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「だから、俺のこと忘れるなって」
黒い背中が、目の前に立ち塞がった。
赤い髪と外套の間から覗く首は、女のように白くも細くもない。
「……退いて、クリム」
「なら剣を納めろ、ミナ」
男の体が邪魔をして、女の表情は見えない。しかし、聞こえてくる声は感情を押し殺そうとしたように震えている。
「あなたならわかる筈よ」
「わかるさ。だから言っている」
「あなただって仇を取ったんでしょう!」
「こいつが居たからだ」
そうでなければ、自分が出した炎に焼かれて無駄死にしていただろうよ。
赤い。赤い髪。赤い炎。
赤い。赤い、目。
「クリム、あなたは"夜狩り"でしょう。夜族を庇うつもり」
「俺が庇ってんのはこいつじゃねぇよ。ミナ、俺……はっ……ぁ!」
男の首に噛み付いた。
紅く、温かい体液に含まれるのは生気だ。夜族の糧。命を繋ぐもの。
一口吸う毎に、身体中に生気が巡った。力強く流れ込んだ生気は、銀の波動にさえ抗う。
「はっ……ちょ、おま……ぇ……ひっ」
こちらに振り向こうとした頭は、中途半端な位置で止まった。
無理矢理捻った肉を、差し込んだままの牙が抉ったのだろう。それが痛みか快楽かは知らない。とりあえず宥めるように頬を撫でる。
初めて会った時には、すぐ目の前にあった首だ。
それが、いつの間にか背伸びをしなくては届かなくなった。支えにする背中は広く、牙を立てる首は太く固く。
そして。
「相変わらずクソまじー……」
「……ったら、吸うな……!」
質は最悪だが、若さはそれだけで価値がある。先程に比べれば身体が軽くなった。軽くなったが。
この口内に今も留まる不快極まりない味は何とかならないだろうか。喉も何か引っ掛かっているような違和感がある。気持ち悪ぃ……。
はあ、と大きく息を吐いた。直撃したホワイトが肩を跳ねさせたが、知ったことか。
眉を顰めたまま、舌を伸ばす。舌先が触れた瞬間、またもや赤毛が動いたが、肩を掴むことで止めさせた。無駄な手間かけさせんじゃねぇよ。
「う……っく……」
舌先に感じる不味さに堪えながら、唾液を塗り込む。ぴちゃぴちゃ、と湿った音。息を殺そうとするホワイトの声が近い。
生気を送り込みながら暫く舐めていれば、出血どころか、吸血痕さえ見当たらないもち肌の完成である。流石俺、完璧。
「やっぱり不味い。あー不味い」
溜め息混じりの感想を呟いた瞬間、襟首を掴まれた。
皺が寄るから止めろ。抗議の視線を向けても、赤毛は気付かない。つか、気付いてないのか?
「いきなり何しやがる……!」
「完全食事気分の俺の前に出てくる方が悪い」
舌の上には甘美な味を想像していたのに、実際喰えたのはゲロ不味血液とか。
寧ろ文句を言いたいのは俺の方である。ふん、と鼻を鳴らせば、目の前の唇が歪んだ。
「ふ、ざ、け、ん、な」
「ちったぁ摂生しろよ色餓鬼。こんだけ不味けりゃ手遅れだろうが」
「……手遅れなのか」
おや。ぱちぱちと瞬きをする。何が引っ掛かったのかは知らないが、いきなりトーンダウンしたぞ。心なしか伏せられた睫毛は、男の癖に長い。見たことはある筈だが、初めて知った。
まあ、それは置いておくとして。
黒い外套に包まれた肩を掴んで反転させる。意識せずに戻していたナイフを空いた手に戻して、小休止は終了である。
目を丸くしているミナに見せ付けるように、目の前の首に刃を沿わせた。
「さて、仲間の命が惜しければ剣を捨てな」
「……えぇと、全く説得力がないのだけど」
ミナは困ったように眉尻を下げている。
弟が吸血死させられたらしいので、心穏やかではいられないと思っていたが……意外と冷静だ。
というか、状況が掴めていないのだろう。俺だって、まさかこのタイミングでホワイトの首に噛み付くとは思わなかった。俺、そこまで腹ぺこキャラではない筈なのだが……あれ?
「でも、赤毛もろとも攻撃してこなかったってことは、そういうことだろ?」
なるべく無邪気に見えるように、にっこりと笑う。
やってから、この状況だと逆効果かと慌てたが、杞憂だったようだ。ほっ。
腹が満ちたからか、先程までの強烈な吸血衝動は収まっている。……違うな。あれは喰いたいのではなく、支配したかったのだ。心も命も、それらの器である血肉を蹂躙し、俺を絶対の強者と認識させて、俺だけのものに。
その根っこにあるものが愛なのか逃避なのかは、多分、気付いたら死にたくなるので考えないことにする。
「……何で、途中で止めたの。そんなにクリムの血は美味しくないの?」
「おい」
「滅茶苦茶不味い」
しかも何があれって、こいつの場合は四年前から既に不味い。その癖、ずっと初恋を引き摺ってたとか聞いた時には何の冗談かと思った。無論、汚物を見る目を向けてやったものだ。
「何、干からびるまで吸った方が良かった?なら、理性を失う程美味い奴連れて来てくれ。そうでなけりゃ、そんな面倒なことしたくない」
「……"子供狩り"の時は、何千人も吸血死させたらしいじゃない」
「そりゃまあ、喰う為に喰ってたからな。生きる為に喰うなら、そんな要らねー」
それこそその時に喰いまくったのだから、五十年くらいは吸血しなくても生きていける。怪我したり、能力を使ったりしなければな。
なら何故ちょくちょく吸血をしているのかと言えば、腹が減るからだ。
矛盾していると思う奴も居るだろう。だが、よく考えて欲しい。
自分のことを表すのにこの例えは甚だ遺憾だが、最もこれがわかりやすいだろう。
だから問おう。
デブは腹が減らないのか?
そんな訳がない。寧ろ肥満体程、既に必要なカロリーを摂取していても、空腹を感じている筈だ。食べた気がしないと言うやつだ。
また、逆に痩せている人間は常に腹を空かせている、と言われても、納得はできないだろう。
空腹とは、エネルギーの総量に対する割合で引き起こされる事象ではないのだ。生気を水に例えるなら、人それぞれが持つコップの分汲み出したら空腹になるというか……そんな感じ?
とはいえ、飢餓状態になるのは話が変わる。あちらは生物の本能の為、ボーダーラインは大体似たり寄ったりになる筈だ。
「ここ数十年、吸血死させる程餓えてた覚えはないんだが」
過剰なカロリーは、脂肪として蓄積され、エネルギー源として利用される。
しかし、大量のエネルギーを溜め込んでいても、それを自分の意思で自由に引き出せないのも知っていると思う。
生気もそんなものだ。もしもの時の生命維持が消費される時とは、火事場の馬鹿力と言うか、後のことを無視した力が発揮される。
まあ、基本生気を温存しようとする夜族がそこまで追い詰められる場合は、本当にヤバい時だ。
そこまでいけば、残さず吸い尽くすこともあるだろうが、人間相手にそのような状況になることは少ない。そして、先程も言ったように、ここ数十年、そんな記憶はない。
理性を失う程美味かったとか?いや、それなら流石に覚えている。
「もしかして弟、大陸教関係者……断罪者か?流石に、本気で殺そうとしてきた奴を返り討ちにして恨まれるのは納得いかないんだが」
「クインシーはそんな子ではないわ!殺されるようなことなんて、あの子にはできない!」
「でも"夜狩り"だったんだろ?」
「あの子はまだ」
「そのことなんだがな」
ずっとナイフを当てたままだったホワイトが口を開く。こんなに近かったのに、あまりに空気過ぎて忘れていた。
「人質に人権を許した覚えはないが?」
「せめて発言権と言え。……いや、話は聞いて欲しいんだが」
何だか歯切れの悪い言い方だ。この状態でわざわざ言おうとするのだから、何か理由があるのだろうが……どうでもいいことだったら、ちょっと刺そう。
「で?」
「ブラッディローズ。お前、ミナの弟を見たことあるか」
「だから覚えてねぇっつってんだろうが」
「ミナ、写真」
ホワイトの顔は見えないが、ミナに視線を向けているようである。
「それが何なの?」
「そこで見せればいい。こいつが動くのなら俺が止める」
テメェじゃ止められねぇよ。とは思ったが、それを言うと拗れることは間違いない。
何か考えがあると言うのなら、まあ、多少は様子を見てもいい。
怪訝そうな顔をしたミナは、暫く動かなかった。やがてこちらを伺いながらも、首に掛けた……先程のロケットを取り出した。
かちり、とロケットが音を立てる。中身を見たミナは目を細めた。それは一瞬。開かれたロケットを、こちらに向けた。
この程度の距離なら、小さな写真でもわかる。
写っているのは二人。薄い金の髪に青い瞳。似た色合いの二人は、顔も似ている。
右側で笑っているのがミナだろう。この頃は髪が短かったのか。
今より僅かに丸みのある頬が、まだ少女の面影を残すように可愛らしい。つまり、左側が――
「……えぇと……これ、いつの写真?」
「……クインシーが殺される、三ヶ月前に撮ったものよ」
三ヶ月前、か。微妙だ。
男というものは成長期になるとにょきにょき伸びるものだし、顔が与える印象は大きい。ある意味似たような男が目の前にいるし。
そうだ、落ち着け俺。まだ確定ではない。
「ちなみに、弟って何才」
「……私と九つ違いだから、十三才だったわ」
それが何。と続く言葉に遠い目をした。
ホワイトの言いたいことがわかった。成る程、そういうことか。
それにしても、結構年が離れてたんだな……いやぁ、それは気付かなかった。勿論現実逃避である。
写真の中では、少女と見紛うばかりの美少年が不貞腐れていた。




