第1話 猫と子
春のひかりが障子をうすく透いて、畳の上に白い水のように流れていた。二歳の子は、その光の筋をまたぐたびに、足の裏で春をたしかめるように、そっと歩いた。笑いはまだ言葉の形を持たず、口の端からこぼれて、部屋の静けさを少しだけ温めた。
子は小さな掌で積み木を積む。積むというより、春の風が花びらを重ねるように、ただ置いてゆく。やがて崩れる。崩れる音は軽いのに、子は一瞬、目を見ひらき、世界が落ちたかのように息を止める。それから、何事もなかったように、また置く。崩れることが悲しみではなく、遊びのつづきであることを、子は知っている。
窓の外で、どこかの鳥が鳴いた。子は耳を澄まし、見えないものへ顔を向ける。見えないものに向ける顔は、見えるものよりも澄んでいる。指を一本立てて、空を指す。そこには何もないのに、子の指先だけが、確かに何かを触れているようだった。
子は立ちあがった。何かを思い出したように、光の筋を追って、急に走った。
その足が、畳の縁でふっとほどけた。春のひかりの上で、影が一度、短く跳ねる。次の瞬間、子の身体は音もなく前へ崩れ、額が畳に触れた。触れたというより、春の柔らかさに吸われたようであった。
泣き声はすぐには来ない。口が開き、息が止まり、目だけが大きくなる。痛みが遅れて追いつくまでの、そのわずかな間に、部屋の静けさが深く沈んだ。私は立ち上がりかけて、立ち上がる音さえ惜しい気がして、手を止めた。
やがて子は、畳に押しつけた頬をゆっくり離し、掌で額をさすった。涙はまだ出ない。出ない涙が、まつげの根に光っている。子は私の方を見た。助けを求める目ではなく、転んだことを世界に告げる目である。告げて、世界がどう答えるかを、じっと待っている。
その泣き声がまだ畳の上に細く残っているとき、襖の向こうで、爪の先ほどの音がした。つづいて、猫がすべるように入って来た。春の昼の眠りから抜け出したばかりのように、目が半分だけ光っている。
猫は子のそばへ寄り、首をかしげた。鼻先を近づけ、泣いている顔を、そっと覗き込む。ひげがふるえ、耳が一度だけ動く。その様子は、心配というより、世の中の出来事を静かに量っているようであった。
子は泣きながら、その猫を見た。涙が頬に筋をつくったまま、目だけが丸くなる。次の瞬間、泣き声が途切れ、口の奥で何かがほどけた。笑いが、いきなり噴き出した。ゲラゲラと、春の水が石に当たってはねるように、止まらない。
猫は驚いて一歩退き、また近づく。覗き込む。子はそれが可笑しくてたまらず、腹の底から笑い、涙と笑いが同じ顔に混じった。転んだ痛みは、猫のひげの先へ移ってしまったかのように、子の身体から消えた。
猫は、もう用は済んだというように、子の顔から目をそらした。尾を一度だけゆるく振り、畳の光を踏まぬように歩いて、襖の影へ消えた。部屋にはまた、障子の白さと、春のひかりだけが残った。
子は笑いの余韻で肩を小さく震わせながら、濡れた頬を袖でこすった。涙の跡はすぐ乾き、乾くと同時に、転んだことも、泣いたことも、もう古い出来事になった。子は何事もなかったように積み木へ戻り、崩れたものを拾い、また置いた。置く指先は、さっきより少しだけ慎重で、しかし慎重ささえ遊びの一部であった。
私はその背中を見て、春の花が咲いて散る速さを思った。咲くことと散ることが、同じ一息のうちにあるような速さ。子の心もまた、痛みと笑いを一つの掌にのせて、すぐに手放してしまう。
刹那に生きるというのは、忘れることではない。いま在るものを、いま在るだけ、まるごと受け取ることなのだろう。転ぶ痛みも、猫のひげも、笑いの震えも、春のひかりも。子はそれらを選ばず、拒まず、ただ一度きりの新しさとして抱いて、次の瞬間へ渡してゆく。
その渡し方の美しさに、私はしばらく、声を失っていた。




