めにしかならない。
細胞の蠢く音が聞こえる。傷を塞がなくてはいけないとは言え、治癒術が対象者に与える負担は少ないものではない。
それは、術者が未熟であればある程顕著なものになる。ホワイトのせいではない。寧ろ精霊術に優れた上で、ある程度実用に耐えうる治癒術が使える人間の方が稀なのだ。
しかし今のミナにとっては、諸刃の剣。
短剣を少しずつ引き抜いていく。その際、舌を切ったのか、ぴりりとした痛みが走った。
悪魔が使ったので当たり前だが、銀ではなくて助かった。この状況で銀傷なんて勘弁してほしい。
石の床に短剣を転がした頃には、ホワイトが肩で息をしていた。俺も息が乱れている自覚はある。
時間がどれくらい経ったのかはわからないが、それ以上に治癒を行ったことによる消耗と、精神的な疲労が大きい。
傷口は塞がった。短剣が埋まっていた跡は、僅かに柔らかい皮膚に覆われ、一見何の怪我もないように見える。
けれど。
「俺は悪魔を追う」
お前は好きにしろ、と言おうと思って止めた。そんな暇があるなら、悪魔を追わなければ。正直、もう近くに居ない可能性の方が高いが。
死んではいない。傷は塞がった。もう、あの身体から流れる血はない。けれど。
血の臭いが充満する部屋を出て、階段を駆け上がる。
血が流れ過ぎれば死ぬのだ。夜族も、人間も。




