夫の「もう男として見られていない気がする」を聞いてしまった
結婚して三年。
ずっと仲が悪かったわけじゃない。
喧嘩が絶えないわけでも、離婚が頭をよぎるほど冷え切っていたわけでもない。
ただ、ここ半年くらいだろうか。
私たちは少しずつ、恋人や夫婦というより、よくできた共同生活の相棒みたいになっていた。
業務連絡みたいなLINE。
休日に目が合っても、どちらからともなく逸らす視線。
夜、同じベッドに入っても、背中を向け合うだけの距離。
(……コーヒー、持っていこう)
このままでいいのかな、と少し話したかった。
マグカップを二つお盆に乗せて、私は夫――鷹也の書斎の前まで来た。
ノックしようと手を上げた、その時だった。
「……なんかさ、もう、男として見られてない気がするんだよね」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
低く、少し投げやりな鷹也の声。
電話中らしい。
「いや、仲が悪いわけじゃないんだよ。でも……夫婦っていうより、手のかかる家族みたいに扱われてる感じっていうかさ」
私はその場で固まった。
手のかかる家族。
それが、私が彼に与えていた感覚なんだ。
「昔は違ったんだけどな。くっついてきたり、可愛いこと言ってきたり、そういうのも普通にあったし」
昔は、そうだった。
付き合っていた頃も、新婚の頃も。
鷹也はよく「好き」と言ってくれたし、私はそれが嬉しくて、用もないのに腕を抱いたり、肩にもたれたりしていた。
でも最近の私は。
靴下は洗濯かごに入れて。
食べすぎないで。
保険の更新見た?
寝るなら早く電気消して。
そんなことばかり言っていた気がする。
「好きじゃないわけじゃないんだよ。むしろ、今でも普通に好きだけど……なんか、こっちがそういう空気出すと、はいはいって流される感じがしてさ」
息が詰まった。
私は無意識に、ドアノブから手を離した。
これ以上聞いたら駄目だと思った。
でも、耳は勝手に音を拾ってしまう。
「もう、俺のことは『ちゃんとしなきゃいけない相手』なんだろうなって思ってる。そう考えたら、前みたいに好きだとか言うのも、なんか……情けなくなってきて」
そこまで聞いて、私は踵を返した。
逃げるみたいにその場を離れる。
もしこの先で、
『もう女としては見られないかも』
なんて言葉を聞いてしまったら、私の中で本当に何かが終わってしまいそうだったから。
◇◆◇
その頃、書斎の中では。
鷹也がワークチェアに深く座り込んだまま、スマホ越しの相手――実の兄に向かってぼやいていた。
『で、お前は美羽ちゃんのことどう思ってんの』
「好きに決まってるだろ」
即答だった。
迷いなんてない。
ただ、言ったあとで少しだけ自分に腹が立った。
好きなら、ちゃんと伝えればいい。
でも、それが最近どうしても難しい。
「前はさ、俺から好きって言ったら、あいつも笑ってくれたし、喜んでくれてたんだよ。でも最近、なんかこう……流されてる気がして」
『美羽ちゃん、忙しそうだしな』
「忙しいのは分かるよ。仕事もあるし、家のことも考えてくれてるし。俺だって、やれることはやってるつもりだし」
『つもり、な』
「うるさい」
兄がくくっと笑う。
『でもさ、怒られてばっかだと、男として見られてない気分になるのも分かるわ。お前、拗ねてんだろ』
「……拗ねてるっていうか」
鷹也は天井を仰いだ。
「好きって言って、軽く流されるのが、ちょっと怖くなったんだよ」
夫なのに。
もう恋人じゃないのに。
今さら何を言ってるんだろうと、自分でも思う。
でも、本音だった。
妻に求めて拒まれるのが怖くて、いつの間にか自分からも近づかなくなっていた。
ただ、夫としても、恋人としても居たいだけなのに。
『まあ、お前らどっちも不器用なんだよ』
「かもしれない」
『ちゃんと話せ。夫婦なんだから』
「……分かってる」
そう答えた時、兄がふと思い出したように言った。
『あ、そういやさ。あの遊園地、もうすぐ閉園らしいぞ』
「遊園地?」
『ほら、お前が美羽ちゃんに告白したとこ。あのボロい観覧車のある』
「ああ……あそこか」
高校の頃。
観覧車の頂上で、真っ赤な顔をした美羽が、小さく頷いてくれたあの場所。
『最後に行っとけよ。そういうの、案外大事だぞ』
「……そうかもな」
通話を切ったあと、しばらくデスクの上を見つめていた。
それから、小さく息を吐く。
「……話すか」
美羽のことは、今でも好きだ。
それだけは、何一つ変わっていない。
◇◆◇
バスルームは湯気で白く曇っていた。
私は浴槽の中で膝を抱え、さっき聞いてしまった言葉を何度も反芻していた。
「……男として見られてない、かぁ」
それはショックだった。
でも、否定できなかった。
ここ半年くらいの私は、将来のことばかり考えていたからだ。
家計のこと。
仕事のこと。
周りの友達がどんどん子どもを持ち始めて、少しだけ焦ってしまう気持ち。
ちゃんとしなきゃ。堅実にやらなきゃ。無駄遣いは減らさなきゃ。
そうやって、生活を守ることばかり必死になっていた。
その結果、鷹也のやることなすこと全部に、管理者みたいな目を向けるようになっていたのかもしれない。
靴下を脱ぎっぱなしにすれば叱る。
私のためにコンビニスイーツを買ってきてくれたのに「節約しようよ」と言う。
洗濯物を畳んでくれても、畳み方が違うと文句を言いながらつい直してしまう。
「……最悪」
呟いて、自分で落ち込んだ。
私はまだ鷹也のことが好きだ。
好きなのに、していることは“妻”より“生活の監督者”だった。
まるで、母親。
それじゃあ、男として見られていないと思われても仕方がない。
「このままは、嫌」
私は顔を上げた。
涙が出そうだったけれど、泣いてる場合じゃない。
変わらなきゃ。
ちゃんと、彼の妻に戻りたい。
いや、戻るだけじゃなくて、もう一度ちゃんと恋人みたいになりたい。
「……よし」
勢いよく立ち上がる。
オカンみたいな小言は減らす。
管理じゃなく、会話をする。
世話を焼くだけじゃなく、ちゃんと甘える。
そして、鷹也にもう一度、私を“女”として見てもらう。
お風呂上がりの鏡の中で、私は自分の頬をぺちんと叩いた。
「頑張れ、私」
◇◆◇
翌日。
鷹也が帰宅して、いつものようにネクタイを緩め、靴下を脱いで床にぽいっと落とした。
私はそれを見た瞬間、条件反射で口を開きかけた。
でも、ぎりぎりで飲み込む。
言いたい。
めちゃくちゃ言いたい。
洗濯かごまで三歩だよ!? って。
けれど私は、ぐっと堪えて、できるだけ穏やかな声を作った。
「おかえり。お疲れさま」
鷹也がぴたりと動きを止める。
「……え?」
「ご飯、もうできるよ」
私は床に落ちた靴下を拾って、洗濯かごへ入れた。
心の中では「次からは入れてほしい」と百回くらい唱えていたけれど、顔には出さない。
鷹也は、狐につままれたみたいな顔をしていた。
「ど、どうした?」
「どうもしないよ?」
「……なんか、今日、優しくない?」
「今日“は”みたいに言うのやめて」
つい反射で出てしまった言葉に、二人で一瞬黙る。
しまった、と思ったけれど、鷹也はなぜか吹き出しそうな顔をした。
「……いや、うん。そうだな」
少しだけ、空気が柔らかくなった。
夕食のあと、私はソファの端に座る鷹也の隣へ、少しずつ距離を詰めた。
ずり。
ずり。
沈み込みが変わったせいで、鷹也がスマホから顔を上げる。
「……なに?」
「別に?」
私は何食わぬ顔で、肩が触れるか触れないかの位置に収まった。
近い。
石鹸と柔軟剤の匂いがする。
「今日、変じゃない?」
「変じゃない。夫婦なんだから、これくらい普通でしょ」
そう言ってから、私は彼の袖口をくいっとつまんだ。
「……嫌だった?」
鷹也が、息を呑んだ。
それから顔を逸らして、片手で口元を押さえる。
「嫌じゃ……ないけど」
耳が、じんわり赤い。
その反応に少し勇気が出た。
「ねえ、今度の週末、空いてる?」
「ん? ああ、予定はないけど」
「どこか行かない?」
「どこかって……」
鷹也は少し考えるように視線を泳がせて、それからぼそっと言った。
「遊園地、とか」
「え?」
「ほら、あの……昔行ったとこ。もうすぐ閉園するらしいし」
胸がふっと熱くなった。
覚えていてくれたんだ。
私たちの始まりの場所を。
「行く」
即答すると、鷹也が少しだけ目を丸くする。
「そんなに即答する?」
「するよ。だって……鷹也と……行きたいもん」
言った途端、自分で恥ずかしくなって顔が熱くなる。
でも、鷹也はもっとすごかった。
わかりやすく耳まで赤くして、視線を逸らしている。
「……そ、そっか」
その小さな反応が嬉しくて、私は思わず笑ってしまった。
◇◆◇
週末。
思い出の遊園地は、想像していたよりずっと混んでいた。
「すごい人……」
「閉園前だからな」
そう言いながら、鷹也が自然に私の手を取る。
「は、はぐれると面倒だし」
大人同士で、スマホもあるのに。
そんな建前で手を繋いでくるあたりが、いかにも鷹也らしい。
「うん。はぐれたら大変だもんね」
私は笑って握り返した。
久しぶりに繋ぐ夫の手は、少し汗ばんでいて、なんだかそれすら愛おしい。
お化け屋敷に入って、全然怖くないことに二人で笑って。
昔と同じベンチで焼きそばを食べて。
フランクフルトを齧る横顔を眺めながら、私はふと思い立った。
溶けかけたソフトクリームをすくって、彼の口元へ差し出す。
「はい、あーん」
鷹也が固まる。
「……は?」
「溶けちゃうから。ほら」
「自分で食えるし……」
「今日は私が食べさせたいの」
言い切ると、鷹也は周囲を気にするみたいに視線をさまよわせ、観念したように口を開けた。
「……ん」
ぱくり。
「どう?」
「……甘い」
「ソフトクリームなんだから当然でしょ」
思わず笑うと、鷹也も少し口元を緩めた。
私はさらに一歩踏み込む。
「じゃあ今度は、鷹也が食べさせて」
「は!?」
「私にも、あーんして」
「お前……!」
真っ赤になる鷹也。
ここまで分かりやすいと、こっちまで可笑しくなる。
「だめ?」
少しだけ上目遣いで聞いてみると、彼は大きくため息をついた。
「……ずるい」
そう言いながら、ちゃんとスプーンでソフトクリームをすくってくれる。
「ほら」
ぶっきらぼうだけど、手元は丁寧だ。
私はそれを口に含んで、にこっと笑った。
「おいしい」
「そ、そりゃよかった」
でも、口元は少し嬉しそうだった。
こういうやり取りを、私は忘れていた。
世話を焼くばかりじゃなくて。
甘えたり、任せたり、からかったり。
そういう、恋人みたいな時間を。
◇◆◇
夕方。
園内をぐるりと回ったあと、私たちは最後に観覧車へ乗った。
ギギギ、と少し錆びた音を立てながら上がっていくゴンドラ。
狭い座席。
窓の外に広がる、夕焼け色の街並み。
ここだ。
私は膝の上で指を組んで、静かに息を吸った。
「……ねえ、鷹也」
「ん?」
「ごめんね」
鷹也が驚いた顔をする。
「なにが?」
「最近の私。ずっと、嫌な感じだったと思う」
言葉にすると、胸が痛い。
「ちゃんとしなきゃって思うほど、将来のことばっかり見てた。節約しなきゃ、健康に気をつけなきゃ、家のこと回さなきゃって」
仕事も、家のことも、周りの出産報告も。
いろんなものが少しずつ積み重なって、私はいつの間にか“今”を見なくなっていた。
「そのせいで、鷹也のことも管理しようとしてた。夫っていうより、生活を乱す要素みたいに見てた時もあったかもしれない」
そこまで言って、私は首を振る。
「違う。本当はそんなふうに思ってないのに、そういう態度を取ってた」
鷹也は黙って聞いていた。
「私、あのままだと、妻じゃなくてお母さんみたいだった」
笑おうとしたけれど、うまく笑えない。
「本当は、ちゃんと恋人みたいにドキドキしてたかったのに」
鷹也が、ゆっくりと私の隣へ移動してきた。
肩が触れ合う。
「……俺も、ごめん」
「え?」
「俺、勝手に拗ねてた」
鷹也は、少し自嘲するみたいに笑った。
「好きって言っても、なんか流される感じがして。だから、言うのが怖くなって、ちゃんと言えなかった」
私はぎゅっと手を握る。
「夫なのに、求めて拒まれたらしんどいなって思ってさ。そうしたら、もう自分から近づくのも情けなくなってきて」
思い当たることが、いくつもあった。
私が「はいはい」と返してしまった夜。
疲れてるからまた今度、と軽くかわしたこと。
その“また今度”が、結局ずっと来なかったこと。
「ごめん」
「私も」
ほとんど同時に言って、二人で少し笑ってしまう。
それから私は、思い切って言った。
「……あの日、電話、聞いちゃった」
鷹也が目を見開く。
「電話?」
「書斎の前で。コーヒー持って行こうとして……その、ごめん」
「まじか……」
鷹也は片手で顔を覆った。
「はー……最悪……兄貴とのやつ?」
「うん」
「……死にたい」
あまりにも本気で落ち込んだ顔をするから、私は思わず吹き出してしまった。
「いや笑い事じゃないだろ……!」
「ごめん。でも、ちょっと安心したの」
「安心?」
「私のこと、まだ好きって言ってくれてたから」
その瞬間、鷹也の動きが止まった。
夕陽の中で、彼の横顔がじわじわ赤くなる。
「……聞いてたなら、もういいか」
観念したみたいに、彼は私の方を向いた。
「好きだよ」
まっすぐな声だった。
「今でも、ちゃんと好き。美羽しか見えてない」
胸がきゅうっと締まる。
「私も」
言いながら、涙が滲みそうになる。
「私も、鷹也が好き」
言葉にした瞬間、今まで胸の奥に溜まっていた何かが、すっとほどけていく気がした。
「ずっと好きだったのに、変な方向に頑張ってただけだった」
「俺も」
鷹也の手が、そっと私の頬に触れる。
「もう一回、ちゃんとやり直そう」
「うん」
「好きは、好きってちゃんと伝えよう」
「……うん、好き。鷹也」
「美羽」
頂上に近づいたゴンドラの中で、私たちはキスをした。
久しぶりすぎて、最初はお互い少しぎこちなかった。
でも、触れ合った瞬間に分かる。
ああ、まだちゃんと好きだ。
夫婦になっても、家族になっても、その奥にはちゃんと“恋”が残っていたんだって。
唇が離れると、鷹也が私の額にこつんと額を寄せた。
「……やばい」
「何が?」
「今の美羽、めちゃくちゃ可愛い」
耳元で、低く言われる。
その声音が、さっきまでとは少し違っていた。
優しいだけじゃない、もっと熱のある声。
「鷹也……?」
彼の指先が、私の唇をなぞる。
「正直、今日ずっと我慢してた」
「えっ」
「隣に座ってくるし、袖つまむし、あーんしろとか言うし」
言いながら、耳まで赤いくせに、目だけは妙に真剣だ。
「可愛すぎて、普通に無理だった」
どくん、と大きく心臓が跳ねる。
これは知っている。
付き合ってた頃の、鷹也の“男の顔”だ。
「……私も、今日の鷹也、ちょっとずるかった」
「ちょっと?」
「かなり」
私が答えると、鷹也は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、帰ったら覚悟して」
「……うん」
頷いた声が、自分でも分かるくらい甘く震えた。
家族みたいだと泣きそうになった、あの日からたった数日。
なのに私はもう一度、ちゃんと夫に恋をしていた。
たぶん今夜は、背中を向け合って眠ることはない。
むしろ、近すぎて眠れないかもしれないけれど。
それならそれで、たぶんすごく幸せだ。
私たちは今日、また恋人になった。




