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実家がポンコツで3人の王族貴族に婚約がトリプルブッキングしてめっちゃピンチだったけど運良く全部婚約破棄されてむしろ最高の結末をゲットできたので本当にめっちゃ最高だった件~あ、真実の愛ね。全然大丈夫~

掲載日:2026/09/04

「本日のご婚約者は、王太子殿下でございます」



 苺ジャムを塗りかけた匙が、パンの上で止まった。

 若い執事のルカが、朝食の紅茶とともに本日の予定を告げる。落ち着いた声だった。今日の天気でも読み上げるような。



「……午前ですか、午後ですか」


「午前でございます」


「では、午後は」


「北境公爵家のディートハルト様です」


「海運大公家のオスカー様は」


「明日の午前です」


「明日の午後は空いているのね」


「先ほど、ご当主様がオスカー様との観劇を追加なさいました」


「では、空いていないのね」


「はい」



 私は匙を置いた。落ちたジャムが、皿の縁で赤い点になった。

 執事(ルカ)が金、紺、緑の予定札を、机の上へ横一列に並べる。



 金が王太子アドリアン殿下。

 紺が北境公爵家の嫡男ディートハルト様。

 緑が海運大公家の公子オスカー様。



 三色揃うと、妙に華やかだった。

 私の未来でなければ、綺麗だと思えたかもしれない。



「今日の夜は」


「ご家族でのお話し合いです」


「話し合いで、何か決まる予定は」


「予定には記されておりません」


「正直で結構です」



 執事(ルカ)が、わずかに目を伏せた。



 我がヴァンデル侯爵家は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という、貴族社会ではあまり褒められない偉業(いや、貴族社会でなくとも論外か……)を成し遂げていた。



 始まりは、三か月前。

 王宮勤めの父は、国王陛下から私と王太子殿下の縁談を持ちかけられた。

 北方軍に所属する叔父は、北境公爵から私と嫡男の縁談を持ちかけられた。

 港湾都市へ出向いていた当主の祖父は、海運大公から私と公子の縁談を持ちかけられた。



 ここまでは、まだ間に合った。

 問題は、祖父が日頃から父と叔父へ、「家のためになる良縁であれば、交渉を進めてよい」と記した委任状を、一通ずつ持たせていたことである。



 父は思った。これは、この縁談のためにあった委任状だ。

 叔父も思った。これは、この縁談のためにあった委任状だ。

 祖父も思った。港で降ってきた最高の縁談を、当主が断る理由がどこにある。


 三人とも、確信した。



  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。



 そして三人とも、ほかの二人へ相談する前に、証書へ署名した。


 幸か不幸か。この婚約トリプルブッキングは発覚しない仕組みになっていたのだ。

 というのも、3人の婚約者様はそれぞれの事情によりこの婚約の件につき公表することを自粛する要請があったのだ。


 王家との婚約は、王妃様の喪が明けるまで秘匿。

 北境公爵家との婚約は、北方遠征が終わるまで秘匿。

 海運大公家との婚約は、通商協定がまとまるまで秘匿。



 見事なほど、互いに発覚しない。

 だから三人とも、堂々と帰宅した。



 父が王家の金印入り証書を持ち帰った日。叔父も、北境公爵家の剣印入り証書を持ち帰った。そしてその夜、祖父が海運大公家の船印入り証書を抱えて帰ってきた。


 三通が、食堂の机へ並んだ。

 しばらく、我が家は無音になった。

 燭台の火が、一度だけ揺れた。



「なぜ、王家の婚約証書がある?」


「それはこちらの台詞です。兄上こそ、なぜエステルを北境へ嫁がせる約束を?」


「お前たちは何を勝手に進めておる! 当主は私だぞ!」


「お父様も進めているではありませんか!」


「私のは家を救う通商協定と一体だ!」


「王太子妃以上に家を救う縁談がありますか!」


「北境公爵家との結びつきがなければ、王都ごと魔物に食われますぞ!」



 怒号が食堂の天井へ跳ね返り、扉の外で使用人の足音が止まった。

 私は三通を、順番に眺めた。金印。剣印。船印。どれも見事な蝋で、どれにも私の名前が書いてある。



「ところで私は、どなたと結婚するのでしょうか」



 思ったより静かな声が出た。


 三人が、同時に黙った。

 父は家の名誉を守ろうとした。叔父は家の安全を守ろうとした。祖父は家の財政を守ろうとした。


 家族思いの男性が三人集まって、私の結婚相手だけが三人になった。



「どれか一件を選び、それ以外はすぐにお断りしてください」



 私はそうお願いした。

 父が、青ざめた。



「王家へ、私が同じ娘をほかへも差し出したので取り下げたい、と申せるわけがない」



 叔父が、腕を組んだ。



「北境公爵とは祖霊の剣にかけて誓った。こちらから覆せば、武門の恥だ」



 祖父が、額を押さえた。



「海運大公家との縁談には、我が家への融資と通商協定が結びついておる。今さら白紙にはできん」


「では、どうするのですか」


「……話し合う」


「いつまでに」


「早急に」


「明日は王太子殿下とのお茶会です。その翌日はディートハルト様と乗馬、その次の日にはオスカー様と歌劇を観ます。私は、何とお話しすればよろしいのでしょう」



 三人が顔を見合わせた。

 嫌な間だった。



「いずれ一件に決める。それまでは三家へ、婚約者として礼を尽くしてくれ」


「どなたにも、ほかの婚約があるとは申し上げずに」


「とにかく、保留で!」



 父が言った。叔父と祖父も、勢いよく頷いた。


 婚約とは、保留できるものだっただろうか。

 私には分からなかった。


 しかし家の方針は、保留となった。



 その日から、私は日替わりで別の男性の婚約者になった。

 嘘は苦手だった。そこで私は、言ってよい言葉と言ってはいけない言葉を、執事(ルカ)と一緒に整理した。



「『あなたと生涯をともにしたい』は」


「申し上げないほうがよろしいかと」


「『良い家庭を築きましょう』は」


「かなり危険です」


「『本日を楽しみにしておりました』は」


「本日のことだけですので、安全でございます」


「『お会いできて光栄です』は」


「身分を考えれば、どなたにも使えます」


「あなた、妙に上手ね」


「お嬢様が三家から同時に詰め寄られずに済むよう、毎晩考えております」


「ありがとう。できれば家族会議にも参加して」


「執事が口を挟める段階は、ひと月前に過ぎました」



 こんな誤魔化しが本当に通用するものだろうか。

 仮に通用したとして、本当に許される行為なのだろうか。

 頭痛が鳴り止む日がなかった。



 ルカは――この若く美しい執事は――数ヶ月ほど前に我が家へ入った、落ち着いた灰色の瞳を持つ青年だ。

 二十代半ばに見えるのに、王宮礼法にも外国語にも剣術にも妙に詳しい。なぜ執事をしているのか不思議だったが、なぜ私が三人と婚約しているのかに比べれば、些細な謎だった。



 王太子殿下とのお茶会では、国の将来について話した。

 殿下は優しく、誠実で、少しだけ物語を好みすぎる方だった。

 民に愛される王と王妃。幼い頃から寄り添い、どんな苦難もともに越える夫婦。


 そうした美しい未来を語る殿下の後ろには、いつも乳母の娘である侍女エマが控えていた。



 殿下は、何かあるたびに侍女(エマ)を見る。

 侍女(エマ)は、殿下が紅茶を飲み終えるより先に、次の一杯を用意する。

 幼い頃から一緒だった二人にしか分からない呼吸が、そこにあった。



(この方、私の話を一度も自分から尋ねていないわ)



 私は、そう思った。

 思っただけで、何も言わなかった。

 王太子殿下を相手に恐れ多くも3股をかける悪女風情に言えることなど何もない、というのが私の認識だ。



 北境公爵家のディートハルト様との乗馬では、冬の砦について話した。剣一本で大型魔獣を倒したと噂される、国内屈指の武人である。



「エステル嬢は、剣を使えるか」


「果物用の小刀でしたら」


「格闘術は」


「舞踏会で、人の足を踏んだことならございます」


「そうか」



 なぜか、少し残念そうだった。



 海運大公家のオスカー様との歌劇では、財務長ベアトリス様について話した。歌劇の話より、ベアトリス様の話のほうが長かった。



「先月も、私の新規事業案を全頁修正したのです」


「厳しい方なのですね」


「ええ。数字の間違いを見つけたときの、あの冷たい目が素晴らしい」


「素晴らしいのですか」


「心が引き締まります」



 オスカー様は、たいへん嬉しそうだった。



(歌劇、始まって三十分経つのですけれど)



 私は三人それぞれとの時間を、できる限り丁寧に過ごした。誰が一番高い地位にいるかは考えなかった。三人とも十分に高すぎて、比較するだけで頭が痛くなったからだ。


 毎朝、予定札の色を確認する。

 毎晩、明日の話題を組み立てる。

 名前を呼び間違えない。話題を混ぜない。約束をしない。


 それだけを繰り返して、何も決まらないまま、日だけが過ぎた。



 やがて、三家から挙式予定が届いた。



 王太子殿下との婚礼 四十三日後

 北境公爵家での誓約式 四十七日後

 海運大公家との婚礼 五十一日後



 私は三枚を、順番に、二度読んだ。

 私の体は、一つしかない。

 四日ごとに離婚する計画でもない限り、どう考えても無理だった。


 これ、ホンマにヤバイんじゃなかろうか。

 いや、ヤバくないわけがないのだけれど。

 現実を直視すると心臓が早鐘のように鳴り、汗が滝のように流れ出る日々を過ごしていた。



「今夜こそ決めてください」



 私は三枚の日程表を、家族へ差し出した。



「あと四十三日もある」


「十分だ」


「今週中には結論を出そう」



 三人はそう言った。

 同じ台詞を、先週も聞いた。

 その前の週も聞いた。



 その翌日。

 最初の奇跡が起きた。



 王太子アドリアン殿下が、国王陛下の側近と侍女エマを伴い、我が家を訪れたのである。

 殿下はいつものように美しかったが、顔色はひどく悪かった。私の前へ立ち、深く頭を下げる。



「エステル。あなたとの婚約を、解消させてほしい」



 背後で、父が椅子から半分立ち上がる音がした。

 私は、父を見なかった。



「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「私は、エマを愛している」



 殿下が侍女を振り返る。エマは泣きそうな顔で、両手を強く握りしめていた。



「王太子として、あなたとの婚姻を受け入れるつもりだった。あなたは聡明で、礼節があり、何一つ非のない方だ。

 それでも挙式を前にして、悟った。自分の心を偽ったまま、二人の女性を縛ることはできない」


「いつから、エマ様を」


「おそらく、ずっと前からだ。気づいたのが、遅すぎた」



 殿下は、もう一度頭を下げた。



「あなたへ義理を欠いたことは分かっている。極力、あなたに恥をかかせたくはない。王家から正式に事情を説明し、可能な限りの償いをしたい」



 ひどく真面目な声だった。

 私は息を吸った。

 婚約を解消される令嬢としては、悲しむべき場面なのだろう。うつむいて、声を震わせて、どうしてですか、と問うべき場面なのだろう。


 けれど頭の中には、たった一つの数字しか浮かばなかった。



 三が、二になる。

 ……しゃあっ!



 叫び出さなかった自分を、心から褒めてやりたかった。



「承知いたしました」



 父が、小さく息を呑んだ。

 エマが、私の前へ進み出る。



「エステル様。本当に、申し訳ございません」


「エマ様が頭を下げることではございません」


「ですが……」


「殿下がお決めになったことです。今後、あなたばかりが悪く言われないよう、殿下ご自身から皆様へご説明ください」


「約束する」



 殿下は、即座に答えた。



 その日のうちに、王家から補償案が示された。


 私は実家から独立した、一代女伯爵となる。今後、私の婚姻は私自身の花押がなければ成立しない。

 そして自領を得た場合には、国境自由市を開設できる勅許を与える。

 最後の一つは、以前のお茶会で私が国境交易の改善案を話したことを、殿下が覚えていたためらしい。



 領地のない私には、今のところ使い道のない勅許だった。

 それでも、王太子妃にならずに、自分の名を持てる。


 悪い条件ではなかった。

 むしろ、かなり良かった。

 というか、こちらの落ち度を糾弾されることなく婚約を解消できるだけでも、望外の幸運と言うべきだった。



 その夜、私は寝台へ倒れ込み、枕へ顔を埋めて、声を出さずに笑った。肩が震えて止まらなかった。三か月ぶりに、腹の底から息を吐いた気がした。



(一件。減った)



 殿下たちが帰ったあと、父と叔父と祖父は食堂へ集まっていた。



「二件になった」



 叔父が言った。



「三件よりは、ずっといい」



 祖父が言った。


 父は、両手で顔を覆った。



「私が持ってきた、最高の縁談が……」


「兄上。悲しむのは後にしましょう。今は二重婚約です」


「二重婚約も十分にまずいぞ」


「しかし、三重ではない」



 三人はしばらく考え、最後には深く頷き合った。

 基準が壊れ始めていた。

 誰も彼もがどうかしていた。



「お嬢様」



 部屋へ戻ると、ルカが金色の予定札を裏返した。



「一件、減りました」


「あと二件ね」


「普通の令嬢へ、一歩近づかれました」


「普通の令嬢は、まだ婚約者が二人もいるの?」


「かなり社交的な方でしたら、ひょっとすると」


「いないと思うわ」



 ルカは、否定しなかった。



 二件目の奇跡は、それから九日後に起きた。

 北境公爵家のディートハルト様が、全身に包帯を巻いて現れたのである。


 隣には、赤毛の女性冒険者が立っていた。背中に大剣を負い、ディートハルト様より頭一つ低いのに、なぜか倍ほど大きく見える女性だった。



「ディートハルト様。襲撃を受けたのですか」


「いや。決闘で負けた」


「まあ」


「三度」


「なぜ三度も」


「一度目に感じたものが、敗北の混乱なのか確かめたかった」


「感じた、とおっしゃいますと?」


「歓喜だ」


「……歓喜?」


「ああ、歓喜だ。私の全細胞が喜びに包まれるのを感じた。

 知らなかったよ、自分が、自分よりも強い女性に暴力でぶちのめされることに激しい喜びを感じる体質を持っていたとは。

 蒙が啓けた。霧が晴れた。私の人生は、その瞬間にようやく始まったのだと実感したよ」


「……治療師は、頭も診てくださいましたか」


「正常だと言われた」



 正常だったか。

 異常があった方がまだよかったようにも思う。


 赤毛の女性が、深いため息をついた。



「正常ってのは、骨の位置の話だよ。中身までは知らないね」



 彼女はS級冒険者のカサンドラ様だった。

 北方の山へ現れた竜種を討伐するため、公爵領へ招かれたらしい。



 ディートハルト様は腕試しを申し込み、見事に地面へ沈められた。

 偶然だと思って再戦し、もう一度沈んだ。

 さらに念のため三戦目を申し込み、今度は大剣の腹で池まで飛ばされた。



「剣を喉元へ突きつけられた瞬間、世界がこれまでになく鮮やかに見えた」


「私は、剣を使えません」


「知っている」


「拳にも自信はございません」


「それも知っている」


「では」


「私は、自分より強い女性と生きたい」



 ディートハルト様が、熱い視線をカサンドラ様へ向けた。

 カサンドラ様は、露骨に嫌そうな顔をした。



「私は毎日こいつを殴るとは言っていないよ」


「週に三度でも構わない」


「構うよ」


「では、二度では」


「値切るなっ!」



 ディートハルト様は、たいへん幸せそうだった。



(この方たち、放っておいても勝手に幸せになるわ)



「エステル嬢。あなたには何の不足もない。私が、今まで知らなかった自分を知ってしまっただけだ。婚約を、解消してほしい」


「承知いたしました」



 今回は、迷わなかった。

 カサンドラ様が、片方の眉を上げる。



「ずいぶんあっさりと引き下がるね。殴られる覚悟はしてたんだけど」


「少し、事情がございまして」


「こいつに脅されてるんじゃないだろうね」


「いいえ。むしろ、助かっております」


「助かっている?」


「こちらの話です」



 私は姿勢を正した。ここだけは、確認しておかなければならない。



「ディートハルト様。公爵家は、カサンドラ様を『私から婚約者を奪った冒険者』として扱いませんね」


「決して、そのようには扱わない」


「そうしてくれ。身分だ何だと騒がれるのは面倒なんだ」


「私が黙らせる」


「その言い方だと、少し期待してしまうじゃないか」


「まず、お前を黙らせるよ」



 ディートハルト様は、たいへん嬉しそうに頷いた。



 婚約の際、北境公爵家から私へ贈られていたものがあった。

 灰狼峠と呼ばれる、小さな国境領。古い砦を改修した館。峠を守る護衛騎士二十名。そして、街道の通行管理権。


 公爵夫人となる私の居所として、既に名義の移転まで済んでいた。

 私は返還を申し出た。

 ディートハルト様は、首を横に振った。



「一度贈ったものを、こちらの都合で取り戻すことはできない」


「ですが、私はもう公爵家へ嫁ぎません」


「灰狼峠は、あなたへ贈ったものだ」



 カサンドラ様も、腕を組んだ。



「このお嬢さんから何か取り上げるなら、あんたを今度こそ地面へ埋めるよ」



 ディートハルト様の口元が、わずかに緩んだ。

 私は、見なかったことにした。



 彼らが帰ったあと、父と叔父と祖父は、再び食堂へ集まった。



「一件になった!」



 父が立ち上がった。



「我が家が普通になったぞ!」



 祖父も立ち上がった。

 叔父だけが椅子に座ったまま、遠い目をしていた。



「私が持ってきた、最高の縁談が……」


「悲しむのは後だ、弟よ。今は一件だ」


「一人の令嬢に、婚約者が一人」


「なんと健全な響きだ」



 三人は、感動していた。

 最初から、そうしてほしかった。



「お嬢様」



 その夜、ルカが紺色の予定札を裏返した。



「もう一件、減りました」


「あと一件ね」


「普通の令嬢になられました」


「やっとなのね」


「長い道のりでございました」



 私は笑った。ルカも、少しだけ笑った。



 彼だけが、三人との面会を終えるたび、私が何を言われたかではなく、疲れていないかを尋ねてくれた。

 彼だけが、どの縁談を選ぶべきかではなく、私がどのように暮らしたいかを尋ねた。


 けれど私は、答えられなかった。

 自分の希望を考える前に、次の婚約者との予定が来たからだ。



 残る一件は、海運大公家のオスカー様。


 これでようやく、一本に決まった。家族は安堵した。私も安堵するべきだった。

 ただ、オスカー様との面会時間の半分以上がベアトリス様の話だったことだけが、少し気になっていた。



 ほんの、少しだけ。



 三件目の奇跡は、さらに十一日後。

 奇跡というものは、続くときには続くらしい。



 その日の午後、海運大公家の財務長ベアトリス様が、分厚い書類の束を抱えて我が家へ乗り込んできた。

 オスカー様から婚約解消に伴う契約整理を頼まれ、関連する登記を洗い直したところ、王家と北境公爵家の記録まで出てきたらしい。



 五十三歳。


 銀の混じった黒髪を隙なくまとめ、装飾品は小さな銀時計だけ。背筋の伸びた、見惚れるほど格好のよい女性だった。

 その後ろに、オスカー様がいた。


 なぜか、少し嬉しそうだった。



「エステル様。オスカー公子との婚約についてお話しする前に、確認したいことがございます」


「何でしょう」



 ベアトリス様が、三通の書類を机へ置いた。

 王家の婚約証書。北境公爵家の婚約証書。海運大公家の婚約証書。

 最初の二通には、既に解消の記録が付いている。



「三通とも、見覚えはございますか」


「はい」


「それを伺えて安心しました。偽造まで加わりますと、私の仕事が増えますので」



 私は、父と叔父と祖父を呼んだ。

 三人は書類を見るなり、互いを指さした。



「私は王家との婚約こそ正式だと言った!」


「北境公爵家との誓約を軽んじた兄上が悪い!」


「当主である私へ黙って進めたお前たちが悪い!」


「お祖父様も黙って進めました!」


「私のは家のためだ!」


「全員そう言っています!」



 ベアトリス様は、一言も発しなかった。

 ただ、見ていた。

 それだけで、三人の声は少しずつ小さくなり、やがて消えた。



「よくもまあ、これほど大きなお屋敷の中で、一度も会話をなさらずにいられましたね」


「み、皆、忙しかったのだ」



 祖父が答えた。



「今後は、もう少し暇になさってください」



 祖父が黙った。



 ベアトリス様は、別の書簡の束を机へ置いた。

 私が家族へ送った、手紙だった。



 いずれか一件を、速やかにお断りください。

 本日の面会でも、将来についてのお答えを求められました。

 私から確かな約束を申し上げられる状況ではございません。

 挙式の日程が届いております。至急、お決めください。



 その下に、返事が並べられていく。



 しばらく保留とする。

 家内で調整中。

 もう少し待て。



 同じ言葉が、十七回。


 ベアトリス様は、それを一枚ずつ、机の上へ並べていった。

 紙の擦れる音だけが、部屋に響いていた。


 父が、視線を落とす。叔父が口を開き、何も言わずに閉じる。祖父は、動かなかった。

 私は、天井の燭台を見上げた。


 目の奥が、熱かった。

 三か月、一度も熱くならなかったのに。



(ここで泣くのは、たいへん格好が悪いわ)



 私は、そう思うことで耐えた。



「経緯は、分かりました」



 ベアトリス様が、書類を揃える。

 それから、私を見た。



「エステル様」


「はい」


「よく、耐えられました」



 私は、返事ができなかった。


 できないまま、深く頭を下げた。

 顔を上げるまでに、たっぷり三つ数えた。



 ベアトリス様は、何も言わずに待ってくれた。それから、隣のオスカー様を見る。



「公子様。あなたのお話をどうぞ」


「はい」



 オスカー様が姿勢を正し、私へ向き直った。



「エステル嬢。私は、あなたとの婚約を解消したい」


「理由は、ベアトリス様でしょうか」


「なぜ分かったのです」


「これまでの面会で、私の話よりベアトリス様のお話を多く伺いましたので」


「それほどでしたか」


「歌劇の幕間にも、彼女が削減した倉庫費用について語っておられました」


「見事な削減だったのです」



 オスカー様は、熱を込めて言った。



「私は二十歳のとき、初めて事業計画書を彼女へ提出しました」


「はい」


「全八十頁を赤字で修正され、最初から作り直すよう命じられました」


「はい」


「その瞬間、この方に一生、未熟さを指摘されたいと思ったのです」


「つい最近、似たようなお話を伺いましたが……」


「一緒にしないでください。私は殴られたいわけではありません。

 ただ、ベアトリスの皺がれた声が、カサついた指先が、年輪を重ねた女性特有の体臭が、私の腰の奥深くに炎を点けるのです。

 本当に情け無い話ですが、本能には逆らえないのです」



 ベアトリス様が、こめかみを押さえた。



「私は、これまで十五回お断りしております」


「では、今回が十六回目ですか」


「はい」


「なぜ、同席なさったのです」


「婚約したまま求婚するな、と前回申し上げました」



 オスカー様が、胸を張る。



「ですから、先に婚約を解消します」


「そこだけは、進歩しました」



 ベアトリス様は、冷静に評価した。

 オスカー様は、褒められた子どものように嬉しそうだった。



「エステル嬢。あなたには、本当に申し訳なく思っている。三件の婚約を知ったからではない。知る前から、私の心はベアトリスにあった。あなたと結婚しても、誠実な夫にはなれない」



 私は、確認するべきことを確認した。



「ベアトリス様との年齢差やお立場について、周囲が何か申しても、お一人で隠れるよう求めませんか」


「求めない。私自身が皆の前で選んだと伝える」


「財務長のお仕事を辞めていただくおつもりは」


「まさか。辞められたら、我が家が三日で傾く」


「二日です」



 ベアトリス様が訂正した。

 オスカー様は、真剣な顔で頷いた。



「承知いたしました」



 私は、答えた。


 三が二になり、二が一になり、ついに一がゼロになる。

 胸の奥から、三か月分の息が抜けていった。

 指先が、震えていた。



「ご婚約者が、一人もいなくなりました」



 後ろに控えていたルカが、静かに言った。



「ゼロ」


「はい」


「生まれて初めて、その数字を祝福したい気持ちです」



 オスカー様との婚約契約にも、既に私の名義へ移されたものがあった。

 海運会社の持分。国境を通る隊商の運営権。倉庫建設のための資金。そして、十年間の優先輸送契約。


 私は返還を申し出た。

 ベアトリス様は、契約書を一度見ただけで首を振った。



「公子様の恋情と、既に締結された事業契約は別件です」


「ですが、婚姻を前提にしたものでは」


「婚姻が成立しなかった場合に取り消す条文を、先代大公が入れ忘れております」


「入れ忘れたのですか」


「正確には、私が入れるよう申し上げたのに、『我が息子が振られるはずがない』と削除なさいました」



 オスカー様が、目を逸らした。



「父には、私から説明します」


「三時間ほど叱られると思います」


「四時間まで耐えます」


「では、その点も進歩として記録します」



 ベアトリス様は、淡々と言った。

 オスカー様は、やはり嬉しそうだった。



 ふと、私は三人の元婚約者を思い返した。



 アドリアン殿下は、幼い頃から寄り添った侍女を選んだ。

 ディートハルト様は、自分を三度地面へ沈めた女性を選んだ。

 オスカー様は、自分の事業計画を大量のレビューコメントで埋める五十三歳の財務長を選んだ。



 真実の愛には、それぞれ形があるらしい。



 そういえばアドリアン殿下は、昔から「包容力のある女性が好きだ」とおっしゃっていた。

 私はずっと、精神的な意味だと思っていた。

 けれどエマ様は、たいへん豊かな体つきだった。


 深く考えるのは、やめた。



 海運大公家の二人が帰ったあと、父と叔父と祖父は、三度目の家族会議を開いた。



「ゼロになった!」



 父が叫んだ。



「三重婚約が完全に解消されたぞ!」



 叔父が父と抱き合った。



「我が家は助かった!」



 祖父も加わった。

 三人はしばらく喜び、やがて、同時に動きを止めた。



「……待て」


「どうしました、お父様」


「エステルの縁談が、すべてなくなったのではないか?」


「……そうとも言えますね」


「ゼロではヤバいんではないか」


「……ヤバいかもしれませんね」



 父と叔父も、ようやく気づいた。

 私は三人の前へ、一枚の誓約書を置いた。



「今後、私の縁談を勝手に進めないと、こちらへご署名ください」



 三人は、これまで見たことがない速さで署名した。



 私は自室で、机の上に四枚の書類を並べた。


 王家から授かった女伯爵位。これで、ヴァンデル侯爵家を離れても自分の名で生きられる。

 王家の勅許。自領さえあれば、国境自由市を開ける。

 北境公爵家から贈られた灰狼峠。小さいながら、私個人の領地だ。

 海運大公家との契約。そこへ荷と商人を運べる。



 ベアトリス様は三つの書類を机へ並べ直し、銀時計を指先で叩いた。



「女伯爵位があるため、領地と事業をあなた個人の名義で保有できます」


「はい」


「灰狼峠は、隣国へ抜ける最短路です。しかし長年、砦と倉庫が足りず使われていない」


「はい」


「当家の隊商には、新しい道が必要です。王家の勅許を使えば、峠へ自由市と保税倉庫を置ける」


「…………全部、つながりますね」


「ええ」



 ベアトリス様の口元が、ごくわずかに上がった。



「三件とも結婚していたなら、一つしか選べなかったでしょう」



 私は、書類を見下ろした。



 一つ目の破談で、自分の名前を得た。

 二つ目の破談で、自分の家を得た。

 三つ目の破談で、自分の仕事を得た。


 一つずつでは半端だったものが、三つ揃うと力になった。



「神々は、たいへん変わった順番で贈り物をなさるのですね」



 私が言うと、隣でルカが答えた。



「少々、包装が乱暴ではございますが」



 私は、笑った。


 これから灰狼峠へ移り、新しい町を作る。

 生まれて初めて、自分で決めた予定だった。



 ところが、出発の三日前。

 我が家の玄関前へ、隣国セルヴァニア大王国の紋章を掲げた馬車が、六台も止まった。

 正装した使者たちが屋敷へ入り、私の隣にいたルカを見るなり、一斉に膝をつく。



「第三王子ルキウス殿下。ようやく、お迎えに上がれました」



 玄関が、静まり返った。


 私は、ルカを――この献身的な、若い執事を見た。

 ルカは目を閉じ、たいへん長いため息をついた。



「……ルカ」


「はい」


「あなた、王子様だったの?」


「残念ながら」


「執事なのに?王子様なの?王子様なのに?執事なの?」


「お嬢様とともに過ごした時間は、実に楽しいものでした」



 正確には、ルカことルキウス殿下は、隣国の第三王子だった。



 民衆にも軍にも人気があり、何もしなければ兄王太子を押しのけて王に担ぎ上げられかねない人物。本人は兄を敬愛しており、王位を望んでいない。

 ところが父王は、西方王国の王女との婚約を進めた。

 祖母である王太后は、国内公爵家の令嬢との婚約を進めた。

 王国議会は、大商会の娘との婚約を進めた。


 三者とも、ルキウス殿下を自分たちの望む次代の王へ近づけるためだった。

 そして三者とも、本人とほかの二者へろくに相談しないまま、証書を交わした。



「……あなたも、トリプルブッキングされていたの?」


「はい」


「なぜ黙っていたのですか」


「お嬢様の状況があまりに深刻で、私の話をする機会を失いました」


「早く言ってほしかったわ。トリプルブッキング仲間がずっと欲しかったのに」


「申し訳ございません」



 彼は、王位争いの旗印にされる前に国外へ姿を消した。かつての家庭教師を頼り、身分を隠して我が家の執事となったらしい。

 王宮礼法にも外国語にも剣術にも詳しいはずだった。



「祖国へ、戻るのですか」


「はい」


「王になるために?」


「いいえ。王にならないことを、正式に決めるために」



 ルキウス殿下は、灰色の瞳で私を見た。



「お嬢様のご実家から、多くを学びました」


「反面教師としてでしょうか」


「非常に実践的な教材でございました。保留にしても、事態は良くなりません」



 胸の奥が、小さく痛んだ。



 毎朝、今日の婚約者を教えてくれた人。

 私が誰かを選ぶべきだと迫られたとき、ただ一人、私自身がどうしたいのかを尋ねてくれた人。



 彼がいなくなるのは、嫌だと思った。

 はっきりと、嫌だと思った。


 けれど今の彼には、三件の縁談が残っている。

 言えるわけがなかった。



「いってらっしゃいませ、殿下」


「ルカ、とお呼びください」


「もう執事ではないのでしょう」


「あなたの前では、できればこれまでどおりでいたいのです」


「……では、ルカ」


「はい」


「きちんと全部、片づけていらしてください」


「必ず」



 彼は、私へ何も約束させなかった。

 待ってほしい、とも言わなかった。

 ただ、祖国へ戻った。



 私は、灰狼峠へ移った。



 古い砦の壁を直し、空き倉庫を整え、王家の勅許を掲げて自由市を開いた。

 北境公爵家の騎士たちが街道を守り、海運大公家の隊商が港から荷を運んだ。

 ベアトリス様が事業計画を作り、私は領民や商人の話を聞いて、一つずつ決めた。



 最初の月は、商人が二十人来た。


 二か月目には、百人。

 半年後には、宿屋が足りなくなった。


 国境の忘れられた砦は、二つの国を結ぶ交易都市へ変わり始めた。



 アドリアン殿下とエマ様は、王家を代表して開市式へ来てくれた。

 ディートハルト様とカサンドラ様は、街道に巣くった魔物を討伐した。

 戦いのあと、カサンドラ様に肩から投げられたディートハルト様は、とても満ち足りた顔をしていた。

 オスカー様とベアトリス様は、十年間の輸送契約へ正式に署名した。


 求婚十六回目の返事について尋ねると、ベアトリス様は銀時計を見ながら答えた。



「試用期間中です」


「婚姻にも試用期間があるのですか」


「見込みがあるかどうか、よく確かめなくてはなりませんからね」



 オスカー様は、それでも嬉しそうだった。



 すべてが、驚くほどうまく回り始めた。

 ただ、朝になるたび、私は机の上を見てしまう。



 金、紺、緑の予定札があった場所。

 今は、一枚もない。

 ルカも、いない。


 ご婚約者がゼロ名になったことは、今でも嬉しい。

 嬉しいはずだった。

 けれど、彼がいないことまで嬉しいわけでは、なかった。



 自由市の開設から、七か月後。

 隣国から、大規模な使節団が灰狼峠へ到着した。



 先頭の馬から降りた男性を見て、私は砦の階段を駆け下りた。


 途中で、我に返って足を止めようとした。

 止まらなかった。

 白と青の王族服。胸には、王位継承権を持たない王族だけが着ける、銀の鷹章。



 髪も表情も、以前より少し整っている。

 けれど灰色の瞳だけは、私が知っているルカのものだった。



「お帰りなさいませ」


「ただいま戻りました、お嬢様」


「私はもう、女伯爵です」


「では、エステル様」


「少し、遠くなりました」


「……エステル」


「はい。ちょうどいいです」



 ルカが、笑った。



 彼は兄の即位を支え、自らの王位継承権を正式に放棄してきたという。



 王冠を戴かず、日々の国政からも離れる。

 それでも第三王子としての身分と私有財産は残り、兄王から求められたときには意見を伝える。

 国を動かす地位にはつかないが、二つの国をつなぐ役割を果たすそうだ。


 灰狼峠で暮らすには、これ以上なく都合のよい立場だった。

 彼は革鞄から、三通の書類を取り出した。



「こちらを、ご確認ください」


「何の書類ですか」


「私に結ばれていた三件の婚約について、正式な解消を証するものです」


「三件とも?」


「はい。一人目には『ようやく戻ったのか』と叱られ、二人目には『もっと早く言え』と剣の鞘で殴られ、三人目には解消条件を三倍にされました」


「皆様、ご健勝そうで何よりです」


「まったくです」


「大変でしたか」


「あなたが毎日なさっていたことを思えば。三件まとめて十日で終わりました」



 彼は、三通を私へ渡した。

 どの相手とも直接会い、事情を話し、互いの家が公の場で傷つかない形を整えたらしい。


 逃げずに帰り、全部終えてから、私のところへ来た。

 紙が、少し重かった。



「エステル」


「はい」


「私は、あなたを愛しています」


「……真実の愛でしょうか」


「はい」


「その言葉は、今年だけで四回聞きました」


「私のものだけ、まだあなたへ向けられております」


「そうだと、いいのですけど」



 私は、笑ってしまった。

 ルカは、笑わなかった。

 まっすぐに、私を見ていた。



「本当の本当の本当に愛している時、なんと言えばよいのでしょうか」


「……」


「やはり、愛しているの一言しかない、というのが私の考えです」



 そんなことを言われてしまっては、こちらはひとたまりもない。



「あなたが三人へ、それぞれ都合のよい愛の言葉を使えば、面会はもっと楽に終わったでしょう。それでもあなたは、誰にも確かではない約束をしなかった」



 私は黙って、彼の言葉を聞いた。



「アドリアン殿下がエマ様を選んだとき、あなたは彼女が一人で悪く言われないよう願った。

 ディートハルト様がカサンドラ様を選んだとき、彼女の身分が問題にされないよう確認した。

 オスカー様がベアトリス様を選んだとき、年齢を笑う者が出ないよう、先に公子の覚悟を確かめた」


「……私は、自分が騒ぎへ巻き込まれたくなかっただけかもしれません」


「それでも、あなたは誰かを踏み台にして抜け出そうとはしなかった」



 彼が、一歩近づいた。

 風が止まった気がした。



「私は、四人目の婚約者になりたいのではありません」


「では、何になりたいのですか」


「あなたが初めて、自分で選ぶ一人になりたい」



 胸の奥が、ゆっくりと、熱くなった。


 父が決めた王太子。


 叔父が決めた北境公爵家の嫡男。


 祖父が決めた海運大公家の公子。


 三件とも、私は一度も、自分から望んでいない。


 目の前にいる人だけが、私へ尋ねている。



「愛しています。お嬢様……いえ、エステル。

 どうか私と結婚していただけませんか」



 いつもの言葉が、喉まで出かかった。


 少し、保留にしてください。

 家族と話し合います。

 もう少し、待ってください。


 三か月のあいだ、何百回も口にした言葉だ。

 けれど私は、もう答えを知っていた。



「いいえ」



 ルカの顔が、わずかに強張った。



「……お断り、ですか」


「これは、保留にいたしません」



 私は自分から、彼の手を取った。

 自分でも驚くほど、しっかりと握っていた。



「ルカ。私は、あなたと結婚したいです」



 灰色の瞳が、大きく見開かれる。

 それから彼は、私が見たことのないほど嬉しそうに笑った。



「では、婚約証書を用意します」


「私が作ります」


「なぜです?」


「同じ相手が、ほかの誰かとも婚約していないことを保証する条項を入れます」


「ぜひ、お願いいたします」



 私たちの婚礼は、その三か月後、灰狼峠で行われた。


 今度の花嫁衣装は、一着だけ。

 花婿も、一人だけ。


 招待客には、三人の元婚約者と、それぞれの『真実の愛』の相手もいた。



 アドリアン殿下の隣で微笑むエマ様は、近くで見ると本当にたいへん豊かな方だった。殿下がおっしゃっていた「包容力」について、私はやはり考えないことにした。しかし乳がデカすぎる。

 ディートハルト様は、カサンドラ様に足を踏まれて頬を赤らめていた。

 オスカー様は、婚礼費用の計算を確認するベアトリス様を、うっとりと眺めていた。


 父と叔父と祖父には、ただ座って祝うことだけをお願いした。

 三人とも、今度ばかりはおとなしくしていた。



「結果的には、私たちの縁談も役に立ったのではないか」



 披露宴の途中、父が小声で言った。



「女伯爵位も、灰狼峠も、交易契約も手に入った」


「我々三人の先見の明、ということにできないだろうか」



 叔父と祖父も続いた。

 おいこら。

 私は三人へ、にっこりと微笑んだ。



「二度と、なさらないでください」


「はい」

「はい」

「はい」



 三人は、素直に頷いた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
父、叔父、祖父の三馬鹿トリオがいい味出してますね。
うわー 冷える。 ベアトリス様は、証拠を突き付け、有利に交渉できる立場なのよね。 でもしなかったなー、と。 なんなら、公表しちゃうぞ案件。 ちょっと海運のが引っ掛かりはするけど、とても面白かった! ル…
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