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結果的には、よくわからなかった。
何分傷みが酷い。これでは、切り傷があったとしてもわかる訳もない。
直接触ってはいないといえ、悪臭に堪え、腐肉を動かし、蠢く虫を直視した結果がこれか……心が折れそうになる。
魔猪の骨格には詳しくないが、残った骨も特に足りなかったり折れているものはないように見えた。
そもそも、そんな怪我があったとして、西の森からここまで来るのか、という話だ。体力もそうだが、魔猪の知能ってどれくらいよ?
毛皮を摘まんで見たら、裏側に虫がびっしり居るのを見て、思わず手を離してしまった。ばふりと舞うのは黒い虫。ひ!こっち来んなって!
そんな訳で、魔猪の死骸からは収穫なしである。強いてあげるなら、多少不審な点があるのと、死んでからある程度経っているということくらいか。
最近天気が良かったからなぁ、とぼんやり考えながら、手袋をざぶざぶ洗う。洗う。洗う。
普通の手袋に比べれば丈夫ではあるが、消耗品には違いない。しかし、割り切ってはいるがこれが最後の一組である。オパリオスに行くまでは何としてでも保たせたい。
「後は村に戻ってからだな」
魔獣の革は、加工が面倒な分ずっと丈夫だ。マシューの家に置いてきた荷物の中には、革用の石鹸もある。
常日頃からしっかり油を馴染ませていたので、汚れが染みなくて助かった。面倒臭がりな俺だが、やる時はやるのだ。
……いやまあ、取り扱い説明という名の説教を食らわなければやらなかっただろうが。
一応パトロンに当たる筈なのに、あの餓鬼、俺の扱いが酷い。最初はまあ、可愛かったんだ。最初はな……!
とはいえ、着実に腕は上がっているし、ある程度融通が効くので、急ぎでなければあれ以外に頼む気にはならないが。
だが、行ったらまた手袋の扱いについて言われるんだろうな……面倒くせー……。
洗い終わった手袋を適当に掴んで、俺は魔猪探しを始めた。
今度は生態調査ではなく、獲物探しである。午前中が雌だったということで、今度は雄を狩ることにした。
これは牙折れ魔猪について調べる為で、村長とマシューからも了承を得ている。
村には生物学の専門家は居ないが、肉を狩るくらいしか関わることのない俺よりは詳しいだろう。
昨日のとこれから狩るので三頭。一応は比較できる筈だ。
とりあえず、目の前の一頭からだな。
「たらいまー」
「お帰りなさい、ショーさん」
一人で戻ってきた俺を、フレアさんは笑顔で迎えてくれた。マシューは村長や解体係と話し合い中である。
実際に森を見たのは俺なので、初めは話し合いに参加していたのだが、牙の折れ具合や魔猪の年齢の話になるともう着いていけない。
理解しようとはしたがぽかーんとしている俺に気付いたマシュー達は、苦笑しながら戻っていいと促した。その際、何故か飴玉を握らされたのだが、俺は大人の話に混ざりたがる子供か……!
怒りを抑え、すぐに包み紙を剥がした。鼈甲飴だった。甘い。美味い。飴に免じて許してやろう。
という訳で一人先に戻ってきたので、さっさと手袋を洗おう。
「あ、ショーさんこれ」
「んー?……あ。ありがとう」
思い出したようにタオルを渡され、俺も思い出した。飴を噛み砕き、フレアさんに礼を言う。
そういえば居るんだったか。まあ、今も居るかは知らないが、大人しくしているのなら別にどうでもいい。また餓鬼共の玩具にされているなら、笑って放置するが。
階段を上がり、部屋の前で止まる。物音は聞こえない。俺は一度深呼吸をすると、そっと部屋のドアを開いた。
隙間からするりと抜け出るかと足元に視線を向けるが、その様子はない。
出ていった時と同じマシューの部屋だ。桶もハンカチも使われた様子もなく、同じ場所にある。違うのは唯一つ。人形がないことだけだ。
窓の鍵を確かめたが、ちゃんと下りている。この形は開けるのも閉めるのも難しくないので一応、ではあるが。
さて、どうするか。壁に背を預けながら考える。とりあえず居るか居ないかだけでも把握したい。テカテカしてかさかさ動く奴のように、一度居ると思ってしまったら、止めを刺すまで安心できない理屈に近いかもしれない。
「出てこい」
腕を組んで呼び掛ける。態度が悪いのはわざとだ。べ、別にこんな態度しか取れないって訳じゃないんだからな!
部屋のあちこちに視線を滑らせたが、動くものは見付からない。
「出てこい」
再度の呼び掛けにも返ってくるものはない。もしかして本当に居ないのか?
もう一度呼んで、現れなかったら諦めるか。
「五数える前に出てこなかったら、服剥いて餓鬼共に引き渡す。五四三」
にぃ、と口が動いたところで、緑色が視界に入った。居るじゃねぇか。
焦点を合わせる。瞼に隠されていた、濃い茶色の目が、
――私の薔薇。"血塗れの薔薇"
淡い金の輪郭を持つ白金色の髪。
青白い肌は、まるで死人のよう。
吊り上げられた薄い唇が開かれるのを見て、耳を塞いだ。
俺は知っている。その言葉を。
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!!
頭の中から聞こえる言葉は、何年経っても俺の心を壊そうとするのだ。
「目が赤かったな。もしかして、半吸血鬼?」
ごおごおごおごお。血管を、血の流れる音が聞こえる。どくりどくり。これは脈打つ音。俺の身体の中の音。
「それなら主人も近くに居るのかな。……うーん、それは少し、困るかもしれない」
無理矢理押さえた耳には痛痒感。血の巡りが悪くなった為だろう、掌の中の温度は少し冷たい。
「……ああ、でも。半吸血鬼ではなく"吸血鬼の子"という可能性も」
「やってくれたな……人形が」
のこのこと顔の近くまでやってきた人形を掴む。腕を巻き込んだが、首から腿まですっかり覆えた。
「三秒くれてやる。祈れ」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待っ」
「時間だ」
「悪かった!悪かったってば!」
指に力を入れれば、蛙の鳴き声のような呻きが上がった。色といい妙な湿り気といい、本当に蛙を握っている気がしてきた。気色悪い。
……じっとりと嫌な汗を掻いている。掌と、背中。間違いなく原因は先程のあれだろう。
「流石は妖精との違いは夜族か亜人かだけと言われる小人。嫌がらせも夜族レベルってか」
「羽根の有無もあるよ!」
「お前に、発言を許した覚えは、ないが?」
自分でも驚くくらいに感情のない声だ。内心で荒れに荒れている感情を抑えようとしたのが、全て言葉に現れたというべきか。
正直、まだ血は引いているのだろう。握る指にどれだけの力が入っているのか、認識できていないのだ。先程から心臓は、いつも以上に働き続けている。
俺の言葉に、叫んでいた小人はぴたりと口を噤んだ。しかし、何かを言いたそうに口を開いては閉じ、視線はあちこちに移る。不審この上ない。
「……本当に、ごめん」
君は私を助けてくれたのに。
呟かれた言葉は小さい。吸血鬼の聴覚でなければ、聞き取れなかっただろう声は震えていた。
小人の吐いた息が親指に掛かる。瞼がぎゅうっと固く閉じられたのに反し、手の中の四肢は力が抜けていた
こいつがしたのは、いきなり余所様の家に土足で入り込んできたかと思えば、好き勝手に荒らして帰っていったようなものである。犯人の謝罪等、全くもってどうでもいい。
どくとくとく。血の巡る音。生きている音。心臓が通常運転に戻る頃には、指先はもう少し俺の命令に従うだろう。
ほんの少しだけ力を抜いた指に、小人の笑う顔。
それが異様にムカついたので、つい力を籠めてしまった。ぐえ、蛙が鳴いた。




