インティ・ワマン -回生の灯火を抱いて-
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その日、太陽の国『オーニス・イウェンタオ』では盛大な催しが開かれていた。
露店には多くの作物が並び、そこかしこで陽気な音楽に合わせて踊る子供たちの笑い声が聞こえる。
広場では色とりどりの装束に身を包んだ人々が手に手に楽器を携え、賑やかに『陽だまりの神殿』を目指して進んでいた。
標高二千メートルに築かれた都市とは思えぬほどの熱気にあてられ、誰もがみな浮かれた様子で歌う。
「ここは楽園、神の国。天使が治める不死の国~♪ ようこそ皆様お揃いで。我らが神には会われたかい? まだなら行こうよ、聖火を見よう。終わって始まる素敵な儀式さ!」
***
遠く、遠く。石壁の向こうから騒がしい祭りの音が聞こえる。
青年、イグニスは思わずといった様子で掃除の手を止め窓から外をうかがった。チラチラと視界を遮る黒い前髪を力なくかき上げた先にあるのはいやに澄み切った空と、羽ばたく人影の群れ。
きっとどいつもこいつも笑っているのだろう。笑って踊って、馬鹿みたいな行進をして神殿までやってくるのだ。
この祭りの目玉を見物するために。自らが崇める神と、それがもたらす奇跡を目にするために。
この国は天使に支配されていた。全ての富と娯楽は天使のために存在し、人間はみな等しく奴隷である。その状況を変える方法はただ一つ。死後、儀式を経て天使として転生することのみだ。
生と死が逆転し、混在する国。それがイグニスの生まれた『オーニス・イウェンタオ』という国である。
目をつむれば虚ろに空を見上げる少女の横顔が浮かぶ。
ふつふつとやり場のない感情が込み上げてきて、イグニスはその身に纏う汗の染み込んだボロ布に額を押し付けた。細く吐き出した息が震える。彼は用意された儀式用の上等な服に着替え、日に焼けた手で黒曜石の大斧を掴んだ。
空を仰ぎ、拘束され横たわる不死鳥の巨躯を視界に収めたまま翼を持たない奴隷はポツリとつぶやく。
「シンシア、君の望みは僕が叶えるよ。……何を犠牲にしても、必ず」
その胸元で揺れる藍晶石の首飾りを、不死鳥はただ静かに見つめていた。
………
……
…
「これでよし、と」
思いがけない転機が訪れることとなるその日。イグニスは断崖に並んだ簡素な石を磨いていた。先に逝った仲間たちの墓である。だが遺体はここにない。
この国では生前の評価によって転生できる順番が決まる。遠い未来で彼らと再び再会できる日を待ち望み、憧れに逸る気持ちが彼にこの墓を作らせた。
そして、その中には彼が報われてほしいと密かに願い、無事に天使になれるように支え続けた幼馴染の墓もまた、含まれていた。
日課を終えいつものように神殿の清掃業務に就こうとした矢先、イグニスは大神官のもとに呼び出された。同僚たちの羨むような視線に自然と胸が張る。だが。
「お前には今日から月の神殿にて、巫女の世話を申しつける」
「……え?」
背に大きな翼を畳んだ恰幅の良い男の言葉に、一瞬イグニスの思考が止まった。
「橋や用水路の建設ではなく、でしょうか?」
「そうだ。お前は特に頑丈で力もある。だからここで使い潰す前に少しばかりの暇をやろう」
つまるところそれは、閑職への左遷宣告だった。
危うく飛び出そうになった抗議の言葉をなんとか飲み込み、イグニスは承諾した。返答を見届けた大神官は満足そうに微笑む。そして、安心させるように言った。
「任を果たした暁には、お前に斧を振るう栄誉を与えよう」
広大なジャングルが遠くに見える高山地帯を数日かけて登りすっかり日が暮れた頃に辿り着いた場所は、月明かりに照らされた『神殿』など名ばかりの洞窟。早くもイグニスの心は折れかけていた。
洞窟の入口を警備する、鷲のような翼を持った二人の天使の前に立ち、奴隷は所属と名前を伝えた。
「都より参りましたイグニスと申します。大神官様の命を受け、これより月の巫女の世話を担当いたします」
「ああ、お前が世話役か。確かに了解した」
兵士たちの手により分厚い銀の扉が音を立てて開かれた。突然イグニスの背中が強く押される。つんのめる彼の背に天使は言った。
「その先に月の巫女はいる。用があれば扉を叩いて知らせろ。……絶対にここから巫女を逃すなよ」
まるで恐ろしいものを見るかのように洞窟の奥を一瞥し、それだけ告げると重々しい音とともに扉が閉まり、鍵がかけられた。
中は想像していたよりも広かった。
イグニスは壁のあちこちに埋まった青く輝く石を手でなぞりながら平らな地面を選んで歩いていく。
道中、壁を伝う水を手ですくって喉を潤し、ついにほのかに明るい洞窟の奥へ到達した。
暗がりに慣れた目を細め、思わずハッと息を呑む。
そこには、紛れもない女神がいた。
差し込んだ月明かりに照らされ、絹のように美しい白い髪が輝く。その背からは一対の神殿でも見たことがないような純白の翼が生え、時おり静かに揺れる。
彼女は簡素な寝台の上に座りその蒼穹を思わせる青い瞳でじっと月を眺めていた。
しばし魅入られていた青年はふと我に返り、慌てて挨拶をする。
「自分は大神官様より命を受け参りました、イグニスと申します! 今日より貴女様のお手伝い、を……あ、え?」
緊張で固まっていた言葉が尻すぼみに縮んでいく。原因は目の前にあった。こちらを振り返った巫女の容貌。それは彼が生まれ今に至るまで最も多く見てきた顔と瓜二つであり、
「……シンシア、なのかい?」
そこにはまるで別人のように雰囲気の変わったイグニスの幼馴染、シンシアの姿があった。
再会はずっと遠い先の話だと思っていた。思いがけない出会いにうわずるイグニスの問いかけに、しかし、巫女は不思議そうに小首をかしげこう言った。
「どうして名前を?」
谷の湧き水のように澄んだ声には確かな彼女の面影があった。そのことにわずかばかりの寂しさを感じたが、転生の影響だろうと思い直し、イグニスは職務を果たすべく気持ちを切り替えた。
そうして二人の生活は始まった。
彼は毎日朝早くから食糧の調達や洗濯を行い、日が落ちて夜になると改めて二人の縁を縫い合わせるように言葉を交わした。
彼は最初こそ畏まった口調を続けていたがその話し方がよほどおかしかったらしく、数日後には「普段通りでいいよ。私のことも呼びたいように呼んでいい」と言われてしまった。楽しげに目を細める少女につられイグニスも頭を掻いて笑ったものだ。
洞窟での日々はあまりに穏やかで、まさに彼が転生を待ち望んでいた理由そのものだった。大神官の助言に従い、体質を苦に一時は国元を離れようとしていた彼女を引き止めたかいがあったというものだ。
だが一方で彼にはある悩みの種があった。
「あ、シンシア。危ないよ、まだ体温が上がってないじゃないか」
「ごめんなさい。……ここから覗けば少しは空が見れるかと思って」
それはひとえに少女の体の弱さだ。
シンシアは異常に体温が低かった。それこそ決まった時間に温かい食事を摂らなければあっという間に凍えて動けなくなってしまうほどに。生前最も治ってほしいと願っていた彼女の体質は、むしろ悪化していた。
「もしまた倒れたらと思うと気が気じゃないんだよ。人間は生まれ変われるけど、天使は違うかもしれないだろう?」
「……。でも、今はきみが見てるじゃない」
ぷくりと頬を膨らませるシンシア。拗ねたようなその仕草にイグニスは苦笑気味に答える。
「いや、それだけビックリしたんだ。あの時は本当に心臓が飛び出るかと思ったんだよ」
初めてその場面に遭遇したイグニスの驚きは筆舌に尽くしがたいものだった。
倒れているシンシアを見て驚き、黒ずんだ肌を見て声を失い、氷のように冷たい手足に触れて飛び上がった。
呼吸が浅い、早く暖めないと。火。ダメだ間に合わない。他に何か、熱、与える、藍晶石!
目まぐるしく思考した彼はすぐさま洞窟内を駆け抜け、壁に埋まった青い石を力任せに引っ剥がした。傷ついた指先から血が滴る。好都合。石片を握りしめイグニスはもと来た道を全力で引き返す。
彼の持つ藍晶石は血に触れることで熱を奪う不思議な石だ。最初に触れたものから熱を奪い、次に触れたものにそれを与える。
大急ぎで駆け戻った青年は冷たくなった真っ白な少女に石を握らせる。すると、どうだ。みるみるうちに顔色が良くなり、静かに寝息を立て始めたではないか。
青年は深く安堵の息を吐き、その場に倒れ込んだ。
今でこそヒヤリとした思い出話になっているが、その一件以降イグニスは藍晶石を首から下げ、片時も手放さなくなっていた。
「そうだ。シンシア、君に贈り物があるんだ。果物は好きかい?」
食べ終えた皿を片付けていたイグニスは思い出したように明るい口調で問いかける。シンシアの「どんな味?」に「甘酸っぱい感じ」と答えると彼女は嬉しそうにパタパタと翼をはためかせた。
イグニスは顔を綻ばせ、小袋からザラザラと乾燥させた橙色の小さな果実たちを皿に移す。
「インカベリーっていうんだ。人間たちの数少ないごちそうでね。どうぞ、食べてみて」
シンシアは興味深げに一つ摘み、口に運ぶ。
プチっと噛むと心地よい酸味の奥からじんわりと優しい甘さが口に広がる。クセがなくてこれなら何粒でも食べられそうだ。
「美味しい。なんだか不思議な食べ物だね」
「気に入ってくれたら嬉しいよ。君は覚えてないかもしれないけど、去年トニやホセたちと一緒に整備した畑のものでね。いつか天使になったみんなと再会したら先に食べたって二人で自慢しよう」
大神官を始め、天使を中心とするこの国では通貨がなく、代わりに労働を納めることで人々は日々の糧を得ていた。
「そうそう。他にも都に行けばペピーノが採れてね。もうすぐ復活祭だろう? こっそりとここにも融通してくれないか頼んでみようと思ってるんだ」
何気ないイグニスの一言に、それまで楽しそうだったシンシアの表情が固まった。
色白の肌が青ざめ呼吸が乱れる。様子がおかしい。
「……シンシア? 大丈夫かい?」
自らの翼で身体を包む少女に駆け寄り、青年はそっと大きな毛布をかけた。
「だい、じょ……ゴフッ、ゴホッ!」
血がイグニスの手に飛び散った。咄嗟に手を握る。体が冷たい。少女の口から垂れた血を拭い、反射的に自分の首元に手をやった、その時。
大量の記憶が流れ込み、視界が暗転する。
そこは広場だった。そこには整然と人間が横たえられている。異様な熱気に包まれ、取り囲むように大量の天使たちがこちらを見つめている。
『──誕の儀を。我らは──再び生を。──福せよ! 新しい同胞の誕生を!』
これはシンシアの記憶……? 体が動かせない。くぐもってよく聞こえない。あの声は大神官だろうか? 何をしている?
混乱するイグニスの目の端で黒い刃が掲げられ、そのまま容赦なく振り下ろされた。
景色が回る、ぐるりぐるりと。頭から全てが流れ出る。首が焼いた石を押しつけられたように熱い。なのに流れる。止まらない。熱い。熱い、熱い熱い熱い。
真っ赤な滝が流れていた。燃え盛る血を浴びて天使となったニンゲンが立ち上がった。歓声が耳朶を打った。
目の前が暗くなっていく。自分が終わる。終わっていく。終わって、終わって……終わって…………オわり。
目を見開く。荒い息をしながらイグニスは慌てて首に手をやった。良かった、繋がっている。
ホッとしたのも束の間。咳き込むシンシアを寝台に運び、藍晶石を握らせた。
事態が落ち着いたのはその日の夜だった。
「落ち着いたかい?」
「……うん。平気。驚かせてごめんなさい」
下を向いたまま静かにコーヒーをすする少女を見つめ、言うべきか散々悩んだ末に青年は口を開いた。
「さっき、儀式の記憶を見たんだ」
ピクリとシンシアの肩が震える。イグニスは様子をうかがいながら、ゆっくりと言葉を選んで続けた。
「というより追体験した、かな。最初は何が何だかわからなかったけど、あれはたぶん『再誕の儀』の光景だったと思う」
思い出すだけで薄ら寒くなる出来事だったが、終わる間際に見た光景では確かに死体が翼を得て立ち上がっていた。
青年の言葉にシンシアは俯いたまま頷く。白い髪が少女の顔に影を落とした。
「でも、それだと死者の数が足りないんだ」
イグニスが体験したあれがいつの年の記憶だったかはわからないが、祭りは年に一度。だが一年の間に死ぬ人間は到底広間に並べられる数ではない。
「……それは、大神官が選んでいるから」
思わぬ言葉に驚く青年に、シンシアは表情を隠したまま続ける。
「彼らは天使にとって都合のいい人間だけを選んで、あとはみんな谷底に投げ捨てているの。まるで、ゴミみたいに」
そんなわけない、と口をついて言葉が出た。彼は平等に人を救ってくださるんだ。僕のことだって導いてくれた。その証拠に大神官様は君をこうして天使に、と。まくし立てるように一息で言いながらイグニスの胸中につかえていた疑問が頭をもたげる。
「どうして、シンシアだけ先に、翼を得たんだ?」
同時期に死んだ仲間の中には彼女と同姓もいれば、より体の強い者も大勢いた。その中で特に身体が弱かった彼女が選ばれた理由は。
「それは、たぶんこの身体が一番弱くて脆かったから。儀式が終わるまで私を閉じ込めるための逃げられない檻が必要だったから、だと思う」
ガラガラと。イグニスの中で培い、信じてきたものが足元から打ち壊されていく。
ずっと憧れ、求めていた『死』は心胆から震え上がるような冷たさだった。当たり前だった常識は全て幻想だった。僕がしてきたことは全て──
幼馴染の最期と、その結末にイグニスを導いたときの大神官の笑みが脳裏をよぎる。「無事に彼女が天使となれるよう、よくよく導いてあげなさい」という言葉とともに。
アレを、僕は幼馴染に押しつけたのか。
ごぼりと胃から後悔が込み上げる。目の前が暗くなりかけたその時、すぐ目の前に座る巫女の顔が見えた。寒さに震え、でも声も出さずに耐え忍ぶ少女の顔が見えたのだ。
「まだ、できることがある」
罪は消えない。後悔も罪悪感も全身を蛇のようにのたうち回りイグニスの心身を締め上げている。それでも、彼にはまだ己に課した誓いがあった。
「シンシア。頼みがある」
いつになく真剣な声で呼びかける青年に少女は顔を上げた。
「僕は君の力になりたい。そのために生きたいんだ。だから教えてくれないか? 君が本当は、誰なのか」
イグニスはシンシアの目をひたと見つめ訴える。真っ白な少女の青い瞳がわずかに揺らぎ、しばらく見つめ合ったあと、観念したように伏せられた。
「……私ね。天使じゃないんだ。ううん、そもそも、初めから人じゃない」
ポツリと漏らされた言葉にイグニスの反応が遅れる。どういう、と口を開く前にシンシアは言った。
「あなたたちが祀る神様、あの大きな『不死鳥』が私の本当の姿なの」
押し黙る青年に、シンシアはポツポツと語り始めた。
「不死鳥がこの地に降り立ったのはもうずっと昔。その当時、人々は互いに争っててね。たくさんの死と悲しみが溢れてた」
耳の奥で、飢えた男のあえぐような懇願が蘇る。
「だから私、変えようとしたの」
彼女は血を分け与えた。後に大神官となる、その男に。
シンシアは胸に手を重ね小さな火種を生み出した。火種は風に煽られて揺らめき、そのたびにチラチラと火の粉が飛ぶ。少女は薄く微笑んで手のひらに灯る淡い光を見つめた。
「良いことをしたって思った。だって血を与えて生まれ変わった人たちはみんな、ありがとうって言ってたくさんの捧げ物をくれたから。……でも、それは間違いだった」
突風が吹きつけ、火種がかき消えた。ギュッと両手を握る少女の顔が思い出すことを拒絶するように歪む。反射的に立ち上がるイグニスにしかし、シンシアは首を振って続けた。
「気がついたとき、私の身体は縛られていた。朦朧として、力が入らなくて、首を巡らすこともできなかった。そこに大きな棍棒を持った天使たちがやってきて……それで……」
最初は複数人による撲殺だった。次は紐を使った絞殺。大きな石を使った装置で頭を潰されることもあれば、生きたままどれだけ解体できるのか試されたり、体のあちこちを傷つけられ血がなくなるまで放置されたこともある。
『神は人のために在る』
大神官の示した解に従い、天使たちは今後を見据えシンシアの身体を徹底的に暴き続けた。
「彼らが感謝していたのは私じゃなくて、私の力だった」
少女は数え切れないほど命を失って、数え切れないほど生まれ直した。しかしそこに自由はなく、できるのはただ殺されるまでの時間を待つことのみ。彼女の全てが擦り切れていった。
「私は今も昔も変わらない。熱を奪い、与える。もしも私が翼を広げ天使たちに触れることができたなら、彼らはきっと力を失い元の亡骸に戻ると思う。でも、その後は? 私は何を糧に飛べばいいんだろう」
空を見上げ、月明かりに照らされた少女の横顔。その目は何も映していなかった。その瞳は空っぽで、どこまでも深い空の色だった。
「ずっと終わらせたいと思ってた。何もかも嫌になってもうこれ以上続けたくないって、楽にしてほしいってずっとずっと」
でも、と少女は続ける。
「それでも、一つここまで生きて良かったことがあるんだ。きみに会えたこと。それだけは本当に良かった」
青年の目が大きく見開かれる。少女は少し照れたように笑って、なおも真摯に言葉を重ねる。
「たとえ一瞬でも人の温かさに触れられて、やっぱり助けたのは間違いじゃなかったんだって、そう思えた。もう擦り切れてきっと次のお祭りが私の最後になるけど、きみと過ごせて楽しかった。ありがとうね、イギー」
その言葉に堪え切れなくなり、イグニスは唇を噛みしめ静かに肩を震わせる。視界が滲み、前が見えない。固く握った拳を額に押し当て溢れないように目をつむった。
「もしも一つわがままを言ってもいいなら、私、できることなら最後は。うん。最後は、きみに終わらせてほしいな」
どこか夢見るような表情で語られたその願いを前に、イグニスは──
………
……
…
神殿を震わせる喧騒と無数の羽ばたく音に意識を引き戻され、イグニスは静かに目を開けた。
首から下げた涙型の藍晶石に触れ、手触りを確かめる。大斧の柄を握りなおし、広場を囲む天使たちを目だけで見回す。ゆっくりと長く息を吐き出して、最後に大神官に視線を向けた。
「皆、よく集まった。これより復活祭、『再誕の儀』を執り行う」
厳かな調子で、さりとて熱気を孕んだ空気の中、最後の儀式は始まった。
盛大に飾りつけられた広間に、今日新たに天使となる亡骸が運ばれてくる。彼らはそれぞれ白地に黄色の刺繍が施された衣装を身につけて現れ、日差しが降り注ぐ広間に丁寧に並べられる。その後、順番に生前の行いが読み上げられ神の御名において一人一人がその資格を認められていく。
静寂の中、朗々と声を張り上げる天使の高官とそれを承諾する大神官。ひどい茶番だ、吐き気がする。
一言も発さずに控えるイグニスの握る柄がギチギチと軋んだ。
そうして全てが認められると大神官の祈祷に合わせてオカリナや縦笛、太鼓が奏でられ無秩序だった熱気は一つの祈りへ昇華する。ふいに広間に影が落ちた。
来た……!
観客席から抑え切れない興奮が漏れる。天使たちは目を輝かせ顔を空へ向けた。最高潮まで高められた期待は次の瞬間、爆発する。
周囲を席巻する荘厳な音色とともに空から太陽の光を背に四人の天使と、不死鳥がゆっくりと舞い降りたのだ。
不死鳥は金でできた豪奢な衣装をまとい、流線形の黄金の仮面の下からは青い瞳をのぞかせる。
イグニスは一度胸元に手をやってから、前を見て歩き出す。黒く輝く大斧を手に、揺らぎそうになる覚悟を握り込み前へ、不死鳥の首元へ。
誇示するように翼を広げた大神官の言葉が興奮冷めやらぬ広間全体に響き渡った。
「──大いなる鳳。偉大なる不死鳥の慈悲を賜り、我らはこの日、この時より再び世界に生を得る。崇めよ! 我らが神を。祝福せよ! 新たなる同胞の誕生を!」
すぐそばまで辿り着いた青年を不死鳥は愛おしむように見つめる。
──その瞬間、脳裏にさまざまな思い出が浮かび視界を埋め尽くした。そのどれもが幸せで、大切で、かけがえのないものだった。それを今から僕は失う。この手、で。もう、一度?
イグニスの両手が大斧を掴む。握る力に呼応するように歓声の激しさが増していく。
──白く透き通るような翼を持った巫女の青く虚ろな瞳と、幼馴染の最期の瞳が重なった。
青年の腕が大きく弧を描く。限界まで振りかぶられた大斧は、そして。
「ごめん、シンシア!」
歯を見せて笑う奴隷の意志に従い、ぐるりと回転し、勢いをつけてぶん投げられた!
狙いは過たず、驚愕に固まる大神官にぶち当たり大輪の真紅の花を咲かせる。
静寂。一拍置いて、その場を悲鳴と怒号が埋め尽くした。
壮絶な絶叫の中、イグニスはもう止まらない。
首飾りを引きちぎり尖った先端を腕に突き立てる。
爆発寸前の鼓動が周囲の音を塞ぐ。もう何も耳に入らない。
彼は腕から大量の血を滴らせ握りしめた藍晶石に一心に記憶を込める。
少しじゃ足りない。全てだ。今までの思い出、手放したくない宝物の全てを他でもない少女のために込める。
──君の■■な声が好きだった。いつも■■みたいに■う控えめなところが愛おしかった。初めて手を■■た時のこと、覚えてるかい? 一緒に食べた■■■■は美味しかったね。■の■■が……。
赤く、紅く、赫く。握りしめた石が赤熱する。感情の奔流を呑み込み、ついに藍晶石は灼熱の猛火となってイグニスの腕を包む。
天使が泡を食ったように弓矢を放つ。百や二百では足りぬ死の雨が全方位からイグニスを襲う。
だが、青年は意に介さず炎に包まれた手で不死鳥にそっと触れ、言った。
「君の望みをそのまま叶えることはできないから、代わりに僕の血をあげる。だから、君は生きてくれ。シンシア」
腕を伝い、炎が不死鳥に注がれた、直後。
放たれた熱波により飛来する都合千の矢が一瞬で灰と化した。
巨躯を覆う金色の衣装が焼け落ち、仮面が溶け、拘束が爆ぜ飛ぶ。
大いなる鳳。偉大なる不死鳥が再び、この地に降り立った。
目を見張る天使たちの前で不死鳥は強く翼を羽ばたく。宙を舞う火の粉に触れた瞬間、天使たちはたちまち翼を失い、次々に物言わぬ骸へ変じた。
あっという間だった。あっという間に広間を埋め尽くす絶叫は鳴り止み、静寂が辺りを包んだ。
不死鳥はゆっくりと首を巡らせ、最後に傍らに倒れた青年を見つめる。それから大きく翼を広げ空へ飛び上がった。
霞む視界、薄れゆく意識の中イグニスは不死鳥を見送る。
遠く、遠く。澄み切った大空へ羽ばたく■■■■の後ろ姿を眺め、彼の意識は途切れた。
天使が消えた日から、三年がたった。
突然ひっくり返った世界の中で、人々は「何のために働くか」問い直す必要に迫られた。指針を見失った彼らが大いに混乱したことは想像に難くない。
しかし、それでも人間は日々を生きることを選択した。生まれ変わりのない世界の重みに押しつぶされそうになりながらも、神権政治はそのままに新たな指導者、皇帝を据える道へ進んでいく。
彼らの日常は巡る。ささやかな営みの中で彼らは「生きるため」にありふれた在り方を取り戻していく。
イグニスは涼やかな風を背に都を歩いていた。
駆け回る子供たちを避け、新たな宮殿の石材選びで揉める男たちを遠目に眺めてぶらぶらと。すると、畑から彼を呼ぶ声がした。
「イグニス! この前手伝ってくれた礼だ、うちのペピーノ採って行きな!」
「……ペピーノ。ありがたくもらうよ。腰の調子は?」
答える前に奥方にどやされ家に連行されていく農夫を苦笑まじりに見届け、イグニスは息をつく。
「平和だなぁ……」
みんなが満足そうに笑っていた。なのに。
胸に手を当てる。
なのに、今まであったものがなくなっている気がするのはなぜだろう? 大事に持っていたはずの、大切な何かが欠けている。胸にぽっかり穴が空いたような、なんて言葉がなぜだかしっくりくるのだ。
イグニスは寂しげに都を出て歩く。上へ、上へ。空に近い山頂を目指してただ歩く。そこで探し物が見つかるような、そんな予感がして。
頂上から見上げると視界いっぱいに青空が広がった。大きな太陽が照り輝き、乾燥した風にかすかに花の香りが混ざる。
辺りには何もない。青年は肩を落とし、くるりと背を向けた。
「ねえ、きみ。忘れ物だよ」
息が止まった。聞き覚えのある澄み透った声に、ゆっくりと振り向く。そこには。
暖かな陽だまりの中、絹のように美しい白い髪を風になびかせて佇む一人の少女がいた。
「壊れてたから直してみたの。もう手放しちゃダメだよ?」
そう言って、その少女は藍色の首飾りを掲げ、屈託のない笑みを浮かべるのだった。
日はまた昇る。再び世界を照らすために。再び誰かに会うために。
これはかつて『終わり』を求めた青年と少女の物語。
終わって始まる、二人の物語。




