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夫の「もう男として見られていない気がする」を聞いてしまった

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/04/04

 

 結婚して三年。


 ずっと仲が悪かったわけじゃない。

 喧嘩が絶えないわけでも、離婚が頭をよぎるほど冷え切っていたわけでもない。


 ただ、ここ半年くらいだろうか。


 私たちは少しずつ、恋人や夫婦というより、よくできた共同生活の相棒みたいになっていた。


 業務連絡みたいなLINE。

 休日に目が合っても、どちらからともなく逸らす視線。

 夜、同じベッドに入っても、背中を向け合うだけの距離。


(……コーヒー、持っていこう)


 このままでいいのかな、と少し話したかった。


 マグカップを二つお盆に乗せて、私は夫――鷹也の書斎の前まで来た。


 ノックしようと手を上げた、その時だった。


「……なんかさ、もう、男として見られてない気がするんだよね」


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。


 低く、少し投げやりな鷹也の声。

 電話中らしい。


「いや、仲が悪いわけじゃないんだよ。でも……夫婦っていうより、手のかかる家族みたいに扱われてる感じっていうかさ」


 私はその場で固まった。


 手のかかる家族。


 それが、私が彼に与えていた感覚なんだ。


「昔は違ったんだけどな。くっついてきたり、可愛いこと言ってきたり、そういうのも普通にあったし」


 昔は、そうだった。


 付き合っていた頃も、新婚の頃も。

 鷹也はよく「好き」と言ってくれたし、私はそれが嬉しくて、用もないのに腕を抱いたり、肩にもたれたりしていた。


 でも最近の私は。


 靴下は洗濯かごに入れて。

 食べすぎないで。

 保険の更新見た?

 寝るなら早く電気消して。


 そんなことばかり言っていた気がする。


「好きじゃないわけじゃないんだよ。むしろ、今でも普通に好きだけど……なんか、こっちがそういう空気出すと、はいはいって流される感じがしてさ」


 息が詰まった。


 私は無意識に、ドアノブから手を離した。


 これ以上聞いたら駄目だと思った。

 でも、耳は勝手に音を拾ってしまう。


「もう、俺のことは『ちゃんとしなきゃいけない相手』なんだろうなって思ってる。そう考えたら、前みたいに好きだとか言うのも、なんか……情けなくなってきて」


 そこまで聞いて、私は踵を返した。


 逃げるみたいにその場を離れる。


 もしこの先で、

『もう女としては見られないかも』

 なんて言葉を聞いてしまったら、私の中で本当に何かが終わってしまいそうだったから。




 ◇◆◇




 その頃、書斎の中では。


 鷹也がワークチェアに深く座り込んだまま、スマホ越しの相手――実の兄に向かってぼやいていた。


『で、お前は美羽みうちゃんのことどう思ってんの』


「好きに決まってるだろ」


 即答だった。


 迷いなんてない。

 ただ、言ったあとで少しだけ自分に腹が立った。


 好きなら、ちゃんと伝えればいい。

 でも、それが最近どうしても難しい。


「前はさ、俺から好きって言ったら、あいつも笑ってくれたし、喜んでくれてたんだよ。でも最近、なんかこう……流されてる気がして」


『美羽ちゃん、忙しそうだしな』


「忙しいのは分かるよ。仕事もあるし、家のことも考えてくれてるし。俺だって、やれることはやってるつもりだし」


『つもり、な』


「うるさい」


 兄がくくっと笑う。


『でもさ、怒られてばっかだと、男として見られてない気分になるのも分かるわ。お前、拗ねてんだろ』


「……拗ねてるっていうか」


 鷹也は天井を仰いだ。


「好きって言って、軽く流されるのが、ちょっと怖くなったんだよ」


 夫なのに。

 もう恋人じゃないのに。

 今さら何を言ってるんだろうと、自分でも思う。


 でも、本音だった。


 妻に求めて拒まれるのが怖くて、いつの間にか自分からも近づかなくなっていた。


 ただ、夫としても、恋人としても居たいだけなのに。


『まあ、お前らどっちも不器用なんだよ』


「かもしれない」


『ちゃんと話せ。夫婦なんだから』


「……分かってる」


 そう答えた時、兄がふと思い出したように言った。


『あ、そういやさ。あの遊園地、もうすぐ閉園らしいぞ』


「遊園地?」


『ほら、お前が美羽ちゃんに告白したとこ。あのボロい観覧車のある』


「ああ……あそこか」


 高校の頃。

 観覧車の頂上で、真っ赤な顔をした美羽が、小さく頷いてくれたあの場所。


『最後に行っとけよ。そういうの、案外大事だぞ』


「……そうかもな」


 通話を切ったあと、しばらくデスクの上を見つめていた。


 それから、小さく息を吐く。


「……話すか」


 美羽のことは、今でも好きだ。

 それだけは、何一つ変わっていない。




 ◇◆◇




 バスルームは湯気で白く曇っていた。


 私は浴槽の中で膝を抱え、さっき聞いてしまった言葉を何度も反芻していた。


「……男として見られてない、かぁ」


 それはショックだった。


 でも、否定できなかった。


 ここ半年くらいの私は、将来のことばかり考えていたからだ。


 家計のこと。

 仕事のこと。

 周りの友達がどんどん子どもを持ち始めて、少しだけ焦ってしまう気持ち。

 ちゃんとしなきゃ。堅実にやらなきゃ。無駄遣いは減らさなきゃ。


 そうやって、生活を守ることばかり必死になっていた。


 その結果、鷹也のやることなすこと全部に、管理者みたいな目を向けるようになっていたのかもしれない。


 靴下を脱ぎっぱなしにすれば叱る。

 私のためにコンビニスイーツを買ってきてくれたのに「節約しようよ」と言う。

 洗濯物を畳んでくれても、畳み方が違うと文句を言いながらつい直してしまう。


「……最悪」


 呟いて、自分で落ち込んだ。


 私はまだ鷹也のことが好きだ。

 好きなのに、していることは“妻”より“生活の監督者”だった。


 まるで、母親。


 それじゃあ、男として見られていないと思われても仕方がない。


「このままは、嫌」


 私は顔を上げた。


 涙が出そうだったけれど、泣いてる場合じゃない。


 変わらなきゃ。

 ちゃんと、彼の妻に戻りたい。

 いや、戻るだけじゃなくて、もう一度ちゃんと恋人みたいになりたい。


「……よし」


 勢いよく立ち上がる。


 オカンみたいな小言は減らす。

 管理じゃなく、会話をする。

 世話を焼くだけじゃなく、ちゃんと甘える。


 そして、鷹也にもう一度、私を“女”として見てもらう。


 お風呂上がりの鏡の中で、私は自分の頬をぺちんと叩いた。


「頑張れ、私」




 ◇◆◇




 翌日。


 鷹也が帰宅して、いつものようにネクタイを緩め、靴下を脱いで床にぽいっと落とした。


 私はそれを見た瞬間、条件反射で口を開きかけた。


 でも、ぎりぎりで飲み込む。


 言いたい。

 めちゃくちゃ言いたい。

 洗濯かごまで三歩だよ!? って。


 けれど私は、ぐっと堪えて、できるだけ穏やかな声を作った。


「おかえり。お疲れさま」


 鷹也がぴたりと動きを止める。


「……え?」


「ご飯、もうできるよ」


 私は床に落ちた靴下を拾って、洗濯かごへ入れた。

 心の中では「次からは入れてほしい」と百回くらい唱えていたけれど、顔には出さない。


 鷹也は、狐につままれたみたいな顔をしていた。


「ど、どうした?」


「どうもしないよ?」


「……なんか、今日、優しくない?」


「今日“は”みたいに言うのやめて」


 つい反射で出てしまった言葉に、二人で一瞬黙る。


 しまった、と思ったけれど、鷹也はなぜか吹き出しそうな顔をした。


「……いや、うん。そうだな」


 少しだけ、空気が柔らかくなった。


 夕食のあと、私はソファの端に座る鷹也の隣へ、少しずつ距離を詰めた。


 ずり。

 ずり。


 沈み込みが変わったせいで、鷹也がスマホから顔を上げる。


「……なに?」


「別に?」


 私は何食わぬ顔で、肩が触れるか触れないかの位置に収まった。

 近い。

 石鹸と柔軟剤の匂いがする。


「今日、変じゃない?」


「変じゃない。夫婦なんだから、これくらい普通でしょ」


 そう言ってから、私は彼の袖口をくいっとつまんだ。


「……嫌だった?」


 鷹也が、息を呑んだ。


 それから顔を逸らして、片手で口元を押さえる。


「嫌じゃ……ないけど」


 耳が、じんわり赤い。


 その反応に少し勇気が出た。


「ねえ、今度の週末、空いてる?」


「ん? ああ、予定はないけど」


「どこか行かない?」


「どこかって……」


 鷹也は少し考えるように視線を泳がせて、それからぼそっと言った。


「遊園地、とか」


「え?」


「ほら、あの……昔行ったとこ。もうすぐ閉園するらしいし」


 胸がふっと熱くなった。


 覚えていてくれたんだ。

 私たちの始まりの場所を。


「行く」


 即答すると、鷹也が少しだけ目を丸くする。


「そんなに即答する?」


「するよ。だって……鷹也と……行きたいもん」


 言った途端、自分で恥ずかしくなって顔が熱くなる。


 でも、鷹也はもっとすごかった。

 わかりやすく耳まで赤くして、視線を逸らしている。


「……そ、そっか」


 その小さな反応が嬉しくて、私は思わず笑ってしまった。




 ◇◆◇




 週末。

 思い出の遊園地は、想像していたよりずっと混んでいた。


「すごい人……」


「閉園前だからな」


 そう言いながら、鷹也が自然に私の手を取る。


「は、はぐれると面倒だし」


 大人同士で、スマホもあるのに。

 そんな建前で手を繋いでくるあたりが、いかにも鷹也らしい。


「うん。はぐれたら大変だもんね」


 私は笑って握り返した。


 久しぶりに繋ぐ夫の手は、少し汗ばんでいて、なんだかそれすら愛おしい。


 お化け屋敷に入って、全然怖くないことに二人で笑って。

 昔と同じベンチで焼きそばを食べて。

 フランクフルトを齧る横顔を眺めながら、私はふと思い立った。


 溶けかけたソフトクリームをすくって、彼の口元へ差し出す。


「はい、あーん」


 鷹也が固まる。


「……は?」


「溶けちゃうから。ほら」


「自分で食えるし……」


「今日は私が食べさせたいの」


 言い切ると、鷹也は周囲を気にするみたいに視線をさまよわせ、観念したように口を開けた。


「……ん」


 ぱくり。


「どう?」


「……甘い」


「ソフトクリームなんだから当然でしょ」


 思わず笑うと、鷹也も少し口元を緩めた。


 私はさらに一歩踏み込む。


「じゃあ今度は、鷹也が食べさせて」


「は!?」


「私にも、あーんして」


「お前……!」


 真っ赤になる鷹也。

 ここまで分かりやすいと、こっちまで可笑しくなる。


「だめ?」


 少しだけ上目遣いで聞いてみると、彼は大きくため息をついた。


「……ずるい」


 そう言いながら、ちゃんとスプーンでソフトクリームをすくってくれる。


「ほら」


 ぶっきらぼうだけど、手元は丁寧だ。

 私はそれを口に含んで、にこっと笑った。


「おいしい」


「そ、そりゃよかった」


 でも、口元は少し嬉しそうだった。


 こういうやり取りを、私は忘れていた。


 世話を焼くばかりじゃなくて。

 甘えたり、任せたり、からかったり。


 そういう、恋人みたいな時間を。




 ◇◆◇




 夕方。


 園内をぐるりと回ったあと、私たちは最後に観覧車へ乗った。


 ギギギ、と少し錆びた音を立てながら上がっていくゴンドラ。

 狭い座席。

 窓の外に広がる、夕焼け色の街並み。


 ここだ。


 私は膝の上で指を組んで、静かに息を吸った。


「……ねえ、鷹也」


「ん?」


「ごめんね」


 鷹也が驚いた顔をする。


「なにが?」


「最近の私。ずっと、嫌な感じだったと思う」


 言葉にすると、胸が痛い。


「ちゃんとしなきゃって思うほど、将来のことばっかり見てた。節約しなきゃ、健康に気をつけなきゃ、家のこと回さなきゃって」


 仕事も、家のことも、周りの出産報告も。

 いろんなものが少しずつ積み重なって、私はいつの間にか“今”を見なくなっていた。


「そのせいで、鷹也のことも管理しようとしてた。夫っていうより、生活を乱す要素みたいに見てた時もあったかもしれない」


 そこまで言って、私は首を振る。


「違う。本当はそんなふうに思ってないのに、そういう態度を取ってた」


 鷹也は黙って聞いていた。


「私、あのままだと、妻じゃなくてお母さんみたいだった」


 笑おうとしたけれど、うまく笑えない。


「本当は、ちゃんと恋人みたいにドキドキしてたかったのに」


 鷹也が、ゆっくりと私の隣へ移動してきた。


 肩が触れ合う。


「……俺も、ごめん」


「え?」


「俺、勝手に拗ねてた」


 鷹也は、少し自嘲するみたいに笑った。


「好きって言っても、なんか流される感じがして。だから、言うのが怖くなって、ちゃんと言えなかった」


 私はぎゅっと手を握る。


「夫なのに、求めて拒まれたらしんどいなって思ってさ。そうしたら、もう自分から近づくのも情けなくなってきて」


 思い当たることが、いくつもあった。


 私が「はいはい」と返してしまった夜。

 疲れてるからまた今度、と軽くかわしたこと。

 その“また今度”が、結局ずっと来なかったこと。


「ごめん」


「私も」


 ほとんど同時に言って、二人で少し笑ってしまう。


 それから私は、思い切って言った。


「……あの日、電話、聞いちゃった」


 鷹也が目を見開く。


「電話?」


「書斎の前で。コーヒー持って行こうとして……その、ごめん」


「まじか……」


 鷹也は片手で顔を覆った。


「はー……最悪……兄貴とのやつ?」


「うん」


「……死にたい」


 あまりにも本気で落ち込んだ顔をするから、私は思わず吹き出してしまった。


「いや笑い事じゃないだろ……!」


「ごめん。でも、ちょっと安心したの」


「安心?」


「私のこと、まだ好きって言ってくれてたから」


 その瞬間、鷹也の動きが止まった。


 夕陽の中で、彼の横顔がじわじわ赤くなる。


「……聞いてたなら、もういいか」


 観念したみたいに、彼は私の方を向いた。


「好きだよ」


 まっすぐな声だった。


「今でも、ちゃんと好き。美羽しか見えてない」


 胸がきゅうっと締まる。


「私も」


 言いながら、涙が滲みそうになる。


「私も、鷹也が好き」


 言葉にした瞬間、今まで胸の奥に溜まっていた何かが、すっとほどけていく気がした。


「ずっと好きだったのに、変な方向に頑張ってただけだった」


「俺も」


 鷹也の手が、そっと私の頬に触れる。


「もう一回、ちゃんとやり直そう」


「うん」


「好きは、好きってちゃんと伝えよう」


「……うん、好き。鷹也」


「美羽」


 頂上に近づいたゴンドラの中で、私たちはキスをした。


 久しぶりすぎて、最初はお互い少しぎこちなかった。

 でも、触れ合った瞬間に分かる。


 ああ、まだちゃんと好きだ。

 夫婦になっても、家族になっても、その奥にはちゃんと“恋”が残っていたんだって。


 唇が離れると、鷹也が私の額にこつんと額を寄せた。


「……やばい」


「何が?」


「今の美羽、めちゃくちゃ可愛い」


 耳元で、低く言われる。


 その声音が、さっきまでとは少し違っていた。

 優しいだけじゃない、もっと熱のある声。


「鷹也……?」


 彼の指先が、私の唇をなぞる。


「正直、今日ずっと我慢してた」


「えっ」


「隣に座ってくるし、袖つまむし、あーんしろとか言うし」


 言いながら、耳まで赤いくせに、目だけは妙に真剣だ。


「可愛すぎて、普通に無理だった」


 どくん、と大きく心臓が跳ねる。


 これは知っている。

 付き合ってた頃の、鷹也の“男の顔”だ。


「……私も、今日の鷹也、ちょっとずるかった」


「ちょっと?」


「かなり」


 私が答えると、鷹也は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、帰ったら覚悟して」


「……うん」


 頷いた声が、自分でも分かるくらい甘く震えた。


 家族みたいだと泣きそうになった、あの日からたった数日。

 なのに私はもう一度、ちゃんと夫に恋をしていた。


 たぶん今夜は、背中を向け合って眠ることはない。


 むしろ、近すぎて眠れないかもしれないけれど。


 それならそれで、たぶんすごく幸せだ。


 私たちは今日、また恋人になった。

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